壁の向こう側 【投稿日 2006/04/15】

カテゴリー-斑目せつねえ


 八月も終わりに近づいていた。
日中の強烈な日差し。アスファルトの焼ける匂い。蝉の鳴く声。
ふと去年の今頃、軽井沢で合宿をしたことを思い出した。

あのころに戻りたい。不安や後悔が自分を苦しめる前の、あの頃に。
…もし、戻れたとしたら?俺はどうするんだろう。
後悔のないように行動できるんだろうか。

もし、なんて仮定に意味はないけれど。

それでも一時期よりはだいぶ気持ちが落ち着いてきた。二ヶ月ほど前、自分がおかしくなっていたことを思い出す。
鬱陶しい梅雨の時期、気分がどん底にまで落ち込んでいた時期。
…もしあの時、春日部さんが気づいてくれていなかったら、俺はどうなっていただろう。
未だにずっと暗い顔で日々を送っていたのだろうか。

もし、なんて考えても意味はないけれど…いや。
そう仮定することで、今の自分を見つめなおすことができる。
そんな風にならないように、自分を奮い立たせることが出来る。

あの日のことは今でも、毎日のように思い出す。
『迷惑かけてくれないほうが悲しいよ』
…この言葉を、きっと一生忘れないと思う。

 斑目は会社帰りに新宿に来ていた。久しぶりにここの同人ショップに寄るためだ。
駅からゆっくりと歩く。今日も人が多い。
(…そういや、春日部さんもここに住んでるんだっけ)
そう思うと、少しそわそわする。
(…ま、そんな偶然に会えるワケないか…)
軽く首を振り、歩き続ける。

同人ショップから出るともう日が暮れていた。最近日が落ちるのが少しづつ早くなっている。
手に持った紙袋には同人誌が10冊ほど入っている。昔に比べれば大分買うペースが落ちた。
(俺も年取ったかなー…)
思わずそんなことを考えてしまう。

(そういや、春日部さんの店も新宿だったっけか)
通りをぶらぶら歩きながら考える。
同人ショップに寄ってから近くのラーメン屋で夕飯を済ませたところだった。
明日は平日だが、前に日曜に仕事に入ったので代休だった。だからあまり急いで帰ろうという気がしない。

(………俺はさっきから何を探してるんだろう)
自問自答する。自分でも呆れる。新宿という以外の手がかりがまるでないのに、漠然と探しても仕方ない。分かってるのに。
(そんな上手く見つからねーって)
だいたい見つけてどうするのか。女性の服屋なんかあまり入ったことがないし、声かけづらいと思う。
それに、いくら偶然に見つけたからって、急に行ったら引かれないか?
昔、新宿で春日部さんに声かけたとき、相当イヤな顔されたことを思い出す。
…まあ、声かけたおかげで、その後寿司屋に行けたんだが。

ぶらぶらしていたら、いつの間にか9時を過ぎていた。
(…帰るか)
ようやく諦めがついた。
(無駄だ、ムダムダ。もう疲れたよ…十分探し回ったろ………)
自分のやってることが空しくなってきた。
近くにあったショウウィンドウに自分の姿が移る。くたびれた猫背の自分。
(…はあ。本当に何やってんだろ…………。)
ショウウィンドウには女性物の服が飾られている。白っぽい色のワンピース。
淡い草色の、少し変わった形の透け素材の上着。ふわりと広がったスカート。
春日部さんに似合いそうだな…と考えていた。
もう店は閉まっていて、ウィンドウから見える店内は薄暗い。中で人の気配がする。店員のようだ。

そのとき、店員の一人と目が合った。

春日部さんだった。

(!?)
春日部さんはすぐにこっちに気づき、口をぱくぱくさせた。…何か言ったようだが、ガラス越しでは聞き取れなかったのだ。
(???)
思わず耳の横に手を当て、聞こえにくいことを示すが、たとえ大声をだしてもガラスが分厚いので聞こえないだろう。
春日部さんは人差し指で右の方を指し示し、自分も右の方向へ歩いていった。
(? あ、入口のほうか)
シャッターの閉まった入口のほうへと歩く。店の中から、がしゃんと鍵を開ける音が響いてくる。
(………つーか、会えちゃったよ……………)
諦めたとたんに見つけてしまった。我ながらびっくりだ。


