SF百科図鑑

ベトナムの邪神マーキー Ma Qui アラン・ブレナート

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ベトナムの邪神マーキー Ma Qui アラン・ブレナート


夜になると、ヘリコプターが密林の竹薮の頭をぶんぶんうならせ、一〇〇〇メートルの上空から三〇メートル余の高度まで降下しては、旋回し、上昇し、再び旋回する。だが、着陸可能なゾーンも、救助すべき負傷者も見つからない。ローターの回転が引き起こす乱流のうなりをかき消すように、呪われた者たちの叫び声が聞こえる。ベトナム兵士たちの泣き、うめき、哀れに叫ぶ声。ウィリアム・キャッスルのホラー映画さながらだ。薄気味悪い音。ヒステリックな叫び声。テープレコーダーから出ているのが分かっていても、ヒューイ・ヘリに搭載されたスピーカーの単調なヒス音が聞こえていても、ベトコンたちは震え上がらずにはいられない。<さまよえる魂>とそれは呼ばれる──死んだベトコンの声。その遺体はしかるべき埋葬をされず、その魂は救いもなく地上をさまよう。心理戦。<内なる聖所>がベトナムを迎えうつ。トンネルの中で、ベトナム人はそれを聴く。ペテンだと知りながら。眠りたくとも眠れない。その忌わしい声は夜の半ばまで続く。泣き声が大きくなるとともに、ヘリが高度を下げ、ふたたび上昇し去っていく。その無気味な余韻は、次のヘリが<魂の箱>を積んでやってくるまでの間、つづく。
ひどすぎる。
こんなはずではなかったのに。
おれは、ヘリの最後の一群が機体を傾けて、南方に向きを変えるのを見つめる。しばらくのあいだ、密林は再び静まり返る。周囲の地面は焼けこげ、迫撃砲によって陥没したクレーターだ。焼けた地面の埃の薄明かりが取り巻き、草木は砲弾で焼かれている。クレーターがおれのベッド、寝台、家だ。そこでおれは眠る──もしそれを眠りと呼ぶならだが──そして、ダナン、カムベ、タンキットへ帰る道を探して小道を歩くのに疲れると、必ずここに戻ってくるのだ。この地面から切り離された場所だけが、数マイル四方で唯一のベトナムらしくない場所だから。密林でもなく、泥河でもなく、糞を縫った踏み抜き式の槍でもない。醜く、不毛で、忌々しい月面のような外観だ。だがそれは、仲間が作ったものだ。この蒸し暑く腐りきった土地にアメリカ人が残した、唯一の存在証明。おれはそこで眠り、心安らぐ。
おれはここから遠くないところで殺害された。ソンカイ川沿岸の広場で。おれたちの部隊は膠着を余儀なくされ、援軍はいつまでたっても到着しない。おれたちは死傷者回収ヘリに救助してもらうため、着陸可能エリアへと先を争って進んだ。注意散漫なやつもいた。マルチネスは草むらの仕掛け線に気づかず、股間に<バウンシングベティ>という対人地雷を食らった。着陸エリアへ連れていく前に、マルチネスは死んだ。ダンバーは、踏みぬき式の<熊罠>を踏んでしまった。木製クロコダイルの顎のような二枚のスパイク付きの板が、ダンバーの左脚に噛みついた。プロサーとデポールはダンバーの体を引っ張り上げようとしたようだが、おれが振り向いて見ると、罠の近くでダンバーを助けようとして銃弾の餌食になったふたりの体が見えた。敵はダンバーの命を奪わず、ダンバーは助けを求めて絶叫した。二枚の踏み抜き板の間を血が滴り落ちた。おれは駆け戻りながら、木立に向かってM一六を無差別に乱射した。おれがダンバーを助けるまでの間、敵の狙撃兵が銃撃してこないようにと願いながら──
やつらはダンバーから数メートルの地点でおれを狙い撃ちした。銃弾がおれの胸部に五、六発の穴を開け、ほとんどぐちゃぐちゃにした。おれは泣き叫びながら倒れる自分の体を見ていた。地面にぶつかる間際に、エレファント・グラスの鋭く尖った葉がカミソリのごとく顔面を切るのが見えた。血が勢いよく上にほとばしった。赤い雲が一瞬全身を覆ったように見えた。その後、血は、あたりの草地に飛び散り、一瞬にせものの泉のように見える──赤い滴。
数分後、ダンバーは死んだ。西の空ではヘリの遠い雷音が木立の上を揺るがしている。おれはその場に立ったまま、足下の死体を見つめ、なぜかそれが他人の死体であり、流れているのも他人の血のような気がしていた。そして振り返り、ヘリに向かって駆けだした。足がほとんど地面に触れないのにも気づかず、自分の体がまるで乱れた風のように、仕掛け線を通り抜けていくのも見ていなかった。
前方で死傷者回収ヘリの衛生兵が負傷者を二機のヒューイコブラに引きずり入れている。おれの部隊の大半が負傷している。シルヴァーマンがヘリに乗せられるのが見える。エステバンが血まみれのちぎれた腕で衛生兵を引っ掻く。まだそれが腕だと信じているように。おれは走って加わろうとする。だが全員が乗ると、巨大なチヌック・ヘリは上昇し始める。「待ってくれ!」おれは叫ぶが、ヘリのプロペラの音にかき消されて聞こえないようだ。「こんちくしょう、待てと言ってるだろうが!」
ヘリは減速しない。止まらない。おれを無視して上昇し続ける。おれを捨てて。くそったれ、あいつら何をやってる? こんちくしょう、戻ってきやがれ──
