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*チェーン 【投稿日 2006/06/19】 **[[カテゴリー-現視研の日常>http://www7.atwiki.jp/genshikenss/pages/49.html]]  3月も2週間を過ぎようとするある晴れた火曜日。荻上千佳は現視研の部室で個人誌用のネームを 書いていた。だいぶ春らしく、暖かくなった午後。昼過ぎにはいつものように斑目がコンビニ弁当を 提げて現れ、いつものように中身のない会話をして昼飯を平らげ、会社に戻って行った。  春休みも佳境で、キャンパスに人影は見当たらない。部室までの道行きで誰にも会わなかったし、 斑目が来なければ今日は1日言葉を発せずに終わったのではないか……そんなことを考えていた頃。 部室のドアノブが遠慮がちに回され、鉄扉がゆっくりと開いた。  千佳が顔をめぐらすと、そこには笹原完士が立っていた。千佳を認めるとうれしそうに微笑むが、 眉間には疲れが見て取れるしスーツも皺だらけだった。 「あ、笹原さんこんにちは……なんか疲れてるみたいですよ?」 「や、こんにちは、荻上さん。徹夜あけなんだよ~」  笹原はパイプ椅子を引き出すと千佳の隣に腰をおろした。後ろの本棚に背中をもたせかける。 「え~?なんでココ来てんですかぁ?帰ってお休みになったらいいじゃないですか」 「荻上さん今日部室で漫画描いてるってメールに書いてたじゃない。だからこっち来たら会えるかな って」 「あ、ええ、ココでやるとネームの進みがいいんで。あれ?メールって言えば笹原さん、明日まで カンヅメって書いてませんでしたか?」 「奇跡が起こったんですよ、それが」  笹原は卒論提出後、週のほとんどを四月からのはずの勤務先に出社していた。実務研修という名目 だったが、要するに人手の足りない会社で一足早く雑用をさせられているのだ。週末からこちらは、 教育係の社員が担当している雑誌の締め切りに巻き込まれ、二人は電話とメールでしか会話していな かった。 「先生に神が降りてきてさ、原稿上がっちゃった。俺は先輩と一緒にいたんだけど、あれにはオドロキ」  ネームの段階で行き詰っていた作家に強力なインスピレーションが降ってわき、締め切り大幅超過 を覚悟していた原稿が一晩で完成したのだと言う。 「荻上さんもそんなことってあるの?」 「経験ないっすねえ。あはは」  笹原は肩越しに、本棚から漫画雑誌を取り出して読み始めた。千佳の手はノートの上で忙しく動いて いる。 「……だいぶあったかくなったねえ」 「そうですね」 「今描いてるのも個人誌?」 「はい。またゴールデンウイークに即売会出るんで、それ用なんですけど」 「ジャンルは?ハレガン?」 「そのつもりです。劇場版もDVD出ちゃいましたし、たぶん最後かなーとも思うんで」 「けっこう評判よかったんでしょ?なんか賞でもとれば、もうちょっといけるんじゃないかな」  ……なんのことはない、とりとめのない会話。いつもこの部屋で交わされている心地よい雑音たち。  千佳の瞳にふと影が差す。笹原に気づかれないように目をぎゅっとつぶり、それを打ち消す。 「あー、あと10日で卒業式かー」  笹原がぼんやりと口にする。千佳の瞳に、ふたたび影がゆらめいた。 「……そうですね」 「もう毎日フツーに通勤してるから、むしろこっちに顔出せるほうが新鮮だよ、なんか。毎日ココに 来ちゃう斑目さんの気持ちが解るよーな、解んないよーな」 「笹原さんは……卒業したら、現視研にはもう来ないんですか?」 「え?いやー、来る気はあるんだけど、勤務時間メチャメチャだからねー。あはは」 「春日部先輩も」 「うん?」 「……もう、ほとんど新宿住まいだって言ってました。高坂先輩も仕事場で生活してるようなもん だって」  下を向いたまま話す千佳に異変を感じる。ペンは握っているが、なにも描いていない。 「私は毎日ここに来て……夕方まで原稿描いて……でも……誰も来てくれないんです」 「荻上さん……?」 「斑目先輩がお昼食べて帰ると、もう誰も来ないんです。笹原さんも、春日部先輩も、高坂先輩も、 大野先輩も。なんか……この世に私ひとりっきりになったんじゃないかって気分になるんです」  ぎゅっと目を閉じ、搾り出すように話す。 「私。……卒業式が終わっても……4月になっても、なんにも変わらないんじゃないかって私、 思ってたんです」 「……」 「ここに来てれば、いつでも笹原さんの顔見られて……あと斑目先輩や、春日部先輩たちもちょく ちょく来て、特になんでもない会話して。私はその横で漫画描いてて、……時々、笹原さんと斑目 先輩のこと妄想したりして」 「……あ、妄想は今でもしてるのね」 「朽木先輩がロクでもないこと口走って、春日部先輩にひっぱたかれたりして。……そんな」  千佳が口ごもる。言葉の後半は細かくふるえていた。 「そん……な日が、ずっと続いてくって……お、思ってたんです。バカですよね私、昔のアニメじゃ あるまいし、いつまでも同じ日が続くわけないのに」  笹原は千佳の肩に手を置く。千佳は彼の胸にしがみつき、突っ伏してしゃくりあげた。 「みんな……いなくなっちゃう」 「……」 「前に大野先輩が言ってたこと、だんだん身にしみてきました。私がここに来たとき、私をここに おいてくれた人たちが、どんどんここに来なくなっちゃう。私だけが現視研に取り残されてく……私 だけがこの部屋につなぎとめられてる」 「荻上さん」 「……」  くたびれたスーツのズボンの膝に、暖かい水滴が落ちる。  自分の脚に覆いかぶさる千佳を抱いたまま、笹原は彼女の頭をなでていた。千佳の肩の震えが おさまるまで、何度も、何度も。  何分経ったのだろうか。いつか千佳の呼吸は規則正しく、穏やかなものになっていった。 「……そういえばさ。初めてうちに来たときの荻上さん、ヤバかったよなー」  笹原は急に明るい口調で話し始めた。千佳は笹原の膝の上で目を開ける。 「覚えてる?一言目が『オタクが嫌いな荻上です』って。ありえなくない?」 「あ、あのときは……っ」  思わず身を起こして抗議する。 「大野さんとも真っ向対立だったよね。春日部さんは春日部さんでオタク呼ばわりされて怒ってたし」 「だってウチなんかにいるんですよ?オタクだって思うじゃないですか」 「それと朽木君。考えてみると結構がんばってフォローしようとしてたんだよね、あん時さ。…… まあ、結果は伴なわなかったわけだけど」 「暴力振るう人なんか最低です」 「盗撮もされたし?」 「ハイ!」 「今もウザい?」 「とーぜんです!……まあ、前よりは幾分マシになったんじゃないですか?」 「おー、高評価だー」 「幾分です。イクブン」 「荻上さん」  笹原は千佳の顔を覗き込んだ。 「荻上さんとみんなの関係。俺とみんなの関係。俺と、荻上さんとの関係」 「……?」 「全部さ、現視研が中心になってるじゃない」  にっこり笑ってみせる。 