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*『はじめてのおつかい』 【投稿日 2006/09/29】 **[[カテゴリー-笹荻>http://www7.atwiki.jp/genshikenss/pages/47.html]] 「戦略会議?」  荻上千佳がすっとんきょうな声を上げたのは、目の前の大野加奈子のセリフが一瞬理解できなかったからだった。 「そそ、そーです。会議です」  加奈子は楽しくてしょうがないという表情をしている。 「第二回・荻上さんのコミフェスデビューを現視研で応援しよう会議~!」 「なんでそんなコトしなきゃならないですかっ!」  テンションの上がってくる加奈子の声に負けないように、千佳も声を張り上げた。 「私の個人サークルで参加してるんですからご迷惑はおかけしないって説明したじゃないですか。それになんですか第二回って!」  7月はじめのとある午後。いま現視研部室にいるのは加奈子と千佳、そして二人に背中を向けて履歴書を量産中の笹原完士の3人だけだった。 「なーに言ってるんですか水臭い。荻上さんだって現視研の一員でしょう?メンバーがサークルの趣旨に沿った活動をしてるんですから、手伝わないって手はありません」  加奈子が言葉に力を入れる。 「それに第一回はついこないだやったじゃないですか、荻上さんが当選したの教えてくれた日に」 「う」  千佳の動きが止まる。そのことは……思い出したくなかった。  千佳が夏コミの当選を知ったのは6月のおわりのことだった。冬には覚悟を決めて申し込んだ即売会だったが、数ヶ月を経る間に記憶も覚悟も当時の勢いを失っていた。  いざ当選通知をポストで発見してみると、「自分にできるのだろうか」「漫画なんか描けるのだろうか」などと不安と後悔ばかりが先に立ち、翌日顔を出した部室で千佳は加奈子にぽろりと本心を吐露したのだ。  そんな彼女を加奈子は先輩として友人として励まし力づけ、それに千佳も勇気づけられた。それまでギクシャクしていた二人の仲も、わずかではあったが近づいた日だった……千佳が加奈子にコスプレをさせられたこと以外は。 「あの会議、笹原さんも憶えてますよねー?」  加奈子が笹原の後頭部に話しかけると、彼はこの位置でも判るくらい顔を紅潮させた。 「あー!笹原先輩忘れてくださいってお願いしたじゃないですか!」 「あ、あ、ごっごめん」  真っ赤な顔で振り向いて詫びる。が、千佳の顔を見てあの日のことをさらに思い出し始めたのは明らかだった。頭の上に雲型の吹き出しが見えるようだ。 「えーと、いや、なにも憶えてないよ?ホラあの日俺は部室に顔出さなかったんじゃ……」 「荻上さんのベアトリーチェ、かわいかったですよねー?笹原さん」 「ぶ!?」 「大野先輩~っ!」  笹原先輩に見られた日。あんな恥さらし、一緒の不覚だ、そう思って忘れようとしてるのに。大野先輩のバカ。 「そんなくだらない話ばかりしてるんなら、もう帰りますからね!」  捨てゼリフを投げつけて帰ろうとする。 「荻上さん、からかったのはごめんなさい、でも一人じゃ大変ですよ」  加奈子は立ちあがろうとする千佳を呼び止めた。 「去年の笹原さんたちの話聞いてみて、人手はやっぱり必要だって思ったんです。設営や撤収なんか力仕事もあるし、トイレや食事の間スペース閉めたくないでしょう?せっかく本作るんなら、いっぱい人に見て欲しいんじゃないですか?」  中腰のまま動きを止めて、痛い所を突いてきた加奈子を睨む。  実際、一人で全てをやれなくもないとは思っていた。これまで下調べをして、当日の運営の仕方は頭には入っている。しかし、そもそもサークル参加が初体験の千佳にとっては不安材料も多く、なにより加奈子が言うとおりブースが無人になる時間が惜しかった。  先日の加奈子との話し合いで個人誌を発行する覚悟は決まった。が、どうせ出すなら一人でも多くの人に、自分の作品の出来を見て欲しいのが心情というものだ。  たった数時間の開場時間に、知名度も根回しもない自分の本の前で立ち止まってくれる人が一体どれほどいるというのか、そう思うと、これから制作する作品たちとなるべく一緒に過ごし、目前を通り過ぎる人たちに一言でも自分の漫画をアピールしてやりたいと思った。  食事は最悪、抜いたっていい。だけどトイレは?