サマー・エンド4 【投稿日 2006/04/09】

サマー・エンド


中ジョッキが全員に行き渡たったのを確認すると、大野は荻上の肩をポンと叩いた。
「ささ、会長お願いします。」
荻上はやや顔を赤らめて立ち上がると、ジョッキを重そうに両手で掲げた。
「え~~~と…………………………、乾杯!」
ちょっとの沈黙の後でどっと笑いが起きた。
「ちょっと荻上さん、もっと何か喋って下さいよ!」
「いやぁ…、ムリっす…。こんなん慣れてなくて…。」
もう!と大野は呆れてビールに口をつけた。荻上も恥ずかしさを誤魔化すようにジョッキからビールを少しだけすする

金曜の夜、居酒屋の座敷の一室に現視研OBが集まっていた。
斑目、久我山、田中に、笹原、高坂、咲。現役の大野、朽木、恵子と、新会長に就任した荻上。
漸く全員の予定が整ってのOB会である。
「しかっし、もう7月かあ~。月イチでやろうとか言ってたのに。」
「そうですね~。いざ仕事始めるとなかなか集まれないもんですね。」
「まあ、お前とか高坂は忙しそうだもんな。」
「斑目さんは暇そうですよね。まだ部室行ってるんですか?」
「行ってねぇよ! …たまにしか。」
「行ってんじゃねーすか!」
お通しを摘みつつ、久闊を叙す斑目と笹原。注文した料理が運ばれてくると、一同の呑みのペースも上がってくる。
「そ、そういえば田中、引っ越すとか言ってたけど。も、もう決まった?」
大根サラダをシャキシャキと頬張って久我山が尋ねる。田中は照れ笑いを浮かべた。
「や~~…、まあ…、なかなかねぇ…。」
ボソリと零した田中の応えに、ビールから日本酒に移行していた大野の目が光る。
「もう! 早く決めましょうよ! ちゃんと一緒に住もうって言ったじゃないですかっ!!」
「そうだね…。決めないとだよね…。」

向こうではクッチーが一人寂しげに飲んでいる。
「ほら、朽木くん。こっち来ていっしょに呑もうよ。」
「うう~…、笹原さんの優しさ。不肖クッチー、一生涯忘れませ~ん…。」
隣の斑目は苦笑いで少し横にずれて席を開けた。
「朽木くんは新会員が入っても相変わらずなのネ…。」
「どうやら、新会員に早くも何かしちゃったらしいですよ…。」
「いやぁ…、ワタクシはフレンドリィに接しつつ先輩の威厳をばですねぇ…。」
「朽木くん…。何しちゃったの…?」
斑目の問いに荻上はブスっと口を尖らせた。
「言いたくありません!! おかけで一人逃げられたんですから!!」
「うううううう………。」
「まーまーまー。ただでさえ年上なのに会長になれない憂き目を味わっている朽木くんなんだから…。」
「ううう…。斑目先輩の優しさもワタクシ一生忘れません。このご恩はいつか必ず…。」
「いや、いいよ…。むしろ忘れて…。」

そんなこんなで宴は踊る。酒も進む。
と、荻上はすくっと立ち上がった。話していた笹原と斑目は二人して荻上の顔を見上げる。
目はとろーんとして、なかなかイイ感じに酔いが回ってる。
「ちょっとすいません。OBの方々にお酌してきます。」
「え。いいんじゃない別に。」
「いえいえ…、私は会長ですから…。ちゃんとご挨拶しなければ…。」
「いーっていーって。俺も笹原もそんなことしたことねーもんな。つーか、OBって初代とハラグーロしかいなかったんだけど。」
「いえいえ、私は皆さんを持て成す役目がありますからね…。」
そう言うとフラフラしながら大野の田中の間に割って入ってペタンと座った。
「さー田中さん…。楽しんでいただけてマスカ…。今日は大野さんへの日頃の不満を忘れてパーっとやって下さい…。」
田中の背中がビクッと硬直する。
「いや…、俺は不満なんてないよ…。」
「あれ…? こないだ言ってたじゃねーですか…。最近太ってきたとか、当初と性格が変わりすぎでついてけないとか…。」
「あはははっーーー!! 何言ってんだろねー荻上さん!」
田中はぽけーっとした顔の荻上の向こうの大野に視線を移す。
大野がかつて無い表情で田中を睨んでいた。
「荻上さん…、今の話、kwsk…。」
田中は死を覚悟した。

