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*筆茶屋はんじょーき2 【投稿日 2006/04/23】 **[[筆茶屋はんじょーき]] 荻上屋、通称”筆茶屋”は、主人が道楽で創めた所為もあって、無駄に大きく、凝ったつくりをしている。 とはいえ、現在切り盛りしているのは千佳一人しかいないため、その大半は使われていない。 そんな部屋のうちの一つ、小さ目の座敷を借りて、笹原たちは集まっていた。 一応、斑目の仕官支援という名目だが、実際には斑目の「理想の主君に出会えた!」という話の真贋を確かめる事が目的だった。 要は、斑目の話を信じていたのは、当人以外誰もいなかったのだ。 ”筆茶屋はんじょーき” 「ごめん、千佳さん。無理に部屋を開けさせて…」 笹原が頭を下げる。 「まったく、迷惑な話です」 千佳はそっぽをむいて答える。 「本当にごめん」 「気にしなくていいんですよ、笹原さん。千佳さんは照れているだけなんですから」 さらに深深と頭を下げる笹原に、加奈子が声をかけた。 「誰が照れているんですか!」 「千佳さんが」 「なんでわたしが!」 「え~、わたしがそれを言ってもいいんですか~?」 食って掛かる千佳を軽くあしらいながら、加奈子はちらちらと視線を笹原に向ける。 笹原はまったく訳がわからず、ぽかんとしている。 加奈子の視線を追って、笹原にたどり着いた千佳は、顔を真っ赤に染めると 「…店に戻ります」 そう言いおいて、部屋を飛び出した。 「どうしたんだろ、千佳さん」 「笹原さん」 加奈子は真剣な顔つきで、笹原に詰め寄った。 「もう少し女心を勉強しなさい」 一方斑目は、呉服商”田中屋”総一郎の持ち込んだ酒で相当にできあがっていた。 「だから、彼女こそが、俺の、真の主君たりうる人なんだ!!」 「何度も言うが、そんな人がいるわけないだろうが。『美しくて、強くて、優しくて、気品に満ち…』だっけ?」 「ど、どこかの舞台の役者じゃあるまいし」 叫ぶ斑目に、総一郎と、”久我山寺”の生臭坊主、光紀が突っ込む。 「いるんだよ!なあ、笹原!」 「え、まあ、一応それらしき人とは会いましたけど…」 突然話を振られた笹原はあいまいに答える。 「どうだ!いるんだよ!いいか、彼女はなあ…」 再び、かの女性のすばらしさを説き始めた斑目を放っておいて、総一郎と光紀は笹原に向き直った。 「で、本当なのか?」 「本当ですよ。そこそこに”できる”ようでしたし、俺には良くわからないけど、美人だったかと…」 笹原は答えながら、隣にいた高坂と呼ばれた男と、彼にしてやられた事を思い出す。 次は負けない、という思いはある。しかし、どうやって勝つか、が、ちっとも見えてこないのも事実だった。 「おい笹原。どうした?」 総一郎の声に我に返る。 笹原はあいまいに笑ってごまかした。 「実際にいるとして」「いるんだよ!」「…いるとして、どこの誰なんでしょうね?」 加奈子は噛み付いてきた斑目に、ほんの一瞬だけ眉をしかめると、後はひたすら笑顔のまま、斑目を無視した。 そんな加奈子の態度に、さすがは売れっ子芸者と、総一郎と光紀は感心した。 「とりあえずわかっているのは、男が高坂、女が咲という名前と、男がかなり、女がそこそこ」「かなり、だ!」「…使えることぐらいですか」 どうやら笹原も無視を決め込むつもりらしい。 「俺がそこにいれば、着物とかでわかることもあったんだが…何か気付かなかったか?」 「こ、この二人にそれを期待するほうが無理」 総一と光紀の言葉に笹原は苦笑する。まったくの事実だったからだ。 「彼女が何を着ていたか、だって!?もちろん最高のものを着ていたに決まっているだろうが!」 「…とにかく、偶然でも、もう一度会って探ってみない事には、どうしようもないな…」 総一郎の結論に、斑目を除いた全員が深くため息をつく。 それは真実への道のりの遠さと、斑目の態度に向けられたものだった。 