SF百科図鑑 オリジナル版ドクター・シェイド The Original Dr. Shade キム・ニューマン


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オリジナル版ドクター・シェイド The Original Dr. Shadeキム・ニューマン


漆黒の海域に忍びいる鮫のごとく、大きな黒い自動車が夜の中から現れた。そのヘッドライトが、身をかがめてダイナマイトを埋設している共産党テロリストたちを活人画のごとく凍りつかせた。卑しきリーダーのコーエンは、怒りの感情を抑えようと努めた。大英帝国を滅亡させる計画はふたたび頓挫したのだ。震える手を抑えられないボーゾフは、ぼろぼろのズボンを履いた膝をがくんと落としてくずおれ、神に最後の祈りを捧げた。もっとも、母国でライフルの銃床を王女の卵のからのようにデリケートな頭につきつけたあの日、ボーゾフは同じ神の偶像の上に唾を吐いたのだったが。ペトロフスキはごわごわの顎髭の中に涎を垂らし、その病んだ片目を、光の中で、塩を撒かれたナメクジのように萎縮させ、親指で無益にレボルバーをいじっていた。
ロールスロイス車、〈シャドウシャーク(影の鮫)〉の天井に張られたカンバス布が、鷹のまぶたのように上がり、運転席から黒い形が現れるように見えた。そのマントが強風にはためき、昆虫のような黒いゴーグルには二つの月が映り、つば広のハットは粋な角度に傾いていた。
ペトロフスキは震えるピストルを持ち上げ、ガスタンクの鉄の球体に背中をぶつけ、ドクターのエアガンによる再度の静かな掃射に倒れた。共犯者たちは遠くにパトカーのサイレンを聞いたが、自分たちが保護されることはないと知っていた。〈影の男〉は、夜の間じゅう、自分たちのような汚れた存在を生かし、神聖な英国の緑の肥沃な大地をこれ以上汚すことを許しはしないだろう。
ドクターが前に進むにつれ、ヘッドライトが、次第に伸びゆく陰をテロリストの上に投げかけた。
〈革命の狂える天才〉イズラエリ・コーエンは、ぶるぶる震え、たるんだ顎で胸を打ち、猿のような額から突き出た鼻、肉厚で卑猥な唇へと汗が流れた。そして、ハムの塊のような拳をドクターに向かってあげ、あざ笑うような狂った最後の捨てゼリフを吐いた。
「くたばっちまえ、シェイド!」
──レックス・キャッシュ「ドクター・シェイドとダイナマイト部隊」(一九三六年)

*****

三人は、フリス通りの〈アレステア・リトルの店〉でやけに高くて量の少ない料理を食べていた。〈リーチ〉社のアート編集者ベジル・クロスビーは、会社の名刺とともに勘定書を拾い上げた。その間ずっと、エージェントのタマラは、クロスビーに、グレッグが〈ありえねえっつーの〉で〈イーグル賞〉を受賞したことを繰り返しアピールし続け、それが二年も前のことであることには全く触れなかった。たいていのレストランと同様、グレッグの一平方メートル近くある美術作品フォルダーを安全に店に預かってもらうことはできず、サンプルに持参した漫画がつぶれたり、曲がったりしたらどうしようと思うと、グレッグは気が気でなかった。コピーを持ってくることもできたのだが、グレッグとしては自分の才能をできるだけ鋭くアピールしたかったのだ。しかも、今朝描き終えたばかりの紙の上のインクはまだ乾いていない。いつもと同じように、自分でカバーをかける時間はなかった。
会話がちょっとでもつまずくと、タマラがグレッグのキャリアに関するとっておきのハイライトを紹介しまくった。タマラがこの昼食に自らも同席を希望したのは、グレッグをコントロール下に置きたいためだろうとグレッグは思った。タマラは、グレッグの七〇年代の描き殴りの初期作品を覚えてはいたが、注意深くその話題を避けていた──〈憂える羊〉〈脳姦〉〈子犬を殺そう〉といった、屑のようなファンジンに発表した刺激的なコマ割り漫画やひとコマ漫画──そして、グレッグが〈デレク・リーチ機構〉に対して持っている感情を正確に理解していた。タマラはきっと、グレッグが破れたゴミ袋の中から現れ、黒いアイラインを引きまくり、耳に安全ピンをいっぱい垂らしたなりで、ネジ回しを持ってクロスビーに近づくぐらいに思っていたのだろう。じっさい、セックス・ピストルズがテレビの生放送で罵り、ライブハイスで唾を吐いているころには、グレッグは、まともな服装をして普通の髪型をした美大生だったのだ。警察を冒涜するコラージュを身代金要求文句とともに描くのは、イーゼルに向かうときだけだった。つまり、グレッグは一九七七年スピリットを体現していたのだ。
タマラが黙ってくれれば、おれはクロスビーとうまくやれるはずなのに、と思った。グレッグはこの男が〈イーグル〉誌を創刊したことや、ときどき〈ガース〉誌の編集長代理を務めていることを知っていた。全盛期には地味ながらそれなりの才能を発揮していた男だ。今も〈リーチ〉社で働いていた。そして、後期サッチャリズム下の英国でグレッグが嫌いなもののすべてをまとめあげる人工物がもしあるとすれば、リーチ社の〈日刊コメット(彗星)〉がそれだった。この新聞は〈オッパイとマン毛〉の記事、数百万ポンドの懸賞パズル、極右思想の頑迷な支援、訴訟ニュースを元ねたとするスキャンダル記事、サッカーのフーリガンが〈ジャネットとジョン〉シリーズの本を真似しているように読める散文などで有名だった。英国で最も急成長している新聞であるとともに、メディア帝国の中枢として、リーチをマードックやマックスウェルといったメディア王の地位に押し上げたものだった。〈マダム・タッソー〉の最新の年間投票によると、デレク・リーチという人物は、〈最も尊敬される有名人〉の第八位、ゴルバチョフとチャールズ皇太子の間にランクされている。また、〈最も嫌いで恐ろしい有名人〉では第二位、マーガレット・サッチャーには負けたものの、アドルフ・ヒトラー、カダフィ大佐、ドラキュラ伯爵、ヨークシャーの切り裂き魔などには勝っていた。
スポイトのように小さなカップに入ったコーヒーが来ると、ようやくクロスビーはビジネスの話を始めた。皿が片付けられると、アート編集者はテーブルにフォルダを開き、きちんとクリップで留めたノートの束を出した。タマラはまだフルーツ・サラダをついばんでいた。水の入ったスチールのボウルに、ぶどう一粒と、白いりんごだか梨のかけらが浮かんだものだった。タマラとクロスビーは、食事とともに、ドライな白ワインを飲んでいた。だが、グレッグはミネラル・ウォーターしか飲まなかった。ざらざらするコーヒーはかなり胃にこたえた。心臓が怒りの握りこぶしのように絞め付けられる感じがした。〈ありえねえっつーの〉以来、グレッグは評判になるようなことをなにもしていなかった。これはグレッグにとっては重要な面談なのだ。たとえうまくいかなくても、タマラがグレッグを見捨てることはないだろうが、クライアント・リストのAランクからBランクには移動されるかも知れない。
「たぶん、ご存知だと思うが」クロスビーは話し始めた。「リーチUK社は今、急速に拡大している。きみが商取引方面までフォローしているかどうかは知らんが、最近デレクは、死にタイトルの権利をたくさん買い取って、復活させようともくろんでいる。新しいものを売りこむよりも、なじみのあるものを売るほうがずっと簡単だからね。で、いま、デレクの特に気に入っているのが、〈夕刊アーガス〉なんだよ」
「ブライトンの新聞?」グレッグはきいた。
「いや、全国紙だ。一九五三年に廃刊になった。だが、二〇年代から戦時中にかけて、すごく売れていたんだ。バジャーフィールド卿が運営していた」
「聞いたことがありますよ」グレッグは言った。「ダンカークに関する古い映画を見ると、必ず〈アーガス〉紙のトップ見出しが出てきますからねえ」
「そのとおりさ、はっはっは。この新聞は、〈よき戦争〉と呼ばれていた。チャーチルは、〈真の民主主義の声〉と呼んだ。チャーチルと同じで、戦後は全く違うものになったがね──だが今、英国戦争五十周年に対する関心だの何だのといった風潮に鑑みると、復刊する絶好の機会だと思うんだ。それは懐古趣味ではあるが、同時に新しさもある──」
「ガスマスクだの食料配給だの、空襲の心構えだのですか?」
「そういったことだね。秋には創刊になる。大々的な宣伝攻勢をかけるよ。〈声は帰ってきた〉。四〇年代のオーバルティン書体から、もっとアグレッシブな九〇年代風に変更するんだ。自動車電話を使うヤッピーとか、デザイナー向けのスタイルで、フルカラー。〈コメット〉よりは堅いニュース紙になると思うが、やはり大衆的で商業的なリーチの英国向け企画だ。世紀の変わり目にふさわしい新聞を目指してるよ」
「で、漫画家が欲しいってわけですか?」
クロスビーは微笑んだ。「きみの〈ありえねえっつーの〉がすごく気に入ってるんだよ、グレッグ。ストーリーはいまいちわたしの趣味に合わんが、きれいな線を書くし、黒いブロックも固体の質感があっていいね。主人公の私立探偵はどうしようもないごくつぶしだが、いかにも本物の劇画ヒーローって感じがする。ちょっとジェフ・ホークを思わせるね。そういうのが〈アーガス〉に欲しかったんだよ。過去のテイストを持っているが、内容は今風ってのがね」
「それで、新しい新聞のために、グレッグに〈ありえねえっつーの〉を描いて欲しいってことね?」
グレッグはある関係に気がついて納得し、微笑した。
「違うよ、タマラ。それじゃない。〈アーガス〉についてもうひとつのことを思い出したんだ。真っ先にその名前に気づくべきだった。キャッチフレーズであったな──」
クロスビーが割り込んだ。「その通り。〈ミラー〉に〈ジェーンとガース〉あり、〈アーガス〉に──」
グレッグは本当に興奮していた。自分では大人になったつもりでも、心の中にはパルプマガジンを愛する心がまだ残っていたのだ。子供のころは、中古の本や雑誌を穴が開くほど読みふけったものだ。〈脳姦〉〈ありえねえっつーの〉〈PCレザーブレイド〉の前には、別のヒーロー物を描こうとしていたのだ。〈ブルドッグ・ドラモンド〉〈聖人〉〈セクストン・ブレイク〉〈ビグルス〉そして──
「ドクター・シェイド」

