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「筆茶屋はんじょーき5」(2006/06/23 (金) 06:33:13) の最新版変更点
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*筆茶屋はんじょーき4 【投稿日 2006/05/12】
**[[筆茶屋はんじょーき]]
千佳の義母の葬儀は、滞りなく行われた。
通夜の席で、千佳は高柳を呼び、告げた。
「遅くなりましたが、荻上の家を守るため、縁組をしたいと思います」
「承りました」
千佳の決意に満ちた表情を見て、高柳は懐かしさと、悲しさを感じた。
それは、荻上家に来たばかりの彼女の顔だった。
”筆茶屋はんじょーき”
あの日、恵子に言われて以来、笹原は暇を見ては荻上屋を訪れるようにしていた。
しかし、店が開くことはなかった。
隣近所に話を聞くと、夜になっても明かりが灯らぬことから、既に空家なのではないか、ということだった。
笹原は少なからず衝撃を受けた。
ここにさえ来れば、たとえ無視されても、顔を見て、声を聞けると、そう思っていたのだ。
しかしあては外れ、彼女に会えないという現実が笹原を苦しめる。
斑目とともに、ただひたすらに剣を振る事で、気持ちを鎮めようとしていた。
そんな日々が続くにつれ、笹原の中で一つの思いが膨れ上がる。
(千佳さんに会いたい)
その日、笹原が荻上屋を訪ねると、ひさしぶりに表が開いていた。
気色ばんで駆け寄ると、そこに千佳の姿は無く、複数の男達が家財道具を片付けていた。
一人を引きとめ話を聞く。すると、
「へえ、店を閉めることにしたんだそうで。なんでも持ち主の家に不幸があったとか。ここの娘さん?家に戻ったらしいですぜ」
そう答えると、再び仕事に戻ろうとする。
笹原が呆然としていると、その男は何か思い出したようで、一つ手を打つと付け加えた。
「そうそう、そういえばその娘さんは喪が明けたら祝言だとか。まったく、忙しい話だねえ」
笹原はどこへ向かうでもなく、ただ歩きつづけていた。
歩きながら千佳のことを思った。
行き倒れた自分を助けてくれた彼女を、自分に茶と団子を出す時のつんと澄ましたような彼女を。
何か手伝わせてくれと頼み込んだ時の困ったような彼女を、そして、自分に笑いかける彼女を。
笹原の中をいくつもの感情が入り乱れる。
悲しみ。寂しさ。後悔。怒り。
笹原は足を止め、空を見上げた。
不意に自分が滑稽に見えて、自嘲する。
(何で俺はこんなに千佳さんのことを考えているんだ?)
脳裏にいつかの恵子の声が聞こえる。それは笹原を激しくなじり、そして、
(そうか。俺は彼女が好きなんだ)
ようやく笹原は自分の気持ちに気付いた。
時は少し遡る。
荻上家の客間で、千佳と男が向かい合っていた。
高柳は、千佳の横で苦虫を噛み潰したような顔をしている。
男が口を開く。
「原口と申します。このたびの荻上家との縁組、当家にとっても誠にありがたき申し出。誠に恐悦至極に存じます」
「こちらこそ、末永くよろしくお願いします」
無表情に千佳が答えると、高柳の渋面はさらに深くなった。
そのまま立ち上がると、千佳に一声かけて部屋を出る。
追って部屋を出た彼女に、高柳は詰め寄った。
「千佳さま。今からでもこの縁談、お断りなさい。あの男は駄目です」
「そもそもあの男は金で御家人株を買い、更にその立場を利用して、相当にあくどく稼いでいるという噂です」
「今回の件も、荻上家の財産だけが目的に決まっています!」
「でも、主家筋からの紹介では…」
「確かに。ですが、千佳さまが嫌といえば、この高柳が腹を切ってでも取りやめにして…」
「用人風情が家の一大事に口を挟むものじゃないよ」
いつの間にか、原口が二人の傍に立っていた。
原口は笑顔だった。
しかしの目が笑っていない事は、二人にも良くわかった。
原口は千佳を抱き寄せると、高柳に告げる。
「お前は首だ。今すぐ荷物をまとめて出て行け」
「お待ちください!彼は荻上家の家臣です」
千佳は原口を睨みつける。
原口は鼻で笑う。
「ならば、貴方が首にしなさい」
「!」
「家を潰したいのか?」
原口に凄まれ、千佳は目を閉じ、うなだれて言った。
「高柳。長い間ご苦労様でした…」
