アルエ・第二話 【投稿日 2006/06/17】

アルエ


「おう、荻上。こんちわ」
大学の構内。
特徴的な筆頭に春日部は声をかけた。呼ばれた筆頭が振り返って小さく傾く。
横にいる真琴と笹原にも会釈を投げた。
「荻上さんも部室いくとこ?」
「そうです」
笹原にそう言うと、荻上はくるっと前を向いてそのまま歩き出そうとする。
笹原は慌てて言葉をつないだ。
「折角だから一緒にいこうか」
荻上は立ち止まった。もどかしそうに視線を下向けていた。
「はあ、いいですけど」
だいぶ現視研に馴染んだと思うけど、まだこういうところがあるなあと笹原は思った。
ちょっと集団行動に慣れていないというか、一人になりたがるようなところが。
「あー、痛い痛い」
春日部は呆れて笑う。荻上はギンと目尻を尖らせた。
「何がですか」
「いーや別に」
「まあまあ、行こうよ部室…」
荻上はふんとばかりに顔を背けてさっさと歩いて行こうとする。でもその足取りは、決して三人を置いていこうとはしていない。
三人は早足でついていった。
きっとこんなふうなやり取りを重ねるうちに、荻上さんもいつの間にか現視研に染まるんだろう。
春日部君を見習って、会長としてもっと話し掛けなければ。

四人組になって笹原会長以下現視研メンバーは部室棟に歩いていく。
と、そこで一人の人物が笹原たちを待ち受けていた。
「や」
漫研の高柳だ。
「どうかなその後、荻上さんは。問題起こしてない?」
紹介した手前気になるのだろう。荻上は無関心無表情であちこち余所見をしているが、
聞き耳はしっかり立てているといった様子だ。
「今度ウチで出す同人誌に何か描いてもらうことになって、むしろ助かってますよ。ウチで描けるの久我山さんだけでしたから。
まあ…、小規模の小競り合いがあるぐらいです…」
荻上は目だけを滑らせて笹原を睨んだ。笹原は笑って受け流す。
その様子に高柳は安心したように表情を崩した。
「あー、なら良かった」
そして今度は如何にもすまなそうに眉尻を下げた。
「あとさ、原口来たんだって? ごめんねぇ、ウチの後輩が話しちゃったらしいんだよ」
なるほど、原口が現視研のコミフェス当選を知ったのはそういうことか。
「いや、まあ何とかなりましたんで…」
とは言ったものの、これから有名同人作家さん数名に断りの電話を掛けなければいけないことを思うと正直気が滅入る笹原だった。
まったくあの人は…。
あの時の疲労感がまざまざと思い出されている笹原。察した高柳は下がり切った眉を更に下げた。
何だかこの人のこういう表情ばかり見ている気がする。
「そんな気にしなくていいスよ。悪いのは漫研の人じゃないですから」
「そう言ってくれるとありがたいよ――…」
面倒見が良いというか、根が真面目というか、こういう星回りの人なのだな。
ぱっちりオメメを片方閉じて、高柳は苦労の隙間風のような滲み出た声を漏らした。
そして少しおかしなことを言った。
「ホント悪かったよ、斑目にも謝っとくわ。漸く卒業して顔見ずに済むと思ってのにさ」

「………は?」
は?という顔を高柳もしていた。それは笹原も春日部も真琴も荻上も同じだった。
なに? 何でそこにハルコさんが出てくる?
そう現視研一同が心を一つにした瞬間、高柳の目に『不覚!』という字が浮かんだ。
「それでは失礼」
「待て」
春日部の腕が有り得ないほど伸びて高柳の肩を掴んでいた。
「取り合えず、場所変えましょうか?」


「え~~~、第1回~~~~、『ハルコさんと原口の間に何があったのか会議』~~~~。
ゲストに漫研の高柳さんを迎えてみました」
高柳は緊縛され、頭にズタ袋を被せられていた。
やはりこういう星回りなのか。
「モガガガガ」
「これ、やばくないですか?」
荻上は現視研入会の恩人ということもあり同情的だが、
「まー、いーですけど…」
さりとて積極的に止めようともしなかった。というか、この状況に妙な想像を働かせていた。
(緊縛…、目隠し…、密室…、男同士…、メガネキャラ……。やっぱ東京の大学は本格的だァ……)
春日部はこの手の話題のときに発現させる持ち前の悪ノリ体質を如何なく発揮し、真琴はいつも通りそれをニコヤカに見守り、
笹原は知りたいような知りたくないような気持ちで、もがく高柳を苦笑いで見下ろしていた。
「じゃー、言っちゃって。高柳さん」
「え~……、もうしょうがないな~~~。だが断る」
「なに?(だが?)」
春日部は一瞬怯んだ。



