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ある朝の風景」(2006/01/12 (木) 19:50:10) の最新版変更点

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*リライト 【投稿日 2006/01/08】 **[[カテゴリー-笹荻>http://www7.atwiki.jp/genshikenss/pages/47.html]] ある秋の午後、荻上はいつものように無表情な佇まいで駅前に立っている。 しかし今日は眼鏡だし筆頭ではない。上はTシャツの上にキャミソールで 下は今日は膝までのタイトなスカートだ。なにかよそ行きなのか? 通りの向こうに視線を遣ると、固かった表情がぱっとほころぶ。 この微笑を受ける人物は、そう、笹原だ。 ヘッドフォンを外しながらとててっと数歩前進する荻上に笹原も小走りで駆け寄る。 笹原「あ、お待たせ。いつから待ってたの?」 荻上「いえ、待ってませんから」 笹原「じゃあ切符買おうか」 荻上「はいっ」 そして車内で並んで座る二人。 笹原『うわ…ちょっと触れてる。なんか照れるな… 今更だけど』 笹原「それにしても、今日は髪も下ろしてるし、眼鏡なんだね」 荻上「ええ、後ろの席の人に髪が邪魔になったらいけないので」   「それに今日はむしろ眼鏡でしょう!アジケンは眼鏡がトレードマークですし!(笑)」 笹原「ははは、そうだね(笑)」 そう、今日は二人でASIAN KENG-PO GENERATION(通称アジケン)のライブに向かっている。 荻上「でも、ライブって実は初めてなんですよね」 笹原「いや、俺も実は初めてで…… でも良い席なんて幸運だったよ」 笹原は、財布からチケットを2枚取り出す。その番号は[C列19番][C列20番]だった。 荻上「そうですよ!すごいですね!C列って前から3列目ですよね」 今日はかなり荻上のテンションは高い。まあ笹原と付き合いだしてから 前よりはテンションが高くなっている。二人とも悪く言えば「うかれバカ」だ。 笹原「いやー、俺もまさかここまでハマるとは思ってなかったけど…CD貸してくれてありがとうね」 荻上「いえ、とんでもないです。あっ!ライブDVD返してなくてスミマセンっ」 笹原「はは…また今度でいいって。予習はばっちりだね」 荻上「ええ、もう他のお客さんと一緒に飛んだり跳ねたり、拳を突き上げたりしますよ!」もうジャンプで! そんな荻上の横顔を嬉しそうに眺める笹原だった。 笹原『就職活動中にチケット取った甲斐があったよ…』 そして電車を乗り継いで渋谷へ。 街に出るとちょっと居心地が悪い二人だが、出来立てカップルの二人に恐いものは無い。 荻上「ちょっと開場まで時間ありますね。席も指定ですし…」 と、笹原を眼鏡越しに見上げる。良い上目遣いだ。 笹原「うん、そうだね…あ、タワーレコードに寄ってみようか」 笹原『うーん可愛い……』 二人とも浮かれているのに奥手なので手を繋いだりはしていない。 荻上「ここは初めてですけど、ビルまるごとなんてでっかいですね」 邦楽をちらっと見た後は、アニメ関連コーナーを物色する二人。 しばし別行動だが同じ階だし、笹原は荻上を見失わないようにしている。 荻上は掘り出し物を発見したようで、いそいそとレジに並ぶ。 笹原「あ、これ使ってよ」 ポイントカードを差し出すが 荻上「ありがとうございます……ってこれいっぱいじゃないですか」 笹原「うん、3千円分だからね」 荻上「ええーっ そんな悪いですよ ……ありがとうございます。このお返しは必ず」 遠慮しようと思ったが、笹原の笑顔押しに負ける荻上だった。 しばしスタバで休憩する二人。 