「俺は4年前に現視研に来て、みんなと仲間になることができた。荻上さんもここに移ってきて、 まあ色々あったけどさ、今はみんな仲いいじゃない。……それに、荻上さんがうちに来なかったら、 俺はひょっとしたらきみのことを、顔も知らずに卒業してたかもしれない」  言われて、気づいた。もしも、椎応大学に現視研がなかったら。漫研で受け入れてもらえなかった 自分が、たとえば学内のほかのサークルでも溶け込むことができないまま、この2年を過ごしていた としたら。  高校の制服を着た自分がフラッシュバックする。趣味に没頭することで自分の過去を……その 趣味自体がもたらした傷を封じ込めようとあがいていた3年間。自分に差し伸べられる手を拒否 することで、自分の心を守れると思っていたころ。  もしこの大学生活が、あの時と変わらない日々だったら。もしも笹原さんと出逢うことがなかっ たら。ふたたび目に涙があふれる。 「そんなの……やです」 「ああ!ごめん、そんなつもりじゃなくてね」  笹原は慌ててハンカチを探すが見つからない。一瞬悩み、今度は笹原の方から千佳を抱きしめた。 「現視研はさ、『つなぎとめられる』ようなものじゃないってこと。荻上さんは『取り残されてる』 んじゃないんだよ」  千佳の涙は笹原のワイシャツに吸い取られてゆく。 「俺たちがこれから色々な道を行くことになっても、そのスタート地点には必ずこの部屋がある。 俺たちが迷子にならないように、現視研と俺たちは細くて長いチェーンでつながっているんだ。 暗くて道が見えないときは、少しの光でもちゃんと輝くように。吹雪や嵐にさらされても、簡単に 千切れたりしないように」 「チェーン……」 「怪物をつなぎとめる太くて乱暴な鎖じゃない。どこかに行こうとするのを阻む檻でもない。雨や風 で簡単に切れるような糸とも違う。ただそこに在りつづけて、永遠になくならないもの。荻上さん、 現視研はね、たぶんそういう場所なんだと思うよ……って、んー、解りづらいよなー、俺説明ヘタ だなー」 「ううん、解ります!……たぶん、笹原さんの言いたいこと」  頭をかく笹原にそう言う。漠然とではあるが、千佳の頭に彼女なりのイメージが沸いていた。 ファンタジーRPGの宿屋だ。みんなが集まり、話し、冒険の旅に行き、また帰ってくる場所。遠大な 旅を志し、なかなか戻ってこないものもいる。あるいは近場のダンジョンで気楽に過ごし、毎日の ように食事に来るものもいる。それでも、彼らが冒険を終えた後に目指すのはこの場所なのだ。 疲れを癒し、友と語らい、英気を養って、また冒険に赴くために。  私もいつか行くのだ、と彼女は思った。今はまだその時ではないのだろう。でもいつか、誰か 仲間とパーティを組んで、遠い冒険の旅に出てゆくのだ。……それならば。  その時までは私はこの場所を守ろう、と千佳は思う。たまには客がいなくいなることもあるだろう。 荒くれ者が入り込んでくることがあるかもしれない。私にどこまでできるかわからないけれど、 とにかく私はこの宿屋を守ろう。旅の途中で疲れた者を受け入れられるように。旅を終えたものが 安らかに眠れるように。そしていつかまた、新しいチェーンがこの場所から伸びてゆけるように。 「笹原さん……私、また自分のことばっかり考えてたみたいです」  笹原の胸に抱かれたまま、千佳は言う。 「春の新歓で会員が増えなかったら、ホントに現視研の存続の危機なんです。そんなときに私が こんなこと言ってたら皆さんに申し訳ないですよね」 「うーん。この春には新入会員、欲しいよねー」 「私、もっとがんばります。今なら大野先輩もいますから、サークルとしてのインパクトは学内随一 って言えるし。大野先輩にはいろんなコスプレしてもらって、私はコピー誌とか作って現視研紹介して」 「えーと、朽木君は?」 「思ったんですけど……こんな言い方していいのかどうか……『こういう人でもサークルこなせる』 っつう見本にならないすかね?あの人」 「あはは、いーねソレ。去年の変なコスプレ、まだ彼ハマってるんでしょ?田中さんにウケ狙い重視 のやつ作ってもらって……着ぐるみとか露出度の低いやつね、そのカッコで司会とか力仕事とかして もらえばいいよ」 「目に浮かぶようです……ちょっと複雑な気分ですけど」 「朽木君、笑われるの好きだからね、いけるよきっと。あと紹介誌だったら久我山さんにもカット 提供してもらえばいいし。そうだ、高坂君とコンタクト取れたら、プシュケにうちの出身がいるって アピールできるよ……てか、堂々とやるのはビミョーかな……俺もさ、手伝えることはするから」 「ありがとうございます、笹原さん。なんか元気、出ました」  すこし名残惜しかったが笹原から離れ、自分の椅子に座りなおして思いをめぐらす。今日描いて いたのは個人誌用のネームだが、新歓用のコピー誌に集中するほうがいいだろう。笹原はサポート してくれると言うが、実質これも個人誌だ。  ぼんやりと冊子の構成を考え始めたとき、いきなり目の前にブルーの箱が出現した。 「……?」  リボンのかかった箱は手のひらに載っている。手は、もちろん隣にいる笹原のものだ。笹原は 千佳の顔を、なんだかとてもうれしそうに見つめている。 「わ、……え?なんですか?」  一瞬わけがわからず顔を引き、笹原を見つめ返す。 「そんな、がんばる荻上さんにプレゼント」 「え?どうして」 「今日、ホワイトデーでしょ。先月のお返し。今朝仕事あけて、新宿で開店と同時にデパート行って 買ってきた」 「ええ?え?まさか私に会いに来たって……このため、ですか?」 「ん」 「そんな……申し訳ないですよ!私なんかなにも」 「なに言ってるの。バレンタインデーの時にはおいしいチョコご馳走になっちゃったしさ」 「い、今だってあんな重たい愚痴聞いてもらっちゃって」 「いーんだって。俺があげたいの。荻上さんに」  笹原が強い口調で言うと、千佳はなにも言い返せなくなる。 「う、ん、はい。ありがとう……ございます……」 「中身、開けてみてよ」  白いリボンを解き、箱を開けるとアクセサリーケースが出てきた。その中からは銀のネックレス。 「わ……きれい」  手にとって見る。二連のプラチナのネックレスで、薄く丸い金のペンダントヘッドがそれぞれの チェーンに通してあった。 「つけてみてくれない?」  鎖の端を首の後ろに回し、つなぐ。 「えと、こう……ですかね」 「うん。ねえ、髪、下ろしてみてもらってもいい?」 「……はい」  言われるままに、頭の髪留めを外す。自分ではゴワゴワしていやだと思っている黒い髪が、意外な ほどふわりと頬に当たった。恥ずかしくて、笹原の顔をまともに見れない。こわばった顔で横を 向いていると、彼は髪をそっとなでた。 「髪下ろしてるほうが可愛いよ、荻上さん」 「……なに言ってるんですか、もう」 「卒業式の日さ、それつけてきてほしいな。髪もその感じで」 「やですよ、恥ずかしい」 「えー」 「やですっ!」 