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*斑恵物語-3- 【投稿日 2006/03/01】 **[[斑恵物語]] ルルルルッ、とベルが鳴る。 キーボードを打つ音とパソコンのファンが響くオフィスの静寂を電話のベルが破った。鼻にかかったような電子音が妙に耳に付く。 ワンコールが終わる寸前に、斑目は受話器を取った。電話を取るのも事務の仕事の一つだ。 「はい、桜管工事工業です。」 淀みなくそう応える。片手はシャープペンを握って、頭を数回ノックする。 コンビニで一本ずつビニール袋に包装されていた、105円の洒落っ気も何も無いシャープペンであるが、オフィスには相応しい。 「はい…、いつもお世話になっております。はい…、少々お待ちください。」 斑目は『保留』ボタンを押して、内線番号表を確認すると別部署に電話を回した。 電話の応対も、だいぶ板についていた。 入社したころは慣れない言葉遣いにシドロモドロ。セールスの電話に戸惑ったり、カツゼツの悪い相手に聞き返すにも勇気が要った。 相手の出方が予想を裏切るたびうろたえたものだが、今やなかなかどうして、立派な社会人然としている。 くすんだ灰色(ハーヴェストグレイとか言うらしい)の受話器を置いて、斑目はディスプレイに目をやった。 新人の斑目のディスプレイはまだ液晶ではない。小さい会社なので仕方が無いとはいえ、邪魔臭いCRTの巨体がこっちを向いている。 斑目の視線は画面の下に流れた。 画面の右下。時刻表示。 11:58 昼休みが近いこと確認すると、斑目は静かに嘆息を漏らした。 斑目の頭に、一人の女性の顔が浮かんでいた。いや、顔は見えない。俯いて、携帯の画面を見ている後ろ姿だ。 斑目の頭は自然と昨日にさかのぼっていた。 昨日の夜、少し歩いてから振り返ったときに見た光景。彼女は駅へまっすぐに歩いていって、そのうち見えなくなった。 そのイメージには、そのときの寂しい気持ちが添付されていた。 (今日・・・、来てんのかな・・・。) ディスプレイに並ぶ数字の向こうに、馴染みの部室を思い浮かべる。 いつもの部室。現視研メンバーがいつの間にか集まって、ただ言葉を交し合う。慣れた場所の慣れた毎日のこと。 でも今日は行きたくない。 部室に、彼女がいるかもしれない・・・。 今日はまだ、会いたくない・・・。 昨日ことを思い出すと、斑目は気が沈んだ。胸の奥に石が埋まっているような、声も出ない気持ちなる。 『あれから』家に帰る道で、何度も恵子と交わした会話と表情を思い返した。 その度に、気がひどく滅入った。 自分の体を新聞紙でも引き千切るみたいに、ズタボロに引き裂いてしまいたくなる。 情けないことをした。女の子と一緒に楽しく過ごすこともできないのが情けなくて、格好悪かった。 だがそれよりも、自分が何か淡い期待のようなものを抱いていたことが恥ずかしかった。 恵子が素っ気なく歩いて行くのを、寂しいなんて思っている自分が、滑稽にしか思えなかった。 むず痒くて堪らなくて、思わず身震いして、慌てて家に歩き出したんだ。 でも、また今もこうして昨日のことを考えている。 自嘲が漏れた。 (ナニ柄にもないこと考えてんだよ・・・。キモイっての・・・。) 帰り道、恵子の言葉がずっと頭に響いてくる。 『やめてよ、そゆこと言うのさ…。』 車の音も街の雑踏もない恵子の声が斑目の頭の中で反響する。 『スゲーオタクっぽい。』 (そう・・・、そんで・・・。) 『……キモイよ。』 「ふはは・・・。」 小さい笑い声が口からこぼれ落ちた。その言葉を再生する度に、斑目の薄っぺらい胸は重くなった。 でも、気が付けばその言葉を何度も、繰り返し、自分に浴びせている。 (マジでマゾに目覚めたかな・・、つってね・・・。) 最初は笑って受けとめていた。『そりゃそうだ』、『当然だよ』、『オタクなんだしさ』って。 それが斑目のいつものやり方になっていた。こんな心が痛いときには、いつだってそうする。 無神経に咲を泣かせて、何にも出来なかったとき。偶然から一緒に食事をして、どうにもならない気持ちがもどかしかったとき。 いつだって、どこからかやって来た笑いが口から漏れた。 でも、本当は笑うしかなかったんだと、斑目は気が付いた。 胸が重くて、歩けなくなっていた。 住宅街の、遠くにパチンコ屋のネオンが見える道の真ん中で、じっとしている自分に気づいた。 擦れるくらい近くをピカピカのワンボックスカーが通り過ぎてても、体は動いてくれない。 夜の住宅街の道は、家の窓から暖色の蛍光灯が漏れているくせに、人っ子一人いない。 歯科の広告が張り付いた電信柱に手をついて、粉っぽい表面の汚れが掌にまとわりついて。 このまま家に帰ることが、どうにも堪らない気持ちだった。 座り込んでしまいたかった。 斑目は、またあの言葉を頭の中で繰り返す。 繰り返し繰り返し、自分に聞かせては確かめる。 自分は傷ついてなんかいない、ちょっとムシャクシャしただけだよ。 ただの悪口だよ。俺が嫌いって意思表示。でも別に平気なんだよな。俺も何とも思ってない。 慣れていないから、ちょっと勘違いしただけなんだよ。 やっぱり・・・、笑うしかなかったんだよな・・・。 「お、どうした? お昼行かないの?」 教育係の先輩が、座ったままの斑目に声をかけた。時計はもう12時を回っていた。 斑目は、自分の顔が石膏で固めたみたいにギチギチに強張っているのを感じた。目の疲れをほぐすフリをして、慌てて顔に手をやった。 「あ、はい。そうっすね・・・。そろそろ行きます。」 何事もなかったように、愛想笑いを先輩に向けて席を立つ。 手を当てて肩を回すと、ゴリゴリと音が鳴った。 「斑目君て、昼っていつもどうしてんの?」 「たいがいコンビニですね。買ってその辺で食べてます。」 ふ~んと先輩が唸る。すると、少しためらいがちで、彼は後輩を昼に誘った。 「たまには、一緒にメシいくか?」 「いっすね。どこかいいとこありますか?」 ほとんど反射的に斑目は応えていた。スーツの上着に袖を通す。 先輩は安心した様子で、『でもオゴリじゃねーぞ』と付け足した。 斑目はホッしていた。部室に顔を出さなくていい理由ができて。恵子と会わなくても仕方ない理由が出来たことに安堵した。 恵子と顔を合わせるのが、本当は怖かった。 きっと、何事もなかったように笑ってる恵子を見るのが怖かったのかもしれない。 会社の外は、空の底まで見るような青空が広がっている。遮るものは何もないのに日差しに夏の厳しさは無かった。 先輩の後をついていく。いつもは曲がるはずの道をそ知らぬ顔で通り過ぎるのが後ろめたかった。 斑目は心の中で呟く。 仕方ねーさ、仕方ねーんだよ、と。 それが、斑目が部室に来なくなった日の出来事だ。(北の国からの純の口調で) 雨が降るのはいつものことで、今日その日も雨が降っている。 建物の古さを誤魔化すために塗られたやたらツルツルした外壁塗装を、雨水が這う。 溜め込んだ汚れを洗いざらい洗い落として、それでも外壁は曇り空にくすんでいた。 風の無い雨の日であったので、学内には傘を差す人が行きかっている。しとしと降る雨の中で話す人もいたが、大抵は靴や服、 または髪の毛が濡れるのを嫌がって建物に次々と吸い込まれていった。 そういった意味で、サークル棟も賑わっていた。各部室は雨の寒さを嫌ってしっかりと閉じられていたが、中から聞こえる声はいつもより大きいようであった。 しかしながら現視研の部室はというと、比較するに少し寂しい入りであった。 会長の大野は奥に座って最近のコスプレイベントの写真を広げている。咲が傍らで一緒に写真を見ているが、 下手に褒めるとまた執拗な勧誘攻撃に晒されるので、あくまで控え目な感想に止めている。 大野はそれが大いに不満なのであった。 「あー! コレ! 見て下さいっ、かわいいでしょ~?」 「うん…、そだね。」 なるべく目を合わせないように視線をコントロールする咲に、大野はしつこく写真を割り込ませてくる。 「ほら~、これなんかどうですか? あー、このコスいいな~。私こういうの似合わないんで羨ましいんですよね~。」 「へ~…、大野ならたぶんどれ着てもかわいいよ…。」 「着れなくはないんですけどね~、どうしても内面までは表現し切れないんですよ。こういうお姉さんキャラはなかなか奥が深いです!」 咲をガン見する大野であったが。 「そういうもんかねー…、私にはわからないですよ。」 咲は適当に写真の束をペラペラとめくっているだけで、躊躇なく大野の切なる願いを袖にしていた。申し訳ないという気すらないのである。 雨のせいで音響性の高まった部室に大野の唸りが、地の底からの声の如く響いた。 笹原はいつものように読書で耽っている。ただし、苦痛を伴う意味での読書だ。 決してマンガやライトノベルやコバルト文庫やゲーム誌を読んでるわけではない。笹原が持ち難そう手にしていたの卒研用の資料であった。 念願の内定を得て編集者への一歩を踏み出し、荻上との恋も成就してラブラブな毎日を謳歌しているわけであるのだが、 ここらで棚上げにしていた卒研に本腰を入れなければと意を新たにしていた。 卒業して荻上と会う機会が減るのは口惜しいこと山の如しではあったが、留年しては内定を求めて彷徨った就職活動の地獄の日々が無駄になる。 というわけで久々に真面目に学生をしてるのであった。 とはいえ、ちょろっと読んで早くも眠くなってきたのだが…。分厚い資料はムズカシ語の羅列で成り立っており、わが世の春を満喫している 笹原にはヒトキワ落差が大きく感じられる。また加えて、昨日の夜も荻上さんとナニしてアレしていたわけであり…。昨日というか、ここのところ 暇を見つけてはアレしたりコレしたりばっかりであることは否定しようのない事実であるので、ぶっちゃけて寝ていない。 ある意味、寝てるけどね・・・。 むにゃむにゃ・・・。 笹原の手を離れた本が、喝っっ!!とばかりにけたたましく机を打った。 「おおっ!」 「あ…、ごめん。ぼーっとしてたよ、ハハハ…。」 自分の自堕落な日常生活を悟られまいと苦笑いで本を手に取る。幸い、大野も咲もさして気にしていない様子である。 (笹原さん眠そう…。寝てないのか…。うふふ…。まーそんなもんですよねー。うふふ…。) (ササヤン…、楽しいか…、そーか、よかったなあ~…。) バレバレでした。 ふと、笹原は携帯を取り出した。しかし、メールの着信があったわけでも、メールを打つでも電話するでもなく、またすぐにしまった。 窓の外ではまだ雨が降っているようだった。 「荻上さん遅いですねえぇ~…、うぅ~ふふふ…。」 大野がニヤニヤして言う。笹原は苦笑いで返した。 「いや、ま、そーじゃなくて。今日も斑目さん来なかったなぁ、って。」 「あ、あー…、そうですねー…。」 大野も携帯を取り出して時間を見る。ミシンに向かう田中の待ち受けの隅に、1時を10分ほど過ぎた時刻が表示されている。 「来ませんでしたね、斑目さん…。最近見ないですよね…。」 「そーだなー。」 咲は写真を机に放って、視線を中空に漂わせる。本棚の上にゲーム機やフィギュアやプラモの空箱が無造作に積んであった。 火事の原因となる大掃除で片付けてから、また随分溜まってきていた。 「忙しいのかな? あれで意外と…。」 咲が言った。笹原も大野もう~んと唸ったきりで言葉が出てこない。 事務職の斑目が昼も食べられないほど忙しいはずがないのは皆わかっていたが、はっきりと言い切るのは何となく避けたかった。 「メールとかしてみました?」 大野が笹原に問いかける。笹原は小さく首を振った。 「してないねぇ…。そのうち来ると思ったし…。」 「今してみたら?」 「そーねぇ~。」 咲の提案に、笹原は同意して携帯をジーンズの窮屈なポケットから引っ張り出した。 「止めとけよ。仕事中にメールしたって返ってこねぇって。」 少し離れた席にぽつんと座っていた恵子が言った。ギッチリと腕組みをして、机の上に広げたファッション誌を眺めている。 その様子は何だか囲碁でも打っているかのようで、少しジジ臭かった。机の上に底の深い大き目のバッグが乗っかっていた。 「来たくなったらそのうち来るだろ…。」 「あ~…、まあね~…。」 「それはそうですけどね~…。」 恵子の正論に、笹原も大野も名残惜し気に言葉を濁す。掌の携帯は鈍い発光の省電力モードに切り替わった。 「アイツも社会人なんだし、向こうの付き合いってのもあんじゃねーの?」 視線を雑誌に向けたまま、恵子はきっぱりとした口調で言う。それは腕組みのポーズと合わさって奇妙な風格を恵子に纏わせていた。 笹原は携帯の重みに耐えかねて、腕を机に落とす。大野も右手の指で左手の指先をいじくるばかりで上手いこと反論のしようも無かった。 静かに成り行きを見守っていた咲が言った。 「でもさ…、気になるだろ…? 急に来なくなると…。お前気になんない?」 力の抜けた上体を咲は恵子に向ける。恵子は表情を抑えつけるように口元を歪ませた。 「別に…、なんないけど?」 声にさっきまでの鋭さはなくなっていたが、咲はそれに触れるのは底意地が悪いような気がして、短く相槌を打った。 