ガラガラとシャッターが上がる音がして、春日部さんが出てきた。
咲「斑目!」
斑「…や、久しぶり」
とりあえず普通に挨拶してみる。何を話せばいいのだろう。今の状況をどう言い訳しよう。
………正直に言ったら引かれる気がする。
咲「えー、よくここが分かったね」
斑「い、いや!偶然!ホント偶然、通りかかってさ!」
(…ある意味『必然』と言えなくもない。あんだけ探し回ったらな…………)

咲「あーー、また同人誌買いにきてたんでしょ?」
咲は呆れたように笑いながら、斑目の持っている紙袋を指差した。
斑「あ、ああ、そうなんだよ、同人誌をネ…」
いかにもなロゴの入った同人ショップの紙袋のおかげで、言い訳せずに済んだ。
(…呆れられてるけどな。まあ、仕方ないか。)

斑「あ、もう閉店してたんだね…」
咲「うん、9時閉店だから。もう少しで作業終わるから、待っててくれる?」
斑「え、あ、わかった」
春日部さんは再びシャッターを上げると、中に入っていった。
この後も会ってくれるつもりらしい。
(時間かかったけど、探してよかったな。こうして春日部さんに会えたことだし…)
会って、言いたいことがあったのだ。

5分ぐらい経って、再び春日部さんが出てきた。さっきは着ていなかった上着を着て、鞄を持っている。


斑「あれ、もういいの?」
咲「うん、副店長の子が『閉店作業は私がしておくから、店長はお友達とゆっくりしてきて下さい』って言ってくれたからさ」
斑「ふーん、そっか」
咲「ゆっくりって言ってもねぇ、あんた明日は仕事でしょ?私は休みだけど、そうゆっくりはしてられないでしょ」
斑「いや、俺も明日は代休だから…とは言っても、もう9時半だからねぇ…」
咲「あーそうなの?」
斑「うーんじゃ、どっかその辺の店でお茶でも…」
咲「…斑目、私行きたいところあるんだけど、いい?」
斑「ん?いいけど、どこ?」


………………………


(………………………なぜ俺はこんな所にいる。)
少し薄暗い個室の中で、二人きりだった。
春日部さんが来たいと言ったのだ。

せまいソファに座ったまま、自分の頭が現状を把握するのに時間がかかっている。
春日部さんは部屋に据え付けの電話から、メニューから選んだ料理を注文している。
受話器を置くと、春日部さんはこっちを向いて言った。
咲「さてと。…あれ、斑目、何も入れてないの?」
斑「うーん………知ってる曲って言っても、アニメのとかぐらいだけど、いいのカネ?」
咲「別にいいよ、こっちから無理に誘ったんだし」
斑「あ、ソウデスカ」
なんかいつの間にか、カラオケ屋に行くことになっていたのだ。


斑「♪君のっ手で~!切り裂いて~!遠い日の記憶をーーー!」

歌っているうちになんだかテンションが上がって来た。選んだ歌のせいかも知れないが。
ハレガンの歌はオタクでなくても知っているだろう、と思ったので選んだのだった。

「♪悲しみの~、息の根を止めてくーれーよー、さーあ、愛に焦がれた胸を貫けーーー!!」

一曲歌い終わると、春日部さんは感心したように言った。
咲「へー、けっこう歌いなれてるんだね」
斑「もーこの歌は何回も歌ってますから」
咲「この歌けっこういい歌だよね。…あ、でもアニメの曲なんだっけ」
斑「最近はアニソンっぽくない歌が多いからねえ…昔の古き良きアニソンが懐かしい………」
咲「…良く知らないけどさ、昔のアニメの曲って、サビの部分で主人公の名前が何度も出てくるよね。
あれ、どうにかならないの?」
斑「それがいいんじゃないか!!」
咲「…やっぱわかんねー…」
春日部さんは首をひねっている。

咲「♪あのー虹をー渡ーってーー、あの朝に帰りたいー♪
あのー夢をー並べーてーー、二人歩いたGRAMOROUS DAYS♪」

(そういや、春日部さんが歌ってるとこ初めて見たな)
歌っているときは少し声が変わる。少し鼻にかかった高音。


歌い終わってから春日部さんが聞いてきた。
咲「…この歌は知ってた?」
斑「んー?」
咲「………映画の曲なんだけど。実写だけど、原作は『NANO』って言う少女漫画らしくて」
斑「ああ、『NANO』は知ってる!!」
咲「………うん、やっぱり偏ってるよね、興味が……………」
春日部さんは大きく溜息をついた。

