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「サマー・エンド2」(2006/03/27 (月) 01:16:39) の最新版変更点
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*サマー・エンド1 【投稿日 2006/03/19】
**[[サマー・エンド]]
梅雨の気配も近づく春の終わり。
建物に挟まれた狭い線路の上を電車が滑っていく。
日が沈んだ街の間を、宝石を飲み込んだ青虫みたいに窓に灯りを蓄えた車体が陸橋を走り去る。
実際、その電車の車内には女友達のグループや歳の近い親子、それと恋人同士が
思い思いの紙袋を提げて乗っているのだ。それぞれの袋に自分、もしくは相手の見立てに
合った服や靴や帽子や雑貨が詰まっているはずである。
夜空には月が出ていた。
『CLOSE』のボードがガラス越しに揺れるショップに咲の姿があった。
ガラス張りの店構えに白いアクリルの床。覚めるような涼感の照明が凛とした雰囲気を醸している。
並べられた商品の数も品揃えから比べて少なめであり、ある種の高級感さえ感じられた。
目当ての顧客年齢層は10代よりも20代中心というあたりだろうか。
シャッターの下りかかった店の奥で、咲は本日の売上を勘定していている。その表情は真剣だ。
(う~ん………、今日のところはまずまずかあ…、でもまだ赤だな…。)
咲は心の中でそう呟くと、顔を上げて店内を見回した。
自分の思いの丈を込めてこだわりにこだわった内装に当初は十分満足していたのだが、
いざ開店してみると反省点がチラホラ。
(ちょっと入り難いかなあ……。う~ん…、どうだろ…? やっぱもっと下のコが入り易いように
した方が良かったか……。でもまだ開店したばっかだしぃ~……。う~ん………。)
その苦悩は深い。
開店準備に奔走していた当初から感じていたが、現実に自分の店を持つというのは恐ろしいものだとつくづく思う。
バイトとして働いていたころとは責任が雲泥の差であるし、判断と決断が求められる。
開店日が近づくにつれてプレシャーが重くのしかかってきた。
現れては一年と持たずに消えていくショップも数多見てきたし、その厳しさは分かっているつもりだったのだが…。
(ああ…、なんかタバコが欲しくなってきたなあ…。けっこうビビってんじゃん、私…。)
チョキの形の指を唇に当てて力なく笑う。咲の横顔に疲れが滲んでいた。
ふと、店の前で人影が立ち止まった。
真新しい革靴に、真っ白なYシャツと、量販品のさしてオシャレでもないスーツ。紺色のネクタイは少し緩んでいる。
中に入ろうとするが、鍵のかかった扉に一瞬面食らった。
「こんちわー、っと…。」
尻切れとなった挨拶が、ガラス越しにくぐもって店内に響いた。咲は笑って鍵を開けてやった。
「うーす。ササヤンおつかれー。」
「はは…、お邪魔します。」
照れ笑いを浮かべつつ、笹原は店内に入る。肩から提げたビジネス鞄をレジの横に置いた。
咲の出してくれて少し脚の高い椅子に不器用に腰掛けて笹原が言った。
「どだった、今日?」
咲は作り置きのコーヒーをマグカップに注いでいる。
本当はちゃんとしたコーヒーを入れたかったのが、店内に臭いが篭るので作り置きを入れたポットを常駐させていた。
「まあ…、今日はボチボチかな。」
「おー! 良いじゃないすか!」
「でもまだ赤だよ~。現実は厳しいなあ~。」
咲の顔に本来の笑顔が躍った。やはり友達の顔を見るとホッっとする。
利害関係の無い相手というの社会人になると貴重なんだなあとしみじみと感じる。
笹原も同じだった。
「ま~、初めのうちはそんなもんでしょ~? これからこれから。」
笹原はいつもの屈託のない笑顔で励ました。
担当する作家のアトリエが近いこともあり、笹原はちょくちょく咲の店に顔を出している。
初めは借金返済のために働いている恵子を監督指導するためであったのだが、近頃は恵子のシフトでない
ときでも訪れることが多くなっていた。
卒業を機に引っ越したことで現視研メンバーやOBと顔を合わせる回数も減った。
学生時代のルーズな生活もできなくなり、仕事終わりに会うのは難しい。
職場の先輩や同僚、担当作家はあくまで仕事上の関係であり、ざっくばらんにプライベートの話ができるわけでもない。
咲の店は、気の置けない話ができる唯一の場所と言っても良かった。
咲が事務処理に戻ると、笹原は鞄から雑誌を取り出して広げた。それは意外にも女性向けファッション誌だ。
少し驚いたように咲が言った。
「あ、何? 何でそんなん読んでんの?」
笹原は照れ笑いで応える。
「ははは…、いや、作家さんが女の人でね。こういうの詳しいんだよね。俺も勉強しないと話が合わなくてさ…。」
「へへ~~、ササヤンも頑張ってんだね。」
「はは、まあ少しはね。まだ先輩の後にくっついてるだけですけど…。」
「まま、これからこれからってね。」
お互い笑いってコーヒーをすすった。温かいコーヒーがじんと体に染み入ってくる。
ほうっと咲も笹原も吐息を漏らした。
「恵子のヤツちゃんとやってる? サボってたらバイト代出さなくていいからね。」
「いやいや、けっこう頑張ってくれてるよ~。女子高生とかの相手は恵子のが上手いしね。」
ほー、っと感心しつつ笹原はコーヒーをすする。
「今日って恵子は?」
「もー帰った。なんかデートだって。」
ブッ!!
笹原は思わずコーヒーを吹いてしまった。Yシャツに口から零れた雫が垂れそうになって慌てて口を拭う。
「きたねーなあ!」
「ごめん…。え、アイツって彼氏いたの?」
「そうなんじゃない? 私も最近知ったんだけど。」
「あー…、ふ~ん…、そうですか…。」
咲の目がギロリと光った。
「ああ、気になりますか? 兄として。」
「いやまあ…、それなりにねぇ…。」
いやな予感に笹原は視線を咲から逸らした。しかし、時既に遅し。
「私はオギーとササヤンの愛の日々のが気になってんだけどね~。」
うわーーーー……。
という心の声が顔に出てるのを確認すると、咲はますます目を光らせて笹原に迫った。
「どうなんすか、最近? 楽しんじゃってますか?」
「いやあ…、まあねぇ…。フツウですよ…。」
「あ~~~ん、フツウ? どういうことするのがフツウなんですかあ?」
「あはははは………。」
笹原は苦笑いを返すのみだ。そうしてソッポを向いて、店内をわざとらしく徘徊する。
壁に掛けてあるドライフラワーのブーケを見入ったフリなんかしたりしている。
事務処理の残る咲は射程距離外に逃げ去った獲物に歯噛みした。
(くっそぉ~! ふ~、そうだな…、ここは戦法を変えよう!)
