※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

テーブルの距離─おまけ─ 【投稿日 2006/02/09】

カテゴリー-笹荻


日が暮れて辺りが暗くなり、街灯に明かりが点り始める頃。
二人は連れ添って、荻上のアパートの近くにある定食屋で食事をした。
荻上が前から一度行ってみたかった店らしい。
何でもいつも帰りがけに近くを通ると、こちらの食欲をこれでもかと刺激する良い香りが漂っていて、
ずっと気になっていたとか。
なるほど、確かに女の子が一人で入るにはなかなか勇気の必要な店構えだな、
というのは話を聞いた笹原が抱いた感想である。
「美味しかったね、値段も手頃だったし」
店を出るとにこにこと満足そうに笹原が口を開いた。隣を歩く荻上まで嬉しくなるような笑顔だった。
思わず見とれかけた荻上は、慌てて視線を外して誤魔化すように言った。
「え、ええ。本当に期待していたとおりで良かったです。また来たいですね」
「うん、そうだね。またそのうち一緒に来よう」
そして返される何気ない一言に、荻上はふと足を止めた。

――――また一緒に来よう
それは自分に向けられたささやかな約束。
人との関わりを拒み続けていた荻上は、久しく交わすことのなかった約束という優しい束縛に、
目眩にも似た感情の動きを覚えた。
(また…、一緒に? 笹原さんと、これからも、ずっと……、一緒に)
「荻上さん?」
荻上が立ち止まっていることに気付いた笹原が、二、三歩先から振り返る。
街灯に照らされたその姿は、荻上がよく知るいつも通りの優しい顔で、
真っ直ぐに向けられた視線に何故か胸が痛んだ。
「どうかした?」
歩み寄った笹原は心配そうに訊ねる。あれ程拒絶したのに自分を受け入れてくれた人。
自分でも許すことが出来ない自分の醜い部分を、それでもいいと認めてくれた人。
改めて笹原への感情が胸に溢れ、荻上はぽつりと言葉を漏らした。
「……私、幸せ者ですね」

「え?」
あまりに唐突な小さな呟きに、思わず笹原は聞き返した。
荻上はその言葉に直接答えずに、再び歩き出しながら言った。
「本当に……。私、こんな風に思える日が来るなんて、考えてもみませんでした」
内容に比べると、やけに虚ろに荻上の声は響いた。二つの足音がそれを掻き消す。
住宅街へ続く小道だからか、他に人気はない。
笹原は何となく追いつくことが出来ずに、荻上の少し後ろを歩いていた。
頭上の月は雲に隠れ、二つ先の街灯が明滅しているのがやけに目立った。
(幸せすぎて……)
「何だか、……少し怖いです」
自分を抱くようにして不意に立ち止まる。
慌てて駆け寄ると、その細い肩が小刻みに震えていることに気が付いた。

「荻上さん、大丈夫? 気分が悪くなった?」
問いかける笹原に、しかし荻上は首を振って答えた。
「すみません、大丈夫です。ちょっと……、色々考えすぎただけですから」
「大丈夫って、いや、顔色真っ青だよ? とにかく、早く部屋に戻ろう」
言い終わらないうちに荻上の手を取った。びっくりするほど冷たい。
「歩ける?」
訊ねると、荻上は黙って頷いた。声を出す気力も無いのか。
笹原は急ぎすぎないよう注意を払いつつ、荻上の手を引いて歩いた。
気は急くが、荻上に無理をさせないようあくまでゆっくり歩く。
荻上のアパートからそう遠くないことが救いと言えば言えた。
それでもこの状況では、行きより遙かに遠く感じたのも事実だ。
結局、部屋に着くまで荻上は無言だった。

