SF百科図鑑 (二重螺旋〈へリックス〉ならぬ)二重フェリックス構造 The Double Felix ポール・ディ・フィリポ


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(二重螺旋〈へリックス〉ならぬ)二重フェリックス構造 The Double Felix ポール・ディ・フィリポ

プロローグ
別に驚くようなことではないが、たいていの葬式は悲しい出来事で、フェリックスの葬式におけるレンも例外ではなかった。
むろん悲しむ必要のあることではなかった。もしフェリックスが、完全に予定されたとはいえないまでも予想されてはいたこの死による不都合が発生する前に、そうすることを忘れさえしなければ、すべての人にきちんと説明していたはずなのだ。もし参列者がトッシュを知り、その首につけている特別な首輪に気づいてさえいれば、驚きつつも喜ぶに十分な理由があったのだ。
むろん、殺人犯を除けばだが。
混みあった教会の最前列──美しい未亡人、レン夫人(かつては、相続権を有するものの無一文な推定相続人ガリナ・バリバンにして、追放された白ロシア伯爵の曾孫娘)が座っている──から最後列の席に至るまで、フェリックスの使用人である〈レン・バイオハーモニクス〉社の社員と、カリフォルニア技術研究所の古い同級生でいっぱいで、誰もが涙を流し、あるいは、すすり泣きを押し殺していた。追悼の辞を述べる牧師ですら、落ち着きを保つのに苦労していた。
さて、かつて生まれて死んだ人の中で最低最悪の人間ですら、葬式になれば、おそらく一人か二人ぐらいは悲しんでくれる人がいるように思われる。スターリンの年老いた母親ですら、この独裁者が今まで自分を銃殺しなかったと思い、息子の棺桶に向かって涙を流して泣いたかも知れない。だが、とりわけこの葬式で流れる涙は、まれでもなければ、嘘泣きでもなかった。フェリックスと交渉を持ったことのある人なら、誰もが尊敬と愛情を抱いた。フェリックスは瓦礫の中の王子であるというのが、一般的合意だった。そして今、人々は閉ざされた棺桶を見るたびに、フェリックスがそれほどの若さで不幸な不慮の死を遂げたことについて、新たな悲痛に打たれるのだ。
涙声になるのを意に介さずに、神父は最後の演説に入った。
「いつもと変わりなく、自宅のなじみの作業場で、人類に利益をもたらす新たな製品を開発中に亡くなったということは、まさにフェリックスらしい死に方だったと思います。フェリックスほどの熟練した研究者が、何ゆえに前もって十分な注意を怠り、その結果、偶然の注射針の事故により、血管に致死量の化合物を注射してしまったのかは、永遠の謎ですが、わたしたちの考えるべきことでもありません。当局は」──ここで、神父は教会の後方の列を見た。そこには一本しかない手にハットを持ったこわもての男が一人、気後れしながらドアの脇に立っていた──「フェリックスの死が全くの神の御業による不可抗力だったという説明に満足しています。わたしたちのような限りある命の哀れな生き物にはおなじみの、説明できない不幸なのです。そしておそらく、知恵ある神は、なんらかの──」
「そんな話(舌)、もうやめな!」
この呆れるほど無作法で場違いな暴言によって引き起こされた静けさは、カールスバッド・キャバーンズ最奥部の執務室に分け入った者が遭遇するそれと似ていた。急に、一マイル彼方の鳥が青春の歌を謳歌する声が、開いた教会のドア越しに聞こえてきた。
突然立ち上がって隣に座る男を振り返り睨みつける、黒衣のレン未亡人のしなやかな肢体に、全員の目が釘付けになった。未亡人の印象を和らげている黒いレースのヴェールの下で、一瞬、怒りの表情がその顔を歪ませた。そして未亡人は震えながら、今にも更なる罵りの言葉を浴びせかけそうに見えた。だが何とか頑張って落ち着きを取り戻したのが、傍目にも分かった。後悔に心を痛めるような目線で一同を見やり、突然、差し伸べられた手を払いのけて、叫んだ。しかも、先ほどの罵り声はテネシーのがさつな女のよそよそしい口調だったのに、今度の叫び声は、奇妙なルリタニア訛りだった。
「わたし──わたし──わたし、腰が痛くなってしまったわ!」
未亡人の一時的な怒りの標的となった男が立ち上がった。ほぼ半サイズ小さい運転手の制服を着て、半サイズ大きいひさし付きの帽子をかぶってよたよた歩く、大柄な男だ。その顔は歴史上の格の低い専制君主を思わせ、髪型は鉢のような形だった。
「奥さま、この生真面目で要求の多い見世物ショーから、抜け出す手助けをしましょう」未亡人の腕をやたらと強く握りしめながら、男は言った。
再びすすり泣きを始めながら、レン夫人が言った。「ええ、お願い、スタガース。わたし──車で待ってます」
二人は教会の通路を出口に向かった。途中まで来たとき、神父が演説を再開し、参列者の関心は再び祭壇に戻った。
ドア脇に一人で立っていた男が近づいてきた。中身のないスーツコートの右袖は綺麗に畳んでピン留めされていた。
「レン夫人。ミスター・スタガース。お話してもよろしいかな?」
「ええ、もちろんです、スタンボ刑事。ただ、故人に敬意を表して、外に出ましょう」
男は明らかに不満の鼻息を抑えたように見えた。「分かりました」
不透明な窓の白いストレッチリムジンが、教会の前の三日月型の砂利道にとまっていた。左の後部ドアの前で、三人は止まった。
スタンボ刑事は、ハットを頭にぴったりかぶり、自由になった唯一の手で、ポケットのパックから煙草を一本抜いた。親指をスナップさせ、木のキッチン・マッチで火をつけると、息を吹いて火を起こした。緊張した数秒の間、刑事は、以前には実際にFBIに雇われ、黙ったまま人質交渉を終わらせるほどの力のあった目で、未亡人と運転手を見つめた。そして話した。
「ミセス・レン、わたしは知らせたかったんです。捜査本部はご主人の死の件を捜査するのをやめましたが、わたしは個人的に追いかけるつもりだと。わたしはまだ、知るべきすべての事実が明らかになったとは思っていません。いくつか、辻褄の合わないことがある気がするんです──」
女はまぶしい微笑みを浮かべて、刑事を見た。「関心を持っていただき、感謝しますわ、ミスター・スタンボ──グレイディ、と呼んでよろしければ。でもわたしは、捜査の結果に完全に満足しています。あなたが捜査を続行なさるのは時間の無駄ではないかと思いますわ──あの悲劇をただ忘れようとしている哀れな妻にとっては、心を刺激し、苦痛にさせるものです」
