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サマー・エンド3 【投稿日 2006/04/02】

サマー・エンド


あの日から一ヵ月後。
また夏が来る。
7月はもう来週に迫っていた。
不思議なもので、あのカレンダーが一枚めくれただけで緑が一層鮮やかに輝き出すような気がする。
空も、自然も輝き出す、そんな気がする。
しかし、今はまだ梅雨の残りが街を濡らしている。
雨戸の向こうでは、きっとまだ雨が降っているはずだ。
笹原はふと思った。七夕の日には雨が降るって言うけど、今年もそうなのだろうか?
笹原は握った手に力を込めた。
「サキ………、起きてる?」
彼女は狭いベッドの上で笹原の腕を抱いている。
「うん…、起きてるよ…。」
彼女は小さく応えた。締め切った部屋に、電灯のオレンジで小さい灯りだけが点っていた。
「なに……。」
彼女は笹原の腕に頬を寄せて言った。こそばゆくて、笹原は少し身を捩った。
「うん…、あんね…。」
笹原は小さな光を見つめていた。瞬きをしても、その光が瞼に残る。
オレンジの光は、緑色に明滅して、瞼の裏を揺らめく。
笹原は迷っていた。自分の心の中に勇気を探していた。きっかけを探していた。
瞼の裏の、あの電球の残像が消えたら、言ってしまおう。
そう思っていた。
「どうしたの…。」
笹原は黙って目を閉じていた。
咲が自分の指を軽く握ったのが分かった。
笹原は目を開けた。
「あのさ…、大事な話があるんだけど…。」


咲は自身の唇に触れていた。
絆創膏を巻いた指先で、口の端から、緩やかな坂を越えて、その向こう側へ。
ひとつだけ暖かい光を放つ電灯を見つめながら。何度も、何度もそうしていた。
今日の朝に起こったことを思い出していた。
「ちわ!」
「わっ!!!!」
恵子に呼びかけられて、咲は叫び声を上げてしまった。店内のお客の視線は一斉に咲にへと注がれる。
「どしたの、ねーさん?」
むしろこっちがビックリした、と言いたげな顔で恵子が見ている。
「悪り…。ぼーっとしてたわ…。」
咲は苦笑を恵子に返した。背中に蒸せるような熱を感じる。
「へー! 模様替えしたんだねー! ナカナカいいんじゃーん! 昨日したの?」
「あぁ…、そうだよ…。」
他愛もない会話でわけもなく汗が出る。いや、わけはある…。
「大変だったんじゃないの、これー?! ねーさん一人でやったの?」
「そう!! 一人だよ!!」
咲は即答した。声が上擦っているような気がした。幸い恵子は感心したように店内を見回している。
「エライな~! やっぱねーさんスゲー!!!」
そう言って目を輝かせると、恵子は軽く咲に抱きついた。
咲は咄嗟に恵子を振りほどく。
シャワーを浴びていたけれど、体に笹原の匂いが残っているような気がしたから。


一瞬恵子が見せた驚いた顔に、咲は慌てて言葉を発する。
「い、いいから! 早く仕事しろ!」
「うぃーす。」
恵子は何事も無かった様子で、スタスタと店の奥に入っていく。
咲は小さくため息をついた。
「あれ? アニキ昨日来てたの?」
咲はまた叫びそうになって何とかそれを飲み込んだ。
「来てないよっ!」
咲の声には飲み込んだ叫びの余韻があった。
「そ~お? これアニキの時計じゃないの?」
咲は目を剥いた。奥から出てきた恵子の手には笹原の銀色の時計が引っかかっている。
慌てて取り繕う咲。
「それ忘れ物だよ。お客さんの…。」
「あ~、そっか…。アニキもこれと似たヤツしてんだよね~。」
恵子がそれをカウンターに置くと、咲はすかさず引っ手繰って、隠すようにカウンターの下の棚に置いた。
咲の目の下の隈が、より一層その濃さを増していた。
「ごめん…、ちょっと休憩してくるわ…。」
「うーす。いってらっしゃい。」
咲が店を出て行くと、恵子は棚から時計を取り出して、舐めるように見つめた。
(客の忘れ物って、これ男モンじゃん。………ぜってーアニキんだよ、これ…。)
恵子は時計を見たときの咲の表情を思い出していた。ひどく驚いていて、赤みの差した顔を。