笹原と斑目はそれを苦笑いで眺めた。
「や~、頑張っておるね、荻上さん…。」
「はは…、そうすねぇ…。」
笹原は気まずそうにジョッキを口に運ぶ。斑目も釣られるようにビールを一口呑んだ。
「…………。」
「………。」
沈黙が二人の間に流れる。

斑目が言った。
「どうですか? 社会人になってもラブラブですか?」
「いや…、まあ…。」
はにかむ笹原。面白がって斑目は畳み掛ける。
「楽しいですか? 使えるお金も増えていろんなことしちゃってマスカ? 薔薇色の日々なんですか、笹原クン?」
「ははは…、そうっすね…。」
ニヤケ顔の斑目が嘗め回すように笹原を見る。笹原は顔を背けつつ、視界の隅に咲の姿を見ていた。
咲は高坂の隣に座って、楽しそうに話している。現視研での4年間、ずっとそうしてきたように。
眩しいくらいの笑顔を覗かせて、高坂と一緒にいる。
久しぶりに会った高坂は、やはり疲れているようだったが、今はそんなことを少しも感じさせない笑顔を、咲に向けていた。
何も無かったような、どう見てもお似合いの二人に、笹原にも見えていた。
「えーこのー! ラブラブなんだろー! 羨ましーなーコノヤロウ!!」
「ははは…、止めてくださいよぉ…。」
笹原はわざとらしいくらいに照れてみせた。
そんな自分に吐き気がした。
「そうでもないみたいよ。」
そう言ったのは恵子だった。いつの間にか、荻上の居た席に座っている。
ワインのグラスを片手に、荻上の取り皿に残った焼きソバをパクついている。
恵子の顔はアルコールに上気していたが、目ははっきりと冴えていた。
「ねー、アニキ。」
笹原はその問いかけに生唾を飲み込んだ。
自分を見る恵子の目は、真っ直ぐに伸びた人差し指のように鋭い。
「ねー。この前までケンカしてたんだもんねー。」
恵子はいつものようにニパっと笑った。笹原は無意識に視線を外し、ビールを喉に注いだ。
恵子が知っているはずはないと思ったが、あの目と向かい合うのは嫌だった。

「あれ? そうなの?」
「そーそー。でも~、もー仲直りしてぇ~、今は前以上にラブラブエロエロですってよ斑目さん。」
「そうなんですかっ、笹原クンッ!」
「ははは…、まあ…、ちゃんと仲直りしましたんで…。」
笹原は斑目に視線を向けて、愛想笑いを浮かべる。
「だよなー。そーじゃなくちゃヤキモキして君たちを見守った我々の立つ瀬が無いよぉ~。」
楽しそうな斑目の顔を見ると心が痛んだ。
また嘘をついた。また同じ嘘だ、と笹原は思った。
今日だけじゃなくて、何度も何度も嘘をついてきた。あの日から毎日、今の関係を壊したくなくて嘘をつき続けた。
斑目も、大野も、そして荻上も、いま自分たちがしていることは何も知らない。
自分がしている、ひどい裏切り。ただの浮気以上の、自分たちの仲間の一人であるサキとの関係。
それを知ったら、どう思うだろう。

(決まってる。軽蔑だよ…。)

笹原はまたビールを呑む。
ちっとも酔えやしない。笑い合う仲間の声も、表情も、どこか遠く感じて、他人のような気がした。
笹原は咲に目をやる。嘘をつかずに向き合えるのは、もうサキしかいなかったから。

「あ~…、高坂さん…、お忙しいところわざわざお越し下さいまして…。」
すっかり酔いが回った荻上は、高坂と咲の前に座り込むと大仰にお辞儀をした。
まるでカラクリ人形みたいに、しっかりと手をついて、ぺったりと頭を下げる。
高坂はいつもの笑顔で応えた。
「こちらこそ都合がつかなくて悪かったね。」
「すいません…。今日は大丈夫だったんですか…。」
「うん。漸く一区切りついたからね。久しぶりに皆の顔が見れて嬉しかったよ。ありがとう。」
ありがとう、という言葉に荻上は満面の笑みを浮かべた。