「まあ、考えてみてよ」 「……考えるだけですからね」  笹原はイスに座ったまま千佳に近づき、彼女の肩に手を置く。千佳が身を固くする。 「荻上さん」  千佳の顔を見つめる。千佳も笹原の目を見つめ返す。 「笹原……さん」  二人の影が近づき、そして……そして現視研のドアが大きくノックされた。 「おっはよーございまあすっ!」 勢いよく入ってきたのは大野加奈子だ。いつにないハイテンション。後ろから恋人の田中総市郎も 顔を覗かせるが、明らかに彼女に気圧されている。 「お二人ともお久しぶり!今日はいーお天気ですねー」  とはいえ、いま一番心拍数の高いのは笹原だった。 「あっあっおっ大野さんに田中さん、ご、ご無沙汰してます。今日はいっ一体……」 「うーふふー。来週の咲さんとの撮影会の衣装の整理なんですー。ちょうど田中さんも空いてたんで 来ていただいたんですよー」 「よっよう笹原、しばらくだな」 「あらぁ、荻上さんは原稿書きですか?」  加奈子は硬直している笹原の横をすり抜け、千佳の方へ歩いてゆく。しまった!笹原は思った。 こんなタイミングで来られたらまた荻上さんが! 「荻っ……」 「あ、大野先輩こんにちは。田中先輩も」  振り向いた笹原の視線の先には『いつもどおりの』千佳。ネックレスはしまい込まれ、頭頂には 筆の穂先が屹立している。 「って元に戻ってるし!ハヤワザ!?」 「?どうかしたんですか?」 「いっいえ……なんでもない、です」 「ちょうどよかった、大野先輩と田中先輩に春の新歓の件でご相談したいことがあったんですよ」 「いーですよお。なんでも相談にのりますよおー。ねー田中さぁん」  なにか変だ。笹原は声を殺して田中に尋ねる。 「田中さん?今日の大野さん、なんかおかしいですよ?お二人何かあったんですか?」 「笹原なあ」  田中は頭をかく。同じくささやき声で返答する。 「ソレはお前の胸に聞け」 「……!!?」  ばくん。笹原の心臓が跳ね上がった。ま……さ、か。 「お……大野さんちょっと田中さん借りますぅっ!!」  田中の腕を引っつかみ、火のついたような勢いで部室から飛び出す。室内は千佳と加奈子だけになる。 「……どうしたんですかね、笹原さんと田中さん」 「さーねえ。さあさあ荻上さん、相談ってなんですかぁ」  5分後、サークル棟の階段裏で笹原は、久しぶりになる『やられた』表情を顔に貼り付けていた。 田中から衝撃の事実を聞いたところだったからだ。……また、やられたのだ。田中と加奈子は、 現視研の向かい斜め上にある部屋……児童文学研究会の部室から、笹原と千佳を観察していたのだ。 「い……いったい、いつから」 「たぶん最初から」 「……どのあたりまで」 「1回目のクライマックスまでかな」  その日、現視研の部室で田中を待とうと思っていた加奈子は、遠くから歩いてくる笹原を見つけた。 部室に千佳がいることは知っていたから、これはチャンスとばかり田中を呼び出して二人で児文研に 忍び込んだのだ。まあその、なんだ、と煙草に火を点けながら田中は続けた。 「お前らがものすごく順調なのはよく判ったよ。とりあえず心配すんな。さっきのことは俺と大野 さんだけしか見てないし、絶対誰にも言わないって大野さんと決めたから。荻上さん、あの感じ じゃ気づいてないだろ?」 「……すいません」 「いやいや、仲のいいのはいいことじゃないか。って俺なんかお前の親父みたいなコメントに なっちまってるなあ」 「すいません」 「謝るなって。だけどなあ笹原」  田中は笹原と並んでしゃがみこみ、肩に手を回す。 「はい」 「部室でアレはやりすぎだ」 「……は?」 「やはりなあ、そういうことは、だ。しかるべき場所でしかるべき手順でだな。お前ら家も近いん だし、なにもそんな高校生じゃあるまいし。ここらはホテルだってたくさんあるんだから」 「ホテル?あっあの?」 「ま、そんなこと言いながら俺たちもまーその、なんだ、いやいや」 「……田中さん?」 「ん?」 「俺たち今……その、キス……とかもしてなかったんですが、なにか勘違いをしてるんじゃ……?」 「なに?……あれ?え、どういうこと?」  どうせ見られてる。笹原はさっきの経緯をかいつまんで説明した。田中がなにか思い違いを しており、それに対する興味が恥ずかしさを上回った。  説明を終えると、今度は田中がうろたえ始めた。 「……え?それだけ?荻上さんが泣いて、お前が慰めて、それだけ?」 「それだけって言われても……」 「だ……だってお前、あれはどう見ても」 「え?」 「あ、いや、いやもういいんだ、すまん……えーとそうだな、荻上さんがさ、お前に抱きついたろ?」 「……はい」 「アレ見て俺たち、てっきり」 「てっきり?……って?え……え?つまり」 「……最後までイッちゃったんだと……」  妄想は止められない。……いつだったか、笹原自身が使った言葉だ。いまその言葉を、笹原は 噛み締めていた。自分の顔はきっと今、赤面を通り越してる。  最後の力を振り絞り、笹原は田中に懇願した。 「田中さぁん。このことホンットに荻上さんに言わないでくださいねええ」 「お、おう」 「それにさっき言いかけたのって、つまり田中さんも大野さんと児文研の部屋で……。大野さん、 顔ツヤツヤしてましたもんねえ?どうかお互いに秘密ってことでひとつ」 「……笹原……おまえ、カンが鋭くなったというか……駆け引き巧くなったな」 「イノチがけですもん、ある意味。……戻りましょうか、部室?俺、ちょっとトイレ行って顔洗って きます」 「おう。じゃあ先に行ってるわ」  大野さんの方は田中さんが念押ししてくれるだろう。むしろ、俺の様子で荻上さんがなにか 気づかなきゃいいけど……。笹原は、歩きながら深呼吸した。  春らしい暖かい空気が肺を洗ってゆく。田中が先を歩いて向かう現視研の部室の方向をながめ、 次に自分の足元を見る。  あそこから、ここまで。目には見えないが、きらきらと光る細いチェーンがつながっている。  苦し紛れで千佳に説明した、チェーンのこと。寝不足の頭でショップを何軒も回り、あの ネックレスを見たときにこれだと思った。買い物馴れしている咲なら笑うかもしれないが、 けっこう勇気の要る金額だった。  千佳にさぐりさぐり語ったチェーンの話は、ネックレスのことで頭の中が一杯になっていたから だったが、話した内容はその場しのぎではない。以前から笹原が現視研に感じていたことだ。  我ながらたどたどしくはあったが、どうやら気持ちは千佳に通じた、と思う。現視研という場所が 自分に与えてくれた、一番大切な人に、自分の思いの一片でも示すことができたなら……その欠片を 繋げることができたなら本望だ。  部室では千佳が、笹原を待ちながら加奈子と新歓の打ち合わせをしていた。計画の骨子は理解 してもらえたのだが、案の定加奈子は千佳にもコスプレを強要していた。今しがた戻ってきた田中 にも、加奈子を止める気配はない。 「そこまで張り切ってるんなら荻上さんもしましょーよ、コスプレ!」 