咲「斑目、飲み物追加頼む?」
斑「え?あーそうね」
咲「ビールでも頼むかなー。あとおつまみとか…あんたは?」
斑「じゃあ俺もそれで!」

斑「♪消してーー!リライトしてーー!!」

咲「うーん、何歌おうかな…」

斑目の知らない曲を何曲か歌った後、春日部さんは考え込んでいた。
斑「あーなんか、ずっとでかい声出してたら喉渇くな!」
ビールを一気飲みする。
咲「私も元気出る曲歌おうかなー。なんかあるかなー」
斑「…リクエストは受け付けてマスカー?」
咲「へ?いいけど…何、アニメの曲じゃないでしょうね」
斑「アニメの曲しか知らんからね!!」
咲「いばるな!…でも私が知ってる曲で、何かあるかな?」


超有名なあの曲のイントロが流れ出す。

咲「♪呼吸を止めて1秒 あなた真剣な目をしたから♪
そこから何も聞けなくなるの 星屑ロンリネス♪」

斑「南ちゃんキターーーーー!!」
斑目はさっきフロントから借りてきたタンバリンで拍子をとる。

咲「♪すれちがーいや まわり道をー あと何回過ぎたら2人はふれあうのーーー♪
おーねーがーい タッチ タッチ ここにタッチ!あーなーたーかーらーーー!
手をのばーして 受け取ってよー ためいきの花だけ束ねたブーケーーーーー!」

咲「…ふう。友達がよくネタで歌うんだけどさ、初めてでも結構歌えるもんだね!」
春日部さんはそう言うなりビールを一気に飲み干す。
斑「テレビでよく流れてるからねぇ。アニメ『タッチアウト』も、よく再放送してるし」
咲「よーし!次いこう次!!なんか元気出てきた!あ、斑目、ビール追加。瓶三つくらい頼んじゃって」
斑「へいへい。次いこう次!!」
なんか妙なテンションになってきた二人であった。


咲「♪この頃 はやりの女の子~ お尻の小さな 女の子~♪
こっちを向いてよハニー!
だってなんだか だってだってなんだもん♪」

アニメ『セクシーハニー』の昔のOPのほうでなく、実写の映画のOP(庵○監督)のほうを、春日部さんはノリノリで歌っていた。


咲「お願いー お願いー 傷つけないでーー♪
わたしのハート~は、チュクチュクしちゃうのーーー
イヤよ、イヤよ、イヤよ見つめちゃイヤ~~~!  ハニー フラッシュ!!」

斑「ハニーーーーーーー!!!」

何故か拳を握り、演歌のように熱く歌い上げる春日部さんだった。
斑目はタンバリンを振りまくり、喝采をあびせる。

メンバーが二人とは思えないほどの、異様な盛り上がりを見せていた。

斑「いやーハニーはいいよね。ハニーはいいよ!」
酔ってきたせいか同じ言葉を繰り返す斑目。
咲「これはねぇ、何度か歌ったことあるんだよね!映画見に行ったし!
あーすっきりした。やっぱカラオケはいいね!!」
斑「そりゃ良かった。しかし春日部さんがアニソン歌ってくれるとはね、言ってみるモンだな!!」
咲「あーそりゃコーサカ………………」


春日部さんはそこまで言って、言葉を切った。

斑「…高坂とカラオケ行ったら、歌うの?あいつもアニソンばっかだからなぁ。」
斑目は気づかない風を装い、普通に返してみた。


咲「………………」
春日部さんは黙り込んでしまった。
(…気にしてねえって…高坂の話題くらい、今さら…。だから気にすんなって………(汗))

