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*夕立 【投稿日 2006/06/10】 **[[カテゴリー-笹荻>http://www7.atwiki.jp/genshikenss/pages/47.html]]  9月もまもなく終わろうというある日の夕暮れ、大学前駅の改札で笹原と千佳は思案していた。 「降りだしちゃったね」  大きな紙袋を片手に下げた笹原が千佳に笑いかける。千佳もハンドバッグと一緒に、アニメ ショップの手提げ袋を持っている。  今日は秋葉原まで二人で買い物に出ていたのだ。天気予報では降水確率はないに等しく、 空気も乾燥していたのだが。最後の最後、帰り着く直前のモノレールの窓を強い雨が叩き 始めたのは、隣の駅を出発した直後だった。 「うーん、距離的には部室が一番近いんだけど……いつやむかも判らないしなあ。ねえ荻上さん」 「はい?」 「ここからなら荻上さんちより俺の部屋のほうが近いんだけど、来る?」 「え、笹原さんの家ですか?」 「うん」 「……ええ……いいですけど」 「よし、決まり。ちょっと全力疾走しなきゃならないけど、ごめんね」 「いえ……あ」  笹原が被っていた帽子を千佳の頭に載せたのが合図だった。紙袋を懐に抱え込み、目配せをする。 千佳も笹原の帽子を被りなおし、荷物を抱きしめた。 「行こう!」 「はっはい」  雨粒が地面で弾ける。滝のような土砂降りの中、二人は走り出した。 **** 「ひゃー、冷てー。まいったな、あと5分もってくれたらよかったのにね」  笹原は玄関で上着を脱ぎ捨て、バスルームに手を伸ばしてタオルを2本とった。1本を千佳に 手渡しながら、もう1本で自分の髪の雨粒をぬぐう。 「天気予報、アテになりませんね」  千佳も入り口に荷物を置き、タオルを手に笹原に続いて部屋に入る。布のキャップは雨具の 役を果たせず、いつもはツンと上を向いている筆の穂先が力なくうつむいている。頬から顎 にも水滴が流れ落ちる。キャミソールの上に来ているシャツはぐっしょり濡れて、体に張り 付いてしまっていた。 「夏の終わりの夕立って感じだね。あ、荻上さん」 「あ、はい」 「そこお風呂だから。シャワー浴びてきなよ」 「えええっ?や、あ、あの大丈夫ですから」 「大丈夫じゃないでしょ。一応ちゃんと掃除もしてるし、このままじゃホントに熱出ちゃうよ」 「でっでも、あのその」 「荻上さん!」 「!……っはいっ」  千佳が恥ずかしがるのは笹原にも充分解っていた。本当のことを言えば、こちらだってこんな 提案は正直どうかと思っている。まるで下心満載にしか聞こえないではないか。……まあ、 もちろん期待がないといえば嘘になる。  だが、今の笹原にとってはそのことよりも、純粋に彼女の健康を案ずる気持ちのほうが大き かった。千佳に会うときにだけ努めている「強気モード」の表情を作り、見つめる。効果は 抜群だ。両肩に手を置くと千佳はうつむいて身を固くするが、避ける様子はない。 「体だって冷えてきてるじゃない。いいから暖まってきなよ」 「……はい。ありがとう、ございます」 「タオルは積んであるの使っていいし、シャンプーとかは俺のでもいいのかな……ああ、 恵子がなんか持ち込んでたからそれ使えばいいか。濡れた服は乾燥機使って、洗濯機の上」 「すいません」 「謝ることないでしょ。あいつ今夜は渋谷でこっちには来ないってメール来てたし、気ぃ 使うことないからね」 「はい、……じゃ、じゃちょっとシャワーお借りしますね」  ようやく顔を上げ、頬を染めて笑顔を見せてくれる。笹原はほっとした。男の本能が 千佳を抱きしめようとするが、かろうじて理性がそれを押しとどめる。 「ほんとゆっくりしてきてよ。俺その間にこの部屋を何とかしなきゃならないし」 「ありがとうございます。でもお気遣いいらないですよ……じゃなくてなにか隠そうとしてる んですか?」 「いっ、い、いいから行ってきなって」 「……はい、じゃ」  玄関からバッグをとり、千佳の後姿がバスルームのドアを閉めるのを見守る。と、ドアが また開いた。 「あの、笹原さん」 「ん?あれ、なにか要るものあった?」 「……覗かないでくださいね」 「のぞ……っ。