表現の自由


説明及び注意事項(最終更新日:2009/06/15)

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目次(関連ページ一覧)

テーマ別まとめ
資料・統計まとめ

「表現の自由」に関する基本的整理

「表現の自由」の価値や理論的根拠

「表現の自由の価値」に関する教科書的な説明や、その重要性の根拠は以下の通りになります。
1 表現の自由の価値
 内心における思想や信仰は、外部に表明され、他者に伝達されてはじめて社会的効用を発揮する。その意味で、表現の自由はとりわけ重要な権利である。
 表現の自由を支える価値は二つある。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)である。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)である。表現の自由は、個人の人格形成にとっても重要な権利であるが、とりわけ、国民が自ら政治に参加するために不可欠の前提をなす権利である(芦部信喜「憲法 第三版」p.162)

第12回<「表現の自由」はなぜ大事?
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/12.html
 「表現の自由」、「知る権利」は私たちの政治にとって不可欠であり、民主政治にとって重大な意味を持ちます。
民主政治は一人ひとりの国民がその知り得た事実に基づいて判断した考えを、議論を通じて実現しようとするものです。国民が十分な議論をして何が正しいかをみんなでみつけようとしているときに、「こう考えなければだめだ」と特定の考え方を押しつけられたのでは、民主政治は成り立ちません。
 そもそも民主主義は、何が正しいかわからないからこそみんなで議論しお互いの考えをぶつけ合って、もっともよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立たないのです。
 国や政治家が特定の考え方をメディアに押しつけることも、メディアの自由な報道に何らかの影響を与えるような行動をとることも許されません。国や政治家などの権力を持つ者は、国民の思想や言論活動といった精神的な営みの領域には立ち入ってはいけないのです。
 それは「表現の自由」を侵害し、人間の尊厳を傷つけるだけでなく、民主主義の本質をつき崩してしまうことになるのです。
「表現の自由」は上記のような価値を持つため、憲法で保障されている各種の人権カタログの中でも「優越的地位」を持つとされています。
その理論的及びイデオロギー的根拠を噛み砕いて説明すると、以下の通りになるようです。
いしけってあそぶ日々 - isikeriasobi - はてなハイク
http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9236550009687776802
1 表現の自由に「優越的な価値」があるのは、話し、書き、描き、歌う、という表現行為~相手に伝えることまで含む~が「個人の自己実現」に不可欠であること、それが民主主義的な政治過程の実現と維持に欠かすことができないこと、による。
2 そのイデオロギー上の根拠になっているのは「思想の自由市場」という考え方。要するに、合理的な判断は、少数派の、あるいは気にくわない、または醜悪にみえる議論も排除することなく、自由に議論をすることによって達することができるんですよ、というやつ。
3 だから、表現の自由の規制は、慎重にやんなさいよ、やるなら重大かつ深刻かつ切実な利益を守るために、必要最小限の手段でやりなさないよ、とされている(学説のうえでは。)。

参考サイト

「表現の自由」と立憲主義の関係

Ⅲ 近代立憲主義の生成と普及
 近代立憲主義は、近世ヨーロッパで誕生した。宗教改革後の宗派間の激烈な対立を経験し、他方で大航海を通じて多様な異文化に触れ、価値観・世界観の多元性を事実として受け入れざるを得なくなった人々は、通約不能incommensurableな価値観・世界観を抱く人々が、それにも関わらず協働して社会生活の便宜とコストを公平に分かちあい、人間らしく生きる社会をいかにして構築するかという課題に直面した(2つの価値観は、お互いに優劣をつけることができず、しかも等価でもないとき、通約不能である。通約不能な複数の価値について優劣を論ずることに意味はない)。近代立憲主義は、この課題に対する応答として生まれたものである。
 その基本的な手立ては、人々の生活領域を私的なそれと公的なとの区分することである。私的な領域では、各人の価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。他方で、公的な領域では、価値観・世界観の違いにかかわらず、社会全体に共通する利益(公共の福祉)を実現する方策が、冷静かつ理性的に審議され、決定されなければならない。特定の価値観が公益を審議・決定する場をも占拠し、その決定に基づいて政治権力が私的な生活の場にまで介入するならば、それ以外の価値観を抱く人々が、その決定を公正な決定として受け入れることはないであろうし、価値観の区分に従った深刻な対立を社会内部に引き起こすことになりかねない。公私を区分する立憲主義は個人の自由を保護するだけではなく、公益に関する効果的な審議と決定の過程をも保障する。
 こうした手立てを実現する具体的手段として、思想・表現等の個人の自由の保障、政治と宗教の分離、平等な選挙権の保障、議会での公開の審議と決定の手続、違憲審査制等、多様な仕組みが憲法典に基づいて制度化される。
 公私の区分をせず、特定の価値観・世界観によって人々の生活が隅々まで統制される社会としては、前近代社会のみならず、現代の共産主義社会やファシズム社会を典型例としてあげることができる。20世紀末の冷戦の終結は、立憲主義が共産主義に勝利したことを意味する(長谷部恭男「Jurist増刊 憲法の争点」p.6-7)。

