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容疑者のゲノム The Suspect Genome ピーター・F・ハミルトン

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容疑者のゲノム The Suspect Genome ピーター・F・ハミルトン


1 危険な取引

それは問題の月曜日の朝、まだ九時一五分だったが、九月の太陽は既に熱く、オーカムの路面のターマック舗装がやわらかくなるほどだった。リチャード・タウンゼントのメルセデスの幅広で弾力のあるタイヤは、路面の軽く粘りつくような感触にほとんど影響を受けることなく、黒いスポンジのような路面を通過しながら、狐が喉を鳴らすような音を立てた。
ラトランド局のラジオ番組が流れていた。バーン・タイラーのニュースにまだ興奮覚めやらぬ様子だ──この有名人の死が、付近のここ一ヶ月で最大のニュースだった。ニュースキャスターが、犯人が逮捕されないことについて捜査官にインタビューしていた。死体は金曜日に発見されたが、警察はまだ手がかりをつかんでいない。
リチャードがハイ・ストリートに曲がると、明らかに路面がよくなった。町の中心部は再び栄えている。地元の商店が、中心部の土地に進出しようとする全国チェーンの有名店としのぎを削りながら、この町に訪れた経済的繁栄の跡を追いかけつつ、その勢いを倍増させていた。リチャードは常々、消費主義の新しい波に興味を示さずにきたことを後悔していたものの、その旨味にあずかるバスにはもはや完全に乗り遅れていた。小売部門が復調し始めたPSP時代の直接の影響で、現金流通が甚だしく不足していた。
リチャードはピリングス産業地区に乗り入れた。ここは町外れの小工場や倉庫が立ち並ぶ地区だ。道路の右側に並ぶこぎれいな菜園の数々には、何列ものバナナの樹が植えられ、緑色のバナナの房が、蒸し暑いそよ風を受けてやさしく揺らめいている。と、その先では太い幹の列が突然途切れ、雑草がからんで垂れ下がった柵が、放置された荒地を取り囲んでいた。以前そこに建っていた工場の名残といえば、散らばったレンガのかけらや、壊れたコンクリートの土台が、からみつくイラクサや生い茂る蔓の合間に垣間見えるだけだ。新しい掲示板が鉄のように硬い茶色の粘土板に打ち込まれ、ここはゾーン七です、ラトランド開発委員会・タウンゼント地所共同による再開発予定地です、と告げていた。
ゾーン七は見るものを困惑させる。ピリングス地区に入ると最初に目に入る土地である。悪しき昔の時代の、崩壊寸前の遺物だ。ピリングスという皮肉な存在が、現実のサクセスストーリーとなりつつある。もともと存在していた企業体、二〇世紀の工場や建築代理店は、生き残り可能な事業にすっかり衣替えし、その一方で、町を取り囲む青々としたカカオ農園へと広がりつづける新開発地区は、二一世紀建築様式の角砂糖のように同じ形をした無味乾燥な建物を次々と外へ向かって建て続けていた。風雨に強い構造をした継ぎ目のない壁に、きのこに似たエアコンの換気孔や、漆黒の太陽熱発電盤で碁盤目状に仕切られた屋根が散りばめられていた。中で企業が何を製造していようと、標準仕様の多目的エントランス・ユニットによって巧妙に覆い隠されていた。リチャードその人ですら、一部の工場で何を作っているのか明確には知らなかった。
リチャードはベンツを自分のオフィスの脇にとめた。最近改築した小さなレンガの建物だ。アシスタントのコルムは既に出社しており、デスクトップの端末に一晩の間にたまったデータの数々をチェックしていた。
「ゾーン三一の設計担当者が、お目にかかりたいそうです」リチャードが入るなり、コルムはいった。「床の補強方法に問題があるとか。それから、ミスター・アラン・オヘイガンとかいう人が面談を求めています。今朝一〇時三〇分に来るそうです」
リチャードは動きを止めた。「私の知り合いかね?」
コルムは端末で調べた。「ここにはいっさい記録がありませんね。ゾーンに興味があるそうです」
「そうか」リチャードは微笑んだ。「いいとも、一〇時三〇分だな」
端末に届いたデータの数々は、毎朝処理している典型的なものばかりだった。建築業者、原料供給業者、販売先、会計士、役所の地域計画担当部局。その誰もが、自分の仕事上直面しているちょっとした問題をリチャードに解決してもらいたがっている。この四年というもの、リチャードは多額の私財をついやし、地区開発プロジェクトへの参加を認められるべく、郡や町の議員に陳情と贈賄を繰り返し、支払った分の元を取り返しつつあった。いまやタウンゼント財団は、八つのゾーンの開発プロジェクトに参加し、更に三つのゾーンのプランニングに設計士を送り込んでいた。一年前、大企業〈事象の地平線〉社の力で、ゾーン一二にメモックス処理施設を建設したことが、この町に真の勝利をもたらした。他の小さな企業がすぐに周囲に群がって、下請けの仕事を求めだした。委員会の開発担当者たちがいったいどうやってその状況を覆すことができたものかと、リチャードはいつも不思議に思った。ラトランド開発委員会の連中ほどに、本来プロフェッショナルであるべきにかかわらず無能な人間の集団を、リチャードは知らない。リチャードが請け負う仕事の一つ一つが、行政手続による遅延や、絶え間ない反対派の計画変更要求に悩まされているのだ。