「あー、まあ…。」 「そー言われると言葉が無いですねえ…。」 「カワイソウだな、斑目さん…。」 「フツーだろ、別に…。」 恵子の言葉に鋭さが戻っていた。 笹原と大野は顔を見合わせて苦笑して場を和ませる。そして笹原の携帯は再び窮屈なポケットに押し込まれた。 「ま、夜にでも電話してみたら? 案外マジで忙しいのかもよ?」 「それが良いかね…。」 曖昧に笑って笹原は資料を手に取った。大野も広げ放題に広げた写真を大野なりの分類方法で整理し始めた。 咲はひとつため息をつくと、本棚の少女マンガを適当に見繕って開いた。そうしながら、咲は視界の隅の恵子を見る。 先程からの変わらぬ姿勢のまま、彫像のようにファッション誌のモデルを凝視している。 恵子の手が動くのは、時たまページをめくる時だけだ。それも、なかなか稀にしか起こらない。 咲もまた、同じページをいつまでも読むことになった。 薄い雨雲の向こうがほんのりと日の光に滲んで、雨はしとしとと空からしたたり落ちて校舎を濡らしている。 今にも止みそうな弱い五月雨は、晴天が透けて見えそうな雲模様とは裏腹に降り続けた。 もう、濡れたばかりのアスファルトが放つむっとするような埃っぽい悪臭も流されて、学内は夜のように寒かった。 部室の窓ガラスを雨水が落ちる。濡れたガラスの外側と曇り空が、窓に貼られたくじアンのアニメ絵ポスターをよりくっきりと浮き立たせる。 外は雨でびしょ濡れなのに、ちっとも意に介さず微笑んでいるケッテンクラート会長が、少し奇妙な感じを醸し出していた。 笹原も大野も部室を後にし、いつの間にかそこには咲と恵子が残されていた。 二人は机の両端に向かい合わせで座っている。 「・・・あんさ。」 咲が言う。 「あんた何かあった?」 咲は手にしていた単行本を自身のヘソの上に乗せて尋ねた。恵子はまだファッション誌を開いていた。 「・・・何ソレ?」 恵子はパイプ椅子に座り直す。ずっと座りっぱなしでお尻に鈍痛を感じていたし、腰も少し痛かった。両肘を机の上に乗っけて、体重を分散させる。 そのとき少し背中を丸めて、咲を視界の外に追い出していた。 「別に何もないけど・・・。」 素っ気無く恵子は応える。咲はそれを聞いても単行本に視線を戻すことはなかった。少しう~んと唸った。タイミングを計っているようだった。 「うんとさ・・、けっこう久しぶりに部室きたじゃん? そのわりに元気なさそーだったから・・。」 恵子はわざとらしくページをめくった。気にもしていないふうを装いたかったから。 視線が一瞬、自分のバッグを舐めた。 「・・・そーでもないよ。」 「どっか具合でも悪かった?」 「元気だよ。」 う~んと唸る代わりに、咲はへ~と間延びした声を発した。 端の黒くなった蛍光灯が部室の真ん中を鮮明に照らしているが、窓から雲が忍び込んできたようで、部室は何となく薄暗かった。 咲は次の言葉を模索して恵子を見つめている。恵子には咲の顔は視界の外であったが、咲の手が作る表情は否応無く目に入った。 恵子が言った。 「何でそう思うの?」 咲はちょっとだけ驚いて、また言葉を探して唸った。 「あ~・・、何だろ? 全体的に?・・そんな感じだから。」 「そー・・・。」 咲には似合わない、自信なさ気な言葉だった。 「お前らしくない感じ。テンション低いし、コーサカのことも何も訊かないし。」 今度の理由には少しだけ自信が滲んでいた。咲は恵子が部室に入ってきたときのことを思い起こしていた。 いつもは真っ先にコーサカを探して、居なければ口に出して尋ね、いよいよ居ないとなると不満を口でも体でも表した。 今日の恵子は挨拶こそいつも通りであったが、部室を見渡すとすぐに手近な席に腰を下ろしていた。 咲は心の中で小さな覚悟を決めて尋ねた。 「コーサカに、何か言われた・・・?」 咲はムズムズするような感覚を背筋に覚えた。もちろん真面目に真剣に恵子の様子を心配しているのだが、 自分の彼氏とそれを狙う女の仲について気を揉むのは少しヘンだとも思った。 恵子は机に覆い被さるのを止めて、背もたれに体をあずける。雑誌を手前に引き寄せた。 「別に、最近会ってないし。」 続けて恵子は言った。 「それに、高坂さんのことはもういいよ。」 咲はしばらく沈黙して、考えを整理した。 「あ、もういいって・・・?」 「だからもういいの。ねーさんにアゲル。」 (アゲル? あげる…、あげるってか…?) 咲はその短い日本語を何度も暗唱した。それこそ今まで何度も恵子をコーサカから遠ざけようとしたくらいには暗唱した。 負荷のかかった脳が排熱するために、咲に大きく深呼吸することを要求して咲は従った。恵子はそれを見てもクスリともしない。 咲は行き酔いよく叫んでやった。 「あげるって、もともと私のモノだよ。コーサカは!」 冗談めかして応えたものの、恵子はノーリアクション。釣れない…。 笑うでもなく、照れるでもなく、無表情で座っている。咲は萎んでいく自分の笑い声を寂しく聞いた。 気を取り直して咲は言った。 「また何で?」 「・・・まあ。」 恵子はまた自分のバックに、一瞬、目をやった。 「・・・・・・。」 「まあ、そろそろ潮時かなって。」 恵子の言葉に、咲の目が鋭く尖った。嘘をついているのが、どうしてか咲にはハッキリと分かってしまった。 別に何の根拠があったわけでもなかったけれど、確信に近い自信を感じていた。 咲は改めて恵子をしげしげと見つめる。恵子は机の端っこで、だらりと椅子に寄りかかっている。そのくせ顔は剛直したように張り詰めていて、口は堅く閉じていた。 決して自分に視線は向けないで、雑誌の一点を見つめているようだった。恵子の目はぼんやりと開かれていたが、瞼は瞬きを忘れていた。 「・・・なんかあったんでしょ? 躊躇いもあったが、咲は訊いた。結局は、咲は恵子がかわいかったのだ。 咲に妹は居なかったが、恵子に対してそれに近い感情を覚えていた。 咲は恵子の方へ椅子を引きずった。 「私には言いたくない?」 咲の声を聞いただけで、恵子には咲がどんな顔して自分を見ているのか分かった気がした。 咲の声は、押し付けがましくも、軽薄でもなくて、頼もしくて優しい。咲の手は袖からのぞいた自身の肘を抱きかかえていて、 その手も肌もうっすらと赤みを帯びて、本当に美しいと恵子は思った。 「私は言って欲しいんだけどね・・・。」 照れたように咲が言った。その言葉は恵子の目の底をグイっと掴んで、そのまま喉の奥まで落ちていった。 恵子は耐えられなくて口から言葉を吐き出した。 「・・・ねーさんてさ・・。」 「ん・・?」 口を手で抑えてしまいたかったが、手はパイプ椅子を掴んで動いてくれなかった。 「・・・ねーさんて、スゴ過ぎんだよ・・。」 「・・・。」 咲は声もなく恵子を見ていた。 「・・・ねーさんて、すげー・・、カッコいいし・・・、キレイだし・・、優しいし・・、頼れるし・・。」 恵子は顔を伏せた。 「頭よくて、面白いくて、話しやすいくて、かわいくて、なんか・・、すげー・・・、ちゃんとしてて・・、芯があるっていうか、立派だし・・・。」 「そんなことねーよ!」 咲は軽く笑ったが、静か過ぎる部室にその声は痛々しく響いた。咲は自分の表情が脆く剥がれ落ちていくのを感じて、自分の言葉を後悔した。 恵子の唇がわなわなと震えて、いつもは大きく笑っているはずの口が歪んでいた。 「アタシみてーな・・、バカな小娘じゃ・・、どうにもなんねぇよぉ・・・。」 恵子の瞳から大粒の涙が零れた。涙は頬を走ってから恵子の服を濡らした。あるいはそのまま宙に躍って、雑誌のモデルの肌をシワくちゃに滲ませた。 恵子は声を出して泣こうとする自分の体を必死に抑えつけようとしたが、もうどうにもならなかった。 後は咲に泣いている顔を見せないように机に突っ伏して、両腕で覆い隠すことしか出来なかった。 泣き顔を咲に見られるのは嫌だった。 「・・・クソ・・なんで・・うまくいかねぇんだよぉ・・。恋愛なんて・・・・・簡単だと思ってたのになぁ・・・・。」 自分の口から零れた言葉を聴いて、恵子はまた声を上げて泣いた。 泣きながら、何で泣いてしまったのか、思いを巡らす。原因が心に浮かびそうになると、恵子は怖くて、また涙を零した。 咲はどうしていいのか分からずに、見ていることしかできないでいた。 恵子が泣いている。 頭に浮かぶのはコーサカのことだが、ならば一層、自分が何か言ってはいけないと思う。 咲に唯一できたのは、ハンカチを泣き伏している恵子の前に置くことだけだった。恵子にハンカチが見えないのは分かっていた。 雨が降っていて、恵子が嗚咽を漏らしているのに、部室は余計に静かで居たたまれない。 視線を外そうと思っても目は動かず、席を立つことも無理だった。 咲は自分が恵子に涙を流せたことが、とても辛かった。 不意に恵子がゆっくりと立ち上がった。 化粧がぐずぐずに崩れていて涙の通り道がはっきりとしていた。目の周りの皮膚が紅くなって、まるで子供の顔のようだった。 咲が何かを言う前に、恵子はさえぎるように言った。 「ごめんね・・・。いきなり・・泣いちゃって。ねーさん、気にしなくていいから・・・。」 咲は何か言いたかったが、やっぱり何も出てこなかった。 「ごめん・・。もう帰るわ。」 言うや否や恵子は自分のバッグを引っ手繰って部屋を飛び出していった。 咲は腰を椅子から浮かせたままで恵子を見送っていた。立ち上がろうにも、追いかけようにも、心がついて行かなかった。 小さく音を立てて、再び椅子に体をあずける。パイプ椅子が軋んで鳴いた。 「・・・何だよ、・・・それ。」 そう言うのが精一杯だった。 恵子は備品が並んだ狭い通路をバッグをぶつけながら縫うように歩いた。 すれ違う人に顔を見られないように手首を鼻先にあてがう。そうしていてもまだ涙が零れていた。 階段を降りたところで、小さな人影が出会い頭に前に立ち塞がった。 荻上だった。 「あ、あれっ? どうしたんすか?」 反射的に相手を見ようとした恵子の瞳を、荻上が驚いた表情で見ていた。 「何でもない。」 短く言って、恵子は荻上の横を走り抜けた。荻上が追いかけてくるかもしれないと思ったが、振り返らずに走った。 サークル棟の外は雨で、コンクリートもアスファルトも黒い灰色に変色している。 恵子は唇を噛み締めてバッグの中の折り畳み傘を探った。 恵子の手が止まった。 バッグの中の、包装紙に包まれた長くて薄い箱が恵子の手に当たっていた。包装紙を雫が濡らした。 口元を歪ませて、恵子はそれを掴むと、少し離れたクズカゴに投げ捨てた。 箱は雨ざらしのクズカゴに中に落ちていった。 悔しいくらいに見事。 包装紙はすぐにぐしょぐしょに濡れて変色して、薄汚いゴミに変わった。 昨日から降り続く雨は今日もまだ止みそうにない。雨水を十分に蓄えた土と樹木と建物が冷気を放っている。 この雨で一気に夏は南の彼方に逃げ去って、かわりに秋がいよいよとばかりに腕を振るっていた。 斑目は紺色の布と黒い取っ手の紳士傘を差して久しぶりに学内を歩いていた。 傘を持っていない方の手には例によってコンビニのレジ袋を持ち、中身が雨に濡れないように手を胸元に引き寄せている。 斑目は水溜りを避けつつ歩いていく。それでもズボンの裾は跳ね上げた雨水に濡れていて、革靴も水が染み込んでつま先が少し冷たかった。 今日、斑目が部室に顔を出す気になったのは笹原からの電話のせいではなかった。 会社の終業時刻が近づいたころに咲からメールが届いた。内容はごく簡単で明日は部室に顔を出して欲しいというものだったが、 メールの最後におまけのように、ちょっと相談があるとあった。 返信メールで相談内容について訊いてみたが、長くなるから明日話すと返ってきた。こういうのは、斑目は苦手だ。 恐らく高坂のオタク趣味について、というのが斑目の予想である。今まで咲からの相談事は大抵その内容であったし、 自分にアドバイスできるのもその事だけだったのもあった。 何にせよ、斑目はこういうのが苦手だし、咲と顔を合わすのもちょっと気まずかった。恵子が明日来るのか訊きたかったが、 咲に分かるはずもないし、ダサいので止めた。 咲は意外にも部室ではなく、その前にある喫煙所に立っていた。木製のベンチは水を吸って茶色い汁を分泌しておりとても座れたものではなかった。 「あれ? またタバコ吸い始めたん?」 久しぶりのせいで、少し照れくさそうに斑目は言った。 咲の表情は暗い。手にタバコは持っていなかった。 「ま・・、部室だと話しにくいからね。」 「あー、そうすか…。」 「今日はこっち来て大丈夫だったの?」 「うん、ま、別に…。この頃は先輩に昼メシ誘われてたんだけどね。」 「そーかい・・。」 咲は先に立って人通りの少ないサークル棟の隅に斑目を連れて行った。斑目は傘をギュルギュルと巻き上げて素直に後に従う。 適当に周囲の人気を咲は窺う。やや緊張して、斑目は咲が話を切り出すのを待った。 「最近さ、恵子と話した?」 斑目は声が出そうになった。 咲の様子からタダナラヌ雰囲気を感じてはいたが、思ってもいない名前を持ち出されて背中を殴られたように息が詰まった。 「最近よく話すって言ってたじゃん? 一番最近会ったのっていつ?」 