「千佳さま!」
「と、言う事だ。さっさと出て行け」
そう言い置くと、原口は千佳を抱いたまま、引きずるようにして客間へ戻っていった。
それ以降、千佳の周りは急変した。
原口は、荻上家の使用人全てを解雇し、家事の全てを千佳に押し付けた。
そして使用人たちと入れ替わるように、ごろつきやヤクザ者が入り込んだ。
彼らの世話まで押し付けられ、ついに倒れてしまった千佳に、原口は笑いながら話す。
「すまなかったね、千佳。これぐらいで倒れるとは思わなかったんだ」
「だから、一人雇う事にしたよ」
「俺の部屋にいるから、後で挨拶に来なさい」
「…ありがとうございます」
千佳にはそう答える事しかできなかった。
布団の中で千佳は思う。
(わたしはまた、間違いをしてしまったのかもしれない)
(でも、こうしなければこの家は…)
千佳の脳裏に義母の遺言が響く。しかし千佳は寂しげに笑うと、
(いいんです。この家さえ守れるのなら、わたしはどうなっても)
(それでいいんです)
心の中で、そう答えた。
まだ酷く重い体を、無理に起こす。
(挨拶に行かなくては…)
よろめきながら、千佳はかつての義父の、今は原口の部屋に向かった。
部屋の中からは、話し声がかすかに漏れている。
「失礼します」
言って襖を開けると、そこには原口と、忘れる事のできない、決して見たくなかった顔の女性がいた。
その女性はおもむろに口を開いた。
「お久しぶり。千佳」
「中島、様…」
千佳が呆然としていると、原口が口を挟む。
「知り合いか?」
「ええ、過去に、少し」
その悪びれない態度を見ているうちに、千佳の内心を様々な感情が過ぎる。
怒り。悲しみ。後悔。憎しみ。郷愁。
そして彼女のその態度が、過去の行いを忘れて同じ事を繰り返そうとしていた自分と重なり、千佳はその場に崩れ落ちた。
「能無しめ。挨拶もまともにできんのか」
倒れた千佳を冷ややかに睨みながら、原口は言い捨てた。
「ずいぶんとこき使っているようね」
千佳を抱き起しながらの中島の声には、明らかな険が含まれていた。
「ほとんど用済みだからな。抱く気にもならぬ、とすれば雑用にでも使うほかあるまい?」
原口は平然と答える。
「用済みなら、私がもらうわ。あと、もう一人雇うから」
「ずいぶんと御執心だな」
千佳の頭をなでながら話す中島を、原口は探るように見つめる。
「ええ、そうよ」
「なぜだ?」
「あなたにはわからないわ」
中島は、原口を見上げながら、見下した。
空気が険悪化していく中、原口が口を開こうとした直前に、中島は言う。
「むしろ私には、なぜあなたがそこまで金にこだわるのかわからないわ」
「…金は力だ」
原口の声は唸り声に近かった。
中島は千佳を抱くと、部屋を出る。去り際に振り向くと、
「その『力』で何をするの?」
と、明らかに嘲笑を含んだ台詞を残して去っていった。
残された原口は、しばらく黙り込んだ後、吐き捨てた。
「女狐め…」
同じ頃、それを聞いたわけでもなく、中島も吐き捨てていた。
「豚が」
千佳が目を覚ますと、そこには優しく微笑む中島がいた。
「大丈夫?」
中島の声とともに、千佳は冷やりとした感触を額に感じた。
ぼんやりとした意識の中、中島の声が聞こえる。
「ねえ、憶えてる?前にもこうやって倒れた千佳を看病したことがあったよね」
「すごい熱だったのに、無理に出てきて、突然倒れたの」
「『どうしてそんな無理したの』って聞いたら、『皆に会いたかった』なんて答えて」
「千佳が手を離さないから、私は添い寝までしたんだから」
憶えている。
ずっと隠していた、自分の衆道好きを受け入れてくれた友達を。
その友達と過ごした日々を。
うれしくて、楽しくて、夢のようで。
…そして夢だった。
『ねえ、巻田の息子って知ってる?』
『え、う、うん』
『あ~、彼?ちょっと線の細そうな…』
『そう彼。もし彼を主役にするならどんな話を作る?』
『う~ん。やっぱり”受け”よねえ』
『ただの”受け”じゃ面白くないよね。ここは”総受け”で!』
『あはは、それ良い!ねえ千佳。あなた書いてみない?』
『え、で、でも…』
『大丈夫、千佳なら書けるって』
『そうそう、それに千佳の書くのって本当にすごいし』
彼女たちはもういない。
彼もいない。
わたしが書いた本の所為で。
わたしの所為で。
わたしの所為で!!
