SF百科図鑑 英国SF協会賞受賞作をまとめて読むページ6


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壁の中の狼 The Wolves in the Walls ニール・ゲイマン

ルーシーは家の中を歩き回った。
家の中はすべてが静まり返っていた。
母親は自家製ジャムを瓶に詰めていた。
父親は仕事に出かけている。チューバを吹くのだ。
弟は居間でテレビゲームをやっていた。
ルーシーは物音を聞いた。
物音は壁の中から聞こえてくる。
忙しく押し合いへしあいしているような音。
かさこそ、かさこそ、という音。
こそこそ這い回り、ぺしゃんこになっているような音。
ルーシーは、大きな古い家の壁の中でそういう音を立てるのが何か知っていた。だから母親のところへ行って、こう言った。「壁に狼がいるよ」ルーシーは母親に言った。「音が聞こえるもん」
「いいえ」母親は言った。「壁の中に狼なんていません。きっと鼠の音を聞いたんだと思うわ」
「だって狼だもん」ルーシーは言った。
「絶対狼じゃないわ」母親は言った。「だって、知ってるでしょ、言い伝えによると──もし壁の中から狼が出てきたら、それはおしまいだって」
「何がおしまいになるの?」ルーシーはきいた。
「それよ」母親は言った。「みんな知ってるわ」
ルーシーは豚のぬいぐるみを拾った。それはルーシーがすごく小さいころから持っていたものだ。
「鼠のような音じゃなかったと思うわ」ルーシーはぬいぐるみに言った。
すべてが静まり返った真夜中、ルーシーは、爪で引っかいて噛み、かじり、争うような音を聞いた。
壁の中の狼が、狼らしい陰謀を練り、狼らしい計画を温めている音を聞いた。
昼間には、自分に注がれる視線を感じた。その目は、壁の割れ目や穴から覗いているのだ。
人物画の目から覗いているのだ。
ルーシーは父親のところへ行って話した。「壁の中に狼がいるの」
「そんなものいないと思うよ、かわいこちゃん」父親はルーシーに言った。「おまえは、想像力が過敏すぎるんだ。たぶんお前の聞いた物音は、鼠の音だよ。こういう大きな古い家には、時々鼠がいるんだ」
「狼だもん」ルーシーは言った。「わたしのおなかに感じるもん。それに豚のぬいぐるみも、狼だと思ってるわ」
「おやおや、お前はぬいぐるみと話せるのかい──」父親はそう話し始めてから、こう言った。「どうしてわたしはお前に、人形に話しかけろと言おうとしてるんだろう? ただの人形なのに」
ルーシーは、豚のぬいぐるみが怒り出さないように、その頭を軽く叩いてやった。
「とにかく、狼についての言い伝えを知っているだろう」父親は言った。「もし狼が壁から出てきたら、それはおしまいだ」
「誰が言ってるの?」ルーシーがきいた。
「人々だ。みんなだ。知っているだろう」父親は言った。そしてチューバの練習に戻った。
ルーシーが再び物音を聞いたとき、絵を描いていた。壁の中で、押し合いへし合いしながら、四方八方をうろつき、かさこそという音をさせていた。
「壁の中に狼がいるよ」ルーシーは弟に言った。
「こうもりだよ!」弟は言った。
「壁の中にいるのは、こうもりだと思う?」ルーシーはきいた。
「違うよ」弟は言った。「姉ちゃんがこうもりだ!」
弟は自分のジョークに長い間笑っていた。でも大して面白いジョークじゃなかった。
「わたしはこうもりじゃないわ」ルーシーは言った。「壁の中に狼がいるってこと、教えてあげるわ」
「第一に、世界のこの地域には狼はいないんだよ」弟は言った。「第二に、壁の中に狼は住まない。鼠やこうもりのようなものだけだ。第三に、もし狼が壁から出てきたら、それはおしまいだ」
「誰が言ってるの?」ルーシーはきいた。
「学校でウィルソンさんが」弟は言った。「ウィルソンさんは、狼やいろんなことを教えてくれる」
「ウィルソンさんはどれぐらい物知りなの?」ルーシーはきいた。
「みんなが知ってることだよ」弟は言って、自分の宿題に戻った。
翌日、音は大きくなった。
「あの鼠をなんとかしないとねえ」母親が言った。
「うるさい鼠だ!」父親が言った。「朝になったら業者を呼んで、何とかしてもらおう」
「こうもりだよ、ぼく知ってるよ!」弟が楽しそうに言った。「確認のために、ぼくは今夜首を出して寝るよ。その一匹が吸血こうもりかも知れないからね。もしそいつがぼくを噛んだら、ぼくは飛んで、棺桶の中で眠れるし、二度と昼間に学校へ行かなくていい」
だがルーシーはそれが鼠やこうもりとは思わなかった。この悲しい無視の態度に対して、首を振った。そして歯を磨き、父母にキスをし、ベッドに入った。
その夜、家は物音がしなかった。
「いやだわ」ルーシーは豚のぬいぐるみに言った。「静か過ぎるわ!」
だがすぐにルーシーは目を閉じ、ぐっすり寝入った。
真夜中に、吠える声、悲しい鳴き声、どすんばたんとぶつかる音が聞こえた。そして──