*****

一〇時半きっかりに来た男は、リチャードの予想と違っていた。五〇代後半で、ふだん地区の周りを嗅ぎまわっている野望に満ちた若いビジネスマン・タイプには見えなかった。アラン・オヘイガンは、グレイのビジネススーツに、薄い紫色のネクタイをつけていた。どことなく威厳を備えており、リチャードは思わずチェアで背筋を伸ばし、ネクタイを直した。握手一つとっても注意深くコントロールされ、ありあまる力を抑えているような印象を与えた。
「どういったご用向きですかな?」デスクの前のレザーのチェアに客が座ると、リチャードはきいた。
「私の会社です」アラン・オヘイガンは、掌サイズの銀色のサイボファックスを掲げた。デスクトップの端末にデータパッケージを送信しながら、そのキイがかすかなピンク色のライトを点滅させた。リチャードは急いで情報に目を通した。
「ファイアドレイク商社? きいたことがありませんな」
オヘイガンは微笑した。「ご存知のはずがありません。私が経営している、ちっぽけなヴァーチャル会社に過ぎませんからね。オンラインで、音楽アルバムやマルチメディアのドラマゲームを専門販売しています。いくつかのドイツのソフト会社と契約しましたし、ヨーロッパではまだ発売されていないアフリカン・ジャズのバンド二つとも契約しています。その関係で、ちょっと調整が必要なんですよ」
「ははあ」リチャードは、ドイツのソフト会社がどういう種類のものか、即座に推測をめぐらせた──PSP末期には、イギリスの全面的な逆検閲は行われていなかった。「で、ピリングス地区がそれとどういった関係が?」
「私は、ファイアドレイクをヴァーチャル・カンパニー以上のものにしたいのです。今のところ、誰でもアクセスできる二、三の試用サンプルと、注文フォーム付きの巡回サイトとなっております。流通と輸送に関しては、ペテルボローにある通信販売会社に下請けに出しております。その手数料を控除すると、儲けはほとんど残りません。私がやりたいのは、流通部門を自前でまかないたいということですよ」
「なるほど」リチャードは自分が笑っていないかどうか注意した。今、そういう顔をすると欲深い印象を与えてしまい、まずい。「で、その流通部門の会社をここに作りたいんですな?」
「それも一つの可能性です」
「あなたにとっては非常に有利ですな。〈事象の地平〉社のメモックス工場が隣にあり、クリスタルに不足することはない。それに私たちは、ペテルボローとライセスターに素晴らしい鉄道輸送サービスを提供しております。むろん、寛大な起業減税制度もありますわな」
「近ごろはどこの産業開発地区もそうですな」オヘイガンは言う。「コービー社は、すべての新開発地区で起業する者に、固定金利の建設ローンを提供しておりますよ」
リチャードは、ライバル企業のコービーの名を出された動揺を無表情で押し隠した。過去六週の間に地区の開発業者のクライアント三社を失っていた。「私たちの提供する開発地区こそ競争力に優れていることを、保証いたしますよ」
「工期はどれぐらいです?」
「むろん、あなたが求めておられる事業の規模によりますよ」
「始めは大規模にはやりませんが、うまくいけば、あとで拡張することを考えていますので、それなりの広さのゾーンは必要かと」
「絶対うまく行くと思います」リチャードは壁にピン留めされた地区マップの前に歩いた。「提供できるゾーンはいくつかありますよ」
オヘイガンが帰る前に何とか言いくるめるのに二時間かかった。リチャードは業務用サイボファクスに入力したパンフレットやデータパッケージを全部引っ張り出していた。この男を火かき棒でつつき回すのはいやだった。受動的な男の顔からは、この男が鋭いのかどうかの手がかりは全く得られなかった。だが朗報は、オヘイガンがその夜リチャードをディナーに招待したことだ。マーケット・スクエアのロード・ネルソン・レストランだ。

*****

昼食後、リチャードは車で町の古城ホールを再利用した裁判所に行った。顧問事務弁護士のジョディ・デブスンが駐車場で待っていた。三〇代半ばで、地方のローファームのジュニア・パートナーの一人だった。企業法務については有能どころではなかった。
「時間はたっぷりあるわ」古風なドアを指差しながら、ジョディは言った。「不動産登記官は昼食を終えたばかりよ」
「よし」リチャードは一瞬黙った。「きみは、ファイアドレイクという会社を聞いたことがないと思うが?」
「もちろん」
「だろうね」リチャードはサイボファックスを振る。「昼飯の間に、そこのサイトをチェックしてみたんだよ。
インタラクティヴ用の反応作成ソフトを売っている。一度ドラマに入れば、キャラクターをアリーナのどこへでも送り込むことができるんだ。ストーリーラインは参加者の行動や発言を実体化して再調整されながら、物語になる。反応速度も他のどんなソフトよりも速い」
「極めて普通のソフトに思えるけど」
「ああ。ただ、平面スクリーンのみならず、完全なる立体的なVR環境を取り扱うことができるんだ。あらゆる主要なマルチメディア・フォーマットと適合する。客が買うどんなドラマにでも使えるんだよ」
「それになぜ興味を?」
リチャードは肩をすくめ、入口を示した。「大成功する可能性があるからだ」
古い石のホールは丸屋根だった。水漆喰の壁には何百というあぶみがかかっていた。〈温暖化〉以前には、ホールは単なる歴史的観光名所を越えるものではなかった。時たま一時的に予審裁判所の建物として使われるだけだった。その後、リンカーンシャー湿原の海水流入による水没の余波で、膨大な避難民がラトランドの人口を倍増させた。ホールの法的機能は、恒常的なものに変わった。ホール後部をたくさんのパーティションで区切って、小さなオフィスの小部屋に分けた。ジョディとリチャードは、透明な防音壁の間の狭い廊下を進んだ。不動産登記・紛争処理部の部屋は、二人と職員一人がやっと入れるほどの広さしかなかった。
ジョディは既に反論の書面を準備していた。事件の詳細を収録した二つのメモリー・クリスタルを渡した。被告のリチャードは、事件の存在を確認するために、多くの書類にサインしなければならなかった。
「この件の聴聞がいつ行われるか分かるかね?」リチャードはきいた。
「いいえ、タウンゼントさん」職員の手がデスクのメモックス・クリスタルとペーパー・フォルダ―の上でひらひら動いた。「この裁判所だけで、八〇〇件の所有権確認請求訴訟が提起されていますよ。地方のPSP不動産権利配分委員会は、多くの資産を差し押さえています」
「うむ、それはけっこうだ。だが、この件は、町の住人に多大な利益をもたらすベンチャー・ビジネスの用地に関係しているんだ。就業機会をも増やし、地域に富をもたらす。だから通常以上に注意を払うべきことは間違いないんだよ」
「個人的には、おっしゃる通りだと思います」職員は同調的につぶやいた。「ですが、私に判断権はないもので」
「たとえそうでも──きみのほうから上層部に進言してくれれば嬉しいのだが」
「やってみましょう」