*****

「おまえ、おれを捕まえたかもしれないなり、ドクター・シャテン。でも、第三帝国の繁栄が、この悲惨な国を、ジャガーノートみたいにつぶしてしまうなり。おれ、ドイツと、ナチスと、アドルフ・ヒトラーの大いなる繁栄のために、死ねるなり──」
「そこがあんたの間違いだ、フォン・シュピースドルフ。おれはあんたを殺して自分の手を汚す気はさらさらない。あんたが死ぬに値する糞だとしてもだ」
「あの臭い最低のネズミに、とどめをさそうか、ドック?」〈ヤンキーのハンク〉がきいた。アメリカ人ハンクは、太った拳に短いオートマチックを持ち、ドイツ人の黒幕の上に立ちふさがった。
「きみの国はまだ若いよ、ヘンリー」ドクター・シェイドは穏やかに言い、仲間の腕を制するように黒手袋の手でつかんだ。「イギリスではそういうやり方はしない。こいつはスパイとして銃殺されるかも知れんが、おれたちが決めることじゃないんだ。裁判所と法律と正義がある。そのためにこそ、このすべての戦争を戦っているんだ。裁判所と法律と正義を求めるのは基本的人権だよ。あんたもな、フォン・シュピースドルフ。おれたちはあんたの権利のためにも戦っているのさ」
「けっ、デカダンな英国の犬めなり!」
ハンクはドイツ人の額をピストルの握りでこんこん叩いた。テロリストは突然へたり込んで、目をぎょろぎょろさせて前方を見た。
「こいつ、わかったのかな、ドック?」
ドクター・シェイドの薄く平凡で目立たない唇は、かすかに笑みを浮かべて歪んでいる。
「間違いないよ、ヘンリー、間違いない」
──レックス・キャッシュ「第五縦隊の悪魔」、月刊ドクター・シェイド 一一一号(一九四三年五月)

