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笹荻 【投稿日 2005/10/20】

カテゴリー-笹荻


 荻上千佳はその日、時間がなかった。
 時間がなかった、というのは自分の責任だ。というのも、昨日はノートにネームを
書き散らし、夜も空けようかという頃に携帯電話のアラームをセットしている途中で
寝てしまったのだ。目を覚ましたのは講義の一時間前。シャワーを浴び、申し訳程度の
化粧をしてから家を出る頃には既に講義は二十分前に迫っていた。アパートから
大学まではそんなに遠くないが、徒歩ではやはり不安がある。ところが―

『心理学(経済学部) 本日休講 補講は下記の日程にて~』

 という張り紙を教室の前で見た時は、思わず溜息をついてしまった。小走りにここまで
来た自分が馬鹿みたいだ。

(…部室にでも行ぐか)

 そう思ったが、時間は十一時を少し回ったくらいだ。部員が集まるのは大抵午後を
過ぎてからだし、今行っても恐らく部室には誰も居まい。仮に誰か居たとしても笹原や
咲なら良いが、朽木や大野がいた場合は非常に心苦しい中でノートに向かわなければ
ならない。最近関係が良好になってきている大野はともかく、朽木と同じ部屋に二人きり、
というのは正直耐え難い苦痛である。

 今日のような事を繰り返さない為にも、校舎の外に設置してある
掲示板へと足を向けた。次の授業は四限目…一時二十分からだ。
食堂で漫画でも読んでいればすぐだろう。
 冬はすぐそこに迫り、走った後の肌には寒さを伴った風が心地よい。
自分にとっては突然の休講という、少しだけ開放的になった気分で
掲示板の前まで来ると、よく見知った背中があった。

 笹原完二。

 何処にでも居そうな背格好だったが、荻上にとっては現視研に入って
からは飽くほど見ている人だ。冴えない性格をしているが、オタクである事を
除けば―否、オタクであるというのに、荻上の心の片隅に偶にひょっこり顔を
覗かせる不思議な男だった。
「どうしたんですか、先輩」
「…あ、ああ…うん。俺の授業休講だってさ」
 笹原の一瞬泳いだ目に、荻上は「しまった!」と思った。
 自分はというと、いつもの髪型ではなく、普通に髪の毛を下ろし、あまつさえ
分厚いレンズの眼鏡を掛けている。大学に入ったらちゃんと髪形も決め(筆型のヤツだ)、
コンタクトにし、オタクに見えないようにしよう…と心に決めていたのだが、これでは
田舎に居る時と変わらないではないか。
 そんな動揺を悟られぬように素知らぬ顔で会話を進める。
「あたしもです。…時間が空いちゃいましたね」
「部室に行っても誰も居ないだろうしね…どうしようかな」
「…あの」
 ひどく言いにくそうな顔で荻上は笹原を見上げた。
(先輩となら時間もはやぐ過ぎるかもしんね)
 同世代の男子と食事をするなど、今まで考えられなかった。だが自分は決めたのだ。
髪型同様、自分を変えるのだと。そう。笹原先輩を学食に誘うんだ…!

 顔が赤くなっていないだろうか、ふと不安になるが思い切って誘ってみる。
「がっ…!」
 噛みすらもせず、言葉の初めでけっつまづいてしまった。今度は確実に
自分の顔が真っ赤になっているだろう。更に悪い事に、心臓の鼓動に
邪魔されて続く言葉が出ない。
 笹原はわけもわからない顔で問い返した。
「…が?」
「あ!いえ…なんでもねっス」
 荻上は心の中で自分を毒づいた。
 別に先輩とご飯を食べるくらい、どうってごどねえだろ!
 実を言うと―時々ではあるが、笹原のことを意識し始めていた。
以前げんしけんでコミフェスに参加する際のひと悶着で、荻上の中での
笹原の株は大幅に上昇していた。だが、好きという感情ではなく、あくまで
年長者に対しての尊敬の念だ。
(それは断言でぎる…と、思う…)
 自分の中で弱気ながらも否定する。臭くて、馬鹿で、アニメやゲームの
ことしか頭のないオタクなぞ、自分の心に入る隙間はないんだ。そうに決まっている。
(それに、ホモが好きな女子なんて好きなる男はいね…)
 偶に笹原と斑目をカップルとして観察しているのだ。自分でも思うが、酷い妄想だと思う。
 ふ、と自嘲気味に笑う荻上の横で笹原が笑いかけた。
「まぁ…いいけど。どうする?俺は学食行くけど…荻上さんも行く?」
「えっ?」
 笹原にしては何気ない一言だっただろう、しかし荻上はまたもや素っ頓狂な声を
上げてしまった。一気に混乱の渦が荻上の中でぐるぐると回転を始めた。