後輩だからとお盆を運ぼうとする荻上と、レディーファースト的に荻上を エスコートしようとするので笹原もお盆を運ぼうとする。まだぎこちない。 笹原は緊張のせいか熱く感じてアイスソイラテのラージを飲んでいる。 そろそろホールに向かう時間が迫っている。 荻上「トイレ行って来まス」 笹原「うん、待ってるよ」 笹原『そうだね、会場じゃすごい混んでるかも知れないしね』 そして渋谷の街を歩く二人だが… 荻上「会場ってどこなんでしょうね……」 笹原「あ、なんかそれっぽい人たちが歩いていくよ。たぶんあっちが会場じゃない?」 こういうイベントの際は、それっぽい人についていくのが定石だ。 時間が迫っている時にしか使えない技ではあるし、間違った集会に向かうこともあるが。 荻上「なんか普通の人がいっぱいですね」 笹原「いや、あの辺は深いファンの一群っぽいよ」 そんな会話をしつつ、黒服のイベントスタッフに促されて並び始める。 荻上「整理番号あるのに並ばされるのって、どうなんですかね」 笹原「ん、まーねぇ。でも早めに入るなら仕方ないんじゃない」 とかいう会話をしているうちに、開場した。 スタッフ「カメラや録音機器は預からせていただきまーす。鞄を開けておいてくださーい」 会場に入ると、映画館のような扉を開けてホール内へ。 椅子に書いてある番号を探し始めると、ほとんど最前列で真ん中の方だ。通路脇の席だった。 笹原「うわっ近いな!」 荻上「すご……」わくわく しかし席を確認すると、荻上は笹原のシャツの裾を引っ張ってきた。 荻上「笹原さんっ、グッズ売ってましたよ!早く並ばないと!」 笹原「ああ、そうね。行こうか」 今日の荻上の脳内テンションレベルは、コミフェスでの買い物時に近いのかも知れない…。 長い行列の後に、ツアーグッズを物色する荻上。 荻上「ツアーパンフに、缶バッジに、リストバンドに…Tシャツは…うーん」 笹原「ツアーのよりアジケンのTシャツが良さそうね」 荻上「そうですね!でも…財布が(汗)」 笹原「アジケンTシャツのホワイトLとブラックS1枚ずつ下さい」 いきなり二人分買う笹原。今日はちょっと強気なのか? 荻上「…っ!ありがとうございマス」 笹原「なにげにペアルックになるね(笑)」 白い肌が綺麗な荻上の顔に、首筋に、さっと桜色が差す。 席に戻ると意外と空席が目立ったが、開演時間が迫るといっぱいに詰まり始める。 荻上「うわーーすごいお客さんの数……」 振り返ると確かに壮観な長めだ。2階席、3階席まで人がいる。 掛かっていた謎の音楽が止まり、いよいよ開演だ。 暗い舞台にアジケンのメンバーが立ち、楽器を構えているのがわかる。 ドラムのスティックを打ち鳴らす合図からギターが響き始める。 1stフルアルバムの1曲目だからいかにもOP曲という感じで 周りの観客もイントロから総立ち。そして縦ノリに揺れ始めて右手を突き上げる。 笹原『うわっこれは想像以上だ…!』 荻上の方を見ると、荻上もちょっと呆気に撮られ気味のようで笹原と視線が合う。 もう周りは音の渦に包まれている。笹原はそんな荻上の耳元に口を寄せると 笹原「せっかくだし乗っていかないとね!」 そして笑顔で荻上を見たまま、周りの観客と同じく右手を突き上げて縦に跳ね始める。 はっきりいってそんなにリズム感はよく無さそうだ…。 荻上「ふふっ」 そんな笹原を見て荻上もふっきれたようだ。小さな体のぶん大きく跳ねている。 これで2時間持つのだろうか? しかし「閃光バック」「Re;Fw;」「未来の欠片」とノリの良い曲で次々と進む。 もちろん笹原も好きな曲なのでだんだんと恍惚としてくる。 これはこれでコミフェスとは違う方法で、頭のてっぺんから何か開き始める。 荻上も楽しんでいるのかと思ったら…何か様子がおかしい。 笹原『なんだ…?