31 :アルエ第二話 :2006/06/17(土) 15:58:11 ID:???
「悪いが黙秘権を行使する。斑目との友情を裏切るつもりはないよ」
高柳は決然とした顔で言った。まあ、袋を被ってるから見えないんだけど。
しかし言ってることは至極当然の正論である。
迷っていた笹原はそれで漸く正気を取り戻した。
「春日部君…、今日はこの辺にしとこうよ…。無理に聞いちゃハルコさんにも悪いし…」
荻上も異世界から帰還した。
「そ、そうですね…。もう充分…、だと思います」
「いーや、訊く」
言うや否や春日部は高柳のジーンズのベルトに手をかけた。
「ちょ、こら、やめろ!」
「言うなら今だよ。さもなくばこの場で下半身を剥く!」
ベルトの穴から留め具が外れる。
「うおーー! 何言ってんだお前! ちょっと笹原君、速く止めてーーー!」
高柳に言われるまでもなく笹原は春日部を羽交い絞めにかかる。
「ダメだって。流石にそれは掟破りだから」
荻上はキャーと言いつつ、
(む、無理矢理! 力尽く! 辱めーー!!)
真琴は笑っている。
高柳はジャッキー・チェンの映画の如き動きで椅子に縛られたままぴょんぴょんと跳ね回っていた。
「おたすけーーー!」
「放せ、笹原。逃げちゃうだろ」
「だからダメだって」
(う、後ろから強引に抱きしめてーー…)
真琴は笑っている。
「うーす…」
「こ、こんちわ…」
ドアを開けた先が阿鼻叫喚の地獄絵図と化しているなど、久我山も田中も想像だにしていなかった。

「どうもスイマセンでした。私はどうかしておりました。ごめんなさい。許して下さい」
春日部は当然、深々と頭を下げていた。笹原も成り行き上そうしていた。
なぜか久我山と田中もそうしていた。
危うく一生ものの心の傷を負うところだった高柳だが、荻上移籍の恩とチャラということでギリギリ勘弁してくれた。
いい人だ、高柳さん。
「ま、斑目と原口? あ、ああ、うん。し、知ってるよ」
「ていうか俺らの年代の漫研かアニ研のヤツなら、だいたい知ってるよな?」
「そーなんだー…」
ほとほと疲れたという感じで春日部は椅子に仰け反っている。
笹原はそんな春日部の骨折り損または一人相撲的な無駄な苦労に呆れつつ、少しだけ先輩二人に身を乗り出した。
「それって聞いちゃっても…」
「ああ、まあ。いいけど…」
春日部は首だけ持ち上げて田中に注目する。荻上は漫画を読んでいるが耳が異常肥大していた。
二人は少し躊躇するように言葉を選んだ。
「まあ、何ていうか…、噂っていうか」
「じ、実際デマなんだけどな…」
「はあ…」
「まあよくある話なんだけど、斑目と原口が付き合ってるっていうさ。そういう話が流れたことがあってな」
「でも、それってデマだったんだろ?」
春日部は上半身を起こして口を挟んだ。
「まーね…。でもほら、俺らは一緒にいるから嘘ってのはすぐ分かるけど、他のサークルのヤツらは分かんないだろ?」
「でもタダの噂なんだから、うんなの気にすることねーじゃん」
強気で言い放った春日部に、久我山は苦笑いを返した。まさにタダの噂ではないという雰囲気を漲らせて。
「そ、それがその噂流したの、原口らしいんだよね…」

うわ…

「マジですかそれ…」
笹原はそう言うのがやっとだった。

「まーね…、原口本人から聞いたわけじゃないけど…」
「またどうして…?」
「ま、まあ。原口の方が気があったみたいなんだけど、ま、斑目は全然だったから。は、腹いせかな…、よく分からんけど…」
「最低ですね」
荻上は漫画を読むフリを続けるのは無理だと言わんばかりの顔をしていた。
真琴も珍しく表情がなかった。
「う、噂自体もさ、原口って前からあんなんで嫌われてたから。ま、斑目、結構嫌な思いしたみたいだよ…」
春日部は腕を組んで、じっと眉間にシワを刻んでいた。
口を固く結んでいるせいで、何か言うのは出来そうになかった。
視線を部室の隅にぶつけて心と体の何か微妙なバランスを保っているようだった。