プロペラの強く湿った風が草を叩くのを見て──鋼鉄のトンボが上昇するにつれ、その風圧に木々がたわむのを見て──初めておれは、顔に風を感じないのを悟る。空き地の中央の小さな嵐の中に、平気で立っていられるのだ。おれは振り返る。濃いジャングルの木々の向こう遠くから、迫撃砲が発射される。藪の中の標的に命中するものもある。当たらないものは予期せぬ方向をさまよって爆発し、おれたちの姿を照らし出す。弾が当たる前後に、ベトコンの叫び声が聞こえる。ベトコンは林から走り出す。燃えているやつ。びっこのやつ。別の砲撃で脚をやられるだけなのに。既におれは真相を悟っていた。おれはぼんやりしたまま、木立にさまよい戻っていたのだ。幾重もの炎を通りながら、日焼けほどの感覚もない。足下で地面が揺れるのが見えるのに、おれの歩調は揺れない。地震の時の酔っ払いに関する古いジョークのようだ。
ついに迫撃砲の砲撃がやむ。空き地は焼けただれ、誰もいない。死体──ベトナム人及びアメリカ人──があらゆる方向に黒焦げで散らばっている。おれはその間を歩いてゆく。煙がおれの体を通りぬける。埃が雲を通りぬけるように──そして今、おれには他の幽霊が見える。自らの死体の残骸の上に立った人影が。幽霊は薄いガスのようだ。上空を通るヘリからの風によって、固体としての外観が脅かされる。
プロサーが自分のずたずたの死体を見下ろし言う。「くそっ」
ダンバーも同意する。「最低だ」
「なあ、こんなことが起こると思ってたよ、おれは」マルチネスが主張する。「おれはダーナンに行ったからな。これは何かの業、カルマじゃないか?」
おれは、マルチネスと形而上学を議論するのは遠慮しようと自分に言い聞かせる。役に立つ展望が得られない。
「で、何が起こったんだ?」おれはきいた。
「たぶん、天国だろ」ダンバーが肩をすくめる。
「それか地獄」とマルチネス。元は楽天家だったのに。
「ああ、でもいつ?」
「いつでもいいさ」一一時のバスを待っているような口調でプロサーが言う。そして自分たちの死体を見下ろし、顔をしかめる。「つまり、おれたちは死んだんだな?」
おれはダンバーのつぶれた脚を見る。マルチネスの手脚を切断された胴体を見る。そして──
「おい、コリンズ。きみはどこにいるんだ?」
おれの死体はダンバーの死体から一、二メートルしか離れていないはずだったが、見当たらなかった。はじめは、おれを倒した五、六発の弾丸がその勢いでおれの体をはじき飛ばしたのだと思った。だが四方八方を探しても、十メートル四方のどこにもおれの死体はなかった。そしてダンバーの死体のそばに戻ったとき、おれが倒れたところのエレファント・グラスが乱れており──渇きかけの流血が草の先端を色づけているのが分かった。おれはしゃがみこみ、初めておれの倒れていた場所から一メートルそこらの長さにわたって、草の乱れがジグザグに続いている部分があることに気づいた。
「ちくしょうめ」おれは言う。「あいつら、おれを連れて行ったんだ」
「何だって?」とマルチネス。「ベトコンか?」
「あいつらはおれを一メートルほど引きずったんだ」──おれは草の乱れた跡が途切れている場所を指差した──「二人がかりでおれを引き上げ、連れ去った」
「誰も見えなかったがなあ」とダンバーが言う。
「きみは他のことに気を取られてたんだよ」とおれが指摘する。
プロサーは辺りを調べ回り、額にしわを寄せた。「デポールもいなくなったな。あいつはおれの隣に来ていた──川の近くだったよ。水音が聞こえたのを覚えてる──だがあいつはいなくなってしまった」
「たぶん、デポールは、怪我をしただけだったんだよ」おれは言った。少なくともそう願った。数ヶ月前、デポールはおれを引っ張って助けてくれた。おかげでおれは罠を踏まずにすんだ。その罠は小道の枯草の跡のように見えたが、実は──そのてっぺんに岩を投げて分かったのだが──<揺れる人の罠>だった。歯のついたシーソーのようなものだ。デポールがいなければ、おれは罠にはまって<揺れる人>になり、表面につきだした十いくつもの錆びた歯に傷つけられていただろう。デポールはおれに数ヶ月の余分な命をくれたのだ。たぶんおれが前に駆け出し、木立に銃撃していれば、同じようにデポールを助けられただろう。デポールが逃げるまで狙撃兵の注意を逸らせただろう。
「なあ、聞こえるか」ダンバーは言う。「ヘリだよ」
汚れた外観の回収クルーが、突然すばやく現れた。できる限り遺体を収容するために。少なくとも当面は、この区域を確保している。二人の機関士が、踏みぬき式の<熊罠>からダンバーのつぶれた脚をてこの原理で解放し、その体を遺体袋に入れる。ジッパーが遺体の唇に引っ掛かり、機関士は苦労して外さねばならなかった。ダンバーは怒った。
「自分のやってることぐらい見てろ、ボケナスども!」ダンパーはクルーに怒鳴った。そしておれのほうを向いた。「こんなやつら、信じられるか?」
他の二人の機関士が、マルチネスの遺体から遠くない場所にある、まだ爆発していない<地雷罠>を勢いよく取り外し、哀れな男の残骸を拾い上げ──胴体を一つの袋に、脚を別の袋に入れ──ジッパーを閉じる。マルチネスはクルーが遺体をヘリに積み込むのを見ている。そしておれを振り返る。
「コリンズ。どう思う? おれは──」
おれは振り向く。だがそちらを向くと、マルチネスはすでにいなくなっている。
「マルチネス?」
ダンバーの遺体がヒューイに上げられ、乾いたセメントの袋のように床を打つ。すると突然、おれの横に現れた真空を満たそうとして、空気が流れ込むのが感じられるような気がする。
見回すと、ダンバーも消えている。
「ダンバー!」
ヒューイは離陸する。周囲の木々の枝がぶるぶる震える。怒った恋人たちが暴力的な求婚者を追い払うように。そして、おれはひとり。