「うわあぁぁぁあぁあ!!!」
千佳は叫びながら飛び起きる。頭を抱えて、全身を酷く震わせる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
呪文のように呟きながら。
「千佳!」
中島が千佳の肩を掴む。
千佳はゆっくりと振り向く。虚ろだった瞳の焦点が合う。そして千佳は大きく目を見開き、
「ごめんなさい」
とだけ言うと、気を失った。
中島は悲しげにため息をつくと、千佳を布団に寝せて部屋を出た。
その日以降、千佳は寝込む事が多くなった。
そんな彼女を中島はずっと看病していた。
そして原口はそんな二人を苦々しく見ていた。
三人が三人とも、このままでは終わらない事を予感していた。
*筆茶屋はんじょーき5 【投稿日 2006/06/18】
**[[筆茶屋はんじょーき]]
千佳が目を覚ますと、暗闇に包まれた自分の部屋,、その布団の中だった。
ため息をつく。
どうやら、また倒れてしまったらしい。
家事の方は、あの後中島が雇ってくれた北川という女性のおかげで、順調に回っている。
彼女の手際に感心しつつ、ついそれに張り合おうとして倒れてしまう自分が、滑稽に思えた。
辺りを見渡す。
人の気配はない。
今度は安堵のため息をつく。
中島がかつてのように接してくれる事は、うれしくもあり、同時に苦痛でもあった。
彼女は千佳の過去そのものだったから。
千佳は彼女に聞きたいことがあった。
なぜ江戸にいるのか。
なぜ原口と供にいるのか。
…そして、あの噂は本当だったのか。
だが聞けなかった。
ただ、怖くて。
”筆茶屋はんじょーき”
不意に火種の臭いがすると、行灯に火が灯る。
千佳が驚いてそちらを向くと、人影があった。
原口だった。
原口は足音一つ立てずに近づくと、驚きの為に声すら出せない千佳を、布団の上から押さえつけた。
「お前は、あの女の何だ?」
酒臭い息を吐きながら、原口は尋ねる。
千佳が何も言えずにいると、原口は片手で千佳の首を掴んだ。
「あの女は俺が仕込んだ。女としても、盗賊としても」
手に次第に力が入る。
「俺が岡場所で拾った時、あの女は酷い様だった」
「客に愛想の一つも言えず、仲間には喧嘩を売り、売れ残っては折檻を受ける」
「見えないところを痣だらけにした、やせ細った女だった」
「だが、俺はその反骨が気に入って、落籍した」
千佳は必死に原口の手を外そうとする。しかし原口はもう一方の手で千佳の両手首を捕まえると、床に押し付けた。首を絞める手にさらに力が入る。
「あの女は実に憶えが良かった…この俺の片腕になれるほどに」
「いや、それ以上だな。いつ寝首をかかれるかわからないほど、だ」
言って原口は楽しそうに笑った。
「だが今のあいつは、まるでどこぞの町娘だ。おまけに指一本触らせようとしない」
ひときわ強く首を絞めると、原口はその手を離した。そして尋ねる。
「なぜだ?」
千佳は咳き込みながら首を振る。
「わからないのか?」
千佳は頷く。
「役立たずめ」
原口はそう吐き捨てると、布団を剥ぎ取った。
「なら、せめて女として役に立って見せろ」
原口は千佳に圧し掛かる。
千佳は全力で抵抗する。しかし、上げようとした悲鳴は原口の分厚い手でふさがれ、押しのけるには千佳の腕はあまりに非力だった。
原口の手が千佳の体をまさぐる。はだけられた胸元から滑り込み、乳房を握り締める。
くぐもった声以上に、千佳の心は悲鳴をあげていた。
(やめて!いや!触らないで!)
(助けて!誰か!)
(……笹原さん!!)