「だからそれとこれとは話が別だって言ってるじゃないですか!朽木先輩にも着ぐるみ着せるん だから、全員がコスプレじゃかえって怪しいサークルになっちゃいますっ」 「じゃあ、じゃあですね、交代でどうですか!午前中がわたし、午後は荻上さんが」 「ソコから離れろ!」  息を切らしながら、千佳は考えていた。もうじき部屋に戻って来てくれる笹原のことを。あと 何回会えるか判らない、咲や高坂のことを。  ここから、あそこまで。みんなの足元まで伸びるチェーン。  さっき慌ててズボンのポケットに隠した、笹原のプレゼントを意識してみる。二連のチェーンは、 彼と私をイメージしてくれたのだろうか。 「わかりました!新歓ではやりませんけど、こうしましょう」 「はい?」 「新入会員3人ゲットしたら、大野先輩の卒業のときに合同コスプレ撮影会!」 「!」  加奈子の双眸に火が宿る。 「言いましたね荻上さん!笹原さんも聞きましたね!」 「え?笹原さんいつの間にっ」 「荻上さん……なんてこと約束してんの」  あちゃー、ちょっと失敗したか?……いや、かまうものか。  どんな道を歩いていったって、チェーンは必ずつながっているのだから。 side大田 田中が加奈子から電話を受けたのは、大学前の駅を降りたときだった。 「ああ大野さん、今ちょうど……え?」 「いいから!大至急児文研の部室へ来て下さい!」 「児文研って……ええ?また誰かのこと見てるの?」 「荻上さんが来てたのは知ってたんですけど、さっき笹原さんが部屋に入っていくのが見えたん です。ふふふ、これは楽しい事が起きる予感がしますよぉ」 「大野さん……あんまりソレばっか熱中しない方が……」 「何言ってるんですか田中さん!あたしは会長として神聖な部室を汚されないようにですね」 「……それなら直接現視研に行った方が確実でしょー?」 「いーから!もうっ、ノリの悪い人ですねえ」  最後のセリフの途中から、加奈子の声がくぐもった。あ、マスクした……田中は確信し、 サークル棟へ向かった。  児文研のドアをあけると、すでに窓際にかがみこんでいる加奈子が見えた。他に人影はない。 「今日は大野さんだけなの?」 「さすがにこの時期学校にきてる人なんかそうそういませんよ、はじめから田中さんにしか声 かけてません。それより早く早くう」 「……趣味わるいなあ」 「なんですか?」 「あっいや」  主張もそこそこに、加奈子の隣にかがみこむ。向かいの棟の窓の奥、ポスターの隙間から 見えるのは荻上千佳と、その奥に座る笹原完士だった。表情はまったく読み取れないが、体が 動く様子で会話をしているということは判る。 「……実は、ちょっと荻上さんのことが心配だったんです。休みに入って何度か顔合わせて ますけど、明らかに元気なかったし。笹原さんはお仕事が忙しいみたいで、あんまり会って なかったみたいなんですよ」 「ああ、もう働かされてるんだってな」 「帰ってくる時間も遅くて、寝に帰ってるみたいなもんですって。荻上さんは平気なふり してますけど、寂しいと思うんですよね……。わたしは田中さんでよかった」  くるりと振り向いて田中に微笑む。マスクは早々に外したようだ。田中は加奈子に笑顔を 返す。……いろいろな寂しさを知っているこの人は、人の寂しささえ許せないのだ。去年の夏、 あの二人に何があったのかは後になってから加奈子が詳しく説明してくれた。 『荻上さん、本当によかったですね~』  目をうるませて自分に同意を促す加奈子の姿は、まるで娘を嫁にやる母親のようだった。 そんなふうにからかっても、加奈子は平気な顔をして言ったものだ。 『だって、自分が認めてもらえるのはとても幸せなことじゃありませんか。わたしは田中 さんに認めてもらえたから、次の誰かが認めてもらえるお手伝いをしてあげたかったんです。 幸せが次の人につながっていくのも、また幸せなことですからね』  いま加奈子は、その相手を見守っている。……ノゾキ行為だが。 「な、なあ大野さん、二人とも楽しそうじゃないか」  加奈子の肩に手をかける。 「もういいだろ?そろそろあっち行って、冷やかしてやろうよ」 「しっ!」 「え?」  加奈子は窓の外を凝視したまま肩の手を探り、握りしめる。 「あ……っ!」 「大野さんどうしたの……っうお!?」  取り乱し始めた加奈子に異変を感じ、再び階下の窓を凝視する。  現視研の窓の内側では、千佳が笹原に抱きついていた。 「な、なんという……笹原、やるなあ」 「……というより……やりすぎ……ですね、はは、あ、あんまり二人がエスカレートしない うちに行きましょうか?」  言葉ではそう言いながら、加奈子はその場を動こうとしない。田中の手を握る力が増して きた。呼吸が荒くなる。 「そ……そうだよ大野さん、俺たちはデバガメ目的でここに来たわけじゃないんだ。あくまで 彼らを見守るために、だな」  笹原、そうだ、笹原はこの部屋のことを知っている。覗かれる可能性がある場所でまさか そんな……まさか……ええっ?  加奈子が息をのんだ。田中の視界に入ってきたのは、笹原の腰にかがみこむ千佳の頭だった。 「(さ……っ)」  あわてて窓に背を向ける。な……なにしてんだ笹原!?ウソだろ?  肩越しに再確認する。笹原の膝の上では、千佳の頭がリズミカルに動いていた。笹原が彼女の 髪をかき上げる。 「(笹原ぁーーーっ!!!)」 539 :『チェーン ~ side大田(4/4)』 :2006/06/17(土) 12:54:52 ID:???  俺にテレパシーが使えれば!田中は冗談抜きで願った。それがダメなら、俺じゃない誰かから 奴に電話でもかかってくれないものか。 「まずいよ大野さん、さすがにこれは……大野さん?」  震えながら握る手の力が強くなる。気分でも悪くなったか?大丈夫か……声をかけようと中腰 になったとき、跳ね起きるように加奈子が立ち上がった。田中の背中に両手を回し、全体重を 彼に預ける。 「んむうっ!?」  田中の口を加奈子の唇が覆った。あたたかく湿った感触。  加奈子は田中の唇を舌でこじあける。熱く甘い吐息が田中の口腔に充満する。 「……くはあっ」  加奈子による蹂躙は永遠に続くかと思われた。堪らず唇を離し、空気を求めて喘ぐ。彼女の 唇はさらに田中に追いすがり、二人は折り重なって床に倒れた。 「田中さん!田中さんっ…!」  すすり泣くような囁くような、加奈子の声。甘く濡れた瞳。彼女の手が、何かを探し求める ように田中の体の上をさ迷う。胸に肩に脇腹に腰に。 「田中さん……わたし……わたし、もう……っ!」  加奈子の手は目標を探り当てた。  田中は彼女に気付かれないように、ひとつ小さく溜息をついた。児文研の入口を施錠していた ことを思い出し、少し気が楽になる。加奈子の背中に手を回し、彼女を強く抱きしめた。 「(笹原……場合によっては恨むからな)」  後に自分たちの勘違いに気付いた二人が、このことを誰かに話すことはなかったという。  もちろん、田中が笹原を恨む筋合いも存在しなかった。
