SF百科図鑑 愛という病 または 煉獄の生活 A Love Sickness ジェフ・ライマン


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一九八八年度受賞作

愛という病 または 煉獄の生活 A Love Sickness ジェフ・ライマン
(「子供園 または 低級笑劇」イントロダクション~第一の書)

未来は消えゆく歌、王宮の薔薇、ラベンダーの花吹雪
今ここで後悔することを知らぬ者たちへの悲壮な後悔の──
T・S・エリオット「四組のカルテット」

ジョン・ホスキング、ジョアンナ・ファーバンク、両親にささぐ

イントロダクション
医学の進歩(ウイルスの培養/文化(culture))

ミレナは何でも煮沸した。病気が恐ろしかった。他人のナイフやフォークを使う前にも必ず煮沸した。これを侮辱されたと受け取る者もいた。食器は樹脂を固めたものだったから、熱で解けて使用に耐えないほどに変形してしまうことが多かった。フォークの先は案山子の指のように広がり、乾いた古手袋のように固まってしまった。
ミレナは必ず手袋をして外出した。そして戻ると手袋を煮た。素手で耳掃除や鼻ほじりをすることは絶対なかった。汗臭く混みあったバスでは、めまいがするまで息を止めつづけた。誰かが咳やくしゃみをすると手で顔を覆った。夏冬かまわず人はくしゃみをしつづける。常に病人がいて、ウイルスがいる。
信念も病気だった。医学の進歩ゆえ、許容できる行動パターンは把握ないし統制できた。
ウイルスは人々を陽気で、親切で、正直に変えた。行動は非の打ち所がなく、会話は情報に溢れ、仕事は素早く正確だった。彼らは同じことを信じていた。
ウイルスの一部は、ヘルペスと神経細胞に直接植えつけたDNAに由来していた。他のウイルスはレトロウイルスで、脳のDNAを乗っ取り、情報やイメージを送りこんだ。〈キャンディ〉と人は呼んだ。遺伝子の核酸が糖と燐酸塩に包まれているからだ。それは遺伝子のダメージや変化に耐性を備えていた。キャンディは完全に安全だと言われていた。
しかしミレナは信じられなかった。キャンディのせいで死にかけたのだ。ミレナの体は子供のころずっとキャンディに抵抗しつづけた。体の中に何らかの抗体があったのだ。そして十歳のとき、極めつけの強力な薬を投与され、高熱に見まわれて生死の境をさまよった。ミレナはやがて百科事典の知識と有用な計測器をいくつか手に入れた。あのウイルスは他にどんなダメージをもたらしたのか?
ミレナは自分をテストした。あるとき、スーパーの棚からリンゴを一個万引きしようとした。そのころの行動はたいていそうだったが、子供っぽい衝動からだった。まだら模様の皮に手を触れた瞬間、リンゴを育てて店に売った少年が費用をいくらかけたのか、どうやって余暇時間を利用してそれを行ったのかに思い至った。ミレナは万引きを断念した。ウイルスのせい? それとも自分の意志? はっきり分からなかった。
免疫があると分かっているウイルスが一つあった。自分の一部だと確信を持てることが一つあった。愛に恋い焦がれる気持ち、女性に対する愛情は無視できない。
後期資本主義の記号論的産物だ。そう党は言った。明らかにミレナは、〈間違った語法〉を病んでいる。重篤な〈間違った語法〉、いちおう語法ではあるが。ミレナは怒った。後期資本主義って何? ここはどこ? 〈革命〉から百年経っているのに!
ミレナは怒りながらも、その怒りを恐れた。怒りは危険だ。怒りは父を殺した。治療のため大量のウイルスを投与され、高熱で死んだ。いつかもうすぐ、党はミレナをも治療しようとするに違いない。怒りを。ミレナ自身であることを。ミレナは恐怖の中で生きていた。

*****

誰もが十歳になれば、〈党〉によって〈読心(リード)〉される。それは民主的権利の一部だった。医学の進歩ゆえに、代表民主制は、より直接的な制度に変わっていた。人々は読心され、その人格から〈模型人格(モデル)〉が作られた。このモデルは、政府に参加し、諮問を受けた。政府は〈コンセンサス(集団的合意)〉と呼ばれた。後期社会主義の産物である。誰もがコンセンサスのメンバーだった。ミレナを除くと。
ミレナは読心されたことがなかった。十歳の時点で、ウイルスに犯され病に伏している状態で、読心できなかったのだ。ミレナのパーソナリティは、いまだに流動的だった。だから読心しても無意味だっただろう。ミレナは読心されていなかったが、大人として〈配置(プレース)〉されていた。あの人たちは、すぐに思い出すだろうか? ミレナが読心されれば、〈間違った語法(バッド・グラマー)〉と小さな罪は見つかってしまうだろう。そうすれば、公衆衛生上の問題として、ミレナは治療するために病気にさせられるだろう。
それが起こったとき、ミレナは父親のように死を恐れた。父もやはり抵抗力があったのだろうか? 父親は東ヨーロッパで死に、母親はミレナを連れて英国へ逃げた。そこでは病はもう少しおとなしいから。それから母親も亡くなった。ミレナは異国の地で、ひとりの孤児として育った。
ミレナは演劇のヴィジョンで頭をいっぱいにしながら育った。回転舞台や、人形や、上がったり下がったりする色を塗られた平面のからくりを愛した。劇場でしか見かけない光を放って燃える、あの厄介で臭いアルコール灯を愛した。真っ白のステージに、白と黄色のスポットライトが切り替わりながら差し込むことによる演出効果といったものを愛した。光を愛した。光のみから成る劇というぼんやりしたアイデアを愛した。人を愛したことはなかった。
十歳のとき、ミレナは劇場の職に女優として配置された。これは間違いだった。ミレナはひどい女優だった。ミレナの中には、他人を真似ることを断固として拒否する何かがあったのだ。ミレナはいつもミレナ自身だった。いつも、自分自身であろうとして戦わねばならない運命だった。