運転手が声を上げた。「ええ。それにあまり適法とも言えない。個人的な時間を、あなたの権限外のことを嗅ぎまわるのに費やすなんて──おお!」
レン夫人は最初の一撃の余波を、無垢で弱弱しいよろめきに変えた。「あら、わたし、気が遠くなってきた──今この話を、これ以上続ける必要がありますの、刑事さん?」
「いいえ、必要ありません。ただ、これからも連絡は取ります」
運転手は前に進み出た。「お互いに何の敵意もない証しに、握手をしましょう!」
グレイディは返事する前に、一瞬、差し出された右手を冷ややかに見た。
「近ごろは蛇に手があるんですから、豚にも羽根があるんでしょうな」
そう言って、グレイディ・スタンボ刑事は車に移動した。ぼろぼろの赤いフォード・エスコートだ。すぐに車は走り去った。
「はっはっは!」スタガースは笑った。レン未亡人に視線を落とし、乱暴な態度に戻った。ひどく素人臭い手つきで、リムジンのドアを開けた。
「入れよ、このトンチキの尻軽女!」
未亡人を中に追いやると、すぐに自分も入り、ドアをばたんと閉めた。
いったん広い車内でプライバシーが確保されると、スタガースは自分の表向きだけの雇い主を揺すぶり始めた。
「なあ、なぜあんな場所で、あんなことをやらかしたんだ?」
うんざりした表情を浮かべたレン夫人は、何も言わず、満足のいく反応のない夫人の肉体を揺さぶることに、すぐにスタガースは退屈し、手を放した。
「もういいの?」未亡人は穏やかにきいた。
「ああ、今のところはな──あうっ!」
レン夫人は両手の指を絡み合わせ、棍棒のようにしてスタガースの顎を殴ったあと、両手をほどき、マニキュアの指を伸ばした。スタガースは、急速に紫になってゆく顎をさすった。
「この馬鹿! 教会の中であんな風に触るなんて! 熱が冷めるまではすべてが正常に見えるようにするべきだと言ったでしょ。あのこそこそした刑事、事実上、あんたの自白も何もないのに、明らかにもう、あたしたちを疑ってるのよ。まずいと思わない?」
レン夫人の怒りに、スタガースは怒るよりもむしろ喜んでいるように見えた。笑いながら言った。「がまんできなかったんだ、ベイビー。お前がおれをそんな気分にさせたんだぜ」
スタガースは大きな手を未亡人の膝に乗せ、スカートの中へ這わせようとしたが、夫人は払いのけた。だが、夫人はこう言ったにもかかわらず、まんざらでもなさそうな様子だった。
「あんたがあたしをまた見つけたあの日のことを後悔してるわ。もしあたしのやりたいようにやってたら──」
「おまえのやりたいようにやってたら、おまえはいまだに、あのいかれた旦那が運を浪費していることを──おれたちの運を浪費してることを、嘆いてたさ──あいつの狂った考えに従ってな。おれでなければ、お前はあいつを消す勇気がなかったはずだ」
「たぶん──」
スタガースは再び手を伸ばし、今度は抵抗はなかった。「冷たい瞬間の後に、熱い瞬間が来る。昔のパーフィディアにそっくりだ──」
髪を逆立てながら、女が言った。「その名前はたとえ二人しかいなくても、絶対に言わないでと言ったでしょ!」
スタガースはがさつに笑った。「ああ、そいつは奥さまの計画には合わないでしょうな。もしお前の新しい友達が、あらゆる新聞に写真の載っている──アトランタの新聞でさえ載せている──金持ち女ガソリナ・ベリーバンドの正体は、ジョージア州パインマウンテンのミス・パーフィディア・グラボイスだと気づいたら。あるいは、約一年前別のことで有名になったミセス・ラウディ・スタガースだと気づいたら」
ラウディの手は今やパーフィディアのスカートを大きくまくり上げていた。もう片方の手は忙しくボタンを外したブラウスの中をまさぐっている。女の頭はクッションのシートにもたれ、シャドウを塗ったまぶたが閉じた。
「こんちくしょう。最低男め。でもあんたはいつだって、あたしがどうして欲しいか知ってる。ちびで弱っちいフェリックスの一〇〇倍いいわ──」
慌ただしい一分ほどの間、沈黙が流れた。そしてパーフィディアが言った。
「家に着いたとき、あたしが最初にやることは何だか知ってる? ラウディ」
「えーと──」
「フェリックスが異常に可愛がっていた、あのおぞましい犬をあんたに殺してもらうわ」
「いいとも、老いぼれ犬のトッシュを始末するのが、おれの最初に手伝うことだ」



コモンドール種の犬の平均体重は六八キログラム以上あり、外見は長いドレッドヘアの花輪で飾った小さな二人掛けソファーに似ている。この種に典型的なレゲエ風のもつれたラスタ・ヘアは、犬の顔を見にくくする。このため、犬の表情は計り難く、その時に下賎な意図をうまく隠蔽してくれる。
フェリックス・レンはその生涯でずっとコモンドール犬を飼い続けて来た。一匹目はボブ・マーリイから取ったマーリイという名で、二匹目はジミー・クリフから取ったクリフという名だった。今飼っている三匹目はトッシュという名だった。
トッシュは神経質そうに、設備の整ったフェリックスの作業場の端から端へと歩いていた。主人が死んで以来、トッシュには慰めがなかった。戸外運動場の檻に閉じ込められて、ひっきりなしに吠えながら、大きな体を金網にぶつけて逃げようとした。パーフィディアかラウディを見るだけで、荒々しい発作にとらわれるのに十分だった。
悲しみに狂ったこのペットがついには檻を飛びだし、母屋に自分たちを追い詰めるのを恐れて、パーフィディアは犬をフェリックスの研究室に移動させるようラウディに命じた。ラウディは罠つきの棒を持って臨んだ。トッシュはそれをまっぷたつに噛みちぎり、ラウディは逃げ出したときズボンの片脚しか残っていない状態だったにもかかわらず、ラッキーだと思った。言うことをきく獣医の処方した鎮静剤入りのダーツで、かろうじて動物を一時的に取り扱える状態にした。(ラウディはこの動物を殺そうと露骨に提案したが、パーフィディアは、そういう行動はあまりにも疑わしく見え過ぎる、少なくとも葬式が終わるまでは延期すべきよ、と反論した。)
研究室のおなじみの匂いは、とにかく犬を落ち着かせたようだった。もはや怒ってはおらず、ただクーンと鳴いて、ゆっくり歩きながら、リノリウムの床を爪で引っ掻いた。
トッシュの頚の周りには、奇妙な首輪があった。ドレッドヘアの下は判別しがたいが、それは磨かれた厚い金属の菱型の連なりに見えた。ただし、ひとつだけ透明な水晶でできた楕円形のリンクがあって、隣の菱型とつながっていた。
散らかった作業台の上にあるデジタル時計は、午前一一時五九分から一二時に変わった。
トッシュは突然電気椅子で処刑されたように身を堅くし、床に崩れた。