部屋に入ると、靴を脱ぐのもそこそこに、荻上をベッドへ連れて行った。
ベッドへ腰掛ける荻上へ心配して声を掛ける。
「無理しないで少し横になった方がいいよ。着替えるなら少し部屋を出てるから。
 パジャマか部屋着、良ければ取って来ようか?」
「いえ、大丈夫です。だいぶん落ち着いてきましたから」
そう答える荻上の唇はまだ色を失ったままだ。笹原は小さく息を吐くと、腕組みをして言った。
「荻上さん、昼間の距離感の話、覚えてる?」
突然の話に意図が掴めず、困惑しながら荻上は頷いた。
「だったら、せめて俺の前では無理しないで、もう少し頼ってくれると嬉しいかな」
そして困ったように笑いながら、確かに頼りないかもしれないけど、と付け加えた。
荻上はただ黙り込んでいる。今までは拒絶するばかりだったため、何と答えていいのか分からないのだ。

そんな荻上の気持ちを察してか、笹原はさらに言葉を続けた。
「別に急ぐ必要はないから、俺で手伝えるようなことがあったら遠慮無く言ってね。
 少しずつでも、思いついたらでいいから」
優しい言葉。もうずっと自分が手にすることはないと思っていた物。
手にする資格が無いと、手にしてはいけないと思い込んでいた物。
そんな言葉を掛けられて、頷くのが精一杯の荻上に、笹原は言った。
「荻上さん。もう、一人じゃないから」
――――もう、一人じゃない
言葉が胸の奥に広がる。笹原の気持ちが共に伝わってくる。
けれど、理解することが出来ない。どうすればいいのか分からない。
それ程までに今まで築き上げてきた殻は強固なものだった。
「私……」
言いかける荻上を、そっと笹原は首を振って遮る。

「無理しないで。今は横になって休んだ方がいいよ。荻上さんが落ち着いたら、
 俺は帰るから。鍵は郵便受けに入れておいたらいいかな? あ、喉は渇かない?
 水汲んでこようか」
そう言って背を向けようとした笹原の服の裾を、荻上がそっと掴んだ。
それに気付いた笹原が振り返る。
「ん?」
「……あ、す、すみません」
咄嗟に取った行動に自分でも驚きつつ、荻上は謝りながら手を離した。
そのまま少し考え込んでいたかと思うと、ふと顔を上げて言った。何かを決意したような表情。
「あの、もし良かったら、私の話を聞いてもらえますか?」
強い思いを込めて見つめる瞳に、笹原は「もちろん」と頷いて答えた。
「でも、その前に飲み物を取ってこよう。すぐ戻るから」
出来るだけ明るく笑って部屋を出る。

(話って何だろう。何か、まだ俺の知らないことがあるのかな)
そんな事を考えつつ、「冷蔵庫開けるね」と断って、中からペットボトルの烏龍茶を取り出すと、
戸棚からコップを二つ持って戻る。
荻上は、やや緊張した面持ちで同じ姿勢のままベッドに腰掛けていた。
コップに烏龍茶を注いで手渡す。
「はい」
「ありがとうございマス」
やはり飲み物が喉を通ると少し落ち着く。
コップをテーブルに置いて、笹原は聞く体勢を整えた。
荻上は口も付けずに両手でコップを持ち、それを見つめながらゆっくりと話し始めた。
「……ずっと、夢を見るんです」
「夢?」

「ええ……、正確には悪夢、ですね。笹原さんにもお話した、中学の時のことです」
荻上の顔が自嘲気味に歪む。自分を責めている時の顔だ、と笹原は思った。
「合宿で、二日酔いで寝込んでる時も見ました。あの事があって以来、
 寝過ぎた時はいつも決まって魘されて目が覚めるんです」
(あの事? 男の子の友達を転校に追い込んだっていうアレか?)
笹原は口を挟まず黙って聞いている。
「私が描いたのが原因なんですから、全部自業自得なんですけど……」
コップを持つ手が微かに震える。揺らされた液体が幾重もの波紋を浮かべた。
「……ただ」
不意に言葉が途切れる。何かを堪えているのか、手の震えが少し大きくなった。
それを見た笹原は、少し考えてから必要最小限の言葉を口にして促した。
「ただ?」
それで気を取り直したように、荻上は再び口を開く。手の震えは未だ治まらない。

