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吸血鬼の飢えと陶酔 The Hunger and Ecstasy of Vampires ブライアン・ステイブルフォード

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吸血鬼の飢えと陶酔 The Hunger and Ecstasy of Vampires ブライアン・ステイブルフォード


プロローグ

都市の頭上の空気はいつになく澄み、星ぼしは明るく輝いていた。月は満月で、最寄りのガス灯は一〇〇メートル離れているにもかかわらず、視界は良好だった。
ジャン・ロランは、夜明け前に決闘を行わなければならないという、ムッシュー・ル・コントの──率直なる伝統への反逆ともいうべき──主張には反対したが、灯りが十分だということは、不承不承ながらも内心認めざるを得なかった。実際、オクターヴ・ウザンヌとともに、露の降りた草地を歩いて、ムーリエの介添え人との待ち合わせに向かいながら、ジャン・ロランは、避けたほうがよい何者かの注意深い視線に無意識のうちに晒されているかのような、あまりにも自分の存在が目立ちすぎて危険だという感覚を覚えていた。この仕事には、陰惨で恐ろしい不安でいっぱいにならずにいられないような何かがある。何らかの未来の災厄の予感を奇妙にも思わせる。こんな感覚は以前に覚えがない。自分自身が銃を撃つことになったときですら。
ここはまさに、初めてパリに来て間もなく、ロランがギー・ド・モーパッサンと会った場所だった。子供のころからギーを知っていたにもかかわらず、この年上の作家が現代のエチケットの要求に従い、相手に害を与えないようにわざとピストルを地面へ向かって撃つだろうという絶対の確信は持てなかったのだった。あの時、ロランは不安だった──事実、不安で気分が悪くなるほどだった──だが、いま感じているような感覚はあのときにはなかった。迷信的恐怖に膝ががくがくするようなことは。おそらくこれは、単にエーテルが遅れて効いてきただけのことだろう。家でエーテルを吸うと、たちまち家中が幽霊だらけになるのだ。その効果は、ロランが立ち止まったときにも完全に治まってはいなかった。
ムーリエの介添え人のひとりが、箱を開け、中に納まっている数丁の古いピストルを見せた。武器の鑑定に慣れていないロランは、わざわざ近くで吟味することはしなかった。一見同じ物に見えるということで満足した。ウザンヌも同じようにちらっと見ただけで、もういいと手を払った。
ムーリエの年長の介添え人──厳粛な軍服を着た白髪の男──が、大げさな分別臭いパントマイムを演じながら、ロランを一方に導き、こう言った。「こういったことが本当に必要なのか疑問に思いますよ。ムッシュー・ムーリエは、致命的攻撃を加えるつもりはなかったと伝えて欲しいとわたしに言いました。ただ、そんな噂は全く馬鹿げているとコメントするだけのために、その噂を繰り返しただけであり、これ以上噂を広めるためではなかったと、知って欲しいと言っています。もし、ムッシュー・ル・コントが噂の出所を抑えたいのであれば、違うところに目を向けねばならないと」
〈ムーリエは怖がっている〉ロランは思った。〈なぜなら、ムッシュー・ル・コントはフランス人ではないからだ。むろん、パリ人ではない。ムーリエは、ル・コントが不文律に従うと確信できないのだ〉声に出して、ロランは言った。「残念ながら、ムッシュー・ル・コントは、弁解など耳を貸すなと言いました」
年老いた軍人は、明らかな不快に唇を曲げた。はじめロランは、自分自身が不快の原因なのかと思った──自分自身はこの男が誰なのかさっぱり見当がつかないのに、この男のほうは自分が誰であるのかを認識しているに違いない、と思った──だが、軍人の次の言葉で、その不快の原因が、受け入れがたいムーリエの指示の内容のせいだったのだと、ロランは悟った。
「ムッシュー・ムーリエは、自分が吸血鬼などいないと信じていること、ムッシュー・ル・コントとの関係でその言葉を使ったのは、単にそういったものを信じるのがいかに馬鹿げているかを明らかにするために過ぎなかったことを、完璧にはっきりさせてきて欲しいと、わたしに頼みました。また、ムッシュー・ル・コントが偽名を使っているとほのめかしたつもりもないとも伝えてくれ、と言いました」
〈ムーリエは本当にひどく恐れているのだ〉ロランは思った。〈介添え人ですら、そこまで卑下する必要はあるまいと感じているのだ。どっちにしろ、やつは間違っている。フランスには吸血鬼がたくさんいるのだ。おれ自身が見たことがあるぞ。仲間に加わったことすらある。夜明けの光が差す前に、フランドル通りのと殺場の門に集まったのだ。破壊がこの国に暴動をもたらし、若い雄牛の血が効果的な治療法であると信じる医者がいる限りは、この国に吸血鬼が不足することはないのだ。むろん、医者などもぐりばかりだし──血はエーテルほどの価値もない、やたら幽霊ばかり見ているおれのような男を訪ねて来ることはないがな──だが、病人の棺桶があるところには、つねにもぐりの医者がいるんだ。偽名なぞ瑣末なことだ。おれですら、親父の言いつけで偽名を名乗っているんだから──とはいえ結局、デュヴァルの名に泥を塗ったのはおれではなく、親父のせいなんだがな〉
「もしもし?」答えを待つのに痺れを切らして、軍人がきつい声で言った。
ロランは手を口に当てて咳をし、血痰のしぶきが手のひらに当たるのを感じた。この数週間、咳に血が混じることはなかったが、いま血痰を吐いてほとんどほっとしていた。というのも、自分を捉えているひどい恐怖がけっきょく肉体的なものに過ぎないことを確認できたから。「残念ながら、ムッシュー・ル・コントは、銃での決闘をしないまま帰ることはないでしょう」ロランはしわがれ声でつぶやいた。「たしかに、極めて不幸なことだと、わたし自身も思います。しかしながら、ムッシュー・ル・コントは、ヨーロッパ各国の首都の半分を駆け巡った悪い噂に追いかけられて来たのです。そしてこのひそやかな噂のせいで、ひどい心痛を負っているのですよ。ル・コントは、自分の名前がただ単にある若い女と結び付けられるといった普通のジョークであれば、完全に無視できます。ですが、その、ある特定の名前が、ル・コントの心を特に痛めているのですよ。ローラ・ヴァンベリという名前です。まさかここパリくんだりでその名前を聞くとは予想していなかったそうです。あの事件ははるか昔、別の国で起こったことでしたから。そのせいで、ル・コントは深く傷つきました。ル・コントは、単なる可能性の問題としても、ムッシュー・ムーリエがあの娘の死の直接の責任をル・コントに負わせようという意図がなかったこと、ましてや、その生き血を飲んだと主張する意図もなかったであろうことは、間違いなく認めるでしょう。しかし、ル・コントは、あなたのご友人の不注意に対して、断固たる手段で対応しなければ、他の連中も似たような醜聞を口にすることに抵抗を感じなくなるだろうと感じているのです」
