アルエ・第三話 【投稿日 2006/06/18】

アルエ


澄んだ朝の光がアイボリーのカーテンをぼんやりと照らし上がらせている。
排気ガスの成分をそのまま音に変換したような騒音で走り去るスクーター。
うつ伏せ気味に体を捻っていた笹原の瞼が少しだけ開く。
部屋はまだ薄明るいだけで、それは笹原の充血した目に優しい。
まどろみの中、笹原は徐々に世界を認識していく。
隣に誰かいる。
暗がりに、布団から露になった肩が絹のように白く光っている。それは女性の持つ曲線だった。
不意に身じろぎして、サヤから白い実が抜け出るように彼女の体が空気に触れる。
細い背中は下着を纏っていなかった。
笹原は手を伸ばす。一体誰なのだろう? ある種の期待を込めて。
あるひとを思い浮かべて、手を伸ばし、肩に触れる。そして壊れないようにそっと力を込めた。
クガピー…。
「うわわあああああーーーー!!!!」
跳ね起きたところは久我山の部屋だった。もうかなり陽が高い。エアコンを点けっ放しの部屋は肌寒かった。
ボサボサの髪と隈を従えた目、油の浮いた顔。笹原は動悸を抑えて部屋を見回す。
久我山はテーブルに突っ伏して死んでいた。もとい、死んだように眠っていた。
笹原の絶叫を聞いてもピクリともしないわけだから、どっちでもいい気がする。
自分が眠っていたのもフローリングの床の上。どうやらカーペットにすら辿り着けなかったようだ。
「あ、そっか…。原稿…完成して…」
スキャナーで取り込んで、CD-Rに焼こうとしたところまでは記憶にある。
その後、朝になってるということは、焼き上がりを見守ってるうちに気を失ったのか。
椅子に座っていたはずなのに。よく寝れたな。転げ落ちて怪我してないかな?
そういや何だか、変な音がさっきから聞こえる。
ピンポンピンポン、ブゥー、ブゥー。
   ピンポンピンポン、ブゥー、ブゥー。
笹原は暫くぼーっとしてその音に聞いていた。まったく頭が働かず、お経でも聞ているような気持ちで
玄関のチャイムと携帯が床の上で暴れ回る音を聞いていた。
思考能力がどうにか小学生レベルぐらいまで回復したところで笹原は電話を取った。
「はい…、もしもし…」
「おー…、生きてる…?」
出たのはハルコだった。チャイムが止んだ。

「はい、何とか…。久我山さんは死んでるみたいですけど…」
「はは…、そっか…。お疲れ様……。取り合えず外いるから、鍵開けてよ」
「うぃス…」
笹原は立ち上がって、ドアへ歩いて行った。が、ピタリと立ち止まった。
何か歩きにくい。そっか、寝起きだもんなあ…、疲れてるし、心持ちいつもより元気…。
「すいません。ちょっと待って下さい…」
「ぅん? どした?」
えーと、どーしよー…。
「あー…、寝起きなんで、ちょっと顔洗います」
「は? や、鍵開けてって。それから洗えばいいじゃん」
ハルコの怪訝な表情が声から伝わってくる。そりゃそうだ。どーしよー。まだこいつは元気いっぱい勇気百倍だ。
「そだ、トイレも行かないと…」
「だから鍵だけ開けてよ。それから好きなだけしなさいって」
そこでハルコの声が小さくなった。
外で階段を下りて行く足音が聞こえた。
「ちょと! ドアの前で電話してるの恥かしいんだけど。開けて、早く」
ドアを開けるとこっちが恥かしいんだけどな…。でもそれは言えないし。
笹原はキョロキョロと部屋を見回す。いい言い訳なんて転がってるわけないのに。
テンパった挙句に出てきたのがコレだ。
「あ、あれです、ダメですこれ。難しい。開けられません。何だろ。暗証番号が…」
「ふざけてると殴るよ?」
ふざけてないんです。むしろ真剣極まりないんですけど。
一度座布団をあてがってみたが、ダメだ。最低だコレ。隠してるけど隠せてない。
もういっそ素直に言っちゃうか? ダメだ、セクハラだソレ。
ハルコに冷ややかな目で見られる自分を想像する。けっこうなダメージだ。それは回避しなければ。
でも、どうやって?
途方に暮れる笹原。結局鎮まるまで右往左往するしかなく、
ドアを開けたときハルコさんにごっさ冷ややかな目で見られることになりました。
合掌。

