お家へかえろう 【投稿日 2006/03/28】

カテゴリー-笹荻


時は2006年の冬。陽も傾き赤く色付く頃。
げんしけんの部室では、1年生らしき細身の男子会員と
金髪長髪の少女が言い争っていた。
そう、留学してきたスザンナ・ホプキンスだ。
その表情からは、いまいち感情がつかめない。
言い争うというよりは、男子会員はスーが何か言うたびに
一方的にダメージを負いよろめき青ざめるリアクション。
スーはといえば、きょとんとした様子で、別に怒っている
というわけではなさそうだ。
部室には他に、雑誌を読みふけるポーズで固まっている朽木。
そしてもう、一人、筆頭の下に苦笑いを貼り付けて、二人の間に
手刀で割ってはいる荻上さんの姿が有った。
荻上はスーの無邪気なネタ振りを止めようと話しかけるが、今度は
スーの方がシュンとうなだれてしまった。
うつむきながら、上目遣いで荻上を見つめるスー。
それを見て荻上は天を仰いで、右手で顔を覆った。
朽木はその頃、男子会員に話しかけ、一人で笑っている。
しかしちょっと苦しい表情だ。
彼なりに、場を和ませようと努力をしているのだろうが…。


遠き山に陽は落ちて、山の端から扇のように赤い色が見える。
そんな頃、荻上は独りでとぼとぼと住宅街への帰路をり歩いていた。
もともと猫背だが、今日はさらに背中が丸いような気がする。
足どりも重く、溜息をつき、うらぶれた中年サラリーマンも斯くや
といった疲労が浮かんでいる。
まだ比較的早い時間かもしれないが、4人組の若いサラリーマンが
前方から楽しそうに歩いてくる。全員20代だろうか。
横手にあった赤提灯の暖簾をくぐって扉を開けると、店内の喧騒が漏れる。
今日は金曜日だろうか。店内の客の入りは多い。
荻上はそれらに目を遣ることも無く、歩き続ける。
と、ピタリと足を止めるとズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
送信履歴だろうか、方向キーを押すと、その表示をじっと見つめる…。
しばらくそうしていただろうか、左右に首を振ると、ぱたっと
電話を閉じ、またトボトボと歩き出すのだった。
暗い道を歩くと、前方に道が明るく照らされた所がある。
やがてスーパーマーケットの前に差し掛かる。
荻上の疲れた顔が、店の明かりに照らされ、その口元から吐く息が
うっすらと白くなり始めて冷え込んできたのがわかる。
顔を上げることも無く、自動ドアをくぐりスーパーの店内へと
足を進める荻上。
カゴを左手に持つと、惣菜コーナーへ。
つまらなさそうに惣菜を眺め、2回ぐらい往復すると、
結局何も買わずに、人の流れとは逆流しながら店内を
ぐるりと歩き出した。


そして通路沿いのワゴンセールの、特価の値札に目を留める。
各メーカーのカレールーとシチューの元が安売りをしているようだ。
カレー粉を手に取ったり、ビーフシチューやハヤシライス、
クリームシチューの粉を手にとって見比べている荻上。
その眉間は寄り、まだ難しい顔になっている。眉間のシワが張り付いて
しまわなければ良いが…。
やがてクリームシチューの元をカゴに一つ入れると、野菜コーナーへ。
ジャガイモ、ニンジン、ブロッコリーにシメジ。何を買うか
迷ったようで、カボチャやサツマイモも、一旦はカゴに入ったが
戻されたりした。そして玉ねぎをカゴに入れると野菜は揃ったようだ。
そして肉コーナーへ。豚肉や牛肉はスルーして、荻上が足を止めたのは
鶏肉売り場だった。カゴを横に置くと、ささ身や手羽を眺め、やがて
胸肉ブロックとモモ肉ブロックを両手に持って見比べる。
しかし、それをどちらも棚に戻すと、結局カゴに入れたのは
骨付きモモ肉だった。


部屋に戻ってきた荻上は、暗い部屋に明かりを灯した。
買い物袋を台所に置くと、手を洗って着替えてくる。
台所に戻ってくると、携帯電話を開き、しばらくメールを打ち
送信し終わるとポケットに戻し、エプロンを掛けると
料理に取り掛かる荻上だった。
まずは大なべをコンロに乗せると、もう一つ片手鍋に水を張り
スイッチを押すと強火に掛けた。