*****


信じてもらわなくても構わないが、おれは志願兵だった。その当時はナイス・アイディアに思えたのだ。デトロイトの中の下の家庭にとって、子供一人を大学にやるのだけでも大変で、二人ともなるとなおさらだ。姉がアナーバーにいるとあっては、当分就学による徴兵猶予は望み薄だとおれは思った。そこで、徴兵オフィスで流される説明を鵜呑みにしてしまったわけだ。ベトナムでの実際の仕事は、橋の建設、小屋の建設、ベトナム人の支援だ、といった類の説明を。まるで平和部隊のような言い草だった、ちょっとねちっこいだけの。
おれの親父は建築現場の監督だった。おれは生まれてこの方、建築現場の周りで育ってきた──その音が好きだった。触感が。材木や塗りたてのセメントの匂いが。プラスターボードの上に置く前のフレームの外観が──おれは立ったまま眺めた。大桁や横梁。木や鉄の骨組。八歳のおれの心には恐竜の骨のように見えた。そしておれは思った。ここに住む連中は、自分の家の中身が本当はどう見えるかを絶対に見ることも知ることもない。でもおれは知ってるんだと。
だから、ホームレスに家を建ててやったり、牛が渡れる橋をかけてやったりするという考えはナイスに思えた。もっとも、ベトナムに着いて八ヵ月後までに、おれが見た橋のほとんどは米軍の空襲で破壊されたし、おれが見た中で小屋の建設にいちばん近かった仕事は、たまたまモンスーンを逃れてダナンで立ち往生させられた酒場の屋根の修理の手伝いだったが。
あらゆる点を考慮しても、従軍志願は、以前のような優良株への投資には見えなくなっている。今となっては。
最初の数日、おれはクレーターの近くにとどまっていた。一日で行って戻って来られる範囲を歩きまわった。帰り道を探しながら──だが数キロと見積もっていた距離よりも実際の帰り道は遠いことをおれは知っていた。しかも、道路にははっきりとした標識がなかった。おれはそこにとどまることをやめようと思った。もしそこにとどまるなら、おれは自分のちっぽけな地獄から勇気を出して抜け出すことは永遠にないだろうから。最寄りの米軍基地がここからどちらの方角にあるのかは分からなかった。だが、前日通りすぎた小さな村は覚えていた。小屋のそばに赤十字のジープがとまっているのを見た記憶がある。カトリック救援団体のフランス人医師が村人の治療に当たっていた。たぶん、また現れるだろう。車に乗せてもらえばいい──そこで再び問題が明らかになる──どこへ? いったいどうする、相手方への道案内を頼むのか? 運がよければわが軍がまだ管理しているだろうが。
(今やそれは恐るべき考えだった。恐ろしいほどありうることだ。何もかも軍の計画としては完全に失敗だ。やり方に何か致命的な見落としがあったのだろうか?)
おれはみんなが死んだ場所への経路を戻る。だが今度は、ふだん通りのジャングルの音だ──竹薮の蛇か虎としか思えない、草藪のかさこそいう音──そして、別の音が聞こえる。ヘリが<魂の箱>を暇つぶしに鳴らす音。
泣き声が聞こえる。
うめき声ではない。嘆きの声ではない。ロジャー・コーマンやヴィンセント・プライスの出来損ないではない。大人の男の抑えきれない、慰めきれない泣き声──あらゆる方角から、同時に。そしてゆっくりと見える。ベトコン。黒いシルクのパジャマは血がかかっている。ベトナム・ネイティヴが座るような奇妙な座り方で茂みにうずくまり──地面に腰をつけることなくしゃがんでいる──そして、泣いている。おれは茫然と立ち止まる。ネイティブのベトナム人が泣くのを見たことはない。怖がるのを見たことはある、恐れるのを見たことはある、だが泣くのを見たことはない。ベトナム人がいかにおれたちアメリカ人と違っているか、いかにやつらが感情を欠いているかについての戯言は、馬鹿げているとおれは知っている。やつらも感情はある。ただそれをおれたちのように表現しないだけなのだ。だがやつらがおれたちをてこずらせているのは間違いない。たぶん、自分がベトコンとして死んだら、泣いてもかまわないのだ。きっとそうすべきなんだろう。おれは進む。
そして道をたどりながら、曲がりくねったソンカイ川に沿って南に進んでいると、実際おれは、まだ死んでいないのではないかと思い始めていた。けっきょく、おれは生きているのかもしれないぞ。
たぶん、おれを倒した銃弾は、おれを傷つけただけだったのだ、と思った。あのベトコンがおれの体を持ち去ったのは、おれから情報を得るためだったのだ。あとで。考えれば考えるほど、合理的に思える。ベトコンどもは、おれを連れ去り、手当てして生き返らせ、あとで拷問するつもりなのだ。(このいかれた国では、それこそが何よりも論理的な感じがする。)そしてその途中で、おれの魂だけが生き霊として肉体を離れたのだ。本体から振り離された影のように取り残されたのだ。周囲の泣き声に耳を傾ける──悲しみ悼む声ならばいいのにと思う。おれならばもっとたやすくそんな声で泣ける──そして、おれはそうはしないぞ、死んでないんだから、と結論付ける。
