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*アルエ・第三話 【投稿日 2006/06/18】 **[[アルエ]] 澄んだ朝の光がアイボリーのカーテンをぼんやりと照らし上がらせている。 排気ガスの成分をそのまま音に変換したような騒音で走り去るスクーター。 うつ伏せ気味に体を捻っていた笹原の瞼が少しだけ開く。 部屋はまだ薄明るいだけで、それは笹原の充血した目に優しい。 まどろみの中、笹原は徐々に世界を認識していく。 隣に誰かいる。 暗がりに、布団から露になった肩が絹のように白く光っている。それは女性の持つ曲線だった。 不意に身じろぎして、サヤから白い実が抜け出るように彼女の体が空気に触れる。 細い背中は下着を纏っていなかった。 笹原は手を伸ばす。一体誰なのだろう? ある種の期待を込めて。 あるひとを思い浮かべて、手を伸ばし、肩に触れる。そして壊れないようにそっと力を込めた。 クガピー…。 「うわわあああああーーーー!!!!」 跳ね起きたところは久我山の部屋だった。もうかなり陽が高い。エアコンを点けっ放しの部屋は肌寒かった。 ボサボサの髪と隈を従えた目、油の浮いた顔。笹原は動悸を抑えて部屋を見回す。 久我山はテーブルに突っ伏して死んでいた。もとい、死んだように眠っていた。 笹原の絶叫を聞いてもピクリともしないわけだから、どっちでもいい気がする。 自分が眠っていたのもフローリングの床の上。どうやらカーペットにすら辿り着けなかったようだ。 「あ、そっか…。原稿…完成して…」 スキャナーで取り込んで、CD-Rに焼こうとしたところまでは記憶にある。 その後、朝になってるということは、焼き上がりを見守ってるうちに気を失ったのか。 椅子に座っていたはずなのに。よく寝れたな。転げ落ちて怪我してないかな? そういや何だか、変な音がさっきから聞こえる。 ピンポンピンポン、ブゥー、ブゥー。    ピンポンピンポン、ブゥー、ブゥー。 笹原は暫くぼーっとしてその音に聞いていた。まったく頭が働かず、お経でも聞ているような気持ちで 玄関のチャイムと携帯が床の上で暴れ回る音を聞いていた。 思考能力がどうにか小学生レベルぐらいまで回復したところで笹原は電話を取った。 「はい…、もしもし…」 「おー…、生きてる…?」 出たのはハルコだった。チャイムが止んだ。 「はい、何とか…。久我山さんは死んでるみたいですけど…」 「はは…、そっか…。お疲れ様……。取り合えず外いるから、鍵開けてよ」 「うぃス…」 笹原は立ち上がって、ドアへ歩いて行った。が、ピタリと立ち止まった。 何か歩きにくい。そっか、寝起きだもんなあ…、疲れてるし、心持ちいつもより元気…。 「すいません。ちょっと待って下さい…」 「ぅん? どした?」 えーと、どーしよー…。 「あー…、寝起きなんで、ちょっと顔洗います」 「は? や、鍵開けてって。それから洗えばいいじゃん」 ハルコの怪訝な表情が声から伝わってくる。そりゃそうだ。どーしよー。まだこいつは元気いっぱい勇気百倍だ。 「そだ、トイレも行かないと…」 「だから鍵だけ開けてよ。それから好きなだけしなさいって」 そこでハルコの声が小さくなった。 外で階段を下りて行く足音が聞こえた。 「ちょと! ドアの前で電話してるの恥かしいんだけど。開けて、早く」 ドアを開けるとこっちが恥かしいんだけどな…。でもそれは言えないし。 笹原はキョロキョロと部屋を見回す。いい言い訳なんて転がってるわけないのに。 テンパった挙句に出てきたのがコレだ。 「あ、あれです、ダメですこれ。難しい。開けられません。何だろ。暗証番号が…」 「ふざけてると殴るよ?」 ふざけてないんです。むしろ真剣極まりないんですけど。 一度座布団をあてがってみたが、ダメだ。最低だコレ。隠してるけど隠せてない。 もういっそ素直に言っちゃうか? ダメだ、セクハラだソレ。 ハルコに冷ややかな目で見られる自分を想像する。けっこうなダメージだ。それは回避しなければ。 でも、どうやって? 途方に暮れる笹原。結局鎮まるまで右往左往するしかなく、 ドアを開けたときハルコさんにごっさ冷ややかな目で見られることになりました。 合掌。 笹原の座席の隣は空席だ。1つ空けてハルコが座っている。 昼間の電車は空席だらけで、それがより一層物悲しさを誘っていた。 