「立憲主義」全般に絡んだ説明は、以下を参照して下さい。
日本国憲法と人権/近代立憲主義

「表現の自由」の制約のアプローチの整理

「表現の自由」といえども無制限に認められている訳ではなく、その表現内容に制限が加えられる場合があります。
 表現の内容規制とは、ある表現をそれが伝達するメッセージを理由に制限する規制(たとえば、政府転覆の文書による扇動(seditious libel)の禁止、国の秘密情報の公開の禁止、政府の暴力的転覆を唱導する言論の禁止など)を言う。性表現、名誉毀損表現の規制もこれに属するが、これらはアメリカでは通常、営利的言論や憎悪的表現(hate speechと呼ばれ、人種差別表現のような少数者に有害で攻撃的と考えられる表現)とともに、低い価値の表現と考えられ、右に例示したような政治的表現(高い価値の表現)と区別される(芦部信喜「憲法 第三版」p.177)。
規制のアプローチに関しては、大きく分けて以下の2種類があるようです。
いしけってあそぶ日々 - isikeriasobi - はてなハイク
http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9234069568555944127
 あらゆる表現は、他者を傷つける可能性がある以上、「誹謗中傷の自由」を認めるかどうか、というのは、実はかなり難しい問題だと思います。
 この点、うんと単純化すると、a) あらゆる表現を、表現の自由の保護を受けると認めたうえで、個々の事例ごとに、具体的な根拠に基づいて規制を考えていく方法のほかに、b) 最初からある種の表現を表現の自由の保護の枠外において、そのかわり表現の自由の範囲に含まれるとされたものについては強い保護をあたえる方法という、二つのアプローチがあります。少なくとも、憲法学で行われている議論は、ご指摘のあった「自由をどう定義するか」ということもふくめて、議論がされています。
 わたしがエントリーで前提としているのは、a)のアプローチで、これはおそらく日本の憲法学ではふつうの考えです。

関連項目

参考サイト

各種の整理及び検討(別ページでの詳細検討及び外部リンク)

「表現の自由」の限界と違憲審査基準

「表現の自由」といえども、無制限ではありません。
他人の財産権・住居の平穏・プライバシーや名誉といった個人的な法益から、治安・青少年の健全育成・社会の性秩序・刑務所の管理・法廷の秩序・国家機密・選挙の公正といった社会ないし国家的な法益との間のバランスによって制限される事もあります。

但し、この制限をするに当たっては、いくつかの条件があり、「表現の自由」のように、精神的自由の領域に属する権利・自由である時は、それを制約する法律を作った目的が妥当であるか、またそのための手段も必要不可欠かつ必要最小限のものかが厳しく審査されます(規制される権利・自由が、経済的自由の領域に属するものであれば、目的と手段が的外れでないかが審査されるだけになります)。