*****

たいていの朝、ミレナはバスに乗って次の公演に行く。座って、まだ開かない花のように、腕を組み、窓の外をキイキイと音を立てて通り過ぎるロンドンの街を眺める。
人はロンドンを〈ピット(煉獄、穴蔵)〉と呼ぶ。この街の、竹の架台によって支えられているおんぼろビルや、過密や、匂いに対する後悔半ばの愛着を込めて。人はこの街を〈煉獄〉と呼ぶ、憂鬱の中に横たわるから。次第に水位の上がる海や河口から〈大珊瑚障壁〉によって守られている、丘の間の渓流の谷間のような場所だから。
窓の外に、麦藁帽の女たちが葉巻を吹かし、干し魚を売っているのが見える。子供たちがお金のためにおもちゃの太鼓に合わせて踊ったり、汚い緑野菜をいっぱい載せたトロリーを押したりしているのが見える。ショーツ姿の男たちが、元気なウシガエルのように互いに怒鳴りあいながら、坂道の上でビール樽を転がして、通りの下の地下倉庫に運んで行くのが見える。ワゴンの前には、巨大な白馬が静かに立っている。
人は人だ。その肌は、〈ロドプシン〉という蛋白質であふれている。それは初め、目に見つかったものだ。光の中でロドプシンはナトリウムに変わる。そして、炭素や水と結合する。
人々は、光合成をした。それが栄養をとる方法なのだ。〈煉獄〉じゅうで、二三〇〇万人の人がいる。夏には南海の熱で肌を焼き、早朝には公園に繰り出し、光を浴びて朝食にする。厳しい冬には、防護壁に寄りかかってありがたそうに服をはだける。ミレナにはバスからその人たちが見える。波打つ肉が露出し、黒い冬服のおおいはのけられている。まるでバロック寺院の彫刻のようだ。そしてミレナは記号論的な誤りに心が騒ぐ。〈間違った語法〉に絶望を感じる。
人々は路上で死ぬ。たいていの朝、バスはそのうちの一人を轢く。男が路上で大の字に横たわり、驚いて肩越しに振り返ったように後ろを見ていたりする。誰かに呼ばれたかのように。悲しげにベルが鳴り、医者が呼ばれる。
そして、バスの上の役者たちはおしゃべりを続ける。女優は笑い声が大きすぎるかもしれない。鼻の下に指を当てて、監督と話している。若い男はじっと足下を見詰めている。なかなかうだつが上がらずに、不満なのだ。誰も興味がないのかしら?とミレナは思う。死んだ人には、誰も興味がないの?
路上には老人は誰もいない。若い母親たちが出店で働いている。子供たちがじゅうじゅういう中華鍋で料理をかき混ぜたり、古い靴に新しいヒールをつけたりしている。死者も若い。
人間の平均寿命は半分になっていた。これは医学の進歩とは考えられていない。失敗と考えられていた。
〈革命〉の前の時代に、癌の治療法が見つかった。それはプロト癌遺伝子を糖で包み、癌遺伝子が発動しないようにする方法だ。貧富の差の激しい旧世界で、この治療法は試験前に金持ちによって買われた。これは感染性で、こっそり行まった。癌は消滅した。
一〇分ごとに癌細胞を作るのが、かつて人体には当たり前のことだった。癌は大事なものであることが、あとで明らかになった。癌細胞は年をとらないのだ。老化を防止する蛋白質を分泌する。それによって人は年を取ることができた。癌がなければ、人は三五歳かそこらで死ぬ。
そのあと、〈革命〉が起こった。
ミレナは煮沸した手袋をして、バスに座り、役者たちの目の神経質な光を見た。若いうちに仕事を完成させようという情熱の光を。市場の人々の顔に絶えることのない笑みを見る。その笑みは病気の兆候のように見える。ミレナの見るものすべてが、ミレナには間違いに見える。
ミレナは子供たちを見た。教育のためにウイルスを投与されるのだ。生後三週間で、言葉を話すことと、基礎的な算数ができるようになる。一〇歳までに成人する。まるで開花を促進された花のように。だが、それは愛の花ではない。仕事の花だ、働かせるための存在だ。時間がないのだ。


「子供園」第一の書 愛という病 または 煉獄の生活

人生の道半ば
暗い森のただなかに私はいた
まっすぐの道を見失ったから


第一章 未来の日常生活(橋の窓)

観客は子供だった。
〈子供園〉の照明を落とした部屋の床に敷かれたマットの上に座っていた。みな同じキルト地のグレイのダンガリーを着ているが、色とりどりの模様の刺繍をしてもかまわないし、好きなときに出入りしてもかまわない。外側からしつけを押しつける必要はないのだ。仮設ステージでは俳優たちが、複雑な機知に富んだシェイクスピアの台詞を応酬している。

汝は、小さいが故にうつくしい!
小さいが故にさほどうつくしくない。なにゆえにかしこいのか?
ならば、素早いが故にかしこい!

〈恋の骨折り損〉の公演だ。子供たちは退屈した。たやすく理解できるからだ。
ミレナ・シバシュは子供たちがよく見える場所に待機し、出番を待った。隠れようとしても、前舞台にはプロセニアム・アーチはない。子供たちの話す言葉が聞こえた。お世辞は期待していなかった。
「また〈新しい歴史〉の話ね」前に座っている小さな女の子がため息をついた。その頬は日に焼けて紫色だ。その声は陰気で弱弱しく、息を切らしている。三歳ぐらいだろう。「もしオリジナルをやるつもりなら、どうしてちゃんとやらないの?」
「何でこんな劇を見せるのか、さっぱり分かんないわ」小さな友達の女の子が言う。その声は既に大人らしい正確な響きを帯びている。「もう暗記してるのに。あのだらしないブーツをはいた馬鹿は誰?」
その馬鹿はミレナ・シバシュだ。〈ガキンチョめ〉ミレナは思う。幼い子供たちというのは当然、生意気なものだ。何らの努力もせずに、ウイルスからすべてを学ぶのだ。そもそも、何かに努力を要するという観念自体がない。
あたしだってこんなブーツ、嫌いよ、とミレナは思う。でもこのブーツを履かなきゃならないんだから。
ミレナはダルという警官を演じていた。
ミレナのセリフは全部で一三あった。あたしはもう一六歳だ、と思った。人生の半分を過ぎた。〈子供園〉を回る演劇に参加し、セリフはたったの一三。
〈子供園〉は孤児が育つ場所だ。たくさんの孤児がいる。ミレナ自身も孤児だった。他の孤児や〈子供園〉から逃げたくて、女優になった。そして今、ここにいる。
ミレナは同僚の顔を見る。ベロウヌ役の少年が、化粧した顔にぼんやりした眼差しで、役のためにあごひげを伸ばして、待っている。オリジナル版のベロウヌがあごひげを生やしていたというそれだけの理由で、役者はあごひげを生やさねばならない。この催しは、ただ単に歴史を保持するためのものだ。ミレナは自らを無限に再生産する文化の中に生きている。だがそこからは、何も新しいものが生まれない。
ミレナは思う。役者もうんざり、子供たちもうんざり、それなのに、なぜ、なぜ、なぜ、わたしたちはこんなことをしなければならないの?
ミレナは一三のセリフの一つをつぶやく。「わたしが、楽しませてさし上げようぞ」でも、はっきりいって面白くない。
少なくとも、ブーツぐらい替えていいはずよ、と思った。