*****

ふたたび焼けつく日差しの下に戻ると、ジョディが眉をひそめた。「危ない橋を渡り過ぎよ。公の役所で裏取引はよくないわ」
「気をつけるよ。そしてきみは、私たちがあの総合レジャーランドを実現する必要があることを肝に銘じてくれ。うまく法的段階を乗り越えられれば、きみんとこのボスには巨額の成功報酬が約束されるから」
「基礎的な市場経済原理については分かっているわよ」
「それはいい。今やたくさんの新産業が町に流入している。それはつまり、金持ちで教養のある人たちが、どこかリラックスするための場所を探しているということだ。そしてその特権に金を払うつもりでいる。ラトランド海はすばらしい商業資源なんだよ。それなのに、悲しいほどに利用されていない。浜辺にたった三つしかホテルがないと知っているかね?」
ジョディは軽くリチャードを小突いた。リチャードは見回して、古城ホールの敷地にバイクが入ってくるのを見た。それは行商人のアンディ・ブローディで、赤く若々しい顔が汗に光っている。この天気にもかかわらず、このキブツ構成員はいまだに厚く黒いダンガリーを着ている。
アンディはバイクを降りて壁に立て掛けた。古風な黒い鉄管製のマシンで、幅広いハンドルの前方に枝編み籠がついている。郡立博物館がこの古いモデルを手に入れたら、さぞや自慢にするだろう。
リチャードは快くうなずいて見せた。アンディは怒って睨み返した。一瞬リチャードはこの男が近寄ってきて殴りつけるかと思った。だが実際には、アンディは籠から紙束を出し、ホールの扉に向かった。
「私の代替地提供は妥当なものですよ」リチャードが言った。「私たちの間で、こんな争いをする必要はないでしょう。私の土地ですから」
「今朝、父が亡くなったんですよ」アンディは言った。その声はほとんど息が詰まっているようだった。
「それはご愁傷様です」リチャードは言った。
「事故なんだ、こんちくしょう!」
リチャードは声を冷静に保った。「分かりませんな」
「聞いてもらいましょう」アンディが一歩近づき、指を上げた。「父は二〇年間、あの土地で働きました。信念を持ち、それを私たちみんなに教えてくれました。神は、私たちの労働に、果実と作物で報い、それによって私たちは食べることができたんです。あそこは、私たちの家なんですよ! 絶対に諦めませんよ」
「あなたの父上には十分尊敬を払うとしても、神があなたたちに土地を与えたわけではありません。PSPが与えたんですから。いいですか、PSPは二〇年以上もあの土地を耕していた家族からあの土地を奪い、一セントの補償金も払っとらんのです。そのどこに正義があるんですか? ありませんよ」
「私たちのものです!」アンディは泣き出さんばかりだ。「私はあそこで人生を送ってきた」
リチャードは、〈ならば引っ越すべき時だ〉と言いそうになったが、そんな皮肉を言っても角が立つだけなので思いとどまった。おつむのねじの緩みかけた農民とおおっぴらな喧嘩をするのは得策ではない。しかもこのうつけ者は、刈り取り脱穀機のように体格がいい──大きくずんぐりした肉体に確かな力がみなぎっている。一瞬、二人は睨みあった。そしてアンディはダンガリーの前に縫い付けられた十字架を撫でながら、ホールの中に急いで入って行った。
「反訴に決まってるわ」ジョディが言った。「収用補償を求めての訴えよ。私があの人たちの立場なら、そうするし」
「そんなことをしても無駄だ。私は完全な権利者なのだから」
「そのうち、このレジャー施設の計画書をよく見せてちょうだい。本当にしっかりしたものでないといけないから」
「あれは芸術だよ。ほとんど美しくすらある」
「つまり、金になるという意味でしょ」
「リチャードは笑った。「当たり前だろ」

*****

アラン・オヘイガンはロード・ネルソン・レストランの奥のテーブルを予約した。そこでは多少のプライバシーが守られる。リチャードはこの小さなレストランを楽しんだ。趣味のいいアンティークな装飾。手際の良いサービス。素晴らしいシーフードの料理。別れた妻がいつも連れて行けとせがんだが、あの当時はお金がなかった。今や、〈良く(フェアに)働き、良く(フェアに)金を使え〉という中流階級の馬鹿げた倫理観でおれを苦しめるあの女はいない。この世の中に公正(フェア)で価値あるものなんてないのだ。リチャードが店に入ると、若いウェイトレスが尊敬の眼差しで見た。成功こそ最もみずみずしい料理である。
オヘイガンは待っていた。リチャードは、ワインのリストから、〈オーストラリアン・チャードネイ〉のボトルをオーダーした。手に入るワインの中で最も高価なワインの一つと言っていい。客がリチャードに食事をおごることはめったにない。特にこういう場面では。リチャードは、オヘイガンがいったいどういう申し出をするのだろう、と考えた。
「私はゾーン三五が欲しいのです」オヘイガンは言った。「しかしながら、あなたに助けていただけるかどうか考える際に、一点だけ小さな問題があるのですよ」
「続けて下さいな」リチャードは言った。これこそ、リチャードの一番好きな部分だ──この部分は、毎回内容が異なる。すべてがきちんと整合的に配置されるように調整する必要がある。腕の見せどころなのだ。