「いや、マジは話さ…。最近どうなの? ちゃんと会えてる?」
邪悪な笑みを押し殺して真剣な表情を作る咲。真面目に二人の仲を心配している作戦である。
ニヒヒと心の底で笑いつつ笹原に目をやると、思いがけない表情の笹原がそこに居た。
「う~ん、まあね…。」
そう言った切り、笹原はディスプレイしてある商品をじっと眺めている。淡い色の夏物のキャミソール。
ちょうど荻上ぐらいのサイズかもしれない。
咲は今度は演技の必要もなく、真剣な顔つきで言った。
「何かあった? 相談ならいつでも乗るよ?」
「うん………。」
笹原は視線をキャミソールに固定したままそう言った。
咲は笹原を見つめる。笹原の目はキャミソールを映していたが、焦点はその先に結ばれているようで、
体には仕事による疲労とは違う種類の疲れが暗くこびりついていた。
時折、口をもぞもぞ動かして何かを思い起こしては、声に出さずにいくつかの言葉を呟く。
咲は事務処理に手を動かしながら、チラチラとその様子を窺っていた。
重苦しい空気がに店内に流れる。
カラスの向こうを酔った男女が快活に笑いながら、また苦虫を噛み潰したような顔をした中年の会社員や、
ゴテゴテの巻き髪をなびかせた水商売風の無表情の女性や、目深に帽子を被ったミニテュアダックスフンドを連れた女が
彼らの前を横切って行った。
咲が書類をまとめ終えるころ、笹原が静かに言った。
「優しいだけじゃダメなのかなぁ…。」
口をついた言葉がそれだった。笹原の目は、まだどこか遠くを見ている。
「え…?」
「あ、いや………、なんでもない…。」
咲の視線に気づいて笹原は慌てて愛想笑いをする。自分の意に反して心の中だけの呟きが、声になってしまっていた。
冷めたコーヒーを飲み干して、笹原は自分のカバンを取った。
「長居してごめん。もう帰るよ。コーヒーごちそうさま。」
足早に帰ろうとする笹原。
「ササヤン!」
咲は呼び止める。
そして軽くため息をついて、困ったように笑った。
「あんま頑張り過ぎんなよ。普通にしてればいいんだって。」
笹原は疲れた笑顔を浮かべて、
「それじゃまた。」
とだけ言って店を出て行った。
(いろいろ大変なんだな…、ササヤンも…。)
咲はマグカップに残ったコーヒーを飲み干す。口の中に苦味が広がっていく。
「人の心配してる場合じゃないか…。」
咲の口から言葉が漏れた。
誰も居ない店内は静か過ぎて、それは反響するように頭の中に重く残った。
笹原はスーツ姿のまま原稿に目を通していた。視界の端で荻上の気配を感じながら。
キッチンから冷蔵庫のくぐもった唸り声が響いてくる。白く光る蛍光灯の向こうで、キッチンに灯りは無くなお暗い。
荻上は机の前で原稿を繰る笹原をじっと凝視している。期待と緊張の面持ちだ。
笹原はそれを確認すると気が滅入った。
手にしているのは801ではなく、荻上のオリジナルの漫画である。
内容は地方の中学校を舞台にした女子中学生同士の淡いラブストーリーといったところか…。もう少しで全部読み終えてしまう。
笹原は眉根を寄せて悩んでいた。
(どう言えばいいかな………。)
問題はそこだ…。
正直言って、半分くらい読んだところで大体の評価は決まっていたのだが、それをありのまま言っていいものかどうか…。
できれば予想を裏切る大オチを期待したいところだが…。
そんな期待も呆気なく裏切られ、案の定な結末で物語は幕を閉じてしまった。
「どうですか…?」
待ちきれない荻上は間髪入れずに尋ねる。笹原はう~んと唸って原稿をまとめた。
(…………………とりあえず保留しとこう。)
「いやあ…、もっかい読んでからで…。」
笹原は愛想笑いを浮かべてまた原稿に目をやる。荻上は不満そうに口を尖らせたものの、再びじっと笹原を凝視し始めた。
笹原の脇にイヤな汗が噴き出す。もはや意識の大半は原稿そのものではなく、その後の対応に傾注されていた。
たっぷり時間をかけて読み終えたところで、再び荻上が尋ねる。
「で…、どうでした?」
「うん…。」
原稿をテーブルに広げつつ、慎重に言葉を選ぶ。
(え~と…、え~と、え~と、え~~~と~~~………。)
できるだけ荻上さんを傷つけないように、かつ有効なアドバイス…。
「このキャラ良いね…。目つきキツイけど、かわいいし、良いよね…。」
「はあ…。」
「あと、この構図も好きかな…。かっこいいし、キャラの内面が良く出てる…。」
「はい…。」
テーブルに映った荻上の影は微動だにしない。抑揚のない返事がガスのように室内に溜まる。
笹原は呼吸に不自由を感じ始めた。
とりあえず1,2枚の原稿を手にとってみる。
(え~と…、え~と…、あと何だったっけ?)