詳しい基準や判例・学説の推移は長くなりますので、以下にある別ページのまとめを参照してください。
表現の自由/「表現の自由」の限界と違憲審査基準

「表現の自由」「創作物規制」関連記事


「創作物規制」関連報道


米国での「表現の自由」に関する状況


ポルノ分野の「表現の自由」

性表現・名誉毀損的規制の概要

 性表現・名誉毀損的表現は、わいせつ文書の頒布・販売罪とか名誉毀損罪が自然犯として刑法に定められているので、従来は、憲法で保障された表現の範囲に属さないと考えられてきた。しかし、そのように考えると、わいせつ文書なり名誉毀損の概念をどのように決めるかによって、本来憲法上保障されるべき表現まで憲法の保障の外におかれてしまうおそれが生じる。そこで、わいせつ文書ないし名誉毀損の概念の決め方それ自体を憲法論として検討し直す考え方が有力になってきた。つまり、それらについても、表現の自由に含まれると解したうえで、最大限保護の及ぶ表現の範囲を画定していくという立場です。この立場は、性表現についていえば、わいせつ文書の罪の保護法駅(社会環境としての性風俗を清潔に保ち抵抗力の弱い青少年を保護する事と解する説が有力である)との衡量をはかりながら、表現の自由の価値に比重をおいてわいせつ文書の定義を厳格にしぼり、それによって表現内容の規制をできるだけ限定しようという考え方で、定義づけ衡量(definitional balancing)論と呼ばれる。性表現の規制については、刑法一七五条のわいせつ文書の頒布・販売罪に関し、最高裁はチャタレイ事件の判決以来、一貫してこれを合憲としているが、その後わいせつ概念を明確化しようとする努力がみられる(芦部信喜「憲法 第三版」p.172)。
上記のように、「表現の自由」の性表現(ポルノ分野)が表現の自由の対象として保護されているのは、それ単独で(表現の自由としての)優越的な価値が認められて保護されているというよりも、日本では「a)あらゆる表現を、表現の自由の保護を受けると認めたうえで、個々の事例ごとに、具体的な根拠に基づいて規制を考えていく方法」という表現の自由の規制アプローチをとっているので、まず第一に表現の自由の本旨たる政治的表現の自由が保護されていて、ポルノ分野はその副次的効果のような感じで保護がされています。

法律関係者がポルノも含めた「表現の自由」の規制に反対する傾向があるのは、上記のような「表現の自由」保護の構造のため、一旦「差別的」「気にくわない」という理由だけで、根拠が曖昧なままの表現や思想の規制を認めてしまうと、すぐに次の分野に波及したり政治的表現の自由の規制にも繋がってしまう恐れが強いというのが、第一の理由だと思います。

但し、「表現の自由」には「個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)」や「後ろめたかったりする表現や、口べたゆえにうまく説明できない表現も保護する」という意味もありますので、ポルノ分野へ「表現の自由」の保護が及ぶ積極的な理由もあります。

関連項目

現在の性表現への法規制の状況

自分は陵辱表現のこれ以上の規制には反対だが、モジモジさんはヒドイとは思わない。 - いしけりあそび~ふなうた
http://d.hatena.ne.jp/barcarola/20090612/1244778393
 規制といっても、事前規制、事後規制、刑罰を伴うもの、伴わないもの、表現そのものを規制するもの、時、場所、方法、相手方など特定の態様の流通を規制するもので、表現行為に対する抑制効果はまるで違う。
 性表現は、暴力を伴わないものをふくめ、すでに性器そのもの(に限らないが)を表現した場合の刑法175条、それに至らない場合であっても公然と表現した場合の刑法174条に基づく刑罰、18歳未満に対する流通の禁止、児童ポルノに対する制限等々、すでに他の表現行為とはあきらかに異なる広汎かつ強力な制限が及ぼされている(その多くは、他の表現行為の場合には致命的ともいえるもので、私はそのうちのいくつかについては支持をするが、ある部分については違憲ではないかと思う。)。

モジモジさんのその4について - いしけりあそび~ふなうた
http://d.hatena.ne.jp/barcarola/20090613/1244917026
陵辱表現を「表現の自由」の範疇でとらえた場合は、現状の規制はかなり厳しいものにあたります。これがいかに厳しい制限かは(さらに「ヘイト」と同視できないかは)、たとえば「外人は出ていけ」みたいな言論を18禁にするかとか、公然と表現した場合懲役刑を含む刑罰を科すか、という議論をするとなった場合に巻き起こるであろう、困難な問題を想像すれば、容易に理解できるでしょう。

表現の自由の限界と権利侵害の関係(創作物規制の際の基準)

[児童ポルノ・児童買春]社説:児童ポルノ 世界の批判を聞こう - 奥村徹弁護士の見解
http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20090609#1244515747
 いつのまにCGが児童ポルノになったのかと思いました。
 表現の自由の限界を考える時に、「殺人」と「殺人を助長する創作物」は、他者の権利侵害のあるなしの点で、分けて考えないと、頭悪いと思われますよ。対立利益が違うんですよ。こういうことがわからない人は議論に加わってはダメですよ。
 政治的見解を表明するために殺人するという場合は、そういう表現自体が重大な権利侵害だから、表現の自由の面は大幅に制約される。
 殺人行為一般を肯定するとか、助長するとか、煽動する表現の場合は、それ自体では、権利侵害はないから、権利侵害以外の理由(公共の福祉)以外の理由で制約されるとしても、表現の自由が大幅に制約されることはない。
 これは児童ポルノの場合でも同じで、実在の児童ポルノに関わる行為というのは、そういう表現自体が重大な権利侵害だから、表現の自由の面は大幅に制約される。
 児童ポルノに関わる行為一般を肯定するとか、助長するとか、煽動する表現の場合は、それ自体では、権利侵害はないから、権利侵害以外の理由(公共の福祉)以外の理由で制約されるとしても、表現の自由が大幅に制約されることはない。
 だから、規制するとしても、法定刑は、実写の児童ポルノの罪とくらべると、実在しない児童の姿態の罪は、ずっと軽くなるはすで、わいせつ図画か有害図図書並になるはずです。