「くだんの産業部門は、建物を建設し、装備を備え付けるのに、およそ五〇万ニュー・ポンドかかります」オヘイガンは言った。「ファイアドレイクは、実現可能な事業ですが、このままでは、倉庫と輸送設備を一から作り上げるために銀行融資を受ける見込みがありません。設備そのものを譲渡担保に供することもできません」
「ファイアドレイクの中身のことだけを考えているわけにもいかないわけですな」
「その通りです。とはいえ、過去に私が取り扱ってきた輸入品だけでは一顧だにされないでしょうし、儲けも残っていません」
「分かります」
オヘイガンはテーブルに身を乗り出した。「つまり、こういうことです。目下、ファイアドレイクの売上は、年間平均七万ニュー・ポンドほどです。プロキシ・サイト一つだけで、ろくな広告もせずにです。いったん私の流通部門が立ち上がって稼動を始めれば、取扱製品の範囲と広告を広げることができますよ。事業を立ち上げるのに必要な借金は、事業が軌道に乗ったあとの儲けで十分返済できるのです。ここまではほぼ確実です」
「分かりますが、ただ──」
「すべての企業が初期にはこの問題に直面します。これは信用性のギャップの問題に過ぎません。銀行には私の提案を好意的に見てもらう必要がある。それに尽きます。英国経済は、いま好況期にあります。事象の地平社が提供する、この新たな超巨大誘致プロジェクトがある限り、もう一〇年は続くでしょう。ここでの事業の拡大の可能性が大きいのはご存知の通り。銀行は私たちの企業に投資する口実を探そうと躍起になっています」
「でも、あなたは、何か銀行に提供する担保をお持ちなんですか? 何か具体的なものを? あなたの言われる通り、企業価値など水物ですからね」
「一つ提案があります。あなたに対してのね」オヘイガンは更に身を乗り出した。「ファイアドレイクの共同経営者になるのです。私が株の半分を売りましょう」
「何と?」
「単純なことです。あなたが関与することで、銀行は融資の実行に賛同せざるを得なくなります。あなたは、既に事業家としての地位を確立しています。あなたの開発企業は大成功を納めています。ファイアドレイクのバックにそういう資金源があれば、失敗はありえませんよ」
「お言葉ですが、私の仕事は、あなたに開発用地の一部を売ることであって、その逆ではないのです。私が買うんではありませんよ、オヘイガンさん」
「私は買ってくれと頼みはしません。むしろ、こちらから代金を払ってもいいと思っています」
リチャードは注意深く、ワインを少し注ぎ足した。「よく分かりません」
「今ここで話しているのは、信用性の問題ですね? 私は財務的な信用性が欲しい。私はそれを得るために、あなたに代価を支払うのです。あなたはファイアドレイクの株を半分手に入れます。大した価値はありません。たった二株です。一株あたり一ポンド。さっきも言いましたが、ただのヴァーチャル企業です。メインフレームの中にあるメモリスペースに過ぎません。でも、その売上にあなたの会社が関与しているという事実で、追加融資の正当な実行を得られるのです。加えて、あなたは開発地区に新たな商業施設を手に入れ、きっちり利益を上げることができるのですよ。さもなくば──あってはならないことですが──計画が失敗に終わったとき、あなたはファイアドレイクに責任を負うことになります。流通事業は私が所有するつもりです。ですからこの点については、あなたにリスクがありません」
リチャードは逡巡した。計画は合理的に思える。自分は他の取引で、これより奇抜な取り決めをしたことがけっこうあるのだ。「もし私がフェルドレイクの株を所有すれば、銀行はあなたのしていることを見るでしょう。あなたの信用性にはプラスになるでしょうが、私の信用性は損なわれます」
「その通りです。でも、あなたが二年前からその株を取得していたことにすれば、銀行は注目するでしょう。そうすれば、あなたはかなりの期間、前途有望な事業に参画していたことになります。そして、今こそ事業の拡大のチャンスと確信しているように見えます」
「ふうむ」リチャードは椅子にそり返って、無表情な相手の顔を見つめた。オヘイガンは熱心だが、決して懇願しているわけではない。「あなたは、対価を払うと言った。過去二年分の私の名声をあなたに貸すことで、私はどういうインセンティヴを受け取れるんですかな?」
「私は絵を持っています。マッカーシイの高価な名画です。倉庫設備の担保としては不十分だとおわかりでしょう。でもファイアドレイクが十分な対価を稼ぎ始めるまでは、それをあなたに貸し付けるということでどうでしょうかね」
「その絵はいくらなのかね?」
「きちんとした鑑定人を使えば、二万ニュー・ポンドは確実ですよ」
リチャードは価値を見積もった。自分が儲けを得る見込みのある取引のために、銀行から融資を受ける担保として、二万ニュー・ポンドで自分の名前と名声を貸してやる。そして費用としては、一ポンドの株を二年間持っていたという記録管理上の小さな汚点。その程度のデータのごまかしには、会計士を使うまでもない──むろん、創造的な能力のある者を使う必要はない。「先に進む前に、ファイアドレイクの帳簿を拝見したいですな」リチャードは慎重に言った。
初めて、アラン・オヘイガンの顔に表情が浮かんだ。唇がかすかに微笑んだのだ。「明日、うちのオフィスにお越し下さい。わが社の会計士がその点についてあなたと話し合います」