笹原はパイプに肘を掛けて横目でハルコを見やる。 ミントグリーンのブックカバーを纏った文庫本を読み耽っている。 瞳は眼鏡越しに文字を追って上下していて、笹原の方を見る気配もない。口はキュっと閉じられていた。 キマズイ…。 それはミナミ印刷さんの最寄り駅に着くまで続いた。何度か乗り換えたのに。 まあ、いいんですけどね…。徹夜明けで着替えてないし、風呂入ってなくて汗臭いし。 そんで『うわ、笹原クサッ!』とか思われるのヤですから。 いいんですけどね…。最悪から二番目ぐらいには…。 はぁ……、情けな……。 「……では確認いたしますので少々お待ち下さい」 「はい」 ハルコは堅苦しく腕を膝に突っ張って応えた。印刷所に来るのは当然初めて。 ちょっと緊張する。 受付の女子社員が出力見本をめくる。それは言わずもがな、でき立てほやほやのくじアンのエロパロマンガなわけである。 (うあ……、見られてる。まー私が描いたんじゃないけど……) 仄かに赤面して彼女の手元を見つめる。隣の笹原は顔を伏せて置物のように座っていた。 寝てるのかな? 「……笹原?」 「ぅわっ!?」 笹原は突付かれたようにビクッと体を震わせて、精一杯瞼を開いてハルコを見た。 瞼が意思に従わないものだから、額の動きで引っ張ろうとしてオデコに何本もシワが寄っていた。 「すいません…」 「いいけど…」 でもまた見ると12ラウンド戦い切ったボクサーみたいな体勢でパイプ椅子に座っている。 電車の中で寝ないようにしていた分、眠気が半端でないようだった。 ハルコはちょっと反省した。 朝のワケの分からないやり取りからこっち、ちょっと冷たく接していたのだが、それも疲労のせいかもしれない。 三日連続徹夜の後なんだから、頭に変なものが湧きもするだろう。 どんな蟲が湧いたにせよ、大人気なかったな。これだけ頑張った笹原に対して。 入稿が終わると、二人は駅に向かって歩き出した。 いつもは一緒のペースで歩いていく二人だったが、今日の笹原は遅れ気味。 ハルコは何度も振り返って、足を止めて笹原を気遣った。 「ダイジョブ?」 「はい…、大丈夫です……」 笹原は真っ直ぐ歩いているつもりのようだったが、気が付くと道の右へ右へ寄って行ってしまうらしかった。 「まだまだ空だって飛べますよ……」 マサルさんネタで返した笹原だったが、そのセリフは笑えない。 明らかに『オクレ兄さん!』状態に突入している。 「どっか休んでこっか? 昼時だし、何か食べてく? 奢るよ?」 眉を下げて心配そうに覗き込むハルコさん。笹原はブロック塀に手をついて気丈に笑い返す。 「いっす、いっす。悪いっすから…。それにこうなったのも自分の責任ですからね…」 そう言ってまた歩き出すが、地面が傾いているように右へ右へと寄って行く。 ハルコの眉は下がったままだ。 ちょうど喫茶店の横を通ったところで、ハルコは笹原の手首を掴んだ。 「入るよ」 笹原は慌てた。5分の1ぐらいしか開いてなかった目が全開になった。 「いいですよ。大丈夫、帰れます」 笹原はぶんぶんと腕を振ったが、力が入らず振り解けない。 結果として、それはハルコに溜息をつかせる効果しかなかった。 「ちょっと休んでこ? そんなじゃホームから転落するって」 「いや、でも…」 笹原は恥かしそうに顔を伏せた。 「徹夜明けで風呂にも入ってないし、髪ボサボサだし…、汗臭いですから…。……イヤでしょ?」 「そんなの気にしてんの?」 そう言えば印刷所でも妙に離れて座ってたよーな。 ハルコは呆れ顔で笹原の肩を叩いた。 「ほら、入るよ」 笹原はハルコに引き摺られて喫茶店に入った。 何だか、ちょっと嬉しかった。 「あーそう! できたんた!」 部室には春日部と真琴と荻上がいた。 「ええ、今、入稿しに行ってます。笹原先輩と、……ハルコ先輩が」 荻上も久我山たちほどではないとはいえ、連日連夜の執筆に疲れているようだった。 元気がないように見えたのはそういうことだろう。 「クガピーは?」 「力尽きて寝てるそうです」 「アハハハー、ギリギリだなー」 春日部は快活に笑った。 「な、本当ダメなサークルだろ? あまり多くを期待しない方がいいと思うよ?」 荻上は少し思うような仕草をしてから、 「最初から期待なんかしてないです」 と言った。 「あ~~らそ」 春日部はからかうように言って真琴に目配せした。真琴は荻上を見て柔らかに微笑んでいる。 