フェミニズムによる「反ポルノ」運動

フェミニズム方面からの「反ポルノ」運動は、マッキノン、ドウォーキンが有名であり、日本の「反ポルノ」運動をしているグループでも引用されるようですが、その理論の背景は、リベラリズムの基本原則である中立国家論を否定している(日本や米国などの憲法に見られるリベラルな人権論を否定して、別種の人権概念を主張している)という所から来るようです
日本国憲法と人権/フェミニズムと近代憲法学

ポルノに関するマッキノン、ドウォーキンの主張内容を抜粋すると、以下のようになうようです。
 ポルノグラフィが生み出す支配と服従に満ちたセクシュアリティもまた、ポルノグラフィの擁護者によってしばしば凶暴で敵意ある不合理な形で表現される。ポルノグラフィは女性への憎悪を作り出し、そこで生まれた女性憎悪(ミソジニー)は今度はどんなことをしてもそれを守るという姿勢を生み出す(C.A.マッキノン「ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で」p.14)。

 「人間の平等は正しい」という思想を前提とし、平等賛成の立場をとるということを基礎とすれば、表現の取締りを目指すことを阻むことはできないはずである(しかしインディアナポリスのポルノグラフィ条例は拒否されたが)。「平等は正しい」ということは、法律で平等を保障していることですでに決定されているのだ。国家が平等/不平等問題では中立でなければならないということはなく、実際はその反対で、平等は「緊急的国家利益」であり、そして一定の条件下では修正第一条よりも重いのである(C.A.マッキノン「ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で」p.134)。
「具体的な被害者がいないのに規制するのは自由主義の原則に反する」という見解への反論は、以下のようになるようです。
 そもそもポルノが男性優位の行為だとすれば、その害は、男性優位という害であって、それがあまりにも広範でかつ強力であり、世界をポルノチックな場所にすることに成功しているから、ちょっとやそっとでは見破れない……ポルノが社会的事実を構成するのに成功している程度に応じて、害は不可視的になる(ジョナサン・ローチ「表現の自由を脅かすもの」p.29-30))。
但し、マッキノンやドウォーキンによる「反ポルノ」の主張及び運動は、その極端な主張と国家権力に法規制を求めて右翼とも連携するという政治運動上のマイナス面の理由から、反フェミニスト的な自由主義者のみならず、派閥の違うフェミニスト自身からも批判が提出されています。
http://clinamen.ff.tku.ac.jp/CENSORSHIP/Porn/porn_art_2.html
 歴史的な過程はいずれ詳しく紹介したいのだが、ドウォーキンたちが展開している反ポルノ・キャンペーンに対して、同じフェミニズム陣営のなかから、強い批判が提出されている。それは主に三つの理由からである。
 第一は、ポルノの公的規制を求めることが、性表現への国家介入を惹起しかねないことへの危惧である。とりわけ、サッチャーとレーガンに代表される、七○年代以降の新保守主義勢力が、右からの激しいポルノ攻撃を行なっている状況のもとでは、フェミニズムの側からのポルノ批判が、彼らの政治的意図に組み込まれてしまい、フェミニズムが肯定してきた性解放を抑圧する結果に陥る危険がある。