咲は思った。
(こういうことサラっと言えるのが、コーサカなんだよなあ…)
そして、荻上の笑顔から目を逸らす。
荻上がああいう顔をするようになったのは、笹原と付き合い始めたからだ。
それが分かっていた。
前の荻上なら、照れ隠しにムスっとした顔をしていただろう。それが自然にあんないい表情をするようになった。
笹原がいたからだ。笹原が好きだから、そんなふうに変われた。
全部分かっている。
「どうしました春日部先輩…。」
いつの間にか沈んでいたのだろう咲の顔を、荻上が覗き込む。その無垢な表情が咲の胸をさらに締め付けた。
「どうしたの咲ちゃん。ちょっとペース速かったかな?」
高坂の手が咲の肩に触れる。それは手の温もりは、もう安らぎではなく苦痛を与えていた。
咲はそれとなく体を捩って高坂の手を振り解いた。
「あー、ちょっと速かったかな…。もうそろそろウーロン茶にしとくわ。私は明日も仕事だからね…。」
咲は斜向かいに座る笹原を見た。
笹原も咲を見ていた。いや、たぶん私と荻上を見ていたのだろう。
(私と荻上が話すの見て、何て思うんだろう…。)
できるだけ普通にしようと思っていた。高坂にも、荻上にも、笹原にも、他の皆にも。
でもやっぱり、こうしていると胸が痛くて仕方なかった。
皆を騙していることが、自分が笹原を好きでいることが、苦しくて堪らない。
それでも、笹原の瞳の中に自分と同じ苦痛を見つけて、安心してしまう自分がいた。

笹原は咲の瞳の中に自分と同じ苦しみがあったことに、不思議と嬉しさを感じていた。
それが今、二人を繋ぐ絆だと思った。
咲がこんなどうしようもない状況でも、自分を好きでいることの証に思えた。
「へへ~、なにオギーを見つめてんだよ!」
恵子が笹原の頭を叩く。思わず口に含みかけていたビールを吹いた。
「汚ね~な~、サル。」
「お前がやったんだろ…。」
笹原はどさくさ紛れに恵子の顔を見た。もう目に鋭さはなく、優しい目をしていた。
視線の先には荻上がいた。
「ほんとさぁ~…、大事にしなきゃダメだよ~。」
恵子は小さくため息をつく。胸の底から、吐き出すように。
「アニキのこと好きになるヤツなんて、そうそう居ないんだかんな…。」
笹原は。
「うん…。」
頷いた。はっきりと、恵子が納得できるように…。
恵子はまたニパっと笑った。
「よーし、それじゃあーーー乾杯しよーー!!!」
唐突に恵子が立ち上がる。
「アニキとオギーの仲直りと、ラブラブな日々に乾杯だよぉーーー!!!」
恵子は目一杯の笑顔と声でワイングラスを高々と掲げていた。
あまりの勢いに、一瞬、場に奇妙な空気が流れる。
苦笑いしつつ、斑目もジョッキを掲げた。
「まあー、いんじゃね? おもしれーし。」
大野の追及に汲々としていた田中も乗っかった。
「そーカンパイ! ほらっ、大野さんも!」
「まーいーですけどねー。仲直りはメデタイですからね…。」
「カンパイするにょ~~~!」

高坂もグラスを上げる。
「あれ? 笹原君たちってケンカでもしてたの?」
荻上は目をパッチリと開いて赤面していた。
「ま……、ちょっと……、でもアレから笹原さんと更に恋人っぱくなれたかなぁ…ってナニ言っでんだが…。」
「なんですか! 私に泣きついてたくせに、そっちだけ良い雰囲気になって!」
「あははは…、いや恥ずかしいっす。」
荻上はふくれっ面の大野に遠慮がちに小さくグラスを上げた。
笹原と咲は黙ってグラスを上げていた。
精一杯の作り笑いが顔にあった。
「それでは現視研イチの二人を祝しまして、カンパ~~~イ!!」
「「「「「「「カンパ~~~イ!!」」」」」」」