「でも、まあ、笹原のことは許してやってよ」 春日部の唐突な言葉に、荻上はドキリとした。 「何がですか?」 「会議で原稿描かなくていいって言ったこと。あれ一応、笹原なりの優しさなんだよな~、ちょっとズレてんだけど」 春日部は頬杖の上に乗った顔を捻り、まったくなあ、と呟いた。 「別に荻上をおミソ扱いしてるとか、そーいうんじゃないから。女の子だから負担かけないようにしたかったんだろうけど。 まったくな~、会長だからって気張ってんだよな」 荻上の頬が見る見る赤く染まって、彼女はぷいっと顔を伏せた。 耳の奥でどくどくと打つ脈の音色が聞こえる。 「わ、分かってます」 「あ~~らそ、そのわりには泣いちゃったり?」 「そんなことっ、忘れましたっ」 「ならいいや」 クククと笑う春日部を荻上は憎々しげに睨んだが、頭はもう別のことを考えていた。 そっか、ウザかったとか、そういうことでねぇんだよな…。 春日部の言った『女の子だから』というフレーズが、妙にむず痒く感じた。 ハルコはアイスコーヒーにガムシロップとミルクを注ぎ込んで入念にかき回す。 下にガムシロップが溜まってたりすると嫌だし、ちゃんと均等に混ぜないと苦くて飲めない。 笹原はサンドウィッチセットを頼んでいた。飲み物はオレンジジュース。 疲労回復にはビタミンCが効果的。 笹原はソファの隅にハマるように腰掛けて、ゆっくりそれらを口に運ぶ。 お陰で少しは顔色が良くなっていた。 「すいません…。こんな体たらくで…」 「しょーがないって。無事入稿できたし、よく頑張ったじゃん」 ハルコの励ましに、笹原は力なく笑った。心の中は情けなさでいっぱいだった。 初のコミフェスサークル参加に意気込んだものの、久我山との調整は大失敗。 就職活動で忙しいハルコまで会議に駆り出すハメになり、そのくせ自分は久我山を責めていて、 会議では醜い罵り合いを演じて荻上を泣かせてしまい、最終的に春日部が仕切るしかなくなって、 挙句にこんなところでグッタリしているのが自分だった。 笑らけるぐらい情けない。 笹原は、やはり自分は会長に向いてないと思った。 実際、委員長的役割は小中高を通じて皆無だった。よっぽど春日部のが向いている。 グズグズのあの状況から何とか本が出せるところまで持って行けたのは、春日部の決断があったからだ。 決断か、本当は俺がしなきゃいけなかったんだろうなあ。 春日部君、カッコよかったよな。 笹原の頭に浮かんでいたのは、ハルコのために原口に言い返している春日部の姿だった。 「なんか…、悪かったね…」 不意にハルコが言った。 笹原は驚いて顔を上げる。 「え…?」 「うん…、いや…、まあね…」 ハルコは言い難そうにアイスコーヒーをかき混ぜ続けている。 「急に会長を押し付けちゃったしね…。前もって笹原の意志ぐらい聞いとくべきだったなと思って…」 笹原はハルコに向かうように座り直した。 「でも、コミフェス参加は自分が言ったことですから」 「それもノリで言ってみただけってとこあったでしょ? 急な思いつきみたいな…」 正直に言ってその通りだけど…。 「ヤナに引き合わせてサークル参加セット買い取っちゃったのも…、あの辺で冷静になっとけばなぁ…」 「あー……」 ハルコがはははと自嘲するのを見て、笹原は喉の奥が詰まりそうになった。 ついさっきまで自虐に浸っていた自分が、急に腹立たしくなった。頭にきた。 自分で自分のケツを拭けないばかりか、ハルコにまでこんな顔をさせているのが許せなかった。 「でも結構楽しいですから」 笹原は言った。 コーヒー色に染まっていたハルコの目が、笹原を映した。 「つい言っちゃったことがどんどん現実になって、ビビったのはビビリましたけど。当選通知見たときはもーテンション上がりまくりで。 三日徹夜で缶詰とか、それはそれで普段できないですからね」 「ははは、それは無い方が良かったけどねぇ」 表情から憂いの色が薄らいでいく姿に、笹原はほっとした。 うじうじしてたってしょうがない。もう後は当日を楽しむだけなんだから。 「コミフェス楽しみですよね?」 笹原の問いかけに、ハルコが笑って頷いた。 それは笹原にとって、疲労回復に何より効果的に違いない。 つづく