*****

ミレナが家につくころには既に暗くなりかけていた。ミレナは川沿いの〈南岸〉の道を歩いていた。アルコール灯の暗い灯りが灯っている。西の空はまだかすかに煙っぽい桃色だ。
〈南ブリテン国立劇場〉が暗闇とかすかな靄の中にぼんやり現れる。〈内陸珊瑚〉の巨大で広範囲にわたる擁壁と、竹の檻によって、この古い建物は建っている。
愛情をこめてか否かはともかく、それは〈ズー(動物園)〉と呼ばれていた。ミレナは〈演劇エステート〉の登録メンバーだった。だが、まだズーのメインステージに出演したことはない。ズーには二四時間営業のレストランがあり、〈ズー・カフェ〉と呼ばれている。俳優たちは食っていくためには仕事柄、日焼けができない。俳優たちの肌はあまりにも黒っぽい紫色だが、シェイクスピアその他の古典劇によって台無しにされる。歴史考証の正確さゆえに、肌を青白く保たなければならないのだ。そのため経口の食事を取らなければならず、ほとんど常に腹が減っている。
ミレナは、孤独なときや、一個口のアルコール・コンロで料理をしたくないときには、ズー・カフェに行く。それは孤独に対する一種のホメオパシー療法だ。他の客がテーブルに座って話したり、後ろにもたれかかって笑ったりしている。きらきらした若い俳優、きれいに着飾った客、〈党メンバー〉の落ちついた子供たち。お湯をくむために列に並び、一歩ずつ進みながら、ミレナは飢えたように、他の客を見る。
あらゆるファッションが歴史のためだ。人々の精神は歴史で窒息している。若者たちは黒衣を着て、生きかえった有名人の死体を演じる。この人たちは、自らを〈歴史のヴァンパイア(吸血鬼)〉と呼ぶ。ウイルスの詰まった脳によって、時代錯誤を犯さずにすむための情報を得る。それは一種の熱狂である。
〈ヴァンパイア〉は夜にのみ外に出る。血を弱める太陽がないから。〈ヴァンパイア〉も食べなければならないが、歴史的に認められる割合でしか食事をとることができない。ミレナはシーフード・パスタのみを食べられる。冷たい麺の上にクローンのイカ肉を乗せたもの。山のように積み上げられた〈ヴァンパイア〉の大皿を見て、ミレナの縮んだ胃がねじれるような感じがする。ミレナは目をそらす。
ミレナはシラを見た。ミレナとはややクールな関係にある女優だ。空いたばかりのテーブルに座っている。たくさんの人の頬にキスをして、さよならを言ったばかりだ。シラは誰もと知り合いだ。ミレナでさえも。
「今夜は誰になるの?」ミレナはトレイを置きながら尋ねる。
シラは黒衣を着て、パンケーキの白い化粧をし、目の周りにヴァンパイア風のシャドウを塗っている。「わたしよ」シラは答える。「墓場から目覚めるときには、わたしになるのよ」
「気晴らしに自分を演じる人もいるのね」ミレナは言う。
「少なくとも、自分とタイプの違う役にキャスティングされることがないのは、知っているでしょ」シラが軽い口調で言う。シラは、順調に〈アニマル(動物)〉に近づいている。著名な役者に。
「わたしが出ている退屈な劇を知ってるでしょ」ミレナは言う。そして、マグカップのお湯で、フォークやナイフを洗い始める。「衣装を変更する方法を知ってる? わたし、ブーツがいやなの」
「もし衣装がオリジナルの一部なら、変更できないわ。歴史を侵すことになるから」
「あのブーツ、ぺちゃぺちゃ音がする。滑稽に見えるに違いないの」
シラは肩をすくめる。「〈墓場〉に行けばいいわ」
〈ヴァンパイア〉のジョーク? ミレナは目を細めてシラを見る。ユーモアには気をつけろと、人生はミレナに教えた。
「〈墓場〉」シラは繰り返す。ミレナは本当に物を知らない、といいたげな声で。「誰も欲しがらない衣装を捨てる場所よ。記録にも載ってないわ」
「勝手に処分していいってこと? 監督の許可なしで?」
「そうよ。橋の下にある、古い倉庫にあるわ」シラはミレナに行き方を教えた。そこへ、二〇世紀の服装をした二人の〈ヴァンパイア〉がやってきた。黒いタキシードと、黒いビーズのドレス。
〈党メンバー〉──〈ターティ(淫売)〉だ。少年は、これまた気取った眼鏡をかけている。鼻の中には、鼻の穴をひくひくさせるものを入れている。髪はオールバックで、化粧は緑色。病弱に見えるように。
「こんばんは」少年は気難しい顔で言う。アクセントはアメリカ風だ。「何とかヴァージニアをやり過ごしたよ。ヴァージニアは、ジョイスがひどい作家だったことを示す事項のリストアップに忙しい。嫉妬心があからさま過ぎて、困った」
横にいる女は微笑もうとした。高さのないクローシュハットをかぶっている。微笑みは病的に揺れる。「トム?」女は言う。男は背中を向ける。「わたしに話してよ。話せないの? 話せないの?」
「T・S・エリオットとヴィヴィアンだ!」シラが叫んで、絶賛する。「真に迫ってる。完璧」その男女は役柄の演技を緩めない。本物の自分がそんなに残ってないの? とミレナは思う。
「自分が楽しんだとは信じられない」少年は言う。手をミレナに差し出しながら。〈ヴァンパイア〉の社交性だ。少年はミレナの演じる役を知りたがった。
「わたしが誰かって?」ミレナは、無表情な敵意で応じる。少年の手は取らない。「そうねえ。生前のわたしは、一九世紀シェフィールドの織物工場の工員。一二歳で死んだ。わたしは歯がないから、かなり悲惨な〈ヴァンパイア〉。でも湿疹と失敗には事欠かないわ」
〈ヴァンパイア〉たちは暇を告げて去った。「今ので追い払ったようなもんよ」シラが言った。
「わかってる」ミレナはため息をつく。どうしてこの子は、やたらと物事に異議を唱えるんだろう? 「わたしに何か問題がある? シラ」
「ええ。あなたは神経質すぎる」しばらく沈黙する。「それに──何かに取りつかれてる感じ」自信ありげにうなずく。それから言葉を和らげるように言う。「ラ、ラ、ラ」無意味な表現だ。全てが同じもの、全てが歌であるという意味だ。
「取りつかれてる?」ミレナはきく。ミレナの自己攻撃の弓に加わった新たな矢だ。
「あなた、いつまでそのフォーク洗ってるの」シラが言う。「あなた、わたしのを全部溶かしちゃったわよね。うちにきたときのこと、覚えてる?」
「それに、神経質?」
「それに厳しすぎる」シラが付け加える。自分で納得して再びうなずく。
ミレナは既に自分がシラに恋していると思いこむ段階を卒業している。ねえ貴女、わたしの考えていることがもし分かってもらえたら!
「それが全てを表してると思うわ」ミレナがため息をつく。〈間違った語法〉に冒されるのは本当に悪いことだ。だがそのせいで、神経質と言われるなんて! ミレナは冷たいイカを眺め、飢えるほうがましだと結論する。「失礼するわ」ミレナは立ち上がり、かなりおぼつかない足取りで、夜の中に歩み出る。
「あなたがきいたのよ。ミレナ? あなたがきいたんだから!」シラが後ろから叫ぶ。シラはいつもあまり考えずに喋る。ただステージで演技しているだけだ。
ミレナは〈ハンガーフォード歩行者橋〉まで歩き、川を見た。月光の中で渦巻いている。泥と、下水の匂い。橋脚によって起こる渦が、ゴミや泡とともに回っている。ミレナは自分から逃げ出したくて仕方がなかった。世界から。
そして、〈ウォータールー橋〉を越えたとき、川べりの船着き場から、大きな黒い気球が上がった。空気のかすかな音以外に音はなく、沼地を吹く風のようだ。気球は頬のように丸くふくらみ、風によって穏やかに動いている。静かに上昇し、雲のような優雅さで動いてゆく──どこへ? 中国? ボルドー? 一緒に飛んで行きたい。気球のようになりたい。大きく。風に運ばれて、自分であり続けるという以外、何も考えず。
ミレナは若い。自分では年老いていると思っている。〈南岸〉では、ズー・カフェの窓はキャンドルの光とヴァンパイアの影と笑い声でいっぱいだ。誰もが若く、柔和で、時間がなく、それゆえに、沈黙を嫌う。いまだ経験によって満たされない、自分の中の沈黙を。
中には大騒ぎせずにいられない者もいる。自分の中で生きている何物かに絶えず動き回らされている。そうでないミレナのような者は、全てを片付けたうえで、何かが起こるのを待つ。発言したり、行動したりするに値する何かを。誰もが自分の中の沈黙を嫌う。その沈黙の中からこそ、自分にとっての個人的なものは全て出てくるのだと知らずに。
何かが、何かが起こらなければならない、今すぐに、とミレナは思う。新たに何かやるべきことが必要だ。演劇には飽きた。〈子供園〉にも飽きた。自分でいることにも飽きた。毎晩一人で、ベッドの縁にしゃちこばって座るのにも飽きた。誰かが必要だ。女が必要だ。だが、見つかるまい。誰もが治療されてしまっている。ウイルスが治療してしまうのだ。〈間違った語法〉。〈あなたを愛している〉は〈間違った語法〉なのか?
ミレナは反抗心に冒されている。ミレナは、さまざまな点で自分が、その種族の世界最後の生き残りだと思っている。