どちらの成分がより多かったか、は言うまでもない。 「そんなに知りたい?」 不意に聞こえた声に、全員が飛び上がる。 声の方を向けば、いつの間にか、笹原や斑目と同じ長屋の住人で、年齢、出自、本名不詳の通称”初代”が座っていた。 「”初代”!脅かさないでくださいよ!」 「ああ、ごめんごめん」 笹原の声に、”初代”は笑いながら謝った。 笹原にとって、高坂が目標ならば、”初代”は雲の上の人だった。 気配が無いのだ。 始めのうちは躍起になって気配を掴もうとしていたが、そのうち諦めてしまった。 今はもう、一種の化け物だと思うことにしている。 「大体、何でここにいるんですか?」 「たまたまだよ」 「はい?」 「『たまたま』この店に立ち寄ったら、『たまたま』聞き覚えのある声が聞こえて、『たまたま』僕の知っている話題が出てたので顔を出した、それだけだよ」 笹原と”初代”の会話を聞いて、そこにいる全員が (嘘だ!!!) と思ったが、口に出す者はいなかった。 「それより、本当に知ってるんですか?」 加奈子が代表して質問する。 「うん。僕の知っている二人だとすれば、男の方は直参旗本三千石の嫡男、高坂真琴」 「「「「「え?」」」」」 「女の方は遠州花山藩一万ニ千石、春日部家のご息女、咲姫だろうね」 「「「「「ええーーー!!!」」」」」 叫ぶ。慌てる。まさかここまで話が大きくなるとは、誰も思っていなかった。 「ちょ、ちょっと待って下さい。なんでそんな二人が供も付けずに出歩いてるんですか?」 「お忍び、だろうね」 「そんな事が許される立場じゃないでしょうが!」 「お家の事情、と言う奴ではないかな」 加奈子と笹原が"初代”に食って掛かる。そんな二人に”初代”は淡々と答える。 一方、総一郎と光紀は斑目の肩を叩きながら言った。 「悪い、俺はこの件から降りる」 「な、なに、また別の出会いもあるさ」 しかし斑目にはそんな言葉など耳に入らない。 (彼女は本物のお姫様だった。ならば不肖斑目、身命を捧げて尽くす所存!) などと考えながら、感動に打ち震えていた。 「実はね」 不思議と響く”初代"の声に、場の喧騒が瞬時に静まる。 ”初代”に視線が集まる。 「表に来ているよ」 ”初代”を除く全員が部屋を飛び出す。 ”初代”の姿はいつの間にか消えていた。 噂の二人は、店の軒先に出された腰掛に座り、茶を飲みながら、何かを話していた。 「何を話しているんだ?」 「ここじゃ聞こえないな」 「近づいてみましょうか」 「き、気付かれないかな」 物陰から二人を見つめ、ひそひそと話す斑目たち。 (とっくに気付かれているんだけどなあ) 笹原は軽く呆れながら、皆に提案した。 「それじゃあ近づいてみましょうか?怒られたら謝ればいいし」 「いや、相手は…」 「そうだな。墓穴に入らずんばなんとやら、とかいうしな」 及び腰の総一郎に対し、斑目は間違った知識を堂堂と披露すると、率先して歩き出した。 「…冗談ですよね」 「…本気だったりして」 「…よ、よりによって、え、縁起の悪い…」 「…斑目さん…」 残された四人は軽くため息をつくと、結局好奇心に負けて、斑目の後を追った。 「不味い茶だ」 「咲ちゃん」 一口、茶を飲んでの咲の感想に、高坂は咎めるような声を出す。 傍で働いていた千佳の動きが止まる。 「…だが不味くない。この団子もそうだ。美味くないのに美味い。不思議だ」 咲は真剣に考え込む。 高坂はくすりと笑うと、咲に話し掛ける。 「これらには、作った人の思いが込められているからだよ」 「たわけたことを言うな。ならば他の物には込められていない、とでも言うのか?」 「そうだったね、ごめん」 「そうだ」 言い終えて咲は再び茶を飲む。高坂も少し遅れて飲む。 千佳は再び動き出す。 「そもそも、何故この茶屋に寄る気になったのだ?私はあまりここに良い思い出がないのだが」 咲は高坂を向いて尋ねた。 