前方で通り道が少し広がって広場になっている。真ん中には、巨人の巣箱のようなものがある。実際箱というよりは竹の小屋に近い。巨大な木の切り株の上にある。ベトナム中にこれと似た<魂の家>がある。亡くなった親族の幸せを願って建てる小さな家。あるいは、ほうっておくと不幸な村人を襲いかねない、虐げられた魂のために建てる家。軍はおれたちがここにつく前に、この地方の習慣や迷信を説明した──これと似たような。絶対ベトナム人の頭に触れてはいけない。そこには魂が宿るとされているから。脚を組んで座り、爪先をベトナム人の頭に向けてもいけない。それは最大の侮辱。そういった戯言。一部の東洋人は、男の赤ん坊に女性器の名前をつける。そうやって、邪悪な精霊にその子が女の子だと思いこませようとするのだ。男の子は貴重で守るべきだから。なんてこった。
だからおれは<魂の家>を知っていた。先日ここを通ったとき、おれは思ったんだ、<おや、こいつは一二歳のころおれがじいちゃんの家の庭に建てた小屋よりも、きれいで上等じゃん>、そして歩き続けた。
今日は、おれは立ち止まった。そして小屋を見た。
今日は、中に人がいた。
一人は年配のパパさんで、もう一人は若い女だ。たぶん、二八、九。二人はジョスの枝を焼いている。強い風に乗って、甘い香りが漂う。その周りに蝋燭が見える。小さな手作りの家具。そして二、三冊の本。おれはまた歩き出す。もっとゆっくり。小屋から二メートルほどのところに来たとき、パパさんがおれを見た。軽く驚いて目をぱちぱちさせた。それから微笑んで、胸の前で片手の<合掌>をした──挨拶と尊敬の伝統的儀礼だ。もう片手は、シルクの袖の下で曲がっているのに気づいた。まるで骨折したか、あるいはそれよりもひどい状態のようだ。
「ようこそ、旅人よ」男は言った。ベトナム語でしゃべっているのに、なぜかおれには意味が分かった。
「あー──こんにちは」おれは言った。こちらが英語で喋っても通じるのだろうかと思いつつ。明らかに通じたようだ。男はまた微笑んだ。女性の連れを指差しながら。
「わたしは、ファン・ヴァン・デュク。こちらは娘のチャウ」
女は振り返り、おれを睨んだ。一般的には可愛いといえるが、その顔に浮かぶ冷笑をやり過ごすのは困難だ。顔に染みついて微動だにせず、まるで刺青で彫り込まれたかのようだ。女の怒りが自分に向けられたものなのかどうか判然とせず、おれは無視することにして、老人を見た。
「おれの名は、ウィリアム・アンソニー・コリンズです」おれは言った。この地方で名前を三つ持つことが必要だという確信はなかったが、別に問題でもあるまいと思った。
「隠れ家を提供しようか?」ファンは親切に言った。娘は睨んだ。
小屋は二人分でも十分といえる広さはなかった。それにおれはチャウのすぐ近くにいたい気もしなかった。おれは断ったが、とにかく礼を言った。
「死んでから長いのかね?」突然パパさんはきいた。おれはびくっとした。
「おれは死んでません」頑固に言い張った。
老人は気違いを見るようにおれを見た。娘があつかましくあざ笑った。
おれは起こったことを、というよりも自分に起こったと思っていることを説明した。そして、ベトコンがおれの体を持ち去ったかどうかを調べるために、川下の村へ向かっていたことも。ファンは、おれの話を聞く間、悲しげで賢そうな目でおれを見ていた。おれが話し終わると、一回うなずいた──おれの理論に対する信頼というよりも、礼儀としてそうしたのだと思った。
「きみの言うことは本当かも知れん」ファンは深く考えていた。「そんな話は聞いたことはないがね。だが、わたしが思うに、ベトコンは捕虜をすぐ見つかる村に連れていくよりも、トンネル基地のどこかに連れていくと思うね」
ベトコンは大抵の基地の下に、何百というトンネルを掘っている。蜘蛛の巣のようなバラック、地下指令室、地下病院。極めて広大で迷宮のようだ。おれたちはやっとその全貌を理解し始めたに過ぎない。おれがそこに捕虜を入れて再び発見できる可能性は、三冠レース、ワールドシリーズ、スーパーボウルを同一年度で全部的中させるのと同じぐらい低い。
「もしそうなら、おれは待つつもりです」あまり考えたくはなかったが、おれは言った。「自分の──体が──死ぬまで。そうしたらおれも消える」
パパさんは半ば哀れむような、半ばとまどったよう目で見た。まるでおれが空は緑で月は米だと言ったみたいに。そう考えると、たぶん東洋人は本気で月は米で出来ていると考えているのだろう。
「あなたは?」おれは話題を変えようとして言った。「なぜここに──いるんです?」
ファンは苦痛や悲しみをそぶりにも出さずに答えた。
「わたしは虎に襲われて、出血多量で死んだ」あっさりと言った。それがすべてを説明しているというように。おれの唖然とした顔を見て、ファンは根気強く説明した。「暴力的な死によって、わたしは次の世界に入るのを拒否されたんだ」
おれはまばたきした。理屈が分からない。
「虎に襲われたのは、あなたのせいじゃないのに」困惑しておれは言った。
おれがファンの言葉にとまどったように、ファンもおれの言葉にとまどっているようだった。「失敗が誰にあるかなんてどうでもいいんだよ。結果がすべてだ」ファンは肩をすくめた。
おれはあまり追及しないことにした。ファンとマルチネスだったら話が合っただろう。「娘さんは?」
ファンは横目で娘を見た。娘は陰険におれをにらみ、床の縁に手をかけて小屋の中へよじ登りながら言った。話す内容の辛辣さと同じように、ベトナム語の子音も鋭く耳ざわりに響いた。
「あたしは子供がないまま死んだの」娘はおれに怒鳴るように言った。「それがききたいの? 嬉しい? 子供がないまま、無価値で死んだのよ。そのせいで罪に問われた」
「狂ってる」おれは思わず言った。