*チェーン 【投稿日 2006/06/17】 **[[カテゴリー-現視研の日常>http://www7.atwiki.jp/genshikenss/pages/49.html]]  3月も2週間を過ぎようとするある晴れた火曜日。荻上千佳は現視研の部室で個人誌用のネームを 書いていた。だいぶ春らしく、暖かくなった午後。昼過ぎにはいつものように斑目がコンビニ弁当を 提げて現れ、いつものように中身のない会話をして昼飯を平らげ、会社に戻って行った。  春休みも佳境で、キャンパスに人影は見当たらない。部室までの道行きで誰にも会わなかったし、 斑目が来なければ今日は1日言葉を発せずに終わったのではないか……そんなことを考えていた頃。 部室のドアノブが遠慮がちに回され、鉄扉がゆっくりと開いた。  千佳が顔をめぐらすと、そこには笹原完士が立っていた。千佳を認めるとうれしそうに微笑むが、 眉間には疲れが見て取れるしスーツも皺だらけだった。 「あ、笹原さんこんにちは……なんか疲れてるみたいですよ?」 「や、こんにちは、荻上さん。徹夜あけなんだよ~」  笹原はパイプ椅子を引き出すと千佳の隣に腰をおろした。後ろの本棚に背中をもたせかける。 「え~?なんでココ来てんですかぁ?帰ってお休みになったらいいじゃないですか」 「荻上さん今日部室で漫画描いてるってメールに書いてたじゃない。だからこっち来たら会えるかな って」 「あ、ええ、ココでやるとネームの進みがいいんで。あれ?メールって言えば笹原さん、明日まで カンヅメって書いてませんでしたか?」 「奇跡が起こったんですよ、それが」  笹原は卒論提出後、週のほとんどを四月からのはずの勤務先に出社していた。実務研修という名目 だったが、要するに人手の足りない会社で一足早く雑用をさせられているのだ。週末からこちらは、 教育係の社員が担当している雑誌の締め切りに巻き込まれ、二人は電話とメールでしか会話していな かった。 「先生に神が降りてきてさ、原稿上がっちゃった。俺は先輩と一緒にいたんだけど、あれにはオドロキ」  ネームの段階で行き詰っていた作家に強力なインスピレーションが降ってわき、締め切り大幅超過 を覚悟していた原稿が一晩で完成したのだと言う。 「荻上さんもそんなことってあるの?」 「経験ないっすねえ。あはは」  笹原は肩越しに、本棚から漫画雑誌を取り出して読み始めた。千佳の手はノートの上で忙しく動いて いる。 「……だいぶあったかくなったねえ」 「そうですね」 「今描いてるのも個人誌?」 「はい。またゴールデンウイークに即売会出るんで、それ用なんですけど」 「ジャンルは?ハレガン?」 「そのつもりです。劇場版もDVD出ちゃいましたし、たぶん最後かなーとも思うんで」 「けっこう評判よかったんでしょ?なんか賞でもとれば、もうちょっといけるんじゃないかな」  ……なんのことはない、とりとめのない会話。いつもこの部屋で交わされている心地よい雑音たち。  千佳の瞳にふと影が差す。笹原に気づかれないように目をぎゅっとつぶり、それを打ち消す。 「あー、あと10日で卒業式かー」  笹原がぼんやりと口にする。千佳の瞳に、ふたたび影がゆらめいた。 「……そうですね」 「もう毎日フツーに通勤してるから、むしろこっちに顔出せるほうが新鮮だよ、なんか。毎日ココに 来ちゃう斑目さんの気持ちが解るよーな、解んないよーな」 「笹原さんは……卒業したら、現視研にはもう来ないんですか?」 「え?いやー、来る気はあるんだけど、勤務時間メチャメチャだからねー。あはは」 「春日部先輩も」 「うん?」 「……もう、ほとんど新宿住まいだって言ってました。高坂先輩も仕事場で生活してるようなもん だって」  下を向いたまま話す千佳に異変を感じる。ペンは握っているが、なにも描いていない。 「私は毎日ここに来て……夕方まで原稿描いて……でも……誰も来てくれないんです」 「荻上さん……?」 「斑目先輩がお昼食べて帰ると、もう誰も来ないんです。笹原さんも、春日部先輩も、高坂先輩も、 大野先輩も。なんか……この世に私ひとりっきりになったんじゃないかって気分になるんです」  ぎゅっと目を閉じ、搾り出すように話す。 「私。……卒業式が終わっても……4月になっても、なんにも変わらないんじゃないかって私、 思ってたんです」 「……」 「ここに来てれば、いつでも笹原さんの顔見られて……あと斑目先輩や、春日部先輩たちもちょく ちょく来て、特になんでもない会話して。私はその横で漫画描いてて、……時々、笹原さんと斑目 先輩のこと妄想したりして」 「……あ、妄想は今でもしてるのね」 「朽木先輩がロクでもないこと口走って、春日部先輩にひっぱたかれたりして。……そんな」  千佳が口ごもる。言葉の後半は細かくふるえていた。 「そん……な日が、ずっと続いてくって……お、思ってたんです。バカですよね私、昔のアニメじゃ あるまいし、いつまでも同じ日が続くわけないのに」  笹原は千佳の肩に手を置く。千佳は彼の胸にしがみつき、突っ伏してしゃくりあげた。 「みんな……いなくなっちゃう」 「……」 「前に大野先輩が言ってたこと、だんだん身にしみてきました。私がここに来たとき、私をここに おいてくれた人たちが、どんどんここに来なくなっちゃう。私だけが現視研に取り残されてく……私 だけがこの部屋につなぎとめられてる」 「荻上さん」 「……」  くたびれたスーツのズボンの膝に、暖かい水滴が落ちる。  自分の脚に覆いかぶさる千佳を抱いたまま、笹原は彼女の頭をなでていた。千佳の肩の震えが おさまるまで、何度も、何度も。  何分経ったのだろうか。いつか千佳の呼吸は規則正しく、穏やかなものになっていった。 「……そういえばさ。初めてうちに来たときの荻上さん、ヤバかったよなー」  笹原は急に明るい口調で話し始めた。千佳は笹原の膝の上で目を開ける。 「覚えてる?一言目が『オタクが嫌いな荻上です』って。ありえなくない?」 「あ、あのときは……っ」  思わず身を起こして抗議する。 「大野さんとも真っ向対立だったよね。春日部さんは春日部さんでオタク呼ばわりされて怒ってたし」 「だってウチなんかにいるんですよ?オタクだって思うじゃないですか」 「それと朽木君。考えてみると結構がんばってフォローしようとしてたんだよね、あん時さ。…… まあ、結果は伴なわなかったわけだけど」 「暴力振るう人なんか最低です」 「盗撮もされたし?」 「ハイ!」 「今もウザい?」 「とーぜんです!……まあ、前よりは幾分マシになったんじゃないですか?」 「おー、高評価だー」 「幾分です。イクブン」 「荻上さん」  笹原は千佳の顔を覗き込んだ。 「荻上さんとみんなの関係。俺とみんなの関係。俺と、荻上さんとの関係」 「……?」 「全部さ、現視研が中心になってるじゃない」  にっこり笑ってみせる。 「俺は4年前に現視研に来て、みんなと仲間になることができた。荻上さんもここに移ってきて、 まあ色々あったけどさ、今はみんな仲いいじゃない。