「校舎とか、教室のとか、よく描けてるね…。ディテールがしっかりしてる…。」
「………。」
荻上は無言である。
笹原は焦って声に力を込める。
「あーこれこれ! このキスシーンの表情とか特に萌えちゃ…。」
その瞬間、荻上の影が原稿を覆った。
「もういいです。」
笹原の手から原稿を奪うとテーブルの上のものも含めてさっさと片付けてしまった。
見上げた荻上の顔は無表情で、笹原に一瞥だにしない。
「笹原さんに聞いたのが間違いでした。」
原稿を茶封筒に仕舞うと冷めた声でそう言った。また室内に冷蔵庫の唸りだけが響く。
「え…、何で…?」
困惑顔の笹原にはそう搾り出すのが精一杯だった。赤いソファの上で机に向かってしまった荻上を見つめた。
荻上は鉛筆を握ったまま窓の外を見ている。卓上スタンドが煌々と荻上の横顔を照らしていた。
堪らず笹原は言葉をつないだ。
「俺…、何か怒るようなことしたかな…。」
卓上スタンドのせいだ、と笹原は思った。椅子に背筋を伸ばして座る荻上にスタンドの強い照り返しの光が下から当たって、
荻上の顔を恐ろしげに浮かび上がらせている。笹原は飲み込んだ唾の理由をそう解釈した。
荻上はきっぱりとした口調で返した。
「つまらないならつまらないって言って下さい。」
図星を衝かれた笹原は背中に痛みが走るのを感じた。
荻上は続ける。
「私だってそんな面白いと思って見せてるわけじゃないです。ダメなところが一杯あるのはわかってますよ。
それを無理に褒められたってむしろ不愉快です。」
そう一息に言い切ると荻上は大きく息を吸い込んだ。顔は僅かに赤みを帯びて汗ばんでいるが、目は変わらず鋭く尖っている。
笹原の口を開いたまま荻上を見つめる。
頭の中には言い訳や弁解や自分の気持ちがどんどん溢れてくる。
が、口をついて出たのはいつもの言葉だった。
「………ごめん。」
言った傍から激しく後悔した。こんな風に謝ると彼女は決まって不機嫌になったことを思い出したのだ。
「やめて下さい。」
荻上は外を見たまま、冷たい声でそう言った。
笹原はひどく寂しい気持ちがした。
それでも気を取り直して笹原は明るく言う。これ以上、重苦しい空気は耐えられない。
笑顔を作って荻上に向ける。
「今度はちゃんと批評するから、もっかい見せてよ。」
「もういいですよ。」
荻上は笹原を見ない。そして次の言葉は笹原の心をえぐった。
「どうせ笹原さんは優しいですから。」
力が抜けた。
体中の力が抜けて、笹原はソファにもたれかかっていた。目は焦点を結ぶのを忘れて何も見えない。
耳の奥でいろいろな声が、荻上の声が鳴り響いて、首筋を掻き毟ってしまいたかった。
体の中の神経という神経がビリビリと張り詰めて何もかもが痛い。
筋肉が骨を締め付けて動けないでいた。
そのうち、胸の底から何かが競り上がってきた。それがぐいぐいと喉を突き上げる。
それは今までじっと飲み込んできた言葉だ。言いたくなかった言葉だ。
でも、もう我慢できなかった。
「優しくちゃダメなの…?」
荻上は振り返った。聞いたことのない笹原の声に弾かれたように。
俯いて座っている笹原に、荻上は胸が詰まった。
それは、いつか感じたあのどうしようもなく嫌な感覚を思い出させた。
「どうせ優しいって………何なの?」
「あ、や………。」
「優しいのが嫌なの、荻上さんは?」
「別にそういうことじゃ…。」
言いかけた荻上の言葉を笹原が強く、煮えたぎるような声で遮る。
「最近いつもそうだよ! 俺が優しく接しても、何か不機嫌そうで! 何なのそれ? ぜんぜんわかんないよ!!
そんなに優しいのが嫌なの? つまんないの? 俺は荻上さんが好きだから優しくしたいし大事にしたいだけなのに!
そういうのじゃタメなの?! 荻上さんはもっと乱暴に、いい加減に扱って欲しいの?!!」
声を失って笹原を見つめる荻上。顔は青ざめて、目は涙を流すのも忘れていた。
笹原は顔を伏せて、ただ自分の両手をきつく握り締めている。
そこには冷蔵庫の唸り声だけが鈍く響いていた。
「荻上さんが好きなのってさ…。」
笹原はもう自分ではどうしようもなかった。言いたくないのに、全部吐き出してしまうまでは体は言うことを聞いてくれない。
どんなに苦痛を感じてもその一言を止めることができなかった。
「荻上さんが好きなのって、俺なの? それとも………、荻上さんの頭の中の俺なの?」
後のことは、もう何も覚えていない。気が付いたら、一人で夜道を歩いていた。
彼女がどんな顔で聞いていたのか、自分がその表情を見たのか。その後どんな会話を交わしたのか。
笹原は思い出せなかった。
つづく…
*サマー・エンド2 【投稿日 2006/03/26】
**[[サマー・エンド]]
激しい風が緩やかな坂をかけ上がっていって、中学生やそこらの仲良しグループがきゃああとはしゃぐ。
バサバサになった髪を顔を見合わせて笑うと、お人形さんの髪を梳かすように相手の頭を治してあげる。
ジト目で咲がじっと見ていた。
(きゃわいいのう…。けっ!)
店内に人はない…。スローな女性ボーカルの洋楽が流れる店内。
風のぶおうぶおうと音が時たまそれをかき消した。
煌々と照る照明。咲は電気代が勿体無いので消そうかとすら思った。
(くそう! せっかくの日曜になんで暴風が吹き荒れるんじゃい!!)
言わずもがな、土日祝日は書き入れ時であるわけで、特に赤字削減を命題に励む咲にとっては真剣勝負の大事な一日である。
それなのに強風…。ドア開けるのもしんどい…。しかも夜から雨の予報も出ているとか。
「ふふぁあああ~~~…。」
大げさなため息で笑い飛ばそうとしたが、余計に虚しくなった。
(誰かこのお店に来て上げて下さい…。頼むよ…。
…………。
……………。
……………………………。
くそ~っ!!、流行ってるショップ全部潰れろっ!!)