神妙な表情の咲に、斑目は脳は混乱を極めた。一つの疑問が頭の中をオーバルコースを走るレーシングカーの如く駆け巡った。 (ど、どこまで掴んでいるんだ?) 質問の答えを導き出すに当たってそれは極めて重要な問題であった。が、咲の表情は固く、意図を読むどころではなかった。 「あぁーと…、前に、部室に顔出した日かな…? それからは会ってない…。ていうか他のヤツとも会ってないな…。」 咲は神妙な表情を崩さず、口元をいびつにひねった。斑目の額から冷や汗が滲み出ていた。 咲は言った。 「そんときって、私も居たときだよね・・?」 「ああ…、そーだったかな…? たぶん…。」 咲は傾げた首の角度を何度か変えて、そしてその度に口をひねって声にならない呻きを漏らした。 斑目は傘から雨粒を振り落としながらその様子をじっと見ていたが、無言に耐えかねて咲に尋ねた。 「あんさ…、どうかした?」 咲はひねった口元を緩めて、少し目を開いて言う。 「うん・・・、ちょっと・・。」 咲の表情に、斑目は徐々にに混乱から醒めていった。こういう顔の咲を見るのは、咲を泣かせてしまったあの一件以来だ。 「あー、んと・・。」 斑目は声の調子を整える。 「それって・・。」 「あのとき私なんか恵子に言ったのかなぁ・・・。」 斑目の言葉を遮って咲は言った。斑目は咲の言っている意味が分からない。 「いや、別にフツーだったと思うけど・・。よく覚えてないけどね・・・。」 「うん・・・。」 咲は俯いて黙ってしまった。斑目は少し体を屈めて咲をのぞき込んだ。 「・・・どーかした? 何かあった?」 固く閉じた咲の唇が躊躇いながらも開く。小さく息を吐いて、咲は話し始めた。 「昨日なんだけどね・・・。」 「うん・・。」 「けっこう久しぶりに恵子が部室に来たんだけど・・。」 「・・・。」 「最初はササヤンとか大野もいてワイワイいつも通りだったんだけどさ、恵子がなんか元気なかった気がしたんだよ・・。  そんで私、他の奴らが出てったあとに恵子に聞いてみてんだけどね・・・。」 斑目の体はビリビリと少しだけ震えた。 咲はそこで言葉を詰まらせる。促すように、斑目は相槌を打つ。その声も少し震えていた。 「うん・・・。」 「そしたら、アイツ急に私のこと褒めだしてさ、いろいろ・・・。そんでなんか・・、アイツ、急に泣き出したんだよね・・。」 斑目は目の前が真っ暗になった。 真っ暗になってしまって、濡れたつま先がひどく冷たかった。 体が内側にギリギリとねじ込まれるように痛くて、座り込んでしまいたかったが、膝がギプスを嵌めたみたいで動けない。 咲の顔も見えないし、声も聞こえなかった。 「コーサカにそれとなく訊いたんだけど、最近会ってないって言うし・・。ササヤンに言うわけにはいかないからさ・・。」 「・・・。」 「斑目は何か知らない? 私、恵子にヤなことしたかな? ・・・って言うかずっと、気付かないで何かやってたのかな・・?」 咲の声は雨に濡れたコンクリートと同じぐらい冷え冷えとして寂しげだったが、斑目の頭の中でその質問の答えはすぐに出て、咲の声もすぐに消えた。 斑目は言った。 「春日部さんのせいじゃないと思うよ。」 斑目の口調はきっぱりとしたものだったが、自分のせいとは言わなかった。斑目にそう言う自信はなかった。 斑目にあったのは、恵子が泣いたということと、自分にはそれを防ぐことや事前にその兆候を察知することが出来なかったことへの落胆だった。 自分という人間がどうしようもなくつまらなく思えて仕方がなかった。 「ごめん、わかんねぇ・・・。」 斑目はそう言ったきりで、あとは何かを台無しにしてしまったという思いが食欲も何もあらかた持っていってしまっていた。 軽く手を上げて、斑目は咲と別れた。咲は斑目に捉え所のない相談をしたことを謝ったが、斑目は無言だった。 上って来たばかりの階段を下っていく。一段下りるごとに食べる気にもならない昼食が斑目の腿を打つ。 ガラス戸を抜けて外に出る。雨音がして、やたらと静かだった。雨と昼時のせいか、人影はない。自分だけがぽつんとそこにいた。 「仕方ねぇ・・、仕方ねぇって・・。」 またいつものように呟く。咲を好きになってからずっとそうしてきた。そうやって誤魔化してきた。 いろいろな理由をつけて、いつもそう呟く。傷つくのを怖がって、傷ついているフリをする。 そういうことに慣れてしまっていた。 「斑目さん。」 驚いて振り向く。声をかけたのは荻上だった。 「あ、荻上さん。こんちわ。」 「久しぶりですね、部室に顔出すの。」 荻上は斑目の目を真っ直ぐに見据えていた。斑目はたじろいで目を逸らした。 荻上は言った。 「春日部先輩から聞きましたか? 恵子ちゃんのこと。」 斑目はドキリとしたが、愛想笑いで誤魔化した。ほとんど反射的にそうしていた。 「はは・・、まあね・・。ちょっとビックリしたね・・・。俺にはよくわからんけど・・。」 荻上の表情に目をやる。荻上は真っ直ぐに自分を見据えている。 少し光を宿した黒い瞳が刃のように爛々と光っていた。 「そうですか。」 荻上は短くそう言うと、背負ったリュックを下ろして中をガサゴソとまさぐった。 リュックから手を抜いたとき、荻上はグシャグシャの包装紙に包まれた物を握っていた。 「どうぞ。」 荻上はそれを差し出す。 斑目は訳も分からずに受け取った。 「何、これ?」 荻上はまた斑目を見据えていた。 「昨日、恵子ちゃんがゴミ箱に捨ててました。部室に行ったら春日部先輩が事情を話してくれました。」 斑目は受け取った物にまじまじと見つめる。 包装紙は一度濡れて乾かしたようでシワくちゃだった。また包装自体もヘンテコに崩れていた。 「すいません。悪いと思ったんですが、中身を見ました。紳士物のネクタイです。」 斑目の背中に一瞬、熱いものが走った。 荻上は続ける。 「ウチでそういうネクタイをするのは、斑目さんだけですから。」 斑目は箱の感触を確かめる。ボール紙の箱も水を吸ったようで、ところどころ、握っただけで容易くへこんだ。 斑目は大事にその箱を握った。 「斑目さん。」 荻上は少し顔を上気させて言った。 「斑目さんは受けです! それも総受けです!」 「何言ってんの?」 「真面目な話ですっ!!!」 荻上は一喝した。 「メガネくんは受けが基本なんですっ!!!」 ますます上気させた顔で荻上は言う。顔を真っ赤にして筆を尖らせている。斑目は圧倒された。 「そういう意味で斑目さんは受けです!!」 「うん・・・。」 「でも、受けでも、恋愛には攻めなきゃいけないときもあるんですっ!!!」 荻上は一つ息をついた。 「ちゃんと恵子ちゃんの気持ち、わかってあげて下さい!」 そう言うと、荻上はまたひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。自分の言ったことの恥ずかしさに一層真っ赤に赤面していた。 斑目は自然と笑っていた。 「すいません。差し出がましいことを言いまして…。失礼します。」 「ちょっとごめん。」 斑目はすっきりとした顔をしていた。今度は斑目が荻上を真っ直ぐに見ていた。 「部室って誰かいる?」 「ええ…、大野先輩とか、高坂さんも、笹原さんもいますけど…。」 「そう…。」 斑目は大きく息を吸って、グッと体に力を込めた。 「んじゃ、俺、春日部さんに話あるから、部室の奴らがこっち来ないように見張っといて。」 荻上は目を白黒させている。予想外の展開になったことに困惑していた。 「?? はあ…、いいですけど…。いや、そうでねぐて、私が言いたかったのは恵子ちゃんを…。」 「いや、わかった。みなまで言うな。」 斑目は掌を広げて荻上を制すと、足取りも確かにサークル棟の中に引き返した。 荻上も引きずられるようについて行く。 「あんがと、荻上さん。」 「はい?」 「助かったわ。」 「! ならいいです…」 荻上は自分の心意気的なものは伝わったようなので大人しく部室に戻った。 荻上は思った。 自分と笹原とが付き合う契機になった合宿を企画してくれた恵子に、少しは恩返しができたのだろうか? 斑目は腹を決めて歩く。できるだけ早足で、決意が鈍らないうちに咲の前に行きたかった。 サークル棟の隅、咲はまだそこに居た。打ちっぱなしの冷たい壁に体をあずけている。 咲は驚いて壁から体を起こした。 「どしたの? なんか思い出した?」 期待するような咲の声を、斑目は曖昧な返事でいなして近づいていく。 「いや、まあ・・、さっきの話とは、関係ないんだけどさー・・。」 「あーそう・・。」 咲は明らかに気落ちしたふうで、一瞬怯みそうになる。でも、ここで逃げるわけにはいかない。 斑目は一回目を閉じてもう一度気合を入れた。 「あんさ・・・。いきなりこういうこというのも何なんだけど・・。」 「あに?」 「俺と付き合ってくんない?」 声も若干ヘンだったし、言葉を選ぶ余裕もなかったが、意外にすんなり言えたことに斑目は自分でも驚いていた。 でも、咲のが確実に驚いていた。目が点になっていた。 「・・・マジで?」 「うん・・・、マジ。」 咲は通路を見回した。 「や、ドッキリじゃないって・・。ほんとに、マジで。春日部さんのこと、す、好きだから、俺と付き合ってくれ。」 急に咲の顔が真っ赤に染まった。 「え、え? ちょっとまって。何でそうなるの? すごい、急なことでビックリしてんだけど・・。」 「ごめん・・。でも、俺、もうずっと春日部さんのこと好きだったんだよね・・。高坂いたし、言えんかったけど・・。」 斑目は照れながらもしっかりと咲の目を見ている。斑目の告白が冗談でも嘘でもないことが咲にも分かった。 それだけに咲は、斑目を見ることができないでいた。 「なんか・・・本気だっていうのは、わかった・・・。」 「それで・・?」 咲は言葉に詰まった。体中から汗が噴き出して、再び混乱が頭を支配した。 「えぇ~、ちょっと・・・、なんか、今すごい、わけわかんないから・・。急かさないでよぉ~。」 目をグルグルさせて、咲は頭を抱えた。なんでこんなことになったのかさっぱり分からなくて、とにかく焦って、 さっきまで寒かったはずなのに今はどうしようもなく暑かった。 (恵子の心配をしてたはずなのに、何でこんなことに? わかんない~。全然わかんないィ~。) 斑目は緊張の面持ちで自分を見ている。どうしよう。ますます焦る。 「春日部さん?」 「なにっ?!!!」 過剰なリアクションに斑目もビビった。 「いや、ごめんね・・・急で。」 「うん・・。今かなり驚いてる・・。」 それが偽らざる本音だった。 「でさ・・、俺と付き合ってくれるかな?」 攻めの斑目に咲きは困惑してしまう。らしくない、押しが強い。 「それは・・・、何て言うか・・。私にはコーサカいるし。コーサカのこと好きだし・・。」 「うん・・。」 「斑目はいいヤツだと思うし。一年のころは・・、まー、馬が合わなかったけど・・。世話にもなったしさ。迷惑もかけてフォローしてもらったりとか・・。」 咲は少し俯いて、丁寧に言葉を紡いだ。今までのことを思いこしながら。ケンカもしたり、マジでぶっ飛ばしたこともあったり。 助けたり、助けてもらったり。新人会員を追い出したり、火事を起こしたりで、迷惑をかけたりもした。コーサカとのことで相談に乗ってもらったことも何度もあった。 もしかして、その度に斑目は傷ついていたのかもしれない。それでも斑目はおくびにも出さずに相手をしてくれた。 振り返ると、現視研メンバーで一番言葉を交わしていたのは斑目だった。 突然の告白は、驚いたが嬉しくもあった。 でも、自分が好きなのはコーサカで、嘘はつけない。斑目の気持ちに応えることはできなかった。 咲は言葉を探す。今までの斑目との関係は失いたくなかった。 「斑目の気持ちは、けっこうっていうか・・、正直嬉しかったけど・・。私はコーサカと付き合ってて・・。」 「春日部さん・・。」 斑目は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。 咲は斑目の顔を見た。 「フるならもっとはっきりフッてくんない? グチグチ言ってないで。」 「は???」 咲は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。それがどんな顔なのかは、永遠にわかるまいっ! 「え、今なんて?」 「うん、だからさ。気を使ってくれるのは嬉しいけど、ぶっちゃけ俺をフるわけでしょ?」 「あ~…、そーですけど~……。」 「ならもっとスッパリやって欲しいんだよ。何か、いい人だけど~、みたいんじゃなくて。」 斑目は快活な笑顔を見せる。 咲はフツフツと怒りがこみ上げてきた。 「ちょっと待て~~~!!! お前は私が好きなんだよな?」 「そうだよ。本気で好きだよ。もうずっと好きだったよ。」 「ならなんでそんな態度なんだ? やっとのことで告ったんだろ?」 「まー、やっぱり中々言えないよね。俺なんか春日部さんの眼中に無いのはわかってたからね。だから、今日まで言えなかったよ。フラれるの分かってたからね。」 「だったら何で告ったんだよっ!!!」 斑目は急に真顔に戻って、少し照れくさそうに顔を掻いた。 