──狼が 壁から 出てきた。

「まあ、なんてこと!」ルーシーの母親が叫んだ。
「狼が壁から出てきた!」ルーシーの父親が叫んで、ルーシーを抱き上げ、ルーシーと最高のチューバを抱えて、階段を駆け降りた。
「おしまいだ!」弟がその横の階段を飛び降りながら叫んだ。
家族は裏口から庭に出た。
そしてその夜は庭のふもとで身を寄せあった。
家のすべての部屋の電気がついていた。
家に戻ると、狼たちがテレビを見、家族の食料庫から食べ物を出して食べ、階段を上り下りしながら狼のダンスを踊っているのが分かった。
「北極に行って生活しなければならんな」父親が言った。「そこの家は氷と雪の壁でできていて、何百キロもの間に、北極熊とアザラシしかいないのだ。壁から狼が出てきたら、他にできることはないよ」
「ふんっ!」ルーシーは言った。
「サハラ沙漠に行って生活しないといけないわ」母親が言った。「壁は色のついた絹のテントで、熱風にはためいて、何千キロもの間に、ラクダと沙漠の狐しかいないのよ」
「いーだ!」ルーシーは言った。
「僕たちは宇宙に行って生活しないと」弟が言った。「金属の壁とちかちか点滅する照明のついた軌道宇宙ステーションに住めるよ。何十億キロの間、フーズルとスコサックしかいないんだよ」
「フーズルとスコサックって何よ?」ルーシーがきいた。
「宇宙の生き物だ」弟は言った。「脚がたくさんある。スコサックは別だけど。脚が全くないから。でもとても友好的なんだ」
「自分の家以外に住むのは絶対いや!」ルーシーは言った。「それに、豚のぬいぐるみ忘れてきたし!」
「どこかに引越したら、新しいの買って上げるわよ」母親が言った。「さあ、眠りましょう」
庭のふもとは肌寒く、ルーシーはぬいぐるみの豚が恋しかった。
「あの子は、家の中に独りぼっちで狼といるんだわ」ルーシーは思った。「きっとあいつら、あの子にひどいことをするわ」
そこでルーシーは鼠よりもおとなしく庭を這いあがり、後ろの階段をのぼり、裏口から家に入った。
ルーシーは家の裏口の小さなホールに立っていた。すると狼が階段を下ってくる音が聞こえた。
狼たちはテレビの前でトーストにジャムを塗って食べており、追加を取りに戻ってきたのだ。
ルーシーはどこに行けばいい?
何ができる?
こうもりの羽根の羽ばたきのようにすばやく、ルーシーは壁に滑りこんだ。
そして家の内側を這い回った。階下から中央を通り、自分の寝室の壁に入りこんだ。
何よりも太った巨大な狼が、ルーシーのベッドで寝ていた。
二本の後ろ肢と、片方の耳と、尻尾の先に靴下を穿いている。
そしてすごく大きないびきをかいている。
ルーシーはベッドの上にかかった絵を押し開け、下に降りた──
注意深く──
静かに──
そして床から豚のぬいぐるみを拾い、抱いてやった。
「ぐおー んがー」熟睡している狼がいびきをかく。
影のように静かに、ルーシーは古い人形の家の上に乗り、そこから箪笥の上に乗り、そこから暖炉の上に乗り、絵の後ろにもぐり、壁の中に戻った。
「壁の中はちょっと居心地がいいわね」ルーシーは思った。
「あなたのこと、とても心配だったのよ!」ルーシーは豚のぬいぐるみに言い、とても強く抱きしめた。
壁の中を這い回って、ルーシーは庭に戻った。
「どこに行ってたの?」家族がきいた。
「戻って、豚のぬいぐるみを取ってこなくちゃいけなかったの」ルーシーは言った。
「新しいのを買ってあげると言ったじゃない」母親が言った。「ピンクで新しくて、灰色にならないのを」
「だから、あたしの豚のぬいぐるみを取りに戻ったのよ」ルーシーは言った。
そして、ぬいぐるみを抱きしめて眠った。
翌朝、ルーシーの母親は仕事に行き、弟は学校に行き、ルーシーと父親は庭の下で座っていた。
父親はチューバの練習をし、旅行ガイドブックを読んだ。
「僕たちは沙漠の島に行って生活できる」父親はその夕べ中ずっと、そう話していた(夕食を食べながら。夕食は、母親が仕事帰りに買ってきた、ハンバーガーと、フレンチフライと、中がすごく辛い小さなアップルパイだった)。「僕たちは海の真ん中の島で、草の壁の草の小屋で生活できるよ。島には山羊しかいないし、海には魚しかいない」
「私たちは熱気球で生活できるわ」母親が言った。
「僕たちはすごく高い樹の上の樹の家で生活できるよ」弟が言った。
「家に帰って生活することもできるわ」ルーシーが言った。
「なんだと?」父親が言った。
「なんですって?」母親が言った。
「なんだって?」弟が言った。
「何と?」庭仕事を手伝うためたまたま来ていたマレーシア女王が言った。
「えーとね」ルーシーが言った。「家の壁にはたくさんの空間があるの。そして、そこは少なくとも寒くないわ」
「狼はどうするんだ?」父親がきいた。
「家の中にいるわ」ルーシーは言った。「壁にはいない」
ルーシーの母親と父親と弟は、うなって眉をしかめた。でも、誰ももう一晩庭の下で眠りたくはなかった。
小屋の中で眠ろうとしたが、芝刈り機と大黄の肥料の匂いが強烈だった。
だから、みんなで階段を這い登った──
裏口から──
裏のホールへ──
壁の中へ。
「すごく静かにしないとね」ルーシーは言った。
だが狼が大きな音を立てるので、誰にも聞こえなかった。
家族は家の壁の中を這い回り、肖像画の目の穴や物の割れ目から覗いた。
テレビを見てポップコーンを食べている狼たちがいた。
テレビのボリュームを最大限に上げていた。そして、床中にポップコーンをこぼし、ポップコーンは、食べかけのジャム・トーストにくっついた。
階段を駆け上る狼がいた。
欄干を滑り降りる狼がいた。
狼の中には、家族の一張羅の服を着ているものもおり、尻尾を出すため後ろに穴を開けていた。
真夜中に家族は目覚めた。狼がパーティをしているのだ。
歌い、踊り、ジョークを飛ばしている。
狼の一匹が弟のテレビゲームをやっている。そして、すべてのハイスコアの記録を破っていた。
狼の群の中で最も若い二匹が、ルーシーの母親の作った自家製ジャムの瓶に頭を突っ込み、ジャムを瓶から直接食べては、ジャムを壁中に塗りたくった。
最も大きく太った狼は、父親の二番目にいいチューバで、古い狼のメロディを吹いていた。
「わたしのジャムが! わたしの壁が!」母親が言った。
「ぼくのテレビゲームのハイスコアが!」弟が言った。
「ぼくの二番目にいいチューバが!」父親が言った。
「いいわ。もうたくさん」ルーシーが言った。
壁には十分な空間はなく、古い壊れた椅子があるだけだった。
ルーシーは椅子の脚を拾った。
「同じく、こんな狼はもうたくさん」父親が、母親が、弟が、言った。
家族一人一人が、壊れた椅子の脚を拾った。
「準備はいい?」母親が言った。
「いいとも」他の全員が言った。
そして──
「あひゃー!」狼たちは吠えた。「人間が壁から出てきたぞ!」
「人間が壁から出てきたら、おしまいだ!」いちばん大きく太った狼が、チューバを脇に放り出して叫んだ。
狼たちは家中を走り回り、一番大事な持ち物をかき集めた。
「逃げろー!」狼たちは叫んだ。
「逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 人間が壁から出てきたりしたら、おしまいなんだ!」
狼たちは階段を駆け下り、お互いに体をぶつけてよろめきながら先を急いで走り、家から外に逃げ去った。
「いったい、誰が考えたんだ、こんなこと?」狼の一匹がぼやいた。
そして狼たちは走り、走り、走り、走り、真夜中に人間が壁から飛び出してほーほー叫び、人間の歌を歌いながら、椅子の脚を振り回すことの絶対なさそうな場所に着くまでは、走るのをやめなかった。
狼たちが北極に行ったのか、砂漠に行ったのか、宇宙に行ったのか、全く違う場所に行ったのかは、誰も知らない。
だがその日から今日まで、あの狼たちは二度と目撃されていない。
家を狼たちが壁から出てくる前の状態に近いものに戻すための掃除には、数日を要した。
だが結局すべてが前の状態に戻った。ひどいジャムのダメージをこうむった父親の二番目にいいチューバを除いては。
そこで父親は二番目にいいチューバを売り、前から欲しかったスーザフォンに買い換えた。
そしてすべてが原状に復した──
そしてルーシーが何かおかしなことに気づいた。
ルーシーは、古い家の中で、かさこそいい、引っかき、押し合い、きいきいいう音を聞いた、そして、ある夜──
──ルーシーは、まさしく、象がくしゃみをしようとしているような音を聞いた。
ルーシーは豚のぬいぐるみを取りに行った。
「他の人に言ったほうがいいと思う?」ルーシーは言った。「この家の壁の中に象が住んでいることを」
「絶対すぐにばれることよ」豚のぬいぐるみはルーシーに言った。
そしてその通りになった。
~おしまい~