冬にも思い知ったあの熱気の中で具合が悪くなったら?不測の事態が起こったら? 「わたしたちも荻上さんが頑張ってるの、知ってますよ。だから、ちょっとでいいからお手伝い、させてください。ね?」  火のつきそうな千佳の視線をものともせず、にこにこと笑いながら加奈子が提案する。ようやく汗が引いてこちらを見ている笹原も、千佳を見つめてうなずいた。 「……わかりました。確かに人手があるに越したことはないですから!」  我ながら素直じゃないなと思いながら、根負けした風を装い椅子に座る。加奈子の笑顔が一段と輝いた。 「ありがとうございます!わたし、頑張りますね。笹原さんも頑張りましょうね」 「あ。うん、そうだね」 「いや、お礼言うの、私のほうですし。すいません。ありがとうございます」  詫びるのも感謝するのも慣れていない自分の声が、まるで棒読みのように聞こえる。それでも二人は、にこにことこちらの言葉を聞いている。イヤミでもなんでもないのは、もう解っていた。現視研の人たちというのは、こういう人種なのだ。 「じゃあじゃあ、いつにしましょうか、荻上さんちに行くの」 「え……」 「はあっ?なんで私の家なんですか!」 「いーじゃないですかぁ、リーダーの家に集まるなんて決まりみたいなもんですよ。参加要領とかいろんな資料も荻上さんちなんでしょ?持ち歩くより、自分で保管してるほうが絶対安心ですよ」 「あー。去年やった時にも入場券見当たらなくなって慌てたんだよね、ギリギリで」 「……わかりましたよ!もういいです私の家で」 「荻上さん、そこはもっと明るく『Welcome home,my dear~』って」 「英語なんか喋れません!」 「Oh,no」 「おーのーじゃねっスよ、いっくら大野先輩だからって」 「ぷっ」  笹原が吹き出した。 「?」 「どうしたんですか?笹原さん」 「あー、あ、ごめん」  慌てた様子で謝るが、笑いをこらえているのが明らかだ。 「いや、大野さんと荻上さんの掛け合い、なんかテンポよくなってきたなーって思ってさ」 「あらまあ」 「そっ……!」  まんざらでもない様子の加奈子と、条件反射的に怒り出す千佳。この対比がまた笹原のツボに入って大爆笑する。 「あっはははは!」  こんなことで笑えるなんて、就職活動でそうとう疲れてんだなァ……そんなふうに思っていると、いつのまにか隣に寄ってきた加奈子が紙片を見せた。 「荻上さん、ここだけよろしく」 「は?」  戸惑う暇も与えず千佳を引っ張って立たせ、今度はなんだと興味津々の笹原に視線を送る。 「曜湖と!」  千佳の脇腹をつつく。紙切れに書いてあった文字。『荻上さんのセリフ→』……。 「あ、あっ……鳴雪のっ」 「「げんしけんシスターズでーす!」」 「ってナニやらせんですかーっ!」  セリフを合わせるばかりかうっかりポーズまでとってしまい、慌てて抗議するものの、加奈子はどこ吹く風だ。 「ノリいいじゃないですか荻上さん。ほら笹原さんもたいそうお気に召したようですよ」  悶絶している笹原を指す。笑いすぎで声も出ないらしい。 「笹原さん笹原さん、今度は咲さんに『ミナミハルオでございます』って言ってもらうバージョン、準備しときますから」 「古いっすよ大野先輩」 「も、やめて……死んじゃうよ俺」 「ほら、笹原さん困ってるじゃないスかぁ」  笹原が楽しんでいるらしいのはありがたい。が、あまり恥さらしな真似ばかり彼の前でしたくないのも本音だった。これまでの千佳の記憶でも、笹原の前では自分はまったくいいところを出せていない。  思い起こしてみれば、1年前の夏コミ準備ではみんなが一生懸命なときに勝手に泣き出し、冬コミでは変装までしてやおい同人誌を買いこんでいるのを見つかり、先日はついに恥ずかしいコスプレまで……。 「ふざけてるんなら本当に帰りますよ!」 「あああごめんなさあい~!」  まったく、3人が集まれる日付を確認するだけのことになぜこんなに時間を食わされるのか。結局『第二回ナンタラ会議』は本題3分、雑談27分を費やして終了した。  **** 「それじゃ来週、よろしくお願いします。ご迷惑かけます」 「だから硬いですよ荻上さん、もっと楽に楽に」  いずれにしても気分がそがれた千佳は、テーブルの上の荷物を片付け始めた。今日はもう講義もないし、自宅で原稿の続きでもしよう。その前にペン先のストックが切れているし、気分転換に買い物でもしてこようか。 