歪んだ波が犬の体をぼやけさせた。まるで目に見えないオーブンの中央に置かれたかのようだった。そのオーブンの加熱した空気が、犬の体を震わせ、動かし、溶かし、曲げ、その毛深い姿を再結合して──
細い、赤毛でにきびだらけの男の体に変えた。トッシュの首輪以外は裸だ。
男は正直そうな青い目を開けた。手を伸ばしてくびの周りにだらんとかかった首輪に触れた。
「わお。うまくいったぞ。成功だ!」男は落ち着いた。「可哀想なトッシュ」自分の頭を軽く叩いた。「すまない。すぐにおまえを取り戻すからな」
記憶が徐々によみがえって形をなすような表情を浮かべ、男は顔に皺を寄せながら、更に落ち着いた。「わたしは何を言ってるんだ? 可哀想なトッシュ? 可哀想なのはわたしだ! あいつらは──わたしを殺したんだぞ! わたしの愛すべき妻が! 確かに、いつかはこうなると前から疑ってはいた。だがこんなに早いとは思いもしなかった。あいつらが計画を練り上げるのに、もう少しかかると思っていたんだ。とはいえ、わたしは気づくべきだった。ガリナはわたしに昼食を運んできたことなどなかった。わたしは驚いた──ピーナツバターとバナナ・サンドイッチだけとはいえ──あまりにも驚いたので、その後ろにろくでなしのスタガースが入ってくる音に気づかなかったんだ──」
話しやめて、男は立ち上がった。「ああ、トッシュはもうここにいないと、わたしは自分に言い聞かせないといかん──少なくとも昔と同じ姿では。あの犬に話しかけるのが、わたしの癖だから──」
男はフックからカバーオールを降ろしてはおった。そして化学薬品のしみがついたスニーカーを履いた。「トッシュ、ここはうろつくにいちばん安全な場所とはいえないな? だが、他人に邪魔されずにやらねばならないことが、まだある。さて、いったいどこに──いうまでもない! プリシラ・ジェーンの家だ!」
受話器を取り、男はダイアルした。
「もしもし、プリシラ・ジェーン? フェリックスだよ。どのフェリックスかって? きみの上司、フェリックス・レンだ。他にフェリックスという知り合いがいるのかね? そんなにありふれた名前ではないと思うが。もしもし、プリシラ・ジェーン、そこにいますか?」
フェリックスは受話器を置いた。「おかしいな。回線が切れた。さてどうしよう、すぐにあっちへ行って、また電話しないと」
プラスチックの容器から、フェリックスは片手いっぱいに様々な大きさのネックレスやブレスレットをつかんだ。どれもフェリックスが身につけているのとそっくりだ。そしてそれをあちこちのポケットに入れた。ラップトップ・コンピュータを拾い上げ、研究室のドアに移動した。
車が屋敷の庭に入る音がフェリックスの耳に届いた。
「おや、おや」
フェリックスは外をちらっと見、帰ってきたこの家の新しい所有者に見つかる前に逃げられればいいが、と思った。
だが、既に遅かった。
フェリックスがまだ戸口にいる間に、作業場の向かいに車は停まった。裏切り者の妻と運転手が現れた。話し込んでいて、二人は初めフェリックスに気づかなかった。
「──そして、あの犬には苦しんでもらうわ! 一本一本手を撃つのよ、ラウディ」
「うはははは、パーフィディア、そのやり方がいいな!」
フェリックスの視界が怒りで真っ赤になった。抑えきれずに言葉が出ていた。
「わたしを殺しただけでは飽き足らず、今度は哀れなトッシュをいじめようというのか!」
パーフィディアとラウディは芝生に釘付けになった。その目が、剥いた玉葱の皮のように薄くなった。パーフィディアはよろけながら、運転手につかまった。ラウディの顔色はブーツの中に流れ落ちるかのようにみるみる失われた。
「何てこと! ありえねえっ!」
フェリックスはにやりとした。こいつらが知っていたらなあ。自分は、幽霊の一〇倍も奇跡的な存在なのだということを。
凍りついた二人から芝生の上を穏やかに歩いて遠ざかりながら、フェリックスは小さく「ちくしょう!」と言わずにおれなかった。
その言葉で、妻の静止状態が解けた。
「幽霊はコンピュータを運んだりしないわ、ラウディ! こいつが誰だか知らないけど、止めないと!」
「合点だ、ベイビー!」
ラウディはゆっくりしかし決然と、フェリックスに近づいた。
フェリックスは服を脱ぎ始めた。
この明らかに狂気じみた行動が、ラウディを立ち止まらせた。だがすぐに、ラウディは注意深くふたたび近づき始めた。
フェリックスはラップトップのスクリーンをぱちんと上げ、ウインドウを開いた。ケーブルを、身につけたネックレスの小さなポートに差し込んだ。
「六〇秒で足りると思うかい、トッシュ?」フェリックスは空気に向かってきいた。
「兄さん、あんたには三秒も残ってないぜ」ラウディがうなった。
フェリックスは舌打ちした。「何たる無知」
そして、ENTERキーを押した。
トッシュをフェリックスに変えたありえざる変形が、今度は逆方向に起こっていた。
うなり、涎を垂らしながら、復讐に燃える犬が跳び上がり、頭を振ってコンピュータのケーブルを払いのけ、身動きできなくなったラウディに狙いを定めた。男は後じさり始めた。きゃあと悲鳴を上げて、パーフィディアは家に逃げた。ラウディも振り向いて急いで後を追った。
トッシュは数メートルでラウディに追いついた。大きく跳び上がり、一撃で運転手を地面に倒した。ラウディの頭が芝生にある飾りのセメントの蛙に当たって跳ね返り、動かなくなった。トッシュは、意識を失った男の首に向かって息を吸い込み──
フェリックスは、自分が口いっぱいに制服をほおばっているのに気づいた。
「オエーッ!」
まだ息をしている運転手の上から降り、フェリックスは服とコンピュータを取り戻した。妻──パーフィディア? スタガースはそう呼んだか? 何もかも奇妙すぎる!──はどこにも見当たらない。疑いなく、妻は警察か野良犬処理センターに電話しているのだ。もう逃げるには手遅れだ。舌の裏に入っているシャツのボタンをぺっと吐き出し、フェリックスはプリシラ・ジェーンの家に向かった。



プリシラ・ジェーン・ファーマーは受話器を置いて泣き出した。
何、今の気持ち悪いイタ電魔は! フェリックスそっくりの声で、下げて〈T〉をつけるおかしなイントネーションまで真似てる! しかも心ゆくまで泣き尽くして、少しほっとしたところへ狙ったようにかけてきたのだ。プリシラはふたたび、鼻水と熱い涙の発作と目の腫れに対処しなければならなかった。ティッシュペーパーは既に使い果たしていたし、これ以上外に出かける気にもならなかった。あのがさがさしたペーパータオルと、みっともないトイレットペーパーのロールを使うしかないわ!