二〇〇五年度 受賞

メイフラワー二号 MayflowerII スティーヴン・バクスター


世界が終わる二〇日前、ルーセルは自分が救われると聞かされた。
「ルーセル、ルーセル──」ささやき声は執拗だ。ルーセルは寝返りを打ち、いつもの軽い鎮静剤の効果を払いのけようとした。枕は汗で湿っている。ルーセルの動きに部屋が反応する。やわらかい光が周囲の空気に溶け込む。
ベッド脇の空中に兄の顔が浮かんでいる。ディラクは口を大きく開けて笑っている。
「レテの神よ」ルーセルはしわがれた声で言う。「醜いやからめ」
「お前はただ嫉妬しているだけだ」ディラクは言う。〈ヴァーチャル〉は兄の顔を普通よりも横幅が広く見せている。鼻も高く見える。「起こしてすまんな。だが、おれは聞いたんだ──お前に知らせる必要があると思ったから──」
「何をだい?」
「ブレンが診療所に来たんだ」ブレンというのは第三船に割り当てられているナノ科学者だ。「聞いてくれ。ブレンは心雑音がある」ディラクの顔に笑みが戻った。
ルーセルは眉をひそめた。「そんなことをいうためにおれを起こしたのか? ブレンも気の毒に」
「それほど深刻な病状じゃないんだ。ただ、ルース──遺伝性のものなんだよ」
鎮静剤でルーセルの思考は鈍っている。理解するのに少し時間を要した。
五隻の船は、迫り来る危機から〈ポート・ソル〉の最後の希望の光を解き放つために出発することになっている。とはいえ、光速より遅い。目的地に着くには何世紀もかかるだろう。肉体もゲノムも最も健康な者だけが、世代宇宙船への乗船を許されるのだ。もしブレンが遺伝性の心臓疾患を持っているのなら──
「ブレンは船に乗れない」ルーセルは息を吐き出すように言った。
「つまり、お前は乗船できるということだよ。この氷の塊の住人の中で、お前は二番目に優れたナノ化学者だ。〈連合〉がここへ来るとき、お前はいなくていいんだ。お前は生き延びられるんだよ!」
ルーセルはつぶれた枕に頭をもたれた。感覚が麻痺している。
ディラクは話し続けた。「〈連合〉のもとでは、家族が違法だって知ってるか? 〈連合〉市民はタンクで生まれるんだ。おれたちの関係そのものが、おれたちを滅ぼすんだぜ、ルース! おれは第五船から第三船への移動を願い出ているところだ。もし一緒に行けるなら、いいと思わないか? 難しいって分かってるけどな。でもおれたちは助け合えるよ。何とか通してみせる──」
ルーセルが考えられるのはローラのことだけだった。ローラを置き去りにしなければならない。