 実際、右翼がフェミニズムと歩調をあわせて、ポルノ規制法を求める、といった事態が現実に生じている。これに対して、そうした共同戦線の結成を女性解放にとってマイナスでしかありえないとする立場から、かなりの数のフェミニストたちがポルノ規制に懐疑と批判の声を挙げている。
現在のフェミニズムでは、最新の議論はジュディス・バトラー以降のもので、マッキノンやドウォーキンの「反ポルノ」の議論は、2週遅れ位になるといった位置づけになってるようです。
CGS Online 児童ポルノとフェミニズム
http://olcs.icu.ac.jp/mt/cgs/2009/05/post_25.html
 ジュディス・バトラーは著書『触発する言葉??言語・権力・行為体』で、欲望が社会・文化に依存しているにも拘らず、或は正にそれ故に、欲望を表象する際の諸々の規範的な決まり事の内部にこそ、撹乱の契機があると論じている。マッキノンとドウォーキンが主要なゴールと定めた「規制(検閲と訴訟)」。それを希求することは即ち国家権力へと縋り付くことであり、それによって国家権力は当該の規制対象を表象する正統性を独占し、セクシュアリティの受容可能/不可能の境界線を書き直せる程にすらなる(歴史的に「逸脱」したセクシュアリティを抑圧して来たように)。結局私たちは、一見異性愛規範的で性差別的なポルノが、予期せぬ(時にクィアな)やり方で読み取られる可能性、即ち「何か」を十全に描くことなどできない「表象」の、そのプロセスの中で切り捨てられた余剰的な複雑性が再度掬い上げられる可能性を、予め閉じてしまっているのだ。バトラー以後は、多くのフェミニストが反ポルノの議論を、依然力はあるものの同時に大いに疑問の余地がある、と見るようになっている。
なお、日本における反ポルノ運動の団体でマッキノンなどとも交流のあるAPP研では、「漫画やアニメの子どもポルノの方が、ユダヤ人や黒人を人間以下の虫けらとして描き出すプロパガンダよりもはるかに有害」という認識になるようです。
2002年4月17日 (水) アメリカで児童ポルノ禁止法が違憲判決
http://web.archive.org/web/20020528102155/http://www.app-jp.org/voice/02.04.17.html
 いや、漫画やアニメの子どもポルノの方が、ユダヤ人や黒人を人間以下の虫けらとして描き出すプロパガンダよりもはるかに有害です。なぜなら、いまや実際にユダヤ人を大量殺戮する強制収容所はないし(悲しむべきことに、パレスチナでは逆に虐殺する側に回っています)、黒人を実際に奴隷化している国もありませんが、子どもに関しては、世界中どこでも、家庭や学校という名の小さな「収容所」が無数に存在し、そこで何万、何十万の子どもたちが身体的ないし性的に虐待され、そしてしばしば殺されているからです。そして、今なお、ポルノ制作や売買春目的での子どもの誘拐や人身売買が世界中で無数に行なわれているからです。多数の子どもたちが実際に性的に虐待され、売り買いされ、殺されている社会で、子どもたちをレイプと虐待と監禁調教の対象として楽しむ「写実的なもの」がストーリー性をもってあふれかえっていることは、まさに、実際にユダヤ人虐殺が行なわれている国で、ユダヤ人を虫けらとして描き出す漫画やアニメを大量に生産・販売することと本質的に同じです。そのような「表現」は、直接的に暴力であり、虐殺に加担する行為であることは少しでも物事を考えることができるすべての人にとって当然のことでしょう。

参考サイト

「表現の自由」に関するQ&A

陵辱ゲームなどはヘイトスピーチに該当するのでしょうか?(「発話媒介行為」と「発話内行為」)