鈍い音と供に、原口は千佳に覆い被さる。
千佳は目を閉じ、全身を固く緊張させた。
だが、原口はピクリともしない。
おそるおそる目を開けると、台所からでも持って来たのか、太い薪を持った中島が息を切らせていた。
中島は、呆然としている千佳を原口の下から引きずり出すと、着物の乱れを直し、自分の着物を脱いで千佳に着せる。
さらに、自分の財布を千佳の胸元に捻じ込んで言った。
「逃げな」
千佳にもようやく状況が飲み込めてくる。
部屋を出ようとして、千佳は足を止め、中島の手を握った。
「中島も一緒に…」
同情だったのか、義憤だったのか、それは千佳にもわからない。ただ、彼女はここにいるべきじゃないと、そう思った。
中島はうれしそうに、そして哀しそうに笑うと、千佳の手を振りほどいて言った。
「ねえ、千佳。いい事を教えてあげる」
「あなたの書いた本が上の目に留まったのはね、私がそう仕向けたの」
信じられなかった。
信じたくなかった。
かつて聞いた、一番信じたくなかった噂を、彼女自身が肯定したとしても。
「どう…して…?」
千佳はかすれた声で尋ねる。
「私はね、あなたが大好きで、大嫌いだったの」
答える中島の声は澱みない。
「あなたは私にはない、全てを持っていたから」
「暖かな家庭。信頼できる友人。優しい許婚…」
「そんなこと…!」
「妾を好き放題抱えて家に寄り付かない父と、色小姓に囲まれて暮らす母。互いに競わされいがみ合う兄弟。家老の娘というだけでへりくだり、おべっかを使う友人。色にしか興味のない、父よりも年上の許婚。それがあなたに想像できるとでも?」
食い下がる千佳を笑い飛ばす。
「私にはあなたしかいなかった。私にきちんと向きあってくれたのはあなただけだった」
「あなたと付き合う事で、自分がどんなに惨めか思い知らされても、それでも…」
「あなたは幸せだった。そしてさらに幸せになろうとしてた。私はそれが許せなかった」
「だから、すべて壊してやったの」
中島は心底楽しそうに笑った。
千佳は思わず後ずさる。そんな千佳に中島は、凄みのある笑顔を見せながら告げた。
「わかったでしょう?ここには、あなたの味方は一人もいない」
千佳は逃げ出した。一目散に。振り返ることなく。
中島は千佳の姿が見えなくなるまで見送ると、懐から煙管を取り出し一服つける。
煙をくゆらせながら、涙をこぼす。
「馬鹿だね…彼女に一言謝りたくて、そのためだけに生きてきたのに…」
しばらくして原口は目を覚ました。
辺りを見渡すと、千佳の姿はなく、中島が煙管を吹かしていた。
「…小娘はどうした」
「逃がしたよ」
原口の問いに、中島は悠然と答える。原口は中島の襟首を掴んで凄む。
「どういうつもりだ」
「それはこっちの台詞だよ。人の物に手を出すなんてね」
「小娘はどこだ」
「知るもんか。知ってても教える気はないよ」
中島の人を食った答えに、原口は襟首から手を離し、喉笛を締め上げる。
「自分の立場をわかってるのか?」
「…わかってる…とも。あんたを…獄門台の…道連れに…できること…ぐらいね」
原口はさらに強く力を込める。
中島は煙管を吸うと、原口の顔めがけて煙を吹きかけ、笑った。
原口は憤怒の形相を浮かべると、全力で締め上げる。
中島の手から煙管が落ちる。
中島は、最後の一瞬まで抵抗しなかった。
「おい」
「…なんだぁ」
ごろつきの一人は蹴り起されて不機嫌な声を上げた。
「お頭の命令だ。全員叩き起こせ」
「今度はどこに押し込むんだ?」
「違う。小娘を狩り出すんだ」
走る。走る。走る。
人通りの絶えた道を、千佳はひたすらに走りつづけていた。
いくつ目かの角を曲がり、千佳は気付いた。
この道が、荻上屋へ向かう道だと。
笹原は、釘付けされた荻上屋の表戸に寄りかかり、月を見つめていた。
「何をしてるんですか?」
女の声に、笹原は我に返った。
振り向くと、加奈子がこちらを見つめていた。
少し離れて、総市郎と光紀と斑目がいる。