* ****

翌朝ルーセルは〈先祖の森〉でローラと待ち合わせした。〈泡輪表層車〉に乗り、朝早く出かけた。
ポート・ソルは直径二〇〇キロの氷と岩のもろい球だ。実際、太陽系形成時に未完成のまま残された微惑星体に過ぎない。そこに人が住むようになってから一〇〇〇年が経ち、表面は大々的に加工され、石や氷が切り出され、穴が開けられ、見捨てられた町が散在していた。だが、人間によるポート・ソルの長期にわたる利用を通じて、全くダメージを受けていないエリアもあった。ルーセルは車を運転しながら、印のついた軌跡に沿って走り、四十億年以上もの間この星の表面に結合している繊細な氷の彫刻を踏み潰さないようにした。
ここは太陽系のまさに縁だ。空は星の浮かぶ天蓋。銀河の乱れた光が、天頂から何気なく照らしている。その放散する光の中に太陽がある。最も明るい星だ。影を作るほど明るい。だがあまりに遠いので、ピンの穴のようだ。太陽の周りに小さな光だまりが見える。あれは〈内系〉だ。さまざまな世界や、衛星や、小惑星や、塵やかけらから成る円盤だ。三〇〇〇年ほど前、最初の惑星間飛行の以前、あらゆる人類の歴史の見本市だった場所だ。そして今なお、ほとんど目に見えないわずかな人類の故郷である。今、あの青白い明かりの中から、罰を加えるための船団がポート・ソルに向かいつつある。
そして氷の衛星の間近な地平線の上に見えるのは、ずんぐりした円筒だ。淡い垂直な日光の中で、霞んで見える。第三船。大いなる暗闇に向かって飛びたつ準備を進めている。
この全状況は、エイリアンの〈クワックス〉からの地球解放の歓迎すべからざる結果だった。
〈暫定政府連合〉は、新たに解放された地球の混沌の中から生まれた、新しく、イデオロギー的に純粋で、邪悪な決意に満ちた政府である。容赦なく、気が短く、何者も許さないこの〈連合〉は、既に太陽系の世界や衛星の間に自らの地位を確立している。〈連合〉の船が来たとき、望みうる最良のものは、コミュニティが破壊され、装備は押収され、住民は〈再調整〉のために地球や月の監獄収容所に送られるということだ。
だが、にっくきクワックスと協力した者をかくまっているのを見つかれば、その罰はもっと極端だ。ルーセルの聞いた言葉は〈再舗装〉である。
今や連合の興味はポート・ソルに移っている。この氷の衛星は、五人のファラオに統治されている。ファラオは実際にクワックスと協力していた──もっとも、「〈占領〉の効果を人類の利益になるように調整する」という言い方をしていたが──そして、見返りとして、加齢防止措置を受けていた。ゆえにポート・ソルは〈違法な不老不死者と協力者の巣窟〉である、と連合は呼んでいた。そして連合の軍が〈掃討〉のために派遣された。連合は、ファラオだけでなく、五万人ほどの住人がポート・ソルを故郷と呼んでいる事実に無関心なようだった。
ファラオは地球に深いスパイのネットワークを持ち、ある種の警告を受け取っていた。移民たちはわずかに古い兵器の軽い砲兵台程度しか持たず──じっさい、占領からの避難所である衛星全体が、かなりのローテクだった──誰も抵抗できそうになかった。だが、逃げ道はあった。
五隻の頑丈な船がすぐに集められた。ファラオを船長とするそれぞれの船で、二〇〇人の住人が、健康や技術によって選抜され、脱出する予定だった。五万人の人口のうち、おそらく全部で一〇〇〇人が、来たるべき災厄から救われるのだ。ポート・ソルには光速を超える輸送技術はない。世代宇宙船になるだろう。だがきっとそれでいい。星の間には隠れるべき空間があるから。
こういった強い歴史の力が今やルーセルの生活にのしかかってきている。そして、恋人から引き離すぞと脅してきている。
ルーセルは有能なナノ科学者だ。ちょうどいい年齢であり、健康も家系も純潔だ。だが兄と違い、五〇分の一のくじに当たって船に乗る資格を得る運はなかった。二八歳だ。死ぬような年ではない。だが運命を受け入れた。そう信じていた──というのも、恋人のローラは資格を得る望みがゼロだったから。ローラは二〇歳の学生で、将来性のある〈ヴァーチャル〉のアイデアリストだったが、チャンスを争う成熟した才覚はなかった。それゆえ少なくともルーセルはローラと死ぬつもりだった。それが慰めに思えた。自分に正直だった。この静けさも、連合の船がポート・ソルの暗い空に現れたら続くことはあるまい──そして今、ルーセルはこの衛星の未来を見届けることはできなくなったらしい。
ローラは〈先祖の森〉で待っていた。二人は表層で会い、スキンスーツ越しにきつく抱き合った。それからドームテントをセットし、折りたたみ式エアロックに潜り込んだ。
森の長い陰の中で、ルーセルとローラは愛を交わした。初めは忙しく、続いてもう一度、もっとゆっくり、注意深く。ハブの中では、慣性発生器が重力を基準の六分の一、地球の月とほぼ同じに保っている。だがこの森では重力コントロールはない。二人は抱き合ったままテントの冷たい空気を漂う。夢のように軽く。
ルーセルがローラにニュースを伝える。
ローラはスリムで繊細だ。この低重力衛星の住人は、背が高く、骨格が細いが、ローラは誰よりもか弱い妖精に見える。そして大きな黒い目は、いつも少し焦点が合わず、どこか他に注意を奪われているようだ。初めルーセルが魅かれたのはその異世界然とした脆さだった。そして今は、ローラを恐る恐る見ていた。
脚の上に毛布を巻きつけ、ローラはルーセルの手を取り、微笑んだ。「怖がらないで」
「おれは生き残るんだよ。どうして怖がるんだい?」
「あなたは死を受け入れたじゃない。今度は生きるという概念に慣れないといけない」ローラはため息をつく。「同じぐらい難しいわよ」
「そしてきみなしで生きるんだ」ローラの手をぎゅっと握る。「たぶんそれが一番怖い。きみを失うのが怖い」
「わたしはどこへも行かないわ」
〈先祖〉の静かで注意深い姿に目をこらす。三、四メートルの高さがあるこの〈木々〉は、氷の地面に〈根〉を生やす切り株だ。生き物であり、ポート・ソルの低温の原始的生態系の最も進んだメンバーだ。ここはその定着性のステージなのだ。この生き物は若いころ〈道具作り〉と呼ばれ、動くし、実際に知性もある。ポート・ソルの荒れた地面に広がり、適当なクレーターの斜面や尾根を探す。そこで根を降ろし、神経組織と精神を解放し、溶解させる。目的が達成されたから。ルーセルは思う、残った精神をゆっくりと流れるのはどんな冷たい夢なのだろうか、と。もはや決断を超越している。ある意味でうらやましい。
「きっと連合は〈先祖〉を許すよ」
ローラは鼻を鳴らす。「まさか。連合は人間のことしか考えない──それも自分たちと同種の人間」
「おれの家族は長い間ここに住んできたんだ」ルーセルは言う。「おれたちは植民第一波とともに来たんだという話もある」伝説的な時代だ。偉大な技師マイケル・プールが、あちこち渡り歩きながら遂にここポート・ソルにたどり着き、偉大な船を作ったという。
ローラは微笑んだ。「大抵の家族はそういう話を持っているわ。何千年もたってるのに、誰に分かる? 分からないわよ」
「ここはおれの故郷だ」ルーセルがいきなり言う。「これはおれたちの滅亡じゃなくて、おれたちの文化、遺産の滅亡だ。おれたちが頑張って築いてきたもののすべてが」
「でもだからこそあなたが貴重なの」ローラは上体を起こし、毛布を落とし、両手をルーセルの首に巻きつける。ソルの暗い光の中で、その目は液状の暗闇のプールだ。「あなたが未来。ファラオは言うわ、長い目で見て、連合はわたしたちだけでなく、人類を滅ぼすと。誰かがわたしたちの知識を伝えなければ。わたしたちの価値を、未来に」
「でもきみは──」〈きみはひとりぼっちだ、連合の船が来るときは〉決断が閃く。「おれはどこにも行かない」
ローラが身を引く。「何ですって?」
「おれは決めた。アンドレに言う──兄にも。ここを出られない、きみなしでは」
「行かなきゃだめ」ローラは断言する。「あなたこそ仕事に適任。ねえ信じて、もしそうじゃないなら、ファラオはあなたを選ばなかったわ。だからあなたは行きなさい。それが義務よ」
「愛するものを見捨てるのは、最低の人間だ」
ローラの顔はこわばり、二〇歳という年齢に似ず大人びた口調になる。「死ぬのはもっと簡単。でもあなたは生きないと。生き続けるの。機械のように。任務が終わるまで。人類が生き延びるまで」
ローラの前では、無力で未熟になった気がする。ローラにしがみつき、その首筋の柔らかなぬくもりに顔を埋める。
〈一九日〉ルーセルは思う。〈まだ一九日ある〉一分一分を大切にしようと思う。
だが実をいうと、実際の持ち時間ははるかに少なかったのだが。