娘ははかなく笑った。「あんたも狂ってるわよ。<マー・キー>のくせに、自分は生きてると思ってる。哀れね」
「いいや」パパさんは優しく言った。「おまえが哀れんでるのはおまえ自身だよ。他の誰もおまえは哀れまない」
娘はファンを睨み、鼻の穴をぴくぴくさせ、また短く笑った。「正しいわ。あたしは誰も哀れまない。何であんたとここにいるのかも分かんないわ。やりたいこと、何でもできるのに。村にまた病気をはやらせて、前の友達の子供を死なせることもできる。ええ、是非やってみたい」娘は邪悪に笑った。邪悪なことを考えることで慰めを得ているかのように。
「おまえはそんなことはしない」ファンは警告した。「わたしはおまえの父親だ。そんなことはさせん」
娘は息を吐きながら小さく罵り、小屋の奥に引っ込んだ。パパさんは振り向いておれを悲しく見た。
「今の状態だけで娘を判断せんでくれ」穏やかにファンは言った。「死神は思うがままにわれわれを変えてしまうんだ」
何たることだ。この人たちは本気で信じているんだ。だからこそ、こんなふうになったんだろう、と思った。でも、おれは違う。まっぴらご免だ。おれは違う。
おれは後ずさった。「おれ、行かないと」
「待ちなさい」ファンは言った。おれは止まった。なぜだかよくわからない。ファンは身を乗り出した。何か大事なことをおれと共有するように。「もし村に行くのなら──気をつけるんだ。家の正面玄関から入ってはいけない。生者たちは、ドアの脇に鏡を置いて、入ってくるやつの姿が映るようにしてるんだ。精霊が自分の姿を見て、怯えて逃げ出すようにな。それと、入口に赤い紙が並べてあったら、近寄るな。<玄関の神>を怒らせてしまうから。わかったか?」
おれは麻痺したようにうなずき、アドバイスに礼を言い、とっとと逃げ出した。


*****


おれは小道を急いで進み、黒いシルクを着たまま泣いているゲリラたちを通りすぎた。迫撃砲の砲撃のような平凡で暴力的な出来事に恋い焦がれるどす黒い感情が突然起こった。懐かしかった。武装ヘリの音が。迎撃弾の炎のまぶしい光が。ちいさな火器のぱちぱちいう音が。殺す標的を探して旋回する巨大なチヌック・ヘリの号音が。ちくしょうめ。ここは東洋人どもの地獄だ。おれの居場所じゃない。おれはその一部にはならない。やつらの馬鹿げた迷信的な戯言には絶対屈しないぞ。周囲の泣き声は次第に高まる。おれはとうとう走り出す。幽霊の手脚は、難なくトリップワイヤーや踏みぬき罠を通り抜ける。ソンカイ川の土手に沿って走るときにも、エレファント・グラスはふくらはぎをくすぐりすらしない──
泣き声が変わった。違うものになった。もっと深いもの。ベトナム人の泣き声ではないとすぐに分かった。突然、それがアメリカ人の泣き声であると悟り、気分が悪くなった。
おれは立ち止まった。見回した。茂みの中に倒れているけが人は見えない。だが、声は聞こえる。「──イエス様、マリア様、ヨゼフ様、お助けください──」
おおキリストよ、とおれは思った。
デポールだ。
おれは見上げた。デポールは泥河の一メートル五十センチほど上空を漂っていた。破れた風船のように。大きな二メートル近い体は、ほとんど気体のように見え、黒い肌は何となく青白い。両手で顔を覆い、泣き、祈り、罵り、また泣いている。はじめは上流に流れていると思ったが、下を流れる川のせいで目の錯覚を起こしていたとすぐに分かった。デポールは前後にかすかに揺れているが、全く動かず、完全に一定の位置にいた。
我に帰るのに少し時間がかかった。おれは川の流れる音の中で、声を張り上げてデポールの名を呼んだ。
デポールは驚いて見た。
おれを見たとき──おれが見ているのを見たとき──デポールの顔は許しを得たかのようにぱっと明るくなった。「おお、イエス様」聞き取れないほど小さな声で言った。「コリンズか? 本物なのか?」
「間違いなく本物だよ」
「生きてるのか?」
おれはその質問を避けた。「いったい何が起こったんだ? プロサーはきみが横にいたと言っていた。でも、きみの体は──」
「ベトナム人に後ろから撃たれたんだ」デポールの襟首の肌に開いた穴が見えた。それに対応する穴が、前方の鎖骨のすぐ下に見えた。そこから弾丸が飛びだしたのだ。「おれは息ができなかった。考えることもできなかった。とにかく起きあがって走った──でも方向が違った。川に落ちた。ああ、ビル、あれはひどかったよ。おれは窒息し、溺れた。次におれが気づいたのは──」反射的にその手が喉の傷口を覆った。「──自分の体が下流に浮かんでることだった。それから岩に引っ掛かった。ほら、あそこだよ」
おれはデポールの視線を追った。デポールの体は、二つの岩の間に挟まり、その周りを水が流れ、白い泡をたてている。おれは、川の上に浮かんでいるデポールを振り返り、一歩前に出た。
「ああ、デポール」おれは穏やかな声で言った。「どうすれば──いや、何をすれば──」
「おれは降りられないんだ」デポールは言った。初めてその声に苦痛の響きを聞いた。「おれはここに二、三日いる。痛い。痛いんだよ! 浮いてる感じじゃない。水を踏んでる感じだ。体中の筋肉が痛む──もううんざりだ、おれは──」すすり泣き始める。こんなデポールは見たことがない。デポールは目をそらして涙を流し、目を見開いておれを見た。「助けてくれよ、コリンズ」静かに言った。「助けてくれ」
「教えて欲しい」おれはどうしようもない恐怖を感じながら言った。「なぜ──なぜきみは、こんなふうになってるんだ? 何かわかるか?」