ムーリエの介添え人は、極めて不自然なこれ見よがしのため息をついた──だがその目には本物の心配があった。「ムッシュー・ル・コントは、今が一七九四年ではなく、一八九四年であることも、母国の環境がどうであれ、フランスの法廷は、こういった私的解決の禁止について厳格であることも、理解しておられることと思いますが」
これこそ問題の核心であると、ロランは知っていた。「ムッシュー・ル・コントは、パリ人になることはないでしょう」邪悪な冷たさでロランは言った。「ですが、この国の社会で起こっている進歩の方向性については、熟知していますよ。そして、わたしたちがここへ名誉を守るために来ているのであって、殺人を犯すためではないこともね。例えば、もしたまたま相手が武器を十分に持ち上げることなく発砲してしまい、弾丸が無害なまま地面に当たったとしても、ムッシュー・ル・コントはお返しに致命的な一撃を発射することは夢にも考えていないと請け合ってもいいですよ」
年老いた軍人は穏やかにではあったが、本当に笑った。ほっとしたのが手に取るように分かった。友好のしるしに開いた手をあげて見せすらした。「そう聞いて、正直嬉しいですよ」軍人は言った。その声はささやき声とほとんど変わらなかった。「わたしの若かりしころは、決闘は本当に闘いでした。法律も干渉しない方がよいことになっていたのです──しかし、あの屈辱的な戦争以来、同じものは何ひとつなくなりました。それによってフランスがいかに深い傷を負ったかを知れば、プロシア人ですら同情するでしょう。いったいわたしたちは、どんな未来を作ろうとしているんでしょうな? 名誉のために野で向かい合う男たちが、もはや本気で銃の狙いを定めることがないというこんな時代に。ときどき、わたしたちは最高に勇敢な男たちの秘密の墓を掘るのを拒否し、その代わりに人類全体の墓を掘っているのかも知れないと思うこともありますよ」 話し終わるなり、自分の口の軽さを後悔するように、軍人は顔をそむけた。
〈この男は心をさまよわせている!〉ロランは思った。〈おれと同じぐらい、ひどく動揺しているのだ──おれたち全員が! つまり、ムッシュー・ル・コントを除く、全員が〉
既に、ピストルはオクターヴ・ウザンヌとムーリエの若年の介添え人によって、それぞれの決闘者に渡されている。銃選びは終わった。軍人が二人の決闘者を注意深く背中合わせに立たせ、いつ歩きだすか、そしてどこで振り返るかを正確に指示した。後ろに下がって見守る以外に、いまロランのすることはなかった。
ふたたび、予兆の感覚がロランを襲った。震え出さずにはいられなかった。いま腹の中でうごめいている奇妙で邪悪な魔物が、ただの痛みであってくれればいいと思った。だが、それがある種の渇きなのではないかと恐ろしかった──エーテルを求めてか、それとも温かい血を求めてか。推測するのが恐ろしい。
ロランは、二人の紳士が歩数を数えながら歩くのを見ていた。ムッシュー・ル・コントは二人のうち、背の高いほうでも、若いほうでもなかったが、決してより堂々としているようにも見えなかった。この男を追う噂によれば、この男は悪魔であり、完成された催眠術師であるとされていた。そして、そのふだんの視線には、全く人を脅かすようなところはないにもかかわらず、ロランは、この噂を信じるのがたやすいことだと思った。この東部から来た男は、いまや一種のトランス状態にあった。まるで精神がある種の超常的な意識状態に入り、偏執狂のそれのように完全な集中を可能にしたかのようだった。最適の瞬間に振り返って相手と向かい合う動きの正確さは、滑らかで機械的だった。
ムーリエは腕をあげ始め、込め矢のようにまっすぐ銃を持とうとしたが、惨めに失敗した。その恐怖は動揺の中であからさまだった。銃が水平位置に達するずっと前に、震える手の動きは止まり、ムーリエはそのまま手を落とした。ピストルが発射されるとき、腕がぶらんと垂れ下がり、弾丸は、自分の爪先から五十センチも離れていない芝生に発射され、何の害もなかった。
そのあと、ムーリエにはただ待つことしかなかった。相手の目を見ようとしたが、できなかった。
今や傷つけられることはなくなったという事実によって、ムッシュー・ル・コントの顔に微笑の影すらよぎることはなかった。ル・コントは既にピストルを上げていた。そして、しっかりと相手の心臓を狙っていた──だがそのとき、実直な丁寧さで、ムッシュー・ル・コントは銃身を垂らし、武器がはっきりと下を向いた。二人の男が背中合わせに立っていた地点を指していた。
ル・コントは発砲した。
ムーリエが喉を押さえながら倒れた。
ロランは驚愕と苦悩の叫びを抑えられなかった──ウザンヌと、ムーリエの若いほうの介添え人からも叫び声がこだました。年老いた兵士ですら、驚愕し、恐怖に叫んだ。数刻の間、ロランは、何らかの冷酷な超自然的作用が、ムッシュー・ル・コントの弾丸の向きを変えたのだろうかと思った。遅ればせながら、弾丸が石に当たって跳ね返ったに違いないと悟ったとき、ル・コントが本当に石を狙い、跳ね返った弾丸が相手の心臓に命中するよう計算した可能性があるだろうか、と思った。そんなことは絶対不可能だ──だがなお、ル・コントは極めて冷静だった。その石のような表情に何らの驚愕も焦りもないのが明らかだった。身じろぎもせず立ちながら待っていた。
ムーリエの介添え人は、ロランとウザンヌが着いた時、既に忙しく動いていた。年老いた兵士は、ムーリエの気管に開いた傷口の血を必死で止めようとしていた。だが、縁がレースになったハンカチでは、悲しいほどその作業に適さなかった。ロランは若いころ血で染まったハンカチをたくさん見たが、これほど赤く湿ったものを見たことがなかった。
白髪の男が顔を上げた。「行け、このうつけ者!」苦悶の声で言った。「貴様の男をここから連れて行け。パリからもだ。できるだけ早いルートで国へ帰せ。この殺しが事故であって、百万分の一の偶然だというのはどうでもいいことだ。地獄で罪をあがなうことになるだろうな。もし貴様の友達が、吸血鬼の噂やローラ・ヴァンベリの名前を裁判沙汰にしたくなければ、これから長い間、絶対にフランスに足を踏み入れないことだな」