(え?え?え?どういう事…?)

「あ、もしかしてお腹空いてない?じゃあ、鍵渡すから―」
「…や、いいデス。イキマス」
「…そう?じゃ、いこっか」
 三限目が終わったのか、ぞろぞろと構内から出てきた学生に混じって二人は足を学食に向けた。

 鼓動が更に早くなり、なんだか周りの音がぐわんぐわん耳に響いている。
見知った顔に会いやしないだろうか、とか、現視研のメンバー…特に咲に
出会いはしないだろうか、と内心びくびくしながら笹原と肩を並べた。
「今日は髪形違うんだね。あと眼鏡も」
「…寝坊したんです。急いで家を出ましたから」
 そう言いながらも、心此処にあらず、という感じだ。顔は赤くなっていないか。
変な言動をしやしないか。それだけが頭の中を渦巻いている。
「なんか見慣れないから不思議な感じだよ」
「別に…家ではいつもこんな感じっすよ」
「あ、そうなんだ」
 途中で同じ学科の―そんなに仲は良くないが、たまに話す子に手を振られて
思わず荻上は足を止めた。
(…見られた!)
 そう思いつつも、苦い顔をして小さく手を振り返した。その女の子は、
時折こちらを見ては一緒に居る子に耳打ちをしている。
「…荻上さん?」
「あ…あの、先輩。あ、あたしと居て…不都合とかねっスか」
「え?」
 発言してから、自分が大馬鹿者だと確信した。藪を棒で突っつくどころか、
これでは地雷原を全力疾走しているのと変わらない。
「いや、別に不都合はないよ。だっていつも部室で一緒じゃない」
「あ…そうスね」
 どうやら笹原の鈍感さに助けられたようだ。咲が居れば速攻で高坂と
姿を消し、二人きりにされた筈だ。とは言っても現状はその状況と変わらない訳だが。
 とりあえずギクシャクしながら歩を進め始めた。逃げたい衝動に駆られるが、
それは駄目だ。自分は何も悪い事はしていない。やましい事もしていない。
ただサークルの先輩とご飯を食べるだけなのだ。それだけ。それだけ…!
「実はうちの妹がさ―」
 何も知らない笹原は呑気な顔で話をしている。上の空で相槌を打っていると、
不意に少し強い風が吹いた。普段なら髪を纏めているので問題はないが、今は違う。
舞い上がった髪を撫で付けて笹原の顔を見ると、少し顔を赤くして自分の顔を見ている。
何か変な行動でもしてしまったのだろうか?
「…どうかしましたか」
「あ、いや…あのさ。すごい失礼な事かも知れないけど…」
 笹原は非常に言い難そうな顔で、鼻の頭を掻いて荻上の顔から視線を逸らした。
「…今の仕草、なんか女の子らしかったなぁって。はは、ごめん」

 …?

 今の言葉を反芻する。いや、反芻しなくても頭の中でエコーと共に響いている。
女の子らしい?女の子らしいって?

 なに言ってんだ、このおどごはー!!!!!!!!