「どうした笹原? 嫌いか、ネギラーメン?」
ズルズルとラーメンをすする小野寺の横で、笹原の箸は止まっていた。
「いいえ…。ちょっと寝不足で…。ははは…。」
苦笑いを浮かべると、笹原は止まっていた箸を口に運ぶ。
「うまいっすよ…。」
「その顔で言われても嬉しくないな。」
小野寺は冷たく言い放ってもくもくとラーメンを食べている。
笹原は再び苦笑いを浮かべた。
「仕事は慣れたか?」
「いえ…、まだまだです…。」
「まあな。そう簡単に慣れられても困るがな。今のうちにセイゼイ苦しめ。」
冗談だか本気だか分からない小野寺にも、笹原はまだ慣れていない。
だがこうしてたまに食事に誘ってくれるところから見ると、意外に面倒見はいい人なのだと思う。
小野寺はもうほとんど食べ終わっている。笹原も追いつこうするが、もう食べ切るのさえ無理そうだ。
(食えないって…。食欲ないよ…。)
笹原の頭は今朝のことで一杯だった。
不意にしてしまったキス。暗闇に浮かんだ咲の体、声、表情。罪悪感と、温もり…。
夜が明けて、何も言わずに別れたこと。始発に揺られながら何を考えていたのか、思い出せない。
家に帰って、シャワーを浴びて、仕事に行った。
まだ実感がなかった。夢の中の出来事だったような気がしていた。
自分がしたことが信じられないのかもしれないと笹原は思った。
(でも、現実なんだよな………。俺…、春日部さんとしちゃったんだよな………。)
どうしようという思いが駆け巡るばかりで、荻上の気持ちまで想像力が働いてくれない。
(逃げてんのかな…俺。………最低だな。最低のクズだな………。)
「疲れてるな笹原。」
小野寺の声に笹原はまた箸が止まっていることに気づいた。
「すいません…。」
「疲れをちゃんと取るのも仕事だぞ。疲れてると、とんでもないミスを仕出かすからな。」


嘘臭い笑顔の外人が、奇妙なカーワックスを勧めてくる。
チャンネルを換える。今度は簡単にみじん切りが出来る電動カッター。おばちゃんたちの感嘆のため息が癪に障る。
チャンネルを換える。韓国ドラマ。興味ない。
チャンネルを換える。ドキュメンタリの再放送。堅苦しい。
チャンネルを換える。美少女アニメ。
思わず手が止まった。
咲はカーペットに寝そべっていた。真夜中の部屋は取り残されたようにそこだけ灯りが点っている。
テーブルの上に開きっ放しの携帯が、同じように寝そべっていた。
薄暗い液晶の向こうには、『ごめん。今日も帰れないよ。』と映っていた。
咲はテレビ画面を見つめる。
大きな瞳の、赤い髪の美少女が元気一杯に笑っている。くるくると表情を変えて、怒ったり、泣いたり、拗ねたり。
咲は今にも眠ってしまいそうな顔で、それを見ていた。
HDDレコーダーの鈍い駆動音。高坂が録画予約をしたのだろう。
咲はそのアニメの向こうに、高坂を探していた。
「コーサカ………、帰ってきてよ………。」
咲は呟く。
「はやく……、今すぐ………、帰ってきて私を掴まえててよ……。」
涙が、カーペットを濡らしていた。
自分の呟いた言葉を聴く度、咲の心は揺らいで、零れた感情が涙に変わってしまう。
(ダメだ…。もう言うな…。)
そう思っても、心に落ちた言葉が作った波紋は大きな波となって咲を襲った。
もう自分でもどうしようもなかった。
「私………、私さ………。」
咲はぎゅっと瞼を閉じた。
「もう…、疲れちゃたよ………。」