*****

シスルモア・ウッドは、ピータースボロー西部の郊外にある地域だ。〈温暖化〉後の時代に、この都市を強力な商業地帯へとのし上げた産業拡大政策の一環をなしている。南には古い公園があり、今やその周辺部がマンション地帯となっている。草地の上に、銀色の半月体がそびえ立っている。リチャードがベンツを走らせる道路に沿って、狭い間隔でメオソピスの樹が植えられ、長い枝があずまやのアーチのように頭上を覆っている。シスルモアの縁では減速せざるを得ない。コンバーターのスタッフが道路で作業しているからだ。巨大な整形車が通過した後に残す灰のしみを巻き上げるたびに、煙が上がる。その後部から、熱で硬化した滑らかなセルロースのシートが無限に飛び出して来る。踏み固めるタイヤと焼けつく日差しから離れた剥き出しの地面は、黒い防護塗装で覆われている。スタッフたちはリチャードの車を迂回させ、塗り替えたばかりの地面を踏まないようにした。反対から二台の人力車が来た。乗っている者たちは、煙に取り巻かれると鼻の上に衣服の布をかぶせて匂いを避けた。
オヘイガンがフェルドレイクのオフィスを借りている場所は、八階建てで、外側は、白い大理石と、銅のガラスだった。突き立った衛星アンテナが、雨よけドームの中にある屋根の上にうずくまっている。このビルがどれほどのデータ量を取り扱うのかを物語っている。リチャードは車を来客用駐車場にとめ、エレベーターで六階に行った。
ファイアドレイクは社員が一人いた。この女性がすべてを取りしきっているのは明白だ。個人秘書、受付、サイトのメンテナンス、お茶くみ、通信設備の管理。オヘイガン同様、この女性もリチャードの予想と違った。だが全く違う理由だった。体が小さい。というよりも、〈コンパクト〉だと、リチャードは思い直した。自分のことをチビという連中にこの女はあまり親切にはしないだろう。見るからに威嚇的で、リチャードを睨み上げて喧嘩を挑んでいるかのようだ──それも肉体的な喧嘩を。ドレスは半袖で、腕にナイフの傷のようなものが浮かんでいる。刺青も。拳は、血をたらす茨の十字架を握りしめている。
名前を告げると、女はしぶしぶインターコムのボタンを押した。「タウンゼントさんがお越しです」うなるように言った。
「ありがとう、スージー」オヘイガンが答えた。「中に入れてくれたまえ」
女の親指がドアを指した。「そこです」
リチャードは女の前を通り、アラン・オヘイガンのオフィスに入っていた。「あの秘書はたいしたもんだね」
「安月給なんですよ」オヘイガンがにやっとして答える。「しかもすごく優秀です。私も、いやな客には来てもらいたくありませんからな」
「分かる気がしますね」リチャードはつぶやいた。
オヘイガンはデスク脇に立っている女を示した。「会計士のミセス・ジェーン・アダムスです」
女は素早くうなずいた。その外見は外にいた娘よりも心地よい。四十代後半か。ビジネス・スーツを着て、白い髪の毛をきっちりショートに調えている。
「あなたは、ファイアドレイクに投資する予定ということですね」女は言った。
「それは、ここで今から決めることです」
「たいへんけっこうです」女はオヘイガンに反対するような視線を投げた。「この種の取扱を認めるべかどうか、自信はありません」
「ジェーン、私たちはもうどちらも若くないのだ。もしファイアドレイクが私たちの思い通りに行けば、コンビナートやメディア王に売リ込めるものがたくさん手に入る。ここにいるリチャードすら、私を買収しようとするかも知れませんな」
「一つ一つ順を追って行きましょうよ」リチャードは言った。「もし勘定書を見せていただけるのなら」
最後にためらいがちにオヘイガンを見て、ミセス・アダムスはリチャードに二つのメモックス・クリスタルを渡した。「完全にアップ・トゥ・デートにしてあります」
リチャードは一つ目をサイボファックスのスロットに差し込み、数字の列をスクロールしながら見ていった。売上が七万ニュー・ポンドだというオヘイガンの発言は正直どころか、むしろ楽観的だった。今年は六万そこそこであり、前年は五万すれすれ。だが右肩上がりだ。
「ファイアドレイクに開発させようと目をつけているソフトウェアがいくつかあります」オヘイガンは言う。「この拡張計画を成し遂げる上で、英国市場への独占販売権を確保できることが必要ですよ」
「油絵を見てもよいですか?」リチャードはきいた。
「どうぞ」オヘイガンはデスクの後ろから細い昆布板に包まれたパッケージを出した。リチャードはもっと大きなものを想像していた。これは縦四〇センチ、横三〇センチしかない。表から昆布板を外した。「これは何ですか?」きいた。絵はほとんどが白い雲の線に区切られた空だった。右下の隅に小高い丘がある。奇妙な黒曜石の短剣のように空中にぶら下がっているのは、エイリアンの宇宙船、あるいはおそらく空飛ぶ新石器時代の記念碑か。
「丘と雲の眺めですな」オヘイガンが満足げに言った。「素晴らしいと思わんかね? これはマッカーシーの初期作品ですよ。油絵から屈折性の彫刻に移る前の」
「分かっています」リチャードは昆布板の包装をつけ直した。「価値があると分かれば嬉しいですよ」
「むろんですよ」オヘイガンは微笑んだ。