ロランはル・コントの所へ駆け戻った。自分もウザンヌもこの男のことをほとんど知らないことを痛感し、怒りを感じていた。急かされてやむなく、介添え人になることに同意したに過ぎないのだ。ル・コントはまだ手に銃を持っていた。ロランに、逃げろ、命が危ないぞと言われても、銃を落とすことはなかった──だが、おとなしく馬車に戻り、ドイツ人の馬丁に必要な指示を与えた。
ロランとウザンヌがそのあとから馬車に乗り込み、ル・コントの両脇に席を取ると、鞭に反応して、馬が急いで走り出した。誰も口をきかない。ル・コントは説明も謝罪もしなかった──自分だけの世界にこもっているようだ。この世界にはほとんど属していないかのよう。あの噂がル・コントの周辺に現れる前は、この男は最も魅力的な人物だった──シャンデリアのきらびやかな光の下で輝き、サロンの中で完璧にくつろぎ、水からの存在で周囲を輝かせるような──だが今は全く違う。
朝日が空を白め始めるころ、馬車は二人の介添え人をコーティ通りで降ろした。ロランはフランドル通りで吸血鬼ごっこをした日々以来、朝の最初の光を見たことがなかった。そして、血の匂いと味、そのあまりの気持ち悪さに喉が吐きだそうとせり上がってくるのをこらえて、その温かい液体を無理に飲みこまねばならなかったことを、おぞましく思い出した。
「おれは吸血鬼になりたくない」ロランはウザンヌに言った。「ある種の暗く価値のある秘密のアイデンティティを育てながら、普通人の仮面をかぶり続けるのはいいとしても──血液を、血液だけを飲んで生きるかどうかはまた別の問題だ。それぐらいなら熱病に蝕まれるほうがましだ」
ウザンヌはとても怪訝な顔でロランを見た──ロランの思考の連鎖には何の関係もないのだから、当然だろう。「その言葉を使うときは注意したほうがいい」ウザンヌは言った。「その言葉を繰り返したせいで死んだ男を、今見てきたばかりだ」
「おれは今まで注意深かったかな?」ロランはきいた。微笑みながらやっと恐怖の感情が去ったのが分かった。光が空に満ちると、上空にかかっていた夜のとばりが上がり、ロランは自由な気分になった。
「いいや、注意深くなかった」友人は認めた。「きみはもっと慎重になるべきだよ──さもないといつか、きみ自身が夜明けの光の中で、あそこに横たわるはめになるよ。その芳醇なノーマンの血で地面を肥やしながら。きみが代表作を書く前にそんなことになったら、何たる悲劇! もしきみが他の連中のことを書くのと同じように、ル・コントのことも書くつもりなら、あいつを完璧に騙さないといかんぞ」
「あの男に会った作家が、その誘惑に勝てるとは思えない」ロランは答えた。「だが、きみは正しい──あいつは思い切って取り繕わないと扱えない男だ。あいつの名前を絶対に傷つけないようにしないと」
二人は一緒に家に入り、ブランデーを飲んだ。母親が起きてきて、強情な息子に、一晩中どこへ行っていたのときいた。
「困った友達を助けていたんだ」ロランはそう言ったが、母親が信じないのは分かっていた。


「エドワード・コプルストン教授を知っているか?」オスカー・ワイルドがわたしにきいた。ワイルドはありがたそうにグラスの酒をすすっていた。わたしがパリからこっそりワイルドのために仕入れたアブサンだった。わたしたちはソーホーのロシェの店でディナーをともにしていたが、主人はアブサンに苦情をいわなかった。〈理想の夫〉の公演が始まり、世界的好評を博していたが、ワイルドはその世界でもいかなる世界でも、決して間違いを犯すはずがなかった。
わたしはロンドンに来て一月にみたず、ほとんど知りあいがいなかったから、考える余地もあまりないままに否定した。
「コプルストンは、時々この店に来るんだ」ワイルドはいった。「だが、実際コプルストンが我々と同じ世界の住人とは思えないよ。コプルストンは偉大な旅行家で、我々がきいたこともない世界での様々な素晴らしい冒険話を聞かせてくれる。その話の中には真実もあるかもしれないよ、まあほとんどどっちでもいいことだが。ぼくの知る中では、シベリアの荒野やモンゴルの高原の話をごく自然に身近なこととして語れる唯一の男だね、コプルストンは」
それでピンと来た。極東を幅広く旅しては、怪しげな土産話を聞かせる男をわたしはもう一人知っている。「多分その名前は聞いたことがあるかもしれない」わたしは顔をしかめたくなる衝動を抑えながら、認めた。アルミニアス・ヴァンベリの名を思い出させられるといつも、わたしはその衝動に襲われる。
「タイラーの〈原始文化〉やフレイザーの〈金枝篇〉の解説や文献目録を見れば、その名前は幅広くいろんなところに見つかるさ」ワイルドは軽くいった──どちらか一方でもワイルドが読んだかは疑わしいと思ったが。「コプルストンは自ら認める原始宗教や呪術の専門家だ、特に呪術的カルト信仰に造詣が深い。とはいえ、断じて学者バカということはない。コプルストンなりに、結構な夢想家だよ。石灰石造りの邸宅のアヘン小屋には、よそものを入れない。噂はたいていあてになる──むろん、その興味がぼくに向くときを除けばね」
このニュースは何となくほっとした。こういう男なら、アルミニアス・ヴァンベリの評判を聞き知っているかも知れない。だが、ヴァンベリのような男が、麻薬中毒者で有名な男に、じかにわざわざ自分の不安な胸のうちを明かすことは考えにくい。完璧な名声を持ったたいていのしらふの狂人と同様に、ヴァンベリは、妄想を愛することで非難される連中の意識的な方法によって生みだされる妄想には、ほとんど我慢がならない人物だ。ヴァンベリは、その手の噂を信じるタイプだ──特に、自ら流した噂は。
「なぜわたしに、このコプルストンという男を知っているかときくんだ?」
「コプルストンは、ぼくにおかしな手紙を書いてきたんだよ。とても奇妙な報告会をするから、ぼくが来てくれれば嬉しいというんだ。更にこうも書いていた、ぼくがロンドンで最も知的で自由な精神の持ち主のひとりだと思うと──ぼく以外の人間が誰なのかさっぱり想像もつかないんだが──それから、自分が話すことに対するぼくの意見を、最も尊重すると。それに、ぼくと同じぐらい賢くて視野の広い男を連れてきて欲しいと。この描写は、ボージーやロビーにすらほとんど当てはまらない。当然ぼくは、きみを思い出したというわけだ。もし忙しくなければ、一緒に来てもらえないだろうか? 招待は、明日の夕方だ」