……それに、荻上さんがうちに来なかったら、 俺はひょっとしたらきみのことを、顔も知らずに卒業してたかもしれない」  言われて、気づいた。もしも、椎応大学に現視研がなかったら。漫研で受け入れてもらえなかった 自分が、たとえば学内のほかのサークルでも溶け込むことができないまま、この2年を過ごしていた としたら。  高校の制服を着た自分がフラッシュバックする。趣味に没頭することで自分の過去を……その 趣味自体がもたらした傷を封じ込めようとあがいていた3年間。自分に差し伸べられる手を拒否 することで、自分の心を守れると思っていたころ。  もしこの大学生活が、あの時と変わらない日々だったら。もしも笹原さんと出逢うことがなかっ たら。ふたたび目に涙があふれる。 「そんなの……やです」 「ああ!ごめん、そんなつもりじゃなくてね」  笹原は慌ててハンカチを探すが見つからない。一瞬悩み、今度は笹原の方から千佳を抱きしめた。 「現視研はさ、『つなぎとめられる』ようなものじゃないってこと。荻上さんは『取り残されてる』 んじゃないんだよ」  千佳の涙は笹原のワイシャツに吸い取られてゆく。 「俺たちがこれから色々な道を行くことになっても、そのスタート地点には必ずこの部屋がある。 俺たちが迷子にならないように、現視研と俺たちは細くて長いチェーンでつながっているんだ。 暗くて道が見えないときは、少しの光でもちゃんと輝くように。吹雪や嵐にさらされても、簡単に 千切れたりしないように」 「チェーン……」 「怪物をつなぎとめる太くて乱暴な鎖じゃない。どこかに行こうとするのを阻む檻でもない。雨や風 で簡単に切れるような糸とも違う。ただそこに在りつづけて、永遠になくならないもの。荻上さん、 現視研はね、たぶんそういう場所なんだと思うよ……って、んー、解りづらいよなー、俺説明ヘタ だなー」 「ううん、解ります!……たぶん、笹原さんの言いたいこと」  頭をかく笹原にそう言う。漠然とではあるが、千佳の頭に彼女なりのイメージが沸いていた。 ファンタジーRPGの宿屋だ。みんなが集まり、話し、冒険の旅に行き、また帰ってくる場所。遠大な 旅を志し、なかなか戻ってこないものもいる。あるいは近場のダンジョンで気楽に過ごし、毎日の ように食事に来るものもいる。それでも、彼らが冒険を終えた後に目指すのはこの場所なのだ。 疲れを癒し、友と語らい、英気を養って、また冒険に赴くために。  私もいつか行くのだ、と彼女は思った。今はまだその時ではないのだろう。でもいつか、誰か 仲間とパーティを組んで、遠い冒険の旅に出てゆくのだ。……それならば。  その時までは私はこの場所を守ろう、と千佳は思う。たまには客がいなくいなることもあるだろう。 荒くれ者が入り込んでくることがあるかもしれない。私にどこまでできるかわからないけれど、 とにかく私はこの宿屋を守ろう。旅の途中で疲れた者を受け入れられるように。旅を終えたものが 安らかに眠れるように。そしていつかまた、新しいチェーンがこの場所から伸びてゆけるように。 「笹原さん……私、また自分のことばっかり考えてたみたいです」  笹原の胸に抱かれたまま、千佳は言う。 「春の新歓で会員が増えなかったら、ホントに現視研の存続の危機なんです。そんなときに私が こんなこと言ってたら皆さんに申し訳ないですよね」 「うーん。この春には新入会員、欲しいよねー」 「私、もっとがんばります。今なら大野先輩もいますから、サークルとしてのインパクトは学内随一 って言えるし。大野先輩にはいろんなコスプレしてもらって、私はコピー誌とか作って現視研紹介して」 「えーと、朽木君は?」 「思ったんですけど……こんな言い方していいのかどうか……『こういう人でもサークルこなせる』 っつう見本にならないすかね?あの人」 「あはは、いーねソレ。去年の変なコスプレ、まだ彼ハマってるんでしょ?田中さんにウケ狙い重視 のやつ作ってもらって……着ぐるみとか露出度の低いやつね、そのカッコで司会とか力仕事とかして もらえばいいよ」 「目に浮かぶようです……ちょっと複雑な気分ですけど」 「朽木君、笑われるの好きだからね、いけるよきっと。あと紹介誌だったら久我山さんにもカット 提供してもらえばいいし。そうだ、高坂君とコンタクト取れたら、プシュケにうちの出身がいるって アピールできるよ……てか、堂々とやるのはビミョーかな……俺もさ、手伝えることはするから」 「ありがとうございます、笹原さん。なんか元気、出ました」  すこし名残惜しかったが笹原から離れ、自分の椅子に座りなおして思いをめぐらす。今日描いて いたのは個人誌用のネームだが、新歓用のコピー誌に集中するほうがいいだろう。笹原はサポート してくれると言うが、実質これも個人誌だ。  ぼんやりと冊子の構成を考え始めたとき、いきなり目の前にブルーの箱が出現した。 「……?」  リボンのかかった箱は手のひらに載っている。手は、もちろん隣にいる笹原のものだ。笹原は 千佳の顔を、なんだかとてもうれしそうに見つめている。 「わ、……え?なんですか?」  一瞬わけがわからず顔を引き、笹原を見つめ返す。 「そんな、がんばる荻上さんにプレゼント」 「え?どうして」 「今日、ホワイトデーでしょ。先月のお返し。今朝仕事あけて、新宿で開店と同時にデパート行って 買ってきた」 「ええ?え?まさか私に会いに来たって……このため、ですか?」 「ん」 「そんな……申し訳ないですよ!私なんかなにも」 「なに言ってるの。バレンタインデーの時にはおいしいチョコご馳走になっちゃったしさ」 「い、今だってあんな重たい愚痴聞いてもらっちゃって」 「いーんだって。俺があげたいの。荻上さんに」  笹原が強い口調で言うと、千佳はなにも言い返せなくなる。 「う、ん、はい。ありがとう……ございます……」 「中身、開けてみてよ」  白いリボンを解き、箱を開けるとアクセサリーケースが出てきた。その中からは銀のネックレス。 「わ……きれい」  手にとって見る。二連のプラチナのネックレスで、薄く丸い金のペンダントヘッドがそれぞれの チェーンに通してあった。 「つけてみてくれない?」  鎖の端を首の後ろに回し、つなぐ。 「えと、こう……ですかね」 「うん。ねえ、髪、下ろしてみてもらってもいい?」 「……はい」  言われるままに、頭の髪留めを外す。自分ではゴワゴワしていやだと思っている黒い髪が、意外な ほどふわりと頬に当たった。恥ずかしくて、笹原の顔をまともに見れない。こわばった顔で横を 向いていると、彼は髪をそっとなでた。 「髪下ろしてるほうが可愛いよ、荻上さん」 「……なに言ってるんですか、もう」 「卒業式の日さ、それつけてきてほしいな。髪もその感じで」 「やですよ、恥ずかしい」 「えー」 「やですっ!」 「まあ、考えてみてよ」 「……考えるだけですからね」  笹原はイスに座ったまま千佳に近づき、彼女の肩に手を置く。千佳が身を固くする。 