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蝋燭の光とユニコーンの瞳 A Glow of Candles, A Unicorn's Eye チャールズ・L・グラント

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蝋燭の光とユニコーンの瞳 A Glow of Candles, A Unicorn's Eye チャールズ・L・グラント


すべての神は詩神である。もし議論中に必要になったら、わたしのこの言葉を引用してくれたまえ。わたしの考えた言葉だ。わたしが人生の中で、一生涯を通じて、自分の人生について考えだした、数少ない真にオリジナルなもののひとつだ。わたしは人生を大半走ることに費やしてきた。この表現は文法上よくないと思う。だが<大半>という副詞の位置をわたしが間違っていたことは事実だ。
私自身の人生における居場所が間違っていたことも事実だ。
とはいえ、不平をいっているのでないことは、理解していただけるだろう。三〇年ほど前であれば、わたしは不平をいっただろうし、その動機もあった。はじめの三七年間実際にわたしは不平をいって生きてきた──理由はもっと漠然としていたが。もっとも、わたしが現在持っている不平は、もっと穏やかなものだ。愛から生まれるもの。そして──愛ゆえに──人に聞かせるべきものではない。真剣に受け止められることを期待すべきものではない。
例えばわたしのあごひげである。へレナはこの髭を愛した。そのちくちくする感触に慣れた時から。だがもう必要がない。隠す必要もない。わたしの罪は許されたから──あるいは、伝達事項を忘れないように持ち歩かなければならないこの高級紙に、そう書いてあるから──自分の違法行為は許しを得たから。だが今、わたしはこの馬鹿げたあごひげを気に入っている。灰色にからみあうこの髭は、一週間に二度同じ顔になることがないわたしの顔に、ある種の威厳を与えてくれる。そして、わたしのものではない衣装や化粧や台詞の下に隠された、ほんとうのわたしを忘れるのに役立つ。だが、悔恨が必要とするのは忘れることではない。深く苦痛をもたらす秘密が要求するのも、忘れることではない。
年月を忘れることで、わたしは泣かずにいることができるのだ。
なぜなら、秘密がもう明らかになったから。
事実、このプロローグを書いた最初の夕べ以来、そうなったのだ──アイデア自体はオリジナルではないが、使い方はわたしのオリジナルだ。
そう、もはや秘密はない。
だがとにかく、わたしはこのあごひげが気に入っている。
へレナもそうだった。ヘレナの髪──あの髪は──かつて、とても素晴らしく長かった。
では、劇に参加しよう──あるいは、もはやわたしが従う必要のないシナリオに、そう書いてある──だが、拍手されることが保証されている部分を見定める前に、それを理解していることを確認しよう。自分が賞賛している対象が正確に何であるかを理解していることを確認しよう。けっきょく、わたしたちは未だに、そして、法の最終見地から、罪人なのだということは、ご存知のとおりだ。わたしはあやうく殺人を犯すところだったし、ヘレナはあやうく屈するところだったのだから。
そしてやつらは、最後に、わたしたちに追いつくだろうと思う。もっともそれは、わたしたちが逃げた結果、罪の許しを得たことによるのではない。わたしたちが逃げた結果、自由を得たからである。