荻上さんの向こうの男の動きが…変だ!』 なにやらオーバーアクションで席のエリアからはみ出して踊っている。 そしてリズムは全く合ってないし、ロボットか幽霊かというような様子だ。 それが気になるようで、荻上は集中しきれないようである。 なにより荻上は背が低いので、前の男性の背が高くてあまり前が見えない。 笹原「荻上さん、変わろう」 またしても荻上に耳打ちすると、席を入れ替わった。 少し通路にはみ出ると、荻上にも真っ直ぐ部隊がよく見える。 なんといっても前から3列目だし。 「∞ハングライダー」「君という華」と、荻上の好きな曲が続く。 時々笹原も荻上の方を見るが、だんだん集中してきたようだ。 次の曲は「君の町迄」で、笹原のお気に入りの一曲なのだが…。 ふっと視界の端の荻上にまたしても異変が。 荻上「ぐすっ……」 笹原『えっ…荻上さん……』 歌が響いてくる。 ♪切なさだけ… 悲しみだけで 君の町迄 跳べりゃいい… 何故か荻上が涙ぐんでいる。やがて涙もこぼれ始めた。 笹原『この曲を聴くと俺は……春から先の、離ればなれ生活の事を考えちゃうんだけど…』 それは荻上も一緒なのではないだろうか。 荻上は舞台の上をじっと見たまま、涙をこぼしている。 その様子を見つつ一瞬考え込んでしまった笹原だが、荻上に寄り添って 笹原「これ、使ってよ」 と、おずおずとハンカチを渡す。この辺がまだまだ不慣れな感じだ。 ハンカチに気付くと、荻上は笹原の方に向いて会釈して受け取った。 そして眼鏡をちょっと持ち上げると涙を拭う。 ものすごく間近で荻上の顔を見る。ステージからのライトで照らされている。 ちょっと口紅はしているが他は化粧もしていなから、化粧崩れなんかは無い。 睫毛の先に涙の雫が光っている。 そして前を向いたまま右手でハンカチを構えると、左手は寄り添う笹原の手をとる。 曲はサビにかかって周りも盛り上がってきている。 ♪隣に居る 冴えない君もいつか 僕らを救う未来の翅になる… 笹原『俺はこの先、どれだけ荻上さんを支えられるんだろうか』 笹原も前を向いてステージ上を見遣る。 しかし右手には荻上の汗ばんで冷たい手の感触。 なんて小さくて儚くて、大切な――――。 やがて曲が終わり、次は「振動角」で二人とも大好きだし、観客も イントロから爆発したような盛り上がりだ。 荻上も手を離して跳ね始める。 笹原『うーん、少し勿体無いけど(苦笑)』 安心して笹原もまた集中……出来ない! 笹原『ええっ、こんな時に……腹痛が!?』 直前にスタバで飲んだ大量のアイスドリンクが悪かったのだろうか? 軽い波だったのが、曲が終わる頃には大波になってきた。 アルバムの流れのままに曲は「再書き込み」でライブはさらに盛り上がっていく。 荻上も、ハレガンのOP曲として、アジケンを聴き始めたきっかけだし もう夢中な様子だ。 笹原『うわー、今、どいてもらってトイレには行けない……!!』 この曲が終わるまで笹原の腸は持っていてくれるだろうか。 嫌な冷や汗が笹原の額から、手のひらから、猛烈に流れ始める。 本当だったら笹原も今頃は恍惚とした幸福な時間を過ごしているはずだが 今やまさに生き地獄。こんなに4分ぐらいの曲が長く感じたことは無かった。 笹原『不用意に動いたら、何もかもが終わる……!!』 頭の中で最短距離を計画しながら、さりげなく、ぎこちなく、次の曲が始まるやいなや、 通路を後ろへ…横へ、全力小走りする笹原の姿があった。 笹原『南無さん!!』 ギリギリセーフだった。まさかこのあとノーパンや濡れズボンで過ごすわけにいかない。 やがて不気味にいい笑顔の成年が、客席へと帰還していった。 笹原『ああ、やっぱり荻上さんは可愛いなぁ。周りの女の子と比べ物にならないよ』 危機を乗り切って変な思考回路が働いている。 