*****

ふたたびルーセルは暗闇で目覚めた。だが今度は部屋の光が最大になり、目がくらんだ。ベッド脇の宙に浮いているのは、女ファラオのアンドレの顔だった。ルーセルは困惑して身を起こした。体が鎮痛剤でだるい。
「──三〇分です。第三号船まで、三〇分以内に来なさい。スキンスーツを着て。他には何も要りません。もし間に合わなければ、置いていきます」
はじめルーセルにはアンドレのいう意味が飲み込めなかった。思わず相手の顔を見つめていた。女ファラオの頭には髪がなく、頭皮は禿げて、まつげすらなくなっている。肌は奇妙にすべすべで、目鼻は小さい。若くは見えないが、その顔は時間とともに昇華したように、ポート・ソルの氷の風景のように、古い表情が綺麗に上書きされてなくなったように見える。実年齢は二〇〇歳という噂だ。
突然、ファラオの言葉が意味を結んだ。「このメッセージを吟味している暇はありません、すぐに動きなさい。二九分後に出発します。第三号船の乗員には、あと二九分しかありません──」
アンドレは間違いを犯した。それがルーセルの最初に考えたことだ。連合の船が来るまでにあと一六日あることを忘れたのだろうか? だがアンドレの顔を見ると間違いではなさそうだ。
〈二九分〉ルーセルはベッド脇のキャビネットに手を降ろし、ナノ錠剤を取って、水なしで飲み込んだ。現実が色あせ、冷たく無味乾燥になった。
ルーセルはスキンスーツを着け、荒っぽく密封した。部屋を見回し、ベッドを見、二、三の家具を見、ローラの写真が飾ってあるドレッサーの上の〈ヴァーチャル〉ユニットを見た。〈何も持っていくな〉アンドレはほんの少しでも逆らってはならない女だ。
振り返りもせず、ルーセルは部屋を出た。
外の通廊はすごい有様だった。一〇〇〇人の人々がこの氷の下の住居を共有しているが、今夜は全員が外に出ているようだ。右往左往し、多くの人がスキンスーツを着ている。中には束ねた道具を引きずっている人も要る。ルーセルは群衆をかき分けて進んだ。パニックの感覚が感じ取れる──そして、再生された空気に乗って、火が燃える匂いがすると思った。
心臓が沈む。明らかに逃げようと争っているのだ──だが衛星を抜け出す唯一の方法は船だ。そして、一〇〇〇人以上の人は乗せられない。
ルーセルは目を疑った。突然残り時間が失われたことで、このパニックが引き起こされたのか? だが、この人たちはポート・ソルの市民だ。これは究極の非常事態だ。みな、自分の価値観を見失い、共同体の感覚を失ったのか? 自分の席のない船に殺到し、他の者を押しのけることで、いったい何を期待しているのだろう? 〈でもおれはどうするんだ?〉ルーセルは贅沢にも高貴さを保つことができる。ここから抜け出そう。
あと二〇分。
ルーセルは周縁コンコースに着いた。ここで、表面車が簡素なエアロックの列に突っ込んでいた。ロックの一部は既に開き、人々は殺到し、子供や荷物を押し込んでいる。
ルーセル自身の車はまだそこにあった。それを見て安心した。スキンスーツの手袋を開け、急いで手のひらを壁につける。ドアはきいと鳴って開く。だが通り抜ける前に、誰かが腕をつかんだ。
男がルーセルと向かい合っていた。見知らぬ、背が低くがっちりして、およそ四〇歳ぐらいの男。その後ろに女が小さな子供と赤ん坊を連れている。大人たちは背中に毛布の包みをしょっている。男はエレクトリック・ブルーのスキンスーツだが、家族は〈ハブ〉の服を着ている。
男は必死で言う。「兄さん、あんた、あの船に部屋があるのかい?」
「ないよ」ルーセルは言った。
男の目が険しくなった。「聞いてくれ。ファラオのスパイは間違えていたんだ。急に、連合があと七日のところだと分かったんだ。連合は家族を破壊するんだろう? おれにもチャンスをくれ」
〈でも、あんたの席はないんだよ。分からないのかい? それにたとえあるとしても──〉出発する船には子供は乗せられない。ファラオの厳格な規則だ。長い航海の最初の年月には、すべての乗員が極限まで生産的でなければならない。生殖のための時間はあとに訪れるのだ。
男は拳を固めた。「聞いてくれ、兄さん──」
ルーセルは男の胸を押した。男は後ろに倒れ、子供の上にのしかかった。毛布の包みは破れ、品物が床に散らばった。服、おむつ、おもちゃ。
「お願い──」女はルーセルに近づいた。夫をまたぎながら。赤ん坊を差し出す。「連合にこの子を連れて行かせないで、お願い」
赤ん坊は温かく、柔らかく、微笑んでいる。ルーセルは思わず手を伸ばす。だが凍りついて止まる。そしてそっぽを向く。
女は後ろから呼び続けたが、ルーセルは考えまいとした。〈どうしてそんなことができる? おれはもう人間じゃない〉ルーセルは思った。車に乗り込み、ドアをばたんと閉め、コントロールパネルのプリセットされた自動操縦ボタンを押す。
車はエアロック・インターフェイスを離れて進み出す。あらゆる安全プロトコルを無視し、泡車輪(バブルホイール)を転がして、氷の下の居住区から地表へ坂を上がっていく。震えながら、ルーセルはバイザーを開く。エアロック・ポートには運の尽きたあの家族が見えるかも知れない。ルーセルは振り向かなかった。
こんな風になるとは予想もしていなかった。
アンドレのヴァーチャルの顔が目の前にある。「第三船まで一六分。もし間に合わなければ置いて行きます。一五分四五秒。一五分四〇秒──」
地表は居住区と同じぐらい混乱している。あらゆるタイプ・年式の車が辺りを走り回っている。〈守護者〉やファラオ警察の姿はない。ルーセルは逮捕されるのを恐れた。
ルーセルは群衆をかき分けて進み、〈先祖の森〉を三号船に向かう道に向かった。ここでは交通量が多い。だが、多かれ少なかれ秩序だっており、誰もがルーセルの向かう方向に向かっている。ルーセルは車のスピードを制限速度いっぱいに上げる。それでも次々と追い抜かれ、焦りに胃が痛む。
〈先祖〉の静かな肖像がソルの低い光の中に輝く〈森〉は、最後に見たときと変わっていないようだ。ほんの数日前、ローラに会いに行った時と。突然、たくさんの時間を失ったものだと、不条理な怒りを感じた。ローラへの時間をたっぷりかけた別れの計画がだめになってしまった。いったい今、ローラはどこにいるのだろう。電話をかけられるはずだ。
〈一三分〉時間がない、時間が。
前方の車の流れは遅い。列の後方の車は隙間を縫って割り込もうとしている。そして、隙間のない密集した車の群にぶつかる。
ルーセルはコントロール・パネルを押し、頭上にヴァーチャル映像を呼び出す。絡み合う車の群の前方の道路をまたいで、乱暴に溝が掘られている。人々が集まっている。何百人という人が。バリケードだ。
〈一一分〉一瞬、頭がポート・ソルの氷のように凍りつく。荒れ狂い、とまどい、罪悪感にとらわれ、考えることもできない。
そして、頑丈な長距離トラックが後方の群から飛びだした。道の左側にそれて、森の中を進もうとし始めた。エレガントな八つの先祖の姿は、氷の彫刻に過ぎないが、トラックの推進力の前に崩壊した。醜い。しかも、一つ一つの力がもう何世紀も生きられるはずだった命を根こそぎ奪っただろう。だがトラックは道を作っていた。
ルーセルはコントロールバーを引き、車を道路からそらした。トラックがつけた道にはルーセルの前に数台しかいない。トラックは素早く進み、ルーセルもスピードを上げられた。
自分たちはバリケード位置まで近づきつつあると分かった。いくつかのライトが道を離れ森の中を照らす。だが標的が容易に逃げるので、バリケードの係員はいらだっている。ルーセルは高速を保った。あと数秒で最悪の事態は免れる。
だがすぐ前方に人影が立っていた。ヘルメットのランプは明るく、エレクトリック・ブルーのスキンスーツを着て、両手を上げている。車のセンサーが人影をとらえると、安全装置が割り込み、たじろぐのを感じた。〈九分〉手のひらでコントロール盤を叩き、安全装置を解除した。
立ちふさがる者を車がはねるとき、ルーセルは目を閉じた。ルーセルはその青いスキンスーツを覚えている。エアロックで見捨てた男。家族を救おうと必死だった男。他人の勇気や倫理や忠誠を批判する権利は自分にはない、そう分かった。〈おれたちはみな動物だ。生きるために戦う。三号船に乗ったからといって事態はよくはならない〉ルーセルには相手を見ている余裕もなかった。
〈八分〉ルーセルは安全装置を無効にし、何もない道路を進んでスピードをむしろ上げた。

