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サマー・エンド終 【投稿日 2006/04/25】

サマー・エンド


ブルー・ベルベットのような青空が窓を彩る。
7月の晴天が、梅雨の終わりを告げていた。青いセロハンが空を覆う。
太陽が窓に貼られた美少女を真っ黒い影の中に隠している。
ブラウン管のテレビの頭を、ビデオデッキの背中をこんがりと焼いていた。
彼女たちはその刺すような日差しを避けて、部屋の奥に固まっている。
照り返しの光が部室の影を水の底からの軽視のように揺らめかせていた。

真っ白い腕をノースリーブから覗かせる荻上が向日葵のような笑顔を見せている。
「え~? このカプですかぁ? やっぱ大野先輩とは趣味が合わないすね。」
長い黒髪を暑苦しそうにたくし上げて、大野はその豊満な胸を張った。
「別にいいですよ。初めから荻上さんはそう言うと思ってましたから。」
恵子は机に重ねた両手の上に顎を乗せて、広げられた801同人誌をぼーっと眺めている。
「元ネタが全然わかんねぇな…。」
窓から迷い込んだ風が、僅かに開けてあるドアの隙間を風が通り抜けていく。
彼女たちの頬を涼やかな感触が撫でていた。
「あ、私そろそろ帰りますね。」
本棚に置かれたアニメ絵の文字盤も麗しい時計を見上げて荻上は立ち上がる。
まだ2時を少し回ったところだった。大野が怪訝そうに荻上を見やる。
「今日ってもう講義ないって言ってませんでした?」
荻上は自分の同人誌をまとめながら、ニヘヘとはにかんでいる。
「いえ……、まあ……、ちょっと………。」
大野はバッグの中から取り出したマスクを手早く蒸着…、じゃなくて装着していた。
「ちょっとってなんでしょう…?」
両目をキュピ~~ンと光らせて、ハアハアの吐息の熱をマスクに篭らせる大野。
じりじりと荻上ににじり寄った。

荻上は、”ドジこいたーーー!”とでも言いたげな表情で顔を背ける。
「あはは…、いやぁ……、ちょっと今日のは煮込むのに時間がかかるんで………。」
「煮込む…。お料理デスカ……。」
もはや止まりようも無い大野はその身長差を大いに活用して荻上にプレッシャーをかけた。
「どんなの作るんですか…? オギウエさん…。」
荻上は目をグルグルさせて、気温と関係なく流れる冷や汗を拭った。
「サ、サムゲタンですけど……。そのぅ…、夏のスタミナ回復に良いらしいので…。」
「笹原さんに! 作るんですね…?」
「………はぃ。」
「オーケー! どうぞどうぞ。もう行って大丈夫ですよ!」
すっかりゲロした荻上にがっつり満足した大野は軽やかにマスクを外して、その下の満面の笑みを披露した。
じっとりと冷や汗をかいた荻上は、すっかり肩を落として疲労のため息を漏らしていた。
「では…、失礼します…。」
「はいは~~~い。ス・タ・ミ・ナ、つけて頑張って下さいね~~~!」
オデコに青筋を立てて荻上が部室を出て行った。
大野はそれを見送ると、ふんふ~~んと鼻歌まじりに同人誌を鑑賞し始める。キャラを脳内で笹荻に変換して。
机に突っ伏してままの恵子がぽつりと呟いた。
「あんまりからかってやるなよ~~。」
「だって面白いんですもん!!」
「まあ…、それの気持ちはわかるけどさ…。」
恵子の目は、窓の向こうの真っ青に晴れ渡ったそれを見つめていた。
「なんつーかさ…………、幸せすぎて、見てられないんだよね…。」

夕焼けの太陽が校舎の向こうへ消えて、部室はひっそりとその暗さを増す。
笹原は時計を見ながら遅くなった日没を感じた。
橙色から赤へ、赤から紫へ。少しずつだが空は確実にその有りようを変えている。
開けっ放しの窓から注ぐ夜気に、笹原は身を浸していた。
くるりと窓を背にする。
一人きりの部室。初めて感じる、こんなにも広い部室。
そこでの慌しくもぬるい毎日は、目を閉じる必要もなく笹原の脳裏に容易く甦ってくる。
オタクとして覚悟を決めた自分。同人誌を買うにも照れていたころ。
クダラナイ話を何時間でも続けていた毎日。
数々の事件、事故、イベント。
予期せず会長として過ごした一年間。コミフェスへのサークル参加。
荻上との出会い。
笹原は部室を目に焼き付ける。そのかけがえのない日々と一緒に。
もう二度と手に入らない全てを、笹原は胸の奥に閉じ込めた。

ドアの向こうから足音が聞こえる。カツカツという軽妙なリズム。
程なくしてそれは立ち止まると、一拍を置いて部室のドアは開いた。
「うわっ!」
大野が大声を上げて仰け反った。無理もない。薄暗い部屋にぽつんと人影があったのだから。
「なんだ…。笹原さんでしたか。脅かさないで下さい…。」
大野は深呼吸をして蛍光灯のスイッチを入れた。部室が一瞬で明るくなり、窓の外は一瞬で暗くなったように感じた。
「ごめんね。もう結構暗くなってたんだね。大野さんは戸締り?」
「そうですよ。」
笹原は窓の方に向き直ると、ガラス窓を閉めた。アルミサッシが滑るトゥルトゥルという音が心地良く響いた。
「今日はお休みだったんですか?」
私服の笹原を指して大野が言った。
「そー代休。編集者って不規則になりがちだから、休める時に休んどけってさ。」

「それならこんなとこ居ないで、荻上さんと遊びに行ってくれば良かったのに。」
笹原はまた愛想笑いをする。でも今日ばかりは、上手くできなかった。
「今日、これから会うよ…。」
「ですよねー!」
大野の満面の笑みに、ぎこちない愛想笑いは消し飛ばされそうになった。
「今日は楽しみにしてて下さい。荻上さん張り切ってましたから!」
笹原は無言で頷いた。口元に皮肉な笑みを滲ませて。熱の残るテレビの額に手を置きながら、また部室を見渡す。
ここに来れるのも、これで最後かもしれないと思った。
「何だかそーしてると、まだ大学生みたいですよねぇ。」
私服の笹原に、大野が感慨深げにそう漏らした。
目を細めて、笹原たちが卒業する前の懐かしい毎日を思い出しているのだろう。
それに笹原は、小さく首を振る。
「もうあの頃とは違うよ。」
「あら、そんなに成長してます? たった三ヶ月ばかしで。」
大野の意地悪な表情に笹原は苦笑いを見せた。
電気を消して、二人は部室を後にした。