<ゴードンはひとりで、友人がいなかった──>
たしかに、それは事実ではない。だが、当時のわたしは、それ以上の大したものを求めていなかった。とはいえ、わたしは、テープ・セッションを台無しにすまいと、注意を払っていた。懐疑主義を強めすぎてはならない。不快を募らせ、顔に皺を寄せてはならない。顔にこそ、わたしの演じるキャラクターが宿るし、わたしがいつも祈っているように、この市場が完全に干上がるまでは、わたしの顔に、キャラクターが宿り続けるようにしなければならないのだ。それにわたしは、預金口座の残高を維持するために、いわゆる<定職>に戻らなければならなかった。自分の気持ちをごまかすために、わたしは、右手を右頬に当てた。それは、適度のシェイクスピア的憂鬱をかすかに漂わせた、完全に絶望したというわけではない絶望の、あからさまな表現として、人に教わった仕草であった。怯えないように努めながら、わたしは、後ろにある都合よく平らになった岩の上に、尻を降ろし、川を見つめた。人はそれを、川と呼ぶ。実を言うと、それは、ブヨを溺れさせるほどの深さもない、全長二〇〇メートルにも満たないリサイクルされた水の流れでしかなかった。
<──ゴードンの疲れているが動じない頭脳は、不安定なジレンマから免れる奇跡的な手段を求めて、力強くもがいていた──>
声にならないナレーションが、左の耳の中で鳴る。その合図に従って、わたしの中に、まず息苦しい感覚、次に、存在しない蝿を叩きたいという衝動が起こった。わたしは辛うじて目立たないように数回叩き、手のひらを顎にあて、肘を膝の上に当てて支えた。わたしはそれをうまくやれたはずだった。だが、集中力が欠けていた。自分が裸で寒さに震えており、頭上に圧迫するように垂れこめる青灰色の雲から雨が降りそうだと諦め気味に予感している事実から、失敗を犯してしまった。五分間見つめたあと、無意識のレベルで問題を解決する強力な手段を探そうという態度を装うこともできず、わたしはまばたきをした。いったんそれをしたあとでは、取り返しがつかない──誰に促されることもなく、わたしは知っていた。
不幸にも、誰も虎の目をそらそうとしなかった。
わたしは聞いた。雲の中から聞こえたに違いないうなり声を。虎が視界に入る前に、わたしは、急いで立ちあがった。その生き物は、怯えながらも、あまりにも立派であったので、わたしは、その皮膚や、顔や、肩や背中の水のように波打つ筋肉から、目をそらすことが出来ないと感じた。
虎の前に、黒い羽の鳥が舞い降りた。だが、虎の眼差しは、瞬きの間すら与えないほどに、わたしを捉えて離さなかった。
ゆっくりと、わたしは川に戻った。うずくまり、指を、惨めな鉤爪を真似るように、地面に引っ掛けながら。体の中のすべてが、心臓から胃に至るまで、突然重さを失い、喉に浮き上がってくるような感じだった。わたしは奇妙なめまいを感じた。そのめまいによって、空気が引き裂かれ、ひらめく黒い点に変わる気がした。そして、縞模様と、ずっしり重い爪と、軽蔑するように歪んだ唇にとってかわった。その唇の間には鋭く白い、死神のような歯が見えた。
虎はわたしの座っていた岩に着くと、跳ぶはずだった。そして跳んだ。訓練、静かな会話、健康状態の維持の確認──それにもかかわらず、わたしは叫んでいた。
虎はわたしの胸板にぶつかった。前肢がわたしをつかもうとし、後肢の爪がわたしの内臓を掻き出そうと伸びた。わたしは、虎のぶつかる勢いを利用して、虎とともに転げながら倒れ、低い土手の縁から水中に落ちた。肋骨の上に三本の掻き疵、肩甲骨の上に六本の疵が焼けるように痛んだが、わたしは虎の上にのしかかり、一分、また一分とこらえ、ついに虎が静かになると、突き跳ばして、よろめきながら岸に上がった。最初から最後までの一連の出来事は三分もかかっていないだろう。だが、突然わたしの人生にあらたな一二年が加わった気がした。いったいそこには何があるのか。
わたしは倒れ、あえぎ、水を吐き、転がって仰向けになり、両手を見た。血だ。わたしは突然上体を起こし、誰かがおれを捕まえるのではないかと、半狂乱で辺りを見回した。
こんなことが起こるはずではなかったのに。
わたしは強く、賢く、獣を騙して溺れさせるはずだった──だが、爪で傷つけられるはずではなかった。
すぐに、白コートの技術者が後ろから駆け出し、二人のアシスタントとともに、水に分け入った。あわよくばシミュラクラの虎を回収して、店で修理をし、わたしみたいなカモにまた一撃食らわそうというのだろう。四人目の男は、シャツもズボンも皺くちゃで泥まみれだった。わたしのほうへ歩いてくると、素早く続けざまに消毒薬を塗りつけ、傷口に医療パッチを貼り付けた。わたしは微笑みかけた。男は顔をしかめた。なぜこの男がこんな態度なのかわたしは知っていた。もしわたしがもう一度失敗すれば、この男が編集技術を駆使して、血が流れていないように見せねばならないのだ。この男はわたしが済まない気持ちになるのを望んでいると思った。まるでわたしの失敗であるかのように。
慰めや勇気づけの言葉すらなく、手当てが終わると、わたしはぎくしゃくと岩に戻り、座った。そして髪から水を滴らせながら待った。雲はわたしを濡らそうと待ち構えている。やがて、人工的にこぶだらけにされた樫の幹が、ジッパーを降ろすように割れ、ディレクターが現れた。
「すごい」わたしはつぶやき、両手を膝に落とした。
ディレクターは一瞬、向きを変えようとするかのように立ち止まり、ため息をつき、土手の茂みから電動メガホンを回収した。そして匂いを嗅ぎ、わたし以外のすべてを見回し、ありえないほどくたびれた左耳の上まで、赤いベレー帽をまぶかに引き降ろしてかぶった。
「きみはゴードン・アンダースンだろ?」その状況下では、神のような声でなければならなかった。だが、不幸にも違った。それは甲高い声だった。
わたしはうなずいた。
「大丈夫か?」
おいおい、と内心苦々しく思いつつ、わたしはうなずいた。
「ああいうことはすべきでなかった」
わたしのことなのか、虎のことなのかは分からなかった。
「ゴードン・アンダースン」ディレクターはまた言った。その名前に、何か味があるとでもいわんばかりに、あるいは毒気があるといわんあかりに。
そしてディレクターは、空を見上げ、もう一度ため息をついた。わたしに立ちあがれと促しているのが分かった。わたしは拒否した。前にわたしが裸でつっ立っていたとき、共演女優が、ほとんど笑いを噛み殺さんばかりだったのだ。わたしはほとんど仕事をやめたい気分になったが、共演女優はわたしにすまなく思ったようで、昼食のせいだわと言った。
しかも、医療パッチは新品でなかった。消毒薬は効き目が薄く、傷口がひどく痛んでいた。
一方で、甲高い話し声が続いていた。
「動物に関してはすまなかった。だがアンダースン、きみはこの手のトラブルには慣れているはずだ。キャスティングのときに、そう聞いている。きみは熟練したベテランでないと困るんだよ。きみは舞台俳優だろう? アンダースン、きみはこういうことに経験がないと困るんだよ。わたしがその手の人たちの──生活について知っていることが、間違いでなければね。わかってもらえるかね、アンダースン? きみは知るべきだよ!」
そのときわたしは、うなずく以外にやるべきことを思いつかなかった。わたしは指を何度もパッチに戻し、触れたり、押したりせずにはいられない。そして、次の洪水シーンでは、バンデージが外れて、出血多量で死なずにすむだろうか、と思った。もちろん、あとで<ディアグムド>の人たちに会うつもりだが、あの人たちもわたしのためには何も出来ないだろう、という気がした。治癒は早まるとしても、傷跡は残るだろう。そうに決まってる。
「きみはたとえ恐怖しても、勇敢でなければならないんだよ、アンダースン」声は言った。わたしの叫び声が今ひとつリアルでなかったというように。「恐れを知らないが、次の行動計画については、重大な疑いを抱き続けること。つきは洪水だよ、アンダースン、洪水なんだよ! どういう意味か分かるかね?」
「わたしは溺れます」ディレクターが聞き間違えそうなほど小さな声で、わたしは言った。
「きみがこの仕事に向いているとは思えんな、アンダースン、正直言って」注意深く一二拍測って歩いたあと、ディレクターが言った。そして、虎に問題はなかったという言葉を待っていた。「きみは──きみは期待されているんだよ、わかってるだろ? 模範になるんだ。完璧な模範に。観衆にとって──そのことをきみが忘れちゃ困る。きみは、勇気と、決意と、ちょっとした理解を示すんだ。いいか、きみはこれから何度も試練にぶち当たる。きみが想像もしないような試練に。この試練は、きみを困難や恐怖で圧倒する。それに、付け加えて言うと、きみを見ている子供たちは、<きみと一緒にいたい>と思うのだ! 子供たちは、ただ人生の浮沈を理解すればいいわけではない。きみの冒険旅行に、自分たちの象徴的な代表としての存在を見ているんだよ。もしそうでなければ、子供たちは毎晩悪夢を見るはめになるだけだ。わかるか、アンダースン? どうだ、わかるかね?」
<汝いずこへ導くや、このチビ>とわたしは思った。そして急いでうなずき、両手を上げ、嘆願(職を失わないことについて)、恭順(ディレクターの芸術的権威に対して)、反抗(いまだに馬鹿げた機械を回している録画係の利益になるだけであることについて)を手際よく結びつけたジェスチャーをした。
ディレクターはにっと笑った。
わたしは両手をしっかり膝に当て、上体を出来るだけ高くまっすぐ伸ばした。
「いいぞ、アンダースン。きみがわたしのことをもう少しよく分かってくれれば、意思疎通はもっと容易になる。どうだね、少し休んで、準備しては。クローズアップのシーンは後回しに出来る。洪水が起こるときで。それでいいかね?」
「おっしゃるとおりに、ボス」わたしは言った。そして、ディレクターがテープ作製のために調整しなければならないところを調整するため去った後、わたしは岩を離れ、注意深く刈られた草地に移動し、脚を組み、両手を腹の上で合わせた。疑わしげに空を見上げ、目を閉じ、熟練した集中力で、眉に皺を寄せ、眠りに落ちた。
わたしは夢を見た。かすかに燃える蝋燭に取り囲まれた、小さなガラスのユニコーンの夢だった。