……はい」  ふたたび閉じられたドアを見つめて笹原は立ち尽くしていた。覗こうなどとはもちろん考えて いなかった。が、今のやりとりのおかげで想像力に火が点いてしまったのだ。頭の中にもやもやと 妄想が浮かんでは消える。すでに二人は恋人同士だ。彼女の華奢な体を抱きしめたことも1度や 2度ではない。だがこの新しいシチュエーションは刺激的だった……いま俺の部屋に荻上さんが。 荻上さんが俺んちの風呂に。 「……ふう。俺も着替えよ」  肩にかけたタオルで顔を拭く。頬が火照っているのが冷たいタオル越しにわかる。クローゼット に向かいながら頭を振ると、耳の穴からピンク色の雫がこぼれ落ちたような気がした。 ****  一方。千佳もバスルームの中で、頬を押さえていた。 「……わっ私……笹原さんの部屋に……」  笹原の部屋に来たのは今日が初めてだ。初めてお互いの気持ちを確認した日からすでに半月近く になるが、そのうち半分は笹原の泊り込み研修で会うことができなかった。残りの日々も外で デートして別れるか、笹原が千佳の部屋を訪ねるパターンだった。こんなに急に彼の家に上がり こむなど、千佳は想像もしていなかったのだ。 「やべー、私なんも用意してねーぞ」  今日のデートも、デートというよりそれぞれの「買い出し」が主目的で、買い物と食事を 終えたら二人とも自宅に帰る予定だった。大量の同人誌とゲームソフトを抱えてお洒落な レストランというわけにもいかず、開店直後の客のいない居酒屋で二人で顔を見合わせ苦笑した のがほんの数時間前のことだ。 「っくしゅ。いけね」  体の奥に寒気を覚え、我に返る。本当に風邪をひきでもしたら笹原に申し訳ない。  髪のゴムを外しながらバスルームを見回す。千佳の部屋よりかなり狭いが、バスとトイレは 別になっている。彼女の立っている脱衣所には洗濯機と乾燥機、服やタオルの積まれた棚が 隙間なく並んでいた。案の定というか笹原はこういったものの整理に頓着しないらしく、天井は 洗濯紐が張り巡らされ、クリーニング店のハンガーにかかったままのシャツやスラックスが イタリアの裏町みたいにぶら下がっている。部屋の奥にもクローゼットが見えたので余裕が あるときには片付けるのだろうが、この状態でカビに侵食されなかったのが奇跡に思える。  綿のブラウスを脱ぎ、体にまとわりつくキャミソールも頭から抜いた。いつも履いている カーゴパンツもすっかり雨にぬれ、手にとってみるとずっしりと重くなっていた。ちょっと 考えて、ソックスもまとめて乾燥機に入れ、「スピード乾燥」のスイッチを入れる。  ごぅん、と鈍い音を立てて機械が動き出した。  下着は乾燥機には入れないことにした。乾いたタオルをもう一枚借りて、重ならないように 包んでおく。さっき笹原から渡されたタオルを体に当てたまま、千佳はふとドアのほうを見る。 「うわ、笹原さんちですっ裸だよ、私……」  私、ここでなにしてるんだ、千佳は考える。恋人の部屋でシャワーを浴びる。することは ひとつでねえか。いやいや、と頭を振って考え直す。笹原さんはそんなこと考えてない。私を 心配して、シャワーを勧めてくれたんだ。自分もびしょ濡れだったのに。いやらしい考えが あったら、「一緒に入ろうよ」くらい言うだろう……強気の笹原さんなら。 『ダメですよ、斑目先輩。風邪なんかひかれたら僕が困る。一緒にシャワーでも浴びましょう』 『そんな……雨の中走らせたのは笹原、お前じゃないか』 『それがどうかしたんですか?まるで先輩の服を脱がせるために僕が雨まで降らせたみたいですね』 『笹原……』 『ひどい言いようだなあ、僕は魔法使いじゃないんですから』 『笹原……寒いよ』 『こんなに濡れて……でも大丈夫ですよ斑目先輩。僕がちゃんと暖めてあげますからね、魔法 なんか使わずに』 「っくしゅ。ああ、やべえやべえ」  あわててユニットバスに移り、シャワーの蛇口をひねる。晩夏の生ぬるい水道水はすぐに 熱湯になった。 ****  笹原が服を着替え、女性に見せるには不都合な物件がいろいろと散乱していた部屋の体裁を どうにか整え終えた頃、バスルームのドアノブがかちゃりと音を立てた。そちらへ顔を向けると、 千佳がドアの向こうから笹原を探していた。赤くほてった顔と一緒に湯気と、乾燥機の少々 耳障りな音がわずかな隙間から流れ出てくる。 