*****

リーチUK社の本社は、ロンドンのドック地区にあるクロムとガラスのピラミッドで、テムズ川のほとりに今しがた到着したばかりの空飛ぶ円盤のようにうずくまっていた。リーチ社の送ったミニタクシーがピケ・ラインをくぐり過ぎると、グレッグは軽い悪寒を覚えた。肌寒い春の日で、周囲に人影は少なかった。クロスビーは、〈組合のラッダイト派〉に気をつけろと警告していた。この連中は、リーチ社が最小限の編集スタッフのみで〈コメット〉その他の新聞を発行することを可能にしている新技術に批判的なスタンスを取っているというのだ。グレッグは、プラカードを持ったような連中にはなるべく気づかれたくなかった。去年のピケは暴力沙汰が多かったのだ。リーチの社説や産業関連政策に反発する過激派がバス何台分も加わって、警察や、リーチ支持者の中核であるスキンヘッドの〈コメット〉支援者たちと衝突した。今も論争は続いているが、ほとんど忘れ去られている。リーチの新聞はその件に決して多くを触れなかったし、ほかの新聞ももっと新しいストライキや革命や暴動に紙面を割いていた。
ミニタクシーはピラミッドの閉ざされた送迎エリアの中に乗り入れた。そこで車は警備員のチェックを受けた。グレッグは車から降りることを許され、青い通行パスを受け取った。スマートな制服姿の娘が、微笑みながらそれをグレッグの襟に留めた。
娘のデスクの後ろには、制服を着ていない娘たちのカラー写真が額縁に入れて飾られている。スマートな子もそうでない子もいる。乳首はつぶれたサクランボのようで、顔はこぎれいで無表情だ。〈コメットの美女たち〉は国家規模の組織を目指していた。だが〈コメット〉によれば、学校での体罰やシン・ファイン支持者の死刑、ソープ・オペラ俳優が性的嗜好について嘘をつく権利も同様だという。ペニー・スタンプ──古い劇画におけるドクター・シェイドの助手の若い女性記者──も〈コメットの美女〉に選ばれただろうか、とグレッグは思った。ペニーは、トップ記事を飾る犯罪事件をスクープしようとするときいつも、ファッション・ショーやパーティの取材をさせようとする編集長と口論していた。さしずめ今の時代だと、服を着たままロジャー・クックやウッドウォードやバーンスタインになろうとするグラビアアイドルといったところだろうか?
グレッグは二三階に上がった。クロスビーが面談をセッティングし、そこを指定したのだ。下の娘が電話をかけ、そのクローンが、エレベーターの外の厚い絨毯のロビイで待っていた。クローンの娘は、微笑んでグレッグをエスコートし、オープンプランのオフィスを通った。職員の幹部の一人による手配で、電話やパソコンが備えられていた。反対側の端には、ガラスで仕切られた一連の四角い小部屋があった。娘はグレッグをそのうちの一つに通し、コーヒーか紅茶はいかがですかときいた。そして、インスタント・コーヒーをいれて来た。紙コップ一杯の熱い茶色の液体の底近くにグラニュー糖が漂っていた。デスクの上に、〈夕刊アーガス〉の見本版が置いてあった。見出しは〈戦争だ!〉。グレッグにはそれを見ている時間はなかった。
クロスビーが、背の高くやや猫背の男を伴って現れ、追加のコーヒーを注文した。猫背気味の男は七〇代だが、年の割に健康に見える。心地よい古いズボンと、小さなスポーツジャケットとその下にカーディガンを着ていた。グレッグはこの男が誰だか知っていた。
「レックス・キャッシュさん?」手を差し出して、グレッグはきいた。
男の握る手はしっかりしていた。「そのうちの一人じゃ。オリジナルではないよ」
「こちらはハリー・リップマンだよ、グレッグ」
「ハリーじゃ」ハリーは言った。
「グレッグです。グレッグ・ダニエルス」
「〈ありえねえっつーの〉の?」
グレッグはうなずいた。ハリーが業界事情をきちんとフォローしているのに驚いた。引退してからずいぶんたつことを知っていたのだ。
「クロスビーさんから聞いたよ。きみの作品には目を通した。絵についてはわしはよくわからん。言葉がわしの得意分野だ。だが、きみは才能ある若手だよ」
「ありがとうございます」
「わしと共作せんかね?」ハリーは単刀直入に言った。グレッグは答えを思いつかなかった。
「できれば」
「わしもだ。引退してから長かった。わしのシナリオを漫画にしてくれる人が必要なんだ」
ハリー・リップマンは、一九三九年から一九五二年までレックス・キャッシュだった。ドクター・シェイドの創造者ドナルド・モンクリーフから名前を引き継いだのだ。そして、五八冊のドクター・シェイドの小説本、四二冊の長編と一三五の短編を書き、その一方、ストーリーを適当にやりくりして、新聞の劇画のシナリオを書いていた。イギリスの冒険漫画の有名作家の中には、ドクター・シェイドの劇画を描いている者もいた──マック・バリヴァントは、〈英国強奪〉誌に〈兵器〉を描き、トミー・ラトホールは、〈少年戦争〉誌に描いた特殊部隊やパラシュート部隊の物語で高評価され、とりわけフランク・フィッツジェラルドは、六年間にわたって、暗く滑稽で、ほとんど魔法的なドクター・シェイドを描いた。今はみな故人だ。ハリーは当時の唯一の生き残りだった。だからこそ〈アーガス〉誌は空白を埋めるために、グレッグを呼んだのだ。
「ハリーはいくつかストーリーを仕上げているんだ」クロスビーは言った。「わたしは席を外すから、二人でストーリーについて話しあってもらいたい。コーヒーが欲しくなったらブザーでニコラを呼んでくれ。二時間後ぐらいに様子を見に戻るから」
クロスビーは去った。ハリーとグレッグは顔を見合わせ、わけもなく笑いだした。他人には説明できないジョークを共有している家族のように。
「ドクター・シェイドが既に一五〇歳ぐらいになっていることを考えると」ハリーが話し始めた。「冬に備えて熱量を上げるため、DHSSを手に入れようとしているところから、話を始めるべきだと思うんだが──」