*****


キューの合図と同時に、洪水が訪れた──ディレクターはそれ以外にやりようがなかっただろう──だが、わたしが隣の音楽ステージに押し流されるのを防ぐために、上手に縫い合わされたはずの安全ロープが、水圧でぷつんと切れた。さいわいわたしは切れた場所におらず、ディレクターの樫の木になんとかつかまった。水がひいたとき、わたしは幹にしっかりつかまった状態で見つかった。わたしが目を開くと、スタッフたちは、わたしが怪我をしたとき以上に怯えているのに気づき、わたしを放置した。ディレクターだけが、わたしの背中をたたき、悪戯っぽく左の頬をたたき(その両方だ)、次のシーン用のセットに向かって怒鳴りながら歩み去った──地震シーンだ。
ゆっくりと片脚ずつ試しながら、わたしはプラスチックの木を離れ、スタッフのひとりが差し出したローブをつかんだ。一瞬、水と空を睨みつけると、わたしはいつも共同で使っている更衣室に向かった。わたしがついたとき、細長い建物には誰もいなかった。そのただひとつのささやかな親切に、わたしはひたすら感謝した。わたしはかじかんで閉じようとしない手で、できるだけ体を拭いた。朦朧とする頭では、両手がなかなかいうことをきかなかった。それからわたしは鏡の前に座り、顎から水の滴がひとつ流れ落ちるのを見た。
わたしは鏡の中の自分の姿を見た。並んでいる小さな壷、大きな壷、長い管、短い管、鬘、皮膚の染料、偽物の肉、偽物の目。それらすべてがぼやけて、虹のパロディに見えるまで見つめた。見つめて、うなり、拳をど真ん中に打ち込んだ。すべてが床の上に散るような気がした。
鏡を見つめ、鏡の中の自分を見つめ、高く皺の寄った額、茶色の目、少し曲がった鼻、少し柔らかい顎を見つめた。わたしは拳を肩に当てた。震えている。わたしは鏡の中の顔に両手の拳をぶつけて引き裂き、背後に存在する世界に大穴を開けてやりたかった。
だが、その瞬間──その瞬間にかぎっては──それがわたしの世界のすべてだった。わたしの手はテーブルの上にゆっくり落ち、習慣的に顔を拭くのに使っているぼろぼろの布切れの上に乗った。
はじめは素敵なアイデアに思えた。イギリス人によって始まり、アメリカ人がそれを拡張した。<テープ>は、若者たちが思春期の生みの苦しみを事実上経ることなく、それを利用することによって成熟することが期待できる、睡眠導入システムの基礎設備だった。ソフトな色合いの病棟、優しい顔の看護婦。一日おきに、二時間二〇分の間、若者は機械に接続され、<テーピング>されるのだ。これこそ、わたしやわたしのような、行くところのない俳優が住むところだ。わたしたちは、虎と戦い、洪水に耐え、女や男や、個人的な災厄に耐える。ナレーションが何度も何度も何度も強調するように──何度強調するか誰も数えられないぐらいだ──それはすべて極めて象徴的であり、しかも非常にリアルである。
<気をつけろ!>声が命令する。
<注意して>声が警告する。
<気をつけて、注意して、聴いて、そして、応用──応用──応用──聴いて──
応用──>
それから結果報告が、約一時間続く。年を取らずに成長するのが初めての人には、もっと長く。一年以上利用している人の場合は、もっと短く。
ディレクターが前に言っていたが、初心者の子供や大人が、プログラム全体を終えるのに少なくとももう十ヶ月を要することが多い。だが、その言うことを注意深く聴き、その熱弁を信じるなら、物事はすばらしくうまくいく。
他人に熱弁されなくとも、わたしにはわかる。
白髪混じりの髪と、皺を持ち、自信のない道化と大差ない様子で歩く、一一歳の子供。
大人の女の心を持った、一一歳の少女。
反抗心を吸い出された、一〇才の少年──みそぎを施され、若かったころ──実際には一度も若かったことはないのだが──の自分の夢もすっかり失ったまま、放置されて。
それは確かにすごいことだ。ありうる結果として、わたしが悪夢に見るのは、せいぜいその程度に過ぎない。スタジオに入るとき、わたしはいつも合理化する。正直言って、けっきょくそれは単なる仕事なのだと。俳優の仕事。ほとんど唯一の、残された仕事。
わたしはロフリスコにいた。海岸全体に伸びた複合都市を、さまよっていたのだ。そのとき、エージェントのヴィヴィアンが、わたしをフィラヨークに呼び戻した。ブレイクするチャンスよと、自信ありげにヴィヴィアンが言った──露出するチャンス、そして金! わたしには金が必要だった。
「聞いて、ゴーディ」ヴィヴィアンは言った。「子供たちは、死ぬまであなたのことを覚えているのよ! 名前だけじゃない。顔も覚えてるの! 舞台でのあなたを見ようと思うわよ──まだあなたがそれを求めてるのなら──ネット配信のチャンネルや、映画館でね。きっとやれるわよ。このチャンスを逃したら、あなた、馬鹿よ」
そして、正直に言おう、わたしはそのチャンスを逃さなかった。だが、わたしはかつて自分が出演していたほとんどがら空きのホールのことも忘れていなかった。ジョイホールのホロビデオシアターや、映画館にわたしは出演していたが、何とかうまいことを言って休職許可を得たのだった。
ほとんどがら空きのホール。
部分的には満席。
わたしが代役で出たときは、たった五人だった。大して気にはしなかった。俳優も客もライブの公演だった。わたしは劇場から劇場を渡り歩いて、出演のチャンスを待った。だがどれも一ヶ月もしないうちに打ち切りとなった。終演前に観客は誰もいなくなるのだ。客は、何となく入っていき、こっそり出ていく。これが何よりも奇妙だ。役者が失敗すれば、鍵のかかっていないステージのドアからこっそり出ていくのを、誰も待ってはいない。なぜ出ていくのか、何度も呼びとめてきいたが、ピンと来る答えを得たことはなかった。
ついに女性ディレクターのひとりを問い詰め、公演はなぜ失敗だったのかときいた。ディレクターは、ステージに当たる空間に向かって手を振り、肩をすくめた。「たぶん、趣向が古いのね。新しい趣向が必要なんでしょ。よく分からないけど。今の事態に関しては、わたしは本気で心配してないわ」
<嵐の眼>は、三六のセットを持ち、劇場のシートは軽く後ろに傾き、ステージの役者を脅かすホロビデオの嵐に観客の注意を向けるようになっていた。
<大いなる世界の願い>は、投石器、跳び板、ブランコを備え、三六〇度回転するステージを使った。
<祝福>は四つのオーケストラ、三人のテノール歌手、滝、天井の嵐、マーチ楽団を持ち、音楽パートについて繰り返しリハーサルを行った。優れた評論家が、理解のある批評をするために、出演者全員の氏名リストをよこせといった。
<王冠奪取>は、七十九人ものセリフありの役者を使い、四つもの危機一髪の場面を設けた。
<神の怒りはいずこ>は、プラネタリウムと、エスパーのナレーターと、月からの入植者を用いた。
三人の脚本家兼プロデューサーが、すべてを作った。最後の作品が失敗したとき、わたしは雀の涙の報酬を口座に入れてしのぎ、劇場を渡り歩いた。作り手の側も見る側も、何かが死んだことがわたしには分かっていた。そこでわたしは手っ取り早く、三人のクリエーターをひとりひとり訪ね、泣きながら殴って回った。お先真っ暗な状態で、これら<名前だけの>劇作家を選び出して襲撃し、その都度わたしは、肺が焼けて体が動かなくなる気分で逃げ出したのだ。
その時のわたしの自己正当化は、単純だった。こいつらは、わたしには理解できない何かを殺したのだ。言葉を抹殺するという犯罪の共犯なのだ。
わたしは、自分の罪によって逮捕されるのを待ちながら、さまよった。<ウォークウェイ>の下を<番犬>が怒ったように糾弾の怒号を上げながら走り過ぎ、わたしを探し、捉え、排除しようとする音に耳を傾けた。
あんなことをするなんて、わたしは頭が狂っていたのだろう。だが、攻撃を指示する静かで小さな声が聞こえたわけではないし、突然の怒りで、狂気の呼び声に手が自然と動いたわけでもなかった。それは、単なる疑問だった。<なぜ?>で始まり、<劇作家こそが悲劇の産婆、元凶、そして、わたしが知る芸術の死の一部、かつその集合である>という認識に至るものだった。
だが、まだカタルシスの感覚はなかった。
わたしはやったのだ。
それだけのことだ。
そこで、わたしは更衣室の鏡の前に座り、虎とその爪について考えた。そして、わたしに覚えることを忘れさせようとする、あのチビのディレクターについて考えた。
それは、夢の中の劇の中の劇の中の劇だった。
それは、前に見た美しいものに似ている。そこからわたしが思いだせるのは、小さな、壊れた、もろいガラスのユニコーンだけだ。
わたしはテーブルから離れ、胸や肩の上にパッチを貼った状態で、可能な限り着飾った。指を不器用に動かして、シャツのボタンを留めた。ブーツを履くと、太腿がスムーズに動くようになった。遅かれ早かれ、わたしは誰かに自分のしたことを話さねばなるまい。不思議に思うのだが、ニュースでは何も報道されないし、わたしも口をつぐんでいた。
だが、先は長くない。
ヘレナ。
わたしは<スタジオフライヤー>に乗って、<キーロフト>の入口に行き、ロビーに入ると、<リフトチューブ>の枠にもたれるようにつかまった。見下ろし、見上げる。自由上昇。自由落下。心配しなくていい、ゴードン。科学という魔法が、おまえに信念を与えてくれるよ。



