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筆茶屋はんじょーき5 【投稿日 2006/06/18】

筆茶屋はんじょーき


千佳が目を覚ますと、暗闇に包まれた自分の部屋,、その布団の中だった。
ため息をつく。
どうやら、また倒れてしまったらしい。
家事の方は、あの後中島が雇ってくれた北川という女性のおかげで、順調に回っている。
彼女の手際に感心しつつ、ついそれに張り合おうとして倒れてしまう自分が、滑稽に思えた。
辺りを見渡す。
人の気配はない。
今度は安堵のため息をつく。
中島がかつてのように接してくれる事は、うれしくもあり、同時に苦痛でもあった。
彼女は千佳の過去そのものだったから。

千佳は彼女に聞きたいことがあった。
なぜ江戸にいるのか。
なぜ原口と供にいるのか。
…そして、あの噂は本当だったのか。
だが聞けなかった。
ただ、怖くて。


”筆茶屋はんじょーき”


不意に火種の臭いがすると、行灯に火が灯る。
千佳が驚いてそちらを向くと、人影があった。
原口だった。
原口は足音一つ立てずに近づくと、驚きの為に声すら出せない千佳を、布団の上から押さえつけた。
「お前は、あの女の何だ?」
酒臭い息を吐きながら、原口は尋ねる。
千佳が何も言えずにいると、原口は片手で千佳の首を掴んだ。
「あの女は俺が仕込んだ。女としても、盗賊としても」
手に次第に力が入る。
「俺が岡場所で拾った時、あの女は酷い様だった」
「客に愛想の一つも言えず、仲間には喧嘩を売り、売れ残っては折檻を受ける」
「見えないところを痣だらけにした、やせ細った女だった」
「だが、俺はその反骨が気に入って、落籍した」
千佳は必死に原口の手を外そうとする。しかし原口はもう一方の手で千佳の両手首を捕まえると、床に押し付けた。首を絞める手にさらに力が入る。
「あの女は実に憶えが良かった…この俺の片腕になれるほどに」
「いや、それ以上だな。いつ寝首をかかれるかわからないほど、だ」
言って原口は楽しそうに笑った。
「だが今のあいつは、まるでどこぞの町娘だ。おまけに指一本触らせようとしない」
ひときわ強く首を絞めると、原口はその手を離した。そして尋ねる。
「なぜだ?」
千佳は咳き込みながら首を振る。
「わからないのか?」
千佳は頷く。
「役立たずめ」
原口はそう吐き捨てると、布団を剥ぎ取った。
「なら、せめて女として役に立って見せろ」

原口は千佳に圧し掛かる。
千佳は全力で抵抗する。しかし、上げようとした悲鳴は原口の分厚い手でふさがれ、押しのけるには千佳の腕はあまりに非力だった。
原口の手が千佳の体をまさぐる。はだけられた胸元から滑り込み、乳房を握り締める。
くぐもった声以上に、千佳の心は悲鳴をあげていた。
(やめて!いや!触らないで!)
(助けて!誰か!)
(……笹原さん!!)

鈍い音と供に、原口は千佳に覆い被さる。
千佳は目を閉じ、全身を固く緊張させた。
だが、原口はピクリともしない。
おそるおそる目を開けると、台所からでも持って来たのか、太い薪を持った中島が息を切らせていた。
中島は、呆然としている千佳を原口の下から引きずり出すと、着物の乱れを直し、自分の着物を脱いで千佳に着せる。
さらに、自分の財布を千佳の胸元に捻じ込んで言った。
「逃げな」
千佳にもようやく状況が飲み込めてくる。
部屋を出ようとして、千佳は足を止め、中島の手を握った。
「中島も一緒に…」
同情だったのか、義憤だったのか、それは千佳にもわからない。ただ、彼女はここにいるべきじゃないと、そう思った。
中島はうれしそうに、そして哀しそうに笑うと、千佳の手を振りほどいて言った。
「ねえ、千佳。いい事を教えてあげる」
「あなたの書いた本が上の目に留まったのはね、私がそう仕向けたの」