「おらああ!! 呑め呑めーーー!! 呑んで全部はきだしちゃってくださーーいい!!」
泥酔した大野が缶ビールを掲げる。釣れて荻上も。
「呑みますよおお! 今日は呑みますっ!! いいですよね!大野先輩っ!!」
そう言ってチューハイをグビグビと煽った。
田中はツマミを置くと、またそそくさと台所に非難する。
「のんでくらいはいっ!! 呑むべきなんですっ!! ぜーんぶ笹原さんが悪いんですからね!」
大野も負けじと缶ビールをぷはーと空ける。
「だいたい優しくすればいいってのが間違いなんですよっ! そうでしょ荻上さんっ!!」
「そーですっ!!」
荻上の目は完全に据わっている。
「優しくされた方の気持ちも考えてほしいですよっ! なんですか? 優しくされなきゃ嫌いになるとでも思ってんですかっ!」
「まったくそーですよねー! 聞いてますかっ! 田中さん!」
田中は震えた。
「うん…、聞いてます…。」
荻上は、二度と酒なんて飲むもんか、と誓ったのが嘘のような呑みっぷりである。
「私だって笹原さんに優しくしたいんです! もっとワガママ言って欲しいし、甘えて欲しいんですよ! 
そーゆーのが恋人同士ってんじゃないんですか? 愛し合う二人じゃないんですかっ? 私はそー思ってんのに、笹原さんは!!」
「だめだーー、笹原さんはあ。あれは優しさだけで人生渡ってきた男ですよお~~~。」
「私のために頑張って、無理して疲れてる笹原さん見て…、私がどう思うかなんて考えてないんですよっ!!」
「そーです!! 私も、イベントに間に合わせるために徹夜してる姿にどれほど心を痛めてることか…。わかってんですかっ!!」
田中は怯えた。
「うん…。ごめんなさい…。」
「ごめいなさいぃぃい?」
荻上の目がギロリと光る。筆が槍のように尖る。ひいぃと田中が啼いた。
「それ! すぐ謝る! いけ好かねぇってんですよ! こっちが無理言って困らせてるみたいじゃねーすかっ!!」
「わかる! なんかこっちが子供で悪者にされちゃうんですよね!」
「ほんとですよ。優しさの押し付けですよ。」
「ほんとですよねぇ。」
田中はもう、考えるのをやめた。
荻上の携帯が、カバンの中で震えていた。


笹原は携帯を耳に押し当て、灯りの無い窓を見上げる。
コール音がもう何十回も響いていた。留守電に切り替わっても、何度もかけ直した。
(まだ寝てない時間のはずなのに………。)
電話から荻上の声は聞こえない。
「クソ…。どこ行ってるんだよ…。」
イラついている自分に、また罪悪感を覚えた。

会いたい。
荻上に会いたい。
笹原は何度も思った。
(会いたいよ…。会ってちゃんと確かめたいんだよ…。)
笹原はポケットの中の合鍵を指でなぞる。二人の絆を、指で確かめる。
でも、胸の中の焦燥感は治まってくれない。
車や人が、笹原の横を通り過ぎて行く度に、焦りは一層強くなっていった。
携帯は何もしてくれない。
(俺は荻上さんが好きだって…、ちゃんと確かめたいんだよ…。)
笹原は、携帯を耳の押し当て続けていた。
短い空白。淡い期待を冷たく響くコール音が裏切る。何度も、何度も…。
笹原に罰を与えているかのように。
「最低だよな…、こんなの…。」
守りたかったのに。もう絶対に傷つけないはずだったのに。そう言ったのに。
辛くて、寂しくて、逃げてしまった。

(最低だ…。)

もう、自嘲も漏れてくれなかった。
笹原は携帯を切った。
ポケットの中で、合鍵をきつく握りしめていた。


「ねぇ…。斑目さん…。」
気だるそうな恵子の声が騒がしい店内の雑音の合間を縫って、斑目の耳に響く。
「あ、なに?」
夜中のラーメン屋。湯気で真っ白になったメガネの斑目が振り返った。
「ちょっと真面目な話なんだけどさ。」
「あによ。」
斑目は口をもぐもぐさせている。恵子は『なんだかな~』とでも言いたげな顔をした。
「今でもさあ…、ねーさんのことって好き?」
「ブバッ!!」
斑目はゲホゲホとむせると、お冷を飲んで喉を鎮める。
恵子はまた『なんだかな~』という顔をした。
「何でまたそんなネタをフリますかネ…。」
顔を赤らめつつ斑目が尋ねる。恵子は誤魔化すようにニヘヘと笑った。
「いいからいいから。応えて下さいよ。」
斑目は納得がいかず、恵子をジト目で睨む。恵子はニヘヘと笑ったままはぐらかした。
斑目は漸くスッキリした喉から小さく息を吐いた。
「ま~…、そりゃーねぇ…。好きっすけど。…別に嫌いになることはないでしょ?」
恵子は憂いを含んだ表情を覗かせた。
「ああ~、そうですか…。未練タラタラすか…。」
ラーメンに戻りかけた手を止めて、斑目は何か喋ろうと考えを巡らせた。