わたしは生まれて育てられた後、ついには東海岸の最大の複合都市(シティプレックス)、フィラヨークをぶらぶらする生活を楽しんだ。父は<ジョイホール>の所有者にして経営者だった。<ジョイホール>は、通常ゲーム室、賭博室、スタント室のほか、小さな映画ホールがあった。メジャーな映画はほとんど上映されなかった。だがそれにもかかわらず、マイナーな映画は、わたしを映画の世界のとりこにするに十分だった。わたしは、周囲のホロ映像の中で展開される物語に毎日長時間を費やして没入した。わたしがはまったのは、わたしを喜ばせたのは、テクニックではなく、キャラクターを演じる男女だった、そして、物語のプロットを垣間見るために、安い入場料を払う男女だった。


(「マルタ、向こうだよ、急いで! この男が伯爵についていうことに、耳を傾けるんだ」「聞いて、ウィル、わたし、将軍に起こったことをつきとめようとしているの。真相をつきとめたら、グランドキャニオンで会いましょう」)


客たちはみな、ホロ映像がまがいものであり、やろうと思えば、人の頭や、砲火や、土星の輪や、月のドームに手を通すことができることを知っていた。だがもちろん、そんなことはしない。客たちは、耳を傾け、自分のメモと比較し、物語を再構成し、聞き漏らしたものを求めて、また戻ってくるのだ。
大学生になって、わたしは誘惑に負けた。わたしは大半の物語のプロットをまる暗記していたから、容易なことだった。わたしはホロシアターのあちらで時間を盗み、こちらで眠りして、誰もわたしが劇中のホロ映像でないことに気づかないまま、ショーのほぼ四分の三にわたる間、ホロ映像の中にい続けるということを、何度か成功させた。自分以外の何か、または、誰かになるという考えは、わたしの興味をひいた。わたしは研究した。市内の人通りの少ない地域の定期上映の映画館に入りびたった。父親に相談もせず、大学の専攻を変えた。父がそれに気づき、わたしの夢を聞き知ったとき、口論の末、一方が敗れ、わたしは父の下を出た。
研究した。学んだ。
エージェントを見つけ、ヴィヴィアンに自分を売り込んだ。ヴィヴィアンはわたしの研究を笑った。(「呆れたわね、ゴーディ、いまどきのステージではシナリオなんて要らないのよ。暗記することを学びなさいなんて、いったい誰に教わったの?」)ヴィヴィアンは文字通りわたしの手を取り、学校の外で、ショービジネスの何たるかを見せてくれた。
それから一八年間、わたしは役者として、かなり手堅くはあるが、明らかにぱっとしない生活を、なんとか送ってきた。あるときは、街角で金髪美人に話しかける男。あるときは、火星の砂嵐の中で這い回る、負傷した警官。あの体、あの顔、その他──もろもろ。そして仕事の合間に、けっきょくわたしは、劇場に戻っていく。そこには、ステージと、観客と、滝、そして──そして──
ただひとつだけの理由を指摘することはできない。ただ好きだった、それだけだ。好きだった、そして嫌いだった。なぜなら、すぐにわたしは、何かがおかしいと悟ったから。致命的な間違い。