「あれ、荻上さん帰っちゃうんですか?」 「ええ、あとは家帰ってやります」 「それじゃ、俺も出るよ。大野さん4限あるんでしょ」 「あ、すいませえん。履歴書書き、はかどりました?」 「ご覧のとおり。ちょっと失敗しすぎちゃったよ、もう少し買ってこなきゃ」  あ。千佳の頭にセリフがまたたいた。『あ、私も生協寄るんで、一緒に行きませんか?』どうせついでだし、さっきの無愛想な態度を詫びるチャンスもあるかもしれない。 「あ……」  口を開くと同時に、笹原の携帯電話が着信を告げる。聞きなれた着メロではない、普通の呼び出し音だ。 「あ、ちょっとごめん……ハイ笹原です……あ、はいお世話になります。先日はありがとうございました」  彼が一気に緊張したのがわかる。たぶん就職の面接先だろう。これまでにも何度か同じ場面に遭遇していた。 「はい、はい……え、ホントですか?」  口調が明るくなった……いいニュースだろうか。同じように固唾を飲んで見守る加奈子と顔を見合わせる。 「ええ、はい、大丈夫ですよ。お願いします、ありがとうございます。15時半に本社ですよね、はい、行けます」  そのあともしばらく会話が続き、電話は切られた。笹原は時計を確認すると、壁にかけてあったスーツを手にする。加奈子が聞いた。 「笹原さん、いいお話ですか?」 「うん、二次面接やるから来いって。福間書房」  嬉しそうに答える。大手出版社の名前に、千佳も心が浮き立った。 「あ……おめ」 「ええー!すごいじゃないですか笹原さん!」  おずおずと発せられた千佳の声はしかし、アメリカ仕込みの加奈子の大声にかき消された。 「あ、ありがとう、でもこの先が長いからね。それにもう出なきゃ。あ、履歴書どうしよ……ここに置いておいて……いや、明日も朝から出ちゃうし……しょうがないな、持って行くか」 「……ぁ、あのうっ!」 「わっ、え、なに?」  勇気を振り絞って出した声は、今度は少々大きすぎたようだ。笹原も加奈子も、目を丸くしてこちらを見ている。 「あ、すいません……私、帰る前に生協で買い物して行こうと思ってたんですが、その」  笹原に目を合わせられない。余計なお世話じゃあるまいか。断られたらどうしよう。 「履歴書、ついでに買っておきマスよ?……それに、その書きあがった分も、笹原さんの家にお届けするくらい、なら」  言ってしまった。お節介に取られないだろうか。お節介だよなあ。 「あ……ありがとう、荻上さん。でも迷惑じゃ……」  笹原が遠慮しそうだと思ったところまでは予想通りだった。が、その声にかぶせて、加奈子の予想外の大声が響く。 「よかったじゃないですかぁ笹原さあん!」 「え?」 「笹原さん、次の会社の履歴書なんか持って歩いたら面接の気迫に欠けますよ!それになにかの拍子に面接先で見られちゃったら大マイナスじゃないですか」 「あ、なるほど」 「せっかく荻上さんがああ言ってくれてるんです。甘えない手はないですよ!」  加奈子が千佳に目配せを送る。千佳も慌てて言葉を重ねた。 「あっ、ほっ、ホントに大丈夫ですついでですから!笹原さんの家の場所も判りますし、あの、ポストにでも入れておきますから」  笹原は千佳を見つめる。そして、ほっとしたように微笑んだ。 「……ありがとう、荻上さん。それじゃ、お願いしてもいいかな」  笹原の役に立てる。それだけで、なぜかは判らないが安堵感が心に広がった。まあこれで、少しは自分のイメージを挽回できる。それだけでもいいではないか。  封筒に入れた履歴書の束と、今から買う分の代金を受け取る。三人で部室を出て、加奈子がドアに鍵をかけた。 「それじゃあ荻上さん、ごめんね、ありがとう。ポストに放り込んでおいてくれればいいから」 「はい、わかりました」 「笹原さん笹原さん。合鍵渡しちゃったらどうですか?」 「……ナニ言ってんの大野さん。それじゃ行ってくるね」 「頑張ってくださいね!ほら荻上さんも!」 「あ、頑張って……クダサイ」  スーツの上着を肩にかけて駅へ急ぐ笹原の背中に、やっとの思いで声をかける。片手を挙げて振り向き、笑ってくれた笹原に、もっと大きな声で言えたらいいのにと思った。 「荻上さん」  もう見えなくなった廊下の先をぼんやり見ていると、加奈子に声をかけられた。 「あ、はい」 「荻上さんも頑張りましょうね!」  顔中に力を込めて自分に笑いかける加奈子に、そこまで気合を入れなくても、と思う。