「告んねーとさ、終わりにできねーじゃん? 終わんねーと・・・、次いけないからさ。」 咲はハッとして、そして小さく息を吐いた。頭の中で漸く全てが一本でつながった。 (なーんだ・・。そゆことですか・・。) 咲はクスクスと自嘲を漏らして、斑目を少しだけ見直した。 「まったく、私もニブいなあ~。」 「まあ、自分のことだと難しいだろうね~。」 「それもあるけどさ。」 「??」 咲はおもむろに深呼吸して斑目の正面に立った。 「んじゃ、スパッといきますか。」 「お、おう!!!」 咲は斑目を目を見据える。斑目は顔を赤くし、唾を飲み込んだ。覚悟を決めて望んだ斑目だったが、いざとなると流石に緊張した。 「私はコーサカと付き合ってるし、コーサカが好きだ。だから斑目とは付き合えない。悪い。」 その言葉は、やっぱりちょっとだけショックだったが、中途半端にフラれるよりは何倍もマシだった。 自分の積年に渡る思いが、見事なぐらいバラバラに砕け散って、言えずに悩んでいた情けない自分がいとおしい思えた。 咲を好きだった時間が無駄になったとは斑目は思えなかった。 「ははは・・、あんがと。こっちこそ悪かったデスヨ。」 斑目は照れ臭くて笑った。咲も同じだった。自分たちのやっていることが、青春マンガみたいで、妙に気恥ずかしかった。 でも気分は、スッキリとしていた。 「んじゃ、会社戻るわ。」 斑目は階段に向かって歩き出そうとして、咲が声をかけた。 「恵子のこと、頼むよ。次泣かせたらツッコミじゃ済まないからね。」 斑目は苦笑して振り返った。 「その手は食わないよ~。俺も成長したかんネ。」 咲のカマ掛けを見破ったまでは上々であったが、斑目の顔はいつにもまして赤かった。メガネが曇りそうなほどだった。 「ま、ならダイジョブだね。」 苦笑いを残して斑目は階下に消えていった。 部室へ向かう咲の足取りは軽かった。 「んじゃ行ってくる。」 恵子はそう言って、兄のサンダルを履いた。傍らには可愛らしいブーツがくたくたになって倒れている。 「いってらっしゃーーい。」 笹原はやや疲れた笑顔で恵子を送り出した。 恵子はそれを一目見てから、ドアノブに引っ掛けてあったビニ傘を取って部屋を出た。 外はまだ雨が降っている。 部屋を出て、忘れていた雨音に気付いた。昨日からずっと恵子は外に出ていなかった。 ビニ傘を開いて、雨の中に踏み出す。道に人影はなかった。 「つめて・・。」 恵子はそうこぼした。古い舗装路にはたくさんの水溜りが出来ていて、どれも恵子を罠にかけようと待ち構えている。 外灯に照らせれて白く光っては、サンダルを引っ掛けた恵子の素足を濡らした。 路上に駐車された車の横を通り過ぎる。黒く磨かれたミニバンの車体。窓ガラスに映った自分の姿に恵子は目をやった。 笹原から借りたジャージの上下に、後ろで結んだだけの髪。寝過ぎたせいか、泣き腫らしたせいか、顔はムクんでいる。 何の飾り気もない。化粧もしていなかった。ちっとも可愛くもキレイでもない自分がいた。 「きっつー・・・。」 そう言って、恵子は自嘲した。 (こりゃ、だめだわ・・・。) 恵子は携帯を取り出した。10時を回っていた。恵子はまた、ケンケンパでもするように雨の道を歩き出す。 近所のコンビニについて、500mlのペットボトルを何本かとスナック菓子、それとハーゲンダッツのアイスを2つカゴに放り込む。 剥き出しの千円札をポケットから出し、お釣のバラ銭をまたポケットに流し込んでコンビニを出た。 そこには思いがけない人が待っていた。 傘を差して、少し汗をかいた斑目がひどく驚いた顔をして自動ドアの前に立っていた。 昨日あれから、恵子は笹原の家に転がりこんだ。実家に帰る気力は残っていなかった。 その時にはもう涙は乾いていたし、化粧も直していたが、笹原は何か感づいてたようで、まだるっこしいやり方であれこれ詮索した。 恵子はそんなの全部無視して、さっさとシャワーを浴びてベッドに入った。笹原に少し悪いと思ったが、他にやりようもないと思った。 布団の中で、いろいろのことが脳裏をよぎったけれど、ひたすら考えないようにしていた。でも、出来るわけが無い。 斑目の顔も、咲の顔も、自分が口走ったことも、どれも苦痛を強いた。 捨ててしまったあのプレゼントのこと。 今頃、雨でずぶ濡れになって、その上からもゴミが放り込まれて、クズカゴの中でぐちゃぐちゃになってしまうのだと思うと、胸が潰れそうになった。 嗚咽が漏れそうになるのを必死にこらえた。瞼の隙間からまた涙が沁み出して、恵子は笹原に悟られないように寝巻きの袖で拭った。 気がついたら朝になっていた。 夢も何も見なかった。雨の音がしていて、まだ昨日にいるような気がした。 実際、恵子の気持ちはまだ昨日にいた。笹原が出ていった後もずっと部屋にいて、お腹も空かなかった。何度か眠って、また夜が来ただけのことだった。 半ば癖のように起きぬけに恵子は携帯をチェックする。 メールが2件。発信者は斑目だ。1件目のメールは、もう何時間も恵子が見てくれるのをじっと待っていた。 今日会えないかな?というだけの内容で、それだけなのに恵子の頭はぐちゃぐちゃになった。 会えないし、会うのが怖かった。会ったとしてもまたツッケンドンに振舞ってしまう気がする。 会いたいと言ってくれたことが嬉しかったが、同じくらい嫌われるのが怖かった。 今まで男と会うときにしきたように可愛くなりたいのに、斑目の前では上手くできない。どうしてなんだろう。 そのことを考えるのも、また同じくらい怖かった。 2件目のメールは見ないで、恵子はまた布団に潜った。 今度は眠ることができないで、ずっと布団の中で叱られた子供みたいに小さくうずくまっていた。 笹原がその内帰ってきて、そうそうに風呂に入ると何も言わずに本を読んでいた。 何度も恵子の携帯がブルブルと震えて、恵子がそれを無視していても、笹原は何にも言わないでいた。 「恵子、ちょっとコンビニ行ってきてくんない?」 それ今日初めて聞いた兄の言葉だった。トイレから出てきた恵子に藪から棒にそう言った。 「は? なんでよ。ヤダよ。」 恵子はそう言い返してさっさとベッドに戻ろうとした。ベッドの上に笹原は陣取った。 「頼むよ。俺、風呂入っちゃったから。風邪引いたらヤじゃん。」 ハンテンを羽織った笹原が情けなさそうに手を合わせる。恵子は戻る場所を失って突っ立っていた。 「自分で行けよ!」 恵子は無理矢理ベッドに押し入ろうとしたが、笹原も必死に抵抗したため敢え無くはね返される。 「いいだろー。泊めてやってタダ飯食わせてやってんだから! 行けよ! ほら、金やるから!」 ジャージのポケットに千円札を突っ込んで、あくまで笹原は譲ろうとしない。 珍しく意に沿わない兄の行動に面食らいつつも、面倒臭さが先に立って恵子はしぶしぶ折れた。 「何買ってくりゃいいの?」 「えーと、飲み物とか、菓子とか。適当に。」 散々粘って買いに行けせるわりには、随分ボンヤリとしたオーダーだ。 「んじゃ行ってくる。」 「いってらっしゃーーい。」 ドアが閉まったのを確認して、笹原は携帯から電話した。電話の向こうの声が訊く。 「おー、どうなった?」 「あ、うん、今行かせた。」 「おーおー、お疲れー。助かったよー。で、恵子に電話とか着てた?」 「うん、ずげーメール着てたよ。春日部さんが言った通り。」 「あ~ん、それはますますよかった。あんがとあんがと。そんじゃねー。」 「あ、まだ教えてくんないわけね…。」 「はは、ササヤンにはまだ秘密だなー。」 「いったい何が起こってるのかサッパリなんだけど・・。」 「まー、カワイイ妹分への手助けと、せめてもの罪滅ぼしだよ。明日には話せるようになると思うから。今日は勘弁しといて。」 「?? まあ、いいよ…。そんじゃねー。」 携帯を置いた笹原は、まんじりともせず、恵子にいない隙に同人誌を読もうと思ったが、見つかったらハズイのでやめた。 咲は携帯をたたむと、傍らの大野に目をやった。 「そんじゃ、次はこっちだね。」 「うふふ………。」 促された大野が怪しく笑う。隣にいた田中は引きつった苦笑いを浮かべている 「まったくぅ~~~、困った人たちですねぇ~~~~~、うふふ~…。」 大野の目はますます怪しく光った。 斑目はもう何時間も携帯と睨みあっていた。 会社が終わってから何度も恵子の携帯へメールを送っていたが1件も返信はない。電話をしても、何コールしても恵子は出てくれなかった。 気ばかり焦って、つい近所をブラブラしたり、部屋を妙に片付けてしまったり。気がつけばスーツを脱ぐのも忘れていた。 斑目はどうしても今日中に恵子に会いたかった。 机の上のクシャクシャのプレゼントを、斑目は見る。 これを受け取った瞬間、頭の中で何かが弾けて躊躇い続けていた一歩を踏み出すことができた。 咲に告白し、ケリをつけることができた。 (今日! 今日言うっ!) 斑目は強く思う。 あの後、部室から会社に戻っていつもの業務をこなした。体は感じたことのない興奮と高揚感でいっぱいだが、目の前にあるのはいつものディスプレイ、いつもの業務。 時間が経って興奮が治まってくると、たちまち不安がそろりそろりと近寄ってきた。 本当に言えるか? 春日部さんに告るのだって何年もかかったのに。言ったとしても上手くいくものなのか? ただの一人相撲かも。 いつまで経っても返ってこないメールを待っていると、絶望的な思いにかられる。いつものように諦めそうになる。 どうしていいか分からないのに、じっとしていらない。堪らなく歯痒い。 斑目は声を押し殺して、ベッドに拳を打ちつけた。 (くそー。苦しいなー。恋ってこんな苦しいんだなー・・・。逃げてーよ。じっさい、今まで何だかんだ逃げ回ってたけどな・・・。情けねーよな、ホント。) 斑目は自然と今までの自分を思い起こしていた。 中学、高校と恋愛とは無縁に過ごしてきた。ああいうのは顔がいいか、スポーツができるが、話が面白くてノリのいいヤツができるものだと思っていた。 自分のようなオタクとは関係の無いもの。勉強して、アニメ見て、マンガを読んでいた。 大学に入って、咲に会って、人を好きになることが分かっても、結局は変わらない。ハナから諦めていた。 針のムシロとかいって、傷ついているフリをしていただけだ。本当は、相手が自分を何とも思っていないと、突きつけられるのが怖かっただけ。 どうしようもないヤツだ。 斑目はまた、今日しかないと思った。今日何もしなけりゃ、いよいよ救いようの無い馬鹿だ。もう咲には全部言ってしまったのだ。もう始めてしまったことなんだ。 不意に、斑目の携帯が鳴った。驚きながらも慌てて手に取る。 「おー、斑目。いまどこだ?」 田中だった。怒りがこみ上げた。 「家だよ!!」 田中は一瞬言葉に詰まったようだが話を続けた。 「今日ちょっとさ、面白いもんが手に入ったんで笹原んちの近くに来てんだけど。斑目も来いよ。」 斑目は怒髪天を衝いた。こっちがこんなに苦しんでのに、呑気なこと言いやがって。 「わり! 今日ちょっとダメだわ。また今度にしてくれ!」 早く電話を切りたい。もしかしたら、今この瞬間に恵子がコールしているかもしれないのだ。 しかし田中の野郎がヤケに粘りやがる。 「いや~、来いって。借り物だから明日には返さなきゃいけないんだよ…。10分で済むから来いよ。」 「いや、今日はホントマジでダメだわ。切るぞ!」 「いや来いって!!」 いきなり田中のテンションが上がって、斑目はビックリした。 「ホントにすぐ済むから! …………うん。え~と…、みんな来るし…。あ~と…、なんか、笹原の妹もいるみたいなんだけどね…。」 なにっ!!!! 斑目の目の色が変わった。そして態度も変わった。 「あ~そ~か~…。う~ん~…。10分で済むの?」 「そう…。すぐ済むから…。それ見たら、俺らはソッコー帰るし…。な?」 「ほほ~!!」 「…………どう?」 「ま~…、そういうことなら行くよ。笹原んちでいいのな?」 「いや、まだ駅に着いたとこだからさ。笹原んちの近くのコンビニで買出ししてからいくから。そこで合流ってことでOK?」 「りょーかい。コンビニな、わかったわかった。」 携帯を切って深呼吸をする。後の動きは早かった。30秒後にはもう家を飛び出していた。 「やばかったね…。でも何とかOKでした…。」 少しやつれた田中。 カンペを持った咲と大野が冷や汗を拭った。 「ふ~、ほんと手間のかかるヤツらだな~。せっかく助けてやってんのに…。」 「お疲れ様でした~、田中さん。グッジョブですっ!!」 「いやぁ~…、慣れないことするもんじゃないね…。疲れましたよ…。」 「ま、後はアイツら次第だね。」 そう言うと、咲は缶ビールの栓を開けた。 斑目は自分の目を疑ったし、またこの恐ろしい偶然に声も無かった。 大急ぎで(比較的近所とはいえ)笹原宅の最寄のコンビニにやって来て、田中が外にいないことはすぐに分かった。 少し呼吸を整えて、いざ店内を探そうとした矢先、一番会いたかった人がそこにいた。 恵子はパンパンに膨れたレジ袋を提げて立っていた。買った量に比べて、明らかに袋が小さかった。 ジャージの上下に、ポニーテールを思わせる