*アルエ・第四話 【投稿日 2006/07/01】 **[[アルエ]] 朝 7:35 「ええ、さっき駅に着いて、今、一般行列の横、通ってます。ハルコさん達この中ですか?」 「そー。今、立ってるけど、そっちから見えないかな?」 「……いやあ、見えないですね。ハルコさん達は先に買い物するんですよね?」 「ぅ、うーん…。だからそっちのサークルスペース行くのは昼頃」 そこで大野がハルコの手から携帯を引っ手繰った。 「いいえ! ハルコさん、田中さん、私は着替えたら”スグ”行きますので。買い物は荻上さん”だけ”です」 言うだけ言って、大野は喜色満面でハルコに携帯を差し出した。荻上にふふんと鼻を鳴らして。 荻上はムッツリしてキャップを深く被り直す。 苦い顔でハルコは携帯を受け取った。 「……じゃ、そっちヨロシク…」 「……はい、じゃ、後ほど」 笹原はハルコの心中を慮って苦笑いを漏らした。しかし、裏腹に胸は高鳴る。 目の前に巨大なモニュメントの如き建造物が迫るにつれて、そのボルテージは確実に上がっていく。 「楽しみだねー」 真琴が携帯をしまい込む笹原を見ながら行った。 朽木は既に尋常ならざるシチュエーションに浮き足立っているが、真琴はいつもの笑顔で余裕がありそう。 やはりサークル入場に真琴を入れたのは正解だ。 「そうだねー」 「どっちが?」 「ふえっ?」 喉から素っ頓狂な音が飛び出して、笹原は言葉に詰まった。どっちがって…、どれとどれが? 真琴は無邪気に笑ったまま、 「どっちも楽しみだねー」 「ははは…」 笹原も合わせて笑った。 真琴はそのまま、朽木と話しながらすたすたと歩いていく。 笹原は息を整えつつ、真琴の後姿をじっと見つめた。 どっちって、当然、片っぽはサークル参加で、もう片っぽは…。 笹原は自分の胸の中だけにある答えを確かめる。そこには、確かに今日もう一つの楽しみなことがあった。 自分でも、それを楽しみだと確認することを無意識に避けていた楽しみ。 笹原は真琴の背中を見ながら思った。 やっぱりそうなのかなあ。女の子って、そういうこと本人以上に鋭いものなんだなあ。 楽しみは今、一般参加の列の中に紛れていた。 「ちょっといいですかネ…」 小さく手を上げてハルコは尋ねる。 大野は喜びに堪えない顔をしていて、田中は眉をひそめて汗をかいていた。 その汗の成分の半分は反省か申し訳なさで出来ているのかもしれない。 「今日…、マジでやるの…?」 「マジです!」 「でもぉ~…、サイズ測っただけで…、どんなコスするのか全然聞いてないんですけどネ…」 「心配ありません。ハルコさんは身を任せてくれればOKです」 「それが心配だっつってんだよ…。あれだよね…、親が泣くような衣装ではないのですよね?」 「むしろ親さえ感涙にむせび泣くこと請け合いです!」 言下に断言した大野であったが、その後、口に手を当ててニヒヒ笑いをしている姿を見るにつけ、 ハルコの不安はいやが上にも高まるばかりだった。 「大丈夫なんでしょうね…、こんな場所でトラウマ背負い込みたくないんだけど…」 「今日のフェスティバルに相応しい衣装ですよ。ねー田中さん」 語尾に『はぁと』とルンルンがつきそうな勢いの大野に、田中はお手製の作り笑顔を向けていた。 「そーだね…」 荻上が呆れ顔で指摘する。 「田中さん、目が死んでますよ」 「Shut up! コスプレ班でない人は黙ってて下さい」 「私…、いつの間にそんな班に入れられてたの…」 ハルコは溜息を漏らしたが、まあ、良しとした。 現視研初サークル参加のコミフェスにハルコもテンションのギアが一つ高かったのだ。 ともあれ、こうして『コミックフェスティバル 2004夏』3日目の朝を迎えた。 梱包を解いた先にはスカートを摘み上げる幼女会長のお姿が美麗に印刷されていた。 まるで初めて同人誌を手にしたような(というのは感動的なようで全然そうじゃない表現だが)気持ちで 笹原はじっとその会長を隅から隅まで見つめ尽くした。 ページをめくる。 「うわ……」 本当に自分達が描いたマンガが印刷されている。 「わーわーわー……」 本物の、本物の自分達が作った同人誌だ。 「いい出来だね。印刷ミスも無し」 忘我の心地であった笹原とは別に、真琴は落ち着を払っている。 地獄の一週間を経験していないからかもしれないが、これは真琴の元来の性格のせいだろう。 「じゃ保存用に……、20冊だっけ? 抜いとこう。それと提出用の本に見本誌票を貼んないと」 「あ、そーだね」 テキパキと段取りを進める真琴に引っ張られて笹原も設営の作業に移る。 