「なんとなく、だよ…そういえばあの人はどうしてるんだろう」 高坂は前を見たまま答える。 咲はほんのわずかに寂しそうな表情をして、前に向き直る。 「絡まれていたあの男か?情けない男だ。自分ひとりすら守れんとは」 咲の言葉に、後ろで聞いていた斑目がうなだれる。 「でも守るものの為に、命を捨てて戦う男だっているよ?」 高坂の言葉に、背を伸ばす。 「それで命を捨ててしまって、以後、誰が残されたものを守るのだ?たわけた事を…何を笑っている」 「いや、咲ちゃんはいつでも正しいな、と思って」 高坂に笑いかけられ、咲は頬を染めてそっぽを向いた。 「とにかく、私にはそのような者など必要ない。では行くぞ」 咲は立ち上がる。 高坂も銭を置いて立ち上がる。 「あと、後ろで聞き耳を立てていた者ども。聞きたいことがあれば正面から尋ねてこい」 咲は言い置いて歩き出す。 慌てる斑目たちに、高坂が振り向く。 その中で、一人落ち着いていた笹原は、高坂に軽く頭を下げた。 高坂は少し驚いたような表情を浮かべ、そして笑って、咲の後を追いかけた。 「なあ笹原…」 斑目は遠くを見つめながら話す。 「なんですか?」 笹原は斑目を見ながら問い返す。 「剣を教えてくれるか?」 「いいですよ」 笹原は笑って請け負った。 そんな二人を荻上は見つめていた。 かすかに頬が赤い。 「ダメですよ、千佳さん。見つめているだけじゃ想いは伝わらないんですよ?」 加奈子が千佳を後ろから抱きしめて言う。 「好きなら好き、と、はっきり言わないと」 ”好き”という言葉を聞いた途端に、千佳の全身が硬直する。 不思議に思った加奈子が覗き込むと、千佳は顔を真っ青にしていた。 しだいに体が震えだす。 「わたし…また…わたしは…」 「千佳さん?」 「わたしは、人を好きにはならない…わたしは、好きになってはいけない…わたしには、そんな資格は、ない…」 「千佳さん!?」 次の瞬間、千佳はものすごい力で加奈子を振りほどくと、店の奥へと駆け出していった。
*筆茶屋はんじょーき3 【投稿日 2006/04/28】 **[[筆茶屋はんじょーき]] 千佳は台所に駆け込んだ。心を静めようと水を飲む。 突然吐き気に襲われる。吐く。吐いて吐いて、胃が空になっても吐きつづける。 (これは罰だ) 千佳はそう思った。 過去の行いを、その結果を、その罪を忘れ、人を好きになり、かつてと同じ事をしている自分への罰。 ふと視界に包丁が映る。 手に取り、刃先を見つめる。 そして首筋に当てる。冷やりとした感触。 (楽になりたい) その一心で力を込め、る寸前で包丁を放り投げた。 死ぬわけにはいかない。 あの日、凍死する寸前だったわたしを救ってくれた義父の為に、義父を失ってなおわたしを愛してくれる義母の為に。 なにより、あの人の母は言ったのだ。 死んだあの人の分も生きろ、と。 罪を背負ったまま生きて、苦しんで、苦しみ抜いて死ね、と。 ”筆茶屋はんじょーき” 「千佳さん、大丈夫?」 笹原の声に、千佳はびくリと体を震わせる。 「どこか具合でも…」 「来ないで!」 笹原は歩み寄ろうとした足を止める。 「大丈夫ですから…すぐに行きますから…来ないでください」 「…そう?」 少し悲しげに言うと、笹原は踵を返す。 遠ざかる足音を聞きながら千佳は、振り返って引き止めたくなる気持ちを、必死に抑えていた。 千佳はしばらくして店に戻ってきた。 少々顔色が悪いものの、普段と変わらぬように見えた。 しかし、笹原と加奈子は気付いた。 千佳が決して笹原の方を見ようとしなかったことに。 夕刻になり、店を閉める。 以前、あまりの無為ゆえに、何か手伝わせてくれと頼み込んだ結果、この時には笹原も手を貸すのが常になっていた。 常であれば、「ご苦労さまでした」「また明日」で終わるのだが、今日は違った。 「…笹原さん。長い間ありがとうございました」 そう言って、千佳は少なくない金を笹原に握らせた。 「あの、これは?」 