「……笹原さんに絵を見てもらってから、夢が変わったんです」
「変わった?」
聞き返す笹原に黙って頷く。
そこでようやく自分がコップを手にしていることを思い出したのか、
口元に運んで少し含むと、再び元の体勢に戻って言った。
「夢の中で、私の前に昔の私が現れて言うんです。『幸せそうね』って。
 最初は笑ってるんですけど、何か怖くて私が何も言えないでいると、さらに続けて、
 『あんな酷いことをしたくせに、全部忘れて自分だけ幸せになれると思ってるの?』
 そう言って近づいてきて、そして……」
小さく息を吐く音。荻上は俯いたまま、ただその声だけが聞こえる。
「本当ならあんたなんてあの時」
(あのまま、死んでいれば良かったのに)
夢の光景が脳裏にフラッシュバックする。同時に頭の中に響く聞こえないはずの声。
手にしていたコップが滑り落ち、床に当たって軽い音を立てた。
こぼれた液体は荻上の心を蝕む闇のように広がっていく。
「荻上さん!」

慌てて声を掛けながら肩を掴むと、荻上は反射的に身を竦ませた。
その顔は今や紙のように真っ白だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。私、あんな酷いことしといて、許されるはずなんてないのに、
 こんな優しくされる資格なんてないのに、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……」
いつの間にか溢れ出した涙と共に、荻上は謝り続ける。
傷つけてしまった誰かに。自分に。目の前にいる大切な人に。
「幸せになんてなっちゃいけないのに、そんな資格なんてないのに、
 一緒にいたいって思っちゃいけないのに、ごめんなさい……」
「荻上さん!」
もう一度呼びかけるも、荻上は聞こえないのか、まるで呪文のようにひたすらに謝罪の言葉を繰り返す。
許しを得るためでなく、何かを償うためでもなく、ただ己を責めるそれだけのために。

(何でそんなに……)
笹原は何故か無性に腹が立った。
自分の無力さにもそうだが、荻上をこれだけ苦しめている自分では分からない「何か」に対して。
そして、切れた。
「荻上さん!!」
三度呼びかけると同時に荻上を強く抱き締める。とにかくもう我慢が出来なかった。
自分が彼女を好きになったのは、決してこんな風に苦しめるためなんかではないはずだ、と。
「幸せになるのに資格なんていらない、優しくされることにも、愛されることにだって、
 資格なんて必要はないよ」
「でも、私は……」
「いいんだ。荻上さんが自分を許せなくても、俺が全部許すから。俺が知ってることも、
 知らないことも、全部俺が許すから。だから」

抱き締めたまま、言葉に思いを乗せて口にする。
「俺と一緒に、幸せになってよ」
お願いだから、と小さな呟き。
その切実な言葉の響きに、荻上は顔を上げようとして、しかし思いとどまった。
まだ自分を否定する心が消えない。笹原の腕の中で荻上は心に浮かんだ疑問をぶつける。
「……何で、そんな」
涙は止まらない。
「こんな私に、優しくしてくれるんですか」
それは言葉こそ違えど、合宿の時に聞いた問いと同じ。だったら、答えも決まっていた。
「……荻上さんのことが好きだから」
だから、今度は躊躇わず言えた。照れや恥ずかしさは多少あれど、胸を張って。

沈黙が流れる。聞こえても、届くのに時間がかかるのだろう。荻上は動かない。
笹原は、ぐっと唾を飲み込むと、これ以上ないくらい赤面しながら言葉を続けた。
「それに俺、……もう、荻上さんじゃないとダメみたいだから」
予想外の言葉に思わずびくりと荻上の肩が跳ねた。見る間に耳や首筋が朱に染まる。
(今、何て……?)
――――荻上さんじゃないとダメみたいだから
笹原の言葉がぐるぐると頭の中を回る。混乱して頭が上手く働かない。何て強烈な告白。
ただ、何処か遠くで、すごく近くで、心を覆う壁にヒビが入る音が聞こえた気がした。
「……あ、あの」
確かめたい、いや、もう一度聞きたい。一番大切な人の口から、もう一度だけ。衝動が荻上を動かす。
「もう一度、今の言葉、言ってもらえませんか」