「きみは、わたしのことをほとんど知らない」わたしはつぶやいた。「わたしがその条件を満たすと、どうして分かる?」わたしの知的洞察に対する評価には全く同意するが、ワイルドは、ただ単にその夕べ、たまたまわたしと食事をしていたから、〈当然ぼくは、きみを思い出した〉に過ぎないのではないかと、わたしは疑っていた。
「パリで初めてきみと会ったとき、すごい印象を受けた」ワイルドは言った。「きみは人間世界に対する明確で皮肉な洞察を持っているようだ。ぼくにはきみがその一員だとほとんど信じられないぐらいだよ。ぼくたちはまだ長時間深いテーマについて語り合ったことはないけれど、ぼくはいつだってインスピレーションで判断するし、めったに間違ったためしがない。来るかい?」
わたしは同意した。どうして断れるだろう? どっちにしろわたしは、新しい楽しみに飢えていた。パリのあとでは、ロンドンは信じがたいほど退屈に思えた。あの悲しい出来事でわたしは唐突にパリを追われたのだ。わたしのようなタイプの人間にとって、一箇所に長期間滞在するのは賢い考えではなかった。だが、パリほどに、去ることを残念に思った街はない。他方で、ロンドンも全く長所がないというわけではなかった。一シリングあれば、スラム街の娘を買える、それもそこそこ可愛い子を。落ちつきのない習性と、悪質な中傷によるいじめによって、永遠に動き続けるわたしたちにとっては、都市が与えるすべての機会がありがたいものだ。
「他には誰が来るんだね?」わたしはきいた。
「実は全く分からない。手紙でコプルストンが書いていたのは、ブラム・ストーカーだ──とはいっても、単に、ストーカーはちょうど今アイルランドにいるから、多分来られないだろうと書いてあっただけなんだが。なぜストーカーを出席者の候補として適当と思ったのかは説明がなかったが。個人的にはね、ぼくはいつも、ストーカーのおつむは明らかに二級品だと思ってきたんだが」
ストーカーの名前を最初にきいたとき、わたしはフォークを置いた。いずれにしろわたしは、食べ物をただもてあそんでいただけだった。わたしは水を少し飲んだが、自分の反応を隠そうという試みはうまくいかなかった。ワイルドはすぐにわたしの反応に気づいたに違いない。そして、賢明にも驚いてみせた。ワイルドはわたしのことをよくは知らないが、わたしがどんなものにもめったに節度を失って反応したりしないのを見て知っていた。
「きみは、ストーカーを知っているのかい?」興味深そうにワイルドはきいた。「あれは、ヘンリー・アーヴィングの雑役係だよ──本人は、〈力強い右腕〉なんだと言うだろうがね」
「会ったことはないよ」わたしは中庸な声で言った。
「ぼくも最近めったに会ったことはない」ワイルドは言った。「でも、ストーカーが初めてロンドンに引っ越したときは、定期的に家を訪ねていたけどね。ぼくよりも前にトリニティにいたし、ぼくがロンドンに上京したときも、まだダブリンで働いてた。父親が仲がよくてね。母親ですら、ストーカーのことを少し気に入っていた。ぼくが大好きだった女の子と結婚したし、あの傍若無人さは未だに許せなくてね。演劇の分野でいうと、ぼくらが今ライバル同士の劇団に所属している事実すら、古傷に新しい屈辱を付け加えるに過ぎない」
イギリスの演劇界のせこい政治事情には、わたしは全く興味がない。ロランといたころ、わたしは演劇界のゴシップをいやになるほどたくさん耳にした。それに、サラ・バーンハートの神秘性についてはせいいっぱいの賛歌を送り続けて来た。だが、ストーカーは、アルミニアス・ヴァンベリがロンドン滞在時に話した人物のひとりであることを、わたしは知っていた。ストーカーは、ヴァンベリをビフテキ・クラブの会合に呼び、講演をしてもらったのだ。そこでストーカーは吸血鬼をテーマにちょっとした詩を作った。もしストーカーとコプルストンが知り合いなら、コプルストンが出席していた可能性もある。パリであんなことが起こった以上、ローラ・ヴァンベリの名前を話す──動機がなんであれ──可能性のある人間とは、極力かかわりを持ちたくなかった。だが、既にわたしはワイルドの招待を受けていた。それにストーカーは来ないようだ。話題を変えるのがいちばんいいと思った。
「同じ馬車で行こうか?」わたしは言った。「きみがよければ、よろこんで迎えに行くよ。コプルストンは、どこに住んでいるんだい?」
「公園の南側──つまり、リージェント公園。ハイド公園じゃなくて。うん、ヘイマーケットくんだりからきみが迎えに来てくれるのなら、とてもありがたいよ。厳格な貴族が痺れを切らしながらぼくを待っていると思うと、友達や仕事やファンの手から逃れるのが楽になるだろうしね。約束の時間は八時だ。面白ければいいな。スタンリーがアフリカの暗く繊細な中心にひどく陰惨な光を当て、地理学の着実な進歩が野性的な冒険物語の精神を徐々に殺していこうとしている今、旅行家の話はだんだんつまらなくなってきているからね。でも、もしまだこの地球上に、華麗な謎に満ちた忘れ去られた部分があるのなら、それを最も見つけそうな人物がネッド・コプルストンだよ。もしコプルストンがぼくたちの信じやすさを試そうとしているのなら、きっと見事に本物らしく話し、ぼくたちを試した上で、最後にぼくたちの信頼を甘美に破壊することになるだろうね。合理的にそう確信できるよ、たぶん」
天にも地にも、ワイルドの哲学で夢見られる以上のものがあると十分知っているにかかわらず、わたしは自分のことを信じやすいカモとは思わない。自分の信じやすさが壊れていくさまを試すような作り話を聞くことなど、時間の無駄に思える──だがわたしは不安を断固として払いのけ、与えられた役割をこなそうと決心した。澄んだ視野と開いた心を持った、世慣れた男としての役目を。
それに続く夜に、その役目がわたしにいまだかつて経験のないことを要求するなど、ほとんど疑いもしなかった。


わたしは適当な時間にワイルドを訪ねた。だがワイルドは──いつものように──遅れた。わたしは一五分ほど馬車に座って、通りゆく群衆を眺めねばならなかった。
有名なロンドンの霧は一時的に上がっていた。霜はまだ路面を光らせていなかった。栗を焼く季節はとっくに終わり、火鉢商人のほとんどは焼きポテトを売っていた。その匂いは大して刺激的でなかった。群衆の質は季節外れのロンドンの平均的なものだったが、パリのカルチェラタンの興奮した群衆に比べると、けばけばしく騒々しいガチョウのような群だった。その時の浮かない気分ゆえに、わたしにとってその群衆は、いつも以上に、倉庫に行進する牛の群や、間違ってひっくり返した穀草の周りを歩き回る産卵鶏の群に見えた。ワイルドがようやく姿を見せたときにはほっとした。