*****

ドクター・シェイド
SF上のキャラクターで、その起源が謎に包まれた自警団員。たいていは、マントと、ゴーグルのような黒眼鏡で姿を隠している。それ以外のさまざまな人間に変装する名人でもある。ロンドンのイースト・エンドにある外見上は荒廃しているが内側は豪華な避難所を拠点に活動し、ガキ大将のぐ犯少年たちを雇っては、大英帝国の中枢に悪を持ち込む外国勢力との飽くなき戦いを続ける。もともとは、レックス・キャッシュ(ドナルド・モンクリーフ)の長編〈石灰の家の野良犬〉(一九二九年)の無名キャラクターとして導入された(〈ドクター・ジョナサン・シャドウ〉の名の下に)ものである。同作中では、終盤の章で、貴族的ボクサーの主人公レギー・ブランドンが、イースト・エンドのアヘン中毒の魔術師クオン男爵を倒すのを手助けするために登場する。このキャラクターは、〈ウェンドーバー・マガジン〉の読者に人気があった。この月刊誌の中で、先の長編がシリーズ化され、モンクリーフは短編のシリーズ作品をいくつか書いた。これらの短編は、のちに〈ドクター・シャドウと毒の女神〉(一九三一年)と〈ドクター・シャドウと黒人のトラブル〉(一九三二年)にまとめられた。一九三四年、〈ザ・シャドウ〉というキャラクターの盗用を主張して、〈ストリート&スミス〉が、〈ウェンド―バー〉と二冊の短編集を出版した〈バジャーフィールド〉社を訴えた。このアメリカの会社と和解するために、キャラクターの名称は〈ドクター・シェイド〉に変更された。
その政治的見解はサパーのブルドッグ〈ドラモンド〉よりも右寄りで、オズワルド・モズリー(モンクリーフが心から賞賛しているのは有名である)の生き写しと言われる、半ば超自然的で超愛国主義的な復讐者、ドクター・シェイドは、エアガンでチンピラたちを処刑し、あるいは情報を得るために手ひどい拷問を行う。一〇〇近い短めの長編に登場するが、これはすべてレックス・キャッシュ作としてクレジットされ、一九三四年から一九四七年にかけて、バジャーフィールド社が定期刊行したパルプ雑誌〈月刊ドクター・シェイド〉に掲載されたものである。同じペンネームは、二、三人の他の作家にも使用されたが、たいていは、一九三〇年代、モンクリーフの旺盛なインスピレーションが枯れたときに埋め合わせの小説を書く際に用いたものである。このキャラクターは〈夕刊アーガス〉に毎日掲載される漫画にフィーチャーされると更に人気が出た。最も有名なのは、一九三五年から一九五二年にかけて、フランク・フィッツジェラルドが描いたものである。バジャーフィールド卿と苛烈な口論をしたモンクリーフは、一九三九年、ドクター・シェイドの執筆をやめ、この漫画は、ハリー・リップマンに引き継がれた。ハリーはそれ以前に同じ雑誌に二、三編のドクター・シェイド物を書いていた。戦争が勃発すると、リップマンは正式にレックス・キャッシュとなり、同誌に長編や短編を発表するとともに、漫画のシナリオも執筆した。
リップマンのドクター・シェイドは、モンクリーフの作品のそれほど恐ろしいキャラクターではなかった。制服や使用する道具は同じだが、リップマンの主人公は英国政府の正式なエージェントであり、モンクリーフの主人公のように、敵をサディスティックに扱うことは許されなかった。ドクター・シェイドの正体は、実は誠実で献身的な一般開業医のドクター・ジョナサン・チェンバースであることが明かされ、超自然的要素は薄まった。第二次世界大戦中、ドクター・シェイドの政治見解は変化した。モンクリーフの書いたところによると、ドクター・シェイドは非白人種族や国際共産主義者の冷酷な敵であったが、リップマンの作品では、ナチスの脅威に直面し、民主主義をひたむきに守る者だった。モンクリーフが〈ドクター・シェイドと鞭打つ恐怖〉(一九三四年)で導入したモリアーティ的人物は、イズラエリ・コーエンである。この男は、イギリス海軍の優位を打破することをもくろんで、ロシアのアナーキストやインドの〈サギー〉と共謀する、典型的なユダヤ人の凶悪犯罪者である。戦時中、コーエンは退き──一九四〇年代後半にはイースト・エンドの滑稽なナイトクラブのオーナー、シェイドの友人として登場するが──かの冒険家は、力強いアメリカのOSSエージェントのハリー・ヘミングウェイ、活発な若い女性記者ペニー・スタンプとともに、ヒトラーを出し抜くことのみに専心する。
モンクリーフのドクター・シェイドもの長編には、〈ドクター・シェイド対ダイナマイト部隊〉(一九三六年)〈黄色人種の陰謀〉(一九三六年)〈ドクター・シェイドとバルカン問題〉(一九三七年)〈英国人の血の最後の一滴にかけて〉(一九三七年)〈ブルドッグの逆襲〉(一九三七年)〈国際共謀者〉(一九三八年)〈スエズのドクター・シェイド〉(一九三九年)が、リップマンのものには、〈ドクター・シェイドの前哨基地〉(一九四〇年)〈フランス地下潜入〉(一九四一年)〈ドクター・シェイドの乗っ取り〉(一九四三年)〈東京のドクター・シェイド〉(一九四五年)〈ドクター・シェイド斧を埋める〉(一九四八年)〈ピカデリーのゲシュタポ〉(一九五一年)がある。このキャラクターは映画にも登場する。その皮切りは、〈ドクター・シェイドの幽霊タクシーの謎〉(一九三六年、マイケル・パウエル監督)である。この映画では、レイモンド・マッセイがドクター・シェイドを演じている。また、フランシス・L・サリヴァンが、わざとユダヤ人色を取り除いたイズラエリ・コーエンである〈イドリス・コボン〉の名前で登場する。一九四三年から一九四六年にかけて、ヴァレンティン・ディアルがBBCラジオシリーズでドクター・シェイド役を演じた。一九六三年の復刻テレビシリーズ〈ドクター・シェイドを紹介しよう──〉では、ロナルド・ハワードがマントをかぶって演じ、エリザベス・シェパードがペニー・スタンプを、アルフィー・バスがイズラエリ・コーエンを演じた。
更に以下を参照のこと:ドクター・シェイドの仲間たち:レギー・ブランドン、ハイベリー卿とイズリントン卿、ヘンリー・ヘミングウェイ(ヤンキーのハンク)、女性記者ペニー・スタンプ;敵たち:革命の狂える天才イズラエリ・コーエン、準人間アクメット、偽造王子メルキオル・ウンベルト・ガスパルド、独裁者の腹心イザン教授。
──デイヴィッド・プリングル「想像上の人たち:現代小説キャラクター名鑑」(一九八七年)