*****

三号船に着くまでにもう一つ検問を突破しなければならなかった──だが、こちらは〈守護者〉が番をしていた。少なくともこの人たちはまだ職務に忠実だ。道幅いっぱいに整然と並んでいる。明るい黄色のスキンスーツの制服。五隻の船の周囲をしっかり固めているのは明白だ。
並ぶのは苦痛だった。アンドレの期限までわずか五分。守護者はノズルを車のウインドウに当てる。レーザーライトでルーセルの顔を照らす。そして手を振って通す。
三号船は目の前にあった。それは太鼓に似ている。ずんぐりした円柱で、直径一キロメートル、高さはその半分。クレーターの底にある。ポート・ソルの氷は穴を開けられ、船体の表面にざっと塗りつけられていた。船というよりも建物みたいだなあと思った。厚い氷でコーティングされた建物。まるで長い間放置されたように。だがそれは本当に宇宙船だ。何世紀もかかる旅のために設計された船。そして水晶の泉がその基部で綺麗な放物線を描いている。人々は基部の周りを歩き、低重力の中で不格好に走り、船体から地面に舌のように伸びるタラップを駆け上がって行く。
ルーセルは車を捨て、氷の上によろめき出て、最寄りのタラップへ走った。派手な黄色い制服の守護者がIDチェックをする間、胃がきりきり痛む思いを味わった。ついに、まぶしいレーザーライトがもう一度目に当てられて、ルーセルは通された。
エアロックへ走った。エアロックが回転する間に、船に乗ってしまえばもう出られないのだという考えが浮かんだ。おれがどうなろうと、船が全世界なのだ、おれが今から死ぬまでの間ずっと。
ロックが開いた。ヘルメットを剥がす。光は赤い非常サインを示す。船中にクラクションが鳴る。空気は冷たく、恐怖の匂いがする。レテの神よ、おれは乗ったんだ! だがもう一分もない。冷たい氷に縁取られた通廊を、明るい内部に向かって走る。
巨大な円形の部屋に着く。大雑把な円形で、加速緩衝ソファが一面に備えられている。人々は群をなして空席を探している。馬鹿げた風景に見える。子供の遊びみたいだ。空からアンドレの声が響き渡る。「ソファに座って。どこでも構いません。四〇秒。シートベルトをして。誰も助けてくれません。自分の安全は自分の責任です。二五秒」
「ルース! ルーセル!」人ごみの向こうで誰かが手を振るのが見える。兄のディラクだ。トレードマークのオレンジのスキンスーツを着ている。「レテの神よ、お前に会えてよかった。お前の席を取っておいたんだ。さあ、来い!」
ルーセルは人ごみをかき分けた。一〇秒。体をソファに投げ出す。かさばるスーツの上にシートベルトがおっかなびっくり締まる。
手さぐりしながら、頭上に浮かぶヴァーチャルのディスプレイを見上げる。船の先端のつぶれた部分から見下ろした映像だ。舌のようなタラップはまだ氷に向かって突き出したまま輝いている。だが今や丸い船体の基部に黒い群衆が湯気のようにまとわりついている。徒歩や車の人たちの群れが殺到しているのだ。群衆の間に、明るく黄色い点が見える。そのとき、守護者の一部が司令官のほうを向いた。だが他の者はじっと立ったままだ。最後の一瞬、ルーセルは明るい武器の光を見た。それは船の基部を覆い尽くした。
船の基部から明るく白い輝きが噴き出した。ポート・ソルの氷だ。熱せられて何万度という温度で蒸発している。おぞましい景色だ。ルーセルは身震いする。深い腹の底で。船は同時に上昇を始め、ロケットの土手の上に巨体が打ち上がる。
この大規模な蒸気の噴射が終わると、ルーセルは氷の上に倒れて動かない小さな形を見た。忠実な者もそうでない者も等しく、一瞬のうちに絶命したのだ。大きな悲しみがルーセルを襲う。ディラクの運命の電話を受けて以来、頭の中に渦巻いたすべての感情の合成。恋人を見殺しにしたのだ、おれは。他の者もおれが殺したようなものだろう。下の氷の上で死んでいる人たちがいるというのに、おれはのうのうとここに座っている、安全に。こんなことが平気でできるおれは、何という人間だろう。この悲しみ、恥辱は、決しておれから去ることはないだろう。
既に氷の平原は後退し、重力が胸を押さえつけ始めている。