まったく、なんつー、ひどい嘘だよ。


ランチタイムを終えた喫茶店は閑散としている。
お客は歳を取った小汚い男性が一人、奥の席に陣取っていた。
笹原と咲は並んで座っている。目の前には汗をかいたアイスコーヒーとアイスティーがあった。
古い冷房器具が店の奥で唸っていた。空気を吐き出し口にはビニールの帯がなびいている。
有線からジャズが流れていた。
窓から注ぐ光が強すぎて、店内は木陰のように暗く穏やかに時が流れている。
窓側の強い日差しを避けた席に、二人はいた。
二人はいつもと変わらない顔をしようとしていたが、ストローは袋からまだ出されてもいなかった。
笹原は時計を見る。もうそろそろだった。
「…来なくてよかったのに。」
咲が前を見たまま言った。笹原は咲に目をやる。
両手はテーブルの下に隠されていて、顔を見ないで気持ちを知ることはできなかった。
「そういうわけには行かないよ…。」
笹原は言った。

「俺たちの問題なんだから…。」
咲は笹原の手を見た。テーブルの上で所在無げに組まれた両手は、何度もその形を変えている。
不安です、と書いてあった。
笹原にとっては初めての別れ話だろうに、それでもついて来てくれたのは、正直嬉しかった。
「うん…。」
咲はそう言って、忙しなく動く笹原の手に自分の手を重ねる。
笹原の手は一瞬驚いたように止まって、そしてゆっくりと咲の手を握り返した。
手が少し冷たかったのは、冷房のせいじゃないんだ。

からんころん、と古臭い音がした。二人は慌てて手を離して、一斉に振り向いた。
もう高坂は二人を見つけていた。
「あ。笹原君も一緒?」
高坂は涼しげな笑顔で二人を見ていた。でも、やはり驚いていたのか、いやにゆっくりと席に着く。
店員が高坂にお冷を運んでいく間、二人は黙って俯いていた。
「ごめん、ちょっと遅れたかな?」
口は軽やかに動いていたが、高坂の瞳はじっと二人を見ている。
微笑を口元に湛えた、人懐っこい表情。円らで、真っ直ぐな目が笹原と咲を映す。
咲は思った。
カンのいい高坂のことだ。もう全部分かっているだろう、と。
顔を上げられなかった。

笹原が目の前のアイスコーヒーを取った。ストローも使わずにグラスから直接、口に運ぶ。
一口だけ飲んで、打ち据えるようにグラスをテーブルに置いた。
笹原は言った。グラスをテーブルに置く勢いの力を借りているようだった。
「…今日は、大事な話があるんだ。高坂君…。」
「なに?」
高坂は弾むような声で応える。表情は笑顔のまま変わらない。
それは自分を責めているように、咲には思えた。
笹原に目をやる。笹原の手が、もう片方の手を赤くなるほど握り締めている。

唇を何度も何度も湿らせようと、口を不恰好に動かしている。
それでも目は、はっきりと高坂を見ていた。
少し怯えながら。でもはっきりと。
「急に…、こんな…、話して驚くと思うけど…。」
「カンジ…。」
咲は手を笹原の手に添えた。握り締められた手は、すうっと力を失った。
「私が話すよ…。私が言わないといけないから…。」
咲は顔を上げる。いつもの凛として顔ではないけれど、それでも高坂の目を見つめる。
その目は自分に向けられているものだから。
自分が選んだことだから、自分で受け止めなきゃいけないと思った。
「私、カンジと付き合ってる…。」
咲は逃げようとする視線を必死で高坂に向けていた。高坂のいつもと変わらない笑顔が堪らなく苦しい。
咲は笹原の手を握る。
「だから…、……別れて欲しい。」
言葉の終わりはジャズの調べに消えてしまうくらいか細かった。
「ごめんね…。」
咲は涙が流れないように目を閉じる。そして笹原の手を、少しだけ強く握った。
笹原の手は汗まみれで、ベトベトに湿っていた。
自分の手もそうだった。

