SF百科図鑑 残像 After-Images マルコム・エドワーズ


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残像 After-Images マルコム・エドワーズ


前日の出来事のあと、ノートンは発作的に眠っただけだった。その夢は、リチャード・カーヴァーのグロテスクな姿に満ちていた。名目上の朝がまた訪れたことをベッド脇の時計で確認するとほっとした。いつも完全な暗闇でないとなかなか寝つけないのだ。だから、変わりない日光がカーテンの隙間から漏れ、床を照らし、白熱するナイフで切り裂かれたような線を引いていることで、ノートンはいっそう落ち着かない気持ちになった。できるだけきちんとカーテンを閉じようとはしたが、安物で縫製もよくなかったし──アパートの前の持ち主が、ある明白な理由で、引っ越すときにわざわざもっていこうとはせず、置きっぱなしにしていたものだ──たとえ頑張って上下の端をできるだけきっちり揃えたとしても、上端のプリーツの辺りに、必ず狭い隙間ができてしまう。
ノートンは無力感から来る疲労に囚われそうになった。だが、己の存在の予期せざる終局を間近に控えて八日目の朝だということを思いだすと、疲労を振り払い、けだるくベッドを滑り降りた。急いで着替え、あまり考えず、カーテンを開き、正午過ぎの夏の陽光を入れた。
太陽はこの八日間あったのとまったく同じ位置、つまり、通りの反対側のテラスハウスの屋根の頂点から数度傾いたところにある。その日は嵐で、すべてが止まる数分前に、激しいにわか雨がロンドン中を襲った。だが、スコールが終わり、雲の隙間から──瞬間的に、誰もがそう思っただろう──太陽が現れた。視界の空は、まだ低いすすけた色の雲に大部分覆われ、雲は光を包み、雲の膜を通して奇妙な輝きを放っていた。一般的には、嵐の前触れだ。だが、太陽は天の顔の目のように、まばたきひとつせず、青い空の一点に鎮座していた。ノートンらは、この数日というもの、昼も夜も、この神話的な永遠の太陽に照らされながら、イングリッシュ・サマーを過ごしてきたのだ。
外では熱がむっとおさえつけるように、こめかみを強く圧迫する感覚がある。数週間放置されて飛び散ったゴミが、腐敗しきった匂いを放ち、ぶんぶんという蝿の大群を集めている。ノートンの住むマルボロ通りは、後期ヴィクトリア朝様式とエドワード朝様式のテラスをつきはぎしたデザインで、ロンドン西部の地図上の流行遅れの空白地を占めている。その一方の端は少し広い通りと通じており、この通りはハイ・ロードと呼ばれるバス道路で、みずぼらしい店が散在している。ノートンはハイ・ロードに向かって歩き、所有者が慌てて出て行ったことの明らかな家々を通りすぎる。ドアや窓が開いたままなのだ。通りの向こうの家は、この地区に残っている十代の若者数人の大半が、この三日間、どんちゃん騒ぎを繰り広げ、日を追うごとに派手になっていたが、今は静けさが戻っていた。たぶん、疲労か薬のやりすぎで、ぶっ倒れたのだろう。あるいは両方かも、とノートンは思った。
角で立ち止まった。北──つまり向かって左側──は、通りが急カーブしており、両側に、擬似ジョージア風正面玄関のぼろい三階建ての家が並んでいる。南は直線道路だが、九〇メートルほど先では、<境界面>の巨大で邪悪にきらめく壁が、空に向かってそびえ、超現実的な泡のように後方へカーブしている。いつものように、ノートンはそれを見てしまった。もっとも、目そのものは、自動制御されているように見ることを拒み、別の場所に焦点を定めようとするのだが。
その様子を正確に描写するのは不可能だ。その表面は色が欠けているように見えるから。目を閉じると、まぶたの裏を色とりどりの残像が泳ぐ。交差し混じり合う原形質様の形。無理に見ようとすると、視神経はその存在を否定しようとする。両脇の商店の映像を歪曲して重ね合わせ、道路が次第に一点に向かって狭まっていくように見せかけようとするのだ。
ノートンはときどき偏頭痛に見まわれ、攻撃準備に似た現象をしばしば体験する。視野の一部が切り取られているのに、空白部分の縁が引き集められ、何かが見えなくなっていると確信することが困難になるのが分かるのだ。そういうときこそ、ときどき目をそらし、目の前にある物体を斜めに見る必要がある。というわけで今も、ノートンは目をそらし、<境界面>を見ることができた。それはあざのような色の湾曲した壁で、そこからときどき織物のほつれ目のように強い光の細い線が漏れてくるのだ。そしてまた、<境界面>に映し出された三人の人間の姿がよりはっきりと見える。洗練されたホログラフ技術によって映し出されているかのように。道路の中央には、境界面に消えたときのカーヴァーと、ノートン自身の姿。それは、波面が徐々に進むにつれてぼやけ始めている。一方の脇には、もう少しくっきりと、ノートン自身が一人で出てきた時の映像記録。表情ははっきり青ざめ、緊張している。重い分極ゴーグルで顔の半分を覆っているにもかかわらず。