「ま~、そんなにアレではないないけどねぇ…。」
「そんなにアレって…? ナニナニ、もう春日部ねーさんではヌイてませんてか?」
「ホント…、笹原の妹じゃなかったら殴ってるよね…。」
「いやいや、妹関係ナシに女の子を殴っちゃダメですよ。」
恵子にまたパッと笑顔が戻った。斑目はほっとして、ドンブリに突っ込んでていた箸を握る。
「恵子ちゃんさ~、『ほしのこえ』ってアニメ、知らないよね…。」
「知らねー。」
バクバクとラーメンを食べ始めた恵子に、斑目は柔らかな笑顔を返す。
「だろうねぇ…。ま、内容はSFもんのラブストーリーで、8光年先の宇宙に行っちゃった女の子を、
地球に残った男の子がずっと思ってるって話なんだけどさ。」
「ふーん。」
「あーいうの、けっこう難しいよな、実際…。」
「………。」
曇ったレンズの向こうの斑目の瞳を見るように、恵子は見つめた。
「今の仕事つまんねぇんだけど、それなりにいろいろ起きるしさ。覚えなきゃなんないこととかあるし。会社で仲良い先輩とかもできるし。
俺もいつもいつも春日部さんのことばっか考えられるわけじゃねーしさ。なんつーか…、自然と忘れていくんだよなあ…。」
「………うん。」
「まあ、たまに思い出してヘコんだりもすんだけど…。人の心って、そうそう一箇所に止まっててくんないっていうか…。
そっちのが心の健康にはいいんだろうけど、寂しいような、健全なような、そんな感じ…。」
斑目は小さく笑った。
「あはは、やっぱり、会わないとそういう風になるもんなのかなって、ちょっと発見デシタヨ!」
恵子の瞳にまた憂いの表情が宿っていた。
「そうかもしんないね…。」


「いらっしゃい。」
「…こんばんわ。」
咲は忙しなく動かしていたモップを一旦止めて笹原に微笑む。
時刻は11時を回っていた。
「掃除してたんだ…。」
「ま~ね~。」
本当ならもう帰っているはずなのに、理由をつけて店に残っていた。
「ひさびさだね~。何日ぶり?」
「………五日かな?」
知っていた。あの日から、毎日遅くまで店に居た。
何でもいいから、理由をつけて。
「模様替え好評だよ~。お客さん増えたし、もち売り上げもアップした!」
咲はそう言って微笑む。いつもと変わらない笑顔を笹原に向ける。
そうしようと決めていたから。
笹原の顔は強張っていて、視線は店の中を漂っていた。
「あのさ…、春日部さん…。」
「ん~、なに~?」
「こないだの…、その…。」
「あー、それなんだけどさー。」
咲は掃除をする手を動かし続ける。
「もー忘れよー。無かったことにしようよ。」
ピカピカに磨いた床を舐めていた笹原の目が、咲に向いた。
口元は驚きに歪んでいる。
咲は続けた。
「ほら。あれは何てゆーか、事故だろ? 朝方のヘンなテンションが起こした事故! そういうことでしょ?」
咲は屈託なく笑っている。そういう顔をしている。
「お互い、ちゃんとした相手がいるんだし。バカ正直にゴタゴタする必要ないし。もう忘れるのが一番。」