斑「春日部さん?どしたの…?」
咲「………………………」

春日部さんは俯いている。
斑「あのー、もしかして具合悪くなった?飲んで騒いでたから…。」
咲「………ちがう」
斑「へ?」
咲「そうじゃな………………」

ぱたぱたっ、と春日部さんの膝の上に水滴が落ちた。スカートにしみを作り、広がっていく。

(………………え?)
ぎょっとして春日部さんの顔を覗き込もうとしたら、春日部さんは両手で顔を覆ってしまった。
(な、え?な、泣いてる…??何で!?
…え、俺なんかマズイこと言った!?いや、言ってねーよな………何で………)

(高坂の話、か………?え、でも俺から振ったわけじゃねーし…
いや、待てよ…………。)

さっきから違和感を感じていたのだ。
今日の春日部さんは変だ。やたらテンションを上げようとして………
何というか『無理してる』感じだったのだ。

昔、部室が使えなくなったとき、春日部さんが急に泣き始めたことを思い出した。
あのときは、春日部さんが人知れず我慢していたところを、自分がトドメを刺してしまったのだった。
今の状態と、なんだか似ている。

(…やっぱ、何か言っちゃってたのか?)
自分では気づかないまま、失言をしてたのかも知れない。
斑「………あのーー、春日部さん?俺、なんか気にさわること言っちゃってたカナ?」
春日部さんは首を横に振った。
斑「じゃあ、何?どーしたの?」
咲「………………ごめん」

何で謝るんだろう。
そう思った直後、春日部さんがこっちの方によりかかってきた。


(………………………………春日部さん???)
びっくりして声が出ない。春日部さんは俯いたまま、こっちの胸に顔を押し付けている。
小刻みに肩が震えている。

(…高坂と間違えてないよな。いやいや、いくら酔ってるからって…)
首を振って否定する。…何か考えてないと、冷静でいられない。いや、もうすでにテンパってるんだが。

斑「………………」

触れているところが暖かい。春日部さんの髪からいい匂いがする。
曲を入れてないので、さっきからカラオケの曲別ランキングばかりが画面を流れている。
沈黙。…いや、かすかに春日部さんの息遣いが聞こえる。嗚咽を押し殺しているような声。

何で泣いてるのか、分からない。
しつこく聞くのもアレなので、春日部さんが落ち着くのを待とう、と思った。
おそるおそる右手を春日部さんの肩に伸ばそうとして、ためらう。そのまま拳をつくり、腕を下ろした。

「………………………………」
何だかいたたまれない。

しばらくそうしていたら、春日部さんが顔を伏せたまま、話し始めた。
咲「………ごめん」
斑「何で謝んの?」
咲「急に泣いたりして………」
斑「別に謝らんでも………………」
言いながら、もうちょっと優しい言い方ができんのか俺は、と心の中で自分にツッコミを入れた。

咲「………コーサカと会ってない。もう2ヶ月以上………」
斑「高坂のお仕事で?」
咲「そう。………1ヶ月って聞いてたのに、どんどん延期になって………………」
斑「ああ、そうなんか………ゲームだと、なんかディレクターとか変わったりすると、そういうこともあるような…」
咲「…知らないよ。もう仕事仕事って、そればっかり………」
斑「………………………」

咲「…分かってるよ。私だって仕事、大事だから。だから分かってる。
そんな風に言ったらコーサカが困ることぐらい分かる。でもさ、言いたくなるんだよ。
…今さ、自分の店の方も大変で………小売業は、2月と8月は全然売れないんだよ。
頭では分かってるけどさ、だからってこのままほっといていいわけじゃなくて………………。
店守ろうとしたら………1人切らなきゃいけないんだよ………」

斑「…え、切るって…辞めてもらうってこと?」
咲「嫌なんだよ!だからこの数週間、ずっとどこも切らずにすむように色々考えてた。
店の売り上げが回復するように、思いつくこと全部試した。でも………………。
どうにもならないモンだね………。
店長っていう立場上さ、店の子に弱音吐いたりできなくて…
どうしたらいいのか、もう答えは出てる。でも、それをしたくないんだよ。決断したくない………」

春日部さんはいっそう体を硬くしてしがみついてきた。
こちらの二の腕をつかんでいる。少し痛いくらいに。
自分をコントロールできないでいるのだろう。

さっきおろした右手を、春日部さんの背中に回した。
何も言えない。事情を良く知らない自分が何を言っても、春日部さんの助けにはならないだろう。
…ただこうしていることしか、できない。