「あなた、狂ってるわ。わかってるでしょ、ゴードン」
「仕事が欲しいんだ。ヴィヴ、それだけだよ」
「それには、特殊な訓練が必要よ。ホロビデオのシナリオを覚えるのとは違うって言ったでしょ!」
「ぼくは学びたい」
「でもゴードン、あなた、即興で演じなきゃならないのよ! だいたいのあらすじを除くと、全部がそんな感じよ。あらすじだけを与えられて、あとは自分で道を切り開くの。きちんと習得するには、何年もかかるわ」
「「前にもやったことがあるって、知ってるだろ。なぜそんなに大騒ぎする? あなたは、手数料を取ればいいだけだ」
「あなた、わかってないわね」
「僕は頑張って学ぶよ。それだけのことだ」
「全然わかってない」


懐かしさの波が押し寄せた。稲妻のような一瞬、古い劇場が、復活し、歓喜し、役者やプロデューサーやディレクターその他のスタッフを再雇用したような感覚。神様、どんなにがんばったことか。だが、波はおさまった。わたしが子供たちのために<夢テープ>を作り始めたときには、必要最小限のものと、埃と、気まぐれに出入りする客以外には、何も残っていなかったのだ。



わたしは家に入った。居間、寝室、トイレとオーブン用の壁穴。すべてが白と黒のデザインだ。
わたしは食事をろくに味わわずに食べた。通りの向こうの<キーロフト>を見た。ニュースの要約を読み、わたしが襲った劇作家が回復しつつあるニュースを見た。遠まわしな表現だらけだが、メッセージは同じだった。氏名不詳の誰か、あるいは、複数の誰か。
ああ、あれが現実でなければよかったのに。
そして一五分後、フィリップとヘレナが訪ねてきた。わたしは、<テーピング>の一日に関する興味深い話を聞かせてやった。ずっとヘレナを見ていた。フィリップが一緒に乗ってきた幽霊に過ぎないように。
「そいつは、以前にわたしを雇っていた虫野郎らしいな」フィリップがディレクターについて言った。フィリップは、三七歳のわたしより一五歳年上だった(ヘレナは四つ年下だ)。フィリップは、かつて自分が出演していた、本人いわく<血の通った>劇場について、楽しそうに思い出を語った。だが、フィリップは夢の中に生きていた──ヘレナに言わせれば、フィリップは単なる端役ばかりの役者で、セリフがあることは滅多になく、五十週間のうちに二週間の公演が一回でもあれば運がいいほうだったという。なぜだかわからない、たぶんヘレナのおかげだと思うが、フィリップはわたしを好いていた。「虫だよ、ゴードン。踏みつぶしてしまえ。あんなやつ、いなくなってもかまわないよ。保証する」
「あら、馬鹿なこと言わないで」ヘレナが呟いた。「ゴードンは、契約を全うしなければならないのよ」ヘレナは部屋の中央で脚を組んで座っていた。わたしがもっと別の特別なときのために取っておきたかったブランデーを、小さなグラスに半分ほど入れ、手で回していた。とはいえ、ヘレナとただ会うだけでは特別じゃない、という意味ではない──そう思った瞬間、わたしは初めて恋に落ちたことを悟った。「ゴーディ、あなた、そのお金をふいにするわけにいかないのよ、わかってるでしょ。要するに、それだけのことよ。お金がなければ、食べていけない。それ以上、簡単な説明はないわ」
太って、実直そうに堂々としたなりのフィリップは、うなずいて、禿げた頭を掻きながら、認めた。「ヘレナは正しいよ。明日のパン代を稼がなきゃならないときに、芸術的完璧さをわめきたてても仕方がない」
「それはフェアじゃない」わたしはつぶやいた。
「誰もフェアだなんて言ってないさ。だがそもそも、これまでにフェアだったことなんてない。<普遍的にフェアである>なんて生物は、いまだかつて存在したことがない。そんなことを今まで知らなかったなんて、まったくびっくりだよ。つまり、なあ、きみのことだよ。壁に頭をぶつけながら、よりによって、舞台に立って生計を立てようとしている。芸術の悲しむべき死について、あらん限りの声で泣き叫ぶことは別にかまわないさ。でも、どうしようもないんだ。何も変えられないんだよ」
わたしはただ、顎をつきだして天井を睨んだだけだった。そのとおりだ──なんということ!──ロマン主義の時代はとっくの昔に終わったのだ。もはや、複合都市の間を渡り歩く劇団はいない。大学でも、演劇史の講義が一コマあるだけだ。講師は、悲しげに、芸術はばらばらに分解しつつあるのだ、と語った。だが、そうではなかった。分解ではなく、倒壊しつつあったのだ。内部の支えが酸によって溶けて消滅した建物のように。一時的な補助金によって、一、二回のリバイバル公演が行われても、本質的には、倒壊を延期するだけの効果しかない。政府が手をひき、出資の大半が慈善団体の手に移れば、あとは間違いなく弔鐘を聞きながら、死滅への道をまっしぐらだ。
わたしは眼を閉じ、まぶたをこすった。ヘレナに話をしたいので、フィリップが席を空けてくれればいいのに、と思った。
ヘレナがわたしの横へ這ってきて座ったので、わたしは微笑んだ。ヘレナは柔らかな白い手を、わたしのふくらはぎに乗せ、軽くマッサージした。
「ゴーディ、もしあなたが今、脱落したら──」
「ヘレナ、ゴードンはこれ以上聞きたくないんだろう」
わたしは急いで体を起こした。この大男の声には、何か警告するような響きがあった。わたしは眉をしかめ、ヘレナを見た。ヘレナは、けだるげに、カーペットの短い毛を指で撫でていた。
「ゴーディ、事態に向きあいましょう」眼も上げずに、ヘレナは言った。「もしあなたが契約を打ちきれば、ヴィヴィアンはあなたを見捨てるわ。そうなったら、あなたも、私たちと同じように、もうおしまいよ。わたしみたいに。そして、フィリップみたいに」
「わたしたちは何とか生活しているぞ」フィリップは大声でヘレナにきいた。「それのどこが悪いというんだ? 頑張ってるじゃないか。わたしたちは──」
「飢えてるじゃない、馬鹿ね」ヘレナがぴしゃりと言った。「ゴーディには、わたしたちの二の舞になってほしくないのよ」
「飢えてる?」フィリップの笑い声は、単純に不快そうだった。そして、拳を軽く腹に当て、両手を広げ、贅肉を誇示するようにそれをつかんだ。「飢えてる人間が、こんな腹にはならんぞ」
「わたしの言いたいことは、分かるでしょ。仕事に飢えてるって意味よ」
「さっきも言ったろ、何とかやってるって」