交差点の真ん中で、笹原は足を止めた。
「それじゃ、俺はこっちだから。」
「はいはい。荻上さんに宜しく。」
ニヤニヤ笑顔を湛えた大野が手を振る。笹原は肩越しに大野に視線を投げた。
「大野さん…。」
「はい?」
笹原の唇が、言葉を探しあぐねて宙を噛んでいた。
「荻上さんのこと、頼むね…。」
笹原の目、大野の満面の笑みが飛び込んだ。
「大丈夫ですよ。荻上さんの会長ぶりも板についてきましたから!」
笹原は小さく笑って、そして大野に背を向けた。

パーキングビルの向こうの空が、太陽の残光に薄く染まっている。
咲は大きな旅行カバンに衣類を詰める手を止めて、その光景に見入っていた。
初めから、あのビルは邪魔だったなと思いながら。
咲はガラス戸を開けて、ベランダに出てみる。少し遠くの通りの騒音が聞こえた。
まだ陽のある内のその景色は新鮮だった。時折、缶ビールを片手に見ていた夜の表情とは違う。
残光に照らされた街は、ある種の生命感を感じさせた。
たぶん、ほとんどの人が、昨日とさして変わらない今日を過ごしたのだろうと、咲は思った。
自分は違う。今日、この部屋から出て行くのに。
持って行くのは、衣類と手で運べる程度の物だけ。できれば自分の匂いするものは全て運び出して
しまいたかったが、時間もないし、大きい物を運ぶには男手がいる。笹原だけでは無理だろう。
現視研の仲間に頼めるはずがなかった。

夏の初めの黄昏。生温かい風。
それを感じていると、まるで今日もいつもと変わらない一日であるような気がする。
このまま高坂の帰りを待って、そして待ちぼうけて眠る。そんな一日。
(もう違うんだよな…。)
もうそんな日は来ないんだよな、と。咲は呟いた。
空は夜に変わる。宵の明星が、空にぽつんと瞬く。
咲は部屋に戻って、カーテンを閉めた。
「咲ちゃん。」
不意に声がした。驚いて身を固くする咲。恐る恐る声のした玄関口を覗き込む。
Tシャツとジーンズ姿の高坂がそこに立っていた。
額に大粒の汗をかいて、Tシャツを熱気で湿らせていた。
「咲ちゃん。」
酸素を求める体に抗って声を発する。乱れて呼吸を繰り返す口元に、いつもの微笑みはなかった。
それは咲にとって、知らない高坂だった。

咲は顔を伏せて座る。崩れ落ちそうになる表情を見られないように。軽口を叩く。
「なんだ。今日、暇だったの。」
そんなわけないのは分かってる。会いに来たに決まってる。
「明日にしとけばよかったな~。あはは。」
カバンに荷物を詰める咲の手は震えていた。唇に、白い歯が食い込んでいた。
「違うよ。仕事ぬけてきた。」
スニーカーを脱ぎ捨てて、高坂は部屋に上がる。
ドカドカと荒い足音。それをかき消すほどの声で高坂は言う。
「咲ちゃんに会いに来た。」
咲を見下ろして、高坂は立ち止まる。高坂の体が放つ熱が、咲の肌に爪を立てていた。
旅行カバンの上には、慌てて押し込んだ衣類がぐちゃぐちゃに散らばっていた。
咲はそれを力尽くで押し潰してカバンを閉じる。
「私もう行く。」
高坂の顔は見ない。立ち上がって、横を抜けて、出て行く。そう決めて…。
咲は両足に力を込めた。
「じゃあね。」
ドアだけを見つめて、歩き出す。でも、高坂がそれを許さなかった。
目の前に立ち塞がる。息を乱して、Tシャツの首回りに汗を滲ませて。
咲の目は、いつの間にか高坂の目を見ていた。
いつもの笑みも余裕もない、ただ必死なだけの瞳だった。
「行かせないから。」
高坂の両手が咲の肩を掴む。強く。指が咲の柔らかい肌にめり込む。
痛みに咲は顔を歪めた。
「痛いよ…。」
それでも高坂の手は力を緩めるどころが、尚も強く咲を拘束した。
たとえ咲を傷つけても、高坂は咲を放そうとしなかった。。

「笹原のところになんか行かせない。あんな男のところになんか。」
「高坂…。」
高坂が悪態をつくのを咲は初めて聞いた。あの原口にだってそんなことを言わなかったのに。
今、高坂の歯は怒りにきつく噛み合わされてる。
そして瞳からは涙が溢れていた。
「荻上さんがいるくせに…。咲ちゃんが好きだなんて…。いい加減なヤツなんだよ、アイツは!」
高坂の顔を、咲は見つめ続けることができなかった。
「僕だって荻上さんとのこと…、応援してたのに…、嬉しかったのに…。」

そうだったんだ…。高坂が失くしたのは、私だけじゃない。
笹原も、一番の友達も失くしたんだ…。

高坂が現視研以外の友達を一緒にいるところを、咲は知らない。
その中でも笹原は同い年で、大学でできた初めての友達で、頻繁に家にも来ていて…。
一緒にゲームして…。買い物もして…。趣味で盛り上がって…。
コミフェスでも売り子をやって…。会長だった笹原を支えて…。

「アイツはそういうの全部ムチャクチャにして…。それで咲ちゃんまで………、僕から…。」
高坂の声は、もう言葉になるのを止めて…。
ただ、ただ感情を乗せて、悲しく、痛く、鳴り響いた。
高坂の手は、咲の肩を滑り落ちて。そして高坂は床に崩れ落ちた。
自分の涙で濡れた、その上に。
「咲ちゃん…、行かないでよ! 僕と一緒にいてよ!」
その叫びはいつまでも響いていた。嗚咽が、いつまでも響いていた。
その時、咲は。