 そんな心の叫びと共に、荻上の中の「何か」が限界点を突破した。
「…ッ!!!!」
 これまでにない全力疾走だった。無我夢中で校門を目指し、角を曲がり、
横断歩道を渡ってコンビニの前を通り、坂を上ってアパートにたどり着いた。
鞄を放り出し、自分もベッドの上へと突っぷする。
 チャーッチャ、ララ!チャーッチャ、ララ!
 荒い息でベッドに顔を埋めていると、鞄の中から軽妙な着信音が鳴っている。
先日ダウンロードして、早速着信にした「ハレガン」のOPテーマだ。これを落とした時は
嬉しくて、意味なく何度も鳴らしたものだが、今は妙に憎らしく聞こえるのだった。
おそらく笹原からだろうが、取れるわけがない。此処には逃げ場がない。

「…なにしてんだろ、あたし…」
 着信が途切れて、ごろ、と仰向けになると読みかけだった「ハレガン」の
最新刊を手に取った。こういう時はワープするに限る。ちらちらと笹原の顔が
大佐と被るが、力ずくで抑え込んで無理やりワープした。途中で咲からも
着信があったが、何を言われたか判ったものではないので見ないことにしてしまった。
これでしばらくは部室に顔は出せないだろう。

 結局、午後の講義は全部自主休講し、夜明けまでノートに向かってしまった。
次の日も大学まで走る羽目になってしまうが、頭を筆にすることだけは忘れなかった。

 咲は珍しく食堂に来ていた。
 いつもは恋人である高坂と同じベッドでまどろみ、手を繋いで学校まで行くのが
日課ではあるが、昨日は水曜日だ。水曜日の深夜には「なんとか」というアニメを
放送しており、高坂は咲を見向きもしなくなってしまうのである。そういう日は必ず
自室へと戻り、友達を呼んだりして遊ぶのが常になっていた。
 ところが昨日は誰とも予定が合わず、特にする事も無しに早くに床に就いたのが
失敗だった。今日は昼から講義があるのにも関わらず早朝に目が覚め、掃除や
洗濯を済ませても講義の時間はまだ先だったのだ。部室に…と思ってはたと気が付いた。
 何故、暇つぶしに私がオタ部室に行かねばならないのか。
 最近は薄れてはいるが、咲の「一般人」としてのプライドが首を擡げて―何故か
今、食堂に居る。誰か知り合いが居ないか、という一縷の望みを賭けて此処に来たのだが、
その目論見は見事に当たった。彼女が所属する「現代視覚文化研究会」の部長、
笹原が食堂に入ってきたのだ。
「ササヤンじゃーん」
 いつものテンションより少し高めで笹原を呼ぶが、当の本人は
「…やあ」
 と、小さな声で返しただけだった。なんというか、背中の後ろに「ズドォォン」という
擬音が浮かんで見えるくらいだ。
 この手の雰囲気に敏感なセンサーを持つ咲は、興味半分、心配半分で少し
真面目な顔をして笹原の前の席に座った。
「笹原、何かあったの?」
「いや…まぁ、ねぇ……」
 現視研内でも、そして他の人間に対しても姐御的な性格を持つ彼女は無意識、
無自覚ではあるが人に頼られる事が多い。それが裏目に出る場合もあるが、今の
笹原にとってはよき相談相手だった。
 笹原はいつも以上に冴えない苦笑いで、先ほどの出来事を渋々話し始めた。
一通り聞き終えた彼女はやたら上機嫌で、身を乗り出して笹原の顔を覗きこんだ。
「で、フォローはしたの?」
「…フォロー?」
「電話とかメールとか」
「…してないよ」
「はぁ!?」
 表情が一変し、どん!と机を叩くと、その音の大きさにまばらに席に座った
他の学生が一斉に此方に目を向けた。少しヒートアップしすぎたと感じたのか、
必要以上に小声になって笹原に耳打ちする。
「あんたねぇ、女の子に逃げられたんだよ?そんでフォローもしてないんじゃ、
どうしようもないじゃん。情けねー」
「…いや、ほら。でも…なんか嫌でしょ。あ、俺じゃなくて荻上さんが」
「あのね、こういうのは後始末が大事なの。わかる?とりあえず携帯出して!ホラ、電話する!」
 咲の異様な雰囲気に気圧されながらも、笹原は携帯を取り出すとなんとも
言えない顔で電話をコールした。
「…出ない」
「いーの。まだ切っちゃ駄目よ」
 たっぷり十コールほどして、ようやく咲のOKサインが出た。だが笹原は先ほど以上に
暗い顔で、携帯電話をテーブルの上に置いた。乾いた音が食堂内に響く。
「あー…参ったなぁ…」
「いいの、これで」
 咲のよく判らない言動に、思わず笹原は首を傾げた。咲は鼻を鳴らすと、得意満面に腕を組んだ。
「電話して話をするって言うか、電話をすること自体に意味があんの。
これでグッと荻上は部室に来易くなるでしょ。話す切っ掛けにもなるしさ」
 なるほど、と笹原は咲を改めて見直した。
 咲は勘違いも多いが、ことトラブルに関しては非常に強い面がある。現視研存亡の
危機を救ったのも彼女であるし、夏コミ前の修羅場を収めたのも彼女が居てこそだった。
 当の咲は…というと、実は荻上が可愛くてしょうがない。年下というのもあるし、
自分の話を聞き入れる素直さもある。多少性格に難はあるが、笹原と久我山が
揉めた時も「自分がなんとかしよう」という心根の優しさも垣間見えた。荻上には
放っておけない何かがあるのだ。
「…なんか悪いこと言ったかなぁ。恵子と比べれば充分女の子らしい仕草だと思ったんだけど」
「いいんじゃない?あんたら女ッ気無さ過ぎだから」
 ふと咲を見ると、彼女もやおら携帯電話を取り出してコールしていた。
「やっぱ出ない?」
「うん。ま、当然だと思うけど」
 パコン、と音をさせて携帯を仕舞うと、咲は再び上機嫌になって椅子に背を預けた。
鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気だ。
「…春日部さん、なんか嬉しそうだね」
「そう?っていうかササヤンもやっぱ男の子なんだねぇ。荻上に逃げられて落ち込むなんてさー」
 にしし、と意地悪い笑みを浮かべる咲に、笹原は少し顔を赤くして苦笑いを向けた。
「いや…別にそういう意味じゃないけど。やっぱこれが原因で部室に来なくなったら嫌じゃない」
「ま、ね。しかし荻上も可愛いトコあるじゃん、女の子らしいって言われて逃げるなんて」
「はは、捉えようによっては失礼だけどね」
「たしかに」
 ちょっとだけ顔色が良くなった笹原を見て、咲は安心した。この調子なら大丈夫だ。
この二人がくっつく可能性はまだ十二分にある。