*****

グレッグとハリー・リップマンは、その後数週間にわたり、おもにリーチ・ビルディングの外で会った。ソーホーのパブや安いレストランで、二人は新たなドクター・シェイド漫画の方向性について議論した。グレッグはすぐにハリーが気に入り、そのいまだに利発なストーリー・テラーの才能を賞賛するようになった。この男とならば、一緒に働ける、そう分かった。ドナルド・モンクリーフからドクター・シェイドを引き継いだため、クリエイターとしてのシリーズへの妙なこだわりはなく、漫画の骨格を変えるような意見に対してもオープンに振舞った。四〇年代作品の真似をする必要はないことにつき、ハリーは同意した。二人の作るドクター・シェイドは、過去のいかなる形のドクター・シェイドとも違ってしかるべきだが、何らかの連続性は必要である。次第に、二人のアイデアは一つにまとまった。
編集者のいっていた〈アーガス〉の〈古くて新しいアプローチ〉に合わせるために、二人は漫画の舞台を近未来にすることに決めた。誰もが世紀の変わり目のことを話している。人々は、新しいドクター・シェイドを見ることになるだろう。休息からふたたび目覚め、古き時代に守ろうとして戦った戦後世界の呪縛を逃れ、新たな冒険家軍団を組織し、都市の腐敗や不正義の背後に潜む現代型の悪人たちと戦うのだ。グレッグは、この復讐の〈影の男〉が戦うべき相手として、古きイースト・エンドの行きつけの場所にゴミを投棄する強欲な不動産投機家、原理主義的宗教セクトの形態を取るクラック・カルテル、環境破壊企業、暴力団とつるむ反倫理的な株投機家などを提案した。
「ご存知だろうが」ある日の午後、〈ザ・ポスト〉でジョッキのビールをすすりながら、ハリーは言った。「もしドナルドがこの話を書くとしたら、ドクター・シェイドは敵側の見方になるだろう。シェイドは、すべてを失ったとおもって、一度死んだ。そして半世紀後、オリジナル版のドクター・シェイドならば誇りに思ったであろう国とともに、今わたしたちはいるのだ」
近くでは、首にツバメの刺青をして昼間から飲んでいる退屈そうな男が、宇宙船を撃ち落とすゲームに熱中し、死の光線のビープ音が、有線放送のジャズと混じっていた。グレッグはポテトチップの袋を開いた。「ぼくは、モンクリーフのことをあまり知りません。参考文献にもさわりしか書いていませんし。いったいどんな人だったんですか?」
「わしも、あの男を実は知らんのだよ、グレッグ。やつにとっては、リップマンはコーエンみたいなものだった──きみが今まで話してきたような相手とは違う」
「本当にファシストだったんですか?」
「そうじゃとも」ハリーの目が少し脹らんだ。「ドナルト・モンクリーフ以上に黒いシャツを着た人間はおらん。〈カブードル〉その他一式を持っておった。どんよりした目、歯ブラシのような口髭、薄い金髪。何度もモズリーと一緒にブリクストンを歩いておった。わしの兄貴の新聞販売店を襲ったのもやつらじゃ。それからドイツやスペインに親善旅行に行った。英国ファシスト連合のパンフを書いたのもやつだとわしは信じとる。哀れな老フランクを騙して徴兵ポスターをデザインさせたのもやつじゃろう」
「フランク・フィッツジェラルド?」
「そうじゃ、鉛筆を使ったあんたの先輩じゃ。フランクはそんなことでドナルドを見捨てたりはせんかったわ。戦争の間じゅう、諜報部の連中は少しでも破壊工作の疑いがあるとフランクを尋問した。〈カサブランカ〉のこんなセリフを知らんか? 〈いつもの容疑者をまとめて捕まえろ〉。そうじゃな、ドナルドは、フランクを〈いつもの容疑者〉リストに押しこんだんじゃ」
〈宇宙士官候補生〉はやられた。酔っ払いはゲーム画面にあざ笑うように〈ゲーム・オーヴァー〉と出ると、罵って機械を叩いた。
「あなたは、ドクター・シェイドのキャラクターを変えるために、特に送り込まれたんですか?」
「ああ、そうじゃ。バジャーフィールドは融和政策のころまでは日和見的な男だったが、新聞屋としては勘のいい男じゃったから、時代の流れが変わるのを素早く察知した。やつは多くの社員を首にした──ファシストに限らず、そいつらに影響された平和主義者もたくさんな──そして編集方針を一八〇度変えた。やつがマンガなんていちいち読んでなかっただろうと思うかも知れんが、そんなことはない。社説や自分の〈率直な意見〉コラムと同様に、マンガも紙面の重要な一部だと知っておった。わしが引き継いだときの指示はとても率直じゃった。やつはただ、〈ドクター・シェイドを非ナチ化するんだ〉とだけ言ったんじゃ」
「モンクリーフに何が起こったんです?」
「ああ、やつはひたすら訴訟を起こしまくった。だが、バジャーフィールドがキャラクターの使用権を持っていたので、モンクリーフの訴えは認められなかった。戦争が始まったとき、無論やつは不人気になっていた。やつはドイツ人やイタリア人やそのシンパのために作られた休暇村でしばらく過ごした。ほかの連中はやつにあまり信頼を置かず、結局やつはロンドンに戻った。たぶん何冊か本は書いたと思うが、出版できなかった。使えなかったドクター・シェイドのストーリーを山のように持っていると聞いたことがある。バジャーフィールド閣下しか、キャラクターの利用権がないからな。そして、やつは死んだ──」
「若かったんじゃないんですか?」
「わしよりも若かったよ。ロンドン空襲じゃ。大停電の中、ドイツ空軍に向かって電灯をかざしたが、折り悪しく誤爆にあったらしい。亡くなるちょっと前に会ったことがあるが、かなりひどい状態だった。三〇年代の特権階級の颯爽さは微塵もなかったよ。もちろんわしは、やつが好きじゃなかったが、気の毒なのも確かじゃ。やつは、ヒトラーがイエス・キリストで、戦争がその首をはねたと考えていた。そんなイギリス人はたくさんおったよ。最近はあまり聞かんがの」
「知りませんね。今は議会の中にいるようです」
ハリーはくっくっと笑った。「まさしくその通りじゃ。ドクター・シェイドがいたら会いたがるだろうな?」
二人はグラスをあげて、〈復讐の影〉に、不正義や不寛容や悪意の断固たる敵対者に乾杯した。

*****

〈イギリスのヒーロー礼讃〉
〈イギリス人であることを誇りに思う〉おれたちは、緊急の必要に迫られているこの国々に、本物の〈イギリス人のヒーロー〉たちが登場し、〈断固協力〉して、この〈美しい花の国の表面〉から〈純潔を侵す者たち〉を一掃してくれると知っている。〈白人の英国〉は、〈有色人〉の波に溺れる危機に瀕し、献身的で法を護持する〈英国警察〉は、〈ユダヤ人の爆弾〉や〈ウージー・マシンガン〉や〈もじゃもじゃ髪の黒人〉の〈ロケット・ローンチャー〉や〈金の亡者のユダヤ〉や〈尻を犯すエイズ患者〉や〈やぶにらみのカンフー好き中国人〉や〈長い髪の屑ヒッピー〉や〈いかれた左翼レズビアン〉や〈いかれ頭のイスラム教徒〉の前に武装解除を強いられている。アーサー王が墓の中からよみがえり、セント・ジョージの十字架がキリスト救世主軍の旗から飛びだし、ロビンフッドがアヴァロンの森からよみがえり、クレシーの弓兵たちが〈よき王ヘンリー五世〉の命令で弓に矢を継ぎ、ホラシオ・ネルソン海軍大将が〈勇敢なる艦隊〉の指揮をとり、〈サラワクのラジャ・ブルック〉がクーン(あらいぐま)とグーク(東洋人)とスプーク(幽霊)とプーフ(ホモ)の違いを示し、ゴードン将軍殺害の復讐が〈アラブ〉の流血を伴って行われ、ディック・ターピンが〈迫り来る侵略者の害悪と汚れ〉のユダヤ人に汚された金庫を盗み、ドクター・シェイドが〈白人の自由〉の敵にエアガンを振るうべきときがきたのだ──
すべての〈善良なイギリス人男性〉が拳を〈パキスタン・黒人・ユダヤ・中国人の血〉に浸し、この聖なる国で女たちが生む白人の赤ちゃんたちを清めるべきときが来るだろう。やつらの〈犬食い〉の〈臭い屑〉や〈虫酸の走る反キリスト教的儀式〉や〈豚殺し〉や〈児童レイプ〉や〈結婚慣習〉その他の〈病気を広める慣習〉は、ドーヴァー海峡の〈白人〉の崖から投げ捨て、海に流すべきだ。その一方でわれわれ、〈大英帝国の真の住人〉は、神聖な権利によってわれわれの所有である家庭を、仕事を、土地を、女たちを取り戻すのだ。
アーサー王! セント・ジョージ! ドクター・シェイド!
今日、外に出て、ガラス瓶で中国人ウェイターを殴り、臭いアライグマの雌を犯し、パキスタンの新聞屋に火のついたガソリンを小便のようにぶちまけ、いかれ頭のイスラム人にブーツの一撃を食らわせ、ホモの首を吊り、シナゴーグに糞を、レズにはゲロをぶっかけろ。おまえの法的権利だ! 義務だ! 運命だ!
アーサーは復活した! ドクター・シェイドも帰ってくる!
おれたちの権利、おれたちの栄光、おれたちの唯一の真の正義! おれたちは勝たねばならない!
おれたちはドクター・シェイドの子供だ!
──「イギリス人ジョニー」、ファンジン〈イギリス支配〉三七号掲載、一九九一年六月
(南ロンドンサッカー大会で警察が押収)