*****

リチャードはシスルモア・ウッドからの帰途、スタンフォードのサザビイのオフィスに絵を持ち込んだ。家財保険をかけるに値する価値があればいいがなあと話すと、女性助手は見込みがありそうだと言った。時間をかけて本物であるか否かを鑑定してから、見積額を出した。一万八〇〇〇ニュー・ポンド。ここでもまた、アラン・オヘイガン氏は財務的に楽観主義すぎた。だがすべてを考慮に入れるなら、ゾーン三五開発地を売るには悪い値段ではない。
「合意ができたようですな」リチャードは翌日、電話越しにオヘイガンに言った。
イヤホンから笑い声が聞こえた。「あなたがこの取引の価値を分かってくださると思ってましたよ。すぐにでも契約書を交わしたいですな」
「大変けっこうです。私のほうから、地域の銀行協会には、新しいクライアントがいると話しておきましょう」スージーは、午後の半ばに小さな革の鞄を持って現れた。鞄を開け、薄いフォルダを出した。サインすべき二通の共同経営合意書があった。いずれも二年前に遡る日付だった。相手方の契約立会人欄までも既に記入され、日付が補充されていた。ミセス・アダムスの署名だと分かった。
「この契約書にはファイアドレイクの私の共同経営者は、ニュートン・ホールディングスと書いてありますな」リチャードが言った。
「ええ。それが何か?」
「てっきりオヘイガンさんだと思っていました」
「ニュートン社は、オヘイガンが所有しています。輸入業務を行っているんです。電話してみますか?」
リチャードは、スージーのせっかちで挑戦的な目を見ることができなかった。「いや」契約書に署名を終えた。
「オヘイガンさんは、株の代金一ポンドを自分が貸すと伝えるように言っていましたわ」スージーが言った。そして契約書の一通をとると、権利者としてリチャードの名を記載した株券を一枚渡した。再び、二年前に遡った発行日。
「それはどうもご親切に、と伝えてください」
スージーはしかめ面をして、オフィスから出て行った。リチャードは株券を見直した。それから金庫に入れ、共同経営契約書は壁の金庫に入れた。

*****

翌朝警察が来たとき、リチャードは朝食を食べていた。警官は、ドアをがんがんと殴りつけるように叩くので、壊そうとしているのかとリチャードは思った。部屋着だけの姿で、リチャードはドアを開き、目をぱちぱちさせた──一つには、芝生の前庭に立っている八人の制服姿の武装警官のチームに驚いたからだし、一つには、まぶしい朝日のゆえだった。
リチャード自らが塗装したドアを暴力的に叩いていた女性は、アマンダ・パタースン捜査官と名乗り、警察手帳で身分を証明した。
サイボファックスに読み込んで確認するまでもなかった。「あなたがどなたかは存じてますよ」リチャードはつぶやいた。道路の端に三台の車が駐車し、青いライトが強く輝いている。近所の人たちは窓ガラスに顔を押しつけ、かぶりつきでこのドラマを見ている。グローブキャスト社の撮影チームが車道の端に潜んで、大きな黒いレンズをリチャードに向けている。
「リチャード・タウンゼント?」女捜査官がきいた。
リチャードは、この状況が許す限りの丁重な笑みを返した。「少なくとも、そのことについては有罪ですな」
「警察署までご同行願いたいのです。いくつかお尋ねしたいことがありますので」
「もし断ったら?」
「逮捕します」
「正確には、何の容疑ですか?」
「バーン・タイラー殺害への関与の容疑です」
リチャードはびっくりして女捜査官を見た。それから辛うじていくらかの威厳を取り戻した。「人が見ているこんな場所で、そんなことを尋ねたくはありませんな」撮影チームを指差した。「でも家を間違えたわけではありませんよね?」
「ええ、間違いありません。あなたの家です」
「けっこうです。少なくとも着替えの時間ぐらいください」
「いいですよ。男性の同僚がお供します」
女捜査官があくまで真剣にそう言っているのに気づき、リチャードは驚きに顔をしかめた。「それと、一箇所電話をかけたいんですがね」
「それは、アメリカのミランダ・ルールです。でも弁護士が必要なら、自由に電話してください」
「無実を証明するのに弁護士なんか要りませんな」リチャードははねのけるように言った。「私はただ、あなたを誤認逮捕で訴えて、地獄に送りこんでやりたいだけだ。この間違いがあなたをどんな地獄に陥れるか、わかっていらっしゃらないようだ」