少し前屈みになり、春日部さんをなだめるように背中をさする。
さっきから自分の心臓の音が、耳の奥でずっと大きく鳴っている。
…少しでも、ほんのわずかでも、春日部さんの痛みを請け負えたらいいのに。

「………………………」

(本当は…高坂に相談したいんだろうな………。
高坂に慰めてもらいたいんだろうな………………。)

(俺じゃ役不足だ………)


春日部さんが、斑目の二の腕をつかんでいた手を下ろし、胴の方へ腕を回してきた。
抱きしめられ、よりいっそう体が密着する。
…息が止まるかと思った。自分の心臓の音がより大きくなる。
余計なことを考えたくない、今自分と一緒にいる人のことだけで頭をいっぱいにしたい。
春日部さんが落ち着くまででいい。その間だけでいいから。

咲「…てない」
斑「え?」
ようやく春日部さんが喋った。

咲「してない。もう2ヶ月以上………」
斑「え?何が?」
…そう聞いてから、気がつき、ひどく慌てる。
(えええーーー!?そ、そんな相談されても………(汗))

咲「コーサカと………」
斑「ふ、ふーーーん………………(汗)」
咲「でも、コーサカは平気そうなんだもん…腹立つ…。
いくらそういうゲーム作ってるからってさ……………!!」

(何てコメントすればいいのやら……。)

斑「あ、あーそうだ、じゃあさ、高坂に頼んで女性向けのエロゲー作ってもらえばどーカナ!?高坂の趣味も理解できるし、一石二鳥!!」
あえてセクハラ発言を強行してみた。
それで、笑うなり怒るなりしてくれればと思ったのだ。

でも、どちらの反応もしてくれなかった。


咲「浮気したら高坂、怒ってくれるかな……」
斑「は?」
咲「傷ついてくれるかな………少しは………………。」


(………………………………流そう。うん。ここは流したほうがいい!)

斑「え~…、どうだろ…そりゃ傷つくとは思うけど………。
でも、しないでしょ春日部さんは…そんな仮定自体、意味ないと思うけど………………。」
咲「………………」
斑「なんか春日部さんらしくねーよな…そんなこと言うの……」
咲「斑目」
斑「はい?」
咲「私って魅力ない?」
斑「……いや、だからさー………」
咲「私のこと嫌いになった?こんなこと言って………」
斑「好きだよ!」
斑目は大声を出した。春日部さんの体を引き剥がす。

斑「どうしちゃったんだよ、いつもの春日部さんに戻ってくれよ!
おかしいだろこんなの…もっと強気でいてくれよ………」
咲「弱いよ、私は」
春日部さんは顔を上げた。頬には幾筋もの涙の痕があり、目は泣き腫らして真っ赤になっていた。


咲「というか、最近気づいた…自分が弱くて無力で…。いままで『どうにかなる』って思ってたけど、全然………」
斑「そんなことねーだろ………」
咲「学生の時には見えてたつもりだったけどさ………。いざ飛び込んでみると………。甘かった」
春日部さんは震えていた。再び涙が頬を伝い始める。
見ていられなかった。苦しみがじかに伝わってくるようで、ひどく心が痛かった。

咲「ごめん…がっかりしたっしょ」
斑「そんなこと………」
咲「ごめん、変なこと言って、ごめん………」
斑「浮気………」
咲「…え?」
斑「春日部さんがそうしたいなら………………」

斑目は春日部さんの頬に手を添える。涙で濡れた頬はすごく熱かった。
春日部さんは目を閉じる。瞼を閉じたとき、涙がひとすじ頬を伝って流れた。


怖い。ほんの弾みで壊れてしまいそうな気がする。
斑目はゆっくりと顔を近づけた。


そして、触れたかどうか分からないような、かすめるようなキスをして、すぐに顔を離した。


(………駄目だ)

息苦しい。罪悪感が胸に渦巻き、苦しくなるばかりだった。ひどく喉が痛い。
高坂に対してじゃない。春日部さんに対してだ。
春日部さんは絶対に後悔するだろう。そしてもっと自分を責めるに違いない。
確実に傷つける予感があった。
春日部さんがもっと深く傷つくのが分かっているのに、こうしているのが苦しかった。