*斑恵物語-終- 【投稿日 2006/03/09】 **[[斑恵物語]] ルルルルッ、とベルが鳴る。 キーボードを打つ音とパソコンのファンが響くオフィスの静寂を電話のベルが破った。鼻にかかったような電子音が妙に耳に付く。 ワンコールが終わる寸前に、斑目は受話器を取った。電話を取るのも事務の仕事の一つだ。 「はい、桜管工事工業です。」 淀みなくそう応える。片手はシャープペンを握って、頭を数回ノックする。 コンビニで一本ずつビニール袋に包装されていた、105円の洒落っ気も何も無いシャープペンであるが、オフィスには相応しい。 「はい…、いつもお世話になっております。はい…、少々お待ちください。」 斑目は『保留』ボタンを押して、内線番号表を確認すると別部署に電話を回した。 電話の応対も、だいぶ板についていた。 入社したころは慣れない言葉遣いにシドロモドロ。セールスの電話に戸惑ったり、カツゼツの悪い相手に聞き返すにも勇気が要った。 相手の出方が予想を裏切るたびうろたえたものだが、今やなかなかどうして、立派な社会人然としている。 くすんだ灰色(ハーヴェストグレイとか言うらしい)の受話器を置いて、斑目はディスプレイに目をやった。 新人の斑目のディスプレイはまだ液晶ではない。小さい会社なので仕方が無いとはいえ、邪魔臭いCRTの巨体がこっちを向いている。 斑目の視線は画面の下に流れた。 画面の右下。時刻表示。 11:58 昼休みが近いこと確認すると、斑目は静かに嘆息を漏らした。 斑目の頭に、一人の女性の顔が浮かんでいた。いや、顔は見えない。俯いて、携帯の画面を見ている後ろ姿だ。 斑目の頭は自然と昨日にさかのぼっていた。 昨日の夜、少し歩いてから振り返ったときに見た光景。彼女は駅へまっすぐに歩いていって、そのうち見えなくなった。 そのイメージには、そのときの寂しい気持ちが添付されていた。 (今日・・・、来てんのかな・・・。) ディスプレイに並ぶ数字の向こうに、馴染みの部室を思い浮かべる。 いつもの部室。現視研メンバーがいつの間にか集まって、ただ言葉を交し合う。慣れた場所の慣れた毎日のこと。 でも今日は行きたくない。 部室に、彼女がいるかもしれない・・・。 今日はまだ、会いたくない・・・。 昨日ことを思い出すと、斑目は気が沈んだ。胸の奥に石が埋まっているような、声も出ない気持ちなる。 『あれから』家に帰る道で、何度も恵子と交わした会話と表情を思い返した。 その度に、気がひどく滅入った。 自分の体を新聞紙でも引き千切るみたいに、ズタボロに引き裂いてしまいたくなる。 情けないことをした。女の子と一緒に楽しく過ごすこともできないのが情けなくて、格好悪かった。 だがそれよりも、自分が何か淡い期待のようなものを抱いていたことが恥ずかしかった。 恵子が素っ気なく歩いて行くのを、寂しいなんて思っている自分が、滑稽にしか思えなかった。 むず痒くて堪らなくて、思わず身震いして、慌てて家に歩き出したんだ。 でも、また今もこうして昨日のことを考えている。 自嘲が漏れた。 (ナニ柄にもないこと考えてんだよ・・・。キモイっての・・・。) 帰り道、恵子の言葉がずっと頭に響いてくる。 『やめてよ、そゆこと言うのさ…。』 車の音も街の雑踏もない恵子の声が斑目の頭の中で反響する。 『スゲーオタクっぽい。』 (そう・・・、そんで・・・。) 『……キモイよ。』 「ふはは・・・。」 小さい笑い声が口からこぼれ落ちた。その言葉を再生する度に、斑目の薄っぺらい胸は重くなった。 でも、気が付けばその言葉を何度も、繰り返し、自分に浴びせている。 (マジでマゾに目覚めたかな・・、つってね・・・。) 最初は笑って受けとめていた。『そりゃそうだ』、『当然だよ』、『オタクなんだしさ』って。 それが斑目のいつものやり方になっていた。こんな心が痛いときには、いつだってそうする。 無神経に咲を泣かせて、何にも出来なかったとき。偶然から一緒に食事をして、どうにもならない気持ちがもどかしかったとき。 いつだって、どこからかやって来た笑いが口から漏れた。 でも、本当は笑うしかなかったんだと、斑目は気が付いた。 胸が重くて、歩けなくなっていた。 住宅街の、遠くにパチンコ屋のネオンが見える道の真ん中で、じっとしている自分に気づいた。 擦れるくらい近くをピカピカのワンボックスカーが通り過ぎてても、体は動いてくれない。 夜の住宅街の道は、家の窓から暖色の蛍光灯が漏れているくせに、人っ子一人いない。 歯科の広告が張り付いた電信柱に手をついて、粉っぽい表面の汚れが掌にまとわりついて。 このまま家に帰ることが、どうにも堪らない気持ちだった。 座り込んでしまいたかった。 斑目は、またあの言葉を頭の中で繰り返す。 繰り返し繰り返し、自分に聞かせては確かめる。 自分は傷ついてなんかいない、ちょっとムシャクシャしただけだよ。 ただの悪口だよ。俺が嫌いって意思表示。でも別に平気なんだよな。俺も何とも思ってない。 慣れていないから、ちょっと勘違いしただけなんだよ。 やっぱり・・・、笑うしかなかったんだよな・・・。 「お、どうした? お昼行かないの?」 教育係の先輩が、座ったままの斑目に声をかけた。時計はもう12時を回っていた。 斑目は、自分の顔が石膏で固めたみたいにギチギチに強張っているのを感じた。目の疲れをほぐすフリをして、慌てて顔に手をやった。 「あ、はい。そうっすね・・・。そろそろ行きます。」 何事もなかったように、愛想笑いを先輩に向けて席を立つ。 手を当てて肩を回すと、ゴリゴリと音が鳴った。 「斑目君て、昼っていつもどうしてんの?」 「たいがいコンビニですね。買ってその辺で食べてます。」 ふ~んと先輩が唸る。すると、少しためらいがちで、彼は後輩を昼に誘った。 「たまには、一緒にメシいくか?」 「いっすね。どこかいいとこありますか?」 ほとんど反射的に斑目は応えていた。スーツの上着に袖を通す。 先輩は安心した様子で、『でもオゴリじゃねーぞ』と付け足した。 斑目はホッしていた。部室に顔を出さなくていい理由ができて。恵子と会わなくても仕方ない理由が出来たことに安堵した。 恵子と顔を合わせるのが、本当は怖かった。 きっと、何事もなかったように笑ってる恵子を見るのが怖かったのかもしれない。 会社の外は、空の底まで見るような青空が広がっている。遮るものは何もないのに日差しに夏の厳しさは無かった。 先輩の後をついていく。いつもは曲がるはずの道をそ知らぬ顔で通り過ぎるのが後ろめたかった。 斑目は心の中で呟く。 仕方ねーさ、仕方ねーんだよ、と。 それが、斑目が部室に来なくなった日の出来事だ。(北の国からの純の口調で) 雨が降るのはいつものことで、今日その日も雨が降っている。 建物の古さを誤魔化すために塗られたやたらツルツルした外壁塗装を、雨水が這う。 溜め込んだ汚れを洗いざらい洗い落として、それでも外壁は曇り空にくすんでいた。 風の無い雨の日であったので、学内には傘を差す人が行きかっている。しとしと降る雨の中で話す人もいたが、大抵は靴や服、 または髪の毛が濡れるのを嫌がって建物に次々と吸い込まれていった。 そういった意味で、サークル棟も賑わっていた。各部室は雨の寒さを嫌ってしっかりと閉じられていたが、中から聞こえる声はいつもより大きいようであった。 しかしながら現視研の部室はというと、比較するに少し寂しい入りであった。 会長の大野は奥に座って最近のコスプレイベントの写真を広げている。咲が傍らで一緒に写真を見ているが、 下手に褒めるとまた執拗な勧誘攻撃に晒されるので、あくまで控え目な感想に止めている。 大野はそれが大いに不満なのであった。 「あー! コレ! 見て下さいっ、かわいいでしょ~?」 「うん…、そだね。」 なるべく目を合わせないように視線をコントロールする咲に、大野はしつこく写真を割り込ませてくる。 「ほら~、これなんかどうですか? あー、このコスいいな~。私こういうの似合わないんで羨ましいんですよね~。」 「へ~…、大野ならたぶんどれ着てもかわいいよ…。」 「着れなくはないんですけどね~、どうしても内面までは表現し切れないんですよ。こういうお姉さんキャラはなかなか奥が深いです!」 咲をガン見する大野であったが。 「そういうもんかねー…、私にはわからないですよ。」 咲は適当に写真の束をペラペラとめくっているだけで、躊躇なく大野の切なる願いを袖にしていた。申し訳ないという気すらないのである。 雨のせいで音響性の高まった部室に大野の唸りが、地の底からの声の如く響いた。 笹原はいつものように読書で耽っている。ただし、苦痛を伴う意味での読書だ。 決してマンガやライトノベルやコバルト文庫やゲーム誌を読んでるわけではない。笹原が持ち難そう手にしていたの卒研用の資料であった。 念願の内定を得て編集者への一歩を踏み出し、荻上との恋も成就してラブラブな毎日を謳歌しているわけであるのだが、 ここらで棚上げにしていた卒研に本腰を入れなければと意を新たにしていた。 卒業して荻上と会う機会が減るのは口惜しいこと山の如しではあったが、留年しては内定を求めて彷徨った就職活動の地獄の日々が無駄になる。 というわけで久々に真面目に学生をしてるのであった。 とはいえ、ちょろっと読んで早くも眠くなってきたのだが…。分厚い資料はムズカシ語の羅列で成り立っており、わが世の春を満喫している 笹原にはヒトキワ落差が大きく感じられる。また加えて、昨日の夜も荻上さんとナニしてアレしていたわけであり…。昨日というか、ここのところ 暇を見つけてはアレしたりコレしたりばっかりであることは否定しようのない事実であるので、ぶっちゃけて寝ていない。 ある意味、寝てるけどね・・・。 むにゃむにゃ・・・。 笹原の手を離れた本が、喝っっ!!とばかりにけたたましく机を打った。 「おおっ!」 「あ…、ごめん。ぼーっとしてたよ、ハハハ…。」 自分の自堕落な日常生活を悟られまいと苦笑いで本を手に取る。幸い、大野も咲もさして気にしていない様子である。 (笹原さん眠そう…。寝てないのか…。うふふ…。まーそんなもんですよねー。うふふ…。) (ササヤン…、楽しいか…、そーか、よかったなあ~…。) バレバレでした。 ふと、笹原は携帯を取り出した。しかし、メールの着信があったわけでも、メールを打つでも電話するでもなく、またすぐにしまった。 窓の外ではまだ雨が降っているようだった。 「荻上さん遅いですねえぇ~…、うぅ~ふふふ…。」 大野がニヤニヤして言う。笹原は苦笑いで返した。 「いや、ま、そーじゃなくて。今日も斑目さん来なかったなぁ、って。」 「あ、あー…、そうですねー…。」 大野も携帯を取り出して時間を見る。ミシンに向かう田中の待ち受けの隅に、1時を10分ほど過ぎた時刻が表示されている。 「来ませんでしたね、斑目さん…。最近見ないですよね…。」 「そーだなー。」 咲は写真を机に放って、視線を中空に漂わせる。本棚の上にゲーム機やフィギュアやプラモの空箱が無造作に積んであった。 火事の原因となる大掃除で片付けてから、また随分溜まってきていた。 「忙しいのかな? あれで意外と…。」 咲が言った。笹原も大野もう~んと唸ったきりで言葉が出てこない。 事務職の斑目が昼も食べられないほど忙しいはずがないのは皆わかっていたが、はっきりと言い切るのは何となく避けたかった。 「メールとかしてみました?」 大野が笹原に問いかける。笹原は小さく首を振った。 「してないねぇ…。そのうち来ると思ったし…。」 「今してみたら?」 「そーねぇ~。」 咲の提案に、笹原は同意して携帯をジーンズの窮屈なポケットから引っ張り出した。 「止めとけよ。仕事中にメールしたって返ってこねぇって。」 少し離れた席にぽつんと座っていた恵子が言った。ギッチリと腕組みをして、机の上に広げたファッション誌を眺めている。 その様子は何だか囲碁でも打っているかのようで、少しジジ臭かった。机の上に底の深い大き目のバッグが乗っかっていた。 「来たくなったらそのうち来るだろ…。」 「あ~…、まあね~…。」 「それはそうですけどね~…。」 恵子の正論に、笹原も大野も名残惜し気に言葉を濁す。掌の携帯は鈍い発光の省電力モードに切り替わった。 「アイツも社会人なんだし、向こうの付き合いってのもあんじゃねーの?」 視線を雑誌に向けたまま、恵子はきっぱりとした口調で言う。それは腕組みのポーズと合わさって奇妙な風格を恵子に纏わせていた。 笹原は携帯の重みに耐えかねて、腕を机に落とす。大野も右手の指で左手の指先をいじくるばかりで上手いこと反論のしようも無かった。 静かに成り行きを見守っていた咲が言った。 「でもさ…、気になるだろ…? 急に来なくなると…。お前気になんない?」 力の抜けた上体を咲は恵子に向ける。恵子は表情を抑えつけるように口元を歪ませた。 「別に…、なんないけど?」 声にさっきまでの鋭さはなくなっていたが、咲はそれに触れるのは底意地が悪いような気がして、短く相槌を打った。 「あー、まあ…。」 「そー言われると言葉が無いですねえ…。」 「カワイソウだな、斑目さん…。」 