「や、でもさ…。」
笹原の声を、咲の声がかき消す。
「ササヤンもオタクだもんね~。やり逃げになるとか思って、自分からは言い出し難かったでしょ?」
咲はモップの先だけを見ていた。笹原の顔は、さすがに見れなかった。
それでも笹原がどんな顔をしているか、何となく分かる。
(ササヤン真面目そうだもんな………。)
咲は自分の意思とは関係なく、口元が緩むのを感じた。
「まー実際、私も男から無かったことにしてくれとか言われたら、ちょっと引いたかもね~。」
「………だから自分から言ったの?」
笹原は呟くようにそう言った。なのにそれははっきりと耳に届いて、針のように突き刺さる。
咲の手は止まっていた。
不意に、鏡に映った自分の姿に気づいた。鏡の中の自分は、泣きそうな顔でこっちを見ている。
泣きそう自分を、驚いた顔で見つめていた。
「あ~、そうそう。ササヤン時計忘れてったでしょう?」
咲はモップを立てかけて、カウンターの下の時計を取りに行った。
時計を取るために体を屈めたとき、笹原に見えないように目を拭いた。
「ハイこれ。」
咲は時計を笹原に差し出す。また微笑を浮かべて。
「もー忘れてかないでよー。これ見たときマジで焦ったん…。」
でも、受け取ろうとする笹原の手を見たとき、笑顔が消えてしまった。
笹原が咲の手を取った。
「ちょ…やめてよ!」
咄嗟に腕を引いても、手は離れなかった。笹原は手が、痛いくらい咲の手を掴んでいた。
二人の掌の間から時計は滑り落ちていった。
「離してってば!」
咲は顔を上げて笹原を見る。笹原は眉間にシワを寄せて、避けるように視線を外していた。
「ごめん…、ちゃんと…確かめさせてよ…。」


笹原は呟く。
「本当は…、もっと早く春日部さんに会わなくちゃいけないの…分かってたんだけど…。今日まで怖くて…、来れなかった…。」
「いいよ…、別に…。」
咲も視線を壁に向けていた。
「荻上さんにも会おうとしたけど…、やっぱり怖くて、会えなかった…。とても…、酷いことしたから…。」
「だからもういいって! 私らが黙ってれば済む話でしょ!!」
咲は涙交じりの声で悲鳴を上げるように叫んでいた。
笹原は顔を歪ませる。
「ただしちゃっただけじゃなくて………、なんか…、ほっとしたっていうか…、癒されたっていうか…、安心したような…。
そういう…、幸福な気持ちを感じたっていうのが…、すごい…、後ろめたかった…。」
笹原の声が震えていた。手が震えているのが、咲の手にも伝わる。
「荻上さんが好きなのに…、そういう…、荻上さんといるときに感じてなかった気持ちになったのが…。」
「いいから………、もう離してよ………。」
咲の瞳から涙が零れ落ちて、落ちた雫が咲の腕を濡らして通り過ぎる。
笹原の目からも涙が流れていた。
「ごめん……。こんなの…。困るって…分かってるんだけど………。ここまま…、荻上さんに会うの……できないって思って………。」
涙を押し止めようとして、笹原は深く俯く。でも涙は、瞼の隙間から次々に零れていった。
咲は嗚咽が漏れそうになる口に手を当てていた。

同じだった。笹原と。
同じように感じていた。あのとき、自分を抱きしめる笹原の温もりに、力に、暖かなものを感じて、笹原に甘えた。
高坂のことを忘れて、押し寄せる幸福感に身を委ねていた。
怖かった。笹原に会うのが。
でも会いたかった。
だから心に蓋をして、嘘をついた。
本当は会って確かめたかったのに。あのときに感じた気持ちを、ちゃんと。
二人の泣き声だけが店内に、静かに、暗く響いていた。


あの日から一ヵ月後。
笹原は黙って目を閉じていた。
咲が自分の指を軽く握ったのが分かった。
「あのさ…、大事な話があるんだけど…。」
「うん…。」
笹原は目を開ける。
オレンジ色の電球だけが、柔らかく、二人を照らしていた。
他は全て真っ暗な部屋の中で。
「俺…、サキとのこと…ちゃんとしたい…。」
「………。」
「荻上さんに、全部話すよ…。」
咲は笹原の腕を抱きながら、笹原の顔を見上げる。その眼差しは、少し寂しげに潤んでいた。
「いい……? それで………。」
「…………うん。」
咲は頷いた。
咲の頬に不安が影を落としていた。
そして咲は、笹原の腕を強く抱きしめた。


最終話へつづく