人間や物事や人生全般を罵っているうちに、プリシラ・ジェーンはフェリックス・レン本人にも批判を向けたほうがよいと思えてきた!
「そもそも、何が──どうして死んだのよ?」プリシラ・ジェーンは泣いた。「馬鹿みたい! 古い汚れた針を自分で刺すなんて! あの妻が何か関係していることに、百万ドルかけてもいいわ! ひどい女! あんな女と結婚しちゃだめだって言ったのに。最初から金目当てだと思ってたわ! でも、フェリックスは聞いてくれたかしら? いいえ、もちろんそんなはずはないわ。ああ、わたしは優秀な女性秘書、まさにそう! いったいフェリックスがゼロからとてつもない事業を興すのを助けたのは誰? はーっ! でも個人的なことになると、フェリックスはわたしの助言を聞いてくれるかしら? いいえ! それにわたし──わたしなら──わたしなら、フェリックスを幸せにしてあげられたのに!」
プリシラ・ジェーンは、車椅子の車をつかみ、ぐるりと回転してキッチンの入口を向いた。涙で半ば目を曇らせて、前に進んだ。途中、テーブルにぶざまにぶつかり、花瓶を床に落とした。割れた。
「くそっ! くそ、くそ、くそ!」
ちょうど四枚のタオルのうち三枚を使ったとき、ドアベルが鳴った。
玄関へ向かいながら、プリシラ・ジェーンはいらいらと叫んだ。「どなた?」
「フェリックスだ、PJ。入れてくれ!」
悲しみの痛みと激しい恐怖がないまぜになってプリシラ・ジェーンの体を貫いた。何てことよ、あの狂ったいたずら電話の男がここに来たわ! どうやってわたしの住所が分かったの? 何しに来たの? 絶対気違いよ、こんな風に死人の真似するなんて──
「うう、ええ──ふぇ、フェリックス。ちょっと待って。わたし──わたし、服を着てないの──」
「プリシラ・ジェーン、大丈夫か? 怖がってるようだぞ。聞いてくれ、わたしは少し急いでるんだ。頼むから、急いでくれるか?」
電話機は手の中にあり、プリシラは警察の緊急番号を押していた。わたしが怖がってる?「いいわ、急ぐわ」
ドアの反対側の男の声は悲しげな声を装っていた。
「プリシラ・ジェーン、きみはわたしを信用していないと、何かが知らせてくるんだ。何をしているか知らんが、警察にだけは電話せんでくれ。妻はそこからわたしの居場所をつかみ、わたしを殺そうとしているんだ」
オペレーターが出た。「もしもし? もしもし? どうしました?」
プリシラ・ジェーンは話した。「あの、いえ、ごめんなさい、その、あー、うちの猫が、たまたま短縮番号を押しちゃったんです。失礼します!」
ドアに戻り、プリシラ・ジェーンはチェーンをかけた。「あなたを殺そうとしてるって、どういう意味?」
かつての雇い主の声が言った。「そのとおりだよ。つまり、前にもあいつはわたしを殺した──あのスタガースってやつの助けを借りてな──だがそいつはうまくいかなかった。わたしは生身で戻ってきたんだ。あー、まあ正確には、全く同じ肉体ってわけではないんだが──」
プリシラ・ジェーンは鼻で笑った。「戻ってきたのね。同じだけど同じじゃない。ええ、けっこうよ──」
偽者フェリックスは、怒った。「プリシラ・ジェーン、わたしは遊んでいる暇はないんだ。入るよ」
一階の窓はすべて泥棒よけの棒が取りつけられていた。「やってごらんなさい、ミスター!」
ドアの向こう側から音がする──コンピュータのキーを叩く音? 何かががちゃがちゃとドアのハンドルを回した。
すると堅い樫のドアが、和風の障子に変わり、竹の骨と半透明の障子紙になった。偽者フェリックスの影が、恐ろしげに現れた。
侵入者は紙を引き裂く音とともに中へ踏み込んだ。
中に入ると男は静かに脆く垂れ下がったドアを開け、変わり果てた外側のドアノブからブレスレットを外した。
ドアはたちまち、普通の外観と構造に戻った。中央にぼろぼろでギザギザの穴があることを除けば。注意深く、偽者フェリックスはドアを閉めた。
プリシラ・ジェーンは、どういうわけか自分が部屋の反対側にいるのに気づいた。そこまで走った記憶はなかった。
男が振り向いてプリシラを見た。
疑う余地はない。フェリックスだ。故・フェリックス。亡くなったフェリックス。
今、その男が隣にいる。プリシラは、二、三秒は気が遠くなっていたに違いない。男は、フェリックスがいつもしたようなひょうきんなしぐさで、プリシラの肩を叩いた。一見本物の手で。
「おや、すまない、PJ。わたしが死後の世界から帰って来ることが、普通の人にとってはショックかもしれないと考えるのを忘れたことはないんだが。わたしの知っていることをすべての人が知っているわけではないということを、ついつい忘れてしまうのだ。なあ、きみは本当にわたしの死体を見たのか? わたしでも見られたんだろうか? もう遺体は埋葬されたと思うかい?」
フェリックスのみがあまりに現実的でないがゆえに、自分の幽霊が快く受け入れられないかもしれない可能性に考え及ばなかったのだ。フェリックスのみが思春期の若者みたいに、自分の死体を見るという観念に魅了されたのだ。それは自分でなくてはならない。
「ええ、あなたの死体を見たわ。この馬鹿、今のあなたと同じぐらいリアルだったわ! いったい何が起こってるの?」
フェリックスは座った。「長い話になる。この数年、わたしがルパート・シェルドレイクの理論を研究していたことは知っているだろう?」
「ええ。あの無意味な〈形態フィールド〉を信じてた変人でしょ」
フェリックスはため息をついた。「無意味じゃないんだ、プリシラ・ジェーン。真実だよ。シェルドレイクがフィールドについて仮定したことは、真実だったんだ。それにわたしは、フィールドのコントロール方法も学んだ」
「それなら、わたしの記憶をリフレッシュしないとね。わたしに思いだせるのは、おっぱい(ティット)がどうとかいう話だけだから」
「おっぱい(ティット)? ああ、きみがいってるのは、シェルドレイクが理論を公式化する助けになる行動をした鳥(バード)のことだろう。確かに、あれはとても興味深いが、シェルドレイクの議論の主要な原動力ではないね。簡単に説明するにはどう言えばいいだろう──? ほら、どんな物にも形があるだろう? 原子から、分子、より高次の組織、果ては銀河に至るまで、すべての物体が特徴的な構造と形態と属性を持っている。シェルドレイクはそこに興味を持ったんだ。だからこそ、自分の理論を〈形態生成原因論〉と呼んだ。それはともかく、シェルドレイクの議論は、すべての形態が〈形態フィールド〉というフィールドで発生し、安定化するというものだ。目に見えず、どこにでも存在する、極めていびつなエネルギーの網だ。それは万物の形を作るとともに、万物によって形作られる。永遠の双方向のフィードバックの流れだ。しかも、これらのフィールドが影響を与えるのは形態だけではない。様々な事柄に影響するのだ。例えば態度、概念、本能、反復動作、記憶──ほぼあらゆる事柄に。生命も無生物も含めて、実際すべてのものが、その揺らぎに支配されるのだ」