「何とかやってる、何とかやってる」高く、子供のような声で、ヘレナが真似をした。そして振りかえって、わたしを見た。灰色の瞳が、ゆっくり黒くなった。「ゴーディ、六月からこっち、わたしたちのもらった役はたったひとつよ。最低の役。しかも、一週目が終わる前に、打ち切りになったわ。フィリップは拒否したの──何と言ったかしら? <堕落>? あなたがやっているような仕事をするほど<堕落>することを、拒否したの。フィリップは、芸術的完成度を語るのが得意だわ。それに、フィリップが太ってるのは、配給食の澱粉ばかり食べているからよ。ヴィヴィアンが言うには、<フォールスタフ・コンプレックス>があるんじゃないかって」
「ヘレン、わたしはそんな話、聞きたくは──」
「なら、聞かなくていいわ」ヘレンは叫んだ。「ロフトに帰って、即興の練習でもしてたら。薄っぺらい即興。うちには映話しないでね。ここしばらく、映話が止まってるから」
「ヘレナ、わたしはこんな風に扱われるいわれは──」
わたしはもうたくさんだった、うんざりだった。ソファから立ちあがり、フィリップの隣に行った。わたしが頭ひとつ背が高く、体重のおかげで、胸や腕に力があるという印象だけでも与えられることが、助けになった。だがその印象だけで十分だった。フィリップは口篭って、おとなしく黙りこんだ。
「言わずにはいられなかったんだ」ほとんど泣くように、フィリップがとうとう言った。「今日、ヴィヴィアンがわたしたちをクビにしたんだ」
わたしは黙ってまばたきし、ヘレナに向き直った。ヘレナは既に床の上に立っていた。わたしはくらくらした。鉄パイプで殴られてもそんな気分にはならなかっただろう。
だが、「ほんとうよ」とヘレナは言った。「ゼロからの手数料では生活できないと、ヴィヴィアンは言ったわ」
「だが、わたしはまだ男だ」立場を回復する道を探して、フィリップは言い張った。「わたしはまだ男なんだ。きみたち二人のようなやり方を、容認することはできんのだよ──」
わたしはフィリップの腕をつかみ、ドアに向かって引きずりながら黙らせた。びっくりしたフィリップは何も言えなかった。わたしはドアを開け、フィリップを放した。そして、フィリップがリフトチューブに乗り込むのを確認した。
「覚えてろよ、ゴードン」降りながら、フィリップは警告した。「このお返しはしてやる。わたしも、その筋に顔がきかないわけじゃないんだ──」
わたしは笑いながら、ドアフレームにつかまった。「そのセリフは、われわれ三人が集まる前からある古臭いものだぞ、フィリップ。仕事を見つければいいじゃないか。レストランでもいいから」最後の部分をわたしは叫ばなければならなかった。フィリップが既に視界から消えていたからだ。だが、雑音でわたしは気分がよくなった。とにかく、ある程度は。わたしはドアをばたんとではなく、静かに閉めた。
仕事を見つけろ。
ヘレナが後ろから来て、わたしの肩に手を伸ばし、手際よくもんだ。頬をわたしの背中に当てていた。一瞬わたしは目を閉じ、それから深呼吸をして気持ちを落ちつかせ、話し始めた。説明した。描写した。すべてを話した。もしヘレナがその気になれば、当局に駆け込んで、報酬を手に入れるだろうことも分かっていた。警察はいつも、報酬を出す。相互的な協力防衛システムの一部だった。わたしはヘレナの手が肩から離れたとき、一度だけ罪の告白を止めた。だが、わたしは最後まで話した。すべてを話したとき、わたしの気持ちを支えていたすべてのものが消え去った。わたしは意気消沈した。ヘレナはわたしを抱いて、寝室へ導いた。そして、今度はある種のカタルシスがあった。殺人未遂の重圧は、増すのではなく、減少した。ヘレナが当局に駆け込み、報酬を得ることを選ばなかったことで、二重に安心している自分を認めることが、恥ずかしかった。
ヘレナとともに、お互いに触れもしなければ、服を脱ぎもせず、ベッドに横たわりながら、わたしは、ヘレンがわたしを哀れんでいるのではなく、愛しているのだということを知った。
「あいつらが死ななかったということが、信じられないんだ」沈黙が受け入れがたいほど長引くと、わたしは暗闇に向かって言った。「でも、わたしが聞いた記事によると──しかも、それを聞いたのが、きみがここへ来るちょっと前だって、信じられるかい?──その記事によると、誰一人、元の状態で回復することはないそうだ。最悪なのは、今きみに話した後でも、わたしは全く罪悪感を感じていないことなんだ。そんなのは、絶対間違ってる! わたしはつかまるまで、表をうろついているべきなのかと思うよ。そう、そうしなきゃならいないんだ。あいつらの一人ぐらいは、何かを見ているはずだ。もしわたしの名前と写真がネットに流れたら、わたしに逃げ場はないよ。どっちにしろ、もう長くない」
「でもゴーディ、もうほとんど二週間たつのよ。もし警察がつかんでいたら、とっくに踏みこんでるはずじゃない?」
わたしは微笑んだ。にやっと笑った。ヘレナには見えないことを知りながら、頭を振った。「急ぐ必要はないだろう。わたしは国外に脱出しようとしてないんだし」
「たぶん──たぶん、あなたはラッキーだったのよ。あなたが襲った相手は、誰にやられたか分からなかった。つまり、あなたが誰だか分からなかったのよ」
わたしは転がって、横向きになった。片手で頬を支えた。ヘレナを見ようとしたが、見えなかった。だが、ともかくヘレナを見た。「わたしはいつも自分にそう言い聞かせてる。たぶん、希望。はっきり分かればいいと思うけど」


*****


「ゴーディ?」
「起きてるよ」
「自分のしたことで、わたしに嫌われたんじゃないかと思ってる? つまり、一年かそこら前に、わたしは、あなたが襲った相手の一人の作品に出演したことがあるから」
「ちょっと、思ってる」
「馬鹿ね、そんなことないわよ。でも、ちょっと怖いけど」
「その相手が誰か、わたしはよく分かってるよ。二週間前だ。今でもなぜあんなことをしたのか、よくわからない」
「あなたは怒っていたのよ。怒り狂ったのよ。明らかだわ」
「ああ、でも、なぜだ? 何も失敗したのは、あれが初めてじゃないのに」そして苦痛を取り除くために、わたしは無理やり笑おうとした。「考えてみると、何もかもが失敗じゃないか?」
「もちろんそうよ。あなたはただ、なぜだか分からなかっただけ」