信じられなかった。
信じたくなかった。
かつて聞いた、一番信じたくなかった噂を、彼女自身が肯定したとしても。
「どう…して…?」
千佳はかすれた声で尋ねる。
「私はね、あなたが大好きで、大嫌いだったの」
答える中島の声は澱みない。
「あなたは私にはない、全てを持っていたから」
「暖かな家庭。信頼できる友人。優しい許婚…」
「そんなこと…!」
「妾を好き放題抱えて家に寄り付かない父と、色小姓に囲まれて暮らす母。互いに競わされいがみ合う兄弟。家老の娘というだけでへりくだり、おべっかを使う友人。色にしか興味のない、父よりも年上の許婚。それがあなたに想像できるとでも?」
食い下がる千佳を笑い飛ばす。
「私にはあなたしかいなかった。私にきちんと向きあってくれたのはあなただけだった」
「あなたと付き合う事で、自分がどんなに惨めか思い知らされても、それでも…」
「あなたは幸せだった。そしてさらに幸せになろうとしてた。私はそれが許せなかった」
「だから、すべて壊してやったの」
中島は心底楽しそうに笑った。
千佳は思わず後ずさる。そんな千佳に中島は、凄みのある笑顔を見せながら告げた。
「わかったでしょう?ここには、あなたの味方は一人もいない」
千佳は逃げ出した。一目散に。振り返ることなく。
中島は千佳の姿が見えなくなるまで見送ると、懐から煙管を取り出し一服つける。
煙をくゆらせながら、涙をこぼす。
「馬鹿だね…彼女に一言謝りたくて、そのためだけに生きてきたのに…」

しばらくして原口は目を覚ました。
辺りを見渡すと、千佳の姿はなく、中島が煙管を吹かしていた。
「…小娘はどうした」
「逃がしたよ」
原口の問いに、中島は悠然と答える。原口は中島の襟首を掴んで凄む。
「どういうつもりだ」
「それはこっちの台詞だよ。人の物に手を出すなんてね」
「小娘はどこだ」
「知るもんか。知ってても教える気はないよ」
中島の人を食った答えに、原口は襟首から手を離し、喉笛を締め上げる。
「自分の立場をわかってるのか?」
「…わかってる…とも。あんたを…獄門台の…道連れに…できること…ぐらいね」
原口はさらに強く力を込める。
中島は煙管を吸うと、原口の顔めがけて煙を吹きかけ、笑った。
原口は憤怒の形相を浮かべると、全力で締め上げる。
中島の手から煙管が落ちる。
中島は、最後の一瞬まで抵抗しなかった。

「おい」
「…なんだぁ」
ごろつきの一人は蹴り起されて不機嫌な声を上げた。
「お頭の命令だ。全員叩き起こせ」
「今度はどこに押し込むんだ?」
「違う。小娘を狩り出すんだ」

走る。走る。走る。
人通りの絶えた道を、千佳はひたすらに走りつづけていた。
いくつ目かの角を曲がり、千佳は気付いた。
この道が、荻上屋へ向かう道だと。

笹原は、釘付けされた荻上屋の表戸に寄りかかり、月を見つめていた。
「何をしてるんですか?」
女の声に、笹原は我に返った。
振り向くと、加奈子がこちらを見つめていた。
少し離れて、総市郎と光紀と斑目がいる。
それを見て、今日が総市郎と加奈子の結納の日であり、式の後で皆で飲みに行く事になっていたのを思い出した。
「ごめん。確か今日は…」
「気にしてませんよ。むしろそんな顔をして来られたら、かえって迷惑です」
加奈子は微笑みながら、笹原を言葉で切って捨てた。そして再び問い掛ける。
「それより、笹原さんはここで何をしてるんです?」
「いや、別に…」
「千佳さんのことを考えてるんですか?」
適当に誤魔化そうとした笹原を、加奈子は正面から見据える。
「多分…いや、きっとそうなんだろう」
笹原は月を見ながら答える。
「俺は彼女のことを何も知らない」
「知ろうとしなかった」
「俺が知っているのは、ここにいた彼女だけで」
「だから…」
加奈子は呆れ顔で尋ねる。
「他人に聞こうとは考えなかったんですか?」
「知ってるのか!!」
笹原は気色ばむ。
加奈子は逆に問い掛ける。
「笹原さん。千佳さんのことを好きですか?」
加奈子は待っていた。
千佳を本気で求めている事を、それを自分に見せてくれる事を。
そうでなければ、友人として、また一部とはいえ過去を知るものとして、千佳を託す気にはなれなかった。

