筆茶屋はんじょーき0 【投稿日 2006/04/15】

筆茶屋はんじょーき


時は泰平の江戸時代。
江戸市中に一軒の茶屋があった。
「荻上屋」という立派な看板があるにもかかわらず、その店の看板娘から、その店は
『筆屋』
と呼ばれていた。

”筆茶屋はんじょーき”

この『筆屋』、もともとは某家の家老まで勤めた、荻上某が道楽で始めたものだった。
商品も煎茶にだんごしかない。
場所も良くはない。
事実閑古鳥の鳴いていたこの店が、現在そこそこに賑わっているのは、数年前からこの店の看板娘を務めている、”千佳”と言う名の娘のおかげだった。
彼女の過去は、決して明るくなかった。
元々彼女は、東北の小藩の武家の娘だった。
彼女には巻田某という、幼い頃からの幼馴染かつ許婚がいて、その未来はすでに定まっていたようなものだった。
しかしとある事件によって彼女の運命は大きく変わった。
きっかけはささいな事だった。
家老の娘、中島某たちとのたわいのない会話。
「巻田の息子って、衆道っぽいよね~」
そこから始まった巻田主役の艶本は、いつの間にか家老の手に渡り、衆道嫌いで鳴る領主の勘気を蒙り、当人は廃嫡となり、関係者は中島某を除いて追放された。
千佳は一人江戸へ出たが、不慣れな土地での生活がうまくいくはずもなく、仕送りを巻き上げられ、路頭に迷っていたところを老荻上夫妻に救われたのだった。
彼女は献身的に老荻上夫妻に仕え、結果、もともと子の無かった老夫妻に気に入られ、荻上家の養女となったのだった。
それ故に彼女は「荻上屋」の看板娘となった。
義理の両親の薦める見合いを避けるために。

浪人、笹原完士の生活は苦しい。
素寒貧といって良い。
御宅流の目録までいった身とはいえ、押しが弱く、つい相手のことまで考えてしまう優しさが、この男から立身出世の機会を奪っていた。
彼と『筆屋』の看板娘との付き合いは、ずいぶんと情けないものだった。
当の『筆屋』の前に、笹原は空腹に行き倒れ、だんごと茶を恵んでもらったのだった。
以降、なにかあれば手を貸す、という約束でだんごと茶をたかっている。
むろんそれは彼にとって心苦しいものだった。
それでも、彼にしては珍しい事に、その縁を切ろうとはしなかった。
その理由が何なのかは、これまでを剣術修行に明け暮れた笹原には見当もつかなかった。

「おはようございます」
使用人の言葉で目を覚ましたふりをする。
すでに目は覚めている。
それでもふりをする。いつものことだから。
春日部藩、江戸別邸。
すでに他藩に嫁いだ姉や、亡き母にかわり、ここには咲姫が名目上の領主を務めている。
領国では側室に男児が生まれたと、すでに聞こえていた。
彼が長ずるまでの繋ぎ。
自覚はしていても、家臣のそれらしき態度は気に障る。
だから今日も着替えて市中に繰り出す。
いつの間にか傍にいる、高坂に気付かぬふりをして。

「うあぁあぁぁああ…」
布団の中で浪人、斑目は二日酔いの頭を抱える。
夕べは親友の、田中の婚約発表に付き合わされ、朝まで飲んでいたからだった。
斑目は二人に、心から祝福を送っていた。いや、今だってそうだ。
それでも今の自分を省みると、うらやましさと、ねたましさが襲う。
そんな時にはいつも、彼の女神が降臨する。
いつか見かけ、言葉を交わした、見たことも無い仕草と、言葉を話す彼女を。
彼女は女なのに複数の男を軽くあしらい、叩きのめされた斑目に笑いかけるのだ。
「大事無いか?」
それだけで斑目はいきり立つ。
自分が仕えるべき主君を見出したと。

「真琴様?真琴さまー!」
「まったく、一体どこにいってしまわれたのだろう?」
「直参旗本三千石の後継ぎにあらせられるお方が…」
最終更新:2006年04月25日 04:46