「やあ~~~、こんにちわ~~~~」
よりによってこんなときに来るか。
「はい笹原くん。これ約束の連絡先。ちゃんと断っといてよ?」
「ははっ…」
笹原は自分のきつい表情を笑って誤魔化した。出来れば一刻も早く出て行ってほしい。
部室に漂うどうしようもなく重苦しい空気の中を意に介すこともなく、原口は悠然と部室を見回している。
「あー、ハルコは今日来てないの?」
こいつ分かってて言ってんのか?
「今日は見てないですよ」
田中は落ち着きを払った調子で、原口に対して多少は免疫があるところを見せた。
「ふ~ん」
いつもの溶けた粘土のような顔で原口は含んだ笑いを浮かべている。
「就活? 研究室かな? 授業はもう出てないだろう?」
「さあ…、どうですかね」
「あいつ内定出たって言ってたかい?」
「知らないです。自分らもいろいろ忙しいんで…」
またふ~んと呟いて、原口は笹原に目をやった。

素早く目を逸らした笹原の態度に、原口は満足気に口角を上げる。
「やっぱ出てないか~~~、そりゃそうだよね~~。ただでさえ女子は厳しいからね~~」
笹原は謂れのない敗北感に顔を歪める。
「あいつ資格も何も持ってないしね~~、サークルの会長って言っても、ただ漫画読んでアニメ観てるだけのサークルじゃあなあ。
コミフェス参加くらいしないと活動とは言えないからねぇ。だから新会長さんは斑目より随分見込みがあるよ」
今度は苦笑いも出ず、笹原は押し黙った。
原口は倍率ドンで声を弾ませる。
「まーそれでも? 僕の紹介ならすぐに決まると思うんだよね~。ほら、いろいろ面倒見てるからさあ。
どうせ頼るなら早めに言ってほしいんだよね。ずれ込んでくると先方にも迷惑が掛かるからさ」
シーンと静まり帰った部室に原口の笑い声だけが響いた。
「まあ……、そのうち決まるでしょ……」
田中の蚊の鳴くようなフォローの後、原口は決定的な一言を言った。
「そう? でもなかなか無いよ。あんなの雇いたいって会社」
「うっせーぞ、ブタ」
キレたのは春日部だった。
「クダラネーこと言ってねぇで、用が済んだらさっさと帰れよ。ウザがられてるのぐらい分かんだろ?」
空気が一瞬で張り詰めた。
春日部は射るような眼で原口を見ている。口元から僅かに覗いた歯は今にも噛み付きそうなほどだった。
笹原も他のメンツも、呼吸するのを忘れて二人に視線を注ぐ。
吹き出した汗で滑った眼鏡を抑えて、原口は冷静を装う。鼻つまみ者とはいえ、付き合うのはオタクか仕事上の相手。
ここまで面と向かって罵倒されたことは皆無だった。
「へ、へぇ。ハルコの話は癇に障ったかなぁ」
辛うじて声は上擦っていない。春日部は座ったまま原口を睨み上げている。
「当たり前だろ? 散々ハルコさんのこと馬鹿にしてよ。ふざけんなよ。フラれた腹いせか何か知らねぇけど、
いつまでも付きまとってんなよ。気持ちわりぃ」
図星を突かれた原口の顔は平手打ちをくったように赤くなっていった。
「関係ないだろ、お前なんか。何だ、ハルコの彼氏か何かかお前」
「そうだよ。付き合ってんだよ、俺たち」

それは言い過ぎだろう、と笹原は思った。
でも、間髪入れずに言い返したのは、正直カッコいいなと思った。
「なんだ…、随分ガラの悪い男と付き合ってんだなあ」
「性格悪いよりはマシだろ、顔は俺のがずっと良いしな」
原口は一瞬、眉に深いシワを寄せて、顔を田中の方へ向けた。
「田中、ハルコに言っといてよ。就職の相談ならいつでも乗るって。こいつじゃどうにも出来ないだろ?」
「テメッッ!!」
春日部は反射的に原口に掴みかかろうとしたが、立ち上がる瞬間に引き止められた。
真琴に腕を掴まれていた。
真琴は無表情で春日部の顔を見ていた。
引っぱたかれて様な気がして、いつの間にか春日部は席に戻っていた。
原口はそれを見てちょっとは溜飲が下がったのか、また泥のような笑顔を浮かべてわざとらしく尻を掻いた。
「まあ、いいや。そんじゃ笹原くん、ちゃんと電話しといてよ」
そう言うと、再びバイバーイという別れの挨拶を残して部室を出て行った。