「フツーだろ、別に…。」 恵子の言葉に鋭さが戻っていた。 笹原と大野は顔を見合わせて苦笑して場を和ませる。そして笹原の携帯は再び窮屈なポケットに押し込まれた。 「ま、夜にでも電話してみたら? 案外マジで忙しいのかもよ?」 「それが良いかね…。」 曖昧に笑って笹原は資料を手に取った。大野も広げ放題に広げた写真を大野なりの分類方法で整理し始めた。 咲はひとつため息をつくと、本棚の少女マンガを適当に見繕って開いた。そうしながら、咲は視界の隅の恵子を見る。 先程からの変わらぬ姿勢のまま、彫像のようにファッション誌のモデルを凝視している。 恵子の手が動くのは、時たまページをめくる時だけだ。それも、なかなか稀にしか起こらない。 咲もまた、同じページをいつまでも読むことになった。 薄い雨雲の向こうがほんのりと日の光に滲んで、雨はしとしとと空からしたたり落ちて校舎を濡らしている。 今にも止みそうな弱い五月雨は、晴天が透けて見えそうな雲模様とは裏腹に降り続けた。 もう、濡れたばかりのアスファルトが放つむっとするような埃っぽい悪臭も流されて、学内は夜のように寒かった。 部室の窓ガラスを雨水が落ちる。濡れたガラスの外側と曇り空が、窓に貼られたくじアンのアニメ絵ポスターをよりくっきりと浮き立たせる。 外は雨でびしょ濡れなのに、ちっとも意に介さず微笑んでいるケッテンクラート会長が、少し奇妙な感じを醸し出していた。 笹原も大野も部室を後にし、いつの間にかそこには咲と恵子が残されていた。 二人は机の両端に向かい合わせで座っている。 「・・・あんさ。」 咲が言う。 「あんた何かあった?」 咲は手にしていた単行本を自身のヘソの上に乗せて尋ねた。恵子はまだファッション誌を開いていた。 「・・・何ソレ?」 恵子はパイプ椅子に座り直す。ずっと座りっぱなしでお尻に鈍痛を感じていたし、腰も少し痛かった。両肘を机の上に乗っけて、体重を分散させる。 そのとき少し背中を丸めて、咲を視界の外に追い出していた。 「別に何もないけど・・・。」 素っ気無く恵子は応える。咲はそれを聞いても単行本に視線を戻すことはなかった。少しう~んと唸った。タイミングを計っているようだった。 「うんとさ・・、けっこう久しぶりに部室きたじゃん? そのわりに元気なさそーだったから・・。」 恵子はわざとらしくページをめくった。気にもしていないふうを装いたかったから。 視線が一瞬、自分のバッグを舐めた。 「・・・そーでもないよ。」 「どっか具合でも悪かった?」 「元気だよ。」 う~んと唸る代わりに、咲はへ~と間延びした声を発した。 端の黒くなった蛍光灯が部室の真ん中を鮮明に照らしているが、窓から雲が忍び込んできたようで、部室は何となく薄暗かった。 咲は次の言葉を模索して恵子を見つめている。恵子には咲の顔は視界の外であったが、咲の手が作る表情は否応無く目に入った。 恵子が言った。 「何でそう思うの?」 咲はちょっとだけ驚いて、また言葉を探して唸った。 「あ~・・、何だろ? 全体的に?・・そんな感じだから。」 「そー・・・。」 咲には似合わない、自信なさ気な言葉だった。 「お前らしくない感じ。テンション低いし、コーサカのことも何も訊かないし。」 今度の理由には少しだけ自信が滲んでいた。咲は恵子が部室に入ってきたときのことを思い起こしていた。 いつもは真っ先にコーサカを探して、居なければ口に出して尋ね、いよいよ居ないとなると不満を口でも体でも表した。 今日の恵子は挨拶こそいつも通りであったが、部室を見渡すとすぐに手近な席に腰を下ろしていた。 咲は心の中で小さな覚悟を決めて尋ねた。 「コーサカに、何か言われた・・・?」 咲はムズムズするような感覚を背筋に覚えた。もちろん真面目に真剣に恵子の様子を心配しているのだが、 自分の彼氏とそれを狙う女の仲について気を揉むのは少しヘンだとも思った。 恵子は机に覆い被さるのを止めて、背もたれに体をあずける。雑誌を手前に引き寄せた。 「別に、最近会ってないし。」 続けて恵子は言った。 「それに、高坂さんのことはもういいよ。」 咲はしばらく沈黙して、考えを整理した。 「あ、もういいって・・・?」 「だからもういいの。ねーさんにアゲル。」 (アゲル? あげる…、あげるってか…?) 咲はその短い日本語を何度も暗唱した。それこそ今まで何度も恵子をコーサカから遠ざけようとしたくらいには暗唱した。 負荷のかかった脳が排熱するために、咲に大きく深呼吸することを要求して咲は従った。恵子はそれを見てもクスリともしない。 咲は行き酔いよく叫んでやった。 「あげるって、もともと私のモノだよ。コーサカは!」 冗談めかして応えたものの、恵子はノーリアクション。釣れない…。 笑うでもなく、照れるでもなく、無表情で座っている。咲は萎んでいく自分の笑い声を寂しく聞いた。 気を取り直して咲は言った。 「また何で?」 「・・・まあ。」 恵子はまた自分のバックに、一瞬、目をやった。 「・・・・・・。」 「まあ、そろそろ潮時かなって。」 恵子の言葉に、咲の目が鋭く尖った。嘘をついているのが、どうしてか咲にはハッキリと分かってしまった。 別に何の根拠があったわけでもなかったけれど、確信に近い自信を感じていた。 咲は改めて恵子をしげしげと見つめる。恵子は机の端っこで、だらりと椅子に寄りかかっている。そのくせ顔は剛直したように張り詰めていて、口は堅く閉じていた。 決して自分に視線は向けないで、雑誌の一点を見つめているようだった。恵子の目はぼんやりと開かれていたが、瞼は瞬きを忘れていた。 「・・・なんかあったんでしょ? 躊躇いもあったが、咲は訊いた。結局は、咲は恵子がかわいかったのだ。 咲に妹は居なかったが、恵子に対してそれに近い感情を覚えていた。 咲は恵子の方へ椅子を引きずった。 「私には言いたくない?」 咲の声を聞いただけで、恵子には咲がどんな顔して自分を見ているのか分かった気がした。 咲の声は、押し付けがましくも、軽薄でもなくて、頼もしくて優しい。咲の手は袖からのぞいた自身の肘を抱きかかえていて、 その手も肌もうっすらと赤みを帯びて、本当に美しいと恵子は思った。 「私は言って欲しいんだけどね・・・。」 照れたように咲が言った。その言葉は恵子の目の底をグイっと掴んで、そのまま喉の奥まで落ちていった。 恵子は耐えられなくて口から言葉を吐き出した。 「・・・ねーさんてさ・・。」 「ん・・?」 口を手で抑えてしまいたかったが、手はパイプ椅子を掴んで動いてくれなかった。 「・・・ねーさんて、スゴ過ぎんだよ・・。」 「・・・。」 咲は声もなく恵子を見ていた。 「・・・ねーさんて、すげー・・、カッコいいし・・・、キレイだし・・、優しいし・・、頼れるし・・。」 恵子は顔を伏せた。 「頭よくて、面白いくて、話しやすいくて、かわいくて、なんか・・、すげー・・・、ちゃんとしてて・・、芯があるっていうか、立派だし・・・。」 「そんなことねーよ!」 咲は軽く笑ったが、静か過ぎる部室にその声は痛々しく響いた。咲は自分の表情が脆く剥がれ落ちていくのを感じて、自分の言葉を後悔した。 恵子の唇がわなわなと震えて、いつもは大きく笑っているはずの口が歪んでいた。 「アタシみてーな・・、バカな小娘じゃ・・、どうにもなんねぇよぉ・・・。」 恵子の瞳から大粒の涙が零れた。涙は頬を走ってから恵子の服を濡らした。あるいはそのまま宙に躍って、雑誌のモデルの肌をシワくちゃに滲ませた。 恵子は声を出して泣こうとする自分の体を必死に抑えつけようとしたが、もうどうにもならなかった。 後は咲に泣いている顔を見せないように机に突っ伏して、両腕で覆い隠すことしか出来なかった。 泣き顔を咲に見られるのは嫌だった。 「・・・クソ・・なんで・・うまくいかねぇんだよぉ・・。恋愛なんて・・・・・簡単だと思ってたのになぁ・・・・。」 自分の口から零れた言葉を聴いて、恵子はまた声を上げて泣いた。 泣きながら、何で泣いてしまったのか、思いを巡らす。原因が心に浮かびそうになると、恵子は怖くて、また涙を零した。 咲はどうしていいのか分からずに、見ていることしかできないでいた。 恵子が泣いている。 頭に浮かぶのはコーサカのことだが、ならば一層、自分が何か言ってはいけないと思う。 咲に唯一できたのは、ハンカチを泣き伏している恵子の前に置くことだけだった。恵子にハンカチが見えないのは分かっていた。 雨が降っていて、恵子が嗚咽を漏らしているのに、部室は余計に静かで居たたまれない。 視線を外そうと思っても目は動かず、席を立つことも無理だった。 咲は自分が恵子に涙を流せたことが、とても辛かった。 不意に恵子がゆっくりと立ち上がった。 化粧がぐずぐずに崩れていて涙の通り道がはっきりとしていた。目の周りの皮膚が紅くなって、まるで子供の顔のようだった。 咲が何かを言う前に、恵子はさえぎるように言った。 「ごめんね・・・。いきなり・・泣いちゃって。ねーさん、気にしなくていいから・・・。」 咲は何か言いたかったが、やっぱり何も出てこなかった。 「ごめん・・。もう帰るわ。」 言うや否や恵子は自分のバッグを引っ手繰って部屋を飛び出していった。 咲は腰を椅子から浮かせたままで恵子を見送っていた。立ち上がろうにも、追いかけようにも、心がついて行かなかった。 小さく音を立てて、再び椅子に体をあずける。パイプ椅子が軋んで鳴いた。 「・・・何だよ、・・・それ。」 そう言うのが精一杯だった。 恵子は備品が並んだ狭い通路をバッグをぶつけながら縫うように歩いた。 すれ違う人に顔を見られないように手首を鼻先にあてがう。そうしていてもまだ涙が零れていた。 階段を降りたところで、小さな人影が出会い頭に前に立ち塞がった。 荻上だった。 「あ、あれっ? どうしたんすか?」 反射的に相手を見ようとした恵子の瞳を、荻上が驚いた表情で見ていた。 「何でもない。」 短く言って、恵子は荻上の横を走り抜けた。荻上が追いかけてくるかもしれないと思ったが、振り返らずに走った。 サークル棟の外は雨で、コンクリートもアスファルトも黒い灰色に変色している。 恵子は唇を噛み締めてバッグの中の折り畳み傘を探った。 恵子の手が止まった。 バッグの中の、包装紙に包まれた長くて薄い箱が恵子の手に当たっていた。包装紙を雫が濡らした。 口元を歪ませて、恵子はそれを掴むと、少し離れたクズカゴに投げ捨てた。 箱は雨ざらしのクズカゴに中に落ちていった。 悔しいくらいに見事。 包装紙はすぐにぐしょぐしょに濡れて変色して、薄汚いゴミに変わった。 昨日から降り続く雨は今日もまだ止みそうにない。雨水を十分に蓄えた土と樹木と建物が冷気を放っている。 この雨で一気に夏は南の彼方に逃げ去って、かわりに秋がいよいよとばかりに腕を振るっていた。 斑目は紺色の布と黒い取っ手の紳士傘を差して久しぶりに学内を歩いていた。 傘を持っていない方の手には例によってコンビニのレジ袋を持ち、中身が雨に濡れないように手を胸元に引き寄せている。 斑目は水溜りを避けつつ歩いていく。それでもズボンの裾は跳ね上げた雨水に濡れていて、革靴も水が染み込んでつま先が少し冷たかった。 今日、斑目が部室に顔を出す気になったのは笹原からの電話のせいではなかった。 会社の終業時刻が近づいたころに咲からメールが届いた。内容はごく簡単で明日は部室に顔を出して欲しいというものだったが、 メールの最後におまけのように、ちょっと相談があるとあった。 返信メールで相談内容について訊いてみたが、長くなるから明日話すと返ってきた。こういうのは、斑目は苦手だ。 恐らく高坂のオタク趣味について、というのが斑目の予想である。今まで咲からの相談事は大抵その内容であったし、 自分にアドバイスできるのもその事だけだったのもあった。 何にせよ、斑目はこういうのが苦手だし、咲と顔を合わすのもちょっと気まずかった。恵子が明日来るのか訊きたかったが、 咲に分かるはずもないし、ダサいので止めた。 咲は意外にも部室ではなく、その前にある喫煙所に立っていた。木製のベンチは水を吸って茶色い汁を分泌しておりとても座れたものではなかった。 「あれ? またタバコ吸い始めたん?」 久しぶりのせいで、少し照れくさそうに斑目は言った。 咲の表情は暗い。手にタバコは持っていなかった。 「ま・・、部室だと話しにくいからね。」 「あー、そうすか…。」 「今日はこっち来て大丈夫だったの?」 「うん、ま、別に…。この頃は先輩に昼メシ誘われてたんだけどね。」 「そーかい・・。」 咲は先に立って人通りの少ないサークル棟の隅に斑目を連れて行った。斑目は傘をギュルギュルと巻き上げて素直に後に従う。 適当に周囲の人気を咲は窺う。やや緊張して、斑目は咲が話を切り出すのを待った。 「最近さ、恵子と話した?」 斑目は声が出そうになった。 咲の様子からタダナラヌ雰囲気を感じてはいたが、思ってもいない名前を持ち出されて背中を殴られたように息が詰まった。 「最近よく話すって言ってたじゃん? 一番最近会ったのっていつ?」 神妙な表情の咲に、斑目は脳は混乱を極めた。一つの疑問が頭の中をオーバルコースを走るレーシングカーの如く駆け巡った。 (ど、どこまで掴んでいるんだ?) 質問の答えを導き出すに当たってそれは極めて重要な問題であった。が、咲の表情は固く、意図を読むどころではなかった。 「あぁーと…、前に、部室に顔出した日かな…? それからは会ってない…。ていうか他のヤツとも会ってないな…。」 咲は神妙な表情を崩さず、口元をいびつにひねった。斑目の額から冷や汗が滲み出ていた。 咲は言った。 「そんときって、私も居たときだよね・・?」 「ああ…、そーだったかな…? たぶん…。」 咲は傾げた首の角度を何度か変えて、そしてその度に口をひねって声にならない呻きを漏らした。 斑目は傘から雨粒を振り落としながらその様子をじっと見ていたが、無言に耐えかねて咲に尋ねた。 「あんさ…、どうかした?」 咲はひねった口元を緩めて、少し目を開いて言う。 「うん・・・、ちょっと・・。」 咲の表情に、斑目は徐々にに混乱から醒めていった。こういう顔の咲を見るのは、咲を泣かせてしまったあの一件以来だ。 「あー、んと・・。」 斑目は声の調子を整える。 「それって・・。」 「あのとき私なんか恵子に言ったのかなぁ・・・。」 斑目の言葉を遮って咲は言った。斑目は咲の言っている意味が分からない。 「いや、別にフツーだったと思うけど・・。よく覚えてないけどね・・・。」 「うん・・・。」 咲は俯いて黙ってしまった。斑目は少し体を屈めて咲をのぞき込んだ。 「・・・どーかした? 何かあった?」 固く閉じた咲の唇が躊躇いながらも開く。小さく息を吐いて、咲は話し始めた。 「昨日なんだけどね・・・。」 「うん・・。」 「けっこう久しぶりに恵子が部室に来たんだけど・・。」 「・・・。」 「最初はササヤンとか大野もいてワイワイいつも通りだったんだけどさ、恵子がなんか元気なかった気がしたんだよ・・。  そんで私、他の奴らが出てったあとに恵子に聞いてみてんだけどね・・・。」 斑目の体はビリビリと少しだけ震えた。 咲はそこで言葉を詰まらせる。促すように、斑目は相槌を打つ。その声も少し震えていた。 「うん・・・。」 「そしたら、アイツ急に私のこと褒めだしてさ、いろいろ・・・。そんでなんか・・、アイツ、急に泣き出したんだよね・・。」 斑目は目の前が真っ暗になった。 真っ暗になってしまって、濡れたつま先がひどく冷たかった。 体が内側にギリギリとねじ込まれるように痛くて、座り込んでしまいたかったが、膝がギプスを嵌めたみたいで動けない。 咲の顔も見えないし、声も聞こえなかった。 「コーサカにそれとなく訊いたんだけど、最近会ってないって言うし・・。ササヤンに言うわけにはいかないからさ・・。」 「・・・。」 「斑目は何か知らない? 私、恵子にヤなことしたかな? ・・・って言うかずっと、気付かないで何かやってたのかな・・?」 咲の声は雨に濡れたコンクリートと同じぐらい冷え冷えとして寂しげだったが、斑目の頭の中でその質問の答えはすぐに出て、咲の声もすぐに消えた。 斑目は言った。 「春日部さんのせいじゃないと思うよ。」 斑目の口調はきっぱりとしたものだったが、自分のせいとは言わなかった。斑目にそう言う自信はなかった。 斑目にあったのは、恵子が泣いたということと、自分にはそれを防ぐことや事前にその兆候を察知することが出来なかったことへの落胆だった。 自分という人間がどうしようもなくつまらなく思えて仕方がなかった。 「ごめん、わかんねぇ・・・。」 斑目はそう言ったきりで、あとは何かを台無しにしてしまったという思いが食欲も何もあらかた持っていってしまっていた。 軽く手を上げて、斑目は咲と別れた。咲は斑目に捉え所のない相談をしたことを謝ったが、斑目は無言だった。 上って来たばかりの階段を下っていく。一段下りるごとに食べる気にもならない昼食が斑目の腿を打つ。 ガラス戸を抜けて外に出る。雨音がして、やたらと静かだった。雨と昼時のせいか、人影はない。自分だけがぽつんとそこにいた。 「仕方ねぇ・・、仕方ねぇって・・。」 またいつものように呟く。咲を好きになってからずっとそうしてきた。そうやって誤魔化してきた。 いろいろな理由をつけて、いつもそう呟く。傷つくのを怖がって、傷ついているフリをする。 そういうことに慣れてしまっていた。 「斑目さん。」 驚いて振り向く。声をかけたのは荻上だった。 「あ、荻上さん。こんちわ。」 「久しぶりですね、部室に顔出すの。」 荻上は斑目の目を真っ直ぐに見据えていた。斑目はたじろいで目を逸らした。 荻上は言った。 「春日部先輩から聞きましたか? 恵子ちゃんのこと。」 斑目はドキリとしたが、愛想笑いで誤魔化した。ほとんど反射的にそうしていた。 「はは・・、まあね・・。ちょっとビックリしたね・・・。俺にはよくわからんけど・・。」 荻上の表情に目をやる。荻上は真っ直ぐに自分を見据えている。 少し光を宿した黒い瞳が刃のように爛々と光っていた。 「そうですか。」 荻上は短くそう言うと、背負ったリュックを下ろして中をガサゴソとまさぐった。 リュックから手を抜いたとき、荻上はグシャグシャの包装紙に包まれた物を握っていた。 「どうぞ。」 荻上はそれを差し出す。 斑目は訳も分からずに受け取った。 「何、これ?」 荻上はまた斑目を見据えていた。 「昨日、恵子ちゃんがゴミ箱に捨ててました。部室に行ったら春日部先輩が事情を話してくれました。」 斑目は受け取った物にまじまじと見つめる。 包装紙は一度濡れて乾かしたようでシワくちゃだった。また包装自体もヘンテコに崩れていた。 「すいません。悪いと思ったんですが、中身を見ました。紳士物のネクタイです。」 斑目の背中に一瞬、熱いものが走った。 荻上は続ける。 「ウチでそういうネクタイをするのは、斑目さんだけですから。」 斑目は箱の感触を確かめる。ボール紙の箱も水を吸ったようで、ところどころ、握っただけで容易くへこんだ。 斑目は大事にその箱を握った。 「斑目さん。」 荻上は少し顔を上気させて言った。 「斑目さんは受けです! それも総受けです!」 「何言ってんの?」 「真面目な話ですっ!!!」 荻上は一喝した。 「メガネくんは受けが基本なんですっ!!!」 ますます上気させた顔で荻上は言う。顔を真っ赤にして筆を尖らせている。斑目は圧倒された。 「そういう意味で斑目さんは受けです!!」 「うん・・・。」 「でも、受けでも、恋愛には攻めなきゃいけないときもあるんですっ!!!」 荻上は一つ息をついた。 「ちゃんと恵子ちゃんの気持ち、わかってあげて下さい!」 そう言うと、荻上はまたひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。自分の言ったことの恥ずかしさに一層真っ赤に赤面していた。 斑目は自然と笑っていた。 「すいません。差し出がましいことを言いまして…。失礼します。」 「ちょっとごめん。」 斑目はすっきりとした顔をしていた。今度は斑目が荻上を真っ直ぐに見ていた。 「部室って誰かいる?」 「ええ…、大野先輩とか、高坂さんも、笹原さんもいますけど…。」 「そう…。」 斑目は大きく息を吸って、グッと体に力を込めた。 「んじゃ、俺、春日部さんに話あるから、部室の奴らがこっち来ないように見張っといて。」 荻上は目を白黒させている。予想外の展開になったことに困惑していた。 「?? はあ…、いいですけど…。いや、そうでねぐて、私が言いたかったのは恵子ちゃんを…。」 「いや、わかった。みなまで言うな。」 斑目は掌を広げて荻上を制すと、足取りも確かにサークル棟の中に引き返した。 荻上も引きずられるようについて行く。 「あんがと、荻上さん。」 「はい?」 「助かったわ。」 「! ならいいです…」 荻上は自分の心意気的なものは伝わったようなので大人しく部室に戻った。 荻上は思った。 自分と笹原とが付き合う契機になった合宿を企画してくれた恵子に、少しは恩返しができたのだろうか? 斑目は腹を決めて歩く。できるだけ早足で、決意が鈍らないうちに咲の前に行きたかった。 サークル棟の隅、咲はまだそこに居た。打ちっぱなしの冷たい壁に体をあずけている。 咲は驚いて壁から体を起こした。 「どしたの? なんか思い出した?」 期待するような咲の声を、斑目は曖昧な返事でいなして近づいていく。 「いや、まあ・・、さっきの話とは、関係ないんだけどさー・・。」 「あーそう・・。」 咲は明らかに気落ちしたふうで、一瞬怯みそうになる。でも、ここで逃げるわけにはいかない。 斑目は一回目を閉じてもう一度気合を入れた。 「あんさ・・・。いきなりこういうこというのも何なんだけど・・。」 「あに?」 「俺と付き合ってくんない?」 声も若干ヘンだったし、言葉を選ぶ余裕もなかったが、意外にすんなり言えたことに斑目は自分でも驚いていた。 でも、咲のが確実に驚いていた。目が点になっていた。 「・・・マジで?」 「うん・・・、マジ。」 咲は通路を見回した。 「や、ドッキリじゃないって・・。ほんとに、マジで。春日部さんのこと、す、好きだから、俺と付き合ってくれ。」 急に咲の顔が真っ赤に染まった。 「え、え? ちょっとまって。何でそうなるの? すごい、急なことでビックリしてんだけど・・。」 「ごめん・・。でも、俺、もうずっと春日部さんのこと好きだったんだよね・・。高坂いたし、言えんかったけど・・。」 斑目は照れながらもしっかりと咲の目を見ている。斑目の告白が冗談でも嘘でもないことが咲にも分かった。 それだけに咲は、斑目を見ることができないでいた。 「なんか・・・本気だっていうのは、わかった・・・。」 「それで・・?」 咲は言葉に詰まった。体中から汗が噴き出して、再び混乱が頭を支配した。 「えぇ~、ちょっと・・・、なんか、今すごい、わけわかんないから・・。急かさないでよぉ~。」 目をグルグルさせて、咲は頭を抱えた。なんでこんなことになったのかさっぱり分からなくて、とにかく焦って、 さっきまで寒かったはずなのに今はどうしようもなく暑かった。 (恵子の心配をしてたはずなのに、何でこんなことに? わかんない~。全然わかんないィ~。) 斑目は緊張の面持ちで自分を見ている。どうしよう。ますます焦る。 「春日部さん?」 「なにっ?!!!」 過剰なリアクションに斑目もビビった。 「いや、ごめんね・・・急で。」 「うん・・。今かなり驚いてる・・。」 それが偽らざる本音だった。 「でさ・・、俺と付き合ってくれるかな?」 攻めの斑目に咲きは困惑してしまう。らしくない、押しが強い。 「それは・・・、何て言うか・・。私にはコーサカいるし。コーサカのこと好きだし・・。」 「うん・・。」 「斑目はいいヤツだと思うし。一年のころは・・、まー、馬が合わなかったけど・・。世話にもなったしさ。迷惑もかけてフォローしてもらったりとか・・。」 咲は少し俯いて、丁寧に言葉を紡いだ。今までのことを思いこしながら。ケンカもしたり、マジでぶっ飛ばしたこともあったり。 助けたり、助けてもらったり。新人会員を追い出したり、火事を起こしたりで、迷惑をかけたりもした。コーサカとのことで相談に乗ってもらったことも何度もあった。 もしかして、その度に斑目は傷ついていたのかもしれない。それでも斑目はおくびにも出さずに相手をしてくれた。 振り返ると、現視研メンバーで一番言葉を交わしていたのは斑目だった。 突然の告白は、驚いたが嬉しくもあった。 でも、自分が好きなのはコーサカで、嘘はつけない。斑目の気持ちに応えることはできなかった。 咲は言葉を探す。今までの斑目との関係は失いたくなかった。 「斑目の気持ちは、けっこうっていうか・・、正直嬉しかったけど・・。私はコーサカと付き合ってて・・。」 「春日部さん・・。」 斑目は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。 咲は斑目の顔を見た。 「フるならもっとはっきりフッてくんない? グチグチ言ってないで。」 「は???」 咲は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。それがどんな顔なのかは、永遠にわかるまいっ! 「え、今なんて?」 「うん、だからさ。気を使ってくれるのは嬉しいけど、ぶっちゃけ俺をフるわけでしょ?」 「あ~…、そーですけど~……。」 「ならもっとスッパリやって欲しいんだよ。何か、いい人だけど~、みたいんじゃなくて。」 斑目は快活な笑顔を見せる。 咲はフツフツと怒りがこみ上げてきた。 「ちょっと待て~~~!!! お前は私が好きなんだよな?」 「そうだよ。本気で好きだよ。もうずっと好きだったよ。」 「ならなんでそんな態度なんだ? やっとのことで告ったんだろ?」 「まー、やっぱり中々言えないよね。俺なんか春日部さんの眼中に無いのはわかってたからね。だから、今日まで言えなかったよ。フラれるの分かってたからね。」 「だったら何で告ったんだよっ!!!」 斑目は急に真顔に戻って、少し照れくさそうに顔を掻いた。 「告んねーとさ、終わりにできねーじゃん? 終わんねーと・・・、次いけないからさ。」 