漫画に落としていた視線を、また台所へと向ける。コトコトと呟くお鍋。
堪らずコンロの前まで行って火加減を確認する。青い弱火が踊っている。
そうしてソファに戻って漫画を手に取る。
さっきからその動作を何度となく繰り返していた。
ソワソワでいる荻上を、コンコンとドアが読んだ。
ビクンとなって慌てて魚眼レンズを覗く。待ち人来る、だ。
とりあえず、一旦鏡の前でいろいろチェックしてから(ついでにかわゆいエプロンをしてから)荻上はドアを開けた。
「どうぞ。」
「うん…。」
笹原は小さく呟いて部屋に入った。
荻上は照れ臭そう頬を染める。
「すいません。ちょっと手が離せなくて。」
「いいよ…。」
エヘヘと小さく笑いながら荻上はさり気なくポーズをとってみる。
ちょい内股気味で、心なしか小首を傾げたりもして、真新しいエプロンを強調してみる。
フリフリのレースのエプロン、というのは流石に狙いすぎであるので回避したが、
人参を加えた桃色のネコのアップリケが荻上の胸元で笹原を見つめていた。
(どうですか…、とか訊いちゃおうかな…。)
口をモゴモゴさせる荻上。
しかし笹原はそれには目もくれずに足早にソファの部屋に行ってしまった。
(ちぇ…。)
荻上は心の中で呟いて、ちょっと舌を出した。そして直後に自分のしたあまりに乙女チックな
行為に赤面した。
(ちぇってなんだよぉ~。それはブリッコ過ぎべ…。うわー、なんか恥ずかしー!!)
自嘲とこんなことさえできる喜びに緩む口元を、荻上は両手で押さえる。
熱くなったホッペは鍋から立ち昇る湯気のせいにすればいい。
頬が鎮火するのを待って荻上は部屋を覗き込んだ。

「何か飲みますか?」
笹原はテーブルの上に置いてあった単行本をペラペラと捲っていた。
「別にいらないかな…。」
「え~! じゃあ、私だけ先に呑んじゃいますよ~!」
スリッパをパタパタ鳴らして荻上は冷蔵庫に駆け寄るとお気に入り銘柄の缶ビールを取り出した。
片目を瞑りながらプシュっと開ける。おちょぼ口で一口呑んで、磨りガラス越しに笹原の方を眺める。
顔が自然と柔らかくなった。
仲直りして以来、笹原が過剰に気を遣うことがなくなっていたのが嬉しいのだ。
優しくし過ぎないでください、という約束をしたものの、それで笹原の行動はなかなか改まらなかったのだが。
(今のはすごく自然だったなあ。)
また二人の距離がちょっとだけ縮まった気がして、荻上は微笑んだ。
断られて嬉しいってのも何か変だなあ、と思いつつも。
荻上は鍋の火をチェックする。
「笹原さん、お腹へってます? でももうちょっと我慢して下さいね! あと少ししたらお肉も解れて…。」
「荻上さん。」
「はい?」
「ちょっといいかな…。」
荻上は笑顔で部屋を覗き込んだ。その瞬間、ぞくりと背中に悪寒が走った。
「ちょっと座ってくれるかな…。」
笹原の顔は、張り詰めていて、すごく悲しそうな目をしていた。
喧嘩をした時でさえ、そんな顔はしなかったのに。
(何だろ………。なんだか、すごく…いやな感じが………。)
それは昔どこかで感じた気持ちに似ていた。

初めに、大野は己の目は疑ってみた。が、目はそうそう嘘はつかない。
(やはりこれは現実。)
前を歩いている後ろ姿の二人は、やはりよく知るあの二人である。
(どうしましょう…。スルーがベターなんでしょうけど…、いっそイジッてしまいたい衝動にも駆られる…。)
などと煩悶しているうちに、いつの間にか信号に引っかかった二人に追いついてしまっていた。
「お~、大野さんじゃん。」
「あれ、こんばんわ。いつの間にそこに。」
恵子と斑目は驚いた様子も無く挨拶した。
「あぁ…。どうもこんばんわ…。」
(むむ? 何だろ、この予想外のリアクションは…。全く動揺なしとは…。)
もしや私だけ知らなかったのでは、と逆に大野の方が焦ってしまった。
チラリと斑目の表情を窺うが、こういう場合に真っ先に顔に出そうな斑目が完全な素。
恵子も同じく素の表情である。深読みしたものかどうか…。
「あの~~~…。」
(訊いちゃうか…。)
自分が詮索されたやや嫌な記憶が甦るが。
(もう辛抱たまらん、ですしねぇ~…。)
苦悩で頭から湯気が出そうになる。よしっ、訊く。と根性決めた瞬間、斑目が言った。
「ウチらこれからメシ行くとこなんだけど、大野さんもどう?」
「え?」
「あ、忙しかった? 田中と約束とか?」
「そーなの?」
残念そうな恵子。大野はますます焦った。
(何ですかこの展開…。)
「いや…、別にこれといってアレではないですけど…。」
「じゃー行こーよー。三人のが面白いじゃん。」
「え、え。でも…。」

チラリと斑目の方を見る。やはり素だ。
『社交辞令を真に受けんなよ』の顔もしてないし、
『ちくしょーこんなとこで大野さんに会うなんてなー…今日は捨てだな』の顔もしてない。
「やっぱ何かあんの?」
フツーに誘ってくる。大野は思った。というか突っ込んだ。
(そっか…、これが世に言う『男と女の友情』ですか………。逆に気持ち悪っ!)
「あぁ…、じゃー行きますか…。」
「おー、やった!」
嬉しそうな恵子に引っ張られて二人の間に入る。なんだかな~。
困り笑顔の大野であった。

他愛もない世間話に花を咲かせて、三人は歩いていく。
「そう言えば、今日部室で笹原さんに会いましたよ。」
「へ~、そーなん? なにアイツ休みだったの?」
「代休なんですって。」
「なら部室なんて来ないで荻上さんと遊び行きゃいいのにな。」
「私もそれ言いっちゃいましたよ。」
三人で並んで、他愛もない世間話に花を咲かせて、いるばずだった。
「………アニキ、何か言ってた?」
大野は思わず恵子に視線を向けた。さっきまでとあまりに声のトーンが違っていたからだが、
目に映った恵子の表情もついさっきと全然違っている。
大野は一瞬息を飲んだ。
「あ~…、別に大した話はしてないですけど…。」
「そう…。」
少し恵子の顔が和らぐ。大野の口も少し滑らかに動けるようになった。
「荻上さんのことも言ってましたよ。『頼むね』って。」
恵子の足がピタリと止まった。