笹原は前回その捨て台詞を聞いたときと同じに溜息を漏らした。
でもそれは原口へというよりも、春日部へのものだったが。
「いやーごめんねー。ちょーとエキサイトしちゃいましたぁー」
春日部は場の空気をマイルドにしようと必死に笑顔を振り撒いている。照れ隠しもコミだ。
あと、馬鹿にされた仲間のためにキレるというのも微妙にオタクっぽいような気がして、春日部は恥かしかった。
「まあ、気持ちは分からんでもないがな」
「きゅ、急にヒートアップしたから、び、びっくりしたけどね」
ロープから抜け出した捕虜のように、みんな肩を回したり伸びをしていた。
何せ体に力が入りっぱなしだったから。
「見てるだけで疲れましたよ」
「久しぶりに入学当初の春日部君に会ったような…」
「ははは…、ごめんなあ…」
ただそんな中、真琴には珍しく笑顔がなかった。

「ね、怒ってる?」
大学からの帰り道、国道を跨ぐ陸橋の上。二人きりになったのを見計らって春日部は訊いた。
夕暮れの車列はヘッドライトを点して、二人の下をテールランプの赤い光の列とヘッドライトの薄いオレンジの列が
車幅を縮めてゆっくりと流れていた。
横にいる真琴に恐る恐る視線を向ける。
「何が?」
「何がって…、部室のアレだけど…」
ずっと表情が冴えないのは気が付いていたが、皆も前で訊くわけにもいかず、今やっと訊けた。
でも真琴は前を向いたままだ。
「アレの何?」
まだ笑ってくれない。
「何って…、え~…、………いろいろ」
「いろいろって?」
ああ、やっぱり怒ってる。普段の真琴は決してこういうことは言わない。
いつも笑って俺の意見に付いて来るようで、いつの間に自分のペースに巻き込んでるような。
こんな真正面から気持ちをぶつけてきたりはしない娘なんだ。
「まあ、ケンカしそうなったし…。笹原とかちゃんと我慢してんのに…」
でも、そういうことじゃないよな。
「まあ、その、『付き合ってる』ってのは売り言葉に買い言葉っつーか、つい負けたくなくて言っちゃって…。
でも、嘘なんだしさ。そんな怒らないでも…」
「怒らないと思った?」
真琴は足を止めて恋人の顔を見上げた。
「春日部君がハルコ先輩と『付き合ってる』て嘘ついても私が傷つかないと思ったの?」
そんな風に言われると、
「え……、えと…」
真っ直ぐに見つめる真琴の瞳に、春日部君は思わず空に目を逃がしてしまった。
言葉が出てこない。

「私は春日部君が好きだよ」
その言葉に、春日部は彷徨っていた視線を真琴に戻す。
「だから、嘘でもハルコ先輩と『付き合ってる』なんて言われるのは、とても嫌だし、悲しいの」
別に真琴は悲しそうな顔をしているわけでなかったが、それでも春日部には本当に悲しそうに見えた。
だから漸く言うべき言葉を告げることができた。
「ごめん…」
陸橋の上を強い風が吹き抜けて、真琴は顔に纏わりついた長い髪を中指と人差し指で掻き上げた。
そしていつものように微笑みを返した。
「私、春日部君のこと、ちゃんと見てるからね」
その時、珍しく真琴が春日部の手を取った。
敵わないな、と春日部は苦笑する。
確かに、今日はちょっとらしくなかった。ツチブタにはマジでムカついたが、子供っぽいことをしてしまった。
何でかな?
春日部を暗くなっていく空を見上げる。そこに何かを思い浮かべるように。
その時、真琴がグイっと手を引っ張って、また無表情で春日部を覗き込んだ。
「あ、何?」
「ちゃんと見てるのよ」
真琴とはフフフと不敵に笑って前を向いた。
額に汗をかいた。春日部は、それも何故だか分からない。
そして、まあ、いいやと呟いた。



つづく
最終更新:2006年06月23日 06:30