「さて、あたしはそろそろ行くよ。もう少ししたらコーサカも来るだろうし、一緒に外でお昼食べてくる」
「そう。あ、春日部さん」
 バッグを抱えて立ち上がった咲を笹原は呼び止めた。
「なんか…ありがとね。助かったよ」
「まだ終わってないし。いい?メールでいいから、しっかりフォローすんのよ。返信無くても落ち込まない!
あたしも電話したげるから」
 指を刺しながら念を押すと、手をヒラヒラさせながら食堂を後にした。
 これで一歩、笹原と荻上は近づいたと言ってもいい。咲の経験からすると
牛歩どころか亀の歩みだが、それはそれ、オタクだからしょうがないな、と自分を納得させた。

 次の日の夜、咲は荻上に電話して話をした。荻上は相変わらずの口調だったが、
話している内に安堵したモノへと変化していった。彼女の話ではあれから暫くして
笹原からメールが来て、何度かやり取りをしたらしい。その事が咲にとっては微笑ましく、
何度も相槌を打っていた。
 面白かったのが、電話の切り際に
「あの…ありがとうございマス。助かりまし…た」
 と、消え入りそうな声で礼を言ってくれたことだった。笹原と全く同じ反応をしてくれたことで、
咲の「ササヤン&オギーくっつけ作戦」は徐々に加熱していくことになるが―それはまた別のお話。

 それから数日して荻上は部室に姿を見せたが、その日は用事があるとかで一言二言
言葉を交わしただけで帰ってしまった。笹原とも普通に…とまでいかずとも、ぎこちないながら
話していた。会話の内容からして、少しではあるがメールのやり取りもしているようだ。

 これでまた、いつもの日常に戻るのだろう。だが、その「いつもの日常」の中に
小さな、ほんの小さな波紋が広がった事を、咲は幽かな高揚感と共に感じていたのだった。