訳のわからぬ笹原が尋ねる。 「本当にありがとうございました。でも、明日からは来なくていいです。むしろ来ないで下さい」 千佳はうつむいたままそう言うと、笹原に背中を見せた。 「ちょっと待って!どういうことだよ!」 笹原の声に答えず、千佳は店に入ると表戸を閉めた。 「どういうことだよ…」 笹原は金を握り締めたまま呟いた。 千佳は表戸を閉めると、その場にへたり込んだ。 涙が頬を伝う。 (これでいいんだ) (わたしの所為で、笹原さんを不幸にしてはいけない) (会わなければ、きっと忘れられる) (わたしも、笹原さんも) 「笹原さん…」 千佳はそう呟くと、顔を覆って泣いた。 かすかな嗚咽が、誰もいない店の中に響く。 あれから数日。 笹原は何もする気にもならず、長屋の自分の部屋に寝ていた。 実の所、今すぐにでも千佳の顔を見に行きたい気持ちではある。 しかし、『来ないで下さい』と言われた以上、それを違えるのも気が引けた。 「ちーす、アニキ~。生きてるか~」 間延びした声を響かせて、笹原の妹の恵子が訪ねてきた。 「あいかわらず小汚い部屋だな。そのうち虫が湧くんじゃねーの?」 「うるさいな」 相変わらずの毒舌ぶりに、笹原は面倒臭そうに返す。 余談であるが、笹原の部屋は恵子が言うほど汚くはない。汚さで言えば、斑目の部屋の方がよほど上だ。 もっとも男の一人暮らし、ということを考えれば、推して知るべしなのだが。 閑話休題。 「何の用だ?」 「金貸して」 恵子の答えに、笹原は露骨に顔をしかめた。 「…また男に貢ぐのか」 「うるさいな。玉の輿に乗るには、それなりに金がかかるんだよ!」 「それで何度騙された?いいかげん現実を見ろ!」 「うるせえ、サル!説教なんてたくさんだ!」 互いににらみ合う。やがて笹原はため息をつくと、無言で文机を指し示した。 そこにはあの時、千佳にもらった金が、手をつけずに置いてあった。 「なんだ、あるんなら最初から出せよ…え?どっから盗んだのさ、こんな大金」 「人聞きの悪い事を言うな。荻上屋の千佳さんにもらったんだ」 笹原の答えを聞いて、恵子はにんまりと笑う。 「そういえば、加奈子から聞いたけど、その『荻上屋の千佳さん』と最近仲いいんだって?」 「アニキもやるねえ。女に貢がせるなんて」 「そんな訳があるか!」 「じゃあどういう訳よ」 憤慨する笹原に、恵子は興味しんしんといった体で聞き返した。 仕方無しに、笹原はその日の出来事をかいつまんで説明した。 話を聞くうちに、恵子の表情がだんだん険しくなっていく。 「という訳なんだが…」 「ああ、そう。気になってる女が突然具合が悪くなっても、『大丈夫』って言ったから放り出して、『来るな』って言われたから、こんな所で悶々として、渡された大金の意味も、『わからない』で済ますんだ」 「サル並みの馬鹿だと思ってたけど、あんたサル以下だよ」 「おい、恵子」 「好きなんだろ?だったら気にならないのかよ!心配じゃないのかよ!」 「言われたから?嘘だね。アンタは知りたくないだけだ。知って傷つくのが怖いだけだ。怖くて逃げてるだけだ!」 「恵子!」 「うるせえ、馬鹿!サル!さっさと死んじまえ!!」 言い捨てて恵子は表へ飛び出していった。 金には一つも手を付けずに。 「おっと」 笹原の部屋に向かっていた斑目は、飛び出してきた恵子とぶつかりそうになり、慌てて脇へ飛びのいた。 恵子は見向きもせずに駆け抜けていく。 斑目には、なぜか彼女が泣いていたように思えた。 「笹原、ちょっといいか?」 「…いいですよ」 斑目が声をかけるまで、笹原は煎餅布団に座って、不機嫌に黙り込んでいた。 「さっき恵子くんと会ったけど、何かあったのか?」 「いえ、別に」 「そうか。ところでだ、この間言った『剣を教えて欲しい』という奴だが…」 「どうかしましたか?」 「只だよな?」 沈黙が流れる。笹原は軽く噴出すと、 「わかりました。ほかならぬ斑目さんの頼みです。