しかし笹原は固まっていた。身動き一つせず、一点を見つめている。
そしてその目は加奈子を見ていなかった。
疑問に思って視線を追うと、そこには千佳がいた。
息を切らせ、驚愕の表情を浮かべ、こちらを見ている。
数瞬の後、千佳はこちらに背を向けて走り出した。
振り返ると、笹原は呆然と立っている。
「さっさと追いかけなさい!この馬鹿!!」
弾かれるように笹原は駆け出す。
加奈子が呆れるほど速く。

笹原は全力で千佳を追いかける。
程なく追いつくと、千佳の腕を掴んで引き止めた。
「離して!!」
「いやだ!」
笹原はそう叫ぶと、千佳の腕を引いて抱きしめる。
「俺は千佳さんが好きだ。だから離さない。絶対に」
千佳の動きが止まる。抱かれながら、その顔を上げ、笹原を見つめる。
笹原も見つめ返す。そして告げた。
「好きです」
千佳は驚きに目を見開き、顔を赤面させ、涙を滲ませながら応える。
「わたし…わたしは…わたし…」
「見つけたぞ!!」
だが、その言葉は男の大声にかき消された。

二人が声の方向を向くと、一人のやくざ者が、こちらを指差して叫んでいた。
呆然としていると、見る間に十人ほどのやくざ者や浪人らしき男達が集まる。
そしてその中から、原口が現れた。
「やれやれ、千佳。許婚を放り出して他の男と逢引か?とんでもない女だな」
そう言うと、わざとらしいため息をつく。
「まあ、この方が都合がいいか。祝言には代役を立てておいて、『姦夫姦婦を重ねて四つ』というわけだ」
原口は笑う。そして真顔に戻ると、言い放つ。
「殺れ」

その声を受けて、男達が一斉に刃物を抜き放つ。
笹原は千佳に囁く。
「店の前に、斑目さんたちがいる。そこまで逃げて」
「笹原さんは…?」
「大丈夫。さっきの返事を聞くまでは、俺は死なない」
不安げに尋ねる千佳に、笹原は笑って答えた。
男が一人、笹原たちに切りかかる。
笹原は千佳を置いて飛び出すと、男を切り捨てた。
「行け!」
その声を受けてわずかに躊躇った後、千佳は走り出す。

二人の男が左右から笹原に突きかかる。
右の男に踏み込む。抜き胴。向きを変え、もう一人を袈裟に切って捨てる。
男たちを睨みつける。
数人の男達が目配せをする。
そして、一人が笹原に切りかかると同時に、二人が左右を駆け抜けようとする。
笹原は躊躇わずに刀を右の男に投げる。刀は男の腹に突き刺さる。
正面から切りかかって来る男の刀を身を捻ってかわすと、男の手首を掴んで極める。
男が刀を落とす。
男を突き飛ばすと、刀を拾い、もう一人に投げる。男の足を掠める。男が転ぶ。
駆け出す。再び刀を拾い、男に止めを刺す。
新たな男が後ろから切りかかる。
転がってかわす。男はさらに切りつける。転がりながら男の足に切りつける。
男の動きが止まる。
その瞬間に、笹原は立ち上がりながら切り上げた。
(あと五人!)
笹原は荒い息をつきながら確認する。
一方、瞬く間に半数を失った男達に動揺が走る。
次の瞬間、笹原は深く息を吸うと、男達に飛び掛った。
一人目の首を突き刺し、抜きながら二人目を横なぎに払い、さらに他に切りかかろうとして。
刀を弾き返された。
「やるな…だが、そこまでだ」
男が一人歩み出る。

「やっちまえ、沢崎!」
残った男が囃し立てる。
「…お前は小娘を殺ってこい。こいつは、俺が、殺る」
囃し立てる男にそう答えると、沢崎と呼ばれた男は刀を鞘に収め、腰を沈めた。
(できる)
笹原の五感が警鐘を鳴らす。
一方、囃し立てた男が笹原の横を駆け抜けようとする。
笹原の注意がそちらに向かう。
その瞬間、沢崎の刃が光る。
笹原は本能的に見を捻る。
…わかったことは二つ。
自分の首筋を浅く切り裂いた、相手の技の確かさと、
目の前の男を倒さない限り、自分が身動きが出来なくなったこと。