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ハリーは自分の住む地区の地図を渡したが、グレッグはいまだに道に迷っていた。その場所は六〇年代の荒地の一つで、コンクリートの板はスプレーで幾層にも塗られた悪口で汚され、奇妙な小さな窪みにはゴミがつまり、二、三軒以上の家が燃えたり廃棄されたりしていた。どこからともなくやかましいヘヴィ・メタルが鳴り響き、ティーンたちが集団で威嚇的に歩き回り、刺青を見せ合ったりボトルを交換したりしながら、空虚で敵意のある目でグレッグを見た。あるグループは、茶色い紙袋から、なにか──ボンド?──を吸っていた。ちょっとだけ長く見すぎてしまい、子供たちに憎憎しく睨み返された。あるスキンヘッドの娘の奇妙な頭蓋骨の隆起がVサインを送っていた。
グレッグは地面ばかり見て歩いていたため、余計に道に迷った。家の番地のつけ方は不規則で矛盾しており、しばらくグレッグは同じ場所をぐるぐる回らされた。壁によりかかって座っているヘンナで髪を赤く染めた二人の娘に方角を尋ねたが、肩をすくめてガムを噛むだけだった。そのうちの一人は妊娠しており、ふくらんだ腹が破れたTシャツを押し出し、ジーパンのボタンを飛ばしていた。
グレッグは、自分の古臭いオーバーコートですら、この地区の平均水準に比べればかなりましであると分かった。ということは、路上強盗のターゲットにされかねないということだ。しかも、たった十ポンドも持ち合わせがなく、不満を持った強盗が、期待と現実のギャップを埋め合わせるために、被害者を素手で殴打し歯を折るのはよくあることだった。
夏の夕方なのでとても暖かかったが、この地区はそれ自体が寒々しかった。幾重にも並ぶブロックのような公営アパートは、路地に奇妙な陰を投げ、グレッグにかすかに何かが違うような、遠近法のない、あるいは光源の矛盾した絵のような感覚を与えた。落書きは、自分の住むエリアにある、曖昧な芸術作品に丁寧な署名がしてあるような八〇年代のヒップホップスタイルではなく、がさつで大胆で露骨なもので、ときどき鉤十字(常に鉤の向きが逆向きだった)、サッカーチームのシンボル、ユニオンジャックの書きなぐりなどを伴っているだけだった。
〈チェルシーFCよ永遠に〉〈アライグマを殺せ!〉〈今こそNF〉〈ユダ公をガス室に!〉〈銃を上げろ〉〈アイルランドの人殺しよくたばれ!〉〈エイズ患者は皆殺し──ホモを今日撃ち殺す〉。そして、アンチ・ファシスト系新聞の〈サーチライト〉で読んだバンド名。スクリュードライバー、ブリティッシュボーイズ、ホワイトウォッシュ、クルセダーズ。バス停の看板には、丁寧な小学生の書体で、歌詞がマジックマーカーで書かれている。〈跳び降りて振り返れ、糞ったれ黒人をけっとばせ。跳び降りて振り返れ、黒人の頭を蹴れ。跳び降りて振り返れ、糞ったれ黒人をけっとばせ。跳び降りて振り返れ、黒人の頭を蹴れ──〉
まるでナチスが第二次世界大戦に勝ち、トーリー党の傀儡政権を樹立したかのようだ。この地区は、三〇年代のSF作家が未来のゲットーとして安易に描きそうな種類のものだ、綺麗な線をしているが特徴のないビルが、小惑星の強制収容所に派遣されたユダヤ人と火星人と黒人の惑星間枢軸国のバブル型ヘルメットの突撃隊員に破壊されている。今年は記念祭の年ではない。誰もあまり怒っていない。ただ、果てしない歯噛みするような悲惨に麻痺しているだけだ。
あてずっぽうに歩きまわっているうちに、ようやくハリー・リップマンのアパートを見つけた。ベルのボタンは引き抜かれ、色とりどりのワイヤーの束が露出している。ドアには逆向きの鉤十字が彫られている。グレッグがノックすると、ホールに灯りがついた。ハリーはグレッグをこぎれいな小さな部屋に入れた。その部屋は秘密の指令室のように強化されていることが分かった。ドアにはズラリとロックが取り付けられ、強化ガラスの窓にはたくさんの補強材が組み込まれ、ガスと電気のメーターの間の壁には泥棒アラームが設置されていた。それ以外は予想どおりだった。トイレを含め、至る所に本棚があり、爽快なまでにカビ臭いガラクタの品がある。
「ベッキーが死んで以来、ここにはあまり人を入れておらん」──グレッグはハリーが妻に先立たれたことを知っていた──「ひどい散らかりようだが、勘弁してくれ」
ハリーはグレッグをキッチンに案内した。ビニールを敷いた小さなテーブルの上に、〈アムストラッドPCW八二五六〉がセットされ、床の上のトレイでは、コピー用紙の束から次々と紙がプリンターに送り込まれていた。部屋はかすかに、食べ物を炒めた匂いが漂っていた。
「実はこんなところで書いているんだよ、わしは。自然の光が十分に入る場所はここしかないのだ。それに、やかんとアール・グレイの紅茶の近くにいたいんでね」
「どうってことありませんよ。ぼくのスタジオも似たようなもんですから。前は石炭貯蔵庫だったんじゃないかと思います」
グレッグは美術品フォルダを降ろし、ハリーはポットで紅茶をいれた。
「で、ドクター・シェイドの進行状況はどうです? ぼくはちょっと、イラストを描いてみましたよ」
「順調だよ。わしは一か月分のシナリオを書いている。シリーズの導入部分はこれでカバーできるよ。最後に例の〈イースト・エンド物語〉を入れれば、最強のドクター復活劇になる──」
イースト・エンド物語とは、ハリーとグレッグで考え出したアイデアだ。この中で一九五二年(それをいうなら、一九二九年)最後に目撃されたときと一日も年の違わないドクター・ジョナサン・チェンバースが、チベットの寺院(かどこか)の呪いから復活し、謎の癒しの芸術(か何か)を研究し、自分かつて住みかにしていたエリアがドミニク・ダルマスに乗っ取られている事を知るに至る。ドミニク・ダルマスは不気味な暴君で、そのきちんとスーツを着た部下の暴漢たちは、暴力と脅迫によって、ドクターの旧友を含むはるか昔からの住人たちを追い出したのだ。かつて若い女性記者だったが今は元気な婆さんになっているペネロープ・スタンプは、住民保護委員会の委員長で、チェンバースにかつての犯罪と戦う別人格を復活させ、ダルマスを調査して欲しいと訴える。はじめはためらったチェンバースだったが、暗殺失敗事件によって、ふたたびマントとゴーグルをつける決意をし、ダルマスが謎の秘密組織のボスであることが明らかになる。その組織の邪悪な行動計画は、果てしない未来の筋書きにまで及んでいた。ダルマスはロンドンに実質的拠点を置き、世界は無理としても、イギリスを征服する長期的野望を持っていた。むろん、ドクター・シェイドは大した努力もなく、その野望をときどきくじくことになる。
「たぶんわしは、ただ年を取っただけだ、グレッグ」グレッグにシナリオを見せると、ハリーは言った。「だが、このドクター・シェイドは感じ方が違っている。わしがドナルドから引き継いだとき、読者はもっと魅力的な話になったと言ってくれた。恐怖や暴力よりも、喜劇とスリルが増えたと。だが今回の話には、あまり笑いが必要なさそうだ。まるで誰かがドクター・シェイドをドナルド的キャラクターに無理やり戻そうとしているようだよ。わしの一本気な主人公よりも、ドナルドの恐るべき自警団員のほうがよく合うような世界を作りだすことでな。今の世の中、何もかもがひっくり返っておる」
「心配要りません。ぼくたちのドクター・シェイドはまだ正義のために戦っていますよ。ペニー・スタンプの味方であって、ドミニク・ダルマスの味方ではありません」
「わしの知りたいのは、デレク・リーチの味方なのかどうかということじゃ」
グレッグは全く考えていなかった。〈アーガス〉のオーナーは、当然、マンガのキャラクターの冒険に対する拒否権を持っている。グレッグとハリーがドクター・シェイドをどちらの方向に持って行きたいかということなど、全く顧慮すまい。
「リーチはお金がすべてですよ。ぼくたちが売れる漫画を描きさえすれば、何が描いてあろうと文句は言わんでしょう」
「だといいがな、グレッグ。本気でそう思うよ。紅茶のお代わりはどうじゃ?」
外は暗くなりつつあり、二人はシナリオの作業を進め、小さな変更を加えた。キッチンの窓の向こうで、小さな庭をとおって影がアパートに忍び寄り、その指がゆっくりコンクリートとタイルに届こうとしていた。夜闇の中でやたらと小さな物音が聞こえ、エアロゾルのスプレー式ペンキのシューという音と、ハイパワーのエアガンのパンパンという音を聞き間違えそうなほどだった。