思わずそんな非人道的な考えがよぎる日曜の昼下がりであった。
ふと見るとガラスの向こうに苦笑いの笹原が立っていた。
「はは…、春日部さん…いま人殺しみたいな顔してたよ………。」
「マジで?!」
鏡の前に直行して表情をチェックする。確かに疲れ気味で目に隈が出ている。
涼感の照明も顔色をより青白くみせていた。
「あ~、こりゃひでー。」
「疲れてんね…。大丈夫?」
「そっちこそスーツ着て。今日も仕事なの?」
笹原はいつものスーツと革靴。ジャケットのボタンは全部外して、手ぶらという格好だった。
頭は風に煽られて分け目がメチャクチャになっている。笹原の目にも隈があった。
「まあねぇ…。今日は先生の取材のお供…。」
両手をポケットに突っ込んで重そうな足取りで歩く笹原。
「その先生は?」
「いまエステ&マッサージ中…。」
皮肉げに笑う笹原に、咲も同情の笑顔を向けた。
「まったく、マッサージ受けたいのはこっちだっつーのに…。」
「ホントだよなあ。私もエステ行きてー…。」
咲はマグカップにコーヒーを注ぐと笹原に差し出した。笹原は椅子に腰掛けてカップを手に取る。
そしてコーヒーを飲みつつ店内を見回す。
「客いないねぇ…。」
「そうなんだよね…。」
咲はずっぷりとカウンターに突っ伏した。笹原の視線を背中に感じつつ、暫く突っ伏している。すると、
もう何だかヘンなスイッチが入ってしまって、口から笑いが漏れ出してきた。
「ふふ…、うふふふふ…………。」
「春日部さん?」
笑いに震え始めた咲の背中を笹原はおののきながら見守る。
「ふふふ………、うふふふ……、ふあ、ふはははは………。うへへへほほほ………。」
「だ、大丈夫デスカ…?」
「くへへへ……。ふふほっほほほ……、くわはは、ふあははは…、あはははははははははあーーー!!」
テンションがMAXに達した咲は、くるっと顔を笹原に向けた。
「もーダメだ~~~~~。もーお終いだあああ~~~。」
咲は涙目で絶叫した。
「私はもうダメなんだあああああ~~~~~!!!!」
「まあまあ。こんな日もあるって…。」
「い~~や。も~~限界だ~~~。このまま閉店する運命なんだよ~~~。そんで借金地獄だあ~~~。」
「大丈夫だって。これから流行るよ絶対。」
「うっせー! オタクにファッションの何がわかるっつーんだよお!! も~絶望だあ~~。キャバクラで働いて借金返すのが私の運命なんだ~~~。」
「あ~………、でもそうなったらちょっと行きたいかも?」
「くうう~、他人事だと思いやがって! 私の絶望の深さがササヤンに分かるかああ~!!」
「そう言われると『分からん]としか言えないよねぇ…。」
「ちくしょ~~! 敵だあ! 世の中ぜんぶ敵だああ!」
「まあまあ、愚痴ぐらいなら聞きますから…。元気出して。ほら。てんちょーお願いします!」
「完全にバカにしてるだろ?」
などと言いつつ、咲の顔にはちょっぴり生気が戻っていた。疲れも吹っ飛ぶとはいかないものの、空元気くらいは出た。
心の中も近頃では珍しくスッキリとしていた。立場上、愚痴をこぼせる相手もいない。
ただ聞いてもらってからかわれたたけだが、少しだけ気持ちが軽くなっている。
咲はぐーんと伸びをする。
「ふぁああ~~~あ。愚痴ったところで、頑張りますかね。」
大げさなため息。聞いてくれている人がいるおかげで、今度は虚しくない。
笹原が嬉しそうな顔で言う。
「ちょっとは元気でた?」
「ちょ~~~~~~とはね。あははは。」
(そのちょっとが大事なんだけどな。)
咲は胸の中でそう呟いて、無言の感謝も付け足した。
咲は自分のマグカップにもコーヒーを注ぐ。黒く濁った濃厚なコーヒーから香ばしい芳香が揺らめいて、
それを一口、口にすればふっと表情が和らいだ。
そしてもう少し暖かい灯りするものいいかもしれないと思った。
「あ~、んじゃ今度は俺の話を聞いてもらっていい?」
「なんだよ唐突だな…。」
咲は緩んでいた眼を見開いて笹原を見る。笹原は照れ臭そうで、首を重々しげに捻っていた。
深く吸い込んだ息をふーっと吐いて、体を小さく丸めている。
咲は体を笹原へ向けた。
「で、どうしたの?」
「いや………、ちょっと………、ケンカをしまして………。」
咲は呆れ顔で笹原を見た。相談のフリをしたノロケかいと警戒したのだ。
しかし、笹原の様子はそんな雰囲気ではない。顎が胸にくっつくくらいに首を折って、うな垂れている。
体が心持ち小さくなった気さえした。
咲は反省して表情を整えた。
「で、原因はなんなのよ。」
う~んと唸る笹原。首を捻るばかりでなかなか答えが返ってこない。
咲はコーヒーのフレーバーを堪能しながら笹原の準備が整うのを待った。
暫くして、漸く途切れ途切れの言葉を笹原は返した。
「原因………、っていうか……、それはまあ、………タイミング的なもんで、……アレなんだけど。」
「うんうん。」
う~~~~んとまた唸る。咲はコーヒーをゆっくりと口に含んだ。
「あれかな? やっぱり彼氏って頼もしいほうがいいのかな? ………優しいのはダメかな?」
「いや、それだけ言われても何とも言えないけど…。」
咲は助け舟を出した。
「どんな感じでケンカになったのよ?」
「あ、あ~…。まあ、それは俺が悪いんだけど…。荻上さんが描いたマンガを読んでたのね。」
「やおい?」
咲はニヤけて言ったが、
「ちがう。普通のマンガ。」
笹原の返答は真面目である。咲は(ヤベ、外した)と思った。
「そんで…?」
「まあ、読んで感想聞かせて欲しいってことだったんだけど。………ぶっちゃけてあんまり面白くなかったんだよ…。
展開が唐突だったりとか、セリフがちょっとカッコつけ過ぎてクサかったり。ラストもありがちなオチだったし…。」
「あー、それそのまま言って怒らせたの?」
「言えないよそんな…。」
笹原は情けない困り笑顔を見せた。そしてまたうな垂れる。
「俺はできるだけ良い所を褒めるようにしたんだけど…、何か逆に頭に来たみたいで…。そんでケンカにね………。」
咲は軽くため息をついた。それはきっとコーヒーの匂いがしたことだろう。
「まあね…。無理くり褒められてもねぇ…。ちゃんと言った方がオギーためでもあるし。」
そう言ったとき、俯いていた笹原が急に上体を振り上げた。
「ていうかそーゆーことじゃないんだよね。」
「は?」
咲は素っ頓狂な声を出してしまったが笹原はいたって真剣である。
「何ていうか、最近こう…、あれ…、何ていうか……、こう、うまくいってないんだよね…。
何か、俺が優しくしても不機嫌になることが多いし…。そんで頑張ろうとするんだけど、さらに空回るし。
やっぱり優しいのってダメなのかな? 女の子としてはつまんないの、そういう男って?