「……あっあの笹原さん、ありがとうございました」 「あ、上がった?ちゃんと暖まった?もっとゆっくりしててもよかったのに」  落ち着かない笹原は立ち上がり、千佳の方へ足を踏み出す。 「あのそれで、服……」  口ごもりながら、ドアをあける。 「服?ああうん、恵子が色々置いてってるからジャージでも着……て……」  笹原の体がこわばる。笹原は言おうとした言葉の通り、彼女は妹の部屋着でも見くつろって 出てくるものと思っていた。  よもや。 「……これ、お借りしましたんで」  よもや、素肌に笹原のワイシャツを着込んで現れるとは考えてもいなかった。  桜色に上気した肌。ボタンふたつ外した襟元からは鎖骨のくぼみが見える。袖をぐるぐると 捲った腕。考えてみればちょっとしたミニスカートよりよほど丈があるかもしれないのに、 シャツの裾から覗く素足は驚異的な引力をもって笹原の視線を捕らえ、離さなかった。  ごぅんごぅんごぅんごぅん。乾燥機がやかましい音を立てる。なにかうまいことを言おうと 思うが、乾燥機の音が邪魔をして何も考えられない。顔全面に汗をかいているのが自分でも判る。 今の自分に比べれば、雨に濡れて帰って来たときは砂漠のスルメより乾燥していたに違いない。 「……お」  やっと一言搾り出したとき、千佳は笹原に抱きついてきていた。 「あまり見ないでください……恥ずかしいです」  さっき頼もしいアシストを見せた理性は乾燥機が干上がらせてしまったようだ。笹原は渾身の 力で千佳を抱き締める。 「痛っ」 「あ……っご、ごめん」  口では詫びるが、腕から力が抜けない。必死で別のことを考えようとする笹原の頭の中に ようやく浮かんだのは、ゲームのコマンド選択画面だった。  画面の中央には彼の見ている風景。千佳が頬を染めてこちらを見ている。セリフ窓には 『あまり見ないでください……恥ずかしいです』  コマンドの選択肢は3つあった。  ・押し倒す  ・押し倒す  ・押し倒す  ああ、一本道じゃないか。なんだこのクソゲー。てゆーか俺か。あーもう。  彼は頭の中でコマンドを選択し、実行キーを押した。 ****  乾燥機の音はずいぶん前に聞こえなくなっていた。笹原と千佳は万年床の布団にくるまって 抱き合っている。 「びっくりしたよ。荻上さんがあんなカッコで出てきて」 「……改めて言わないでください。すっごい恥ずかしかったんですから」 「でもなんでまた……」 「んー……秘密です」 「えー」 「秘密ですっ!」  笹原の胸元にもぐりこみ、千佳はつぶやいた。さっきちょっと感じていた寒気もなくなった。 笹原の体温が彼女を暖め続けてくれたおかげだと思った。笹原の体調のことも気になっていたが、 ……こんなに元気なら心配はいらないだろう。 ****  ところで、時は少し戻る。  タオルで体を隠して、千佳は脱衣所を見回してみた。天井まであるスチール棚には、それぞれの 段に少しづつの衣類。乾燥機を使ったあとの一時置きだろうか?さすが男、だいぶ古い物も 一緒になっているようだ。  見渡しながら、気づいた。棚の半分は彼の妹の服だ。  ジャージやジーンズ、シャツなどがきちんと畳まれて控え目に入っている。あんな風体でも ちゃんと女の子だったというコトか。兄に自分の服を洗濯させるなどということはいろいろな 意味で考えていないのだろう、自分で洗って自分でしまっているのだ。ピンときて、ブラウスを つまみあげてみる。意外とおとなし目なショーツとブラが見えた。普段着用ということか。  なんで?千佳は思った。なんでこの妹は兄の部屋をクローゼット代わりにしているのか。 自分には弟がいるが、自分の下着を(たとえ見向きもしないだろうと判っていても)あいつの 部屋に置こうなどとは思わない。相手を馬鹿にしているのだろうか。  浴室へ入ってまた思う。壁ぞいに並んだシャンプーやボディソープ……が、二組。あの ケバい女はそんなに頻繁にこのバスルームを使っているというのか?笹原のものとおぼしき トニックシャンプーや青いボトルのボディソープは隅に追いやられ、花のイラストのシャンプーと、 けっこう高いコンディショナーが壁の中央に堂々と座している。あんな痛んだ髪にこんなもの 無駄じゃない。なに考えてんだあの小娘は。  湯温を調節し、体を流す。