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〈オーストラリアのソープ・スター独占インタビュー〉:不運な女子高生の物語──〈独占スクープ〉──本日、〈コメット〉連載スタート

〈コメット〉の〈法と秩序〉特別企画。警察幹部、MP、犯罪者、一般人にインタビュー! 増加する犯罪に対して、何をなすべきですか?

〈ブリクストンの若者の刃傷沙汰で英雄となった年金生活者〉:若者にとっては、椛の木だけが理解できる言語なのか?〈やってみることだ〉トミー・バラクルー、七六歳はそう考える。〈コメット〉の独自集計で、読者の六九%がそう考えている。

〈デレク・リーチざっくばらんに語る〉:きょう:〈移民、犯罪、失業〉
「こんなことを言うと怒りだす人もいるだろうが、イギリスは島国だ。これは単純な事実である。わが国は小さな島国だ。イギリス人の住む広さしかない。定期的な住宅不足や仕事の不足のことは誰もが知っている。開放政策に賛成する一派も、この事実や数値は否定できない。
「イギリスの市民権は特権であり、普遍的な人権ではない。わたしのような単純な男は、ターバンを手に巻いて分け前にあずかろうとこの国にやってくるトム爺さんだかディックだかパンディットにこの国をくれてやる前に、もう一度よく考えてみるべきだと思うのだ──」

当てよう! 当てよう! 当てよう! ラーヴァーリー賞金を! 〈コメット〉は<グリッド・ディッシュ>アンテナから<スリー・ミリオン・ニッカー>ズボンまでを提供! 信じられないといわれましたが、本紙はやりました! ラーヴァーリー賞品として、更に何百万ポンド相当が提供される予定!

この子はブランディ・アレクサンダー(一七歳)。成人向きの日曜版ではサッカー・スカーフをまとわない姿で本誌に登場します。ブランディちゃんは高校を卒業したばかり。既に、〈フィオナはフォークランドをやる〉という映画に出演済み。映画での役は小さいが、あれは小さくありません──

カレー大王、猫をいじめる?:あの激辛カレーに実は何が入っていたんですか? パテルさん。

エルヴィスはエイズで死んだ?:霊能力者が真相を暴くぞ!

〈ガーディアンの天使〉殺人事件 続報:ロンドン警視庁内部者、自警団による私刑行為を批判
マルコム・ウィリアムス(一九歳)、バリー・トザー(二二歳)の遺体が昨日、西インドコミュニティの代表、ケネス・フッド師によって確認された。遺体は、南ロンドン・アトレー地区の地下道に遺棄されていた。遺体はいずれも至近距離から処刑されるように、小口径の銃で撃たれていた。メトロポリタン警察のマーク・デイビー刑事は、使われた銃はエアガンであると信じている。この事件は、この数ヶ月に連続して起こった五件の黒人やアジア人の若者の殺害事件と類似している。
ウィリアムスとトザーも他の被害者と同様、多くの前科があった。ウィリアムスは昨年住居侵入及び建造物損壊で三ヶ月服役したし、トザーは路上強盗、婦女暴行、軽微な窃盗及び暴行の前科があった。二人が何らかの犯行の直後に殺害された可能性がある。付近で女性のハンドバッグが発見され、中身が散乱していた。目撃者によると、二人は地元の飲食店〈ザ・フラスク〉で追加の酒を頼む金に窮し、店を出たとされているが、遺体発見当時、二人は金を持っていた。
警察は更なる目撃情報を求めている。特に、ハンドバックの所有者に事情を聴きたいとしている。いわゆる私刑執行者〈ガーディアンの天使〉を目撃している可能性があるためだ。これまでの事件では、有力な目撃情報は得られていない。
匿名を希望している現地の住人は、記者にこう語った。「〈ガーディアンの天使〉を捕まえないで欲しいですね。この辺にはナイフを持ったクロ**のキチ**どもがたくさんいますから。〈天使〉に全員やっつけてもらいたい。そうすれば、わたしは命の不安を感じることなく、郵便局に年金を卸しに行けますから」