「ん? どうしたん?」
恵子は青い顔をしていた。
そして慌しい手つきで携帯を取り出すとどこかへ電話をかける。
「くそっ! 出ない!」
「ちょっとどうしたんですか!?」
大野も斑目も困惑して表情で恵子を囲んでいる。
恵子はまたどこかへコールしている。
「出て、出て、出てよ…。」
小さく呟きながら小刻みに足踏みをしている。
だが、その願いも届かない。
「ダメ! オギーもつながんない!」
左手の人差し指を唇で噛んだ。
「え? 荻上さんに電話してたの?」
斑目の質問に恵子は答えない。斑目は苦笑いを大野に向けた。
大野も同じ顔を斑目に向けていた。
「いま私ヘンなこと言いました?」
「え……、いや、言ってないんじゃないカナァ…?」
顔を見合わせる二人。
恵子はその前に立つと両手をパンと合掌した。
「ごめん! アタシこれからアニキんとこ行くから! 今日はパス!」
「え? え? 何で?」
「ごめん! ちょー急用なのっ!」
言うや否や恵子は踵を返して歩き出した。
慌てて大野と斑目は後を追う。
「ちょっと待ってよ! あいつらに何かあったの!?」
斑目の呼びかけにも取り付く島もない。
「ごめん。後で話すから!」
「笹原さんなら荻上さんちだと思いますよ!」
大野の一言でやっと恵子は振り返った。


「マジで?」
「ええ…。荻上さん、手料理を振舞うみたいなこと言ってたし…。」
「どこ!? オギーんちって!」
恵子は大野の手をきつく掴んだ。


部屋には音楽が流れている。
『ハレガン』の初期のOPテーマが、点滅する携帯のランプに合わせて鳴っていた。
荻上はハッとして、机の前に駆け寄った。
「すいません。ちょっと待って下さい…。」
荻上の両手は縋るように携帯を握っていた。
「ごめん。切ってくれるかな…?」
笹原の声が冷たく響く。
「大事な話なんだ…。」
荻上はソファの笹原を見下ろす。少し俯いて、目の前の彼女が座るべき場所をじっと見つめていた。
笹原の頬がぐっと盛り上がり、歯を食いしばっているのが分かった。
彼女は仕方なく席に着く。胸の前で握り締めた携帯は、やがて鳴くのを止めた。
「な…、何ですか? 大事な話って?」
嫌な予感がして溜まらない。だから余計に明るく笑いかける。
そうしていないと、また逃げ出してしまいそうだった。
笹原は俯いたまま、黙っている。
両手を膝の間で合わせて、ロウで固めたみたいに動かない。
笹原が自分の目を見ようとしないのが、ただ怖かった。
「あのさ…。」
「何ですか?」


笹原の声は震えていた。自分の声も…。

もう、上手く笑顔も作れない…。
だって…、笹原さんが笹原さんじゃないみたいで…。
怖い顔で…。私を見てくれなくて…。つらそうで…。
何で…、そんな顔をしているんですか…、笹原さん…。

「俺…。」

お願い…。言わないで…。言わないで…。
また、いつもみたいに困った顔で…、私のことを…。

「俺…、他に好きな人がいる…。」




「その人と…、付き合ってる。一ヶ月ぐらい前から…。」


「真剣に付き合ってる…。」




「だから…、俺と別れてほしい…。」


「……………………ごめん。」



笹原は、目にかかる前髪の隙間から、荻上を見た。言い終えたから、見れた。
それでも、顔を直視する勇気は出なかった。
忙しなく行き来させる視線が、荻上の顔を何度も通り過ぎていく。
荻上は何も言わないで、テーブルの上の一点を凝視していた。まるで釘で打ちつけたみたいに、
そこだけをぴくりともしないで、見ていた。

かける言葉が無かった。
いっそ、このまま部屋を飛び出してしまいたい。でも、それじゃあまりにも勝手すぎると、笹原は思った。
言いたいことだけ言って、彼女を放って逃げるなんて…。
でも、それ以上に酷いことを、自分はしているんだ…。
本当にどうしようもなく残酷なことを…。
「荻上さん………。」
少しだけ笹原は顔を上げる。
笹原は息を飲んだ。
荻上は、涙を流したまま、ひまわりのような笑顔を笹原に向けていた。
「笹原さん、お腹へってますか? もうご飯にしますね。」
彼女は立ち上がって台所に歩いていく。その声は涙に震えていた。
「今日のは私も初めて作ったんですけど、意外と上手くできたんですよ。」
涙がぽたぽたと、床を濡らす。
「わあ~、鶏肉が簡単に解れますねぇ~。我ながらおいしそうだぁ。」
菜の花の色の鍋掴みを嵌めた荻上が、ちょっと大き目のお椀を大事そうに両手で持っている。
零さないように、転ばないように、ゆっくりと歩いている。
笹原は、目を伏せていた。

お椀が置かれる音がして、顔に湯気の温もりと湿りを感じて。
笹原は言った。
「ごめん、荻上さん…。」
荻上の震えた笑い声が鼓膜を打つ。
「ダメですよ…。ごめんは言っちゃいけないんです…。仲直りしたとき…、そう約束して…。」
言葉は崩れて、言葉になれずに掠れて消えた。
涙がぽたぽたと、お椀の中の波紋に変わった。
「あ…、すいません…。こっちは…私が……食べますから…。笹原さんは私の……。」
「ごめん…。」
笹原にはそう言うことしかできなかった。
「謝らないで下さい…。」
荻上は鍋掴みで頬に滴った雫を拭く。
「笹原さんは…、私のこと守りたいって言ってぐれで…、好きだって…。」
拭いても拭いても、涙は零れ落ちる。
笹原は奥歯を噛み締める。
「冗談なんですよね? 嘘なんですよね?」
荻上は笹原を見る。ぐちゃぐちゃに歪んだ瞳で。
「これからも…、これからも私と居てくれるんですよね…? ずっとずっと…、一緒なんですよね?」


笹原は、言った。

「………ごめん。もう………、無理なんだ…。」


笹原は自分の表情を押し殺す。歯を食いしばって。顔中を硬直させて。
必死に、心に残る荻上を思う気持ちを殺した。
「サキが好きなんだ…今は…。荻上さんよりも…。」
その言葉を聞いた瞬間に、荻上から表情が消えた。
体中に張り詰めていた行き場の無い力が、いっぺんに切れていた。
「サキ………? サキって…、………え?」
荻上の目が言っていた。
そんなわけない…。そんなはずない…。
笹原が嘘だと言ってくれるのを、願っていた。何度も何度も。笹原に願っていた。
笹原はじっと心を殺していた。
「うん………、今は春日部さんと付き合ってる…。」



「嘘ですよ…。」
「…………嘘じゃない。」
「だって春日部先輩には、高坂さんが…。」
「高坂君には、もう言ったんだ…。サキとのこと…。」
荻上は表情の消えてしまったまま、笹原を見ていた。