顔を離してしばらくすると、春日部さんは目を開けた。
斑「…やめよう」
咲「………」
斑「やっぱ変だろ、こんなの…俺には向いてねえって…」
咲「………」
斑「あはは、はは…ご期待に添えなくてわりーんだけど………」
咲「…ごめん」
斑「いいって………」

そう言いかけたとき、春日部さんに唇を塞がれた。
(!!)
体重をかけられ、体をソファに押し付けられる。
後ろの壁で頭を打った。


振りほどこう、と思えば振りほどけたと思う。でもできなかった。
罪悪感が、少しづつゆるんでいく。
唇の柔らかい感触だけに、感覚が支配されていく。
どのくらいそうしていただろう。とても長い、でも一瞬の間だったような気がする。
ようやく顔が離れる。春日部さんと目が合う。
その赤くなった目を見て、急にまた現実に引き戻された。

斑「…何でこんなことするかなー………」
咲「ごめ…」
斑「必死で抑えてんのに………」
咲「ごめんね……………」

春日部さんは再び抱きついてくる。
こちらも抱きしめてしまう。
背中に回した腕で、春日部さんの背中をさする。薄い生地の上から、肌の体温を感じる。

(………………………)
さっきから、背中をさすっていると、引っかかるところがある。…多分、下着の線だ。
その部分を少しだけ、指でなぞってみる。
背中がわずかに震えたのが分かった。

(………………………………………)

斑「………春日部さん」
咲「……………」
覚悟を決めないといけない、と思った。


斑「春日部さん」
咲「…何?」
斑「俺さ、実は、さっきから………………………」
咲「………うん」
斑「トイレ行きたいんだけど」


春日部さんは体を離し、唖然とした顔で斑目を見た。
咲「……………は?」
斑「こんなときに悪いんですが!さっきからちょっと、我慢できそうにアリマセン。」
咲「………………………は?」
斑「すぐ行ってくるからさ、ちょっとタイム!」
咲「え、マジで?」
斑「こんなん冗談で言ったら怒るでしょ?」
咲「あーうん…勢いに任せてぶっ飛ばしてるね………………」
斑「じゃ、ごめん、ちょーっと待っててくれるカナ?」
そう言うと斑目は春日部さんをゆっくりどかし、ソファから立った。
そのままドアのほうに歩き、ドアの取っ手に手をかける。

咲「…帰るの………?」
春日部さんが小声で聞いた。
斑「何で?すぐ戻ってくるって!ほら荷物置いてるし」
斑目は同人ショップの紙袋を指差した。
咲「あ、ああ…そうか………。」
春日部さんを納得させてから廊下に出る。


………………………


斑目はタクシーの中にいた。
さっきから何度も携帯で電話をかけている。
(出ねぇ…くそ、早く出やがれ………!!)

出るまでかけるつもりだった。
もしこのまま出なかったら、仕事先まで乗り込むつもりでいた。

8度目のコールでようやく繋がった。
『………はい…もしもし………』
寝ぼけた声が答える。


高坂の声だった。


………………………


 さっき個室を出て、いったんトイレに寄って色々とクールダウンしてから、カウンターへ直行した。
朝の五時までのフリータイムであることを確認してから、二人分の料金を払い、「連れは朝までいるから」と店員に言い残してきた。
カラオケの店を出て、すぐにタクシーを拾った。
タクシーの中で、何度も高坂に電話をかけた。繋がるまで。

高『………はい…もしもし………』
斑「新宿の○□×っていうカラオケ屋に春日部さんがいる。」
高『……え?斑目さん………………?』
斑「新宿の○□×っていうカラオケ屋に春日部さんがいる。一人で泣いてる。」
高『………………』
斑「すぐに行け!体調が悪いとか明日が納期だとか関係ねー!全力で急いでこい!!
じゃないと俺がもらうからな!!」
高『斑…』
電話を切った。ついでに電源も切った。
乱暴に携帯をポケットに突っ込みながら、車の窓の外に目をやる。
しばらく車が流れるのを見ていた。ライトの光が流れていくのを見ていた。

高坂に嫉妬していた。すごく腹ただしかった。
誰かに対してこんなに腹を立てたのは初めてだと思った。
春日部さんに、あんな風になるほど想われていることが、ひどく羨ましかったのかも知れない。