*****

すぐに別の船は星のはざまで見えなくなる。まるで宇宙に三号船しかいないようだ。
この一〇〇〇年に及ぶ旅の幕開けで、三号船は蒸気ロケット以外の何物でもなく、エンジンは氷の板を地道に溶かし、巨大なノズルから噴き出し続ける。だがこのエンジンは宇宙の膨張そのものの活力源となったエネルギーを引き出しているのだ。やがて船は回転しながら人工重力を作り、外部ラムジェットに切り換えて推進し、真の旅が始まる。
最初の数時間で、この旅全体でも最も過酷な加速が行われた。船はポート・ソルから自らをもぎ離した。そのあと、加速は標準の約三分の一に抑えられた──月の重力の二倍、ポート・ソル住民がなじんでいる重力の二倍である。当面、加速緩衝ソファは巨大な基盤円形スペースにそのまま残され、夜には全員がそこで眠るのが見える。二〇〇人全員が一つの巨大な寮に集まり、通常の二倍の重力に筋肉が身もだえするのだ。
計画では船は二一日間、太陽系の光の塊に向かって進む。木星の軌道辺りまで行く。そこで巨大な惑星の重力場を使って、船を最終目的地まで放り投げるのだ。外に出るためにいちばん内側まで自分を投げるというのはパラドックス的に思える。連合のホームテリトリーに向かって。だが宇宙は広い。船の軌道は近づく連合の船団の軌道を避けるように計画されている。その間、船同士で交信することもなく黙って進むのだ。見つかる可能性は無視できるほど低い。
過酷な重力にもかかわらず、最初の日々は全員にとって忙しかった。船の内装は発射時の配置から、より高度の加速の局面に耐えられる装備に変えなければならない。そして長い航海の日課が始まる。
船は閉鎖環境で、内装のたくさんの滑らかな表面に、バイオフィルムや、狡猾で洗剤に強い虫たちの都市がたちまち形成される。それだけでなく、船の乗員の体から落ちたもの──皮膚、髪、鼻汁──がバクテリアの成長の基盤になった。すべて撲滅しないといけない。アンドレ船長は船を病院並みに清潔にしたいと宣言した。
最も効果的なのは──アンドレが執拗に使ういい方をすれば、最も〈未来耐久性がある〉のは──人間の筋肉を使う古風な方法だ。全員が参加義務がある、船長も。ルーセルは毎日規定の三〇分働く。一生懸命壁や床や天井を磨く。ナノフード貯蔵庫の周りで。そこが主な受持ちなのだ。頭を使わない仕事は歓迎だ。考える重荷から逃避する方法を探し続けている。
ルーセルはすぐに体を壊した。最初の二週間で、誰もが風邪をお互いにうつしあった。だがウイルスはすぐに少数の乗員全員に感染し終わり、ルーセルはぼんやりともうおれはどんな種類の風邪にもかかることはないだろうと安心した。
出発からしばらく後、ディラクが探しに来た。ルーセルは肘まで洗剤にまみれ、ナノフード貯蔵庫のごみ穴の汚れを探そうとしていた。ノンストップで働き詰めのルーセルは兄にほとんど会っていなかった。ディラクの陽気そうな様子にびびった。そしていかにエネルギッシュに空調システムの仕事に没頭しているかに。明るく自らの〈可愛い子供〉について話す。ファンやポンプや除湿器、加湿器、フィルター、洗浄器、酸素注入器について。
乗員は大まかに二つの集団に分かれるようだと、ルーセルは思う。外の宇宙がないように振舞う集団。明るく、向こう見ずで、声が大きく、聞こえよがしに笑う。他の集団は、ルーセル自身もそうだと思うが、反対側に退いている。内なる暗闇に。複雑な陰に満ちた世界に。
だが今日ディラクの雰囲気は複雑に見える。「弟よ、日数を数えているか?」
「出発から? いいや」考えたくもねえ。
「七日目だよ。見るべき場所があるっちゃ。観測ラウンジの一つだっちゃ。アンドレ船長は義務だといってるなり。でももし──」
ルーセルはしばらく考えた。七日目。連合の船団がポート・ソルに着く予定の日。そう考えてびびる大木。だがあの混乱した出発の日々で最悪の瞬間の一つは、必死の父親を突き飛ばして車を進めたときだ。相手が何をしているかを見る勇気すらなかった。たぶんこれが償いになる。「よっしゃ」ルーセルは言った。
三号船はほかの四隻と同様、太った円柱だ。観測ラウンジに行くのに、兄弟はエレベーターで上がらねばならない。数層のデッキを上がり、船の平らな鼻面の地点まで行く。その縁に近い。ラウンジは、ヴァーチャル生成器がたくさんあり、すでに回転局面に入っている。大抵の家具が壁に接着。やがてそれは床になる。五〇人は入りそうなほど大きい。ほとんど満員。ルーセルとディラクは人ごみに押し入る。
ファラオ・アンドレ──おっとそうだった、アンドレ船長になったんだと、ルーセルは思い出す──がいた。深い重厚な椅子に座っている。その正面には巨大な光るヴァーチャル。
目の前で氷の球が大きく回転する。むろんポート・ソルだ。ルーセルはすぐ古いクレーターの氷の地形を見分ける。その上に人間が作った石切り場や鉱山や居住区や町や着陸場の模様が見える。人の住む建物の中が光る。外宇宙の薄灯りの中で挑戦的に明るく。白と銀の彫刻、通廊で荒れ狂っているはずの混沌の陰も見えない。
その眺めにルーセルは息をつく。あのどこかにローラが! ほとんど考えるのも耐え難い。心の底から一緒に残りたかったと思う。
連合船団が近づく。
三次元イメージの端から船が実体化する。まるで別の現実から滑りこんだみたいじゃん。船団は五、六、七隻のスプリン戦艦に支配されている。幅一キロ以上の生きた船だ。追放されたクワックスから略奪したのだ。肉の球体であり、船体は武器とセンサーを備え、露骨に這い進む。自由な人間の象徴である緑色の四面体を掲げながら。
ルーセルの胃が恐怖にマンデイ満ちる。「すげえ大軍団じゃん」言う。
「ファラオを捕まえにきたんさ」ディラクが不機嫌に言う。「連合は力を見せびらかして自慢する。この手の映像は間違いなく太陽系中に送られている」
そして遂に始まった。最初のエネルギービームは桜色でおとなしかったが、ポート・ソルの氷は爆発して、細かいかけらの滝になって、地表を漂うか、宇宙空間に逃げるかした。それからもっとビームがじゃんじゃん氷を襲った。組織は内破し始め、溶けぶっ飛んだ。広がる水晶の雲は、一瞬の真珠のような空気になってポート・ソルを覆い始めた。静かで綺麗なほどだ。大規模すぎて、個々の死など見分け難い。エネルギーと破壊の舞踊術だ。
「乗り越えてみせる」ディラクがつぶやく。「乗り越えるんだ」
ルーセルは麻痺を感じた。悲しくない。ただ恥ずかしい。己の不埒さが。これは故郷の破壊だ、世界の破壊だ、想像を絶する。特定の個人、ローラに注意を定めようとする。何をしているか想像しようとする──まだ生きていればだが──たぶん壊れたトンネルを逃げ惑っている。深いシェルターに駆け込んでいるかも。でも、このラウンジの時計の音だけがする静けさの中で、新しい装備の新鮮な匂いの中で、想像すらできない。
攻撃が続き、ステータス表示の数字がめまぐるしく変わる。それは冒涜的なほどに恐るべき推定死者数を表示していた。