今日はこれからが本番。まだまだこんなところで浸っている場合ではなかった。 さすが高坂さん、頼りになります。 設営が終わったスペースを前に、 「どう?」 「いい感じ、いい感じ」 特に派手なわけではないが、ま、こんなものだろう。 本が二段に詰まれ、表紙絵を流用したポップ。なかなか様になっているんじゃなかろうか。 「や」 「あ、高柳さん」 肩にタオルを掛けた高柳がやってきた。片手には同人誌を持っている。 恐らく漫研発行の新刊だろう。 「お~~、出来てるじゃない。いーねぇ」 「おかげ様で…」 笹原はいろいろな意味を込めてその言葉を言った。 この人には本当にいろいろ迷惑を掛けてしまった。主に春日部君が。 「その節は、本当に申し訳ございませんでした」 「まー、いーって…。俺も忘れたいし…。これ、ウチの新刊ね、とりあえず一冊」 いい人だなあ、高柳さん。 笹原はそっと高柳の幸福を願いつつ、同人誌を卒業証書を受領するような手つきで受け取った。 「あっ……、はい。じゃウチも一冊」 『ウチも一冊』っと言うのは、何だかゾクっときた。 そう、これはウチの同人誌なのだ。まだちょっと照れが入るが。 「ありがと。あっ、そうだ…」 そこで高柳は、また見慣れた表情をした。高柳の代名詞的な不表情である困り顔である。 ジト汗に押されるように眉尻が下がっていた。 「ハラグーロ来てるらしいから、気をつけてね」 「えっ……漫研のチケットで入ったんですか?」 「いや、大手サークルかどっかから入手したみたいね」 うわー、と思わず笹原は声を漏らした。あの人が絡むと本当にロクなことが無い。 ぜひ顔を出して欲しくない相手なのだが、いざ来たらどうしようか。 外にハルコも来ていることが脳裏を掠める。それと、今日は春日部が居ないことも。 今日は楽しい思い出になると決めてかかっていたというのに、まったく、出ばなを挫かれた。 「春日部君が居ないってのは、不幸中の幸いですかね…」 笹原は呟くように声を漏らす。気付けば高柳と同じ顔になっていた。 「あー、聞いたソレ…。正直スッとしたよ。……じゃーもう、みんな知ってんだ?」 高柳が訊いたのは、当然ハルコと原口の因縁のことだ。 ハルコが原口のせいで蒙った迷惑といったほうが正確かもしれない。 「ええ、まぁ、田中さん達から…」 高柳はまた眉尻を下げた。 「今日、斑目も来てんだよね…。顔合わさなきゃいいけどなあ…」 と、そこまでは真面目に心配そうにしていたのだが、急に何やら少しばかり恥かしげに高柳は頬を染めた。 そして真琴をちょっと気にする素振りをみせて、笹原に顔を近づける。 「斑目、コスプレするって言ってたけど、そーなの?」 んん? 「えぇ…。大野さんと一緒にコスプレで売り子さんしてもらう予定ですけど…」 「やっぱくじアンキャラ? 誰?」 「いや、知んねっす…」 「はぁ~~~、なんだろね…、目覚めたの?」 「いやぁ…、半ば無理矢理ですよ」 「まーそんなとこか…。じゃ、俺、自分のとこ戻るよ…。んじゃまた後で…」 「どーもー…」 笹原は高柳をいやに細い目で見送った。 横で真琴が笑顔でその光景を見守っていた。 「あ、そうだ。後で原口さん関係で断った人達にあいさつ行っといた方がいいかもね」 「あー……、そうかなぁ……」 笹原は生返事を返すのみだ。 幸いなことに、原口が現視研の売り場に顔を出すことは無かった。 今のところは。 10:00 会場にアナウンスが流れる。 『だだいまより、コミックフェスティバル2004夏 3日目を開催いたします』 「あれ…、大野先輩達はまだ来てないんですか…?」 意外なことにスペースに最初に現れた現視研メンバーは荻上だった。 笹原たちの予想では大野さん達が来るもの思っていたのだが。 荻上は夏らしいノースーブに、首にアクセサリーまで付けていて、それまた意外だった。 「どうですか、売り上げの方は…」 「ま、ボチボチかな。あっちから回って入って」 荻上は裏に回ると早速本を手に取った。 「あ、やっぱり気になった?」 「ええ……、一応自分も描いてますから」 荻上は刷り上った『いろはごっこ』を少し離して眺めると、笹原たちの目を避けるように背中を向けて目を通した。 「どう?」 笹原が尋ねる。 「まー…、いいんじゃないですか? 男性向けなんで、本当にこれでいいのかどうか微妙ですけど…」 荻上はそっと紙袋に本を戻す。 