咲はハッとして、そして小さく息を吐いた。頭の中で漸く全てが一本でつながった。 (なーんだ・・。そゆことですか・・。) 咲はクスクスと自嘲を漏らして、斑目を少しだけ見直した。 「まったく、私もニブいなあ~。」 「まあ、自分のことだと難しいだろうね~。」 「それもあるけどさ。」 「??」 咲はおもむろに深呼吸して斑目の正面に立った。 「んじゃ、スパッといきますか。」 「お、おう!!!」 咲は斑目を目を見据える。斑目は顔を赤くし、唾を飲み込んだ。覚悟を決めて望んだ斑目だったが、いざとなると流石に緊張した。 「私はコーサカと付き合ってるし、コーサカが好きだ。だから斑目とは付き合えない。悪い。」 その言葉は、やっぱりちょっとだけショックだったが、中途半端にフラれるよりは何倍もマシだった。 自分の積年に渡る思いが、見事なぐらいバラバラに砕け散って、言えずに悩んでいた情けない自分がいとおしい思えた。 咲を好きだった時間が無駄になったとは斑目は思えなかった。 「ははは・・、あんがと。こっちこそ悪かったデスヨ。」 斑目は照れ臭くて笑った。咲も同じだった。自分たちのやっていることが、青春マンガみたいで、妙に気恥ずかしかった。 でも気分は、スッキリとしていた。 「んじゃ、会社戻るわ。」 斑目は階段に向かって歩き出そうとして、咲が声をかけた。 「恵子のこと、頼むよ。次泣かせたらツッコミじゃ済まないからね。」 斑目は苦笑して振り返った。 「その手は食わないよ~。俺も成長したかんネ。」 咲のカマ掛けを見破ったまでは上々であったが、斑目の顔はいつにもまして赤かった。メガネが曇りそうなほどだった。 「ま、ならダイジョブだね。」 苦笑いを残して斑目は階下に消えていった。 部室へ向かう咲の足取りは軽かった。 「んじゃ行ってくる。」 恵子はそう言って、兄のサンダルを履いた。傍らには可愛らしいブーツがくたくたになって倒れている。 「いってらっしゃーーい。」 笹原はやや疲れた笑顔で恵子を送り出した。 恵子はそれを一目見てから、ドアノブに引っ掛けてあったビニ傘を取って部屋を出た。 外はまだ雨が降っている。 部屋を出て、忘れていた雨音に気付いた。昨日からずっと恵子は外に出ていなかった。 ビニ傘を開いて、雨の中に踏み出す。道に人影はなかった。 「つめて・・。」 恵子はそうこぼした。古い舗装路にはたくさんの水溜りが出来ていて、どれも恵子を罠にかけようと待ち構えている。 外灯に照らせれて白く光っては、サンダルを引っ掛けた恵子の素足を濡らした。 路上に駐車された車の横を通り過ぎる。黒く磨かれたミニバンの車体。窓ガラスに映った自分の姿に恵子は目をやった。 笹原から借りたジャージの上下に、後ろで結んだだけの髪。寝過ぎたせいか、泣き腫らしたせいか、顔はムクんでいる。 何の飾り気もない。化粧もしていなかった。ちっとも可愛くもキレイでもない自分がいた。 「きっつー・・・。」 そう言って、恵子は自嘲した。 (こりゃ、だめだわ・・・。) 恵子は携帯を取り出した。10時を回っていた。恵子はまた、ケンケンパでもするように雨の道を歩き出す。 近所のコンビニについて、500mlのペットボトルを何本かとスナック菓子、それとハーゲンダッツのアイスを2つカゴに放り込む。 剥き出しの千円札をポケットから出し、お釣のバラ銭をまたポケットに流し込んでコンビニを出た。 そこには思いがけない人が待っていた。 傘を差して、少し汗をかいた斑目がひどく驚いた顔をして自動ドアの前に立っていた。 昨日あれから、恵子は笹原の家に転がりこんだ。実家に帰る気力は残っていなかった。 その時にはもう涙は乾いていたし、化粧も直していたが、笹原は何か感づいてたようで、まだるっこしいやり方であれこれ詮索した。 恵子はそんなの全部無視して、さっさとシャワーを浴びてベッドに入った。笹原に少し悪いと思ったが、他にやりようもないと思った。 布団の中で、いろいろのことが脳裏をよぎったけれど、ひたすら考えないようにしていた。でも、出来るわけが無い。 斑目の顔も、咲の顔も、自分が口走ったことも、どれも苦痛を強いた。 捨ててしまったあのプレゼントのこと。 今頃、雨でずぶ濡れになって、その上からもゴミが放り込まれて、クズカゴの中でぐちゃぐちゃになってしまうのだと思うと、胸が潰れそうになった。 嗚咽が漏れそうになるのを必死にこらえた。瞼の隙間からまた涙が沁み出して、恵子は笹原に悟られないように寝巻きの袖で拭った。 気がついたら朝になっていた。 夢も何も見なかった。雨の音がしていて、まだ昨日にいるような気がした。 実際、恵子の気持ちはまだ昨日にいた。笹原が出ていった後もずっと部屋にいて、お腹も空かなかった。何度か眠って、また夜が来ただけのことだった。 半ば癖のように起きぬけに恵子は携帯をチェックする。 メールが2件。発信者は斑目だ。1件目のメールは、もう何時間も恵子が見てくれるのをじっと待っていた。 今日会えないかな?というだけの内容で、それだけなのに恵子の頭はぐちゃぐちゃになった。 会えないし、会うのが怖かった。会ったとしてもまたツッケンドンに振舞ってしまう気がする。 会いたいと言ってくれたことが嬉しかったが、同じくらい嫌われるのが怖かった。 今まで男と会うときにしきたように可愛くなりたいのに、斑目の前では上手くできない。どうしてなんだろう。 そのことを考えるのも、また同じくらい怖かった。 2件目のメールは見ないで、恵子はまた布団に潜った。 今度は眠ることができないで、ずっと布団の中で叱られた子供みたいに小さくうずくまっていた。 笹原がその内帰ってきて、そうそうに風呂に入ると何も言わずに本を読んでいた。 何度も恵子の携帯がブルブルと震えて、恵子がそれを無視していても、笹原は何にも言わないでいた。 「恵子、ちょっとコンビニ行ってきてくんない?」 それ今日初めて聞いた兄の言葉だった。トイレから出てきた恵子に藪から棒にそう言った。 「は? なんでよ。ヤダよ。」 恵子はそう言い返してさっさとベッドに戻ろうとした。ベッドの上に笹原は陣取った。 「頼むよ。俺、風呂入っちゃったから。風邪引いたらヤじゃん。」 ハンテンを羽織った笹原が情けなさそうに手を合わせる。恵子は戻る場所を失って突っ立っていた。 「自分で行けよ!」 恵子は無理矢理ベッドに押し入ろうとしたが、笹原も必死に抵抗したため敢え無くはね返される。 「いいだろー。泊めてやってタダ飯食わせてやってんだから! 行けよ! ほら、金やるから!」 ジャージのポケットに千円札を突っ込んで、あくまで笹原は譲ろうとしない。 珍しく意に沿わない兄の行動に面食らいつつも、面倒臭さが先に立って恵子はしぶしぶ折れた。 「何買ってくりゃいいの?」 「えーと、飲み物とか、菓子とか。適当に。」 散々粘って買いに行けせるわりには、随分ボンヤリとしたオーダーだ。 「んじゃ行ってくる。」 「いってらっしゃーーい。」 ドアが閉まったのを確認して、笹原は携帯から電話した。電話の向こうの声が訊く。 「おー、どうなった?」 「あ、うん、今行かせた。」 「おーおー、お疲れー。助かったよー。で、恵子に電話とか着てた?」 「うん、ずげーメール着てたよ。春日部さんが言った通り。」 「あ~ん、それはますますよかった。あんがとあんがと。そんじゃねー。」 「あ、まだ教えてくんないわけね…。」 「はは、ササヤンにはまだ秘密だなー。」 「いったい何が起こってるのかサッパリなんだけど・・。」 「まー、カワイイ妹分への手助けと、せめてもの罪滅ぼしだよ。明日には話せるようになると思うから。今日は勘弁しといて。」 「?? まあ、いいよ…。そんじゃねー。」 携帯を置いた笹原は、まんじりともせず、恵子にいない隙に同人誌を読もうと思ったが、見つかったらハズイのでやめた。 咲は携帯をたたむと、傍らの大野に目をやった。 「そんじゃ、次はこっちだね。」 「うふふ………。」 促された大野が怪しく笑う。隣にいた田中は引きつった苦笑いを浮かべている 「まったくぅ~~~、困った人たちですねぇ~~~~~、うふふ~…。」 大野の目はますます怪しく光った。 斑目はもう何時間も携帯と睨みあっていた。 会社が終わってから何度も恵子の携帯へメールを送っていたが1件も返信はない。電話をしても、何コールしても恵子は出てくれなかった。 気ばかり焦って、つい近所をブラブラしたり、部屋を妙に片付けてしまったり。気がつけばスーツを脱ぐのも忘れていた。 斑目はどうしても今日中に恵子に会いたかった。 机の上のクシャクシャのプレゼントを、斑目は見る。 これを受け取った瞬間、頭の中で何かが弾けて躊躇い続けていた一歩を踏み出すことができた。 咲に告白し、ケリをつけることができた。 (今日! 今日言うっ!) 斑目は強く思う。 あの後、部室から会社に戻っていつもの業務をこなした。体は感じたことのない興奮と高揚感でいっぱいだが、目の前にあるのはいつものディスプレイ、いつもの業務。 時間が経って興奮が治まってくると、たちまち不安がそろりそろりと近寄ってきた。 本当に言えるか? 春日部さんに告るのだって何年もかかったのに。言ったとしても上手くいくものなのか? ただの一人相撲かも。 いつまで経っても返ってこないメールを待っていると、絶望的な思いにかられる。いつものように諦めそうになる。 どうしていいか分からないのに、じっとしていらない。堪らなく歯痒い。 斑目は声を押し殺して、ベッドに拳を打ちつけた。 (くそー。苦しいなー。恋ってこんな苦しいんだなー・・・。逃げてーよ。じっさい、今まで何だかんだ逃げ回ってたけどな・・・。情けねーよな、ホント。) 斑目は自然と今までの自分を思い起こしていた。 中学、高校と恋愛とは無縁に過ごしてきた。ああいうのは顔がいいか、スポーツができるが、話が面白くてノリのいいヤツができるものだと思っていた。 自分のようなオタクとは関係の無いもの。勉強して、アニメ見て、マンガを読んでいた。 大学に入って、咲に会って、人を好きになることが分かっても、結局は変わらない。ハナから諦めていた。 針のムシロとかいって、傷ついているフリをしていただけだ。本当は、相手が自分を何とも思っていないと、突きつけられるのが怖かっただけ。 どうしようもないヤツだ。 斑目はまた、今日しかないと思った。今日何もしなけりゃ、いよいよ救いようの無い馬鹿だ。もう咲には全部言ってしまったのだ。もう始めてしまったことなんだ。 不意に、斑目の携帯が鳴った。驚きながらも慌てて手に取る。 「おー、斑目。いまどこだ?」 田中だった。怒りがこみ上げた。 「家だよ!!」 田中は一瞬言葉に詰まったようだが話を続けた。 「今日ちょっとさ、面白いもんが手に入ったんで笹原んちの近くに来てんだけど。斑目も来いよ。」 斑目は怒髪天を衝いた。こっちがこんなに苦しんでのに、呑気なこと言いやがって。 「わり! 今日ちょっとダメだわ。また今度にしてくれ!」 早く電話を切りたい。もしかしたら、今この瞬間に恵子がコールしているかもしれないのだ。 しかし田中の野郎がヤケに粘りやがる。 「いや~、来いって。借り物だから明日には返さなきゃいけないんだよ…。10分で済むから来いよ。」 「いや、今日はホントマジでダメだわ。切るぞ!」 「いや来いって!!」 いきなり田中のテンションが上がって、斑目はビックリした。 「ホントにすぐ済むから! …………うん。え~と…、みんな来るし…。あ~と…、なんか、笹原の妹もいるみたいなんだけどね…。」 なにっ!!!! 斑目の目の色が変わった。そして態度も変わった。 「あ~そ~か~…。う~ん~…。10分で済むの?」 「そう…。すぐ済むから…。それ見たら、俺らはソッコー帰るし…。な?」 「ほほ~!!」 「…………どう?」 「ま~…、そういうことなら行くよ。笹原んちでいいのな?」 「いや、まだ駅に着いたとこだからさ。笹原んちの近くのコンビニで買出ししてからいくから。そこで合流ってことでOK?」 「りょーかい。コンビニな、わかったわかった。」 携帯を切って深呼吸をする。後の動きは早かった。30秒後にはもう家を飛び出していた。 「やばかったね…。でも何とかOKでした…。」 少しやつれた田中。 カンペを持った咲と大野が冷や汗を拭った。 「ふ~、ほんと手間のかかるヤツらだな~。せっかく助けてやってんのに…。」 「お疲れ様でした~、田中さん。グッジョブですっ!!」 「いやぁ~…、慣れないことするもんじゃないね…。疲れましたよ…。」 「ま、後はアイツら次第だね。」 そう言うと、咲は缶ビールの栓を開けた。 斑目は自分の目を疑ったし、またこの恐ろしい偶然に声も無かった。 大急ぎで(比較的近所とはいえ)笹原宅の最寄のコンビニにやって来て、田中が外にいないことはすぐに分かった。 少し呼吸を整えて、いざ店内を探そうとした矢先、一番会いたかった人がそこにいた。 恵子はパンパンに膨れたレジ袋を提げて立っていた。買った量に比べて、明らかに袋が小さかった。 ジャージの上下に、ポニーテールを思わせ

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