リージェント通りを進みながら、ワイルドは果てしのない逸話に没頭した。その輝きが一時的にかすかに衰えることはあったが、よく心得ているワイルドは、ゆっくりとわたしを退屈による麻痺から目覚めさせた。公園の端に着くころには、わたしは長い冬の夜の試練に正面から向きあう気になっていた。
当然ながら、着いたのはわたしたちが最後だった。いつものように、御者は他の通行者への配慮を犠牲にして、失った時間をできるだけ取り戻せるよう努力してくれたのだが。
コプルストンの待合室に集まっている客の残りを見て、ワイルドの熱意はやや陰ったようだった。丁重な招待状の形で、自分たちの知性に関していったいどういう判断が行われたのだろうと、不思議に思っているのは疑いがない。ワイルドはわたしをコプルストンに紹介した。この男は──慈悲深いことに──わたしの名前をきいても、知っているようなそぶりすら見せなかった。
コプルストンはひょろりとした背の高い男だった。若いころもっとがっしりしていたのは疑いない。だが、その後の年月で尋常でない苦労を背負ってきたようだ。それほど皺は多くないのだが、肌が妙に黄色っぽく、握手する力もやけに弱かった。失礼だから口に出しては言わなかったが、本当に具合が悪く見えた。血色と力が回復するまで、報告会を延期したほうがいいんじゃないの、とわたしは思った。
他の客が一見、イギリスで最も知的で心の開かれた人間の集まりには見えないというワイルドの無言の判断に、わたしも同意せざるを得なかった。実際、変人の集まりのように見えた。だが、こうも言わねばならない、他の客たちの中にも、わたしとワイルドが、賢い節度を備えたこの会場に必要な〈錘〉役であるというよりも、集会の奇妙さをむしろ増す要素になっていると感じている人が、一人ならずいるということを。コートを脱ぐと、ワイルドは、いつものように派手な服装をしていることが分かった。だが、襟の緑のカーネーションは、シルクとちりめん紙でできていた。むろん、わたしは外国人だ──それをいうなら、伯爵だ──そして、イギリス人の目に異国風に見えるには、何の人工的な細工も必要なかった。
コプルストンがわたしを他の客に紹介する間、わたしは不安な思いで、薄ぎたないゴシップがロンドンに届いていることを示す兆候はないかと探したが、なかった。ムーリエの事件を聞いたことのある人がいたとすれば、分別の鑑だったといえよう。
わたしが最初に紹介されたのは、インドに勤めたことのある体格がよく鈍重な医師だった。非凡な聡明さというよりも常識の人という感じだった。だが出席者の中では、コプルストンとの交友の最も長い人のようだった。コプルストンはこの医師のことを〈価値の高い支援者〉であるとともに〈いやいやながらの協力者〉とも呼んでいた。この医師自身が、招待主の肉体的状態を心配しているのだろうと思った。
ワイルドと同じように、この医師も仲間を招待するよう言われていた。医師に伴ってきた男は、背が高く目だった。だが、服装はあまりよくなかった。ほとんど鬱病寸前のように辛気臭く見えた。その灰色の目の奇妙な鋭さに、わたしは打たれた。自分の生活状態については何も言わなかったが、男はわたしに礼儀正しく礼をした。
それから二人の若い男に紹介された。たぶんまだ二〇代を過ぎていないだろう。一人目は社会の矛盾を研究していた。痩せてはいないが、肉の不思議な柔らかさが、最近まですごく痩せていたのに、初めて肉をつけたかのような印象を与えた。肌の色はふだんは青白いが、たやすくピンク色になった。過剰な紅潮が、絶えず頬の上で満ち退きしているように見えた。その目にはかすかに熱を帯びた輝きがあった。完全に健康ではないことを示していた。とはいえ招待主ほど衰弱しているわけでは決してない。コプルストンがこの男を一度も見なかったことからして、教授が手紙を書いた相手はもう一人のほうだというのは明らかだった。
二人目の若者もほとんど違わないように見えた。黒い巻き髪。何となく混血っぽい雰囲気がある。コプルストンの説明によると、この男はダービーシャーでしばらく教師をしたあと、最近ロンドンに戻ってきたが、ワイルドとちょっとした知り合いで、再会すればワイルドも喜ぶだろうということだった。ワイルドは、無言で旧交を温め直した喜びをおとなしく演じていたが、それほど親しい友人ではなさそうな印象を受けた。ワイルドは多くの若者を知っており、一人一人の名前を覚えるのは難しいに違いない。
わたしはほとんど立ち聞きする時間のなかった会話のわずかな断片から、二人の若者はお互いをあまりよく知らないと判断した。だが、共通の興味が多い。二人とも医学を学んできたようだ。あるいは少なくとも生物学。二人とも最終的に不安定な文筆生活に身を捧げることを選ぶ前は、教師をしていたことが明らかだ。
この部屋で、誰の目にも議論の余地なくコプルストンより年上なのが明らかな男が一人だけいた。六〇代半ばのようだ。流れる顎髭は白いが、まだかくしゃくとしている。明らかに、技術者であり、科学者だった。わたしが科学に通暁していたなら、その名前がすぐに分かっただろうが、科学というのはわたしの目にはいつも昼間の世界の所産に見え、つねに──わたしのように──夜遅くの生活をしている者は、必然的にワイルドとかジャン・ロランといった人種とつきあうことのほうが多くなってしまうのだ。この男がこの部屋で何らかの爵位を有している唯一の男だった。だがコプルストンは、それが准男爵位なのか、公役従事によって得た騎士爵位なのかは言わなかった。もっともコプルストンは、この老紳士が、物理研究協会への協力貢献や、その他のもっと実際的な業績によって有名であると言った。とはいえわたしはこの男とそれ以上親しくなろうという気にはならなかった。
パーティの最後のメンバーは、白髪の科学者が連れてきた男で、黒髪の科学者だった。コプルストンはわたしたちが大いに気が合うのではないかと思ったようだ。きっと二人ともヨーロッパ訛りがあったからだろう。だが他の人には分からなくともわたしたち二人には、お互いが戦争もしたことすらないほど縁もゆかりもない国からきていることが分かった。いずれにせよ、この口髭の貫禄ある男が正直に話したところによると、養子としてアメリカに渡り、アメリカの自由企業の精神に完全な忠誠を誓うため、ヨーロッパのアイデンティティを放棄したということだ。何を言わんとしているのか正確に分からなかったが、特許の売買によって得られる利益に何らかの関係のあることだろうと思った。