もっと強引にグイグイ引っ張るほうのがいいのかな? 荻上さんも強気攻めが好きみたいだし…。
俺もそういうのに応えたいんだけど、もともとヘタレっていうか、待ち体質で上手くできないし。
なんつーか、強引に『こうしろ!』みたいの苦手なんだよね…。でも荻上さんがそういうのが好きなら
俺もそうなりたいと思うし…。やっぱり俺が強気攻めになった方がいいのかな? どう思う?」
「………………。」
咲の頬を汗が流れた。
「いや、分かんない…。強気攻めって言われてもさ…。」
はあ~と再びうな垂れる笹原。
咲はコーヒーを飲んで気を落ち着かせた。
「要はすれ違ってるわけね…。」
「まあ、そうかな…。というかも~、情けないよ俺。ケンカしてすごい傷つけるようなこと口走っちゃったし…。最低なんだよ…。」
搾り出すような笹原の声に、咲も真剣な顔つきになった。
笹原はがっくりと肩を落としてうな垂れている。濃いグレーのスーツのせいもあって、それは巨大ダンゴムシのようだ。
(ここは私が何とか力にならないとね…。)
笹原の説明は要領を得ないながらもそれなりに雰囲気はわかった(と思う)。愚痴を聞いてもらったお礼にこっちとしても
何とかしてやりたかった。
「ササヤン頑張り過ぎてんだよ、たぶん…。」
「………そうかな? むしろ頑張りが足りないと思うんだけど。」
「もっと普通にすればいいんだって。普段のササヤンでいいの。」
笹原は納得がいかないとばかりに首を捻っている。咲はさらに熱の篭った声で続けた。
「例えば、恵子でも斑目でもいいけど、何かササヤンに評価を求めたとすんじゃん? そんときはハッキリ意見言うでしょ?」
「まあ…、それはね…。」
「それでいいのよ。素でいいの。」
「ええーー!! でも恵子とかと荻上さんとは全然違うし! 大事にしたいんだよ!」
(わかんねぇー野郎だなーー!!)
咲は瞬間的にキレそうになったがそこはグッと堪えた。
「いいからそうしてみって。あとそーだな、早めにちゃんと謝ることだね。」
「それはしようと思ってるけど…。」
「荻上はササヤンが嫌いになったわけじゃないんだから。ただ上手く伝えられないから不機嫌に見えてるんだと思うよ。」
「…………、そうですか…。」
返事はしたものの、やはりどうにも納得がいってないような笹原である。腕組みをして首をあっちへ捻ったり、こっちに捻ったり。
咲はいよいよ痺れを切らして更なる熱弁を振るわんと立ち上がった。
「いいかあササヤン! お前の気持ちもわけるけどな、大事なのは二人が…。」
のだが、急に満面の笑顔を作って入り口に向けた。
「いらっしゃいませ~。」
せっかくの熱弁は間の悪い待望の来客によって引っ込めざるを得なかった。
笹原は買ったばかりの腕時計に目をやってから背筋をしゃんと伸ばして席を立った。
「それじゃ俺も戻るよ。」
「うん。わりぃね…。」
笹原は来たときと同じように重そうな足取りでガラス戸を潜って行く。
咲の胸に不安な思いが残った。しっかりと言うべきことを伝え切れなかった気持ち悪さが、それに拍車をかける。
大丈夫だとは思う。笹原と荻上はどう見てもお似合いだし、ピッタリの二人だ。お互いに相手をちゃんと好きでいる。
オタク同士で趣味も話も合う。私と高坂とは違う。
一時すれ違って、ケンカをすることだってあるだろうが、大した問題じゃない。どの恋人同士にもあることなんだから。
あの二人なら当たり前に乗り越えていくのだろう、と咲は思った。
いま大事なのは、目の前の客を確実にものすることだな…。
無意識に腕時計の跡を摩りながら、笹原はネクタイを解く。
使い慣れた座椅子に腰を下ろして、上着の内ポケットから携帯を取り出した。
リダイアル履歴に並ぶ『荻上さん』を文字を眺めながら、しばし瞑目する。
(まずは、ちゃんと謝る…。そんで………。)
頭の中で予行演習を繰り返すと、うりゃ、と気合を入れた。
とぅるるるるーー とぅるるるるーー
コール音が返る度に、もぞもぞと体をくねらす。まるでトイレを我慢しているような仕草だ。
祈るような気持ちで、息を凝らしてその瞬間を待つ。
「はい…。」
でた。
「あ………、こんばんわ…。」
「……こんばんわ………。」
小さい荻上の声。笹原は耳を携帯に擦り付ける。
「いま話して平気…?」
「ダイジョブです…。家ですから…。」
「俺も家…、いま帰ったとこ…。」
「お疲れ様です…。」
「うん………。」
「………。」
「………。」
沈黙が流れる。
笹原は慌ててそれを埋めようとする。
「あの………、ごめん。こないだのこと………。本当にごめん………。」
「いいんです。私も悪かったし……。すいませんでした…。」
荻上の声は暗く沈んでいる。笹原は言葉を重ねる。
「違うよ…。悪いのは俺だよ…。荻上さんの気持ちも考えないで…、いい加減な感想言って…。
そんで勝手に怒って…、酷いこと言って………。」
「……………、はい…。」
「ごめん…。」
「………。」
「ごめんね…。もう絶対に荻上さんのこと、傷つけないから…。もっとちゃんと…、荻上さんのこと考えるから………。」
「………。」
「………。」
「俺、もっと頑張るから。荻上さんが俺を好きでいてくれるように、頑張るから…。」
荻上の声は聞こえない。
「ヘタレだし、今の俺には優しくすることしかできないけど、もっと頼ってもらえるようになりたいって思ってる。
漫画のことでも、もっとちゃんとしたアドバイスができるようになりたいし。荻上さんの助けになりたい。
荻上さんが強気な俺が好きなら。そうなれるように努力するから。だから………、その…。………ごめん。」