*****


「ゴーディ、助けてあげたいの」
「逃げるのか?」
「ううん。何がうまくいかないのか、つきとめたいのよ。そんなこと、起こって欲しくない。わたし──わたし、ロフトにシナリオを持ってる。ベッドの下に保管してるわ。落ちこんだとき、読むの」
「シナリオなんて要らないよ。わたしを信じてくれ」
「違う、そういうシナリオじゃない。わたしのいうのは、本物の戯曲。シェイクスピア、テネシー・ウィリアムス、ミラー、チェーホフ──そういう人たち。最低でも二四人以上の作品を持っているわ、間違いない。手に入れたの──その、つまりね、いろんな友達を──場所を、訪ねているときに、わたしのこの素敵な細い指に、ただ自然に吸い寄せられてきたのよ」
「何だって、ヘレナ、きみは泥棒したのか!」
「でも、そう言うあなたは何をした? 面白いわ、ゴーディ。でもわたし、ほとんど全部のセリフをまる暗記してる自信があるわ。きっと最高だったでしょうね。あなたがやってきたみたいに、何もかもアドリブででっち上げる必要がなかったなら。あなたの言う映画と同じように、全部書いてあるんだもん。<乞食が死んだとき、もはや流れ星は見えなかった>そんなセリフ、アドリブでは無理でしょ?」
「それ、誰が言ったんだ?」
「さあ。たぶん、ミラーね。覚えてない」
「覚えろよ」
「どうして? わたしとあなた以外には、関係ないし」
「それを書いた男はどうなんだ」


*****


わたしは眠りと覚醒の間を行ったり来たりしていた。わたしの夢は、蝋燭とユニコーンでいっぱいだった。それについてヘレナに尋ねると、ヘレナは、百七十年ほど前の何かのワンシーンだと言った。ヘレナは、戯曲の末尾の長い一節を引用した。それは、稲妻に照らされる世界や、変化や、そういったことに関する話だった。わたしは歴史マニアではない。だから、それが現れた時代にぴったり適合するとは言い切れないが、今やわたしは、稲妻について知っている。それをヘレナに説明しようとするとき、わたしになしうるのは、息を詰まらせながら、気にするなと言うことだけだ。


*****


とうとう、夜明けが複合都市の外の海から暗闇を取り去る前に、わたしは頭の後ろに両手のひらを上向きにして枕のように敷き、昔知っていた歌をやさしく口ずさんだ。父が歌ってくれた子守唄だったなら、よかっただろう。よかっただろうとも。だが、そうではなかった。
「ヘレナ、ひとつ知っていることがある」
「何? まだ疲れてないの?」
「いや、まだ大したことない。わたしが知っているのは、わたしたちは死にかけているということだ。きみもわたしも、フィリップも、そのほか、この馬鹿げた厩で生きている連中がみんな。今わたしは、いい言葉を使ったな。厩。われわれは馬だ、ヘレナ、自動車社会の馬なんだ。われわれはひとりひとり、やつらに撃ち殺される。わたしが作っているテープ、あれは子供たちの成長を助ける。で、わたしは何をするんだ? このわたし。洪水や地震や恐るべき怪物の侵略を生き延びる英雄のわたしは。それがわからないからといって、わたしはガキのように走り出し、誰かさんをぶん殴った。あいつらをほとんど殺しかけたんだ。ヘレナ。そして、あいつらはわたしを捕まえに来る。いつの日か」
かさこそという音。ベッドのシーツ。ヘレナはついに諦めて、シーツの間に入って来た。「なら、わたしたちは逃げなきゃ。簡単なことよ」
「わたしたち?」
「あら、いい加減にしてよ、ゴーディ! あなただけに楽しみを独占させてはおけないわよ」
今度の笑いは本気だった。楽しかった。わたしは手を伸ばし、ヘレナを抱き寄せた。わたしたちは子供のように体を揺らしあい、痙攣が体を走ると、ふたたびしらふに戻った。
「なあ」わたしは言った。「警察がわたしを追ってくるまでは、そして追ってこない限りは、大げさに逃げる意味は全くない。これだけでかい複合都市に隠れているのはたやすいことだろ? それに、今の契約を全うしたいんだ。必要なら、ほかの場所でも仕事にありつけるように。今のところわたしは、自分の職歴に傷をつけたくないのだ。それに、何かほかのものを見つけたい。きみがいった通り、ある種のものを。わたしは流れ星を見つけたい。小さいやつでいいから。そのために、わたしはできるだけすべてを学ばなければならない。なぜわたしたちが──死ぬのかについて」
「その答えをわたしは知っているわ」
「ああ」
「一般大衆は、もはやわたしたちが好きじゃないのよ。数千年かかったけど、もうわたしたちに生きる値打ちはないと、ついに決めたのよ」
「違う」わたしは言った。答えに近づきかけていたが、まだ自分の見ているものが何であるのかはっきり知りうるほど近づいてはいなかった。「違う、もっと何かあるんだ。わたしは走りだす前に、知りたい」
「なら、最初にあなたがやるべきことは、あまり深刻にならないことよ。あなたの言ったようなものを探すなら、微笑みながらのほうがいいわ」
「どうして?」
「あら、眠りなさい、ゴードン。もうあなたの話、面白くないわ」