*****

リチャードは、オーカム警察署の取調べ室のレイアウトが中にいる者を暗い気分にさせるよう巧妙にデザインされているのではあるまいかと疑った。無意識に直接心理的な打撃を与えるのだ。天井の二つの生体発光パネルからの光が、味気ない薄茶色の壁を殺伐とちらつかせている。目の前の灰色のスチールデスクが優しく震え、ぶんぶん音を立てるエアコンの送風口によって引き起こされる奇妙な音と調和している。
リチャードはこの部屋にもう二〇分いて、この不条理な状況について不機嫌に考えていた。やがてドアが開き、ジョディ・ドブソンが入って来た。
「そろそろ限界だ」リチャードはジョディに噛みついた。「もう行ってもいいのかね?」
ジョディは冷静にリチャードを見た。「いいえ、リチャード。これは誤認逮捕の事案ではないの。パタースン捜査官と話したけど、あなたがバーン・タイラー殺しに関与していると本気で信じているわ」
「狂ってる! 私はそいつと会ったこともないんだぞ」
「分かってるわ。簡単な取調べで、そのことを絶対証明できる」
「私はあのパタースンとかいうアマを、この件で訴えたい。あいつらは、マスコミにリークしやがったんだ。私はマスメディアを通じて全国レベルで顔に泥を塗られたんだぞ。私にとってこれがどれほどのダメージか分かるか? ビジネスは信用第一なんだ、信頼性の問題だ。こんなこと、信じられるか! あの女は、私の五年の苦労をたった五分で水の泡にしたんだぞ。明らかに故意で、悪質だ」
「それほど悪い状況じゃないわ。ねえ、あなたが早く釈放され、容疑が晴れれば、それだけ早く損害の拡大を防げるの」
「公式に謝罪してもらいたい、あの女に。とりあえず私の家の外にいたあの取材チームに関して」
「それはたぶん大丈夫よ。でもあなたの協力が必要。十分な協力が」
「よし、ならやってくれ!」リチャードは声の調子を抑えた。「協力ってのはどういう意味だね?」
「警察は、あなたの取調べに、ある種の専門家を同席させるわ。グレッグ・メンダル。〈腺超能力者(グランド・サイキック)〉よ」
リチャードは、動揺があまり目立っていなければよいが、と思った。腺超能力者の話は聞いたことがある。理性のある大人なら、何ら心配するに及ばない、もちろん。人間の超能力は、今日では厳格な科学の領域に入っている。数量化されて研究されているのだ。脳に埋め込まれたバイオウェアの内分泌腺が、特定の神経ホルモンを分泌し、能力を刺激するのである。だが──「どうして警察は、そいつに私の取調べをさせるんだ?」
「正確には、あなたの取調べを〈補助〉させるのよ」ジョディが強調した。「メンダルの専門能力は、明らかに相手の情緒的状態を感得できるわ。言い換えると、あなたが嘘をつけば分かるってこと」
「なら、私がバーン・タイラーを殺していないと言いさえすれば、メンダルは、私が真実を言っていると分かるわけだね?」
「そういうこと」
「いいとも。でも私は、あとでパタースンをやっつけたいことに変わりはないがね」

*****

リチャードは、取調べ室に入ってきたメンダルをまじまじと見た。中年に近づいているが、見た目はぱりっとしている。この男の身のこなしは、何と言うか──とても正確だ。大抵の人がデスクから適当に椅子を引っ張り出す仕草とは違って、この男はまさにその椅子に座るために必要最小限の動きで、正確に椅子を動かすのだ。リチャードが思うに、これはまるでメンダルの自信のほどを表しているようだ。とても自信家のようである。アラン・オヘイガンの態度とよく似ている。
アマンダ・パタースンはメンダルの隣に座った。二つの漆黒のメモックス・クリスタルを、ツインのAV録音デッキに挿入した。
「リチャード・タウンゼントへの取調べを開始します」パタースンがはきはきと言った。「私こと、アマンダ・パタースンが質問をし、CID専門相談員グレッグ・メンダルが補助します。タウンゼント氏は、弁護士の立会を選択しました」
「私はバーン・タイラーを殺していない」リチャードは言った。メンダルを睨んだ。「本当だろう?」
「その点に関する限りは」メンダルが言った。
「有難う!」リチャードは椅子にふんぞり返り、戦闘的表情でパタースンを見た。
「しかしながら、完全に無罪放免にする前に、もう少し詳しくこの件について検討する必要があると思います」メンダルは言った。
「必要ならば、どうぞ」
メンダルはパタースンに小さくうなずいた。パタースンはサイボファックスを開き、ディスプレイをじっと見た。「ええと、あなたは、ええと、ファイアドレイクの共同経営者ですね、タウンゼントさん?」パタースンはきいた。
「何ですって?」
「ファイアドレイクという会社の株を、半分お持ちですね?」
「えーと、そうです。一株、五〇%ですが。でも、バーン・タイラーとは無関係でしょう。これはベンチャー・ビジネスですよ──ある共同経営者との」
「その人は誰ですか?」メンダルがきいた。
「あなたにも、この殺人事件の取調べにも関係ないことです。でも言いますが、その人はアラン・オヘイガンですよ」
「面白い」パタースン捜査官が言った。「ファイアドレイクのもう一人の株主は、ニュートン・ホールディングスですね」
「ええと、そうです。オヘイガンの会社ですよ」
「違いますよ、タウンゼントさん。会社の登記簿によると、ニュートン・ホールディングスはバーン・タイラーが所有しています」
リチャードは絶望的にジョディを見た。ジョディは眉をしかめた。
パタースン捜査官はまたサイボファックスを調べた。「あなたたちは二年間、共同経営者だったんですよね?」
「私は──私は確かに、オヘイガンさんと二年間、共同経営者でした」メンダルを見ずにはいられなかった。超能力者は無表情にリチャードを見ている。「バーン・タイラーではありません。会ったこともありませんから。一度も」
「本当に?」パタースンの声音はとても疑わしそうだ。「スタンフォードのサザビイのオフィスを訪ねたことがありますか?」
リチャードはシャツの襟ぐりに指を掛けた。皮膚から突然蒸気を放ち始めた熱をさますのに、エアコンは大した効果を発揮していなかった。オヘイガンめ! オヘイガンがおれをはめたんだ。でもどうやって? おれは馬鹿じゃなかった、オヘイガンには一ポンドたりとも金を払っていないし、もらってもいない。絵は──警察は明らかに知っている。「ええ、私はそこに行きました」
「最近ですか?」
「実は、今週の始めです。でも、もうご存知なんでしょう? 私の持っている品を、保険の対象としての価値があるかどうか、鑑定してもらったんです」
「それは絵ですか?」メンダルがきいた。
「そうです」
「あなたはそこで、絵が本物かどうかも鑑定してもらいましたね?」
「ええ、だったと思います。価値を見積もる前に、助手の人が本物であることを鑑定しなければなりませんでしたから。一般的な手順ですよ」
「で、その絵は間違いなくあなたのものですね?」
「ええ、そうです」
メンダルがパタースンを見た。「うーん、本当です」
「もちろんそうですよ。少し前にオヘイガンさんからもらったんですから」リチャードは言った。「贈り物です。本人が証言してくれますよ」
「このオヘイガンさんという人と是非にでも話してみたいですね」パタースンは言った。「あなたがその人をでっち上げられればの話ですが」リチャードがスクリーンを見られるように、パタースンはサイボファックスの向きを変えた。そこには、〈丘の雲の眺め〉の画像が表示されている。「これがその絵ですね、タウンゼントさん?」
「ええ、その通りです」
「登録上、ショーン・マッカーシー作の〈丘の上の眺め〉は、バーン・タイラーの所有物です。作者は、故人の友人でした。マンションから盗まれたのです。きっとそのとき同時に、タイラー自身も殺害された」
「違う」リチャードの声は上ずった。「なあ、分かった、きいてくれ。私は今週になるまで、ファイアドレイクという名前すら聞いたことがなかった。私を共同経営者として加えるのは、同社の将来性を銀行に証明するためだった。オヘイガンは銀行融資を受けたかったのです。私を加える以外に方法がなかったのですよ。そして私たちは、銀行を信用させるために、二年間共同経営者だったような外観を作ったのです」
「リチャード」ジョディがたしなめた。
「私ははめられたんだ」リチャードはジョディに叫んだ。「分からないのか?」
「何のためにはめられたのですか?」パタースンがきいた。興味を引かれたような声だ。
「バーン・タイラー殺し──私はその容疑でここにいるんだろ? お願いだから聞いてくれ。私が関係者であるかのように、オヘイガンが仕組んだんですよ」
「オヘイガンはどうしてあなたにそんなことをしようと思ったんです?」
「そんなこと知るわけなかろうが。だいたい会ったこともなかったんだぞ」
「タウンゼントさん」
メンダルの声が、リチャードを上下に揺さぶった。「はい?」
「あなたは自分で人を殺したことはない。でも誰かを殺すために人を雇ったことはありますか?」
リチャードは、あんぐりと口を開けて超能力者を見た。頭の中で、パニックに陥った声が叫んでいる、〈こんちくしょう、こんちくしょう、こんちくしょう〉。メンダルにはその声が聞こえるだろう。この忌まわしい事実を認識し、味わっているだろう。リチャード自身のショックに起因する麻痺が、感情を耐え難いほどにねじり回していた。ストレスのせいで、頭が破裂するんじゃないかと思った。
メンダルは、悲しげに、すべてを知り尽くした顔で微笑んで、言った。「有罪」