少しの沈黙。
永い永い沈黙の後、荻上の声が聞こえた。。
「………笹原さんの気持ち、分かりました。」
「………。」
「笹原さん…。」
「なに…?」
荻上の声はさらに小さく、そして震えていた。
「笹原さん言いましたよね…。私が好きなのは笹原さんなのか…、私の頭の中の笹原さんなのか、って…。」
「うん………、ごめん…。」
笹原は謝ることしかできなかった。
荻上は黙っていた。笹原の言葉を噛み締めるように。
そして、呟く。
「私…、分かりません…。」
「え…。」
「私が好きなのが、本当の笹原さんなのか…、私が勝手に想像してる笹原さんなのか…。」
「………。」
電話の向こうからは、すすり泣くような声だけが聞こえて…。
笹原は声が出なかった。
「本当の笹原さんて、どんな人なんですか………?」
涙交じりの荻上の声が、耳を打った。
笹原はだらしなく口を開けて、テーブルの上をただ見ていた。
電話は冷徹に荻上の泣き声を笹原に伝え続ける。小さく、押し殺したような呻き。すすり上げる息遣い。
堪え切れずに溢れる子供のような声が、笹原を打ちのめした。
「ごめんなさい…。おがしなごと言っでぇ…、わだし…、困らせるごとばかりでぇ…。」
涙声の合間の搾り出すような言葉に、笹原の口はわなわなと震えるだけ。
言葉を発することができなかった。
「もう…、きり……ますね……。
「………………。」
「………ごめんなさい。」
小さい弾けるような音がして、電話は切れた。
笹原は電話を下ろせなかった。
ぼやけた音だけが鳴るその向こうに、泣いている荻上がいて、泣かせた自分がいた。
なんでそうなってしまったのか、何も分からない自分がいた。
「ただいま~。」
返事はない。部屋は暗い。ディスプレイモニタのオレンジの灯りと、デッキの時刻表示が浮かんでる。
引っ越して、二人で借りた部屋。
いま部屋にいるのは咲だけだ。コーサカは今日も帰っていない。
浮かんだ時刻表示は23:29。もうすぐ明日になる。
今日もコーサカに会えそうもない。
灯りをつけて、習慣としているうがいと手洗い。郵便物をチェックして、チラシをゴミ箱に突っ込む。
明日にならないうちに洗濯機を回す。部屋干しの洗濯物を畳む。にわか雨が降ったから、外に干さなくて正解だった。
テレビは禄なのがやってないが、つけている。
音がないのは、寂しい。
音楽はショップで聞き飽きていた。
バスタブを磨いてから、お風呂に湯を溜める。ユニットバスは嫌いで、一人暮らしの時からそれは部屋探しの条件だった。
温めのお湯にアロマを垂らして、じっくりとつかる。至福のとき。
でもそれはほんの僅かで、すぐに仕事や…、コーサカのことが脳裏をよぎった。
何かをはっきりと考えるわけじゃない。ただ頭の中に浮かんでは消えていくだけ。
お湯に緩んだ心に、いくつもの感情が波のように寄せて返す。
「今日も、会えないかあ…。」
バスルームにその声はこだまする。
最近の記憶の中のコーサカは、疲れて寝ている姿、駅までの短い道を歩く姿。あとは電話の声と、メールの中にしかいない。
涙が頬を伝って湯船に落ちる。咲は静かに目を閉じて、流れ落ちる涙に身を任せた。
不安が心を覆って、また別の不安がそれを塗り潰すだけ。
入浴を終えて、体を拭き、髪を乾かす。
洗い終わった洗濯物をハンガーとピンチに止める。
ベッドを置いた部屋の灯りをつける。
二つ並んだベッド。
引っ越すとき、ダブルベッドを買おうかと笑い合ったのを思い出して、自嘲が漏れた。
携帯をクレードルに嵌めようとして、着信に気付いた。
笹原から、昼間の相談の礼。今度ちゃんと話すということが書いてあった。
咲はふと、笑顔を覗かせていた。
ベッドの上に寝転がって、メールの履歴を見る。
コーサカからのメール。今日も帰れない。遅くなる。ごめん。その繰り返し。
こんな気持ちになるために、二人で暮らし始めたはずじゃなかったのに。
もう数時間後にはもう朝が来てしまう。
咲は携帯を置いて、灯りを消した。
疾うに閉まったはずの咲のショップ。
しかし、膝の高さまで下ろしたシャッターの隙間からは変わらぬ光が漏れていた。
手書きの見取り図を片手に、ジーンズ姿の咲がいた。
ラフな格好で、頭にはハチマキがわりにバンダナを巻いている。目の前には、いびつに配置された商品台があった。
それほど広くない店内で、大きな台を移動させるには綿密なプランとそれなりの力が必要だ。
咲は一人だった。
今日は恵子もいないし。多忙を極める高坂が来れるはずもない。頼める人もいない。
第一ここは自分も店で、自分が全部背負わなくちゃいけない場所だと思った。高坂には頼めない。
高坂は自分のやりたいことを頑張っている。
(エロゲー作りだけどさ。はは…)
自分も、やりたいことをやっているんだから。高坂に甘えるわけにはいかなかった。
(これをこっちにやって…。そうすりゃ、こっちのを向こうに持ってけるか…。)
紙切れをカウンターに置いて、重そうな台に向かい合う。
咲はしゃがみ込んで、床を傷つけないように台の下に布を噛ませようとする。
だが、重い。
片手で持ち上げようしても、十分に隙間ができない。両手で持ち上げて、足で押し込もうとしても上手く入ってくれない。
「クソッ…。」
もう一度しゃがんで何とか隙間に布を押しやる。そのとき、台を持ち上げていた咲の手が滑った。
「痛っ!」
慌てて手を引いて指を押さえる。鈍痛がゆっくりと指から伝わって、咲は顔を歪めた。
痛みが治まるまで、体を強張らせてじっと床に座り込む。