熟考の末、わたしたちは極端に変わった集団を構成しているが、にもかかわらず、異国の興味深い報告を聴く資格があると判定されるに十分な質を備えた集団であることは間違いない、とわたしは思った。
しばらくの間ワイルドと脇で話す機会を見つけたとき、ワイルドはすぐに自分自身の判断をわたしに知らせてくれた。「科学者のような人種から、気の利いたトンチを期待するのはほとんど無理だよ」ワイルドは言った。「科学者というのは自分の役目を糞真面目に果たす──だが、そういう一種の正気の錘が必要なんだろう。ここにいるほかの客はみな、心にロマンスをもっているから」
「あの若者のどちらかの作品を読んだことがあるかい?」わたしはきいた。
「ぜんぜん。二人とも噂は聞いたことある。二人のうち人づきあいのいい方が、自分の小説を見てくれと頼んできたことはあるが、時間がなかった。あのすぐやたらと赤くなるほうは、人類の未来の進化と滅亡の可能性に関する、非常にいいファンタジーを書いているらしい。ハックスリーに学んだに違いないと踏んでるんだが、そのアイデアを、いいかげんな楽天主義なしで吸収したんだろう。三人目の文人は、あの二人のどちらよりも有名だ。誰もがその作品を読んでいるからな」
三人目の文人がいるというのは初耳だった。「あの灰色の目の男のことかい?」わたしはきいた。
「いや──つまり、直接にはそうじゃない。わたしが言ったのはあの医者だ。いくつかの長編小説と、〈ストランド〉という定期刊行の雑誌に短編の長いシリーズを書いている。私立探偵の冒険を年代順に書いた短編だよ。この探偵は推理の達人で、もっと鈍い男なら間違いなく見逃すような手がかりを見て、謎を解くんだ。この探偵の外見や奇行や癖は、あの灰色の目の友人のそれに基づいていると言われている──きみの友人、モーパッサンを小説に登場させて困らせたロランのように、あの医者は、実生活上の人物の肖像画をペンで書いているんだ。不幸なことに、あの友人は、あの医者の作品の文学的装飾に魅せられるあまり、自分が偉大な探偵だと本気で信じているほどだ。あの友人はスイスでの安静治療から最近戻ったばかりだよ。噂によると、あの医者が──おそらく自分自身の妄想を払いのけるために──一年ちょっと前主人公を殺してしまったときに、精神的に参ってそうなったらしい。たぶんもう治っているだろうけど──でもきっと、偉大な探偵はけっきょくまだ死んでおらず、隠れているだけだと信じているだろうな。いままでのどの事件よりも深く恐ろしい謎を解くために、混沌の中から現れる機会を待っているのだと。あの目の奇妙な輝きに気づいたかい?」
「ああ。人をとまどわせるような目だ──あれで知性があるのなら、考慮に入れなければならない男だ」
「むしろ新しい薬のせいじゃないかと思うんだが──新型のアヘン。向こうに行っている間に習慣を断ち切ったんだろうが──中には断ち切りがたい習慣もある。ところで可哀想なロランは、エーテルをもうやめたのかね?」
「わたしはそう信じてる」わたしは伝えた。「ロランはもう内科医にはうんざりして、いい外科医を見つけて頼っているところだと思うよ。だがきみのいうように、習慣には断ち切りがたいものもあるからな」
「コプルストンが聖職者や法律家を誰も呼んでいないのに興味がある」ワイルドは言った。「ぼくから見ると、これこそコプルストンが信用と信頼性の合理的観念を持っていることの証拠だよ」
その判断はわたしも同意できるものだったが、口に出して言う機会はなかった。わたしたちは既に食堂に入るように呼ばれていたから。コプルストンは客の信じやすさを試す催しを始める前に、料理やかなりいい赤ワインでもてなす良識を心得ていた。だがわたしは──いつもの習慣だが──ほとんど食べず、それ以上に飲まなかった。丁重に食事を楽しんでいる仕草をすることは怠らなかったが。わたしは科学者の若者と医師の間に座っていた。向かいには灰色目の男がいた。だから会話という点では理想的な席ではなかった。幸いワイルドがこの機会を利用して、〈理想の夫〉の上演や〈真面目の重要性〉の執筆や〈ホモのマルケス〉の驚くべき振舞いなどに関する逸話を話してみんなをとりこにした。
ポートワインが配られると、ようやく教授が今夜の真剣な課題について紹介を始めた──このときには、コプルストンは食事の前よりも少し体調がよくなっているように見えた。わたしは樫の椅子に深くもたれ、楽しむ心の準備をし、期待を高めた──もっとも、ワイルドの面白おかしい話を、この教授の話がしのぐのは難しいのではないのかと疑いながら。
心配する必要はなかった。スタイルはワイルドと大きく違うのだが、エドワード・コプルストンは、魅力的なショーをたやすく提供する能力を証明したのだ。


「あなたがたの中には、わたしが一生をかけて行っている研究についていくらかもうご存知の方もいるでしょう」コプルストンは言った。「様々な部族の宗教儀式や呪術の慣習についての論文を読んだ方もいるかもしれません。そういう部族をわたしたちは原始的と呼びます。それは一部には、この人たちが、非キリスト教的な儀式や非科学的な慣習に耽っているという事実によります。だが長い間わたしは、そのような蔑視的な見方は全く正しくないと主張してきました。わたしの冒涜的とされている見解では、キリスト教は、いかなる異教徒の信念ほども真実であるとはいえません。その一方で、現代科学は、はるか昔自らの生みの親となったオカルト研究を口を極めて批判しながら、産湯の中の赤子を一人といわず放置してきました。
公刊されているわたしの部族的呪術や占いに関する研究書は、常にはっきり懐疑的スタンスで書いていました──もし多少なりとも信じるような気配を示したなら、自然哲学者としてのわたしの評判はずたずたになっていたでしょう──しかし、わたしの個人的な思索は、迷信の茂みの中に隠れているひそかな真実があるという仮説を楽しむのにやぶさかではありませんでした。特に未来の知識を得るために部族の呪術師が用いた様々な手法には興味がありました。
予言の歴史には、屈辱的失敗がちりばめられています──そして、キリスト教徒としてわたしたちが信頼を置いてきた予言も負けず劣らず屈辱的でした──しかし、わたしは世界各地を旅する中で、本当に未来を見る内なる才能を持っている人がいると確信するようになりました。更にはそうした自然の才能を高める化学物質があることも。そういった人や化学物質の研究に、適切な科学的方法を適用すれば、より正確にかつより遠くまで未来のビジョンを得る方法をより速く手に入れる可能性があると、わたしはずっと考えていたのです。