「荻上さん」  千佳の顔を見つめる。千佳も笹原の目を見つめ返す。 「笹原……さん」  二人の影が近づき、そして……そして現視研のドアが大きくノックされた。 「おっはよーございまあすっ!」 勢いよく入ってきたのは大野加奈子だ。いつにないハイテンション。後ろから恋人の田中総市郎も 顔を覗かせるが、明らかに彼女に気圧されている。 「お二人ともお久しぶり!今日はいーお天気ですねー」  とはいえ、いま一番心拍数の高いのは笹原だった。 「あっあっおっ大野さんに田中さん、ご、ご無沙汰してます。今日はいっ一体……」 「うーふふー。来週の咲さんとの撮影会の衣装の整理なんですー。ちょうど田中さんも空いてたんで 来ていただいたんですよー」 「よっよう笹原、しばらくだな」 「あらぁ、荻上さんは原稿書きですか?」  加奈子は硬直している笹原の横をすり抜け、千佳の方へ歩いてゆく。しまった!笹原は思った。 こんなタイミングで来られたらまた荻上さんが! 「荻っ……」 「あ、大野先輩こんにちは。田中先輩も」  振り向いた笹原の視線の先には『いつもどおりの』千佳。ネックレスはしまい込まれ、頭頂には 筆の穂先が屹立している。 「って元に戻ってるし!ハヤワザ!?」 「?どうかしたんですか?」 「いっいえ……なんでもない、です」 「ちょうどよかった、大野先輩と田中先輩に春の新歓の件でご相談したいことがあったんですよ」 「いーですよお。なんでも相談にのりますよおー。ねー田中さぁん」  なにか変だ。笹原は声を殺して田中に尋ねる。 「田中さん?今日の大野さん、なんかおかしいですよ?お二人何かあったんですか?」 「笹原なあ」  田中は頭をかく。同じくささやき声で返答する。 「ソレはお前の胸に聞け」 「……!!?」  ばくん。笹原の心臓が跳ね上がった。ま……さ、か。 「お……大野さんちょっと田中さん借りますぅっ!!」  田中の腕を引っつかみ、火のついたような勢いで部室から飛び出す。室内は千佳と加奈子だけになる。 「……どうしたんですかね、笹原さんと田中さん」 「さーねえ。さあさあ荻上さん、相談ってなんですかぁ」  5分後、サークル棟の階段裏で笹原は、久しぶりになる『やられた』表情を顔に貼り付けていた。 田中から衝撃の事実を聞いたところだったからだ。……また、やられたのだ。田中と加奈子は、 現視研の向かい斜め上にある部屋……児童文学研究会の部室から、笹原と千佳を観察していたのだ。 「い……いったい、いつから」 「たぶん最初から」 「……どのあたりまで」 「1回目のクライマックスまでかな」  その日、現視研の部室で田中を待とうと思っていた加奈子は、遠くから歩いてくる笹原を見つけた。 部室に千佳がいることは知っていたから、これはチャンスとばかり田中を呼び出して二人で児文研に 忍び込んだのだ。まあその、なんだ、と煙草に火を点けながら田中は続けた。 「お前らがものすごく順調なのはよく判ったよ。とりあえず心配すんな。さっきのことは俺と大野 さんだけしか見てないし、絶対誰にも言わないって大野さんと決めたから。荻上さん、あの感じ じゃ気づいてないだろ?」 「……すいません」 「いやいや、仲のいいのはいいことじゃないか。って俺なんかお前の親父みたいなコメントに なっちまってるなあ」 「すいません」 「謝るなって。だけどなあ笹原」  田中は笹原と並んでしゃがみこみ、肩に手を回す。 「はい」 「部室でアレはやりすぎだ」 「……は?」 「やはりなあ、そういうことは、だ。しかるべき場所でしかるべき手順でだな。お前ら家も近いん だし、なにもそんな高校生じゃあるまいし。ここらはホテルだってたくさんあるんだから」 「ホテル?あっあの?」 「ま、そんなこと言いながら俺たちもまーその、なんだ、いやいや」 「……田中さん?」 「ん?」 「俺たち今……その、キス……とかもしてなかったんですが、なにか勘違いをしてるんじゃ……?」 「なに?……あれ?え、どういうこと?」  どうせ見られてる。笹原はさっきの経緯をかいつまんで説明した。田中がなにか思い違いを しており、それに対する興味が恥ずかしさを上回った。  説明を終えると、今度は田中がうろたえ始めた。 「……え?それだけ?荻上さんが泣いて、お前が慰めて、それだけ?」 「それだけって言われても……」 「だ……だってお前、あれはどう見ても」 「え?」 「あ、いや、いやもういいんだ、すまん……えーとそうだな、荻上さんがさ、お前に抱きついたろ?」 「……はい」 「アレ見て俺たち、てっきり」 「てっきり?……って?え……え?つまり」 「……最後までイッちゃったんだと……」  妄想は止められない。……いつだったか、笹原自身が使った言葉だ。いまその言葉を、笹原は 噛み締めていた。自分の顔はきっと今、赤面を通り越してる。  最後の力を振り絞り、笹原は田中に懇願した。 「田中さぁん。このことホンットに荻上さんに言わないでくださいねええ」 「お、おう」 「それにさっき言いかけたのって、つまり田中さんも大野さんと児文研の部屋で……。大野さん、 顔ツヤツヤしてましたもんねえ?どうかお互いに秘密ってことでひとつ」 「……笹原……おまえ、カンが鋭くなったというか……駆け引き巧くなったな」 「イノチがけですもん、ある意味。……戻りましょうか、部室?俺、ちょっとトイレ行って顔洗って きます」 「おう。じゃあ先に行ってるわ」  大野さんの方は田中さんが念押ししてくれるだろう。むしろ、俺の様子で荻上さんがなにか 気づかなきゃいいけど……。笹原は、歩きながら深呼吸した。  春らしい暖かい空気が肺を洗ってゆく。田中が先を歩いて向かう現視研の部室の方向をながめ、 次に自分の足元を見る。  あそこから、ここまで。目には見えないが、きらきらと光る細いチェーンがつながっている。  苦し紛れで千佳に説明した、チェーンのこと。寝不足の頭でショップを何軒も回り、あの ネックレスを見たときにこれだと思った。買い物馴れしている咲なら笑うかもしれないが、 けっこう勇気の要る金額だった。  千佳にさぐりさぐり語ったチェーンの話は、ネックレスのことで頭の中が一杯になっていたから だったが、話した内容はその場しのぎではない。以前から笹原が現視研に感じていたことだ。  我ながらたどたどしくはあったが、どうやら気持ちは千佳に通じた、と思う。現視研という場所が 自分に与えてくれた、一番大切な人に、自分の思いの一片でも示すことができたなら……その欠片を 繋げることができたなら本望だ。  部室では千佳が、笹原を待ちながら加奈子と新歓の打ち合わせをしていた。計画の骨子は理解 してもらえたのだが、案の定加奈子は千佳にもコスプレを強要していた。今しがた戻ってきた田中 にも、加奈子を止める気配はない。 「そこまで張り切ってるんなら荻上さんもしましょーよ、コスプレ!」 「だからそれとこれとは話が別だって言ってるじゃないですか!朽木先輩にも着ぐるみ着せるん だから、全員がコスプレじゃかえって怪しいサークルになっちゃいますっ」 「じゃあ、じゃあですね、交代でどうですか!