2 疑惑の秋

アマンダ・パタースン捜査官は、ビスブルックを訪問したことがなかった。それはアッピンガム郊外の深い谷の側面に沿ってひっそりとたたずむ、小さな村だ。ラトランド全体の平均値を基準にしてすら、この村は注目すべき事物に乏しく、ヨーロッパで最も退屈な場所を争っていた。だが今日、制服警官の一人が、清掃会社から半ばヒステリックな電話を受けて現場に急行し、状況的に事件性を疑わせる死体の存在を確認したことによって、事態は変わった。
季節外れの雨が、激しく車体を打ち付ける中、パタースンは、オーカム署から出発して角を曲がり、スリップしやすい危険な道路に入った。そして危うく、A四七番地で曲がり損ねるところだった。あいにくそれはまさか間違えることはあるまいと、最も心配していなかった場所だった。
「また電話してみてよ」パタースンはアリソン・ウェストンに言った。試用期間の新米捜査官は、助手席に座っている。雨に曇るフロントガラス越しに目を細めて、目印を探しているのだ。
「やめましょう。道なんか尋ねようものなら、制服警官たちが陰でげらげら笑いますよ」アリソンが反対した。「この辺りのどこかに違いないんです。この見捨てられた村には全部で五軒も、まともな建物はありません」
アマンダはアリソンの意向に任せた。とうとう雨とともに雹まで降り始めた。車体に雹があたって、がんがん音がする。またT字路に出て、ブレーキを掛けた。
ビスブルックは、車一台も通れないような狭い道路の網の目に覆われている。その道はどれも急カーヴしており、パタースンは常に対向車が気になった。すべての道が土の峡谷に向かって落ち込んでおり、峡谷は厚い竹やぶで覆われている。竹やぶは、前世紀の枯れたイボタノキや茨を駆除するために植えられたものだ。フロントガラスに打ち付ける雨や雹で、危険なほどめくら運転に近い状態だった。自分たちが村の中にいることの唯一の手がかりは、時々垣間見える古い石のコテージと、レンガのバンガローが、砂利道の突き当たりに固まっている様子だった。
「教会が見えなければおかしいわ」パタースンは言った。連絡を受けた住所は教会通りにあったのだ。
アリソンは竹やぶの頭越しにちらちら見える景色を探った。「見えません」サイボファックスに指示を出し、衛星通信マップを出した。自分たちの今いる位置が、小さなピンクの点として表示されている。「そうですね、じゃああそこの角を、左折でどうでしょうか」
アマンダは、短い直線道路に沿って、車をアリソンの指し示した場所へ近づけた。コールタールの路面は、エメラルド色の苔を深く掘り返した二本の轍へと変わった。
「やっと着いた!」前方の交差点には、教会通りを示す小さな標示板があった。白塗りの鉄の長方形の標識は、派手な紫色の蔓に覆われている。この道路は今までのよりも更に狭い。村の教会を通り過ぎると、錆色の石でできたずんぐりした建物が見えた。避難民の家族の居住施設に改装されてずいぶんになる。
車線は大きな古い農家の家を過ぎて、村の外れにある新しい建物の前で終わっている。〈ヴィスタ教会マンション〉だ。建築様式は純カリフォルニア・イタリア調で、イギリスの田舎のど真ん中にしてはあまりに場違いだった。五棟の豪華なマンションが、どっしりしたブロックのある一棟の長い建物を端で共有し、後方ではマルチポートの駐車場が中庭を形成している。壁に沿って植えられ這い登ろうとしている薔薇は、格子模様の半分も伸びていない。
中庭の壁に背の高いセキュリティ・ゲートがある。アマンダは警察の身分証明カードをキーにかざし、それを振ってドアを開けるように指示した。その先の丸石の庭に、パトカーとクリーニング会社のヴァンが停まっている。アマンダはその脇に駐車した。雨足は弱まっている。
二人は元気よく丸石を踏んで三号棟に向かった。制服警官の一人がすぐ中で待っていた。重いガラスと木のドアを押さえて開けていてくれた。自分の警察カードをかざす必要はなかった。ラトランド警察は組織が小さく、全員が顔見知りなのだ。
「おはよう、レックス」小さな玄関ホールに入りながらパタースンは言った。レックスは丁重にうなずいた。パタースンは、ジャケットから水を振るい落とした。「何が見つかったの?」
「間違いなく死体です」
アリソンが屋内に滑り込んできて、すぐに息を吐いた。顔の前で吐いた息が白い蒸気になった。「ここはひどく寒いんですね」
「エアコンは全開です」レックスが言った。「全部そのままにしてありますよ。犯行現場から何から」
「いいわ」アマンダは思わずつぶやいた。冷たい空気が濡れた服に吹きつけ、鳥肌を立たせた。
レックスは二人を問題の部屋に連れて行った。下の階は自由設計スペースで、白い壁とテラコッタのフローリングの空間が一つだけだった。端にはメキシコの軟質材のキャビネットや棚が並んでいる。どの壁にも絵がかかっている。プリント物、チョークと墨のスケッチ、油絵、水彩画、銀古色の写真。大半が若い女の裸体である。三つの大きく丸いクリーム色の革張りの椅子が、中央のペルシア絨毯を囲み、談話コーナーを形成している。椅子の一つに、清掃会社の藤色のチュニックを着た清掃員が座っている。震えているようだ。
部屋の前部は、後部の二倍の高さがある。幅の広い鋳鉄の階段が、曲がりながらバルコニーへと通じている。バルコニーは部屋の横幅全体に沿って走っており、二階のすべての部屋とつながっている。バルコニーの前の透き通った窓壁が、全体を光で満たしている。
死体は階段のふもとに横たわっている。二〇代半ばから後半にかけての男で、灰白色の部屋着を着ている。両脚は床の上でくの字に曲がり、頭はひどい角度でねじれている。鼻からいくらか血が流れている。もはや乾いて固まっている。
バルコニーの端には、三つのエアコンの送風口がある。一つは死体の真上。霜降りた空気を直接死体に吹き降ろしている。
「階段から転げ落ちたのかしら?」アリソンが言う。
「そのようです」レックスが言う。
「転落事故か、誰かに突き落とされたのかな?」アマンダが疑問を声に出した。
「二階をざっと見て回りました」レックスが言った。「争った形跡はありませんよ。メイン・ベッドは使われた形跡があります。でも私の分かる範囲では、何もかもあるべきところにあるように見えました」
アマンダは鼻を上げて皺を寄せた。空中にかすかな匂いがある。不快でなじみ深い匂いだ。「被害者はこの状態になってどれぐらいたつの?」
「たぶん一日です」レックスが言った。
アリソンが窓壁を指差した。「で、誰も目撃しなかったんですか?」
「マジックミラーよ」アマンダが言った。そのガラスはかすかに灰色味を帯びている。その向こうを覗き込もうとして、なぜこの建物がここに建てられたのかを理解した。雨雲の最後の一片が流れ、熱い太陽が照りつけている。二つのなだらかにうねる幅広い谷間がぶつかるこの一帯の眺めはまさに壮観である。遠方には古風な風車小屋が見える。風車の木の帆は白く塗られている。前方に細長い住民広場が広がっている。その向こうには小さな放牧場がある。二〇メートル向こうに丸いスイミング・プール。周囲を敷石の広場に囲まれている。木の細板を組み合わせたラウンジチェアが縞模様のパラソルの周りに点在している。
「いいわ」けだるげに、アマンダは言った。「では、予備調査を始めましょう」
アリソンがサイボファックスを開いた。「死体の発見時刻は?」
「今朝の八時四五分ごろです」レックスが清掃員の女にうなずきかける。「ヘレン?」
「そのとおりですよ」女がつぶやく。「あたしが見たんです──タイラーさんを──ここに入ってすぐ。あたし、すぐ警察に電話しました」
アマンダは唇を閉じて、遺体の脇にひざまずく。そのハンサムな顔は、アマンダをひどく揺り動かす。バーン・タイラー。主に〈マリーナの日々〉で覚えている。ピーターボローのヨット同好会にまつわる連続ドラマだ──とはいえ、九割以上のシーンはスタジオで撮影され、アクション満載のボートシーンは、大型コンピュータのCGで加工されている。もう五、六年前の作品だ。バーンは一〇代の筋肉むきむきのボートマンを演じた。だがバーンはすぐにアクション・スリラーのドラマやインタラクティヴでスターダムに登った。アマンダにちゃんと思いだせるタブロイド新聞のゴシップは、どれもかなりひどいものばかり。この件はメディアの耳目を集めるだろう。
アマンダは立ち上がる。「ヘレン、あなたが来たとき、ドアはロックされていましたか?」
「ええ。警報が鳴っていました。私はコードを知っていて、私のてのひら認証が鍵の一つでした。タイラーさんは喜んでそうしたんです。いい人でした。いつもクリスマスにはボーナスをくれたんです」
「私も、タイラーは素敵な人だったと認めるわ。あなたが一人でこの部屋の清掃を受け持っていたの?」
「そうです。週に二回。火曜日と金曜日です」
「ということは、タイラーは火曜日以来ずっとここにいた可能性もあるわね」アマンダは両腕をこすり、少しでも体をぬくめようとする。「レックス、エアコンを見て、こういう風にセットされているのか、それとも故障しただけなのかを調べてちょうだい。アリソンは、空き瓶とかそれに類するものが転がってないかを調べて」決然と言う。事故とは簡単に起こるものだ。泥酔、薬物中毒、あるいはたとえしらふでも、転落事故は起こる。タイラーのような有名スターが、人里離れた安寧の家で一人何を楽しんでいたのかは、神のみぞ知るだ。
アマンダは二階に行き、メインの寝室を調べる。ドアは開き、大きな円いウォーターベッドを露にしている。マットレスの上に、黒いシルクのシーツがかかっている。掛けぶとんはない。その真上の天井に同じぐらいの大きさの鏡が張

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