こう言いながらも、わたしは、予知の概念に関連して起こるある哲学的問題や、ヴィジョン獲得のプロセスを必然的に混乱させるある心理学的問題についても十分意識しています。あなたがたに講義することで、あなたがたのような人々の知性を愚弄する気は毛頭ありません。しかし、わたしが語らねばならない物語の前準備として、わたしはこの二つの問題について簡単にコメントしておきたいと思います。
大人になってからずっと、わたしはこんな信念にしがみついてきました。もしニュートンの時代からわたしたちが認めている因果の法則が真実なら、少なくとも原理的には、未来は予見、予知が可能なはずだと。もし未来が犯しえない物理法則に従って現在から流れるものなら、それはいわば太古の昔から〈地図に描かれた〉運命に従ってそうなるのだということを、わたしはいつも当然視していました。またわたしは、未来がもし本当に地図に描けるものならば、ある意味でそれは既に存在していると言える、もし形が既に定まっているなら、その形はある意味で既に感知可能であって、それは想像的推理の不確実な霧の中ではなく、現実の中に存在するのだということも、当然だと思っていました。運命の書の中で、宇宙の歴史を形成する瞬間はお互いに細い葉のように隣り合っており、その一つ一つを調べることは可能なのです。もし人間が──あるいは他の生物が──自らの通常のプロセスの外に出る何らかの方法を手に入れれば」
ここで白髭の男が身を乗り出し、口を開いて遮ろうとした──おそらく矛盾を指摘して抗議するためだろう、運命を信じながらも、同時にそこから生物が外に出るという発言について──だがコプルストンは手を上げて制した。
「この観念に内在するパラドックスには気づいています」コプルストンは言った。「もし人間が〈運命の流れから外に出る〉ように〈運命づけられている〉と仮定すれば──そう仮定する場合に限りますが──悪しき循環論法が内在することになります。この点に関しては、わたしは決して満足しませんでした。純粋な推測の迷宮の中でもがき苦しみ、耐え難い思いをしてきました。わたしはこの哲学的迷宮の中心に自分を導く実験ができないものかといつも切望していたのです。アプリオリな未来を覗き込むことの不可能性を実証するよりは、実際にそれができることを実証するために、最善の努力をしたかった。そうすれば、自分に何が可能だったかをあとから考え、それが意味するところをじっくり点検する楽しみが残されますから。
部族社会における薬で強化された予知の研究をもとにすると、呪術師は時に未来の本物の知識を得ているが、そこから利益を得ることはほとんどできていないように見えました。わたしの感覚では、その一つの理由は、呪術師たちの得る真の知識は、必ず異質な要素と混じっており、その結果しばしば誤った解釈が導かれてしまうことです。長い研究の末、わたしが得た結論は、予見の器官──こう呼んでもよければ、〈第六感〉──は、通常の夢に結びつく器官であり、その感覚機能は、感情に結びついた他の表現機能によって混乱するのです。短く言うと、わたしたちのふだんの貧弱な予知能力は、汚染され、ゆがめられ、混乱しているのです。希望や恐怖や夢想によって。その結果、通常、真実と夢を切り離すことは不可能なのです。おぼろに予見された事象が現実に起こり、それによって、かつて隠れていた予知ビジョンのほんとうの意味が明らかになるまでは」
〈この話なら、全部聞いたことがあるぞ〉わたしは思い出した。〈宿屋や喫茶店で、数え切れないほど繰り返し、人々が夢中で議論してきたテーマだ。それに何か新しく付け加えることがあるだろうか?〉わたしは若者のうち青白いほうをちらっと見て、若者の顔に、やはりこの議論は全部聞いたことがあるぞ、という表情を読み取った。今ここでその話を繰り返されることに、少しとまどいを感じている表情だ。わたしは少し笑みを浮かべた。この若者は忍耐とリラックスの美徳をまだ学んでいないのだろう。この男が幸運にもわたしの年まで生き延びれば、もう少し感情の抑えが利くようになるのは疑いない。
コプルストンはやめなかった。完全に、アルコールによる流暢さではないかと疑わしくなるような口調だった。「巫女や、巫女をめぐる呪術的慣習の拡張的研究によって、次のようなことが分かりました」コプルストンは続けた。「適切な薬による夢想的予知の強化は、この心理的汚染を完全に取り去ることはできません。化合物がどんなに強力に、感覚機能の力を強めても──しかしながら、少なくとも、薬を適切に組み合わせる方法を見つけられれば、汚染を最小限にとどめることはできるのではないかと思いました。
わたしの研究した部族は、強化薬を手に入れるのに、自然の恵みを必要としました。シベリア人は、ハラタケを、メキシコ人はペヨートルを、モンゴル人はアヘンの一種を使いました。それに比べると、わたしは、これらすべての化合物を集めて、組み合わせることができるという点、および、最近進化しつつある有機化学の技術を使って、それらをより洗練させ、改変することができるという点で、二重に有利な立場にいます。
これこそ、わたしが始めたことなんです。現代の〈デルフォイの神託〉のメカニズムを発見すること。歴史上知られているいかなるものよりも強力な方法を。わたしは、ふだんわたしを生活上の瞬間の連鎖の中に閉じ込めているカーテンを押し開け、来たるべき世界を覗き込めるようにする、最も信頼できる方法を見つけるための作業に着手しました。この方法によって、わたしは、何よりも、今までわたしが当然だと思ってきたことが実際に真実なのかどうかを知りたかったのです。信頼できる予見者がかいま見た未来は、実際に、変えられない運命の未来であり、予見した上で影響を与えようとどんなに頑張っても絶対に変えることができないのかどうか。それともそれはただの偶然の未来であり、予知能力を働かせることによって変更が可能なのかどうか」
今度はコプルストンは、言葉を切った。ベルを鳴らし、使用人を呼んだ。わたしたちが食べる料理を片手で台所から運び、コースが終わるごとに皿を下げに来た男だった。コプルストンはこの男以外には、年老いたコック一人しか雇っていないのが明らかだった。この使用人は呼ばれたら緊急に出てくるようにと言われていたに違いない、すぐに入って来た。大きなトレイを持っていた。トレイの上には木のラックがあり、一連の試験管やストッパー付きのガラス瓶、大きなマニラ封筒が乗っていた。これらのアイテムを使用人は注意深く教授の前に置いた──むろん教授はテーブルの上座の端に座っていた。