それから、指を押さえていた手を少しずつ解いた。
爪が割れて、血が滲んでいた。
(大したことないよ………。)
咲は立ち上がって指を口に含む。苦い、マニキュアの味がする。
店内に目をやる。
中途半端に動かしたディスプレイ。片付けてしまった商品。このまま朝を迎えてしまったら、店は開けられない。
このままやりきるか、元に戻すかしないと、どうにもならない。
口の中に、マニキュアの苦味が広がる。血のザラザラとした感触と一緒に。
咲は泣いてしまいそうだった。
もう疲れて、どうにもできなく、座り込んで、泣いてしまうのを必死で我慢した。
折角、自分の店を持って、夢を叶えて、やりたいことをやっているはずなのに、上手くいかない。
何でこんな惨めな思いをして座ってるんだろう。こんなことがしたかったのかな。
そんな思いが、針のように咲の胸を突き刺していた。
ガシャンガシャンとシャッターが咲を呼んだ。
顔を上げずにいる咲。
またシャッターが、ガシャンガシャンと咲を呼んだ。
咲は台の隙間から顔を覗かせる。
シャッターの下から、見慣れた革靴が覗いていた。
「あれ? 春日部さんいるー?」
覗き込んだ笹原と目が合った。
「あ。ごめん、忙しかった?」
咲は慌てて立ち上がった。笹原に顔を見られないように。
「ああ大丈夫。いま開けるよ!」
鏡を顔を近づける。もしかしたら、本当に泣いてしまっていたんじゃないかと不安だった。そして、目に一杯に溜まった雫を拭った。
「どうぞー!」
半分ぐらいまで上げたシャッターを笹原が中腰になって潜った。
咲は奥に引っ込んでバッグのあったはずの絆創膏を探している。
笹原は店内を見渡して言った。。
「模様替えしてたの?」
「そー!」
笹原に聞こえるように大声を張り上げる。でも本当は、さっきまでの弱いな自分を隠したかったのかもしれない。
「ちょっとねー! 急に思いついてさ!」
「へぇ~。」
笹原はカバンをカウンターにおいてに奥の咲を覗いた。
「でも大変じゃない? 一人でやってるの?」
笹原の言葉に、胸に痛みが走った。また大声を張り上げる。
「まーねー! でも急だったからさー!」
「恵子は? 今日は休み?」
「そー!」
「高坂君は? 頼めなかったの?」
絆創膏を巻く手が、一瞬止まった。薄暗がりの店の奥で、コンクリートの壁が咲を囲んでいる。
後ろから注ぐ灯りは咲の背中だけを照らして、彼女の顔は見えなかったが、笹原はその背中を見つめるのは後ろめたいような気がして、
視線を店内に戻した。
「別に声かけてくれれば、俺も手伝ったのに~。」
「ありがとー! でも疲れてんのに力仕事させちゃわりーじゃん?!」
咲は笑いながら出てきた。顔は貼り付けたような笑顔だった。満面の、あるはずのないない元気一杯の笑顔を浮かべていた。
笹原は自然と上着を脱いでYシャツの袖を捲くっていた。。
「どれ動かすの?」
「え……、いいの…? もう夜遅いじゃん。疲れてんでしょ…?」
笹原を見る咲の目に、隠したはずの弱さが揺らいでいた。
「いや、これほっといて帰れないって。春日部さん怪我してるし。」
そう言って笹原は笑った。いつもの困ったような笑顔。
咲の心にふと温かいものがこみ上げてくる。もう暫く感じていなかった気持ち。
高坂のたまに見せる優しさに感じていた安らぎ、喜びに似ている気がした。
また涙が零れそうになって、咲は大袈裟に笑い飛ばした。
「あははは、そりゃ悪かったねー! 今日来たのが運の尽きだよ!」
「ま~ね~、じゃあどうしますか、店長。」
「んじゃ、この台の下に布挟んで。床が傷つかないように。」
「りょーかい。」
笹原がしゃがむと、咲もしゃがんだ。反対側の笹原か見えない場所に。
そこで咲は、また瞳を拭った。
壁のドライフラワーが外されて、その位置に目の覚めるようなグリーンの数字が並んだ時計が掛けられた。
他にも小さい雑貨が場所を変えた台や棚の上に置かれ、フックに掛けられた帽子が壁を彩った。
以前の近寄りがたい高級感は薄れて、
「何かポップな感じですね店長。」
とは笹原の感想。
「まあ、ちょっと気取り過ぎてたからね。ちょっとはカワイクしないと。」
「なるほどね…、で、もう午前4時なんですけど店長…。」
笹原はさすがに疲れ果てて床に座り込んでいた。口からは後悔の苦笑いが漏れている。
「いやあ…。感謝の言葉もないよササヤン。」
咲は申し訳なさそうに頭をかいた。同時に言い尽くせないほど感謝もしていた。
自分のワガママに最後まで付き合ってくれたのだから。
「まったく、春日部さん一人じゃ絶ぇ~~~対っ終わってなかったよ!」
「あはは…、返す言葉も無いよ…。」
咲もペタリと床にへたり込んだ。カフェインのせいで冴えた目は、充血してピリピリと痛い。
台の移動からディスプレイのし直しまで酷使した足腰は痺れるように疲労してる。
少し汗ばんだ顔の化粧が気持ち悪い。手は少し赤くなって、まだ重みの感覚が残っていた。
「俺が来なかったらどうするつもりだったの?」
笹原の問いかけに、思わず咲は自嘲を漏らした。
(そうだな…、どうにもならなかったんだろうなあ…。)
自分の的外れな意地と頑張りに、笑ってしまっていた。
「ササヤンのこと言えないよね、これじゃ。」
「え、何が?」
「ほら、昨日頑張り過ぎるなって言ったじゃん? 普通にしてろって。お前の方だろって話だよな。あはは…。」
疲れた笑い声を上げる咲。笹原に目をやる。
笹原は少し悲しそうな顔で曖昧に笑っていた。それは体の疲れとか、寝不足よりも暗く笹原を覆っていた。
「どした………?」
「ああ………、まあ………。」