サキ、と笹原さんは春日部先輩のこと読んだ。

「私のこと………、名前で呼んだことなんか一度もないのに………。」

もう、頭の中には何もなかった。
何も浮かばなかったし、何も考えられなかった。
ほんのちょっとまで幸せでいっぱいだったはずなのに。それが今は全部なくなってしまって。
それが自分で。
笹原さんが言っていることが分からなくて。
春日部先輩が、笹原さんを私から奪って。
私はひどい人間で。
ひどいことした人間で。
それでもやおいを辞められなくて。
でも、笹原さんは私を好きだって言ってくれて。
皆も応援してくれて。
春日部先輩も応援してくれて。
笹原さんは私を受け入れてくれて。
私が書いたやおいのイラストを見ても私が好きだって言ってくれて。
私も笹原さんが好きで。
ずっと一緒に居たくて。
でも笹原さんは、もう私とは一緒に居たくなくて。

ただ耳鳴りのように、嘘だ、嘘だ、って声がしていた。


気が付いたら、また走り出していた。悲鳴を体の中に押し込めて。
机の上に膝を乗せていた。
トレス台も、ペンも、インクも、床に散らばった。
書きかけの原稿。飲みかけのジュースも床に散らばった。
鉛筆削りから、削りカスが零れて。
電気スタンドが机と家具の隙間に不恰好に挟まって、痛々しく鳴いた。

窓の外は真っ暗。ガラスに映った自分の顔は、歪んでよく見えなかった。
そして一瞬で消えた。
生温かい外の空気。
身を乗り出す。
アルミサッシが脛に食い込んだ。

不意に、体が止まった。
前に飛び出そうとしても、それ以上進めない。
何かに掴まれて、体が前に行ってくれない。飛び出せない。
荻上の頬を涙が伝った。

嬉しい。誰かが自分を引き止めてくれた。
自分をしっかりと掴まえてくれた。
笹原が自分を掴まえてくれた。
そう思った。


振り返ったとき、笹原は部屋の向こうにいた。
自分に手も触れられない場所で、ただ自分を見ていて…。
エプロンの裾が、机の角に引っかかっていた。
それだけだった。

何も言わずに笹原が出て行く。
荻上は、机の上でそれを見ていた。
目に光はもうなかった。

重力に身を任せて、坂道をとぼとぼと下る。
住宅地には不必要なほど広い道幅に、規則的に点る街灯。
使い古した灯りが、はるか向こうまで続いていた。
夏服の学生のグループが車通りの少ない道いっぱいに広がって歩いている。
その後ろで、ベルを鳴らすでもなく、疎ましそうな顔をした主婦が自転車をこいでいた。
自転車のハンドルの間には子供用シートがあって、子供がまんまるの頭に白い赤い縁取りの帽子を被っていた。

笹原はその道を歩いた。
顔は伏せていた。大の男が泣きながら歩いているのは、変だろう。
学生なんかに見られて、コソコソ話で笑われるのは御免だった。
やっぱりな、と笹原は思った。
やっぱり、最低の気分だった。
荻上はもっとだろう。
悪いのは自分のクセに、一番傷ついたのは彼女だ。
俺が傷つけた。
そのことばかり考えていた。

ふと、道端に立ち止まっている人影が目に入った。街灯の下に、大きな旅行カバンがあった。
膝丈のスカートから覗いた足は、寂しそうにぴったりと揃っていて、淡いピンクのペディキュアが
見慣れたミュールに包まれていた。
「カンジ。」
笹原は顔を上げた。涙で濡れた頬が、薄暗い灯りを映して光った。
「へへ…。タクシー乗って来ちゃったよ…。」
微笑む咲は、綺麗だった。でも、目は少し赤くて、手にハンカチを握っていた。
笹原は咲に微笑んだ。さり気なく涙を拭いて。
荻上のことで、咲を不安にさせたくなかった。
「荷物とって来たの…?」
「うん………。」

「………そっか。」
「うん………。」
笹原はどう言っていいか分からなくて、結局、そのまま言ってしまった。
「全部話してきた…。サキとのことも…全部…。」
「………うん。」
咲は目を伏せて、小さく呟く。
「荻上…、何か言ってた?」
笹原はできるだけ淡々と言った。
「………泣いてた。」
「だよね…。」
咲は視線を落として、弱弱しい自嘲を漏らした。それは仄かな灯りの中で、瞬く間に消えていった。
アスファルトに黒い点が落ちた。一つ、また一つと。
咲は顔を上げる。
「はは…。かっこ悪いな…。」
笹原は涙を零しながら笑った。精一杯の困った笑顔で、咲に微笑む。
不器用に涙を拭いても、後から後から涙は溢れてアスファルトに滲む。
咲は一瞬、顔を泣き出しそうに歪めて、笹原を抱きしめた。
ぎゅっと、笹原を包み込んだ。
「大丈夫…。私も一緒だから…。」
自分の頬を、笹原の頬に重ねる。涙で咲の頬も濡れた。
「今日…、部屋に高坂が来たんだ…。」
「…………。」
「高坂…、一緒に居てって泣いたんだよ…、私の前で…。今まで一度も泣いたことなんかなかったのに…。」



その時、咲は。
何も言わなかった。
咲は旅行カバンを手に取る。キャスターがゆるゆると床の上を転がっていった。
高坂の横を、何も言わずに通り過ぎていった。
「じゃあね…。」
バタンとドアが閉まった。
ドアの隙間から零れた灯りが、高坂の影を貫いていた。



咲の涙が、笹原の頬を流れる。声の振動が、心の奥まで揺らした。
笹原はゆっくりと咲の腰に手を回した。
「大丈夫だよ、カンジ…。私も一緒だから…。」
それは自分に言い聞かせているのだろう。応えるように、笹原は強く咲を抱きしめる。
ずっと一緒にいると、応えるように。