「でも、いざ本になると、感慨深いものがあるよね~~」 笹原は立ったまま肩越しに話しかけている。 荻上は二の腕を隠すように腕を擦っていた。 「まあ…、そうですね…。少しは……」 少し恥かしそうに笹原には見えた。 荻上が顔を上げると、目の前に笹原の背中がある。 それを見ていると、荻上の口は会話を求めているみたいに、むずむずと疼いた。 「……立ってやってるんですか?」 「ん?」 笹原が振り向いて、荻上はまた周囲に視線を逸らす。 「そっちの方が目立つかなって、高坂さんのアイデア」 「あー…、なるほど…」 また笹原が前を向く。また口がむずむずして、荻上は唇をこじる。 えーと…、何かねぇがな…。何か…、出来るだけどーでもいいやつ……、えーと…。 「大野さんたちは?」 荻上の筆が跳ね上がる。笹原に先に越されてしまった。 「入場で、別れたきりです…」 「へー、二人ともだから、時間くってんのかな?」 「あー…、そうかもしんないすね…」 「うん……」 「はい……」 「………………そっか」 笹原は、前を向いてしまった。ちょっと苦笑気味だった。 うーん、と荻上はまんじりともしない表情で背中を見つめる。 あ、お客だ。 「1部下さい」 「ありがとうございまーす」 笹原は子供のような顔で嬉しそうにお釣りを渡す。 荻上は少しだけそれを見つめて、またうーんと二の腕を擦った。 会話が続かない。まー、話すことがない以上、続かないのもむべなるかな。 どこかに話の取っ掛かりはないものだろうか? 荻上は一度はしまった同人誌を取り出して、パラパラとめくった。 そこは荻上と笹原が一緒に過ごした時間がたっぷりと詰まっていた。 くじアンの話にしようか、同人誌の話でもしてみようか。 久我山を含めて三人で缶詰した話はどうだろう。 私は途中で帰って自分の家で寝たけど、笹原さん達は毎日どんな風に朝を迎えたんだろう。 荻上は、小さく笑った。 別にわざわざ探すまでもない。もうみんなで一緒に過ごした時間がこんなにもあったんだから。 「同人誌、出せてよかったですよね」 「ん? ああ、本当、一時はどうなることかと思ったけどねー」 笹原は笑顔が堪え切れないような、そんな笑顔をしている。 荻上もつられて顔を崩しそうになって、キャップの鍔を深く引いた。 「もー、本見た瞬間に走馬灯が駆け巡ったよ」 「それ笑えないですよ」 荻上は苦笑していたが、心は弾むように軽かった。 こんな気持ちは、もうずっとずっと感じたことがなかった。楽しいと思った。 「でも、荻上さんには悪かったなあって思うんだよね」 笹原は通路を通る人を気にしながら、弱り顔を荻上に向けた。 「本当はもっと俺がちゃんとしなきゃいけなかったのにさぁ。結局シワ寄せいっちゃったし」 荻上は胸の奥がギュと鳴くのを聞いた。 頭にある光景が浮かぶ。 自分に掌を広げて精一杯強がった顔をしている笹原。そしてしたり顔でフォローをする春日部の顔。 『【女の子】だから負担かけないように』 その言葉が耳に木霊していた。 笹原は喋り続けている。 「ほら、だって荻上さんは…」 荻上は笹原を見上げる。顔が噴火しそうなほど赤く火照っている。それに気付いて慌てて顔をあさってに向けた。 いっそ何も聞こえないように、大声でも出してしまいたかった。 次に笹原の口から出る言葉を、聞きたいのか、聞きたくないのか。 今は、じっと笹原の声が耳に届くのを待っていた。 「1年生だから。いきなりいろいろやってもらうの、申し訳なくて」 「………いいっす、別に…」 がっかりなんかしてない、と荻上は自分に言った。 「どうぞご覧になって下さーい」 真琴の平べったい客引きの声が響いた。 「あ~~、スゴーイ! 本当にやってる~~!」 お昼近くになって大野率いるコスプレ班がやっと笹原たちの元へやって来た。 大野の格好はもちろん、 「お~~大野さん、副会長式典Ver.か」 「くじアン本ですからね!」 周囲の視線を集めて、コスプレした大野は実に堂々としている。 しかし、何だか妙に歩きにくそうだ。 だがそれでいて、大野は明らかにいつもより生き生きしていた。 「随分かかってたね…」 笹原は少しキョドリ気味に訊いた。 実はさっきから大野の後ろで小さくなってる影が気になっているのだ。 「あはは、ちょっと説得に時間を要しまして」 「説得じゃない…。脅迫でしょっ!」 ハルコは大野の背中に肩を丸めてしがみ付いている。