午前中がわたし、午後は荻上さんが」 「ソコから離れろ!」  息を切らしながら、千佳は考えていた。もうじき部屋に戻って来てくれる笹原のことを。あと 何回会えるか判らない、咲や高坂のことを。  ここから、あそこまで。みんなの足元まで伸びるチェーン。  さっき慌ててズボンのポケットに隠した、笹原のプレゼントを意識してみる。二連のチェーンは、 彼と私をイメージしてくれたのだろうか。 「わかりました!新歓ではやりませんけど、こうしましょう」 「はい?」 「新入会員3人ゲットしたら、大野先輩の卒業のときに合同コスプレ撮影会!」 「!」  加奈子の双眸に火が宿る。 「言いましたね荻上さん!笹原さんも聞きましたね!」 「え?笹原さんいつの間にっ」 「荻上さん……なんてこと約束してんの」  あちゃー、ちょっと失敗したか?……いや、かまうものか。  どんな道を歩いていったって、チェーンは必ずつながっているのだから。 side大田 田中が加奈子から電話を受けたのは、大学前の駅を降りたときだった。 「ああ大野さん、今ちょうど……え?」 「いいから!大至急児文研の部室へ来て下さい!」 「児文研って……ええ?また誰かのこと見てるの?」 「荻上さんが来てたのは知ってたんですけど、さっき笹原さんが部屋に入っていくのが見えたん です。ふふふ、これは楽しい事が起きる予感がしますよぉ」 「大野さん……あんまりソレばっか熱中しない方が……」 「何言ってるんですか田中さん!あたしは会長として神聖な部室を汚されないようにですね」 「……それなら直接現視研に行った方が確実でしょー?」 「いーから!もうっ、ノリの悪い人ですねえ」  最後のセリフの途中から、加奈子の声がくぐもった。あ、マスクした……田中は確信し、 サークル棟へ向かった。  児文研のドアをあけると、すでに窓際にかがみこんでいる加奈子が見えた。他に人影はない。 「今日は大野さんだけなの?」 「さすがにこの時期学校にきてる人なんかそうそういませんよ、はじめから田中さんにしか声 かけてません。それより早く早くう」 「……趣味わるいなあ」 「なんですか?」 「あっいや」  主張もそこそこに、加奈子の隣にかがみこむ。向かいの棟の窓の奥、ポスターの隙間から 見えるのは荻上千佳と、その奥に座る笹原完士だった。表情はまったく読み取れないが、体が 動く様子で会話をしているということは判る。 「……実は、ちょっと荻上さんのことが心配だったんです。休みに入って何度か顔合わせて ますけど、明らかに元気なかったし。笹原さんはお仕事が忙しいみたいで、あんまり会って なかったみたいなんですよ」 「ああ、もう働かされてるんだってな」 「帰ってくる時間も遅くて、寝に帰ってるみたいなもんですって。荻上さんは平気なふり してますけど、寂しいと思うんですよね……。わたしは田中さんでよかった」  くるりと振り向いて田中に微笑む。マスクは早々に外したようだ。田中は加奈子に笑顔を 返す。……いろいろな寂しさを知っているこの人は、人の寂しささえ許せないのだ。去年の夏、 あの二人に何があったのかは後になってから加奈子が詳しく説明してくれた。 『荻上さん、本当によかったですね~』  目をうるませて自分に同意を促す加奈子の姿は、まるで娘を嫁にやる母親のようだった。 そんなふうにからかっても、加奈子は平気な顔をして言ったものだ。 『だって、自分が認めてもらえるのはとても幸せなことじゃありませんか。わたしは田中 さんに認めてもらえたから、次の誰かが認めてもらえるお手伝いをしてあげたかったんです。 幸せが次の人につながっていくのも、また幸せなことですからね』  いま加奈子は、その相手を見守っている。……ノゾキ行為だが。 「な、なあ大野さん、二人とも楽しそうじゃないか」  加奈子の肩に手をかける。 「もういいだろ?そろそろあっち行って、冷やかしてやろうよ」 「しっ!」 「え?」  加奈子は窓の外を凝視したまま肩の手を探り、握りしめる。 「あ……っ!」 「大野さんどうしたの……っうお!?」  取り乱し始めた加奈子に異変を感じ、再び階下の窓を凝視する。  現視研の窓の内側では、千佳が笹原に抱きついていた。 「な、なんという……笹原、やるなあ」 「……というより……やりすぎ……ですね、はは、あ、あんまり二人がエスカレートしない うちに行きましょうか?」  言葉ではそう言いながら、加奈子はその場を動こうとしない。田中の手を握る力が増して きた。呼吸が荒くなる。 「そ……そうだよ大野さん、俺たちはデバガメ目的でここに来たわけじゃないんだ。あくまで 彼らを見守るために、だな」  笹原、そうだ、笹原はこの部屋のことを知っている。覗かれる可能性がある場所でまさか そんな……まさか……ええっ?  加奈子が息をのんだ。田中の視界に入ってきたのは、笹原の腰にかがみこむ千佳の頭だった。 「(さ……っ)」  あわてて窓に背を向ける。な……なにしてんだ笹原!?ウソだろ?  肩越しに再確認する。笹原の膝の上では、千佳の頭がリズミカルに動いていた。笹原が彼女の 髪をかき上げる。 「(笹原ぁーーーっ!!!)」 539 :『チェーン ~ side大田(4/4)』 :2006/06/17(土) 12:54:52 ID:???  俺にテレパシーが使えれば!田中は冗談抜きで願った。それがダメなら、俺じゃない誰かから 奴に電話でもかかってくれないものか。 「まずいよ大野さん、さすがにこれは……大野さん?」  震えながら握る手の力が強くなる。気分でも悪くなったか?大丈夫か……声をかけようと中腰 になったとき、跳ね起きるように加奈子が立ち上がった。田中の背中に両手を回し、全体重を 彼に預ける。 「んむうっ!?」  田中の口を加奈子の唇が覆った。あたたかく湿った感触。  加奈子は田中の唇を舌でこじあける。熱く甘い吐息が田中の口腔に充満する。 「……くはあっ」  加奈子による蹂躙は永遠に続くかと思われた。堪らず唇を離し、空気を求めて喘ぐ。彼女の 唇はさらに田中に追いすがり、二人は折り重なって床に倒れた。 「田中さん!田中さんっ…!」  すすり泣くような囁くような、加奈子の声。甘く濡れた瞳。彼女の手が、何かを探し求める ように田中の体の上をさ迷う。胸に肩に脇腹に腰に。 「田中さん……わたし……わたし、もう……っ!」  加奈子の手は目標を探り当てた。  田中は彼女に気付かれないように、ひとつ小さく溜息をついた。児文研の入口を施錠していた ことを思い出し、少し気が楽になる。加奈子の背中に手を回し、彼女を強く抱きしめた。 「(笹原……場合によっては恨むからな)」  後に自分たちの勘違いに気付いた二人が、このことを誰かに話すことはなかったという。  もちろん、田中が笹原を恨む筋合いも存在しなかった。

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