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筆茶屋はんじょーき3 【投稿日 2006/04/28】

筆茶屋はんじょーき


千佳は台所に駆け込んだ。心を静めようと水を飲む。
突然吐き気に襲われる。吐く。吐いて吐いて、胃が空になっても吐きつづける。
(これは罰だ)
千佳はそう思った。
過去の行いを、その結果を、その罪を忘れ、人を好きになり、かつてと同じ事をしている自分への罰。
ふと視界に包丁が映る。
手に取り、刃先を見つめる。
そして首筋に当てる。冷やりとした感触。
(楽になりたい)
その一心で力を込め、る寸前で包丁を放り投げた。
死ぬわけにはいかない。
あの日、凍死する寸前だったわたしを救ってくれた義父の為に、義父を失ってなおわたしを愛してくれる義母の為に。
なにより、あの人の母は言ったのだ。
死んだあの人の分も生きろ、と。
罪を背負ったまま生きて、苦しんで、苦しみ抜いて死ね、と。


”筆茶屋はんじょーき”


「千佳さん、大丈夫?」
笹原の声に、千佳はびくリと体を震わせる。
「どこか具合でも…」
「来ないで!」
笹原は歩み寄ろうとした足を止める。
「大丈夫ですから…すぐに行きますから…来ないでください」
「…そう?」
少し悲しげに言うと、笹原は踵を返す。
遠ざかる足音を聞きながら千佳は、振り返って引き止めたくなる気持ちを、必死に抑えていた。

千佳はしばらくして店に戻ってきた。
少々顔色が悪いものの、普段と変わらぬように見えた。
しかし、笹原と加奈子は気付いた。
千佳が決して笹原の方を見ようとしなかったことに。

夕刻になり、店を閉める。
以前、あまりの無為ゆえに、何か手伝わせてくれと頼み込んだ結果、この時には笹原も手を貸すのが常になっていた。
常であれば、「ご苦労さまでした」「また明日」で終わるのだが、今日は違った。
「…笹原さん。長い間ありがとうございました」
そう言って、千佳は少なくない金を笹原に握らせた。
「あの、これは?」
訳のわからぬ笹原が尋ねる。
「本当にありがとうございました。でも、明日からは来なくていいです。むしろ来ないで下さい」
千佳はうつむいたままそう言うと、笹原に背中を見せた。
「ちょっと待って!どういうことだよ!」
笹原の声に答えず、千佳は店に入ると表戸を閉めた。
「どういうことだよ…」
笹原は金を握り締めたまま呟いた。

千佳は表戸を閉めると、その場にへたり込んだ。
涙が頬を伝う。
(これでいいんだ)
(わたしの所為で、笹原さんを不幸にしてはいけない)
(会わなければ、きっと忘れられる)
(わたしも、笹原さんも)
「笹原さん…」
千佳はそう呟くと、顔を覆って泣いた。
かすかな嗚咽が、誰もいない店の中に響く。

あれから数日。
笹原は何もする気にもならず、長屋の自分の部屋に寝ていた。
実の所、今すぐにでも千佳の顔を見に行きたい気持ちではある。
しかし、『来ないで下さい』と言われた以上、それを違えるのも気が引けた。
「ちーす、アニキ~。生きてるか~」
間延びした声を響かせて、笹原の妹の恵子が訪ねてきた。
「あいかわらず小汚い部屋だな。そのうち虫が湧くんじゃねーの?」
「うるさいな」
相変わらずの毒舌ぶりに、笹原は面倒臭そうに返す。

余談であるが、笹原の部屋は恵子が言うほど汚くはない。汚さで言えば、斑目の部屋の方がよほど上だ。
もっとも男の一人暮らし、ということを考えれば、推して知るべしなのだが。

閑話休題。

「何の用だ?」
「金貸して」
恵子の答えに、笹原は露骨に顔をしかめた。
「…また男に貢ぐのか」
「うるさいな。玉の輿に乗るには、それなりに金がかかるんだよ!」
「それで何度騙された?いいかげん現実を見ろ!」
「うるせえ、サル!説教なんてたくさんだ!」
互いににらみ合う。やがて笹原はため息をつくと、無言で文机を指し示した。
そこにはあの時、千佳にもらった金が、手をつけずに置いてあった。
「なんだ、あるんなら最初から出せよ…え?どっから盗んだのさ、こんな大金」
「人聞きの悪い事を言うな。荻上屋の千佳さんにもらったんだ」
笹原の答えを聞いて、恵子はにんまりと笑う。
「そういえば、加奈子から聞いたけど、その『荻上屋の千佳さん』と最近仲いいんだって?」
「アニキもやるねえ。女に貢がせるなんて」
「そんな訳があるか!」
「じゃあどういう訳よ」
憤慨する笹原に、恵子は興味しんしんといった体で聞き返した。

仕方無しに、笹原はその日の出来事をかいつまんで説明した。
話を聞くうちに、恵子の表情がだんだん険しくなっていく。
「という訳なんだが…」
「ああ、そう。気になってる女が突然具合が悪くなっても、『大丈夫』って言ったから放り出して、『来るな』って言われたから、こんな所で悶々として、渡された大金の意味も、『わからない』で済ますんだ」
「サル並みの馬鹿だと思ってたけど、あんたサル以下だよ」
「おい、恵子」
「好きなんだろ?だったら気にならないのかよ!心配じゃないのかよ!」
「言われたから?嘘だね。アンタは知りたくないだけだ。知って傷つくのが怖いだけだ。怖くて逃げてるだけだ!」
「恵子!」
「うるせえ、馬鹿!サル!さっさと死んじまえ!!」
言い捨てて恵子は表へ飛び出していった。
金には一つも手を付けずに。