試験管を示しながらコプルストンは言った。「これがわたしの実験材料である、様々な夢想力強化の薬剤です。これは」──ここで教授は封をしたガラス瓶の一つに触れた。赤いペンキで円が記されていた──「わたしが作ったたくさんの混合薬の中で最後の、そして最高のものです。いうまでもなくこれは単純な混合物ではありません。様々な化合物を取り扱う一連の複雑な手順が注意深く公式化されたものが、この封筒の中に入っています。あなたがたは疑いなく気づいているでしょうが、わたしの実験は健康に損害を与えてきました。今夜皆さんに話そうとしている探検の過程で、わたしは修復不能なダメージを受けたのではないかと思っています。わたしの発見が興味ある他の人にも使えるように、わたしはこの調合法の紙をよき友人の医師に委ねます。わたしのあとに続いて探検を引き継ぎたいと申し出る人には、化合物の残りを提供します。わたしの話の中には少なくともいくぶんかの真実が含まれていることを証明するために。一回分に適量の薬品があります。これから話そうとしている三回の夢の旅のうち、二回目に使ったものと似ています」
コプルストンは封筒を医師に渡した。適切な儀式のような仕草で。医師はそれを恭しくジャケットの内ポケットに入れた。
「ドクター」教授は言った。「わたしに付き添っていたこの数日間で見たことを、他の皆さんに伝えられますね」
わたしたちの関心は医師に移った。医師はかなり荒っぽく咳をした。「わたしは見たことしか話しませんよ」医師は言った。「それ以外は無理です」
「それ以外は必要ありません、請け合います」コプルストーンは言った。
医師は居心地悪そうだったが、頭でうなずいた。「わたしはコプルストン教授を、三回それぞれの機会に見ております」遠慮がちに医師は話した。「いずれの場合も、教授は今もっている瓶に残りが入っている、その薬を注射しました。そしてその薬効が切れるまで、わたしは観察していました。
薬を取ると、コプルストンは深い眠りに落ちました。すぐに異常な形態の意識混迷状態に変わりました。脈拍は一分あたり二八に落ち、体温は六、七度は下がりました。体重はひどく落ち、通常より二〇キロ前後は減りましたが不安定でした。しかし体の大きさがそれに比例して減ることはありませんでした」
「残念だな」ワイルドはつぶやいた。「こんなことがなければ、コプルストンはこの発見を、肥満の簡易な治療法として紹介していたかも知れないのに」
医師は一瞬眉をひそめたが、頑固に続けた。「この状態は毎回同じ時間続きました──およそ三時間一〇分──実験のたびに服用量を増やしたのにです。毎回、最後が近づくと、教授の体はぶるぶる震え、三つの実験が進めば進むほど震えは暴力的になっていきました。三度目には痙攣が心臓を止めてしまうのではないかと、心配して恐ろしいほどでした。教授が意識を取り戻したとき目に見えて衰弱していました。しかし、体は失った体重を完全に取り戻すことはありませんでした。最初の意識混迷状態で、まるまる体重三キロが減り、二回目は四・五キロ、三回目は七キロ減りました。わたしに言わせれば、このような状況下で教授が実験を続けることは極めて賢明でありません──コプスルトンの仕事を引き継いで欲しいという誘いを真剣に考える気のある方全員に申し上げねばなりませんが、そのような方は、自らの体にかなりのダメージを受けることを覚悟してください」
この陰気な警告にも教授は全く動じないように見えた。
「ありがとう」教授は言った。それから、再び全員に向かって話し続けた。「わたしは予備実験を長々と説明して皆さんを退屈させたくはない。どんなに魅力的でも、有機化学上の発見を念入りにプレゼンテーションするつもりもありません。予知の過程に含まれるメカニズムの本質については、わたしですら推測できるに過ぎません。しかし、個人の精神の座標上の位置は、通常特定時点の肉体内部に限られますが、これは精神が肉体内部の特定の位置を持つことを意味するのではないということは、覚えておく価値があるかも知れません。サー・ウィリアムは、わたしのこういう主張を支持しているように思います、今や精神がその機能を肉体を越えて働かせるたくさんの証拠があるということ。そしてそのような過程の中で、わたしたちがふだん〈幽霊〉と呼ぶものが作られるのではないでしょうか?」
白髭の科学者は頭を上下にうなずいた。「死後の精神の生存と、それが地上に現れるためにもろい包含体を形成する能力があるという証拠は、たくさんありますぞ」男は同意した。
「すべての幽霊が死後の存在の痕跡ではありません」コプルストンは言った。「わたしの話が示すように。夢想を導入するために伝統的に用いられてきた自然発生の化合物は効果が限られ、それによって可能になる感覚は常に歪んだものでした。しかしそういった化合物が、実際に人間精神の知覚範囲を拡張してきたのです、時間的にも空間的にも。時間と空間はむろん、宇宙という単一的構造物の単なる二つの違った側面に過ぎません。いかなる知覚も何らかの物理的存在なしでは不可能でしょう。そこでこの種の投影は、ある種の合成された肉体を要求します。これは、時に誤解を生む表現ですが、〈霊体(アストラル・ボディ=天体)〉と呼ばれることもあります。
わたしが最終的に洗練させ、完成させた化合物は、自然の化合物の持つ力を極めて強化するものでした。可能な投影の範囲は、広がり、そして──たぶんもっと重要なことですが──わたしが遠隔投影において実行できる意識制御能力も、飛躍的に強化されました。数度の予備実験のあと、わたしは、〈タイム・マシン〉と呼び始めたこの方法を、人類の未来の探検に使ってみたくてたまらなくなりました」
「肝心のことは話したくなさそうですね」青白い若者が無礼な口調で言った。「今年のダービー馬はどれです?」ひどく敵意を持っているように見える。遠回しなやり方で侮辱されたかのような。
「ああ」コプルストンは言った。「わたしのマシンは強力すぎて、六〇年旅するにも非実際的なほどの正確な服用量の調整が必要なのです。ましてや六ヶ月ならなおさら。それにそんなに

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