笹原の座席の隣は空席だ。1つ空けてハルコが座っている。
昼間の電車は空席だらけで、それがより一層物悲しさを誘っていた。
笹原はパイプに肘を掛けて横目でハルコを見やる。
ミントグリーンのブックカバーを纏った文庫本を読み耽っている。
瞳は眼鏡越しに文字を追って上下していて、笹原の方を見る気配もない。口はキュっと閉じられていた。
キマズイ…。
それはミナミ印刷さんの最寄り駅に着くまで続いた。何度か乗り換えたのに。
まあ、いいんですけどね…。徹夜明けで着替えてないし、風呂入ってなくて汗臭いし。
そんで『うわ、笹原クサッ!』とか思われるのヤですから。
いいんですけどね…。最悪から二番目ぐらいには…。
はぁ……、情けな……。

「……では確認いたしますので少々お待ち下さい」
「はい」
ハルコは堅苦しく腕を膝に突っ張って応えた。印刷所に来るのは当然初めて。
ちょっと緊張する。
受付の女子社員が出力見本をめくる。それは言わずもがな、でき立てほやほやのくじアンのエロパロマンガなわけである。
(うあ……、見られてる。まー私が描いたんじゃないけど……)
仄かに赤面して彼女の手元を見つめる。隣の笹原は顔を伏せて置物のように座っていた。
寝てるのかな?
「……笹原?」
「ぅわっ!?」
笹原は突付かれたようにビクッと体を震わせて、精一杯瞼を開いてハルコを見た。
瞼が意思に従わないものだから、額の動きで引っ張ろうとしてオデコに何本もシワが寄っていた。
「すいません…」
「いいけど…」
でもまた見ると12ラウンド戦い切ったボクサーみたいな体勢でパイプ椅子に座っている。
電車の中で寝ないようにしていた分、眠気が半端でないようだった。
ハルコはちょっと反省した。
朝のワケの分からないやり取りからこっち、ちょっと冷たく接していたのだが、それも疲労のせいかもしれない。
三日連続徹夜の後なんだから、頭に変なものが湧きもするだろう。
どんな蟲が湧いたにせよ、大人気なかったな。これだけ頑張った笹原に対して。

入稿が終わると、二人は駅に向かって歩き出した。
いつもは一緒のペースで歩いていく二人だったが、今日の笹原は遅れ気味。
ハルコは何度も振り返って、足を止めて笹原を気遣った。
「ダイジョブ?」
「はい…、大丈夫です……」
笹原は真っ直ぐ歩いているつもりのようだったが、気が付くと道の右へ右へ寄って行ってしまうらしかった。
「まだまだ空だって飛べますよ……」
マサルさんネタで返した笹原だったが、そのセリフは笑えない。
明らかに『オクレ兄さん!』状態に突入している。
「どっか休んでこっか? 昼時だし、何か食べてく? 奢るよ?」
眉を下げて心配そうに覗き込むハルコさん。笹原はブロック塀に手をついて気丈に笑い返す。
「いっす、いっす。悪いっすから…。それにこうなったのも自分の責任ですからね…」
そう言ってまた歩き出すが、地面が傾いているように右へ右へと寄って行く。
ハルコの眉は下がったままだ。
ちょうど喫茶店の横を通ったところで、ハルコは笹原の手首を掴んだ。
「入るよ」
笹原は慌てた。5分の1ぐらいしか開いてなかった目が全開になった。
「いいですよ。大丈夫、帰れます」
笹原はぶんぶんと腕を振ったが、力が入らず振り解けない。
結果として、それはハルコに溜息をつかせる効果しかなかった。
「ちょっと休んでこ? そんなじゃホームから転落するって」
「いや、でも…」
笹原は恥かしそうに顔を伏せた。
「徹夜明けで風呂にも入ってないし、髪ボサボサだし…、汗臭いですから…。……イヤでしょ?」
「そんなの気にしてんの?」
そう言えば印刷所でも妙に離れて座ってたよーな。
ハルコは呆れ顔で笹原の肩を叩いた。
「ほら、入るよ」
笹原はハルコに引き摺られて喫茶店に入った。
何だか、ちょっと嬉しかった。