それを見て、今日が総市郎と加奈子の結納の日であり、式の後で皆で飲みに行く事になっていたのを思い出した。
「ごめん。確か今日は…」
「気にしてませんよ。むしろそんな顔をして来られたら、かえって迷惑です」
加奈子は微笑みながら、笹原を言葉で切って捨てた。そして再び問い掛ける。
「それより、笹原さんはここで何をしてるんです?」
「いや、別に…」
「千佳さんのことを考えてるんですか?」
適当に誤魔化そうとした笹原を、加奈子は正面から見据える。
「多分…いや、きっとそうなんだろう」
笹原は月を見ながら答える。
「俺は彼女のことを何も知らない」
「知ろうとしなかった」
「俺が知っているのは、ここにいた彼女だけで」
「だから…」
加奈子は呆れ顔で尋ねる。
「他人に聞こうとは考えなかったんですか?」
「知ってるのか!!」
笹原は気色ばむ。
加奈子は逆に問い掛ける。
「笹原さん。千佳さんのことを好きですか?」
加奈子は待っていた。
千佳を本気で求めている事を、それを自分に見せてくれる事を。
そうでなければ、友人として、また一部とはいえ過去を知るものとして、千佳を託す気にはなれなかった。
しかし笹原は固まっていた。身動き一つせず、一点を見つめている。
そしてその目は加奈子を見ていなかった。
疑問に思って視線を追うと、そこには千佳がいた。
息を切らせ、驚愕の表情を浮かべ、こちらを見ている。
数瞬の後、千佳はこちらに背を向けて走り出した。
振り返ると、笹原は呆然と立っている。
「さっさと追いかけなさい!この馬鹿!!」
弾かれるように笹原は駆け出す。
加奈子が呆れるほど速く。
笹原は全力で千佳を追いかける。
程なく追いつくと、千佳の腕を掴んで引き止めた。
「離して!!」
「いやだ!」
笹原はそう叫ぶと、千佳の腕を引いて抱きしめる。
「俺は千佳さんが好きだ。だから離さない。絶対に」
千佳の動きが止まる。抱かれながら、その顔を上げ、笹原を見つめる。
笹原も見つめ返す。そして告げた。
「好きです」
千佳は驚きに目を見開き、顔を赤面させ、涙を滲ませながら応える。
「わたし…わたしは…わたし…」
「見つけたぞ!!」
だが、その言葉は男の大声にかき消された。
二人が声の方向を向くと、一人のやくざ者が、こちらを指差して叫んでいた。
呆然としていると、見る間に十人ほどのやくざ者や浪人らしき男達が集まる。
そしてその中から、原口が現れた。
「やれやれ、千佳。許婚を放り出して他の男と逢引か?とんでもない女だな」
そう言うと、わざとらしいため息をつく。
「まあ、この方が都合がいいか。祝言には代役を立てておいて、『姦夫姦婦を重ねて四つ』というわけだ」
原口は笑う。そして真顔に戻ると、言い放つ。
「殺れ」
その声を受けて、男達が一斉に刃物を抜き放つ。
笹原は千佳に囁く。
「店の前に、斑目さんたちがいる。そこまで逃げて」
「笹原さんは…?」
「大丈夫。さっきの返事を聞くまでは、俺は死なない」
不安げに尋ねる千佳に、笹原は笑って答えた。
男が一人、笹原たちに切りかかる。
笹原は千佳を置いて飛び出すと、男を切り捨てた。
「行け!」
その声を受けてわずかに躊躇った後、千佳は走り出す。
二人の男が左右から笹原に突きかかる。
右の男に踏み込む。抜き胴。向きを変え、もう一人を袈裟に切って捨てる。
男たちを睨みつける。
数人の男達が目配せをする。
そして、一人が笹原に切りかかると同時に、二人が左右を駆け抜けようとする。
笹原は躊躇わずに刀を右の男に投げる。刀は男の腹に突き刺さる。
正面から切りかかって来る男の刀を身を捻ってかわすと、男の手首を掴んで極める。
男が刀を落とす。
男を突き飛ばすと、刀を拾い、もう一人に投げる。男の足を掠める。男が転ぶ。
駆け出す。再び刀を拾い、男に止めを刺す。
新たな男が後ろから切りかかる。
転がってかわす。男はさらに切りつける。転がりながら男の足に切りつける。
男の動きが止まる。
その瞬間に、笹原は立ち上がりながら切り上げた。
(あと五人!)