*****

ポート・ソルのトラウマのあとも、仕事を続けねばならない。中の人間が生きるための生態系を形成する仕事だ。
ルーセルは、船に乗っているベテランのナノ科学者であるという事実をふと自覚した。その仕事は、ナノフードバンクの整備だ。ごみを食料や、衣類のような消費財にリサイクルするシステムで重要な役割を果たす。この仕事は初めから必要だった。バンクはエイリアンの技術に基づいている。占領中のクワックスから掠め取ったナノデバイスだ。部分的にしか仕組が分かっておらず、気まぐれで扱い難かった。
共有することを約束されていた二人のアシスタントのうち──この小さく、技術が不足した新しい共同体では、大抵の人がゼネラリストになる──唯一この船に乗った一人は、あまり役に立たなかった。最後の椅子の取りあいで、乗員予定者の一〇%が乗れなかったことが判明している。逆にこの船の一〇%の人は本来乗るべきでなかった人ということだ。恥ずかしげな〈乗客〉のうち数人は黄色い制服の守護者だ。最後の瞬間、任務を放り出して船の中の避難所に駆け込んだのだ。
どうあっても仕事はこなさねばならない。急を要する。ナノフードが手に入るまで、船の一時的糧食は着実に減っていく。ルーセルへのプレッシャーは強い。だが仕事は好きだ。高重力下で心身ともに過酷だから、考える時間がなくて済む。夜にはソファに体を預けてすぐ眠れる。
一五日目にルーセルは小さな個人的勝利を達成した。ナノバンクから食料の最初の一片が作り出されたのだ。
アンドレ船長は小さな成功を祝う政策を取っていた。今、ここでルーセルが儀式的に最初の一片を食べるのを見ている。そのあと、自分も食べる。ものすごい拍手喝采。ディラクはいつも通り大げさに微笑む。だが、まだ内心麻痺したルーセルは、祝う気分でない。乗員のおよそ半分が、ある種のショック状態だ。人ごみからできるだけ早く逃れる。
二一日目、船は木星に最接近した。
アンドレ船長は、乗員を加速緩衝ソファのある大部屋に呼び集めた。二〇〇人全員を。そして上空にヴァーチャル・ディスプレイを作った。太陽は点であるが、ポート・ソルから見るよりもずっと明るい。木星は平らな雲の球だ。灰褐色のあざのような斑点がある──古代の戦いの跡らしい。ポート・ソルから外に出たことのある乗員はほとんどいない。みんな首を伸ばして見ている。
いちばん興味深いのは、星ぼしの背景を滑る四つの光の矢だった。他の船だ。一号、二号、四号、五号。小船団は木星で初めて集結し、以後二度と集結することはない。
アンドレは人ごみをくぐり抜けてソファに座る。そして全員が聞こえるような大声でしゃべリ、自らの権威を押しつけることなく、たやすく印象付ける。「わたしたちファラオは、目的地について議論しました」アンドレは言った。「その目的地は木星に着く前に決めなければなりません。木星の重力を利用してどの角度に飛ぶのかを決める必要があるのです。連合は意地悪で頑固ですし、光速より速い船を持っています。すぐに追いつくでしょう──でも宇宙は広い、五隻の静かに飛ぶ世代宇宙船を見つけるのは困難です。そうはいっても、ばらばらに進むのがいいのは明らかです。一つではなく五つの追跡目標を与えるほうが。
だからわたしたちには、五つの目的地があります」微笑みながら、アンドレは言った。「この船の目的地は、いちばんユニークです」
アンドレは他の四隻のターゲットをリストアップした。銀河の円盤中に散らばる星系──五〇〇光年より近いものはない。「どれも船の設計上、到達可能な範囲内です」アンドレは言う。「しかも、十分遠くて安全です。でもわたしたちは、もっと遠くへ飛ぶのです」
アンドレは光る船の映像に、赤く形のない霧の塊の映像を重ねた。「これは〈大犬座小銀河〉です。ソルから二万四〇〇〇光年です。いちばん近い衛星銀河です──でも主銀河それ自体の向こう側にあります。予見可能な未来に、連合が把握できる範囲のはるか外にあるのは間違いありませんよ」
ルーセルは大部屋中にため息が響くのを聞いた。銀河を超えるだって?──
アンドレはざわめきを鎮めるため両手を上げた。「むろんそういう旅はわたしたちの計画の範囲を超えています。それほどの距離を世代宇宙船が旅しようとしたことはありません。実現したことがないのはもちろんですね」尻に拳を当てて見まわす。「でももし一〇〇〇年間飛び続けられるのなら、一万年でも、五万年でも──飛べないはずがありますか? わたしたちは強い。連合とそのドローンのように、意志が強い──いや、それ以上です。わたしたちが正しいと知っているのだから」
ルーセルは、ファラオの決断に疑問を抱くことに慣れていなかった。だが、ひとにぎりのファラオが全乗員を代表して、そういう重要な決断をする傲慢さに疑問を感じている自分に気づいた──言うまでもなく、まだ生まれ来ぬ世代全員の利益も代表しているのだ。
だがディラクはつぶやいた。「それが大して重要だとは言えないよ。一〇〇〇年だろうが一万年だろうが、おれは一世紀以内に死んでるし、最後を見届けることはないんだから──」
アンドレは再び宇宙船を映した。木星が急速に大きく見えつつある。他の船がだんだん集まってくる。
アンドレは言った。「船の名前についても議論しました。これほど壮大な旅に、ただの番号ではふさわしくない。どの船にも名前をつける必要がある! わたしたちは、家である船に、、過去の偉大な思想家や船から取った名前をつけました」ヴァーチャルのイメージを次々と指差す。「ツィオルコフスキー。グレート・ノーザン。オールディス。ヴァンガード」乗員たちを見た。「そしてわたしたちにふさわしい名前は、たった一つです。初期の巡礼の一団のように、わたしたちは不寛容と圧政から逃れ、暗闇と未知の海へ乗り出そうとしています。時代の希望を抱えて。わたしたちは、〈メイフラワー〉です」
ポート・ソルでは歴史を学ばない。誰もアンドレが何の話をしているんだか、さっぱり分からない。
最接近の瞬間、木星の金褐色の雲の眺めが、逆さになって眺める乗員の顔の上に覆い被さった。船は木星の重力井戸をくぐり抜けた。いまだに沈黙の規則は破られておらず、五隻の船は互いに別れも告げずに別々の方向に進んでいった。
これからずっと、この目に見えない宇宙の道がどこへ連れて行こうとも、第二のメイフラワー号は孤独なのだ。

*****

数日が数週間になり、数週間が数ヶ月になるにつれ、ルーセルは仕事によりいっそう没頭し続けた──誰でもやるべき仕事がたくさんあった。
世代宇宙船を飛ばすという挑戦は、ある程度はなじみ深いものだ。ポート・ソルの住人は生態系合成技術の長い経験があるし、閉鎖的な人工環境の建設や維持についても同様だから。だが、ポート・ソルには、氷と、岩と、氷の衛星それ自体が依存する有機化学的資源がある。船は、今や外の宇宙から切り離されている。
ゆえに、空気や水や固体の循環は、一〇〇%に近い効率で維持されなければならない。微量な汚染物質や病原菌の抑制は、異常なほど厳格であることを要する。ナノボット(微小ロボット)の群が絶えず空中を走り回り、髪の毛や皮膚の断片を追跡する必要がある。空気漏れを防ぐための船の密閉が生命線だ──このためより多くのナノマシンが船体を固めることに労力を注ぐ。
それだけではない。船のデザインは急いで行われた。出発の時点で完成すらしていなかったのだ。船の建造は相当に急いで行われた。最後の一〇ないし一二日の