「あーそう! できたんた!」
部室には春日部と真琴と荻上がいた。
「ええ、今、入稿しに行ってます。笹原先輩と、……ハルコ先輩が」
荻上も久我山たちほどではないとはいえ、連日連夜の執筆に疲れているようだった。
元気がないように見えたのはそういうことだろう。
「クガピーは?」
「力尽きて寝てるそうです」
「アハハハー、ギリギリだなー」
春日部は快活に笑った。
「な、本当ダメなサークルだろ? あまり多くを期待しない方がいいと思うよ?」
荻上は少し思うような仕草をしてから、
「最初から期待なんかしてないです」
と言った。
「あ~~らそ」
春日部はからかうように言って真琴に目配せした。真琴は荻上を見て柔らかに微笑んでいる。
「でも、まあ、笹原のことは許してやってよ」
春日部の唐突な言葉に、荻上はドキリとした。
「何がですか?」
「会議で原稿描かなくていいって言ったこと。あれ一応、笹原なりの優しさなんだよな~、ちょっとズレてんだけど」
春日部は頬杖の上に乗った顔を捻り、まったくなあ、と呟いた。
「別に荻上をおミソ扱いしてるとか、そーいうんじゃないから。女の子だから負担かけないようにしたかったんだろうけど。
まったくな~、会長だからって気張ってんだよな」
荻上の頬が見る見る赤く染まって、彼女はぷいっと顔を伏せた。
耳の奥でどくどくと打つ脈の音色が聞こえる。
「わ、分かってます」
「あ~~らそ、そのわりには泣いちゃったり?」
「そんなことっ、忘れましたっ」
「ならいいや」
クククと笑う春日部を荻上は憎々しげに睨んだが、頭はもう別のことを考えていた。
そっか、ウザかったとか、そういうことでねぇんだよな…。
春日部の言った『女の子だから』というフレーズが、妙にむず痒く感じた。

ハルコはアイスコーヒーにガムシロップとミルクを注ぎ込んで入念にかき回す。
下にガムシロップが溜まってたりすると嫌だし、ちゃんと均等に混ぜないと苦くて飲めない。
笹原はサンドウィッチセットを頼んでいた。飲み物はオレンジジュース。
疲労回復にはビタミンCが効果的。
笹原はソファの隅にハマるように腰掛けて、ゆっくりそれらを口に運ぶ。
お陰で少しは顔色が良くなっていた。
「すいません…。こんな体たらくで…」
「しょーがないって。無事入稿できたし、よく頑張ったじゃん」
ハルコの励ましに、笹原は力なく笑った。心の中は情けなさでいっぱいだった。
初のコミフェスサークル参加に意気込んだものの、久我山との調整は大失敗。
就職活動で忙しいハルコまで会議に駆り出すハメになり、そのくせ自分は久我山を責めていて、
会議では醜い罵り合いを演じて荻上を泣かせてしまい、最終的に春日部が仕切るしかなくなって、
挙句にこんなところでグッタリしているのが自分だった。
笑らけるぐらい情けない。
笹原は、やはり自分は会長に向いてないと思った。
実際、委員長的役割は小中高を通じて皆無だった。よっぽど春日部のが向いている。
グズグズのあの状況から何とか本が出せるところまで持って行けたのは、春日部の決断があったからだ。
決断か、本当は俺がしなきゃいけなかったんだろうなあ。
春日部君、カッコよかったよな。
笹原の頭に浮かんでいたのは、ハルコのために原口に言い返している春日部の姿だった。
「なんか…、悪かったね…」
不意にハルコが言った。
笹原は驚いて顔を上げる。
「え…?」
「うん…、いや…、まあね…」

ハルコは言い難そうにアイスコーヒーをかき混ぜ続けている。
「急に会長を押し付けちゃったしね…。前もって笹原の意志ぐらい聞いとくべきだったなと思って…」
笹原はハルコに向かうように座り直した。
「でも、コミフェス参加は自分が言ったことですから」
「それもノリで言ってみただけってとこあったでしょ? 急な思いつきみたいな…」
正直に言ってその通りだけど…。
「ヤナに引き合わせてサークル参加セット買い取っちゃったのも…、あの辺で冷静になっとけばなぁ…」
「あー……」
ハルコがはははと自嘲するのを見て、笹原は喉の奥が詰まりそうになった。
ついさっきまで自虐に浸っていた自分が、急に腹立たしくなった。頭にきた。
自分で自分のケツを拭けないばかりか、ハルコにまでこんな顔をさせているのが許せなかった。
「でも結構楽しいですから」
笹原は言った。
コーヒー色に染まっていたハルコの目が、笹原を映した。
「つい言っちゃったことがどんどん現実になって、ビビったのはビビリましたけど。当選通知見たときはもーテンション上がりまくりで。
三日徹夜で缶詰とか、それはそれで普段できないですからね」
「ははは、それは無い方が良かったけどねぇ」
表情から憂いの色が薄らいでいく姿に、笹原はほっとした。
うじうじしてたってしょうがない。もう後は当日を楽しむだけなんだから。
「コミフェス楽しみですよね?」
笹原の問いかけに、ハルコが笑って頷いた。
それは笹原にとって、疲労回復に何より効果的に違いない。



つづく
最終更新:2006年06月23日 06:35