陵辱ゲーム等の表現物が「ヘイトスピーチ」に該当するかについては、発話媒介行為と発話内行為という所から説明します。
 発話のなかには単に憎悪と伝えるだけではなく、中傷行為そのものになるものもあるという主張は、修辞学的観点からいえば、言語が行為しているという仮定だけでなく、言語がその受け手に対して抽象的にはたらくという仮定ももっている。しかし重要なことは、この二つが別々の議論であり、すべての発話行為が、他人に対して力をふるう行為にはならないということだ。たとえば「わたしはあなたを非難する」という言葉は、発話行為―オースティンの意味での発話内行為―と言えるが、もしもわたしが自分の言葉に何の拘束力も持ちえない立場にいれば、たとえ発話行為をしても―ふたたびオースティンの言葉を使えば―その行為は惨めなもの、不適切なものとなる。言われた人は傷つかない。したがって多くの発話行為は、狭義には「おこなわれる」ものだが、その全てが効果を生み出したり、一連の結果を導く力をもつとはかぎらない。実際、多くの発話行為はこの点ではまったく滑稽なもので、オースティンの冊子「言葉で物事をいかにおこなうか」(邦訳「言語と行為」)は、そういった行為遂行性の失敗を認めた滑稽話とも読める。
 発話行為は、かならずしも有効な効果を生む行為にはならない。だが発言が行為遂行的でないとき、つまり命令を下しても、誰も聞かないし従わない場合、また誓いを立てようにも、誓いを立てる相手がいない場合においてさえ、依然として行為は行われている。だがその時の行為は、効果のない行為、あるいはほとんど効果のない行為(少なくとも、行為と考えられるような効果はない行為)である。適切な行為遂行性とは、行為をおこなうだけでなく、行為をおこなっているという事実から一連の効果が生じるものである。言語のレベルで行為することは、かならずしも効果を生み出さず、この意味で、発話行為のすべてが有効な行動になるわけではない。したがって、発話と行動のあいだに曖昧さがあるということは、発話が必ずしも有効に行為しないということである。
 オースティンは、行為遂行的な言い回しについて暫定的な分類をおこなった。発話内行為は、語ることが同時におこなうことになる発話である。「宣告を与える」と言う裁判官は、自分の行動の意図を表しているわけではないし、自分の行動を描写しているわけでもない。彼の場合、言うことが一種のおこなうこおtである。発話内行為は効果を生み出すが、オースティンの言葉を使えば、その効果は、、言語の慣習や社会の慣習によってもたらされる。他方、発話媒介行為は一連の結果を誘発する発言である。発話媒介行為においては、「何かを言うことはある結果を生みだす」が、発言とその結果のあいだには時間的な隔たりがある。発話の結果は、発話行為とまったく同じものではなく、むしろ「発話によって引き起こされたり、成し遂げられたりする」。発話内行為は慣習を通じてはたらくが、発話媒介行為は結果をつうじてはたらく。両者の違いが暗示しているのは、発話内行為の効果は時間の経過を伴わず、言うことがそのままおこなうことになり、この両者が同時に起こるということである(ジュディス・バトラー「触発する言葉 言語・権力・行為体」p.26-27) 。
上記が発話媒介行為と発話内行為の違いで、行為遂行的か否かが分かれ目になります。

オースティンの理論がそのまま使われているかは定かではありませんが、刑法の脅迫罪の法理ではこういった考え方(もしくはこれを発展させた考え方)が用いられ、以下のような違いが見られます。
①ある人に向かって、刃物を向けながら「殺すぞ」と言った場合には、言われた人は「自分が」殺されるのではないかと恐怖を覚える。
→脅迫罪として「殺すぞ」という発言は刑事罰の対象になる(言われた人の生命の危険が具体的・現実的に生じているので刑事罰の対象となり、「殺すぞ」という表現は言ってはいけないものとされる)。
②フィクションの映画の中で、俳優が刃物を向けながら「殺すぞ」と言っていたとしても、言われた人が実際に殺される恐怖を味わうわけではない。
→映画を見たからといって、観客が実際に殺される危険が生じているかというと、そうではない。だから、表現の自由として保護される。
但し、②の場合でも、黒人に黒人虐待の映画を見せるとか、女性が逃げられない状況で凌辱的な映像を見せるなどの場合になると、①の場合と同じように、「実際に危害を加えられるのではないか」という恐怖心を抱くと想定されるので、脅迫罪に当たります。

そのため、ヘイトスピーチと陵辱ゲーム(ポルノ)の違いを「他者危害」という観点で捉えると、以下のようになると思います。
①ヘイトスピーチ:特定の思想について一般の支持を求め、さらに「対象とする相手方に対して」届くことを意図して行われる
②陵辱ゲーム:「女性一般」が知覚しうるに過ぎない表現行為で、対象とする相手方に届くことを意図していない(表現者とゲームのユーザー間で完結している)
こういった分類の根拠の参考として、人種差別撤廃条約における、人種差別該当性の判断基準について一般的勧告14が、目的と効果に分類して整理しているものを挙げておきます。
2項 区別は、当該区別の基準が、この条約の趣旨及び目的に照らし、正当である場合又は1条4項の特別措置に該当する場合は、人種差別に該当しない。当委員会は、上記の基準を判断するに当たっては、一定の行為が様々な目的を有するものであることに留意する。行為がこの条約に違反する効果を有するか否かを判断するに当たっては、当該行為が、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づき区別される集団に対し、正当化することのできない差別的な効果(an unjustifiable disparate impact)を有するか否かが検討されなければならない。

参考サイト

最近の新聞報道・ブログ記事

表現の自由に関する新聞報道




表現の自由に関するブログ記事

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最終更新:2009年07月24日 14:57
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