………………………


咲はソファに座ったまま、うなだれていた。
15分経ち、30分経っても斑目は戻って来なかった。
怒って帰ったのだ、と思った。ドアを出るときは分からなかったけど。
きっと失望させたのだろう。

また涙が滲んできた。
後悔していた。傷つけてしまった。
私はどうかしていた。あんな風に傷つけていい相手じゃなかった。

咲はカラオケのリモコンをつかむと、適当にボタンを押して送信した。何度も繰り返す。入れられるぎりぎりまで曲を入れる。
曲が始まる。知らない演歌だった。音をできるだけ大きくする。
部屋いっぱいに音が充満する。これならどんなに騒いでも外に聞こえないだろう。
そうしておいて、咲は急に大声をあげて泣きだした。


どれくらいそうしていただろう。いつのまにか曲は全部終わり、また曲別ランキングが画面を流れる。
泣きすぎて頭がぼーっとする。虚脱していた。
そのとき、ドアが開いた。


一瞬、誰だか分からなかった。
咲「コー…サカ?何で………」
高「咲ちゃん………」
高坂は息をきらしながら咲の横へ来て、ソファに手をついた。
高「電話………」
咲「電話?…あ!!」
咲はあわてて自分の携帯を鞄から取り出す。
ずっと大音量で曲をかけっぱなしで、気づかなかったのだ。
咲「ごめん、気づかなくて………ずっとかけてくれてたのに………。でも、なんでここが…」
高「斑目さんが………………」
咲は目を見開いた。

高坂は咲を抱きしめた。
高「ごめん…咲ちゃん、ごめん………」
咲「コーサカ…」
高「さっき、全然電話繋がらなくて、焦った………………」
咲「…う、うう………」
高「ごめ………」
咲「謝んないで!!わ…私………浮気しようとしてた………
浮気したらコーサカに焦ってもらえる、なんて馬鹿なこと考えた……………」
高「…うん、そしたらきっと、ものすごく焦ってたと思うよ………」
咲「…ごめん。ごめ………!」
高「僕こそごめん。気づいてあげられなかった………」

高坂は震えていた。
咲はきつく高坂を抱きしめた。


………………………


あれから3日が過ぎた。
斑目は会社から帰宅しているところだった。
残暑が厳しい。むっとするような、重い湿気を孕んだ空気。夕方の強い日差し。
並木道を、影の下を通るようにしながら歩いた。

昨日も一昨日も、春日部さんの夢を見た。
春日部さんの体に触れ、いいところまでいくのに、肝心なところで目が覚める。
そんな夢だった。

ポケットの中で携帯が震える。
取り出してみると、春日部さんからのメールだった。
(………来たか)
予想はしていた。多分今日あたり来るだろうな、と思っていた。
斑目はすぐに返信した。


喫茶店の中に入る。春日部さんの姿を探して店内を見渡す。
奥の席で、春日部さんが手を挙げているのを見つけた。

斑「…やあ」
咲「斑目………………」
春日部さんは疲れた顔をして斑目を見上げた。

咲「………………………」
斑「………………届けに来てくれたんでしょ?」
咲「え?」
斑「同人誌。わざわざスマンかったね」
斑目は春日部さんの横の席に置いてある紙袋を指差した。あの時、カラオケ屋に置いて来たものだ。
斑「そんな恥ずかしい紙袋、持ってきてもらってスマンね」
咲「そんなこと………………というか、昔私に同人誌買いに行かせたくせに…」
斑「あー、そうだった。あはは………」
咲「…はい」
斑「どうも…………」
斑目は春日部さんの手から紙袋を受け取る。

「………………」
沈黙。会話が続かない。

咲「コーサカと会ったよ……」
斑「うん」
咲「…ありがと」
斑「いや…大したことしてねえし………」
高坂を呼んだだけだ。自分では役に立たないと思ったから。

咲「ううん…ホントに……………。」
春日部さんは俯いていた。ひどく悲しそうだった。こんなに悲しそうな顔、初めて見た。

咲「何か色々…言いたいことがあったはずなんだけど、お詫びとか、感謝とか…言葉にならなくて………………」
斑「いいよもう…」
咲「どうすればいい?…私は何をしてあげられる?」
斑「………………」
咲「このままじゃ………」
斑「…じゃあさ」
咲「うん…」
斑「俺と付き合ってくれないかな」