雨と汗が、水滴となって千佳の体を滑り落ちていく。頭から シャワーを浴びながら、千佳は男性用のボディソープを手に取った。ちらりと恵子の ソープに視線を投げる。 「ローズウォーター?……ふん、見たことないヤツだけど、私フローラル系よりシトラス系の ほうが好きなんだよな。こっちのほうがまだ雰囲気近えし」  独り言をつぶやきながら、ボトルのすぐ上にかかっていた垢すりタオルを使う。恵子のもの らしい柔らかなボディスポンジはあえて見なかったことにした。 「シャンプーかあ。いっぺんトニックシャンプーって使ってみたかったんだよな。……うわ、 効くー」  リンスは……帰ってからもう一度入浴すればいいだろう。トニックシャンプーで一瞬 『笹原……』『斑目先輩』というやり取りが聞こえてきそうになったが、そこは目をつぶって 振り払った。  ユニットバスの壁に、後から貼り付けたような鏡があった。これも恵子だろうか?ある日 これを発見して、大家にばれるのを心配している笹原の困惑顔が目に浮かぶようだ。四角い ガラスの向こうに、裸の千佳が映っていた。 「……私」  鏡の中の自分の顔に手を当てる。この間、笹原さんが触れてくれた頬。笹原さんがキスして くれた唇。笹原さんが引き寄せた肩。笹原さんが抱きしめてくれた腰。  笹原さんは私を好きだと言ってくれた。こんな私を。ひとにひどいことをして、変わりたいと 願って、それでも変われない私を。笹原さんは私を変えてくれるの?私を支えてくれるの?私は 笹原さんになにがしてあげられるの? 「私……笹原さんのことが……」  その先は言葉にはせず、想いを飲み込む。笹原さんは解ってくれたし、飲み込んだ想いは 私の体の中でどんどん育っていくのだ、と思った。私の体で育った想いは、いつかまた笹原さんに 捧げよう。彼が望むことはなんでもしてあげよう。彼が私を受け止めてくれたように、私も彼を 受け止めよう。  出しっぱなしにしたシャワーで、バスルームに湯気が立ち込めているのに気づいた。やべ、 水道代すげえぞ、きっと。  あらためて体を流して湯を止めたとき、恵子のシャンプーがまた視界に入った。  ムカ。  それを無視し、体を拭いて脱衣所に戻る。洗面台にも鏡がある。鏡の前には……歯ブラシが2本。 笹原のものと恵子のものだろう。お風呂グッズと着替えまで置いている彼女なら、歯ブラシくらい 当たり前にあるはずだ。コップだって2個並んでいるではないか。  ムカッ。なんで歯ブラシがお揃いなんだ。グリーンとピンクの柄。コップの形は違うが、色が 歯ブラシと合わせてあるのがムカつく。歯磨きチューブがひとつしかないのがムカつく。 頭に血が昇って、おあつらえむきのシチュエーションにも笹×斑妄想さえ出てこない。  歯ブラシの横に笹原のシェーバー。さらにその横には女性用の剃刀が置いてあった。  ムッカ~。  部屋に来た当初は、傘を借りて早々に帰ろうと思っていた。シャワーを勧められた後も、 服が生乾きでもいいから帰らせてもらうつもりだった。しかしたった今、千佳には別の目的が できていた。  脱衣所の服に目を走らせる。目当ての衣装はすぐ見つかった。 **** 「……笹原さん、もう眠いですか?」  布団の中で、千佳は目をつぶっている笹原に声を掛けた。彼はすぐ目を開けた。 「ううん?まだ……10時前じゃない。どうしたの?」 「雨……やんだみたいですね」 「ん、そうだね」 「あの、おなか、空きませんか?」 「そういえば。晩飯早かったからな……あー、冷蔵庫空っぽだよ。ごめんね、そこのコンビニで 何か買ってこようか」 「じゃあ、一緒に行きませんか?お買い物」 「え、待っててくれていいんだよ?」 「一緒に行きたいです」 「……うん、そうしようか」  着替えて部屋を出るとき、千佳は笹原に言った。 「あの、……歯ブラシとかも……買いたいんですけど」  ドアノブを持ったままこちらを見た笹原の顔が、みるみる真っ赤になる。  空では月も恥じ入っているのか、消えそうに細くなりながら二人を照らしていた。