*****

翌日、ミレナは要らないブーツを抱えて、〈墓場〉に行った。〈大陸〉への列車は、ウォータールーから出る。木造の客車は、ゴムの車輪の上でキイキイ音を立てる。もはやレールの上を走らない。古風なレンガでできた古い橋の上を通り、古い都市を越えながら、しゅっしゅっぽっぽと蒸気を吐き出している。
レンガの橋全体をトンネルが通っている。トンネルの一つは〈リーク通り〉と呼ばれ、実際にリーク(水漏れ)する。天井から水が滴る。そこは列車の匂いがする。ミレナの鼻は、乾いた油の匂いでくすぐったい。壁は白いタイルが一面に散りばめられ、全体に一連の大きな緑色のドアが並んでいる。
緑のドアはロックされていた。ミレナは一つ一つ開けようとしたが、開くものはなかった。ミレナにとっては謎めいている。開かないドアに何の意味があるのか?
ようやくミレナは半分開いた大きな門扉に行き当たった。その門扉は、何層もの剥げかけたペンキが塗られ、古いアルファベットで、〈白馬〉という文字が浮かび上がっている。門扉の向こうから、完全なオーケストラの演奏の音が聞こえてくる。
暗闇の中の演奏だ。ミレナは門扉の中を覗き込む。灯りがあるはずだと思う。暗闇の中で演奏するオーケストラって、何だろう?
ミレナは門扉をばたんと開け、中に踏み込む。時間をかけて見回すと、乱雑な衣類のラックや、立てて置いた竹の上の竹の棒や、小さなローラーが見える。入口から差し込む薄暗い光の細い線の中で見える。光の線は突然細くなる。ミレナの後ろで門扉がばたんと勢いよく閉まった。
もう開かないだろう。ミレナには信じられない。ロックについては何も知らない。ミレナの文化では必要ないのだ。誰も盗みをしない。だがこの古い門扉はロック式だったのだ。ミレナは押してみる。叩いてみる。「ハロー?」と叫びかけてみる。動かない。
いいわ、とミレナは怒って考える。わたしはここで飢え死にする。五十年後に死体は発見されるだろう。わたしの指が木に食い込んだ状態で。なぜドアにロックなんかつけるの? なぜここには灯りがないの? どうやったらここから出られるのよ? ミレナは欲求不満で目が痛むのを感じる。くるりと振り返り、ドアを蹴り、それがぶるぶる震えるのを聞く。そして音楽に耳を澄ませる。頭の中のウイルスは、その曲を一音一音知っている。
女が声を震わせ、〈エルデの歌曲〉を歌っている。マーラーの死に関するもう一つの曲だ。今まさにわたしに必要なもの。あの哀れでちっぽけな変人は、こんなものしか書けなかったのか?
まだ、〈アニマル〉だか何だか知らないが、その女は暗闇で歌っている。出口を知っているだろう。音楽は倉庫のここから対角線上の反対側の隅から聞こえる。ミレナはそこへ行く道を見つければよいのだ。
これは、古い衣装のラックをかき分けて進むということだ。秩序だった通路はない。肩マント、偽物の甲冑、尼僧衣が、腐臭を放ちハンガーにぶら下がる。ごわごわと乾いて、間抜けだましの罠のようにピンがついている。ミレナは突然の痛みを感じる。
よし、そうよ、いいわ、指を舐めながら、ミレナは思う。そして野性的になる。わたしはウイルスを注射したばかり。
それからミレナはブーツを落とした。ぱしゃっという音が聞こえる。ああどうしよう、何かの水たまりに落としてしまったわ、と思う。すえた水の中に手を入れ、ぱしゃぱしゃさせる。びしょびしょのブーツを見つけ、体からよく離して掲げる。立ちあがって、ラックに頭をぶつけ、怒って突き飛ばし、古い布に足を取られ、またブーツを落とし、暗闇の中で水をはねながら探しだし、立ち上がり、歯を剥いて、深呼吸をする。
何よりもミレナが嫌いなのは、威厳を失うことだ。無理にでも心を落ちつけ、かすかに震えながら、前方のラックを脇に動かす。ラックは小さな滑車の上でかすかに揺れる。ミレナは以前よりも規則正しく進む。
ミレナはどこにいるか分からなくなるまで、暗闇の中を進んだ。両手の下に、安っぽい黄麻布、脆い縫い目、蜘蛛の巣のように緩い糸を感じる。あるいは、埃っぽいたくさんの金属板のガリガリという感触を感じる。全ての劇場が周りで死んだようだ。残骸だけを残して。もしオーケストラがなかったら? とミレナは思う。あらミレナ、何をいうの、だったら誰が音楽を演奏しているの、幽霊?
ミレナは極めて奇妙なことを想像し始める。音楽はあまりにやかましい。あんなにうるさいはずがない。オーケストラのど真ん中、やかんのドラムの横に立ってもあんなにうるさくはないはずだ。しかも鋭い不自然な音色がミレナの耳に痛いほどだ。
頭がぼーっとして、ミレナはレンガで頭をこする。アーチの下に何も考えずにうずくまり、光を見た。光! 夜明けの森の中のような、灰色の日光。
でも、あの音楽! 前よりも音が大きくなっている。壁のレンガの粗い材質が見える。数メートル離れている。オーケストラはいない。そんな広さはないのだ。
だが、オーケストラの甲高い演奏が耳に飛び込んでくる。フルートの音色がナイフのように脳を切り裂く。壁はドラムのようにどんどんと鳴る。ミレナは片手で耳をふさぐ。もう片手で洋服のラックを引く。ある種の恐怖に身をすくめ、カーテンのように、ビロードの服を引っ張る。
外の世界への窓はない。橋に窓が? 見たことがない。光の中で、書類の山、塊が、柱のように積み上がっていたり、倒れて床中に広がっていたりする。紙は貴重品なので、ミレナはぎょっと目を見開いた。
その前に、〈南極熊〉が座っていた。
〈エフェンディム(教養人)〉、ごめんなさい、そう呼んではいけなかったわね、とミレナは思い出した。〈GE〉、ジネティカリー・エンジニアド・ピープル(遺伝子調整種族)と呼ばなければ。
GEはかつて、人間だった。今は、〈エフェンディム〉が、人間だ。〈革命〉前に、南極作業用に遺伝子組換えを受けていた。残念ながら、それは一種の病気だった。このGEは巨大で毛深い。色変わりしつつある栗毛に覆われ、前を睨み、口をだらりと開けている。目はまばたきをしない。だが独特の生命を帯びて、波打ちぎらついている。広く、黒く、何も見ないで。
音楽はどこからともなく聞こえてくる。
強烈な声は、蒸気のホイッスルのようなドイツ語の声で歌っている。