ふうと、高坂が息を吐くのが聞こえた。
そして次の瞬間、咲の手は高坂に手の中に奪われていた。
高坂はテーブルの上に身を乗り出していた。
「咲ちゃん。僕は咲ちゃんが好きだよ。」
目を開けると、寂しげに微笑む高坂の顔があった。
「僕は別れたくない。二人でやり直そう。」
高坂の手が暖かい。
外の日差しを閉じ込めたような、お日様に干した布団のような。
少し前までは、あたり前のように感じていた掌。

咲の瞳から涙が零れた。
「咲ちゃんは僕がいなくて寂しかったんだよ。」
笹原は不安げに咲を見た。
咲は何も言わない。
「ごめんね、一人にして。でも、もうしないよ。寂しいときはいつでも傍にいる。」
咲は何も言わない。
「一緒にいたいよ。咲ちゃん。」
咲は涙が止まらなかった。
ずっとそう言ってほしかった。それをずっと望んでいた。
店が上手くいかなくて、どうしようもないときに。
寂しくて涙が溢れた夜に。
一人で心細くて、悲鳴を上げていたときに。
もっと早くに、こんな気持ちになってしまう前に。

咲は高坂の手を優しく解いた。
「ごめん…。私はカンジのことが好き。カンジのことが、一番大事だよ。」
冷房の音が、一際鈍く響いた。
高坂の手は、咲の手の残像に触れていた。使い込んだテーブルはところどころ薄汚れていて、傷が目立つ。
テーブルの放つ奇妙な光沢。高坂の手は、その上で止まっていた。
咲も笹原も、その手を見ていた。それが自分たちがしたことだった。

手を引っ込めたときに、高坂は小さく笑っていた。
「まだ暫くは帰れないから、それまでは家賃入れてて貰えるかな。来月には新しい部屋を探すから。」
「うん…。」
「荷物を持っていくのはいつでもいいよ。今週はたぶん、ずっといないと思う。」
咲はハンカチで涙を拭く。取り乱さないように、できるだけ淡々と。
自分もつらいなんて思わせるのは、ずるいことだ。

「笹原君。」
笹原は顔を上げて高坂を見る。口元にもう微笑みはなく、少し疲れた美しい顔が自分を見ていた。
眉間にシワが僅かに寄り、目は鋭く尖っていた。
始めて見る高坂の顔だった。
「荻上さんは、もう知ってるの?」
言葉の終わりが、ナイフのようだった。
「これから言うんだ…。…それはちゃんとするつもりだよ………。」
「荻上さん、傷つくだろうね。」
乱暴に呟く高坂に、笹原は深く目を瞑った。
笹原に返す言葉なんてなかった。言い訳も、正当化のしようもなかった。
荻上にも、自分をなじる高坂にも。
当たり前の、当然のことなんだ。
「じゃあ、もう行くよ。」
高坂が注文表を取って立ち上がる。慌てて取り替えそうする笹原を手を、高坂は振り払った。
「笹原君に奢ってもらう理由ないから。」
からんころん、と古臭い音がして、高坂は出て行った。
苦い思いがした。
咲はまだ涙を拭いていて、笹原は髪を撫でようと出しかけた腕を、そのまま宙に漂わせていた。
笹原の顔は、女の子を泣かせてしまった子供の顔のようだった。
戸惑って、情けなくて、不器用で、自己嫌悪に歪んでいた。
思わず口から言葉が漏れた。
「ほんとに良かったの…、これで…。」
咲の顔はハンカチに隠れて見えない。涙交じりの声だけが笹原の耳に届いた。
「バカ…。そういうことは…、言っちゃいけないんだよ…。」

分かってた。
分かっていたけど、言わずにはいられなくて…。
自分は高坂みたいにカッコよくもないし、できない。
荻上も傷つける。
そんな自分を好きでいてくれるのか不安で、口走っていた。
最低だった。

ぎゅっと、咲が笹原の腕を掴んだ。
「そういうこと言っちゃうのが、カンジなんだよな…。」
咲は笹原を見上げる。崩れた化粧なんか、気にもしないで。
「私はカンジが好きだから。自分で選んだんだから…。後悔するときがあっても、最後はこれでいいって思えるんだよ…。」
笹原は顔を伏せる。涙が零れ落ちる前に、目を拭いた。
ゴシゴシと、何度も不器用に、涙を拭いた。


最終話につづく    たぶん・・・
最終更新:2006年04月11日 23:42