近日刊行!:イギリスの古くて新しい新聞。チャーチルの愛読紙がついに復刊。ドクター・シェイドが帰ってくる。ついに、夕刊紙にヒーロー現る。

──〈日刊コメット〉一九九一年七月一日月曜日より

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土曜の朝のコミック大会は、いつも静かである。グレッグがメインホールに入ると、いつもパネル・ディスカッションがある。それはすべて、ニール・ゲイマンが現在の仕事についてジョークを飛ばすのをうなずきながら笑って聴いている三人のおとなしい人物をフィーチャーしていた。すべて前夜に酒場で聴いた話だったので、もう一度振り返ってディーラー・ルームに入った。グレッグ自身、その夕べに〈古いキャラクターの復活〉について、パネルに呼ばれていた。ターザンもグリムリー・フィーンディッシュもダン・ダールも復活させたのだから、ドクター・シェイドもいいだろうというのだ。チャリティ・オークションでは、グレッグの最初の新装版ドクター・シェイドの試作が五十ポンド以上の値段で売れたことも、かなりの意味を持っていた。
グレッグは、べらぼうの値段がついたプラスチック・カバーのアメコミでいっぱいのダンボール箱のエリアから、もっと変わった店のほうへ移動した。そこでは、古い映画のスチール、四〇年代や五〇年代の一般雑誌(六〇年代や七〇年代のものもあることに震えあがった)、スティングレーのジグソーのような珍品(三ピースのみが欠けて一二ポンド)、ラワイドのボードゲーム(五ポンド)、ダイジェスト・サイズのパルプマガジンなどを売っていた。
あるディーラーが、おそらく前の大会で顔を覚えていたのだろうが、グレッグに気づき、きっと気に入るものがありますよと声をかけた。いかにもポン引きのように声をひそめて、調子のいい口調だ。架台式テーブルの下にぜえぜえいいながら身をかがめ、手を伸ばして、縛ったパルプ雑誌の束を拾い上げた。
「こいつぁ、最近ではめったにお目にかかれませんよ──」
グレッグはいちばん上の雑誌のカバーを見た。〈月刊ドクター・シェイド〉。色あせたフィッツジェラルドのイラストは、ゴーグルとマントのドクターが、ナチス親衛隊の制服を着た八本脚のネアンデルタール人ととっくみ合い、手術台の上で、薄い四〇年代の衣装と飾り物だけを身につけた金髪のペニー・スタンプがなすすべもなく横たわっている絵だった。中身。レックス・キャッシュ作〈ミュータントの支配者〉長編完全版。〈炎の拷問〉〈ドクター・シェイドの高笑い〉〈ヤンキーのハンクとハイデルベルクの絞首刑執行人〉併録。一九四五年四月、バジャーフィールド出版。
グレッグは、ハリー・リップマンも大会に誘ったが、かの作家はこの手のイベントで何度かひどい目にあったらしく、〈キチガイどもとは関わり合いになりたくないよ〉と言った。ハリーが古い雑誌を大して持っていないことは知っていたので、これを買って行ってやらなければならなかった。その中に、再利用に値するアイデアが多少なりとも入っていないなんて、誰にも分からないのだ。
「十ポンド?」
グレッグは五ポンド札二枚を渡し、雑誌の束を受け取り、業者が嵩を増すためにリーダーズダイジェストをこっそりまぎれこませていないかと、背表紙をチェックした。
よし、全部ドクター・シェイドだ。四〇年代のやつだ。早く座って読みたい。
ホールに戻ると、誰かが熱心に聴いているにきび面の客相手に、〈ティーン・タイタン〉と〈Xメン〉における思春期の不安について講義していた。コーヒーか紅茶とビスケットは、どこでもらえるんだろう。若者たちに囲まれたニール・ゲイマンが、部屋の向こうからグレッグに笑いかけ、手を振って合図した。グレッグも合図を返して礼を言った。ニールは、ハント・シーリーがいるぞと警告したのだ。ハントは英国のコミック起業家で、そのギャラの支払が不定期なのでグレッグは訴訟をしたこともあった。あの古いいざこざを蒸し返したくはなかった。だるまみたいに太ったシーリーを避けて、グレッグは暗い部屋に入った。分厚い眼鏡をかけた五人の白人の若者が、プロジェクターでメキシコのホラー・アクション映画のビデオを見ていた。テープは孫か曾孫コピーで、モンスーンのさなかの熱帯のドライブイン・シアターのような画質だった。
「来いよ、フリオ」日焼けしたキチガイ医師の唇の動きに、深いアメリカ英語の声が重なった。「ゴリラの死体を火葬場に運ぶのを手伝ってくれ」
誰も笑わない。ビデオルームはしけた煙草の煙とこぼれたビールの匂いがする。ホテルに部屋を取れなかった子供たちがここでグーグー寝ている。ノンストップのZムービー・フェスティバルには全く邪魔されずに。グレッグが見たい唯一の映画──ジョルジュ・フランジュ〈LesYeux sansVisage(顔のない目)〉のフランス語版──は、グレッグのパネルと同じ時間だった。いつものことだ。
いつまでも根に持つことで有名なシーリーがホールをうろついてニールを困らせているだろうと思い、グレッグは椅子に座って映画を見た。キチガイ医師はゴリラの心臓を移植しており、怪物は都市を恐怖に陥れ、多くの娘の服をはぎ取っていた。ヒロインは繊細な女性レスラーで、最近の対戦相手を意識不明の重体に追い込んだことから、リングを引退しようと悩んでいた。
グレッグは、検死場面ややたら揺れる映像にうんざりし、誰か知り合いはいないかと辺りを見回した。観客たちはミサの聖体拝受者のように、スクリーンを凝視し、眼鏡にビデオが映り、暗闇の中に星のような点を浮かび上がらせている。
グレッグはここのところ、たくさんの暗闇を描いていた。ドクター・シェイドの周りの影を塗りつぶし、顔の下半分の白いところと、ゴーグルの明るい部分だけが、ドミニク・ダルマスの後をつけて東ロンドンの薄汚れた通りを歩いていく夜闇の中に見えている。漫画の中の黒い部分にひたすらインクを塗り続けたせいで、手は疲れ果てている。ときどきは昼間にドクター・チェンバースが現れる場面もあるものの、全体の九五%は夜の場面なのだ。
ビデオテープには欠陥があり、映画は数秒間消え、液体洗剤のボトルを振っているナネット・ニューマンの映像に変わった。誰もやじらなければ、文句も言わない。そしてすぐに、キチガイ医師のゴリラ男が帰ってくる。トマトのような眼球が抉り出され、質の悪い鬘をかぶった大根役者の歪んだ顔に、肉汁のような血液が流れる。トーキー並みに古臭い陳腐な音楽が背景でやかましく鳴る。暴力描写を除くと、ドナルド・モンクリーフのドクター・シェイドが、一〇階の窓からマッド・サイエンティストを突き落とし、共産主義者や反逆的な現地人を爆発性エアガンの標的にし、ヒーローとして人気を博していた、三〇年代にでも簡単に作れたレベルの映画だ。
暗闇に目が慣れたにもかかわらず、グレッグは