「ああ。ああ、分かってる」空気を激しく吸いながら、デポールは言った。「それは──おれが水中で死んだからだろ? 水中で死ねば、次のやつが見つかるまで水に魂が縛りつけられる。つまり──」
「なんだって? デポール、いったいどこでそんな戯言を?」
「他の幽霊さ。ベトコンの。頭を半分ふっ飛ばされ、川をぷかぷかさまよっていた。そいつが教えてくれたんだ」
「そんな戯言を信じたのか?」おれは怒鳴りつけた。「ここの東洋人どもは信じてるが、きみは信じる必要はない──アメリカ人だろ? たのむよ!」
「コリンズ──」
「きみが信じたから、そうなったんだ。信じるのをやめれば、終わる。ただそれだけで──」
デポールの目が絶望に沈んだ。「たのむよ。助けてくれ」
おれがどう考えようが、重要なのはただ一つ。前にデポールはおれの命を救った。デポールにもう救う命はなくても、少なくともおれは、痛みを和らげてやることはできる。やってみなければ。
「いいよ」おれは言った。「おれに何ができる?」
デポールはためらった。
「子供をくれ」静かにデポールは言った。
「なぜだ?」
またためらう。そして、気持ちを奮い起こすように、デポールは言った。「おれを解放するためだ。命で命をあがなう」
おれは目を見開いた。「何だって?」
「それしかないんだ」デポールは早口で言う。「水中で死んだら、自由になる方法はただ一つ──溺れさせることだ──子供を、生贄として」話しながらもその目は曇り、その視線は気後れし、陰りを帯びていた。一分もの長い間、デポールの死体でできたダムを流れすぎる水の音と、風が運ぶ遠くの泣き声だけが聞こえた。
とうとうわたしは言った。「そんなことはできない」
「ビル──」
「たとえそれを信じるとしても──よりによって信じるとしても──おれにはできない──」
「健康な子供でなくていい」デポールが遮った。その声に必死さと懇願がこもっている。「病気の子でいい。とにかく、死にそうなやつだ。どうせ東洋人の子供たちは半分が幼くして死んでしまうけどな、まだ──」
「気でも狂ったのか?」おれは叱りつけるように言った。「東洋人だろうがそうでなかろうが、おれにはできない──」
おれは言葉を止めた。自分の言ったことをよく考えてみる。
デポールの顔は灰のような色だ。苦しんでいる。「コリンズ──たのむ。ひどく痛むんだ──」
おれはこの戯言を信じ始めていた。デポールのように。誰かがデポールの頭に東洋人の迷信を吹き込んだ。それによって今、ポールは生きて──あるいは死んで──いる。そういうことだろう? 人は死ねば、自分の望むものが得られる。カトリックなら、天国か地獄。無神論者なら、たぶん何もない、非在、意識の喪失。東洋人は──これだ。おれたちはここに長い間いすぎた。やつらの糞ったれな国に膝まで浸かりきった。やつらの信じることを信じ始めているのだ。
だが、おれの知るデポールは子供を殺すなんて考えられないやつだった。自分が助かるためであっても。デポールにこの馬鹿げた考えを捨てさせる唯一の方法は、そのことを思い出させることだ。
おれは一分もの間待ち、考え、計画を立て、ついに言った。
「病気の子供?」おれは注意深くきいた。本当に信じているかのように。
デポールは期待に顔を上げた。「とにかく死にそうなやつだよ。見たことあるだろ、わかるはずだ、目を見れば分かる──」
「生き延びそうな子は連れて来ないさ」
「いや、いや、そこまででなくていい。病気の子ならいいんだ。本物の病気の子」何とも悲しげな口調だ。
どれぐらいかかるか分からないと、デポールには言っておいた。だが数日前に通った村に行き、見当をつけてみると。できるだけ早く戻ると約束した。
「急いでくれ、急いで」また茂みに戻る前に最後にきいたのはその言葉だった。デポールはそれを信じたのだ。今おれがやらねばならないのは、別のこと──もっと大事なことを信じさせ、デポールからその迷信を取り去ることだ。


*****


村は道路を二時間行ったところにあった。赤十字のジープは見えない。アスピリンや抗生物質を配るカトリック救援団体の医師もいない。みすぼらしい小さな小屋、たぶんチフス菌がうようよいる泥の水たまりを走りまわる半裸の子供、ソンカイ川の小さな支流で洗濯をする疲れた顔の女。町の縁に巨大なクレーターがある──迫撃砲が来るのは手遅れで、おれもダンバーもでポールも助からなかった。近くの屋根は焦げている。少なくとも二つの小屋が全焼だ。友軍による被爆。もう友軍はおらず、村の半分はおれを個人的に歓迎するだろう。おれはメインロードを歩き、窓の中を覗いた。本当らしく見せかけるには、本当に病気の子供を連れて行かねば。具体的に何をするかは見当がつかないが。
ある小屋の外で、おれは泣き叫ぶ赤子をなだめる母親の声を聞いた。中に入ってみることにした。パパさんが予告していた通り、玄関には赤い紙の悪魔除けが並べられていた。おれは入口をくぐり抜けた。くだらない戯言だ。上に<玄関の神>がいるなんて。おれは振り向いた──
そして絶叫した。
すぐ中に置いてある鏡の中に、胸に脚の太さほどの穴の開いた男が見えた。傷の縁はカリカリに焦げている。穴の中はタルタルステーキのように赤い生焼けだ。二つの肺が、いちばん細い肉ひだの間からぶら下がっている。反射的におれは跳びすさり、よろめく。肺の横に、六つの鉤裂きの傷のある心臓が頑固に生きているふりをしながら鼓動している。