「で、その形態フィールドが、あなたを死から甦らせたっていうの?」
「たのむよ、プリシラ・ジェーン、馬鹿なことを言うのはやめてくれ。きみはまるでそのフィールドが自由意志と目的を持っているかのように言う。わたしは心の底から誇りを持って、わたし自身の力でそうしたんだと言いたい。
なあ、分かっているだろう、人間の意識は、この肉体には含まれていないんだ。人間のすべての記憶や人格は、外部の形態フィールドに存在する。肉体の雛型と同じようにね。わたしたちの日々の存在は、物質全体と、この微妙なエネルギーの網目の複雑な相互作用によるんだ。そして、形態フィールドが永遠である以上、わたしたちの個人的自我も永遠なんだよ」
「あなたは、これまでに生き、死んだことのあるすべての人が、何らかの到達不可能な媒体の中に、未だに生きていると言いたいの?」
「〈ほとんど到達不可能〉と言うべきだね、プリシラ・ジェーン。わたしは到達したんだから。わたしはそうやって、自分を連れ戻したんだから」フェリックスは首周りのネックレスを撫でた。「こいつがあれば十分だった」
プリシラ・ジェーンは目を細めて見た。「それ、トッシュの首輪? そうね! なぜあなた、犬の首輪しているの? どうやって生き返ったのよ?」
フェリックスはポケットからブレスレットを出して、しみじみと撫でた。「この水晶が見えるか、プリシラ・ジェーン? これやこれに類するものは未だかつてこの世に存在したことがない。これは完全無欠な合成物だ。最高のダイヤモンドにすら見つかるような不完全さの全くない、格子状組織なんだ。わたしはこれを微重力状態で育てた。この状態だと、無限に調整可能なんだよ。これがひとつあれば、どんな周波数でも複雑に振動させることができる。ナノヘルツからギガヘルツまでな。きみの腕時計の石英水晶のような物だ、ただ無限に正確だというだけだ」
「それで?」
「振動が鍵なんだよ、キーなんだよ。プリシラ・ジェーン。万物が絶えず振動している。量子レベルから大きなレベルに至るまで、ずっと。そして、ある構造物の特定可能な振動パターンは、それがいかなる関連する形態フィールドに同調するかによって決まる。ラジオ受信機が特定のラジオ局に同調するのと似ているな。水素原子が一方向に振動する。そうすると水素原子形態フィールドに同調しやすくなるのだ。鮫は別の仕方で振動する。これは、鮫の形態フィールドに支配されているからだ。そして、フェリックス・レンは、フェリックス・レンのフィールドと調和しながら振動する。これはむろん、一般の人間フィールドの下位形態だがね。人間フィールドの間では、たいてい混乱が起こることはない。なぜなら、シェルドレイクが言うように、〈きみは他の誰よりも、きみ自身によく似ている〉からね」
「まだよく分からないんだけど──」
「百聞は一見に強かず。今から実演して見せよう」
フェリックスは身を乗り出し、プリシラ・ジェーンの手首にブレスレットをはめた。そしてコンピュータのケーブルを差し込んだ。
「この装置の一つ一つに、バッテリー稼動式のチップが入っているんだ。デジタル時計に入っているのと性能は大差ない。二、三の機能しかないよ。指示された通りに電源を入れたり切ったりすることと、水晶から変換導入された振動を読み取ることと、他の振動を導入することだ。それともちろん、ここにあるラップトップと交信することができる。
さて、まず必要なのは、水晶をきみに同調させることだ。きみの個人的振動パターンを読み取るんだ」フェリックスの指はキーの上をさまようように動いた。「よし、完了。きみに固有のパターンは、ファイルとしてCDに記録された。実際、とてもシンプルだ。二メガバイトもない。というのも、最高レベルのパターンが、プリシラ・ジェーンを形成する下位形態に対して、何百万という指示データを包含しているためだ。よくできてるよ。
とにかく、その最終結果が、きみの身につけている水晶なんだよ──バッテリの電力を使い、内蔵チップの指令を受ける──それは今、きみの精神・肉体ゲシュタルトと同じ振動を放って輝いている」
「それってつまり、余剰部分ってことね?」
「そうだな、今のところは。だが、もしそのブレスレットを外して、ほぼ同じ体積の別の生き物につければ──」
フェリックスの言わんとすることに気づいて、プリシラ・ジェーンはさえぎった。「その生き物の自然な振動を圧倒するのね。でもどうして、生き物なの? 重さ五十キロの浜辺の砂でもいいんじゃない?」
「ああ、それはシェルドレイクもわたしも答えられない謎なんだ。シェルドレイクは生命と活力に関する理論を持っている。生命システムの持つ特殊な性質についてな。理由は何であれ、無生物を生命のパターンで振動させることはできない。残念ながら死体もそうなんだ、もし死体でも可能なら、わたしは昔の肉体を取り戻すだけでいいからね。だが、きみの感覚的な推測を認めよう、このブレスレットは、触れる者すべての自然な振動を圧倒する。そしてその者をもうひとりのプリシラ・ジェーンに変えてしまう」
「で、あなたもそうやってあの世から生き返ったわけね?」
フェリックスはにやっとした。「ご名答。そう、わたし自身が、あらゆる実験の対象なのだ。わたしは自分の振動パターンをファイル化しておいた。初めて、あのガリナが──あるいは本人がそう呼ばれたがっている呼称で言うなら、パーフィディアが──わたしを殺そうとしていると疑いだしたとき、わたしはある予防策を講じた。数ヶ月前、わたしは形態反響首輪をトッシュにつけた。チップは内蔵時計を常時参照し、七二時間経過時にわたしのパターンで水晶を振動させるように設定しておいた。三日おきの所定の時刻の寸前に、わたしはリセットして七二時間延期した。いったんわたしが死ぬと、リセットをする人がいなくなって、トッシュがわたしになったというわけだ」