頭にゴーグルが見えた。 「あ、いづみコスですか? ……あれ? でも…」 帽子じゃない。ねじり鉢巻? 「ほら! いい加減に覚悟決めて下さいっ!」 大野が勢いよく体を振り回す。 背中から追い出されたハルコはタタラを踏んでよろめき出た。両足の下駄がカランと鳴った。 壊れそうなくらい細く白い脚がホットパンツから伸びている。 対照的に真っ赤になった顔。纏った薄布の祭り半纏の合わせを自分の体を抱きしめるようにして閉じていた。 眼鏡のない瞳が、ちょっとだけ涙ぐんでいた。 「ちょ、え? それ、ええ~~~? 巻末の合作マンガのテキ屋コスじゃないすか…」 笹原は噴き出した汗と赤面を隠すように、手で覆って顔を伏せる。 でも、目はしっかりハルコの生脚に固定されてしまっていて、それが余計に恥かしく思えた。 「う~~ん、まあ、今日はお祭りだしね~…」 田中は自嘲気味に言った。が、何気に満足そうだ。仕事を終えた感を漲らせた顔をしている。 「ちょっとハルコさん。なに前を隠してるんですかっ!」 大野がさっきとは真逆に後ろからハルコに組み付いた。ハルコのこれまた細い両腕を鷲づかみにする。 「せっかく苦労して巻いたサラシが全然見えないじゃないですか!」 「いい、見えなくていいの!」 ハルコは体を丸めて必死に抵抗してる。 赤い顔をますます真っ赤にさせて、四角い駒下駄がカンカンと鳴る。 腰を落として抗う様は、まるで手篭めにされそうになるのを死力を賭して逃れようとする姿にも見え、 目の毒だ。 「ハルコさんでコスと言えば『へそ』なんですよ? ちゃんと皆に見せてあげて下さい!」 「誰が決めたのよぅ、そんなこと」 涙を溜めて抗議する表情が嗜虐心を刺激したのか、大野の悪ノリは止まらない。 「うふふ~~~、よいでわないか~、よいでわないか~……」 「ちょっと…、ほんとぅ、マジでやめて~~」 一時的に忘我の境地で大野攻め×ハルコ受けを鑑賞していた笹原だったが、 流石に周囲の皆さんの視線が痛くなってきたので止めに入った。 「ま、まあ、大野さん…、その辺で……。一応、公共の場だから……」 「むうう…。仕方ないですね。まったく意気地無しなんだから」 開放されたハルコはペタリと床に座り込んだ。それを大野が妙に勝ち誇った顔で見下ろしている。 ハルコは大野の影に怯えるように、またギュっと半纏の前を固く合わせた。 「ほら、サークルスペースの中に入りますよ。そんな所に座ってたら周りの迷惑です」 ついさっきまで周り人達の目のやり場を困らせまくらせていたくせに。 大野は愚図るハルコを手を引いて島の端へ歩いて行った。 笹原は小さく息を吐いた。 それはちょっと温度の高い溜息だった。 カメラのファインダーを覗いている田中に目をやる。 「時間が掛かってたの…は、こういうことでしたか…」 「まあねぇ…、相当ゴネてたみたいだから…」 「そんでよく着ましたね…、ハルコさん」 「まあ、それは何ちゅうか…、大野さんの力業かな…」 「力業ですか……」 あちこちに脚をぶつけながら半泣きで引っ張られているハルコと、意気揚々とした大野が 内側を回って笹原たちのサークルスペースに到着した。 荻上が呆れた表情で大野に尋ねる。 「無理矢理やらせたんですか?」 「いいえ。ただ協力を促しただけです」 得意顔の大野に、荻上はうんざりとしているのを隠さない。 それは笹原も一緒だ。正直思った。やばい、これは犯罪かもしれない。 「さあ、ハルコさん。一緒に売り子やりましょう!」 無論、大野はそんなことは露ほども気に留めていないのだ。 「え……? ほ…、ほんとにやるの……」 ハルコはソソクサと手探りでパイプ椅子を手繰り寄せて、その上でダンゴ虫みたいに丸まってしまった。 「もういいじゃん、一応着たんだから……、ね?。だからほら、眼鏡と服、返してよぅ…」 ああ、そういうことか。力業……ね。 察するに、まずハルコさんの衣服を剥ぎ取り、没収したのち、それをネタにコスプレを強要したということか。 ……エゲツない! 「ダメです」 マジで今日の大野はエゲツなかった。完全にコスプレの暗黒面に堕ちていた。 「あんまり聞き分けがないと、コスプレ会場に置き去りにしますよ?」 ひでー。 「無理矢理やらせるのは邪道じゃなかったのかよぅ…」 ハルコの至極真っ当な抗議の声が空しく響く。 