とはいえ、この雰囲気に慣れてきている自分がいるのも確かだった。 「ありがとうございます。原稿描き、頑張りますね」  今のセリフは自然に言えた。自分としては満足だが、……なぜか加奈子の表情は微妙だった。 「……あれ?私なにか変なこと言いましたか?」 「いっいえいえ、なんでもありませんよ。じゃ、わたし講義あるんで失礼しますね」 「はい。じゃ、また」 「さよなら。……荻上さん」  きびすを返して歩き出すが、数歩で加奈子から呼びかけられた。歩きながら振り返る。 「はい?」 「頑張ってください、ね!」 「だーから頑張りますって!」  まったくおかしな人だ。原稿頑張るって言ってるでねェか。  自分の頬が熱くなっているのはあえて無視して、千佳は売店へ急ぎ足で向かった。  ****  そして……そして数時間後。  千佳は現視研の名簿から書き写した笹原の住所を見つめながら、夕焼けの住宅街を歩いていた。顔には妙な疲労感が見て取れる。 「……なんだってこんなことになっちまったのか」  もう何回繰り返したか判らない呟きをもらし、ため息をつく。  つまづき始めは生協の売店だった。  文具売り場へ行くなり、学生と店員との話し声が聞こえてきたのだ。 「ええ~?おばちゃんそりゃないよォ!」 「ごめんねー、さっき来た学生さんが残ってた履歴書根こそぎ買ってっちゃって」  耳を疑い近づいた千佳に、続いて言葉が聞こえてくる。 「明日の朝イチで入るから、それ待ってね、すいません」 「もー。いいよ、コンビニ行ってくるから」 「ほんとごめんねー」  事情は飲み込めた。学内の売店はここしかなく、ようするに手近に履歴書用紙を買う場所がない、ということだった。 「(困ったな。……買っておくって言っちまったし、これで手ブラはねえよなー)」  千佳は立ち止まって考えた。 「(コンビニは……なんか間に合わせっぽくて印象良くねえな……『え?わざわざ街まで出て買ってきてくれたの?荻上さん、俺嬉しいよ(感涙)』……ちょっと行ってくっかな、どうせヒマだし)」  降ってわいたイメージアップのチャンス。それに、言いつけられた買い物くらいこなせないでどうする。モノレールで10分のターミナル駅には大きなショッピングセンターがあるし、行って帰ったって小一時間の散歩だ。  ……そう思ってたどり着いた文具店が、なんと改装工事中だった。 「(あー、あー、えーと、町ん中の文房具屋……場所も知らねしこれでまた定休日とかいうオチがついてたら目も当てられねし、そっそうだ、絶対あるトコ!)」  もうこの段階でテンパった千佳の脳には、はるばる特急に乗って新宿に出るしか選択肢がなくなっていた。途中にもターミナル駅や大きなデパートのある街もあるのだが、不運が重なってくると悪魔にでも魅入られたような気分になってしまう。 「(時間がかかるって言ったってここまで来てれば片道30分だし、ほら大きな画材屋だってあるでねェか、そーだそーだちょうど絵の具なんかも見ときたかったんだ、ええい行っちまえ)」  ……と、いったことがあって、千佳の帰還がこんな時間になってしまったのだ。  実際買物はスムースに済んだし、ペン先のほかにも以前から使ってみたかった彩色具も買うことができた。さらにせっかく新宿まで来たんだしとばかりにいろいろ他の買い物までしてしまった千佳がようやく笹原の家を探し当てたときには、もう日が暮れようとしていた。  アパートのドアをノックしてみるが返事がない。彼はまだ帰宅していないようだ。 「(まだ帰ってねェのか、まあでも余計な心配させずにすんでよかった)」  紆余曲折はあったがきっちり用事を果たせることにほっとしながら、バッグから文具店の紙袋を取り出す。ドアノブの下の郵便受けを見つめる。 「(コレだけ放り込んで帰ったら、そっけなさ過ぎるかな?手紙かなんか、つけた方がいいだろか……いやいや、頼まれたモン買って来ただけなんだから……でもなにもナシだと、迷惑してたみたいに取られるかな)」  紙袋を見つめながらまた堂々めぐりを始める。知らず知らず、思考が声に出ていた。 「電話かメールでもしとくか……『いま着きました。履歴書、ポストに入れておきますね』……用件伝えるためだけにメールすんのもなァ」  仮想メールの文面を読み上げる声が乙女モードになっているが、これも本人は気付いていない。 「……『面接お疲れさま!