ewig blauen licht die Fernen
至る所で永遠に、遠くの光は青く明るく輝く

ウイルスは歌詞やメロディの一つ一つを知っている。その効果で、音楽はミレナには退屈に聞こえる。三度繰り返されたジョークのように。ただどこから聞こえるのかという謎だけが、ミレナを気味の悪い気分にさせる。ミレナは壁の美しい絵のポスターを見る。縁が反り返っている。本もある。デスクの上に開いて裏返しに置いてある。ウエハースか何かの食べ物が散らばっている。本に紙。そんな貴重品、ないし浪費を、ミレナは見たことがなかった。
ミレナは、〈熊〉ないしGEがいかに豊かかを知っている。〈コンセンサス(集団的合意)〉の外に暮らしているGEは。熟慮の上、法の保護を拒んだ人たちであり、南極のニッケルを売って暮らしている。このGEは、巨大で体格がいい。何このゴリラみたいなやつ、とミレナは思う。厄介ものに違いない。
音楽が静かになった。
ewig ──  ewig──
永遠に──永遠に──
巨人の声が耳にじんじん響く。ewigじゃなくって、あんたがearwig(ハサミムシ)みたいにうるさいわ、とミレナは思う。音楽に頭を殴られたみたいに、GEは凍りついた表情になる。ついに歌はやみ、建物全体が安堵のため息を漏らしたような気がする。
GEは動いた。振り向きもせず後ろを手さぐりし、デスクの縁から紙が滝のように落ちた。その下から、スイッチのついた、小さな金属の箱が出て来た。
電動装置だ。
ミレナはあまり電気のない世界で生活している。心臓の鼓動を利用する兵器、いわゆるパルス・ウェポンの危険、貧困、純粋な人口の問題、金属の不足ゆえに、家庭電化製品は歴史上の存在になっている。
「どこで手にいれたの?」ミレナは一瞬我を忘れ、一歩踏み出してきく。
ミレナは頭の中に、ウイルス式計算機による時計を持っている。その時計は、労働のあらゆる観点から、金属のコスト、製造過程のコストを合計する。その電気器具は今まで見た中で最も高価なものだ。
GEはミレナを目を細めて見た。グランド・キャニオンの向こう側を見るように。その口があんぐりと開く。そしてついに話し始める。
「中国だと思う、きっと」GEは言った。その声は高く耳ざわりだ。GEは女だった。

