その一 【投稿日 2005/10/22】
「じゃあ俺、久しぶりに秋葉行くから」
就職活動の成功を報告に来た笹原は、そう言い残して部室を去っていった。
あとには4人の女たちが、残される。
「あーぁぁぁ、もう、相変わらずですねえ」
大野がじりじりとした目で、笹原のいた空間を睨んだ。
「どうして、一緒に誰か行く? とか言わないのかしら、あの人は」
「笹やんだから、ねぇ」
大野の言わんとしたことを理解した咲が苦笑する。
「え? 何? うちのサルの面白い話!?」
恵子が身を乗り出してくる。
荻上は、手にした漫画を話すことなく読み続けている。
いや、読んでなんかいない。ただページをめくっているだけ。
笹原が「いろはごっこ」を取りにこちら側へ来た時、
肌にふれる空気が熱くなったような気がした。
(なんだべな……なんだべよぅ)
言葉をかわしたわけでも、目があったわけでもないのに、穴の開いたようなキモチ。
違う。
ただ、いる! と感じただけで、泣きたいほどに顔が火照って、
言葉も、見ることすらも、何もかなわなかった。
「……というわけでね、荻上さんの部屋まで行ったくせに進展がなーいーのーですよー!」
「大野が無理に連れてったようなもんじゃん」
「ふぅん……サルがね」
「ねぇね!」
荻上の漫画本を、つい、と指で下げて、恵子が割り込んできた。
「うちのサルのどこがいいの?」
「……何故、私さ、聞くんですか?」
「だって、みんな噂してんよ?」
「言いたい人が、言ってるだけです」
「あっそう。じゃ、なんもないんだ? まーサル、奥手だからね」
昨日、笹原から電話があった。
「いろはごっこ」を、アメリカの2人に送りたいので、作者の2人に許可を取りたい、という話。
そのついでのように、編集の仕事で内定が決まったという話。
……それだけ。
編集の仕事というのはすごいことだ。なにせプロの漫画にたずさわる仕事だ。
それを話のついでとはいえ、自分に最初に教えてくれるなんて、嬉しい。
けれども、笹原が、遠くへ行ってしまう気もして。
みんな大学を出て、大人になってしまって、自分の手の届かないところに。
自分の気持ちの届かないところに。
本当は。
もっと、何か、言ってくれるのかと思ったのだけれど。
もう、大学を卒業したら……会う事も、ないのだろうか。
そんなの……
そんなの……イヤ、なのだろうか。
わからない。わからない。心の奥がチリチリとくすぶる。
「奥手…つぅが、特に、言うことなんか、なかったんじゃないかと」
「そう?」
恵子はふーん、とつまらなさそうな顔をした。
帰り道のモノレール。
また、恵子とばったり出くわした。
夕方のオレンジに染まった車内、恵子が意外に愛想よく隣に腰かけてくる。
「ねー」
「なんです」
「サルねぇ、ああ見えて、いい奴だよ」
「…………」
「ただサルだからねえ、きっとサルなりに何したらいいか、わかんないんだ」
「…………」
「サルで、キモオタだからねぇ」
「その……お兄さんのことを、『サル』『サル』いうのは、どうかと…」
「いいの! アタシだけはサルのことサルって言っていいの!!」
「……ハァ」
「サルんトコ泊まった時ね、みんなでマンガ描いた時のこととか、すっげ楽しそうに言ってた。
で、二言目には、オギウエさんはこーだったとか。あーだったとか」
「えっ……」
「アイツは兄貴ぶってるから、アタシに本当のことなんか言わないけどね。
アタシにはわかる。お兄ちゃんは、アンタのこと、きっと好きだよ」
声が出ない。もっと夕日が自分を照らしてくれたらいい。
きっと今の自分の顔は、真っ赤だ。
「もうちょっと待ってやって。あのヘタレを」
「え、いや、その……」
「なぁに? それとも自分から言っちゃう?」
「言うって、何を……その……ぅー」
「別にオギから告白したっていいとは思うよ」
「…………」
到着を告げる車内アナウンス。恵子が気がついたように立ち上がった。
「そのっ……」
窓から差し込む光に、目がくらむようだ。
「……待ちます、先輩のことさ」
「やったぁ、やっぱサルのこと好きなんじゃんねー。はっはーん」
「けしてそげな意味でねくて!!」
「じゃあねぇ~。今度、温泉でも行こ。咲さんと大野さんと」
……電車の扉が閉じた。
日は大分傾いていた。
最終更新:2005年12月20日 03:32