頼まれたものと一緒に栄養ドリンクも買ってきました。これで元気だして下さいね』いや買ってねェし……あ、でも今から買ってきて」  振り向いた千佳の目の前に、人の影。 「荻上さん?」 「ひゃあッ!」  そこには笹原が……ちょうど帰って来た彼が、目を丸くして立っていた。 「さ……」 「え、荻上さん、こんな時間にどうしたの?」 「あ……っ、あの、頼まれものを」  狼狽しながら、とにかく手に持っていた用紙を手渡す。笹原は受け取ったものの、新宿のデパートの紙袋に首をひねっている。 「え、あ、ありがとう……って、えっ生協で買うって言ってなかった?」 「それが……売り切れで」 「それでわざわざ新宿まで行ったの?」 「や、ちょ、ちょっと買い物もありましたし」 「それにしたって……」  こちらを見る笹原の目つきが『それにしたってこんな無駄なことを』と言っているようで、いたたまれなくなる。 「あっ、す……すいません、それじゃこれで」  感情が爆発しそうになるのを感じて、笹原の脇をすり抜けようとする。と、笹原がその手を掴んだ。 「荻上さん、待って!」 「は……っ」 「あ……びっくりした?ごめん」  よほど驚いた表情をしてしまったのか、手を離して詫びる。 「……荻上さん、とんだ手間かけさせちゃったね。ごめんね、ありがとう」 「いっいえ……さっきも言ったとおり、ついでですから」 「あの……せっかくだし、お茶でも飲んでく?」 「……え?えええ?」 「あ、あー、いや、きたない部屋だけどまあ掃除くらいしてるし、その……なんだ、お礼……ってほどにもなんないか、えーっと」  目の前の人物が動揺しているのを見て、千佳はようやく我に返ることができた。 「あ、あの、ありがとうございます。でも今日は帰ります。笹原さん、お疲れだと思いますし、明日も朝から面接ですよね」 「え……あ、うん」 「お使い、こんな時間になってかえってご迷惑おかけしました。でも、また何かあったら気にせず言ってください。それじゃ失礼します」  一気に喋って、くるりと体を回転させて歩きだす。今度は笹原は引き止めなかった。 「……あのっ」  その代わりに、こう話し掛けてきた。 「来週、打ち合わせ、よろしくね。楽しみにしてるから」  千佳は体をわずかに回し、顔を彼に向ける。笑えればいいのに、と思うが、今の自分には無理そうだ。 「はい、よろしくお願いします……私も」  せめて、できるだけ普通の顔をして、彼に答える。 「私も、楽しみですから」 「うん。じゃあね」 「はい、おやすみなさい」  彼の視線を感じながらアパートを出て、自宅に向かって歩きだす。笹原のアパートは通路の蛍光灯も暗く、これなら赤くほてった顔は彼に知られずにすんだだろう。  『楽しみにしてるから』笹原の言葉が脳内にリフレインする。とっさに握ってきた手の温もりを思いだす。どうしたことかそれに重なって、加奈子の『頑張って下さいね』という言葉も浮かんできた。  一心不乱に歩く耳に、ようやく笹原が部屋に入る音が聞こえた。充分タイミングを測って、立ち止まり、振り返る。  遠くに見えるアパートのドア。あの奥に、笹原さんがいる。今日は、ちょっとは役に立てたろうか。  ふと、さっきの自分を思い返す。笑顔こそ見せられなかったが、一生懸命、自然な会話をしようとした自分。うん、あの自分は悪くなかったんじゃないかな。けっこういいんじゃないだろうか。あれなら、……ええと、そう、信頼できる後輩。信頼される後輩になれてると思う。 「……あ。あれ?」  ふと気付いて頬に手を当てる。緊張のせいかなんのせいか顔が赤くなっているのは感じていたが、……あれ。笑ってる。 「ふ……ふふっ。うはー、なんだコレ。うふふっ」  頬の筋肉がひきつれて戻らない。えーと、そか、おつかい無事に終えて安心してんだな、私。  笑いかけてくれた笹原の顔が脳内によみがえる。かつて、落書きノートに描いたみたいな強気の、包み込むような笑顔を見せる彼。  ああ、私は笹原さんのことを……ええっと……うん、『尊敬』、してんだなァ。  家路をたどるステップも軽い。大荷物の重さも感じない。時々軽くスキップしているのも、本人は気付いていない。  この先、まだまだ暑くなる初夏の夜を、千佳は踊るような足どりで帰っていった。 おわり

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