真剣な目をして包丁を手にすると、まな板を置く。そして
手際よく、慣れた手つきで玉ねぎ、ジャガイモ、ブロッコリーを
次々と大きめに切り分け、お湯が沸いたのを見ると
ブロッコリーを下茹でにした。
それを菜箸でボウルにとると、次に骨付き鶏モモ肉を
湯通しにして、皿を取ってきて横に置いた。
その間に他の野菜を大鍋にかけ、コンロの火をつける。
ブイヨンを一欠け入れるとふたをして、しばし待つ荻上。
今は無表情なようだ。部室を出てからさっきまで顔に
浮かんでいた疲れは抜けてきたようだ。
元々、こんな時まで笑顔でいるほど明るいわけではない。
やがて大鍋の蓋の蒸気穴から湯気が立ち上り、荻上は鍋掴みを
左手にはめるとふたを開けた。台所に大きな湯気が広がる。
目を細めて鶏肉を入れ、今度は少し待っただけで火を止めると
シチューの粉をサラサラと振り入れ、お玉で熱心に溶かし混ぜる。
荻上の無表情だった目じりが少し下がり、口元が緩む。
徐々に楽しくなってきたようだ。
冷蔵庫から牛乳を取り出すと少し入れ、ひと混ぜして弱火にする。
部屋にクリームシチューの甘い香りが広がり、香りを吸い込むと
荻上は目を閉じ、柔らかな笑顔を取り戻した。
そのとき、携帯電話が鳴ったようだ。
パチリと目を開けると、急いで開き、しばらく画面を見る。
メールを読み終わった荻上はニヘラ、という感じににやけた。
しかし炊飯器に目をやり、ハッとすると蓋を開け覗き込む。
中は空っぽだった。。。
黒目がちな目を見開き、ガーンとオーバーリアクションに驚くと、
大急ぎで頭の筆を揺らしながら米を研ぎ、炊飯器をセットすのだった。


週末の仕事を終えた笹原は、週末の夜から椎応大方面にやってきた。
いや、帰ってきた、といった方が適切だろうか。
真っ暗な道を厳しい顔で急ぎ足で歩きながら、携帯電話を取り出すと
その画面が光り、顔を寄せメールを確認する。
バックライトに照らされた笹原の口元が少し微笑む。
しかし目元も眉も、固まったままだ。寒さのせいだろうか?
携帯をポケットに戻すと、歩きながらこめかみをグリグリと
両手の指先で押し回す。さらに右手で額の肉をマッサージしている。
溜息をつくが、どうやら仕事の緊張が抜けないようで、その顔は
浮かないようで、とても彼女の元へ向かう男とは見えない。
今日は、仕事と日常の、気持ちの切り替えがうまくいかないようだ。
その自覚があるようで、足取りが重くなる。
笹原はしばらく歩き、ふと道沿いの閉店した商店のガラスに映る
自分の顔が目に留まった。
ガラスに映る顔は険しく、足を止めると笑顔を作ろうとしてみた。
営業スマイルはすぐに出る。しかしこれでは、昔からの笹原を
知る者には笑っていると思われないだろう。
笹原自身も、別の笑顔を作ろうとガラスを覗き込む。
しかしどうも、目元がおかしい。口の端だけで笑う…。
しばらくそうしていたが、やがて手のひらで両の頬を叩くと
怒っているかのように、ズカズカとした足取りで荻上宅へ向かい始めた。
その目は少し潤んでいる。なんと、泣きそうになっているようだ…。
重い足を引きずり、荻上の部屋の前まで来ると足を止め、
気合を入れると笑顔を作った。
笑顔を作る………そう、作り笑顔だ。

そのとき、何かに気づいた様子で辺りを見回す。
寒い冬の空気に漂ってくる、温かくやや甘い香り。
隣の部屋の電気は消えている。荻上の部屋からの香りと気づくと
息を吸い込み、大きく息を吐く。
さっきまでいかり肩だった笹原のシルエットは、肩が落ち
少し丸くなる。
笹原は呼び鈴を押すと、部屋の中から聞こえる足音に合わせ
少し姿勢を正すとドアが開くのを待った。
やがて扉が開き、部屋の中から光が漏れ、それより明るい荻上の顔が現れる。
玄関の黄色みを帯びた温かい明かりを受け、笹原の柔らかな目元が照らされる。


よく冷えた夜空に、硬い星の光がきらめいているが、屋根の下の荻上の部屋では、
食卓には熱い湯気を立てるシチューが皿に盛られ、荻上と笹原は冬の寒さも忘れ、
暖かなひとときを過ごすのだった。
最終更新:2006年04月05日 00:22