「悲しいですが、これも完売のためには仕方のない犠牲なのです」 大野は一瞬、悲壮感を漂わせたが、すぐに笑顔に転じてハルコの背中をポンと叩く。 「さ、やりましょー! 売りましょー!」 ハルコは首を持ち上げてギロリと睨んだ。 「くそー、大野ぉぉぉ…。この恨み忘れんぞ…」 「ハルコさん…、そっちは荻上さんです…」 どうやら眼鏡がないと人の判別も出来ないらしい。 「うるせー笹原、お前も同罪だ! 会長なら助けなさいよ」 それは大野に向かって言った。 真琴が楽しそうに笑っている。 笹原は少し考えて、 「すいません…。完売のためには仕方のない犠牲なんです…」 と笑って誤魔化した。 本当ところは、見とれていた。 白いクレパスのように淡く光る脚を抱えて、大き過ぎる黒地に赤い鼻緒の駒下駄を揺らしている。 やや赤い膝小僧の隙間から、胸に巻かれた真っ白なサラシが小さく覗いていた。 背中を丸めて、恥かしそうに膝に顎を乗せるハルコの瞳は、眼鏡が無いことに怯えるように不安げに潤んでいる。 それは、思わず頭でも撫でてしまいそうな、そんな気持ちに笹原をさせていた。 「大丈夫ですよ、ハルコ先輩」 真琴の声に、ハルコは顔を上げる。 「とってもかわいいですよ。ね、笹原くん」 「うん…」 口から出た言葉に、笹原自身が驚いてしまった。 それは水を向けた真琴でさえ、珍しく驚きが顔に表れていたくらいだ。 荻上も、その一瞬、時間が止まったように笹原を見つめていた。 その消え去りそうな一瞬に、笹原は慌てて言葉を詰め込んだ。 「まあ……、けっこーハマってんじゃないすかね…、意外と……」 「ですよねー!」 大野の何もかもを吹き飛ばすような歓声が上がる。 「さー、立って立って! 売り子交代しますよー!」 腕を引っ張られて、ハルコはしぶしぶ立ち上がった。漸く観念したようである。 「わーったよー…。やりますよー」 入れ違いで売り場に入るときに見えたハルコのサラシ姿。ニヤケそうな口元をぐっと押し殺す。 ハルコの何も気が付いていない様子に、笹原はそっと胸を撫で下ろした。 隣で真琴が笑っている。荻上は無表情に天井を見ていた。 ハルコはもうやけっぱちのような表情で積まれた同人誌の前に棒立ちに立った。 もうどうにでもなれの心境である。 「ありがとございまーす」 目の前に人間らしき影が立つ度に、機械的に同人誌を渡していく。 相手の表情が見えないのがせめてもの救いだ。じろじろ見てられるのも、苦笑いなのも、見えなきゃ分からない。 「ありがとございまーす」 もうお客を人間とも思わずにただただ同人誌手渡しマシーンと化すことに努めるのみである。 相手は人形…、人間じゃなく、かぼちゃ同然、だたの人形。狙って売って一発で終わり……、ってか…。 「ありがとございまーす」 ありがとございまーす、と喋る自動販売機でももっと愛想が良いだろうという平板な音声で繰り返す。 いま自分がしている格好を出来るだけ考えないようにしていた。 「なんかマジで売れはじめてない?」 「うん。ハルコ先輩たちになってから急に売れはじめたねー」 聞こえない、聞こえない。 ちょっとそんな気がしないでもないけど…、そんでちょっと嬉しい気もするけど…、 考えない、考えない。無視、無視。 ハルコは朱が差した顔を隠すように仏頂面を作り、同人誌を取る、渡す、お礼を言うの動作に徹しようとする。 「ありがとございまーす」 どうせコミフェスに居るのはオタクのみ。三次元には興味が無いのだ。 落ち着け~、まだ慌てるような時間じゃない~~。 変な汗かくな、私。 「ありがとございまーす」 ふぅ…。 でも、ここに春日部君が居ないのは不幸中の幸いかも。 「ありがとございまーす」 また目の前に立った影に同人誌を差し出す。 しかし、その影は同人誌を受け取ろうとしない。それにお金を払おうともしなかった。 なんだ? 「うわ…、またそんなコスプレなんだ…」 「へっ?」 それは紛れも無く聞き覚えるのある声だった。 変な汗かくな~~~、私。 「嫌がってわりには、何だよ、ノリノリだったんじゃんか」 うーん…。まあ、大体分かってんだけどね…。 ハルコは声に出して確認してみた。 「春日部君…じゃないよ」 「あー、そっか…。眼鏡してないもんなー。へー、そんな見えないんだー」 ハルコはその時思った。 大野コロス、と。 つづく

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