「フェリックス──あいつらが殺そうとしてると思うんなら、警察に行くだけでいいんじゃないの?」
「だって、証拠がない。でももっと大事なことは、自分が殺されてこそわたしの装置の完璧なテストになることを、わたしが知っていたということだ」
プリシラ・ジェーンは、呆れ返ってフェリックスを見た。「つまり、あなたは自分の理論の正しさを証明するだけのために、殺されることを受け入れたっていうの? そして、トッシュの体に入れ替わったからこそ、あなたはここにいられるのだと? 要するにあなたは一種の、サイバネティックな犬人間ってこと?」
「その通りだ。もしわたしがこの首輪を外せば、あるいはバッテリーが切れれば、わたしはすぐに元の姿に戻る。わたしはトッシュにとても感謝しているよ、自分の原形質をわたしに貸してくれていることに。もちろん、わたしはトッシュのパターンをファイルにしているし、わたし自身の存在を放棄せずにトッシュを復活できる道徳的な方法が見つかれば、すぐに実行するよ」
プリシラ・ジェーンは、一分ほどフェリックスをじろじろ見た後、ようやく結論を出した。
「あなたがフェリックスだと信じるわ──」
「よかった!」
「──そして、あなたの頭がおかしいこともね! とにかくあなたは殺されることを免れたけど、そのショックで頭がおかしくなったんだわ。ガリナは、ダミーの人形だか、無名の赤の他人の死体をあなたに見せかけて、棺桶に入れたのね。それからあなたを監禁したけど、あなたは逃げ出した──」
またフェリックスはため息をついた。「プリシラ・ジェーン、わたしが先ほど説明した単純な事実が本当のことなのに、どうしてわざわざ難しいストーリーをでっち上げるんだね? どうやったら信じてもらえる? ああ! どうしてその恐ろしい車椅子に乗っているのか、もう一度教えてくれないか、PJ」
「二〇歳のときの交通事故」
フェリックスはラップトップで何か作業を始めた。「もうひとついい忘れていたことがあったが、組織のあらゆる過去の状態が、〈形態貯蔵庫〉に保持されるんだ。一九歳のときのプリシラ・ジェーン・ファーマーの痕跡を分離するのは困難ではないだろう。わたしは簡単なパターン追跡プログラムを作っておいたんだ。うーむ──分かったぞ! もちろん、肉体フィールドと精神フィールドを分離しなければならんが──ははっ、精神フィールドか、こいつはいいや! きみを一九歳のころのように愚かで神経質にする必要はないからな、あんな赤信号──」
「何ですっ──」
プリシラ・ジェーンは全身を震わせる奇妙な感覚を抑えた。「フェリックス。いったい何をしたの?」
フェリックスはプリシラのブレスレットからゆっくりコンピュータのケーブルを外し、言った。「気をつけていなかったのか、PJ? もう少しちゃんと訓練したつもりだったんだが。椅子から立ち上がってごらん。やらねばならないことは、たくさんあるんだから」
プリシラ・ジェーンはおとなしく立ち上がった。
そしてすぐに気絶した。



グレイディ・スタンボ刑事は、独り言を声に出して言う習慣はなかった。ベトコンの〈虎の檻〉から抜け出すまでの間、独り言に頼ることはなかったが、その間に片腕を失った。二〇年のめちゃくちゃな軍隊生活を生き延びながら、その種の奇癖を身につけることはなかった。一度も自問自答することなく、無数の事件を解決してきた。だが、フェリックス・レンの死には、解決前段階での自責を戒めるという注意深く守ってきた自戒を、完全に破壊してしまうような何かがあった。
片手を器用に使い、レン邸へと運転しながら、スタンボ刑事は、この最も不可解な事件に顕著な一連の事実を復唱している自分に気づいた。更に、フェリックス・レンの葬儀から帰還して以来、膨大な量のデスクワークを放置してまで外回りに駆り出されている自分の、最近の驚くべき行動の進歩と、あの忌まわしい未亡人の落ち着きを乱してやろうという試みの失敗について。
「レンには、争った痕跡であるあざなどはない。それどころか、自ら協力したかのようですらある! レンは犯人を知っていたのが、確実だ。だが針には本人以外の指紋はなかった。とはいえ、細工をするのは簡単だ。あのスタガースという男は悪いやつだ。数えきれないほどの前科前歴がある。腹の減った豚以上に何度も拘置所を出入りしている。ジョージアの人たちはやつが妻を殺したと考えているが、死体が見つからなかった。やつは、妻が逃げたと主張している。やつの犯行を特定することはできなかった、肝心の証拠が──」
スタンボはハンドルから手を離し、額を叩いた。古いエスコートはセンターラインを越え始め、スタンボは元に戻した。
「もちろんだ! 何たる馬鹿! やつの妻は逃げたんだ。そしてあたらしい人格を手に入れた。バリバン女伯爵、なんたること!」スタンボは努めて落ち着こうとした。「だがそうだとしても、やつらをレン殺しに結びつけることができん。何もかも状況証拠に過ぎん。やつらをぱくるにしても、せいぜい文書偽造、重婚、その他の軽犯罪が関の山だ。もし遺言が妻を相続人に指定していれば、妻は財産すら手に入れて終わることになる。目撃者がいさえすれば──」
膝でハンドル操作をしながら、刑事はいつものように煙草を吸った。「だが、たぶんこのいちばん新しい件こそ、わたしに必要な突破口なのだ。レンの研究室に侵入者が現れた。何かを知っている社員の可能性がある。喧嘩別れをした共犯者で、自分の尻ぬぐいをするために、わたしたちの見落とした何かの証拠を隠滅しようとしているのかも。緊急番号担当員によると、あの雌犬は本当に慌てていたらしいからな。たぶん本当にぶっ壊れるだろうと言っていた。それに何か犬のことを狂ったように言っていたと。犬小屋に証拠があるのだろうか? ちゃんと捜索したと思ったが──ちぇっ! まだ辻褄が合わないぞ! さて、スタガースの妻の名前は何だっけ──?」
スタンボはラジオをつけた。レン邸に乗り入れたときには、つぶやいていた。「パーフィディア、パーフィディア──」それから叫んだ。「そうだよ、あの古いベンチャーズの曲だ!」
すべての事件の謎を解いたような気がして、スタンボ刑事は邸宅の前に自信満々車をとめ、車を降りて玄関へ歩いた。
ベルに答えて、ラウディ・スタガースが現れた。額にできた南国の夕陽色の大きなこぶの上に、四角い氷を詰めた濡れタオルを当てている。
