うわっ面の思い 【投稿日 2006/02/20】

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階下から母の呼ぶ声がする。
「恵子ー、完士ー、晩御飯にするからー、降りといでー。」
彼女は、透き通った声で応える。
「はーい、今いくー。」
彼女はベッドの横に腰かけて、下着をつけていた。

「…………なあ……。」
彼は体をベッドに横たえたまま、上気する呼吸の合間に声を発した。
「なんで…、こんなことしたんだよ……。」
乱れた制服。赤く火照った頬。
彼は顔を隠すように、目を手のひらで覆っていた。
「…決まってるじゃん……、アタシ…、アニキのこと…、好きだから……。」
それは、とてもとても薄暗い部屋での出来事だった。


「じゃあ、俺、行くから。出かけるときは電気消して、エアコン止めてけよ。」
彼は玄関口でスニーカーを履いている。
横顔に緊張と不安とをのぞかせながら。
彼女はゲームの画面を凝視していた。

アニキはこれからあの女(ひと)のところに行く。
合宿で気持ちを告げた、あの女のところへ。
まだ誰のものでもないアニキが、あの女のものになりに行く。


「わかってるよ。」

アニキはあの日から、アタシの目を見ない。
あの日の前は、いつも真っ直ぐにアタシの目を見ていたのに。
アタシの視線から、アニキは逃げていく。
いつの間にか、アタシもアニキの目を見なくなった。
だって、いつでも、アニキはアタシの目を見てはくれないから。


「アタシだってもう、子供じゃないんだからさ。」

アタシは家に居るより、友達と街にいることが多くなった。
アニキの居る家には、居たくない。
アタシはいろいろな男と付き合って、いろいろな男と、寝た。
どれも、うわっ面のいい男ばかりと。


アタシは男のうわっ面しか見ない。
男の、性格も、考え方も、趣味も、好みも、アタシは見ない。
アタシはうわっ面しか見ない女だから。
アタシはアニキのうわっ面を見て、好きになったんだから。
小学生が担任の教師に憧れるような、世間知らずな恋。
アニキの優しさも、頼もしさも、頼りなさも、かわいさも、アタシは見ない。
アタシはうわっ面しか見ない女だから。
うらっ面の恋をしていたんだから。


「よかったよね。大学行って。」

そのうち、アニキが家から居なくなった。
アニキはどこかへ、行ってしまった。



「……友達もできたしさ。」

アタシは、今までで一番うわっ面のいい人に会った。
アタシはその人を好きになった。
アタシはうわっ面しか見ない女だから。
その人の性格も、考え方も、趣味も、好みも、アタシは見ない。
うわっ面がいいから、その人を好きになった。

「そうだな~。今回のことは、ほんと、みんなに感謝してんだよ。」
「そう…。」
「…お前にもさ。」



「ウソだね。」




アタシは嘘つきだ。
アタシはその人の、性格も、考え方も、趣味も、好みも、見ていない。
その人のうわっ面も、見ていない。

その人が、アニキの友達だから。
その人を好きと言えば、アニキの側に居てもいいから。
その人を好きと言えば、アニキが話しかけてくれるから。
その人を好きと言えば、ただの兄妹に戻れるから。



「じゃあ、行って来るわ…。」

アニキが出て行く。
まだ誰のものでもないアニキが、あの女のものになりに行く。
アタシのものにならなかったアニキが、あの女のものになりに行ってしまう。

「あ、ゲームし終わったたら、ちゃんとソフトをケースにしまっとけよ。」
「…………。」


「おい、聞いてんのか?」




「………いかないでよ。」

アニキにあの女のところに行かないでほしい。
また、アタシの目を、真っ直ぐに見つめてほしい。

「アタシ…、今でも…、ずっと…、アニキのこと……。」

涙を流したくなかった。
でも、それでアニキが、アタシの目を見つめてくれるなら。

「アニキ…、……お願い………。」



「……ゲーム…、終わったらコンセント抜いとけよ………。」





アニキは、ドアの向こうに消えていった。
またどこかへ行ってしまった。
アタシをここに残して。

あの女のものになるために。

でも仕方ない。
アタシはアニキの、うわっ面しか見ていなかったんだから。


彼女は、彼の布団に顔をうずめる。
尖ったナイフを握ったままで。

アニキの匂いがする…。

彼女の涙が布団に染み込んだ。

布団を濡らしたら、アニキ怒るかな…。
でもそのときは、アタシのこと、ちゃんと見てくれるよね。


終り
最終更新:2006年02月25日 01:21