まあ、そんなこんなでMCに笑ったりしつつ、ライブは終演した。 「みんな、ありがとう!」 アジケンのメンバーが去っていく。 荻上「終わったみたいですね…凄い良かったです」 とか言っていると周りがリズムよく手拍子をしている。アンコールだ。 笹原「なんか、まだ終わらないみたいだね?」 荻上「アンコールってこういう風にやるんですか…!」 そんな会話をしつつも、笹原は後ろの席の男性客が自分達のカップルっぷりに ムカついているのに気付いていた。が、仕方ないといえば仕方ない…。 笹原『俺も、ほんとだったらあっち側だったんだよなぁ(苦笑)』 アンコール3曲も終わり、客席に明かりがつく。今度こそ本当に終わった。 荻上「もう、へとへとですよ…でもすごい良かったです!ありがとうございました」 と言いながら笹原のハンカチで額の汗をぬぐう。 笹原「またそれ、そのまま返してね」 荻上「あっ、スミマセン。けど、洗って返しますから!」 笹原「いや遠慮しなくていいから」 荻上「……それは恥ずかしいですから」 と、荻上のポーチにハンカチは仕舞われていった。 笹原『あーあ勿体無い』 さすがにそれは下心が、というか変態っぽいので笹原も自重すべきだろう。 荻上「それにしても、着替え持ってくれば良かったですね」 笹原「うん、そうだね。こんなに汗かくなんて」 二人とも、汗でTシャツはべったり張り付いている。これは風邪を引きそうだ。 笹原「今日買ったアジケンTシャツ着ようか?上にもシャツ羽織るし」 荻上「そうですね」 期せずしてウレシ恥ずかし、ペアルックになる二人だった。 ホールのトイレから出たところで長らく待っていると、着替えた荻上が出てきた。 少しはにかんでいる。笹原はニヤケが止められない。 笹原「待っているあいだにアンケート書いちゃったけど、荻上さんも今から書く?」 荻上「私は絵も添えたいですし、あとから郵送します」 笹原「ん、じゃあ出よっか」 笹原『うーん、たぶん荻上さん、アジケンで同人誌作りそうな気がするなぁ(笑)』 もう夜の9時を回っている。 笹原『このあと食事とかだよな。一応奮発して1万円ぐらい資金分配してるけど』 笹原「お腹すかない?食事して帰ろうか?」 荻上「はい」 ライブも終わり落ち着いたのか返事は素っ気無くなった荻上だが、 一瞬口元がニマっと弛んだのが笹原にも分かった。 しかし金曜の夜である。カップルで入るような、今まで無縁と思っていた系統の料理店も 色気の無い居酒屋でも、どこも満席だ。 笹原『時間ばかりが過ぎていく……ごめん荻上さん』 焦ってきた笹原に、荻上が声を掛ける。 荻上「……もう帰りませんか?」 笹原『えーーーっ…せっかくのデートが……』 ものすごい勢いでガッカリ沈んでいく笹原。 荻上「あっ、いえあの。そこのお店で珍しいものでも買って帰って部屋で食べませんか?」 顔を上げた笹原が、荻上の指差す方を見ると輸入食材のショップが有った。 荻上「今日は料理は出来ませんけど、うちに来て貰って食べましょう。…ライブDVDも返しますし」 みるみるうちに笹原の顔が明るくなった。 あまりに嬉しそうなので荻上は何故か恥ずかしそうだ。 いや、たぶん嬉しそうな笹原を見て照れているんだろう。 店舗に入ると生パスタセットなんかを見ていた二人だが、やがて インド・タイあたりのカレーのレトルトを物色し始めた。 荻上「トースターで焼くだけのナンも有りましたよ」 笹原「辛いのは大丈夫?」 荻上「激辛のじゃなければ。でもダルカリーとか豆のが柔らかい味で好きですね」 笹原「タンドリーチキンとかシシカバブーとかのレトルトも買おうか」 この二人の幸せな時間はあと半年までなんだろうか。 しかし二人の不器用さがかえって心配無用な気にさせてくれる。 初秋の夜風は冷たくなってくるが、笹原と荻上の春は続いていく。