*****

ミレナは、〈極の女〉の話を聞いたことがある。氷の上で子供を産み、立ちあがって仕事に戻り、岩を壊すという。偏見がミレナの脳裏にずらりと並ぶ。その生き物は、また話し出した。聞きやすい、とりとめのない繊細さを帯びた声で。
「あなた、アルコール飲料を持ってないわよね?」
ミレナは会話の糸口をつかみ損ねていた。自分のきいた質問を忘れ、相手の「中国だと思う、きっと」という回答の意味に頭をひねる。思考が定まらないまま、頭を軽く振る。
「ないわ」ミレナは言う。「毒に侵されたくないから」
「ちぇっ!」GEは言う。くすくす笑いが身震いに変わる。立ち上がる。ミレナの二倍近い身長。狭いスペースで振り返るのに、身をかがめて足を引きずらねばならない。薄暗がりの中でゆっくりと、GEはデスクの上をあさり始める。更にいくつかの書類の山を押しのけ、ウエハースの樹脂トレイを床に落とす。
ミレナは、自分が無視されていると思う。
「エフェンディム?」邪魔してごめんなさい、というニュアンスをこめて、ミレナははっきり言う。「このブーツを取替えに来ただけなの」
そう言いながら、ミレナは思う。GEはコンセンサスの一部ではないのだ。この人は、ここで働いてはいない。わたしのブーツを探すのがこの人の仕事ではない。
GEは体を傾けながら振り返る。「あなたはオカマね」そのよく調和した声は、力の入った正確さで発音された。ミレナは沈黙に追い込まれる。
この人が誰か知っている、とミレナは思った。
〈オペラ好きの熊〉の話を聞いたことがあった。GEは金持ちなのだ。公演の第一夜のチケットが買えるぐらい、このGEは裕福なのだ。いつも同じ席に座り、誰とも話さない。ミレナ自身はオペラを見に行ったことはない。だが、ミレナはオペラを認めない。音楽に深い感銘を覚えたことはない。〈何かを愛する熊〉を見たこともない。伝説的存在に会ったようなものだ。GEがデスクの引き出しを開けて、中身を床にぶちまけるのを眺める。GEは何かを見つけた。
「ちくしょう」GEはつぶやく。
ミレナは汚い言葉に慣れていない。ミレナ自身も社会的判断を誤ったのかも知れないが、もうたくさんだ。
「あなた、わたしに話してるの?」ミレナはきく。
「あら、違うわ」GEが驚き呆れた口調で言う。「この空のウイスキーの瓶に言ったのよ」
GEは瓶をミレナに掲げて見せる。そして、脇に放り投げる。瓶はガラスに当たるちゃりんという音とともに割れる。暗闇のどこかに、割れたウイスキーの瓶の山があるのだ。
「知ってる? ここは前、酒造所の倉庫だったのよ。わたし、最高の発見をしたわ」とGE。
GEは、物の詰まった引き出しを引き出そうとしていた。突然それはひっこ抜け、床じゅうに中身を種のようにばらまいた──ペン、イヤリング、ウエハース、使用済みハンカチ、巻き糸の束、ばらけて錆び付いた針のシャワー、ジョージア風の銀の耳かき。
引き出しの片隅に、酒のいっぱいに入ったボトルが見つかった。GEはそれを手に取った。「神様は酒造業者ね」GEはそう言って、にっと笑った。その歯は虫歯で黒や緑に変色して、切り株のように欠けている。
いったいこのGEを、どこから連れて来たのよ? とミレナは思う。
〈熊〉はフケまみれだった。銀色のフケが、全身の毛先に貼り付いていた。犬のようにあえいでいる。口からは、長いピンクの舌が垂れ、体温を下げようと、曲がったり震えたりしている。GEはボトルをぐいと強くあおった。「ぷはーっ!」炎のような息を吐きながら、叫んだ。そして、腕で口をぬぐった。
ミレナは突然、胸に迫る愉快な気分を感じた。この紙と音楽の巣で隠遁的存在となっているGEを見て。
「あなた、ここに住んでるの?」ミレナはきいた。
「住めたらいいんだけどね」GEは言った。その毛皮が目の上に垂れているため、終始まばたきをしている。「わたしはここに隠れているの」GEはボトルを抱きしめた。「毒を食らうのがいやなら、たぶんあなたは、これが見たいんでしょ」
GEはデスクから、厚くて広い、束ねられた紙の塊を取って渡した。その紙は触れてみると美しく、重く、クリームのような色で、縁だけが茶色だった。カバーには、大きなゴシック書体で、タイトルが印刷されていた。「Das Lied von der Erde」。〈地球の歌〉。
ミレナは楽譜を見たことがなかった。それは紙の無駄だった。繊維質は、〈党〉を培養するイースト菌とハイブロドーマの栄養分として必要なのだ。ミレナは楽譜をぱらぱらめくり、その内容に失望した。はいはい、わかったわ、ここに音符が全部載ってるわけね。
「あなた、楽譜を苦もなく読めるようね」〈南極熊〉が言った。
「ええ」ミレナは正直に言った。楽譜を読めない人間なんていないわよ。
〈熊〉は物憂げに微笑んだ。「もちろんね」小さな声で言った。そして、前に手を伸ばした。どれぐらい遠くまで手を伸ばせるのかと、ミレナは不安になった。〈熊〉はミレナの手から、そっと楽譜を取り戻した。「でも、あなたは楽譜の読み方を主体的に学んだわけじゃないわ。あなたの能力とはいえない」〈熊〉はウイスキーを口いっぱいにあおり、マウスウォッシュのように口の中をゆすいで、歯を洗った。そしてボトルを下ろし、ミレナの存在を忘れたようだった。〈熊〉は楽譜の最後のページを開けた。分厚い紙の束が片方に寄せられたため、古い背表紙がまっぷたつに裂けてしまいそうだった。GEはウイスキーを床に吐いた。そして、歌い始めた。
GEは歌の最後の部分を歌った。「──ewig blauen licht die Fernen──」
このひと、わたしの存在を忘れてるわ、とミレナは思った。
「──ewig──ewig──」
GEは電動装置よりもうまく歌っていた。その声は、温かくて力強く、美しいメゾで、澄んでいるが、何か巨大なものに後押しされているかのように、重みがあった。ミレナは目をぱちぱちさせた。GEは本当にうまく歌っている。
長い沈黙の間があった。聞こえない音楽が流れていた。それから〈Ewig〉がまた始まった。前よりも次第にソフトな音色になっていく。声はしわがれることなく、鼓動のように響いている。すばらしいテクニックだ。〈Ewig〉。先ほどの録音と違って、音が大きすぎることはなかった。GEはしばらく黙ったまま暗闇を見つめ、それから目を上げた。
「あら、ごめんなさい。ブーツなら、向こうに山のようにあるわ」GEは肩越しに親指を突き出した。ミレナは途方に暮れて暗闇の中を見た。
「あら、そうだった」〈南極熊〉は言った。「あなたたちは暗闇の中が見えないことを忘れてたわ。わたしが選んであげましょうか?」GEの声が空気のように漂った。
「とても有り難いわ」ミレナは言った。「サイズは六号。もう少しゆるくないやつがいいの」
GEは海賊ブーツを取り、すたこらとラックのほうへ歩いて行った。裸足だった。足先の毛皮が埃とウイスキーの上を滑り、床に通り道を縞模様のように残した。
ミレナは何を考えていいか分からなかった。何らかの形で侮辱を受けたような気がして、とまどっていた。自分が侮辱に値することをしたかも知れないと思い、心配になった。
GEはしばらく戻って来なかった。「ラックを動かしたのはいったい誰?」GEの小さな声が、暗闇の中から問いかけた。
ミレナは、デスクや床の上に幻影のように散らばった雑多な物を見た。本また本。手の跡がついた紙。古いコイン。これらは本物だ。ミレナが今まで見たこともない本物だ。ジェラシーの痛みを感じ始めた。ノスタルジアの痛みを。これは歴史だと思った。ヴァンパイアに見せてやろう。厚く黒い本を拾い、皺の寄ったページを開いた。そして、活字が印刷されたものではないことが分かった。黒いインクの流麗な曲線で記された書体は、手書きだった。
〈ワグナーの「指輪」を貫く(分析する)〉過剰に誇張された書体で、そう記されていた。
「縁起のいいタイトルじゃないわね」ミレナはつぶやき、徐々にその顔に軽蔑的な微笑みが浮かんだ。
それは〈ニーベルンゲンの指輪〉の説明だった。全てのキャラクターの絵が、やや素人っぽく描かれていた。全員が、名前ではなく、一連の音符によって識別されていた。最後のページにはこう書いてあった。「結論。〈ニーベルンゲンの指輪〉は、協奏曲である」金色で書かれていた。
「正しくないわ」ミレナは言った。ウイルスが教えることと違っていた。
だが、心の中の時計は、執筆者がその結論を出すのにかかった時間が膨大であったに違いないことを告げていた。
「ううっ」声が言った。洋服のラックが一つ、暗闇の中のどこかで倒れた。ミレナは急いで本を落とした。GEがブーツをもって現れた。
「そのタイトルは、とにかく、わたしらしいわ」GEは言った。
このひとは、わたしが本を読んでいるのを見ていたんだわ、と思った。そして、困惑に身を堅くした。
「わたし、本当に〈生徒のための指使い〉という題名のピアノのレッスン本があったのだと考えて、自分を慰めるわ」GEは話し続けた。「ほら、ブーツよ。試着して、サイズを確かめてみて」
ミレナはばつの悪さを感じながら、片方を履いてみた。片足でぴょんぴょん跳びながら、転んでしまいそう、と思った。頬が赤面して膨らむような気分。
「合う?」
「ええ、ええ、いいと思うわ」ミレナは答えた。本当によく分からない。またブーツを脱いだ。GEは荒っぽくげっぷをした。「ごめんなさい」そう言って、口を覆った。
「あなたは歌が上手ね」ミレナはそう言って、自分でも驚いた。ウイルスは、この〈南極熊〉がズーの誰よりも歌がうまいと告げていた。
「あら」GEは言って、肩をすくめた。「ええ、たぶんそうだと思うわ」目をぱちぱちさせた。「これを持っていけば?」
GEは黄色く分厚いマーラーの楽譜をミレナに渡した。
「これも持っていった方がいい」GEはショスタコヴィチとプロコフィエフの楽譜をばんばん叩いた。「ロシア人だということを誰にも言ってはだめよ」ロシア人はよく思われていない。
「持って行けないわ」ミレナは言った。欲しくなかった。GEは憂鬱な目でミレナを見た。
「本当よ。わたし、それを持ち出すのは禁止されていると思うから」
本当に禁止されているかどうかは知らなかった。「それは全ての人のものだと思うことになっていると思うわ」楽譜というものはとても貴重なもので、そんな風に軽軽しく他人に譲ってはいけないと知っていた。酒とラノリンの果物のような匂いがした。
「ああ」GEは言って、まばたきをした。その目は遠くを見るように焦点が定まらなかった。GEは紙の束を受け取り、低く掲げ持ち、デスクのすぐ上で揃えて、ばさっと落とした。
「あなたの名前は?」ミレナはきいた。
「名前?」〈南極熊〉はふっと笑って、微笑んだ。「ええと、思い出してみるわ。ロルファ」にやっと笑った。「うーっふっふ」
「わたしはミレナ。ミレナ・シバシュ」
「ミレナ」GEは頭を下げた。「出口を案内しましょうか?」
「ドアはロックされてるの」
「あら! わたし、鍵を持ってるわ」ロルファが答えた。「さあ、道に迷わないように、わたしの手を握って」
ロルファの手は、カーペットで丸くなった猫のように大きく、温かかった。その手は、ミレナの手のひらと前腕のほとんどを覆うほどだった。馬鹿みたいだ。ミレナの心臓はどきどきし、さよならを言おうと振り返ったときも、ただ声をうわずらせてわめいただけだった。言葉が混乱した。〈南極熊〉は微笑んだだけで、門扉を閉めた。ミレナは危機一髪で逃げ出したような気分だった。
レンガの壁に沿って歩いて戻りながら、ミレナはやっと、はるか頭上にある窓を見つけた。それは最初からそこにあったのだが、ミレナは気づかなかった。橋に窓はあったのだ。