「おや、左利きの旦那ですか」運転手は言った。だが、刑事を馬鹿にする気分にはならなかった。何かが、明らかにひどくラウディを揺さぶっていた。「入ってください。奥さんは、あんたと拾わなきゃならない骨があるようですから」
パーフィディアは、細長い居間をゆっくり行ったり来たりしていた。そして、綺麗に手入れした爪を噛んでいた。マニキュアを全部飲みこんでしまったら、いくらなんでも中毒になるぞ。女の動揺ぶりを見て、スタンボは満足した。うまくいけば、この女をもっとひどい状態に追い込める。
警官を見て、パーフィディアは立ち止まり、睨みつけた。
「あなた! なぜあなたをよこしたの?」
「階級には特権を伴うんです。さて、ミセス・レン。この事件の詳細を話していただきましょうか。電話では混乱していたようですから。あなたは葬儀から帰ってきた──」
己の精神力を振り絞って、パーフィディアはいつもの尊大さを取り戻した。「車をとめると、可哀想な夫の個人研究室に侵入者を見つけたの。明らかに普通の犯罪者ではなかったわ。もしそうなら家探しに集中してたはずだから。たぶん産業スパイじゃないかしら。あなたは夫がひどい陰謀の犠牲者と信じてますよね、スタンボ刑事。職業上の欲望も動機になりうると考えたことはおありかしら。レン・バイオハーモニクスは業界のリーダーよ。ライバル企業は手段を選ばないわ。そうよ、考えれば考えるほど、本当らしく思える。もしわたしがあなたの立場だったら、真っ先にそこに力を入れるわね」
スタンボはにやりと笑って応じた。「確かに。その見方は十分検討に値すると思います。侵入者に心当たりはありますか?」
パーフィディアは青ざめた。「いいえ。全く知らない人でした」
「へえー。犬が何とかと言っていたそうですが。もしかして、ご主人の犬ですか?」
ラウディが割り込んだ。「そいつだよ! そいつに危うく殺されるところだった! 燻し殺してやりたい! わたしが喉を噛み切られずに済んだのは、ひとえに、パーフィ──」
未亡人は唾を飲んだ。「スタガース氏の言わんとすることは、刑事さん、侵入者が亡くなった夫の犬の愛着と協力を手に入れているようだったということですわ。どうやったのかは知りませんが。たぶん犯人は夫の会社の内部の者で、その犬を知っていたんでしょう。フェリックスはよく職場に犬を連れて行っていましたから。理由は知りませんが。人慣れしていなくて獰猛で、実際ほとんど凶暴といっていいほどでした」
「そうです」ラウディが同調した。「もしわたしが奥様の立場なら、一目見るなり射殺して、〈ミルクボーン〉をかけていたでしょう」
こいつらは、あの哀れな犬に固執しているようだ。さっぱり意味が分からん──
「研究室を見てみましょうか?」
春萌えの芝生を横切りながら、スタンボは、供述のあった格闘の証拠になる、つぶれた草の跡に気づいた。泥の露出した場所に、靴を履いていない人間の足跡を見つけた。
「侵入者は裸足でしたか?」
「いいえ」
「ええ」
「あの、刑事さん、わたしたちがそんなことに、どうして気づきますか? わたしたちは気が動転して怯えきっていたんですよ! たぶん裸足だったと思いますけど、断言はできません」
スタンボはそれ以上追及せず、三人は作業場に入った。
「何か置き場所が変わっていたり、なくなっていたりするものがありますか?」
スタンボは部屋を見回すパーフィディアの顔を観察した。その関心はプラスチックの空の瓶に注がれ、それから突然離れた。
「いえ、ありませんわ、刑事さん。でもわたしは、夫の仕事をよく知っていたわけではありませんので──」
「いいでしょう。一、二分見て回ったら、帰りましょう。ああ、もちろん、局からの連絡を待っていますが」
スタンボは室内を見回り始めた。動き回りながら、口笛を吹いた。はじめは特にメロディはなかったが、徐々にベンチャーズの〈パーフィディア〉のメロディに変わった。
レン未亡人は、自分の本名と同じ小歌を聞いても、冷たい落ち着きを保っていた。ラウディ・スタガースは大して注意を払っていなかった。すぐに足をタップさせ、リズムに合わせて頭を上下に動かしていた。女の目が鋭くラウディを睨んだが、ラウディは気づいていなかった。とうとうラウディは大声で叫んでいた。「この曲は、あなたのお父さんが好きでしたね! 最後に聴いたのはもう二〇年近く前かなあ」
パーフィディアはとうとうぶち切れた。「馬鹿!」
ラウディは自分の失敗に気づいた。「ああ、違った、わたしの父さんですよ! そうそう、ベンチャーズに凝ってたのはわたしの父親です。かなり昔からの年季の入ったサーフィン・マニアで──」
パーフィディアがうなった。「黙って!」
ちょうどその時、研究室の電話が鳴った。スタンボが電話を取った。
「よし、よし、いいぞ。分かった。ありがとう」受話器を置いた。「一時間前、この電話から発信があったそうです。あなたたちのどちらでもないと思いますが。違いますね? 結構です。この事件の二番目の手がかりです。さて、わたしはそろそろお暇します。でもわたしは必ず戻りますから、安心してお休みください──ミセス・スタガース」
スタンボは研究室を去った。すっかり舞い上がった状態から回復したラウディは、スタンボを引き止めようとしたが、パーフィディアに止められた。エスコートのモーター音が聞こえると、パーフィディアは話し出した。
「だめ、もう手遅れよ、ラウディ。あんたの失態のおかげで、もう取り返しのつかないことになったわ」
「おまえだって、犯罪の首謀者として模範的ってわけでもないだろ、ベイビー。あいつが幽霊の足跡についてきいたとき、お前、ションベン漏らすんじゃないかと思ったぜ」
「もうやめよう。二人とも悪いわ。次にどうするかを考えないと。あたし、少し考える時間があったわ。ラウディ、あたし、フェリックスは本当に生き返ったと信じてる。どうやって犬になり、また元に戻ったか、見たわよね。もし二人とも幻覚を見たんでなければ、奇跡を見たのよ! あんなことができるんなら、何だってできるわ! きっと自分のクローンを作ったのよ。普通より進歩した、形の変わる肉体を作ったのよ。何だか分からないけど、でも、それに比べたら、この屋敷中のお金をかき集めても、乞食の皿に恵んでやるチップ並みにしか見えないわ。あたしたち、何とかあいつを追いかけて、秘密を手に入れないと」
ラウディの表情に強欲が広がった。「そうだな、おまいは正しい、ベイビー。いつもどおりだ。おれたちはただ金持ちになるんじゃない。いかしたキングとクイーンになるんだぜ!」