そして、鏡の中のおれの背後に、何か別のものが見える。影、赤い影、玄関の上の紙のように赤い──おれが動いてもそいつは動かないが、ぼんやりと素早く、おれの後ろに浮かび上がってくる。
おれは走った。
家を出て、通りを走り、小屋のあるところから離れ、とうとうエレファント・グラスの草原に倒れた。はじめは自分を見下ろすのが怖かった。だがいざ見てみると、何も見えなかった──つまり、今まで見ていたのと全く同じものが見えた。血に濡れてくすんだグリーンのカモフラージュ服だけだ。おれはずっと他人の傷ばかり見て、自分の傷を見ていなかったのだと気づいた。今までは。
おれはそこに座り、知恵と勇気をかき集め、別の小屋に入る気持ちを奮い起こした。鏡については考えないことにした。そこで見たものについては。自分をこんな風に考えてみるといい。自分の中のある部分が、自分に自分の姿を見せたがっているのだと。ついに起き上がり、おれはまた小屋の集落に向かった。そして、家々の玄関を無難にやり過ごした。
いつものように病気の子供が群がっている──大半はマラリアだが、外観から判断すると、二、三人はチフスや、インフルエンザや、寄生虫性の赤痢も混じっている。おれは身の毛がよだちながらも、どの子を連れ去るか選ぶことにした。これは単なる策略で、デポールをショックで正気に返らせるための手段だと知りながら。<とにかくやり遂げるんだ>ある窓を覗くと、二歳ぐらいの女の子らしき子が見えた──古いパラシュートのナイロンで作った服。一方の小さな耳たぶから不釣り合いに大きなイヤリング──母親が洗っている。母親が子供を裏返したとき、見覚えのある小さく茶色いペニスが見えた。母親は病気の男の子を女の子に見せかけて、悪魔を欺こうとしているのだ。連れ去る価値がないと思わせるために。
ああ、とおれは思った。この土地の女たちについてはいろいろと言われている。だが要するに、この子はひどい病気なのだろう。おれがこの子──男にしろ女にしろ──を使って、デポールを正気に返らせたあと、もよりの避難所に連れていけばよい──市民棟の戸口にこの子を降ろし、村の名を書いたメモを置けばいい。
おれにメモを書ければだが。
そもそもこの子を持てればだが。
おれは深呼吸をし、母親が部屋を出ると、小屋の壁を通りぬけた。トリップワイヤーを通り抜けるほどにも竹が触れるのを感じなかった。おれは赤ん坊の上に立ち、手が赤ん坊を通りぬけるのではないかと心配になった──それからゆっくり手を伸ばして拾い上げようとした。
おれは赤ん坊に触れた。どうやってか、なぜかはわからないが、おれは触れられたのだ。
おれは男の子を腕で拾い上げ、胸に抱えた。赤ん坊は老いた悲しげな目で見上げた。この地方の子供はみんなこんな目つきをする。疲れて元気のない、何かを知り尽くしたような目。周囲のすべての悲惨な状況、内乱、外国の侵略──フランス人、日本人からアメリカ人に至るまで──そのすべてを生まれる前から知っているかのように。戦争のゆりかごにゆられて、この子らは目覚め、驚きもせず、雷鳴の子守唄を聴くのだ。
おれは赤ん坊が窓をくぐるように手を持ち上げながら、壁を通り抜けた。建物を出たとき、おれは子供を持ち上げて腕に抱き、誰も見えない茂みの中へ逃げ込んだ。


*****


おれはメインロードからなるだけ遠いところを通った。誰かに見られるとまずいから。おれではなく、この子が。自分がたぶん見えないだろうことは分かっている。(もし誰かに見られたら、どんな風に見えるだろうか? 風に子供が運ばれている? 空気の中のしみのような影に子供が包まれている? わからないし、知りたくもない。)ときどきおれは、死んだベトコンがうずくまって見上げるのを見た。川べりの土手や、ゴムの木の陰で。時に興味深そうに、あるいは怒って、あるいは怯えて、おれを見るのだ。だが何も言わない。ただ見て、やがてもとのように嘆きの泣き声を上げ始める。おれは急いで通りすぎる。
デポールから八〇〇メートル辺りの地点に着き、おれはまだ生きているベトコンの部隊を見た。十メートルほどジャングルの中だ。意識を失ったアメリカ人の兵士を運んでいる。たぶんLRRPだろう。おれはすぐに藪の中にしゃがみ、できるだけ子供を隠し、刺のある草の葉から守るために、毛布の布を顔にかけてやった。ベトコンの一人がかがんで、乾いた土くれのようなものに手を伸ばすのが見えた。その指が何らかの取ってを探り当て、土が上がり、地面の中の隠し扉だということが分かった──薄い目隠しの土の層に覆われた木製の扉。ベトコンが一人一人トンネルに頭から入っていく。あと二人だけだ──意識を失った米兵を抱えている二人だ。何をすべきか考える──おれにできることがあるか?──決断する前に、米兵の頭が不自然な形に傾いて、地面に降りていくのが見える──そして、自分の勘違いに気づく。あの米兵は意識を失っているのではない。死んでいる。そしてあっという間に視界から消えた。
心理戦。死体を回収できなければ、アメリカ人は発狂する。ベトナム人は知ってる。<さまよえる魂>でおれたちがベトナム人の恐怖を煽るのと同じように、やつらもやつらなりに、おれたちの恐怖心を利用しているのだ。おれは立ち上がり、歩き始めた。
三〇分以内におれは川に戻っていた。デポールはまだ急流の上になすすべなく浮かんでいる。おれが近づくのを見て、その顔の苦悩が、急に驚きにとってかわる、それと──恐怖?