*ある朝の風景 【投稿日 2006/01/11】 **[[カテゴリー-笹荻>http://www7.atwiki.jp/genshikenss/pages/47.html]] 笹荻成立後の話。 夜、二人は荻上の部屋のベッドで共に眠りについていた。 初めて肌を合わせたのは少し前のことで、それから何度かそういう行為を重ねはしたが、 今日になって突然荻上の方から笹原へ「もし良かったら泊まっていきませんか」と切り出されたのだ。 普段は自分を極力抑える荻上の言葉に、笹原は内心驚きながらも嬉しく思い、 当然断ることなどあるはずもなく、その申し出を二つ返事で了承した。 ただその時の荻上の、他に何かもっと言いたい事がありそうで、 それを飲み込んだような表情が少し気になったと言えば言えた。 そして時刻は2時。ふと何かに気付いて笹原が目を覚ますと、 目の前で眠る荻上の顔が苦しそうに歪んでいた。 呼吸は荒く、顔色は青ざめ、うっすらと汗をかいてうなされている。 そんな荻上の様子に、笹原の寝惚けていた頭が急速にはっきりと覚醒していく。 (…荻上さん?) 胸の前で固く拳を握りしめ、何かを耐えるような荻上の姿に、一瞬どうしたのだろうと訝しみ、 「起こした方が良いだろうか」という思いが浮かんだが、すぐさまその考えを否定した。 思えば、あの荻上が自分から笹原に泊まっていくことを勧めたのは、 ひょっとしてこれが原因だったのではないかと薄々感じたからだ。 結果として起こすことになっても、出来るだけのことをしよう。 そう思った笹原は、きつく握りしめられた荻上の右手に、そっと自分の手を重ねた。 (ひどく冷えてるな) その小ささに内心どぎまぎしながら、優しく手を包む。 少しでも自分の温もりが伝われば、と。 しかし、荻上の苦しそうな様子は変わらない。寄せられた眉根。 きつく閉じられた唇。目元には涙も滲んでいる。 堪えきれず、笹原はそっと囁いた。 「…大丈夫だよ、荻上さん」 少し、添えた手に力を込める。ほんの僅か。思いの分だけ。 「俺は、ここにいるから」 その声が聞こえたわけでもないだろうが、眠ったままの荻上の手が笹原の手をそっと握り返した。 まるで確かめるように。 (起こしちゃったかな) そう思って様子を窺うも、その心配は杞憂だったようで、 荻上の寝息は次第に穏やかなものへと変わっていった。 あれだけ苦しそうだった表情も、今は子供のように落ち着いている。 冷え切っていた手もいつの間にかすっかり温もりを取り戻していた。 繋がったままの手。落ち着きを取り戻した今も、荻上は笹原の手を離そうとはしない。 その様子に何となく苦笑を浮かべながらも、笹原の心は嬉しさで満たされていた。 改めて見る荻上の寝顔は、笹原を動揺させるに充分な程愛らしく、 思わず頭の一つでも撫でたいところであったが、 さすがにそれは目を覚ますだろうとぎりぎりのところで思いとどまった。 握りしめられた荻上の手から感じる温もりが、笹原を次第に眠りへと誘う。 目を閉じる前、最後に見た荻上の表情は何だか少し微笑んでいるように見えた。 (おやすみ、荻上さん…) もう一度だけ軽く手に力を込める。 どうか彼女の見る夢が、穏やかで優しく暖かなものでありますようにという願いと共に。 翌朝。荻上は実にすっきりと目を覚ました。自分でも驚くほど静かな目覚め。 こんなに自然な気持ちで朝を迎えるのはいつ以来だろう、と荻上は考えた。 恐らくは中学生の頃の「あれ」以来だろう。 あの一件があってからずっと、眠れば悪夢に襲われ続けていたのだから。 そう思い、そして何故今日に限って悪夢にうなされず目を覚ますことが出来たのか戸惑った。 そんな荻上の目に、ようやくぼんやりと笹原の姿が映る。 寝る時は眼鏡もコンタクトも外しているので、非常に視界が悪い。 