第二章 歌の犬(〈シェル〉から抜け出す)

人々は、〈エステート〉と呼ばれるコミュニティに住んでいた。すべてのエステートが一つの経済活動に基盤を置いていたが、個々のエステートは、自らの特有の業務を担当していた。市場とクリーニング業務、配管と公道清掃業務など。広いロンドンの中で、エステートは人間らしい生活を維持するのに役立っていた。
ミレナは、俳優エステートに住んでいた。寮は、かつて石油会社のオフィスだったので、誰もが〈シェル〉と呼んでいた。それは中庭を取り囲んで建っており、まるで中庭を守る二本の巨大なコンクリートと大理石の腕のようだった。
シェルは固有のメッセンジャー・サービスを持っていた。朝と、昼食時と、夕方六時には、〈郵便夫ジェイコブ〉が必ずやってきて、何かメッセージはあるかとミレナにきいた。
ジェイコブは、小柄で骨格がよく、すばらしく人当たりのいい黒人で、この男と会うと、ミレナは退屈のあまり、不快でぞっとするような気分になる。
「おはよう、ミレナ」ジェイコブはいつも、陽気な微笑みと、死んだような疲れた目でそう言うのだ。
「おはよう、ジェイコブ」ミレナはそう答える。
「今日はご機嫌いかが?」
「とてもいいわ、ジェイコブ、ありがとう」
「天気はよくなりそうですね」
「ええ、ジェイコブ、たぶんね」
「ミレナ、何かメッセージはありますか?」
「いいえ、ないわ。ありがとう、ジェイコブ」
「では、よい一日を、ミレナ」
「あなたもね、ジェイコブ」
ジェイコブの記憶メモリは開かれていた。ジェイコブは全てを記憶し、何ひとつ忘れることが出来なかった。ドアからドアへメッセージを伝えて回り、誰かが剃刀を返して欲しがっているとか、バスが三時に出発するといったことを思い出させる。紙を節約するための一手段だ。ジェイコブはまるで、不変の一連の公式に従ってしか話せないようだった。
「こんばんは、ミレナ」
「こんばんは、ジェイコブ」
その口を大きく横に開いた微笑みは、天使を見ているかのようだ。
「今日はいい日でしたか?」
「ええ、ジェイコブ。あなたは?」
「ああ、とてもよい日でした、ミレナ、ありがとう。何かメッセージはありますか?」
記憶メモリがいっぱいになると、一種のてんかん性の発作により、完全に記憶が消去される。情報を失うことを避けるため、ジェイコブは定期的に記憶をクリアする。
ミレナが〈墓場〉を訪ねた翌日、ジェイコブがメッセージを持ってきた。めったにないことだった。ミレナが受け取るメッセージは多くはなかった。
「あなた宛のメッセージがあります、ミレナ。ミズ・パテルからです」
「だれ? ミズ・パテルって誰、ジェイコブ?」
「毛皮に覆われている女性です」
まあ。とにかく、ミレナは、ロルファのことを〈ミズだれだれ〉として考えたことはなかった。
「今日の午後、一緒に昼食でもどうですかと言っています。一時に、〈ナショナル〉の前階段の脇で待ち合わせだそうです。承諾の返事をしてもよろしいですか?」
ミレナには、なにも悪いことは考えつかなかった。最初に会ったとき、ミレナは混乱やとまどいを感じていた。ロルファはなぜわたしと、昼食を食べたいと思ったのだろう? 忙しいと言って断ろうかとも思った。
だが、それはミレナの高い行動基準に反していた。
「ミズ・パテルに伝えてちょうだい」ミレナは言った。「一時でいいって」
ミレナは、自分が何を着て行こうかと考えているのに気づいた。今は夏で、空は晴れている。肌を保つためには、日光を避ける必要があるだろう。ズボンは二本ある。白と黒。長袖ハイネックのブラウスと、白いズボンに決めた。手袋とパラソルも取った。
ミレナを見たとき、ロルファは目を細めた。「それ、使わないの?」パラソルを顎で指しながら、ロルファは言った。
ミレナはこのパラソルをかなり自慢に思っていた。キャンバス布製で、太く明るい色の縞模様、みすぼらしくもなければ、きざでもない。
「もちろん、使うわ。わたしの仕事の一つだもの」
「なんとまあ」ロルファはつぶやいた。「別に構わないわ。いらっしゃい」ロルファは振り返って、ウォータールー橋の方向にどすどす歩き始めた。青いランニング・ショーツと、とても汚い白の布靴を着けているだけだった。片方は靴底が取れかけていた。ぱたぱたと音がした。
ミレナは動かなかった。「どこへ行くの?」ときいた。
体が重そうに、GEは振り返った。「ちょっと、友達に会いに行くのよ」GEは説明した。「娯楽の宮殿に行くの」
ミレナは不安が渦巻くのを感じた。「どこ?」
「川を渡るの。パブよ。ビールは飲む?」
「いいえ」ミレナは答えた。
「あら、それは残念。たぶん、紅茶でも出してくれるわ」ロルファは振り向いて、進み始めた。ミレナは、このままここにいようかしらと思った。そして突然思った。いいえ、ロルファに怖がっていると思われたくないわ。だから、ミレナは従った。
少し、ブロントサウルスに追いつこうとしているような気分だった。ロルファの腕は、両脇にぶら下がり、両肩は丸くなり、一歩一歩の歩みは小さくのろいが、歩幅は一見大きく見えた。ミレナは日光を避けながら、話すことが何もないわと思った。今度誘われたら、忙しいと言って断ろう、と内心誓った。
ふたりは、〈フリート通り〉の廃墟の中を進んだ。そこは今、造船業者のエステートになっていて、独自の市場を持っている。
ふてぶてしい、物欲しそうな顔の子供が、焼きトウモロコシやカップいっぱいの焼き栗を突き出して来た。「おねえちゃん! おねえちゃん! ちょっと匂いだけでも嗅いでみてよ、ねえ!」その兄や姉たちが、客のために瓦礫でこじ開けた十分な長さの黒い竹の中に、ばらしたチキンの肉を入れて焼いていた。狭い店の中で家族全員が暮らしており、母親は赤ん坊をあやしたり、編物をしたりしていた。小さな男の子たちが通りの角に座り、ミシンを回して、パジャマや下着を補修していた。まだ赤ん坊の妹たちが、ミレナの袖を引いたが、ミレナは通り過ぎた。
人々は、ミレナとロルファの二人を変だと思っているようだ。滑りやすい氷の上を歩くようなミレナの歩き方や、パラソルや手袋が、予期せずミレナの恐怖や期待をあらわにしていた。ミレナを滑稽に見せていた。子供たちがくすくす笑うのが聞こえた。〈子供園〉での生活で、ミレナは他人の笑い声を残酷さの表れとして聞くようになっていた。笑い声を聞くと、闘争心が湧いてきた。
ミレナは、冷たい気後れを感じていた。パラソルが屋根の庇に触れ、小屋の上の埃が落ちた。小屋では、古い管や、埃をかぶったガラス食器を売っていた。まさしく、歴史の吸殻だ。
女店主が、手を左胸に当てて、優雅に笑った。商品はどれも古いものだから、埃をかぶっても何の問題もないわよ、という意味だった。ミレナにとって、その笑いは謎だった。ミレナはパラソルの柄の近くにまで潜り込んだ。店主は更に笑った。
笑い声は、ふたりが巨大なドーム状の卵のように西にそびえ立つセント・ポール大聖堂に着くまでの間、続いた。それからふたりは、北へ向きを替え、〈バービカン〉を過ぎ、〈娯楽の宮殿〉へ向かって歩いた。