息を切らせながら千佳は走る。
逃げるためでなく、笹原に助けを呼ぶために。
ようやくたどり着いた荻上屋の前には、提灯の灯りに照らされた加奈子の姿があった。
しがみつき、訴える。
「お願いします!助けてください!!」
「え?えーと…笹原さんに襲われたんですか?」
「違います!!!」
千佳は本気で憤る。
(今、この瞬間にも笹原さんは命をかけているのに!!)
千佳がその思いを口にしようとした時には、加奈子達は別の理由で固まっていた。
刀を持った男の存在に。

男も固まっていた。
小娘一人が相手だと思っていたら、4人も増えたのだから。
しかし、場数を踏んだ男にはすぐにわかった。
彼らが全く脅威にならない事を。

千佳を抱き寄せながら、加奈子は総市郎を見る。
(何とかしなさい)
その思いを受けて、総市郎は隣の光紀を見る。
(頼む)
その思いを受けて、光紀は斑目を見る。
(まかせた)
光紀の視線と思いを受けて、斑目は辺りを見渡した。
そこにはもちろん他にだれも居ない。
そして皆の目が語っていた。
『お願い』
『頼みます』
『やっちまえ』
『ただし俺ら抜きで』
斑目は刀を抜く。ため息をつきながら。
(悲しいけど俺ってサムライなのよね…)

斑目は震えながら刀を構える。
せめてもの慰めは、刀が鳴るほどには震えていないことだった。
気が付けば、他の皆はじりじりと後退して、自分ひとりが男に向かい合っていた。
男は実戦から来る余裕なのか、構えもせずに近寄ってくる。
男は無造作に斑目の間合いを割り、切りつける。
刃が斑目の頬を切り裂く。
斑目は半歩下がる。
(痛い)
(怖い)
(俺はこんな所で何をしてるんだ?)
(なぜ俺は…)
悩み出した斑目に、男が再び切りつける。
今度は腕を切られる。
更なる痛みと恐怖が斑目を襲う。刀を投げ捨てて逃げ出したくなる。
その時、斑目の脳裏に咲姫の姿と声が浮かんだ。
そして思い出す。自分がなぜ剣の練習を始めたか。
(俺は逃げない)
(そして彼女に認めてもらうんだ!)
斑目は刀を振りかぶる。
それは笹原に教えられたただ一つ。
何千、何万と繰り返した型そのままに。
ただ、無心に。
斑目は刀を振り下ろした。

振り下ろした斑目の刀は、止めを刺すべく踏み込んできた男の頭を、真っ二つに切り裂いた。
男が崩れ落ちる。
それを見て、斑目はへたり込んだ。
歯が鳴る。全身が震える。手は柄を握り締めたまま離そうとしない。
そんな斑目に千佳は駆け寄って叫んだ。
「斑目さん!お願いします!笹原さんを助けて!!」
だが斑目には聞こえていなかった。
あるのはただ目の前の、自分が初めて”殺した”相手の姿だけだった。
千佳は二度三度と叫ぶ。
それでも斑目が動かずにいると、千佳は男の落とした刀を拾い、もと来た方へ、笹原の下へと駈け出した。
「千佳さん!」
加奈子は叫びながら千佳の後を追う。
そしてその声に我を取り戻して、総市郎と光紀は斑目の元へ駆け寄った。

笹原は荒い息をつく。
既に体には、多数の傷を負っている。
致命傷が無いのは、笹原の技と、沢崎自信がそれを望んだせいだった。
「どうした…御宅流はそんなものなのか?」
沢崎が問う。
「そんな訳はあるまい…さあ見せろ、その全てを」
「俺の仕官をぶち壊した高坂を、奴を超えた事を、お前の死で示せ」
笹原には沢崎の言葉など聞こえていない。
あるのはただ、一刻も早くここを離れ千佳を助けに行く、それだけだった。
あせりだけが募っていく。
最悪の事態を思い、それを否定し、思ったこと自体を振り払うべく笹原は切りかかる。
だがその刃が届くより速く、沢崎の居合が笹原を浅く切り裂く。
笹原は慌てて飛びのく。
沢崎は追撃しない。
ただ笹原をいたぶるために。