「アニキッ!!」
悲鳴のような叫びがこだまして、二人は弾かれたように声の方向に視線を走らせる。
掠れたセンターライン。
恵子が立っていた。ゼェゼェと息を乱して大粒の汗に肌を光らせて、
薄手のキャミソールの裾が、太腿にぴったりと張り付いていた。
蒼褪めた顔に、目は見開かれていて、唇はわなわなと震えている。
その後ろからフラフラになって付いて来る斑目と大野の影が見えた。
「なあ………、ナニしてんだよぉ………。」
恵子はゆっくりと二人に近づく。
笹原と咲は、目を逸らした。
「なあ………、アニキッ!!」
恵子の両手が、兄の両肩を掴む。
失望と絶望と、一縷の願いを込めた瞳が、笹原を責めていた。
「どうなんだよッ!!」
「ちょっと恵子ちゃん! どうしたの!」
追いついた斑目が取り乱した恵子を笹原から引き離そうとする。
恵子はただ笹原の顔を睨んで、それを拒んだ。
笹原が呟く。
「いいんす…。斑目さん…。」
「は? 何がだよ?」
そのとき、斑目は笹原が泣いているのに気づいた。
そして、笹原の影に佇んだ咲に気づいた。
咲は片手で口を抑え、目からは涙が溢れていた。
「あれ………? なんで…? 春日部さん…?」
咲は何も言わない。ただ手で嗚咽が漏れるのを堪えている。
斑目の手から、力が抜けていった。
「ちょっと…、なんだよコレ…。」
斑目は笑いながら笹原を見た。

笹原と春日部さんが一緒に居て、二人とも泣いているなんて、悪い冗談としか思えない。
いや、もう頭が混乱して、どうしたらいいのか、斑目には分からなかった。
「おい笹原…。どうなってんだよ…?」
引きつった笑みを笹原に投げかける。
笹原は目を逸らしたまま、言った。
「荻上さんと別れました…。」
「は?」
笹原は搾り出すように言葉を続ける。
「付き合ってるんです…、俺たち…。」
斑目は、ゆっくりと咲に視線を移した。咲は笹原の肩にしがみ付いていた。
一瞬、咲が上目遣いに斑目を見た。
その目は涙で潤んで、可愛らしくて、全てを物語っていた。
「冗談だろ…。」


「なあ…、笹原…。」


笹原は無言で応えていた。
斑目の両手が、笹原の胸倉を掴む。
「ふざけんなテメーーーーーーー!!!!!!!!!」
壁に笹原の背中を打ち付ける。
それでも笹原は小さい呻きを漏らしただけで、何の抵抗もしようとしなかった。
全てが本当のことだった。
「おまっ! 何やってんだよっ!!! 荻上さんと付き合ってんじゃねーのかよっ!!!」
今まで生きてきて一度も出したことのない声を笹原にぶつける。
振るったことのない力を笹原にぶつける。
「何だよソレっ!! あんだけ俺らの気ィ揉ませといて! 勝手に別れたとか言ってんなよっ!!」

斑目は睨みつけながら、怒りに奮える自分の醜さに失望していた。
荻上が可哀想なんじゃない。ただの醜い嫉妬なんだ。
自分では手に入らなかった幸せを手にしながら、それを捨てて、
自分では手に入れられなかった春日部さんを…。
情けなくて涙が出た。
見苦しい、最低の感情を笹原にぶつけている。
それが分かっているのに、どうしようもできなかった。
「やめてよ! 斑目!」
咲が斑目の腕に取り縋る。
咲が自分の腕に触れている。ずっと好きだった人の手が。
笹原を守るために。
「うっせー!!!」
咲の手を払いのける斑目。
困惑した咲の表情に、斑目は唇を噛んだ。
「なんでだよ…、春日部さん…。」
「斑目…。」
「春日部さん…、そんな女じゃないだろ? 人の彼氏奪うような…、そんな女じゃねーだろーがよ…。」
哀願するよな目で、斑目は咲を見つめていた。
「もっと…、ずっとずっと、すげーカッコいい…、すげーいい女だろーがよ…。」
斑目の悲鳴のような声は、静まり返った道路を照らす街灯のように、淡く寂しく響いた。
咲は、目を伏せていた。
「ちがうよ…。」

「私、こんななんだよ…。立派でもない…。カッコよくもない…。バカで…、弱いんだよ……。」
斑目は、ぐちゃぐちゃになりそうな表情を必死で繋ぎ合わせた。

「こんな最低な女なんだよ………。」
「そんなわけねーよ! そんなの…、俺の知ってる春日部さんじゃないよ!」
「斑目…、私のことなんて何も知らないでしょ…。」


乾いた音が、咲の頬を打った。


斑目は驚いて呆然としている。
恵子の掌が、咲の頬を打っていた。
「ふざけんなよ………。何にも知らないで………。」
恵子の泣き腫らした目が、鋭く咲を睨んでいた。
「斑目さんも、アタシも、どんな気持ちでいたか…、何にも知らないくせに………。」
呆然として、咲も、笹原も、立ち竦んでいた。
「アタシ…、憧れてたんだよ…。ねーさんのこと…。ずっと…、ねーさんみたいになりたいって…、ずっと思ってたんだよ…。」
恵子はバッグから財布を取り出すと、中にあった紙幣を握り締めて、
咲の投げつけた。
「バイトなんかもう辞める! ねーさんみたいになんか、もうなりたくない!」」
恵子は顔を両手で覆い隠した。でも、もうそんなことで感情を抑え付けるのは、無理だった。
「ふざけんな…。ふざけんなぁ………。ふざけんなよぉぉ……。」
身を切るような声で、恵子は泣いた。
笹原も、咲も、何もできずに、それをただ突っ立って、ただそれを見ていた。
それしかできなかった。

恵子の肩を大野が優しく抱き寄せる。腕一杯に泣きじゃくる恵子を包み込んだ。
「行こ…。………ね?」
大野の腕の間で、恵子は小さく頷いた。大野はゆっくりと恵子の背中を擦る。
母親のように、恵子の嗚咽をなだめていた。

恵子を抱きしめたまま、大野は荻上の家の方向へ歩き出した。
「行きましょ、斑目さん。」
「ああ……。」
斑目は俯いたまま笹原と咲を一瞥して、大野たちの後に続いた。
背中に影を落として、革靴はずりずりとアスファルトに削られていた。
「笹原さん、咲さん。」
そして大野が、前を向いたまま二人に言った。
「もう部室には来ないで下さい。できれば大学にも。」
それはきっぱりとした口調だった。
それは決別の言葉だった。
「私は二度とお二人には会いたくないです。」
やがて大野たちは夜の向こうに消えていった。

誰もいなくなった道の片隅で、二人は街灯に照らされていた。
明かりの中に閉じ込められたように。
たった二人だけでそこに居た。お互いの手を決して離さぬように握り合って。

終わり



エピローグ

四年後―――――――
(脳内で『ラブストーリーは突然に…』を流して下さい。)