春日部さんは顔をあげて斑目を見た。斑目は寂しそうに笑っていた。
春日部さんは体を緊張させて、何かをこらえるようにぎゅっと目をつぶり、しばらくしてゆっくりと息を吐いた。
そして言った。


咲「…ごめん。私はあんたと付き合えない」
斑「うん」
咲「ごめ………。」
斑「じゃあ何もしなくていいよ」
咲「えっ?」
斑「俺が一番望んでることが叶わないなら、何もしなくていいよ。というかもう、気にすんな」
咲「斑目………………」
斑「大丈夫、気にすんなって。『迷惑かけてくれないほうが悲しい』からな」
斑目はそう言って笑った。

斑目は先に喫茶店を出た。太陽が向こうの街並みの輪郭を照らしながら、少しずつ落ちていった。
薄暗くなってきた中を歩く。時折吹く風が、少しだけ涼しくなってきていた。

この前、春日部さんの店を探していたとき、言いたいことがあったのだ。
自分が落ち込んでいたときに言ってくれた言葉に対して、お礼を言いたかったのだ。
…さっき、結果的にそれを言うことができたと思う。伝えられたと思う。

今回、自分で考えて行動できたのだから、だから後悔していない。………でも。
ふと、あのとき最後まで行っちゃってたらどうなっていただろうか、と思った。
自分も春日部さんも後悔するんだろう。…でもそれが原因で春日部さんは別れていたかも知れない。責任感じて俺と付き合ってくれたかも知れない。…そのうち、自分の方を本気で好きになってくれていたかも知れない。

もし、なんて仮定に意味はないけれど。

さっき、付き合ってくれと言ったことを思い出す。
(………………)
(………………………………………)

(やっぱり駄目だったなあ………少しだけ見込みあるかも、なんて思っちゃってたよ…………。
うん…でも、これで良かったんだよな。これで)
ようやく吹っ切ることができる。


斑目はゆっくりと家までの道程を歩いていった。道端に自分の影がどこまでも長く伸びていった。


………………………


咲は喫茶店の中でじっと座っていた。目の前のコーヒーはとっくに冷めている。
さっき斑目に言われたことを思い出していた。

『俺が一番望んでることが叶わないなら………』
『迷惑かけてくれないほうが悲しいからな』


(…そうだ。もう私には何もできないんだ。高坂を選んだから)
あの日、高坂がカラオケ屋に私を迎えに来てくれてから、たくさんのことを話した。
そのときようやくわかったことがあった。高坂が初めて話してくれたことだった。
高坂の、一見完璧に見える「強さ」の内側に、あんなに弱い、脆い一面があったことに驚いた。
今までの高坂に対するイメージが変わった。

でも。…それでもなお、好きだと思う自分がいる。惹かれる自分がいる。
自分が支えられるだけでなく、自分も高坂を支えたいと思った。
だから高坂を選んだのだ。

(……………でも)
咲は、自分がカラオケ屋で斑目に対してとった行動を思い出す。

あの時。
抱きつき、胸に顔を押し付けたとき、相手の鼓動が痛いくらい打つのを聞いた。
抱きしめ返されたとき、手が震えていたのを肌で感じた。
この人は本当に私のことが好きなんだと、胸が熱くなった。ここちよい安心感でいっぱいになった。

触れたかどうか分からないようなキスをされたとき、焦らされたような気分になった。
だからつい、キスしてしまった。
あの時、あの瞬間だけは、目の前にいる相手のことで頭がいっぱいになって、何をされてもいいと思った。…いや、私の方が求めていたのだ。


…このことは誰にも言えない。自分だけの秘密だ。
あのとき、最後までしてたらどうなっていただろう。傷つけて、後悔でいっぱいになって、今頃ボロボロになっていたんじゃないだろうか。
高坂も、自分も。…あの人も。
もし、なんて仮定に意味はないけれど。

でも、と思う。
それでも私は、高坂を選ぶのだ。きっと。

咲「ごめんね…選べなくて……………」
咲はもう何度めかわからない、謝罪の言葉をつぶやいてから、ゆっくりと息を吐いた。
冷め切ったコーヒーを残して席を立ち、店から出て行った。

                                END
最終更新:2006年04月20日 03:58