*****


二日後、パンフレットが来た。月のドーム都市のひとつからきた役者たちが、一連のオリジナル作品を披露するという、限定契約だった。わたしはその公演を前に見たことがある。また見る必要があった。知るとはなしに、この人たちが鍵を握っていると知っていた。ヴィヴィアンがチケットを取ってくれた。わたしは、あの糞ったれディレクターに、わたしがいかに優れた役者たりうるかを示すことで、ヴィヴィアンに報いた。ディレクターはわたしを気に入った。わたしも自分を気に入った。そしてありがたいことに、わたしはまだ<番犬>パトロールに捕まっていなかった。相変わらずわたしは影を渡り歩き、肩越しに振り返って見たりしたが、いつまでも自由でいられるかも知れない、と信じ始めていた。あるいは,寝る前に毎晩自分にそう言い聞かせようとしていた。
月のパンフが来た次の日、わたしは<キーロフト>ロビーで大家に呼び止められて立ち止まった。上の部屋で友人が待っているという。
「その人は鍵を持っていませんでしたよ、アンダースンさん」大家は言った。「でも、この辺りで何度も見かけたことがあります。だから、チューブに乗せて入れてやってもかまうまいと,思ったのです」
わたしは考え深くうなずき、ありがとうと言って、リフトチューブに乗っている間ほとんどずっと、もしそれが警官で、大家が報酬をもらっていたらどうしよう、と考えていた。
だが、違った。
フィリップだった。
わたしが入ったとき、フィリップは映話を外したところで、誰と話しているか確かめようとソファを回り込んだとき、フィリップは巨体を動かし、スクリーンは映りが悪くなり、真っ暗になった。
「何だい?」わたしはソファの腕に座りながら言った。
フィリップは、和解を求めるような態度で、両手を広げた。わたしは一分たりとも信用しなかった。一言の直接の言葉もなく、わたしはフィリップからヘレナを奪ったのだ。そして、フィリップが死ぬほどロマンティックな嘘を生きていることを、二度にわたって認めさせた。かつてわたしたちを結んでいた友情は、埋もれてしまった。奥深く。
「なあ、フィル。わたしは腹が減ってるんだ。それに,明日に備えて調べることもあるんだよ」半分は本当だった。食事の後、わたしはヘレナに借りた戯曲のいくつかを読み続ける予定だったのだ。
「ああ、ならいいよ」フィリップは映話の横に立ったまま言った。「きみに知らせようと思ったんだ。今朝小耳にはさんだものだからね。間違いなくきみが興味を持つと思ってさ。代わりに,お願いしたいことがある」
「わからんな」わたしは言った。「わたしと何かの取引がしたいのか?」
フィリップはうなずいた。
「何のお願いだ? くだらないものか? 何が必要なんだ、金か? 住む場所か?」
「ちょっと待ってくれ、ゴードン。すべて分かってもらえる。知っての通り、わたしは今、失業中だ。手続に従い、ただヴィヴィアンの多種多様なクライアントの中にいることで、仕事を得ていた。ヴィヴィアンが無造作に、ちゃんとした理由もなく、わたしをクビにしたとき、わたしは力を得て、国から完全な生活援助をもらうため、最寄りの役所に自分の存在を売りこむ必要があった」手は震え、腹をつかみ、ゆるいズボンを引き上げた。ブーツの中にたくしこむ手間さえかけていなかった。今日は全身緑ずくめで、ラッキーカラーだった。
「すまない、フィル」
笑いは短く不実だった。「だろうなと思うよ。だが、要点はそこじゃないだろ? 役所に行ったとき、わたしは二人の役人から聞いたんだ──ひとりは<番犬>の運転手だったと思う──旧地区で連続して起こった犯罪的な襲撃事件のことをね。きみがよく、うろつく場所だよ。ゴードン、きみもきいたことあるだろう」
わたしはゆっくりうなずいた。わたしの顔は完璧に落ちついていた。
「ところで、そのうちのひとりは、いつもパトロンになってくれる人だった──」そして目をぐるぐるさせ、そのパトロンという言葉がいかに不愉快かをわたしにアピールしようとしていた。フィリップにとって。わたしにとってではない。「あの男は、<ジョイホール>で余暇のかなりの時間を費やしていた」舌にしみるとでもいわんばかりに、一息に言葉を吐き出した。「<アリーナ>的なことに。言いたいことは分かるだろう。きみがいつも嬉しそうに話してる、英雄談だの何だのだよ」
「フィル」わたしは言った。そして立ちあがり、壁のオーブンに向かった。「誹謗中傷のためにきたのなら、さっさと本音を吐いたらどうだ? 今日はその手の話につきあう気はないんだ」
「すまない」フィリップは言って、わたしの後ろに立った。わたしは食事を選び、当て付けがましく一人分だけを選んだ。わたしが振り向くと、フィリップは肩をすくめた。「地方警察によると、被害者は、俳優の一人がその男の特長に合致すると確信しているらしい。つまり──犯人だよ。もちろん、わたしはその人物が誰に似ているかまでは聞き取れなかったが」
フィリップは言いやめた。わたしは待った。
「きみが知りたいと思ってね」
「ええ? なぜだ?」
「そうだな、実際、ゴードン、きみたちホロビデオ業界の人たちは、なんて言ったらいいかたとえようがないが、やけに結束が堅い。きみが、その言葉が友人の誰にあてはまるか、考えてみたいのじゃないかと思ってね。その友人に、気をつけろと注意を促すためにさ。いってみれば」
わたしは手をポケットに入れたままだった──震えないように、ぎゅっと握りしめて。わたしはうなずいた。後悔と感謝が同時に表れるようにと願いながら。そして、フィリップを戸口に導いた。
「見返りは?」
「何の見返りだい?」わたしは言った。「ああ、そうか、いいよ。何だね?」
フィリップはわたしの肘を取り、太った手を密着させ、指で締め付けた。「たのむ、ヴィヴィアンに話して欲しい。毎日食べものをくれと頼んで歩くのはもううんざりなんだ。つまり──ほんとうに、ゴードン、屈辱的なことなんだ。わかってくれ」
「フィリップ、ヴィヴィアンは、きみが頼めば明日にでも十いくつの役を見つけてくるよ。だが、きみはやろうとしない。きみが動かない限り、わたしにできることは何もないんだ」
わたしに平手打ちされたように、フィリップは後ろに下がった。それから深夜のように暗く顔をしかめた。そして、わたしに肩をぶつけて、ロフトの外の廊下に出た。リフトチューブに一歩踏み込み、肩越しに振り返って、微笑んだ。
「きみは、わたしにそれを無理強いするんだな?」
「フィル、わたしはきみに何も無理強いはしていない。きみがわたしに、友人として、ヴィヴィアンとの和解の口ききをしてほしいというのなら、きみも妥協しなければならない。たったそれだけのことだ」
「なら、とても残念だよ」そう言って、フィリップは去った。
わたしは、フィリップがふたたび現れるのを待った──待ってから、急いでロフトに戻り、フィリップが何か盗んだり、動くかしたりしていないかを、入念に調べた。だが、フィリップのいた唯一の証拠は、パンフだけだった。ソファに置いてあったパンフが拾い上げられ、読まれて、床に落とされたのは明らかだった。わたしはそれを拾って四つ折りにし、ポケットに押し込んだ。ヴィヴィアンが買ったチケットの日付が載っていた。そして、チケットを受け取るために会う男の名前が。
フィリップの馬鹿げたやり方が本人ともども気の毒で残念だった。だが今は、もっと心配すべき重要なことがあった。急いで食事をし、逮捕が迫っていることを示すニュースはないか、チェックした。それからヘレナに映話し、夜の残りを映話にかぶりつきになって、ヘレナの貸したシナリオのでたらめな場面を読んで過ごした。わたしが一行読み、次の行をヘレナに言わせて、困らせようとした。だがわたしはたいてい負けた。でももっと重要なことがある。わたし自身、そのシナリオを覚えつつあった。わたしは、意気揚揚とと室内を歩きまわり、とうとうわたしが映話に映らない場所に出てしまっているわと、ヘレナに言われてしまった。
それこそ疑いも心配もなく時間を過ごす簡単で最高の方法だった──むろん実際にヘレナを抱いているときを除けばだが。
その夜の間中、わたしは十数回ヘレナに約束した。あとで抱きあおう、

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