ただ、それでもいつも見慣れている笹原の姿を見間違うことはない。 そしてようやく自分が笹原の手を握りしめていることに気が付いた。 意識すると同時に伝わってくる笹原の体温に、改めて赤面する。 (え…? 何で私笹原さんの手を握ってんの? 寝る時はちゃんと離れてたのに、いつの間に) 途端に手の平に汗が滲むのを感じて、焦りつつもそっと荻上は手を解いた。 急速に冷えていく手の平の感覚に、弱冠の寂しさを覚えながら。 改めて笹原の寝顔を見つめる。ややぼやけてはいるが、それでも分かるひよこのような無防備な寝顔。 そのあまりに笹原らしい寝顔に、荻上は少しの間見入っていた。 (可愛い寝顔だぁ…) そして思った。この穏やかな目覚めは、きっとこの人がいてくれたからなんだろう、と。 期待していなかったと言えば嘘になる。いや、正直に言えば笹原ならばあの悪夢からも助けてくれると、 助けて欲しいとそう思ったからこそ、泊まっていくよう勧めたのだろう。 そして事実助けてくれた。思わず視界が滲む。嬉しさと喜びと愛しさで。 (いつも私は笹原さんに助けてもらってばっかりだ) 些かの罪悪感もある。悪夢を拭い去るために笹原を利用したとも言えるのだから。 けれど、それすらも笹原ならば、「俺で良ければいくらでも手助けするよ。と言っても、 あまり役に立たないかもしれないけどね」などと言って、 いつものように優しく微笑みながら受け入れてくれるのだろう。 知らず、涙が頬を伝う。笹原への思いと、自分への嫌悪で頭の中がいっぱいになる。 (私って本当に嫌な女だ…) 笹原を起こさないよう気遣いながらゆっくりと身を起こし、目元を拭う。 しかし、涙は後から溢れてきて止まってくれない。 何故こんな自分をこの人は選んでくれたのだろう、そんな暗い考えに囚われかけた時。 「ん………」 ごろりと笹原が寝返りを打った。投げ出された手が荻上の膝に落ちる。 そしてむにゃむにゃと口元を動かした後、にこりと幸せそうに微笑んだ。 弛緩しきった、だらしないとも言える幸福に満ちた顔。 「……ぷっ」 そのあまりに明るい笑顔に、思わず荻上は吹き出した。 同時にすうっと心が晴れていくのを感じた。 (眩しいなぁ…。目の前でこんな顔されちゃ、泣いてる自分が馬鹿みたいだぁ) 緩む口元。そっと手を伸ばすと、荻上は笹原の頬を人差し指で軽くつついた。 「うぅ…、ん」 再び寝返りを打ち、荻上のつついた頬の辺りをぽりぽりと掻く。 そんなお約束でとても愛らしい行動に、荻上はくすくすと笑って、もう一度だけ頬をつついた。 笹原は夜中に一度目を覚ましていた所為か、起きるそぶりも見せない。 「さて、と」 ベッドから下りると、荻上は大きく伸びを一つ。そして鏡を見てコンタクトを付けると、 布団にかけていた半纏を手に取り、慣れた様子で上に羽織った。 振り返ってもう一度笹原の寝顔を見つめる。 (せっかくだから、いつも傍にいてくれるこの大切な人のために、 せめて朝食でも用意しよう。精一杯の感謝を込めて) 心の中で呟きながら、台所へと足を運ぶ。 眠ったままの笹原を気遣って閉じられたままのカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。 それは今日も快晴である証。まるで台所で我知らず鼻歌を口ずさんでいる荻上の心のように晴れ渡った空。 やがて朝食の支度を終えた荻上は、笹原を起こすためにカーテンを開いた。 瞼に差し込む光と荻上の声に促されて目を覚ました笹原は、窓越しの光に照らされた荻上の笑顔を見る。 かけがえのない大切な物。 それはいつまでも消えることなく心に残る、ある朝の風景。

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