只にしましょう」 そう言って立ち上がった。 木刀二本を手に、猫の額ほどの庭に出る。 片方を斑目に渡す。 「それじゃあやりますか」 言って構える。 「おい、いきなり手合わせかよ!」 「大丈夫、加減はします。それに腕前が判らなければ教えようがないでしょう?」 斑目はしぶしぶと木刀を構えた。 そして、さんざんに打ちのめされた。 「いたた…加減すると言ったじゃないか」 「してますよ。怪我してないでしょう?」 「痣にはなったがな。それで、俺はどうなんだ?」 「そうですね…とりあえず、素振りから始めましょうか」 「わかった。何回やればいいんだ?」 「とりあえず一刻ほど」 「時間で数えるのかよ!」 「付き合いますよ」 斑目の突っ込みをさらりと流して、笹原は木刀を構えた。 一刻後、息も絶え絶えに突っ伏す斑目の隣で、笹原は平然と汗をぬぐっていた。 「…なあ、笹原」 ようやく声が出せる位に回復した斑目が問い掛ける。 「何か、『これさえ憶えておけば大丈夫!』というような必殺技とかないか?…身がもたん」 笹原のこめかみに青筋が立つ。 「斑目さん」 普段と異なる調子の声に、斑目は笹原を見上げる。 笹原は笑っていた。 そして、その背後に、ものすごい、怒りの気配を背負っていた。 斑目が詫びようとした瞬間、 「そんなものがあったら俺のほうが教えて欲しいですよ!!」 笹原は叫んだ。 千佳は普段、荻上屋に寝泊りしている。 それはとある事情があってのことだが、その日、千佳は数日振りに荻上家の屋敷を訪れた。 「千佳さま」 用人の高柳が引き止める。 「覚悟のほうはお決まりでしょうか?」 「何度も申し上げておりますが、今や荻上家の跡取は千佳さましかいらっしゃらないのです」 「千佳さまには是非とも婿を迎えて子をなし、家を保っていただかなければならぬのです」 「先代が亡くなって早ニ年、もうこれ以上のわがままは…」 「千佳さま、奥方様がお呼びです」 女中の声に、高柳はしぶしぶ話を打ち切った。 千佳は安堵と罪悪感を覚えながら、義母の部屋へと向かった。 「ごめんなさいね、千佳。また高柳に何か言われたでしょう?」 義母は床についたまま千佳に話し掛ける。 「いいえ。高柳さんの言う事は間違ってませんから」 千佳は答えながら義母を見る。 義父を亡くしてから、めっきり衰弱してしまった義母は、もはや自力で体を起こす事すらできない。 「まったくあの人は…いくら貴方がかわいいからといって、後先も考えずに養子縁組なんかしてしまって…」 「本当にごめんなさいね」 「いいえ。わたしは義父に拾って頂かなかったら、こうして生きていません。感謝しています。心から…」 千佳は思い出す。 実家から与えられたわずかな路銀を騙し取られ、女衒に売り飛ばされそうになったことを。 なんとか逃げ出したものの、身一つのみで飢えと寒さに震えていた時のことを。 飢えと寒さで朦朧とした意識の中、自分を抱きかかえてくれた義父のことを。 そしてその後、数日に渡って寝込んでいた自分が目を覚ましたときの、義父と義母の笑顔を。 千佳は、自分が幸せだと思った。 そしてそれが苦しかった。 自分にそんな資格があるのか、という思いが沸き起こる。 義父も義母も、千佳の過去を問いはしなかった。 (それに甘えていたのかもしれない) 千佳は激しく後悔した。 (わたしは何も変わっていなかった) (だから、そのうちきっとこの人たちを傷つける) (やっぱりわたしはあの時に…) 「千佳」 義母の声に、千佳は沈んでいく思考を止められた。 「自分を責めるのはやめなさい」 「貴方の過去に何があったのかは知りません」 「でも、貴方が自分を責めて、不幸になっても、誰も幸せになれません」 「幸せになりなさい、千佳」 「それだけで十分です」 そしてこの言葉が義母の遺言となった。

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