「おっと」
笹原の部屋に向かっていた斑目は、飛び出してきた恵子とぶつかりそうになり、慌てて脇へ飛びのいた。
恵子は見向きもせずに駆け抜けていく。
斑目には、なぜか彼女が泣いていたように思えた。
「笹原、ちょっといいか?」
「…いいですよ」
斑目が声をかけるまで、笹原は煎餅布団に座って、不機嫌に黙り込んでいた。
「さっき恵子くんと会ったけど、何かあったのか?」
「いえ、別に」
「そうか。ところでだ、この間言った『剣を教えて欲しい』という奴だが…」
「どうかしましたか?」
「只だよな?」
沈黙が流れる。笹原は軽く噴出すと、
「わかりました。ほかならぬ斑目さんの頼みです。只にしましょう」
そう言って立ち上がった。

木刀二本を手に、猫の額ほどの庭に出る。
片方を斑目に渡す。
「それじゃあやりますか」
言って構える。
「おい、いきなり手合わせかよ!」
「大丈夫、加減はします。それに腕前が判らなければ教えようがないでしょう?」
斑目はしぶしぶと木刀を構えた。
そして、さんざんに打ちのめされた。
「いたた…加減すると言ったじゃないか」
「してますよ。怪我してないでしょう?」
「痣にはなったがな。それで、俺はどうなんだ?」
「そうですね…とりあえず、素振りから始めましょうか」
「わかった。何回やればいいんだ?」
「とりあえず一刻ほど」
「時間で数えるのかよ!」
「付き合いますよ」
斑目の突っ込みをさらりと流して、笹原は木刀を構えた。

一刻後、息も絶え絶えに突っ伏す斑目の隣で、笹原は平然と汗をぬぐっていた。
「…なあ、笹原」
ようやく声が出せる位に回復した斑目が問い掛ける。
「何か、『これさえ憶えておけば大丈夫!』というような必殺技とかないか?…身がもたん」
笹原のこめかみに青筋が立つ。
「斑目さん」
普段と異なる調子の声に、斑目は笹原を見上げる。
笹原は笑っていた。
そして、その背後に、ものすごい、怒りの気配を背負っていた。
斑目が詫びようとした瞬間、
「そんなものがあったら俺のほうが教えて欲しいですよ!!」
笹原は叫んだ。

千佳は普段、荻上屋に寝泊りしている。
それはとある事情があってのことだが、その日、千佳は数日振りに荻上家の屋敷を訪れた。
「千佳さま」
用人の高柳が引き止める。
「覚悟のほうはお決まりでしょうか?」
「何度も申し上げておりますが、今や荻上家の跡取は千佳さましかいらっしゃらないのです」
「千佳さまには是非とも婿を迎えて子をなし、家を保っていただかなければならぬのです」
「先代が亡くなって早ニ年、もうこれ以上のわがままは…」
「千佳さま、奥方様がお呼びです」
女中の声に、高柳はしぶしぶ話を打ち切った。
千佳は安堵と罪悪感を覚えながら、義母の部屋へと向かった。

「ごめんなさいね、千佳。また高柳に何か言われたでしょう?」
義母は床についたまま千佳に話し掛ける。
「いいえ。高柳さんの言う事は間違ってませんから」
千佳は答えながら義母を見る。
義父を亡くしてから、めっきり衰弱してしまった義母は、もはや自力で体を起こす事すらできない。
「まったくあの人は…いくら貴方がかわいいからといって、後先も考えずに養子縁組なんかしてしまって…」
「本当にごめんなさいね」
「いいえ。わたしは義父に拾って頂かなかったら、こうして生きていません。感謝しています。心から…」
千佳は思い出す。
実家から与えられたわずかな路銀を騙し取られ、女衒に売り飛ばされそうになったことを。
なんとか逃げ出したものの、身一つのみで飢えと寒さに震えていた時のことを。
飢えと寒さで朦朧とした意識の中、自分を抱きかかえてくれた義父のことを。
そしてその後、数日に渡って寝込んでいた自分が目を覚ましたときの、義父と義母の笑顔を。

千佳は、自分が幸せだと思った。
そしてそれが苦しかった。
自分にそんな資格があるのか、という思いが沸き起こる。
義父も義母も、千佳の過去を問いはしなかった。
(それに甘えていたのかもしれない)
千佳は激しく後悔した。
(わたしは何も変わっていなかった)
(だから、そのうちきっとこの人たちを傷つける)
(やっぱりわたしはあの時に…)
「千佳」
義母の声に、千佳は沈んでいく思考を止められた。
「自分を責めるのはやめなさい」
「貴方の過去に何があったのかは知りません」
「でも、貴方が自分を責めて、不幸になっても、誰も幸せになれません」
「幸せになりなさい、千佳」
「それだけで十分です」

そしてこの言葉が義母の遺言となった。