笹原は荒い息をつきながら確認する。
一方、瞬く間に半数を失った男達に動揺が走る。
次の瞬間、笹原は深く息を吸うと、男達に飛び掛った。
一人目の首を突き刺し、抜きながら二人目を横なぎに払い、さらに他に切りかかろうとして。
刀を弾き返された。
「やるな…だが、そこまでだ」
男が一人歩み出る。
「やっちまえ、沢崎!」
残った男が囃し立てる。
「…お前は小娘を殺ってこい。こいつは、俺が、殺る」
囃し立てる男にそう答えると、沢崎と呼ばれた男は刀を鞘に収め、腰を沈めた。
(できる)
笹原の五感が警鐘を鳴らす。
一方、囃し立てた男が笹原の横を駆け抜けようとする。
笹原の注意がそちらに向かう。
その瞬間、沢崎の刃が光る。
笹原は本能的に見を捻る。
…わかったことは二つ。
自分の首筋を浅く切り裂いた、相手の技の確かさと、
目の前の男を倒さない限り、自分が身動きが出来なくなったこと。
息を切らせながら千佳は走る。
逃げるためでなく、笹原に助けを呼ぶために。
ようやくたどり着いた荻上屋の前には、提灯の灯りに照らされた加奈子の姿があった。
しがみつき、訴える。
「お願いします!助けてください!!」
「え?えーと…笹原さんに襲われたんですか?」
「違います!!!」
千佳は本気で憤る。
(今、この瞬間にも笹原さんは命をかけているのに!!)
千佳がその思いを口にしようとした時には、加奈子達は別の理由で固まっていた。
刀を持った男の存在に。
男も固まっていた。
小娘一人が相手だと思っていたら、4人も増えたのだから。
しかし、場数を踏んだ男にはすぐにわかった。
彼らが全く脅威にならない事を。
千佳を抱き寄せながら、加奈子は総市郎を見る。
(何とかしなさい)
その思いを受けて、総市郎は隣の光紀を見る。
(頼む)
その思いを受けて、光紀は斑目を見る。
(まかせた)
光紀の視線と思いを受けて、斑目は辺りを見渡した。
そこにはもちろん他にだれも居ない。
そして皆の目が語っていた。
『お願い』
『頼みます』
『やっちまえ』
『ただし俺ら抜きで』
斑目は刀を抜く。ため息をつきながら。
(悲しいけど俺ってサムライなのよね…)
斑目は震えながら刀を構える。
せめてもの慰めは、刀が鳴るほどには震えていないことだった。
気が付けば、他の皆はじりじりと後退して、自分ひとりが男に向かい合っていた。
男は実戦から来る余裕なのか、構えもせずに近寄ってくる。
男は無造作に斑目の間合いを割り、切りつける。
刃が斑目の頬を切り裂く。
斑目は半歩下がる。
(痛い)
(怖い)
(俺はこんな所で何をしてるんだ?)
(なぜ俺は…)
悩み出した斑目に、男が再び切りつける。
今度は腕を切られる。
更なる痛みと恐怖が斑目を襲う。刀を投げ捨てて逃げ出したくなる。
その時、斑目の脳裏に咲姫の姿と声が浮かんだ。
そして思い出す。自分がなぜ剣の練習を始めたか。
(俺は逃げない)
(そして彼女に認めてもらうんだ!)
斑目は刀を振りかぶる。
それは笹原に教えられたただ一つ。
何千、何万と繰り返した型そのままに。
ただ、無心に。
斑目は刀を振り下ろした。
振り下ろした斑目の刀は、止めを刺すべく踏み込んできた男の頭を、真っ二つに切り裂いた。
男が崩れ落ちる。
それを見て、斑目はへたり込んだ。
歯が鳴る。全身が震える。手は柄を握り締めたまま離そうとしない。
そんな斑目に千佳は駆け寄って叫んだ。
「斑目さん!お願いします!笹原さんを助けて!!」
だが斑目には聞こえていなかった。
あるのはただ目の前の、自分が初めて”殺した”相手の姿だけだった。
千佳は二度三度と叫ぶ。
それでも斑目が動かずにいると、千佳は男の落とした刀を拾い、もと来た方へ、笹原の下へと駈け出した。
「千佳さん!」
加奈子は叫びながら千佳の後を追う。
そしてその声に我を取り戻して、総市郎と光紀は斑目の元へ駆け寄った。
笹原は荒い息をつく。
既に体には、多数の傷を負っている。
致命傷が無いのは、笹原の技と、沢崎自信がそれを望んだせいだった。
「どうした…御宅流はそんなものなのか?」
沢崎が問う。
「そんな訳はあるまい…さあ見せろ、その全てを」
「俺の仕官をぶち壊した高坂を、奴を超えた事を、お前の死で示せ」
笹原には沢崎の言葉など聞こえていない。
あるのはただ、一刻も早くここを離れ千佳を助けに行く、それだけだった。
あせりだけが募っていく。
最悪の事態を思い、それを否定し、思ったこと自体を振り払うべく笹原は切りかかる。
だがその刃が届くより速く、沢崎の居合が笹原を浅く切り裂く。
笹原は慌てて飛びのく。
沢崎は追撃しない。
ただ笹原をいたぶるために。