*****

〈娯楽の宮殿〉は、〈金のレーン・エステート〉のパブだった。ミレナはいっそうナーバスになった。〈金のレーン・エステート〉は、〈煉獄(ピット)〉の下水業者のコミュニティだった。
パブは、〈スプレッド・イーグル(翼を広げた鷲)〉と呼ばれ、上の看板には、うつぶせに倒れる男の絵が描かれていた。
ミレナは、店の外のひび割れた道路の上でいびきをかいている酔っ払いをまたいで通らねばならなかった。意識は朦朧としているのに、酔っ払いたちは、毛深い胸の上を這っている小ガニを手で拾っていた。太陽によって、その肌はあざのような色に焼けていた。
中に入ると、スプレッド・イーグルは、暗く混みあっており、床は、剥き出しの割れたコンクリートだった。よだれやビールや通りの犬の糞で、つるつるしていた。店内は、汗でてかてか光る痩せこけた裸の男たちでいっぱいだった。店全体から、脇臭が漂っていた。
ダンテの〈神曲〉にそっくりだわ、とミレナは思った。
「さあ、お座りなさい、楽しいわよ」ロルファが言った。「来たわよ。オイズ! ルーシー!」ロルファは叫んで、片手で手旗信号のような合図を送った。
店の隅から耳ざわりな叫び声が聞こえて、誰かが跳び上がり、否応なく取りおさえられていた。ミレナには、その人たちの様子がよく見えなかった。窓から差し込む明かりの前のテーブルを取り囲んで、座っている。光に隠れて見えないが、何か恐ろしい雰囲気が漂っている。ミレナはその人たちの存在を心から追い出し、目をそらした。
「わたしは、ちょっとバーの人と話してくるわ」ロルファが言った。「あそこでくつろいでてね」
わたしを置いていくの! とミレナは思い、パニックになった。ロルファは優しくミレナをポンと押した。「さあ」ロルファは言った。
必死な様子で、ミレナは下水業者の人たちをかき分けて、テーブルへ向かった。病気、病気、病気、病気、ミレナの心は恐怖で鳴っていた。口を手袋をした手でふさぎ、鼻を天井に向け、息をしないようにした。周りの人の腕や脚がぬるぬるしているのを感じた。ミレナは汗びっしょりになった。バーカウンターの近くの男が、チーズをほおばりながら叫んでいた。そして、ビールのジョッキを取り、頭からかぶった。ミレナには、そのかすかに冷たいしぶきだけがかかった。その滴が床に流れ落ちて、拍手のような音を立てた。ミレナはテーブルを見つけ、椅子の縁をつかんで、座った。
「ハロー」温かい声が耳のすぐそばで言った。
ミレナは振り向いて、不自然なオレンジの巻き毛に覆われた恐ろしい頭を見た。唇は、ばりばりの赤い口紅で覆われ、口には歯が二、三本しかなく、顔は熟した果物のように柔らかくなっていた。そして、皺や割れ目に覆われていた。
「わたしの名は、ルーシーよ。でも、友達は、ルース(だらしない)と呼ぶのよ、はっはっは!」犬が吠えるような声で言った。
ミレナは周りを見回した。猫背で鉤鼻の男が、ミレナを見ようと、ルーシーのそばで身をかがめていた。筋ばった腕には、黒い斑点が浮かんでいた。その目は涙ぐんだ青で、その顔は目鼻や口の穴に向かって崩れ落ちているように見え、蜘蛛の巣のような線に覆われていた。
「ニャーン」その老人が言っ