おれは子供を川べりに運んだ。そしてデポールを見上げ、激しく決然とした声で呼びかけた──ヨークの糞軍曹よろしく。
「この子はマラリアだ」おれは抑揚のない声で言った。「この子の下まぶたを引っ張れば、ピンク色なのが分かる。貧血気味だ。体重は十キロもない。五一〇号避難所に行けば助けてもらえる。それとも、きみを助けるために使うかだ」おれはデポールの目を見つめた。「どっちにする、デポール?」
おれはブートキャンプのころからデポールを知っている。現実を前にして、何と答えるかはわかっている。
おれが得意げにデポールの答えを待っていると、デポールの気体のようで、幽霊のような姿が、空中で回転して、誘導ミサイルのように飛んできた。そして、恐るべき力でおれにぶつかり、転倒させた。おれの腕から子供が投げ出された。
凍りついて、おれはデポールに叫んだが、立ち上がったとき、デポールはすでに子供をしっかりつかみ、哀れな子を水中に押し込んでいた。おれは走って全力でデポールにぶつかったが、デポールはおれの顔を肘ではじき飛ばした。おれは後ろに転んだ。
「すまん」デポールは何度も言った。「すまん──」
おれは再び突進し、今度はデポールのバランスを崩した。デポールは子供を離し、おれは水中に飛びこんで子供を探した。気持ちが悪かった。水はおれの体を通りすぎ、濡れもしなければ、冷たくもない。何もない。そして泥だらけでほとんど前が見えない。永遠にも思える時間の後、やっと目の前に小さな物体を見つけ、手を伸ばしてつかんだ。指を子供の腕にからめた。子供を腕に抱え、水面に上がった。よろめきながら岸に着き、上がった──
男の子を地面に置いた。顔は青く、体は動かない。マウスツーマウスを試みたが、何も起こらない。突然おれは笑いだす。狂った後悔の笑い。自分のこと、みんなのこと、息を吹き返すようにがんばったこと。
おれは見上げた。デポールが立ちふさがっているだろうと思いながら──だが、どこにもいない。おれはデポールが長い間なすすべなくつなぎとめられていた川の上の場所を見上げた──
小さな男の子の霊が、苦痛と混乱に泣き叫びながら、ぷかぷか浮かんでいた。
おれは絶叫した。ひたすら。
そして今や、なぜおれがあの子に触れられたのかが分かった。ほかのものには何ひとつ触れられなかったのに。おれは<マー・キー>なのだ。病気の子供を連れ去る悪魔なのだ。自分の役目に従って、務めを果たしたのだ。自分がやっているという意識もないままに。ファンとその娘チャウのことを考えた。デポールと自分のことを考えた。
<死神はおれたちを思うがままに変える>
そしておれは、はじめて泣いた。前に見たり聞いたりしたベトコンのように、なすすべもなく、思い切り。とうとう自分がそうなのだと知った<さまよえる魂>のように、泣いた。

*****

おれはそこにとどまるべきだった。川べりの土手に。少なくとも一日間は。罪を償う道を見つけるために。おれが破滅に導いた子供の魂を救う道を見つけるために。だが、できなかった。おれはあの子と喜んで入れ替わるべきだったのに、その方法が分からなかった。ファンと娘が住む精霊の家に戻って、おれのしたことをファンに語ったとき、ファンは怯えもしなければ、怒りもしなかった。おれがこの世界に占める自分の位置をなかなか理解できないのがただ不思議なようだった。
他方、ファンの娘は、嬉しそうにおれの行いを祝福した。「<マー・キー>よ」娘は言った。この言葉を聞いて、今度こそおれは、それがただの幽霊でもなければ、ただの悪魔でもなく、その両方を意味することを悟った。「気持ちよくなかった?」
おれの中のどこかで、恐るべき歓喜がほとばしる──恐ろしくもあり、同時に生き生きする気分にもなる、黒く冷たい毒。みずからのなした悪を否定するのでなく受容することによって、罪の償いをし、安らぎを得た気がした。これを感じ取ったように、チャウがしゃがれ声で笑った。そして前に身を乗りだす。その悪意の微笑みは今や魅力的だ。「<ユー・ダウ>」チャウは言う。「<ユー・クウェイ>」
<愛すべき悪魔>という意味。
「あたしたち、いっしょにいろいろなことができるわ」チャウは言う。長い黒髪の束を指でひねりながら。その目は邪悪に輝く。「いろいろなことが」また笑う。冷酷な目、冷血な微笑。おれは勃起する感覚に、自分に裏切られたような気分になる。おれはチャウが欲しい。おれはチャウが欲しくない。おれはチャウを嫌悪し、嫌悪すればするほど、チャウを欲する。なぜならば、屈折した欲望も、少なくとも欲望であることに変わりはないから。おれは死んだ手足、ペニスを、チャウの中に入れ、生きているという感覚を得たい。
自分がどれほどそれを欲しているかを悟ったとき、おれは走り出していた。
チャウはますます大きな声で笑うだけだ。
「愛すべき悪魔よ!」チャウはおれに呼びかける。「戻っていらっしゃい!」
だが、おれはまだ戻っていない。今のところは。おれが死んだあのクレーターにも。何ヶ月も。おれはまだ自分の体を探している。だがそれを見つける可能性が事実上ゼロであることも分かっている。何百キロのトンネルが蜂の巣のようにからみあうこの地では。おれは何日も探し回り、夜になると、新しい家に戻って寝る。
おれは村のすぐ外に、自分の巣箱を持っている。竹の枝の上の小屋だ。中にはジョスの枝や蝋燭や小さなおもちゃの家具が詰まっている。おれはここに戻ってきては、自分が何者か、誰なのかを思いだそうとする。チャウが望む悪魔、<ユー・クウェイ>になるまいとして頑張る。<血の歌>がおれの声で歌いかけるときを除いて。おれは、自分が既に悪魔であることを知っている──おれが悪魔のように振舞うのを阻止するのは、おれの意志、良心、かつて生きた人間だったものの最後の名残だけだ。自分の中の悪魔をいつまで抑えられるかは分からない。いつまでそうしたいのかも分からない。だが、おれにできるのは頑張ることだけだ。そして、チャウについて、塩のように、血のように、すばらしく苦いに違いないその唇の味について、考えないこと。
糞くらえだ。
おれの頭上で、<さまよえる魂>が箱の中から叫ぶ。滑稽で馬鹿げた罵り声を泣くようにつぶやく。おれはこの平和について教えられたすべてのことを考える。そして、教えられなかったことも。ダーナンでは、誰かが軍の<和平>プログラムについて語ったものだ──ベトナム人の<情と心>を勝ち得る方法について──そして、こういうジョークがかわされた。ベトナム人のきんたまをつかめ、そうすれば情も心もついてくるぜ。だが、おれたちがベトナム人の情と心を手に入れようと頑張っているうちに、ベトナム人はおれたちの魂を手に入れてしまった。軍はおれたちをジャングルで戦闘訓練し、地域の慣習の中でしごき、ベトナム人自身のためにベトナム人と戦わねばならないのだと教えた──だが、そのために死なねばならないのだということは教えなかった。なぜなら、テクノロジーや武器やこの戦争のためのすべての計画にもかかわらず、軍はいちばん重要なことを忘れていたから。
軍は、絶対に交戦規則を教えてくれなかったのだ。
~完~

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