コミフェスのコスプレ広場は今年の夏も活況を呈している。
カメラを手にした全国津々浦々から集ったオタクたちが、彼女たちを取り囲んでいた。
彼女たちの今回のコスは某吸血鬼漫画のキャラたちである。
旧姓大野こと田中加奈子は吸血鬼化してしまった執事。
アンジェラは本物の吸血鬼として覚醒した婦警(片手はくるくるの真っ黒な着ぐるみ)。
スーは本編の外伝に登場した幼女の伯爵。地球温暖化の進んだ夏には辛そう衣装なのに、顔色一つ変えていない。
そしてもう一人、シスターのコスをした女の子が恥ずかしそうに加奈子の足にしがみついていた。
「へぇ…。田中さんとこってもう子供いたんだね。」
人ごみの一番外側に、バックパックとキャップ姿の笹原が居た。
「いくつなんだろ? 3つくらいかな?」
「そーだね。大野が卒業した翌年に結婚したはずだから、そのくらいだろうね。」
咲は長く伸びた髪をアップにまとめていた。
咲はつま先立ちに、加奈子の足の隙間から見え隠れするチビッコに目を凝らした。
まだ掛け慣れないメガネを持ち上げる。
女の子はチラっと顔を覗かせては、カメラのフラッシュに怯えている。
思わず笑みが零れた。
田中から『結婚しました』という葉書が届いた時は嬉しかった。
純白の衣装を纏った二人の写真。その上に田中のメッセージが添えられていた。
『式に呼べなくてスマン。大野さんはまだ怒ってる。これも送ったとバレたらマズイので、
 お祝いとか気にするなよ。お前らも早く幸せになれ。』
そして最後に誇らしげに。
『ウエディングドレスは俺の手作りだ!』
と、あった。
それで少しだけ救われた。

「行こっか。」
「うん。」
二人は会場の中へ歩き出した。笹原の指がカタログのあるページに挟まっている。
『ゆ』のページ。
サークルカットは『ハレガン』の大佐のキメ顔だった。

懐かしい筆頭が人ごみの向こうに見えた。
緊張に耐えかねて、笹原がこぼす。
「うわ………、帰りてぇ………。」
「同感………。」
それでも着実にそこに近づいていく。今日はそのためにここに来た。
あれ以来、一度も行かなかった夏の同義語のイベントに。
「荻上さん………。」
彼女は昔のままの姿でそこにいた。
Tシャツの上に一枚シャツを羽織ったファッション。そしてトレードマークの髪型。
そしてちょっと不機嫌そうな顔。
これは本当に不機嫌なのかもしれないと思った、でも。
「わ! ほんとに来ましたね。」
二人に気づいた荻上は、照れ臭そうに笑ってくれた。
それは嘘かもしれないけど、二人に優しい嘘だから、
やっぱり荻上は笹原と咲が仲間だった、あの頃のままだった。
「どうも…………、こんちわ………。」
「荻上…、久しぶり………。」
笹原も咲も、躊躇いながら、ぎこちなく笑っていた。
荻上の目が、二人をじろりと見つめる。
笹原の帽子の隙間から覗いた茶色い髪を荻上は目ざとく見つけた。
「髪、染めたんすね…。」
隠すために帽子を被ったわけじゃなかったけれど、何となくそれは見られたくなかった。

「まあ……、何となくね…。」
笹原はどうにか間を持たせたくて、目の前の本を手に取る。
「これ荻上さんが描いたの?」
「そうですよ…。新刊です。」
「………………見ていいかな?」
荻上は少しだけ顔をしかめる。
「別にいいですよ。呪われますけど…。」
二人は苦笑いで動揺を誤魔化した。冗談なのか、本気なのか。
そんな二人を見て、荻上は意地悪そうに笑う。
笹原と咲はほっとため息をついた。
そして本の中身を見て、息を飲んだ。
「荻上………、ほんとにコレ書いたの……?」
「さらに腕を上げたね………。」
「まあ…、アシスタントで随分鍛えられましたからね………。」
「いや、画力だけじゃなくて………、うわ! このページの大佐………。」
「リアルハードコアだね………。」
本を閉じて、呼吸を整える二人。頬はほんのりと赤い。
「いや~………。」
なんと言ったものか…。
「大佐って受けだったんだね…。」
言った側から後悔した。
荻上は気にも止めてない風に淡々としている。
「まー…、ちょっとしたチャレンジです。」
「そうなんだ…。」
咲は軽く眩暈を覚えていた。
「今はアシスタントしてんだね…。」
「ええ。田中さん言ってなかったんですか?」
笹原たちが聞いていた荻上の近況は、大学を中退したということだけ。
その後の荻上について、田中は話すのを避けているようだった。

今思えば、編集者である笹原に気を使ったということなのだろう。
「もともと大学は田舎を出る口実でしたから。やりたいことできるなら、卒業とかどーでもよかったんです。」
そう言った荻上の表情は、強く、凛としていた。
笹原は小さく鼻をすすった。
(やべ………、泣きそうだ………。)
目を瞬かせる笹原。
あれから荻上はしっかりと、自分を失わずにいてくれたことが、嬉しかった。
ずっとそれが気がかりで、申し訳なくて、自分たちが幸せになることにも罪悪感を感じていた。
悪いのは自分たちだと、そう思うことで逃れようとしたこともあった。
でも、そんなのただの偽善でしかない。ただの恋愛の終わりだと、割り切った。
そのつもりでいた。だがそれでも、心のしこりは消えなかった。
笹原を見上げて、荻上は言った。
「笹原さん………。」
急に荻上が神妙な声を発した。
笹原と咲に緊張が走る。
「昔の女が、いつまでも自分のこと思ってる…。なんて考えてたんですか?」
荻上はそう言って笑った。目は眩しいくらいに輝いている。
笹原の体からスッと力が抜けた。
「はは……、ビバップだね……。」
咲が怪訝そうに尋ねる。
「ビバップ?」
「いや………、一昔前のアニメネタ………。」
咲は、もう慣れたよ、といった体で笑った。
それを見て、荻上も微笑んでいた。
「春日部先輩もメガネ似合ってますよ。」
「はは……あんがと。急に目に来ちゃってね…。」
「コンタクトじゃないのは笹原さんの趣味ですね。」
「いや………、まあね…………。」