*不快指数 【投稿日 2006/07/20】 **[[カテゴリー-笹荻>http://www7.atwiki.jp/genshikenss/pages/47.html]] 七月のある週末のこと、生ぬるい空気の中、小雨が金曜夜から しとしとと降り続いていた。そんな中、土曜も朝から起き出して 荻上は、夏コミに向けての原稿を書いている。 個人的なものと、現視研としての出品分なので、描くのが早い 荻上も大変なようだ。部屋は修羅場らしく衣類やゴミが散らかり、 台所の流し台にも洗い物が溜まっている。 クーラーはつけているが、その額には汗が浮かび、前髪が 数本、ぴたりと張り付いている。 いや、前髪だけではない。Tシャツも背中に張り付いて うっすら透けていて、かなりの汗だ。 「あーーもう!動いてないのに汗が出るなんて!」 ガタッと立ち上がると台所の冷蔵庫に向かうのだった。 台所へ移動しただけで眼鏡が曇るほどに湿気ている。 「はー、シャツ、着替えよう…。」 寝室の扉の向こうで、タオルを使う音と衣擦れの音が聞こえてきた。 ごしごしと汗を拭いて着替えたようだが、 「…着替えてもすぐ汗で濡れるって!うー、ムカツク!」 こんなに独り言を言うほどの状態に追い込まれている。 しかし原稿は、やらねばならない。 その時、「~~~♪」机の上の携帯が鳴る。 (あっ、笹原さんだ。) 電話をぱかっと開くと、受話ボタンを押す。 「はい、荻上です…や、いえいえ、すみません、原稿が―――。」 しばらく電話に耳を傾け、話を聞いているようだ。 「いえ、嬉しいんですけど、来て貰っても原稿やってるから、  今週末は無理ですよ。うちの部屋には入れませんから。」 そして左手で額の汗をぬぐいながら、また笹原の言葉を聞いている。 「え?そんなつもりじゃ……。そんな事言ってないですよ!」 「もう!私だってホントは―――!……もう、いいです!」 そう言って電話を切ってしまった。 その携帯電話の液晶画面をしばらく見続けると、ティッシュを1枚取り 表面に付いた汗をふき取りながら、溜息をついた。 「はー、もう…いくらなんでも、こんな荒れた部屋に入れるなんて  恥ずかし過ぎて絶対、嫌なのに…。」 ティッシュをゴミ箱へ投げつけてから、机の上の原稿に眼をやる。 「私も行きたいけど、原稿有るし…会いたいのに…それを!あーもう!」 ソファのクッションをボスボスと殴りつける荻上。 こんな状態では原稿も出来ない…かと思えば、ちょうどハードかつ欝な場面 を描くところで、荻上は机に向かうと、猛然とこのストレスを紙面にぶつけ、 強くなったり弱くなったりする雨音も耳に入らない様子で、その日の午後は 原稿がすごい勢いで進んだのだった。 ひと段落した夕方のこと、荻上は霧雨のような弱い雨の中に傘を差して 歩き出すと、コンビニに向かった。冷房で冷えていた眼鏡が曇ったが、 歩くうちに温まり、眼鏡の曇りは晴れた。空は晴れない。 とめどなく、汗も出てくる。 道路の向こうに、見慣れたコンビニが見えるが、ガラスが擦りガラスの ように真っ白で、中が見えない。見慣れない光景だ。 ゴロッ…ドドド…。 その時、低い空から雷鳴が響いてきた。雲も光り始めた。 急いで店内に駆け込むと、カミナリを伴って大きな粒が地面を叩きつける ようにして、強い雨がやってきた。 みるみるうちに、道路に川のような流れが出来る。 曇っていたガラスを雨が洗い流し、そんな様子をしばらく眺めていた 荻上は、食べ物や飲み物をカゴに確保すると、雑誌の立ち読みを始めた。 20分もすると雷が少し鳴り、急に日の光が差して景色が照らされ、 明るくなってきた。白いもやが遠くに立ち上っている。 買い物カゴをレジに運ぶと、荻上は店外に出た。さっきまでの どうしようもない湿気と暑さはどこへやら、ひんやりとした空気が 肌に心地良い。荻上は、はっと思い出して傘立てから自分の傘を抜き取り、 ずれていた眼鏡を上げると、遠くの空を見て歩き出した。 「ん?………あ!」 荻上が急に携帯を取り出して、写真を撮り始めた。 そして、歩きながら携帯をいじると、嬉しそうに歩き始めたのだった。 やがて掛かって来る電話。 「あ、もしもし!メールの写真見ました?まだ今なら虹、見えますよ!」 苛々していたのが嘘のように、笑顔で話をしている。 「や、とんでもないです、…こちらこそ。そうそう、アレが―――。」 大きな虹の下を歩きながらの長電話は続く。

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