厚かましい願いだと承知していた。けれど止められない。
俯いたまま、しかし笹原の服をぎゅっと掴んで口にする。胸が熱い。
さっきまでの悪寒はすでに消えていた。
荻上が笹原の服を掴む。その感触は笹原自身へもしっかり伝わっていた。
腕の中にすっぽりと収まる小さな体。この体に今までどれくらいの思いを一人で抱えてきたんだろう。
そう思うと、恥ずかしいなんて言っている場合ではない。
覚悟を決めると、小さく深呼吸をして笹原は言った。
「……俺はもう、荻上さん以外じゃダ」
言い終える前に荻上が笹原に抱きついた。背中の辺りに回される手。
「メ……?」
ぎゅうと顔を押しつけるようにして笹原にしがみつく。
荻上の意外な行動に、笹原は思考停止していた。
「お、荻上さん?」

そう呼びかけるのが精一杯だった。荻上も何も答えず固まっている。
そのまま、しばらく二人とも黙り込んでいたかと思うと、唐突に荻上が顔を上げ、笹原から手を離した。
真っ直ぐに見つめられて、笹原も思わず手を解く。何かを訴えかけるような瞳。
笹原が堪えきれず口を開こうとした時、荻上は頬を真っ赤に染めながら、言った。
「私も……、私も、笹原さんじゃないとダメです。笹原さんのことが、好きです」
ハンマーで殴られたような衝撃というのはこういうことを言うのだろうか。
あまりのことに、笹原の頭の中が真っ白になる。
耳から侵入した荻上の言葉が、つま先から足を上り、やがて全身を伝わって脳内に届く。
ぶるぶると体が震えるのを感じた。かつてない程の喜びで。
「あ、あの、えっと、今……、何て?」
信じられなくて思わず聞き返す。しかし、荻上は顔を背けると、頬を紅潮させたまま言った。

「もう言いません」
「え? いや、だって、俺はさっき2回……」
「ダメです」
ようやく自分を取り戻したのか、いつも通りのつれない素振り。
そんな荻上の姿に、思わず笹原の頬が緩む。
「呪いがかかるから?」
微笑みながらそう言うと、「そうです」とそっぽを向いたまま照れた口調で答える。
けれど、その横顔が少し笑っているように見えて、笹原は力が抜けるのを感じた。
そのまま崩れるように荻上の隣に腰を下ろす。
「笹原さん?」
「いや、ちょっと安心しちゃって力が抜けた」
ははっ、と笑う。

「すみません……、本当にいつも私の所為で」
そう言って再び俯こうとする荻上へ、優しく声を掛ける。
「いや、いいって。俺はそういう荻上さんが好きなんだから」
その言葉に、膝元から笹原へゆっくりと視線が移される。見つめ合う二人。
いつの間にか真剣な表情で向かい合う。
今度訪れた沈黙は、今までのものとはまるで違う柔らかなものだった。
心臓の音が響く。心が目の前の相手を求めている。
吸い寄せられるように、ゆっくりと二人の距離が近づいた。
「ん……」
そっと、けれど確かに触れ合う唇。それは永遠のような一瞬だった。
やがて再び離れ、真っ赤になって俯く荻上へ、笹原がやけに真剣な影のある顔でそっと呟いた。
「床……、拭かなきゃね」

キスをするために座る位置をずらした時、先程荻上が烏龍茶をこぼした水たまりへ
笹原は足を突っ込んでしまっていたのだ。
おかげで貴重なファーストキスの感触は、靴下がじわじわと濡れていく感触に遮られ、
まったく頭に入ってこなかった。
もう一回やり直していい? などと言えるはずもなく、何となくもやもやを抱えた笹原と荻上の夜は
床掃除と共に更けていった。靴下は濡れたまま。

めでたしめでたし。