笹原は自然と出た苦笑いに安堵していた。正直、こんな自然に話せるとは思っていなかった。
自分たちがしたことを考えると、罵声を浴びせて追い払われても文句は言えないだろう。
それなのに、何事もなかったように迎えてくれた。
申し訳ない気持ちで、胸が詰まった。
「って言うかもう春日部じゃなかったですね。」
荻上の言葉に、二人はドキっとした。それを言うために、今日はここに来ていたから。
あの時の犯した罪に対する、けじめとして。
笹原は、上手く動いてくれない口を拭うように触った。
無意識に、咲の手を握っていた。
「まあ…、田中さんから聞いたと思うけど…。籍入れたんだ、俺たち。」
二人は荻上に視線を落とす。
荻上は、一際輝いた笑顔を二人に見せていた。
「おめでとうございます。すいませんね、式に顔出せなくて。」
「まあ…、実際来てくれたの恵子と斑目さんぐらいだったからね。それも身内のよしみだし…。」
「皆さん義理堅いですねぇ。もう昔の話だって言ってんのに。」
「あの二人の披露宴には出てあげてよ。俺たちは式だけ出てすぐ帰るから。」
「だ~か~ら~、やめて下さいって。」
二人は微笑んでいた。
ああ、この人は本当に強くなったんだと、二人は思った。
それは自分たちのしたことのせいかもしれないと思うと、胸が痛いけど。
その罪は一生消えないけれど。
身勝手であることは分かっているけど。
ただ荻上が笑っていてくれたことで、救われていた。

「そうだ! 指輪、見せて下さいよ。」
華やいだ荻上の声に、二人は照れながら左手を揃える。
プラチナのシンプルなリングが、薬指に光っていた。
「いいなあ…。」
小さく荻上は呟いて、二人は微笑んだ。

ふと、笹原は荻上の隣に座っている男性が目に入った。色白の、少し頼りなそうな風貌の。
笹原も咲も知らない人だった。
「もしかして彼氏?」
咲が思わず聞いた。笹原はあちゃーと思ったが、荻上は満面の笑みで応える。
「そうですよ!」
これには当の男性の方が驚いていた。
「そっか…。」
全く、男というのは本当にどうしようもないな。
ちょっとショックだった自分に、笹原は自嘲を漏らした。。
「言えた義理じゃないけど…。お幸せに…。あ、そうだそうだ。本のお金…。」
「いいですって。あげます。」
それじゃ、と言って二人は軽く会釈する。
荻上は小さく手を振った。

とそのとき、笹原と咲の前に夏には有り得ないロシア風の帽子とロングコートの人物が立ちはだかった。
スーだ!
「あ…、ども…。」
ビビる笹原をよそに、スーは拳を握り、自身の耳元でそれを構えた。
「AAAAAAAAAA――――――――。」
呻き声を上げて、金髪を靡かせて笹原に歩み寄るスー。
(はっ……、これは!)
「ぬんっ!」
見事なボディーブローが笹原の臓腑を貫いた。
「がッ、はア。」
悶絶する笹原を、咲が支える。
「!?」
荻上もイキナリの攻撃にドキマギしている。

スーは笹原の眼前に立ち、掛けてもいないメガネを直す仕草をした。
「行ケ、サッサト行ケ。夏コミノ『シンカン』ダ。モッテ失セロ。俺ガ貴様ラヘノ殺意ヲオサエラレテイルウチニダーーー!!」
スーは見えないバヨネットで十字を作り、キメた!
「うう………、アンデルセンだね…。」
「は? 童話がどうしたの? アンデルセン童話も本当はこんなにバイオレンスなの?」
「いや………、そうじゃなくて………。ま、いいや………。」
よろよろと立ち去る笹原を、スーは鼻息をふーーーんとして見送った。

「スー!! 何やってんの!」
荻上の怒声にブー垂れるスー。しかし表情はやり切った顔をしている。
荻上は恥ずかしそうに、席に着いた。
「アレくらいとーぜんですよ!」
「ひっ!」
突如背後に出現した大野に荻上は悲鳴を上げた。
大野は疲れて寝てしまったあの子をあやしている。
「荻上さん、優しすぎますよ。あんなゴミ野郎は刺してやればいいんです!」
「見てたんですか! つーか子供抱いたままそーいうこと言わないで下さい!」
「私が知らないとでも思ったんですか? ウチの旦那はとっくの昔に自白済みです。」
荻上はポリポリとわざとらしく頬を掻いた。
結婚してからの加奈子は裏と表が逆になっていたのを失念していた。
「ヌカった…。」
落ち込む荻上を見て、加奈子は大きなため息を漏らした。
「漫画以上に…、嘘が上手くなりましたね、荻上さん。」
「…………。」
「何が彼氏ですか。実の弟つかまえて。」
隣で弟君が、バツが悪そうに小さくなっている。
「俺も焦ったよ。ねーちゃんがイギナリ彼氏とか言い出すんだもんよ。」
「うるさいなーー! おめーはだまっでろ!」
口を尖らせる荻上に、加奈子はさらに大きなため息を浴びせた。

そして、真剣な目をして荻上に言った。
「ほんとに良かったんですか…、何も言わないで…。」
「いいんです!」
「良くないでしょう? 大学辞めて、子供まで産んだのに!」
大野の言葉に、荻上は顔を真っ赤にしてうぅーーと唸った。
「一人で産んで育てて。あのクズはそんなの何にも知らないんですよ。父親のくせに!」
「いいんですよ。」
「お金ぐらいフンダくってやればいいじゃないですか! 何なら私が…。」
「いいんですよ…。もう昔の話なんですから…。」
荻上は立ち上がって、寝息を立てる子供の頭を優しく撫ぜた。
「私、幸せなんですよ? この子と二人で…、今すっごくすっごく幸せなんです。
 この子が歩いたり、喋ったり、遊んだり、泣いたり、笑ったり、それ全部独り占めできるんですから。」
大野の胸から、荻上は子供を抱き上げて、全身にその心地良い重みを受け止める。
「こうしてるだけで、本当に幸せな気持ちになれるんです。頑張ろうって思えるんです。」
照れ臭そうに笑う荻上に、加奈子は瞳を潤ませた。
「嘘ばっかり…。一(ハジメ)なんて、未練タラタラの名前付けたくせに…。」
「今は違うんですよ!」
反論する荻上の口を塞ぐように、加奈子は全身で荻上を抱きしめた。
「子守ぐらいなら、いつでも言ってくださいね。」
「ありがとうございます。でも…、コスプレはやめて貰えませんか?
 特に女性キャラは…。ハジメも男の子ですから…。」
「………すいません。それは却下で…。」
大野の胸に、荻上が微笑んだ感触がした。
「しょうがないなあ………、ほんとに………。」
荻上はそう言って、筆のように結った髪を解いた。
そのときに、夏に始まった恋が終わった。


終幕