パーフィディアは目を細めた。「適切な言葉は〈神〉だと思うけど。あるいは〈女神〉」
「それなら何を待ってるんだ? とっととダンボを追っかけるんだ、あいつに着いて行けば、お前のゾンビー旦那に確実に会えるぜ!」
パーフィディアは手を挙げた。「ちょっと」
そして受話器を上げ、リダイヤルを押した。
五回鳴って、留守電の機械が作動した。「はい。プリシラ・ジェーンは現在、スケートボード場のゴミ回収の作業中です。ご用件のある方は──」
受話器を叩きつけ、パーフィディアはかすれた声で言った。「あの気取ったフェリックスの秘書のアマよ。もし、あたしのカモから何か引き出そうと考えてるなら──あの女、ぶっ殺す!」
ラウディは運転手のジャケットの中に手を入れ、恐ろしい外見の〈イントラテック〉製九ミリ口径セミオートマ・ピストルを取り出した。
「いや、おれがやるぜ、ベイビー。おれはいつだって、犬を撃つより人間を撃つほうが好きだったんだ」



脚というものは、何とも驚くべきものである。
一〇年の間脚が動かなかったプリシラ・ジェーンは、人間が動くという概念そのものが、ロボット学の専門家の考えるより深遠な概念と似ていることに気づいていた。関節、腱、柔軟な足指、不断の重心の移動──このプロセスは、マーヴィン・ミンスキーがディナー・ナプキンに走り書きしたものに似ている。
幸い、プリシラの体は、自動的に物事を処理する方法を忘れておらず、精神的ショックによって妨げられることはなかった。いったいどうやって? 今歩かせようとしているのは、三〇歳のガタの来た死体のような体ではないのだ。復活した一九歳のオリジナルの肉体なのだ、しかも、肉体に刷り込まれた運動回路をすべて備えたままの。
まさに今、プリシラ・ジェーンはもう何十回目だか何百回目だかわからないが、シャツの裾を持ち上げて、腹の赤いミミズ腫れを見た。その傷を受けたときのことをとてもよく覚えている。ビーチ・パーティで、大喧嘩があって、プリシラはよく見もしないで海中に跳び込み、フジツボの岩で腹をこすったのだ。
プリシラの記憶している限りでは、一一年前のその傷は、完全に治るのにもう二週間を要した。
シャツの裾を降ろし、プリシラ・ジェーンはソファに座っているフェリックスを見た。
生き返ったこの雇い主は、プリシラの飼い猫に興味を奪われていた。プリシラはできるだけ長くその様子を観察しようとしたが、けっきょく目をそらした。フェリックスが猫に与えようとしている変化の一部は、不安で、見たくないものだった。可哀想な〈ピーブレイン(豆頭)〉に、この男が永久的なダメージを与えるつもりのないことについては、かなり信用できた。その一方で、知的関心のために自分の殺害を奨励するような男は、きっと他の人間と同じ倫理規則には縛られないだろう──
このとき、ピーブレイン──腰に形態ブレスレットを一つつけるようになった──は、ケーブルの魔法の輪の中央に座っていた。ピーブレインが変形すると、ケーブルは落ちた。猫が今所有している肉体は、プリシラ・ジェーンの推測では、ネコ科の遠い祖先の一種で、小さなトガリネズミに似た生き物に違いなかった。(ピーブレインの残りの体積をフェリックスがどうしたのかは分からない。猫を使った実験の過程で、明らかにフェリックスは、体積を保存する方法を見つけたのだ。)
「どうして逃げないの?」プリシラ・ジェーンはきいた。
フェリックスは見上げた。プリシラがよく見なれたその表情は、誰かがそばにいることを忘れていたことを物語っていた。
「全モーター作動フィールドをオフにしておいたんだ。だが、この古い生物を、これ以上このままにしておく必要はもうない。きみの猫から学べることは、すべて学び尽くした」
フェリックスはキーを叩き、元のピーブレインが再び現れた。復活によって失われたものは何もなかった。フェリックスは猫からブレスレットを外した。猫は跳び去った。フェリックスは立ち上がった。
「ご推察のように、PJ、わたしは生物という観点から、自分の一時的な探求能力を拡張し、洗練させようとしているんだ。それがわたしの死んだ時点で未完成のまま残された主要な課題の一つであり、それを完成させることは必要なことなのだ。だが、わたしには別の科のサンプルが必要だ。この辺に動物園はあるかい?」
フェリックスの質問に、プリシラは不安になった。「あら、あるわ、私立のものが。〈サウスサイド野生動物園〉。でもフェリックス──そこに行く必要あるの? もっと実際的なことをしたほうがいいんじゃない? 奥さんに罪を償わせるとか?」
フェリックスは微笑んだ。「何のために?」
「ほら、あなたを殺した──あっ──」
「わかったかね、プリシラ・ジェーン。わたしが前面に出ることで、事態が悪くならないことは、全くありえないんだ。わたしが本物のフェリックスと認められるなら、殺人はなかったことになる。パーフィディアを起訴する理由はなくなる。たぶん保険金詐欺の罪がわたしに科せられるのがオチだろうね。その反面、わたしが偽者と認定されれば、わたし自身の動機が問われる。そしてわたしが刑務所に入ることになる。そして最悪のシナリオは、誰かがわたしとわたしの死体の両方からDNA鑑定を試み、わたしたちのDNAが全く同じという結果が出ることだ。わたしに双子の兄弟がいないことは周知の事実だ。わたしの哀れな母親が激しい尋問を受けて、困り果てる様を想像してくれ。母はいつもわたしを子供二人分ぐらい手がかかるとぼやいていた。最後にはわたしが実は双子だったと認めるかもしれない。母はいつもひどく暗示にかかりやすいんだ。いや、わたしは母親を今の段階ではまだそんな状況に追い込みたくない。わたしの葬式に出なければならなかったばかりだというのにね。そしてわたしは、たぶん政府の研究施設のどこかに狂人として監禁され、レベルの低い科学者のくだらない質問にさらされるのだ。だがいずれの場合も、何も完成することはないまま、多くの貴重な時間と自由が浪費されるのだ」
「でも、あなたはどうして我慢ができるの、あの人殺し女が、何年もかかってわたしたちが築き上げたものを全部持ち去ってしまうというのに」
「レン・バイオハーモニクスは、成熟した企業だ、PJ。わたしにはもはや何の面白みもないよ。わたしは今、この新しいテクノロジーにはるかに興味があるんだ。たくさんの興味深い可能性があると信じている。たぶん市場開拓の可能性もあるよ」
プリシラ・ジェーンはふんと鼻を鳴らした。「昔生