「なによ………?」
笹原は一瞬口元を歪ませて、そして情けなく笑った。
「またやっちゃよ…。春日部さんに頑張るなって言われてたのに………。まーた空回っちゃった…。」
「そうか…。」
咲はそう言って、笹原から視線を逸らした。とても見ていられなかった。悲しそうで、寂しそうで、苦しんでいた。
自分と同じようだった。
「わりぃね…。せっかくアドバイスしてもらっといて。この体たらくで…。」
「そー言うなって…。」
二人は黙って座っていた。まだ朝にはほんの少し遠い夜の終わり。街は静かで、外からは何も聞こえない。
剥き出しの業務用エアコンの穏やかな排気音が、店内に降り注いでいた。
あまりに静かで、咲も笹原も、このまま時が止まってしまうような気がした。
不意にけたたましいカブのエンジン音が走り去る。
まだ開けない夜の街を、新聞を満載したカブがけたたましく疾走していく。
笹原はゆらゆらと立ち上がって、大きく体を伸ばした。
「それじゃ帰ろうか。」
「そうだね…。」
咲も立ち上げって体を伸ばした。見違えた店内に少しだけ顔を綻ばせていた。
咲が言った。
「タクシー呼ぶ?」
「そうしよっか…。割り勘なら大したことないしね…。」
わざとらしくふらつきながらながら咲は店の奥に行って、バッグの中から携帯を取り出した。
ひとつ息を吐いて戻ろうとしたとき、バッグの横の紙袋に気が付いた。
「あああーーーーー!!!」
絶叫する咲。
「わっ! なにどうしたっ!!」
笹原は驚いて店の奥を覗いた。
すると、さっきよりも更に疲れた顔と、疲れた足取りの咲がふらふらと出てきた。手に少し大きめの紙袋と懐中電灯を持って。
「ごめんササヤン。これ忘れてた。」
「なに…それ…?」
恐る恐る笹原が尋ねる。
「電球…。灯りも変えようと思ってたの忘れてた………。悪いけど、もうちょい付き合って………。」
「ははは…。そんなことか…。ちゃっちゃとやっちゃいましょ。」
言葉とは裏腹に、いや、ある意味言葉通りに、椅子を電灯の下に持っていく笹原の手に力は乏しい。
二人とも苦笑を浮かべて、最後の仕事に取り掛かった。
「私が登るから、ササヤンちゃんと押さえてね…。」
「りょーかい…。電気のスイッチどこ?」
咲が手に持った新品の蛍光灯でカウンターの横の差した。付いているスイッチはひとつ。
パチンと押すと、店内は真っ暗に変わった。
笹原が懐中電灯で咲の足元を照らす。脚が高くて座る部分の小さい椅子の上に、咲が恐る恐る登る。
「ちゃんと押さえててよ! これフリじゃないからね!」
「そんなダチョウ倶楽部みたいなことしないって…。」
膝をぶるぶる震わせながら立ち上がると、笹原は光を咲の手元に向ける。椅子を押さえながらだと、けっこう難しい。
咲はまず今まで使っていた蛍光灯を外して笹原に渡す。
椅子の上からでも背筋を伸ばさないと電灯まで届かない。狭い椅子の上でそうするのはかなり怖かった。
蛍光灯を外すのにも以外に力が要って、危うくバランスを崩しそうになってしまった。
「ダイジョブ?」
「ちょいビビッた…。新しいのちょーだい。」
新しい蛍光灯を受け取ると、今度は少し慎重に力を加減して電灯にセットする。
グチンという心地よい手応えが咲の手に伝わった。咲は安堵のため息を漏らす。
「オッケー。ついたー。」
一旦、椅子から降りる。
そのとき、笹原の手が差し出されていた。
懐中電灯はあさっての方に向けられていた。
真っ暗な店内に慣れない咲の瞳に、それはぼんやりと映っていた。
「ありがと…。」
咲は小さく呟いて笹原の手に触れた。
温かく、少し固い掌の感触。笹原の掌の感触…。
咲の囁くような声を聞いたとき、笹原の頭に灼けるような痺れが走った。
体が強張って、熱くなっているの分かった。
何気なく差し出した手に感じた、体温。柔らかいさ。汗。
いつの間にか、笹原はゆっくりと咲の手を握り返していた。
笹原の瞳に咲の顔が映る。暗闇に霞んでいた顔が、少しずつ、鮮明に…。
自分の目を見つめる咲の顔が、少しずつ、少しずつ、鮮明になって…。戸惑うような彼女の目が、自分を見つめている。
(何してんだ私…、ササヤンの手を握って…、ササヤンもびっくりしてんじゃん…。早く…離さなきゃ…。)
咲は自分の顔がみるみる熱を帯びていくの感じた。
自分の指を優しく握る甘い感触。硬直していたはず手の力は気が付けば失われて、笹原の手に身を委ねている。
咲はその事実に戸惑っていた。そして胸の奥にこみ上げる幸福感に、弱弱しく抗っていた。
(うわ、うわ…。春日部さんこっち見てる…。なに手ぇ握ってんだ俺…。おかしいって…。)
笹原も同じだった。
力の抜けて身を任せる咲の手が、笹原の思考をかき乱した。少しずつ、でも確かにその手を握り返す力を強める自分の手。
触れ合った肌と肌の間が、火に触れているように熱く、氷に触れているように冷たく、心地良いことにうろたえた。
体から意識が抜けていく気がして、それを必死になってつなぎ止めようとするが、
咲の発する甘い匂いに、徐々にそれも覚束なくなっていった。
二人とも目を逸らそうとした。
でも、咲の瞳は真っ直ぐに自分の目を射抜いて、吸い込まれそうに目を逸らすことができない。
咲もまた、暗闇に光る笹原の瞳を見つめることしかできないでいた。
懐中電灯が、二人の足元を照らす。
二人の脚は、倒れ込もうとするように傾きかけていた。
(まずいよ…。俺には荻上さんがいるのに…。こんな…。)
(ぁ………、コーサカ…。ごめん…。)
そのまま、二人は唇を重ねた。
真っ暗な、夜明け前の部屋の中で。
つづく