ノートンは昨日の朝、カフェ・ヘレニカの外にあるテーブルに座り、小さなカップでギリシア風コーヒーをゆっくり飲んでいた。甘く濁った飲み物はあまり好きでないが、まだビールやワインを飲む気分ではなかった。
カフェのギリシア・キプロス系オーナーは、この状況の変化に、他の環境であれば進歩的と思われそうな態度で反応していた。すべてのテーブルと椅子を歩道に出し、より涼しい室内を年中いるビリヤード好きに解放し、戸外をアテネあるいはニコシアの楽しかった日々を連想させる、オープン・カフェの真似としてはなかなかの傑作に変えていた。残る地域住人の大半はギリシア系だった。男たちはここへ集まり、トランプやチェスをし、安物のデメスティカを飲み、激しい勢いでしゃべるので、話題が陳腐且つ平凡でもドラマティックに聞こえた。風景に時間の観念がないことが、奇妙にもしっくりくる気がした。
ノートンはコーヒーを覗き込み、とりたてて何を考えるでもなかった。そのとき、影がノートンの上に落ち、同時に隣の椅子が路面を引きずられる音が聞こえた。見上げると、カーヴァ―がくつろいで椅子に座った。厚いパッドの入った白いスーツという奇妙ないでだちだった。まるで宇宙飛行士か南極探検家のように見える。テーブルのフォーミカの表面に、厚いゴーグルを持ち込んでいる。カーヴァーはオーナーにコーヒーを注文した。
ノートンは仲間は欲しくなかったが、思わず興味をひかれた。「その道具はいったい何だ?」ときいた。
「探検の道具だ──しかし、暑いね」カーヴァーは言って、袖で面倒そうに額の汗をぬぐった。
「いったい、何を探検するんだ」
「あれだよ──名前は知らんが。泡だよ。<境界面>。おれはあの中に入ったよ」
ノートンはいらだった。カーヴァーはこの状況を真剣に受けとめる能力がないようだった。この男は四日前、ノートンが酔って座っているときノートンに目をつけ、以来毎日ノートンに話しかけた。何が面白いのか分からないギャグと、聞いたことのない、だがおそらくちっぽけな、某国際交流事務所の支店での生活を話しまくった。バーでいちばん隣に座りたくないタイプの客だった。この男、明らかに頭がどうかしている。
「馬鹿を言わないでくれ。ほんとなら、とっくに死んでるはずだ」
「死んでいるように見えるか?」カーヴァーは自分を指差した。その顔は日に焼けて丸く、その目は見ていて不安になるような純粋な海の青で、いつものように健康的に見えた。
「無理だ」ノートンが繰り返した。
「おれが見つけたものを知りたくないか?」
我慢できず、ノートンは叫んだ。「何を見つけたか知ってるよ。核爆発だろう。そいつを通りぬけたとか言うんじゃないぞ!」
カフェのオーナーがやってきて、カーヴァーの前にカップをドンと置き、コーヒーが少し受け皿にこぼれた。カーヴァーは黒い液体を長くゆっくりすすりながら、カップの縁越しに、無表情にノートンを見た。ノートンは馬鹿馬鹿しくなり、引き下がった。
「でも本当なんだよ、ノートン」とうとうカーヴァーが穏やかに言った。「おれはやったんだ」
ノートンは黙ったまま、この茶番劇の会話に加わるのを頑固に拒んだ。別に先を促さなくてもカーヴァーが勝手に話し始めるだろうと知りながら。
「ただ歩いて入ったわけじゃない」数秒置いて、カーヴァーが言った。「おれは自殺する気はない。最初に棒で試してみたんだ。それから少し揺らしてみて、引きぬいた。棒は何のダメージもなかった。そこでおれは考えて、ペットのネズミで試すことにした。ダメージはなかった──ただし、あの可哀想なチビ、目が焼けてしまったけどね。そこでおれは思った、よし、これはとても明るいが、ただそれだけだと。いったいどういうことか?」
ノートンは肩をすくめた。
「あの中では、すべてのプロセスが遅くなってしまうように思ったよ。全体に一連の波頭が立っている──閃光、火の玉、爆風──すべてがゆっくりと拡大している。だが、みな別々なのだ」
「信じ難いな」
「だが、この状況全体が、まったく正常だといえないのは、きみもわかっているだろう──」
別のテーブルで騒ぎが起こり、会話は遮られた。トランプの手札をめぐり、二人の男が喧嘩しているようだ。ひとりは、がっちりした中年男で、グレイのメッシュ入りベスト越しに、たくさんの体毛が飛び出しており、立ち上がって自分の手札を持った手を振り回していた。もう一人のそれよりも年上の男は、座ったまま繰り返し拳でテーブルを叩いていた。早口で脅すような話し声が次第に大きくなった。ベストの男が腕を怒ったように振り、手札をテーブルに投げつけ、カフェの中に踏みこんだ。もう一人は、大声で不満そうに見物人に話し続け、複雑な身振り手ぶりで自分の主張を強調していた。
ノートンにとって、その眺めはいい気晴らしだった。カーヴァーが何を言っているか分からないし、どうしたいのかもはっきりしないから。「あいつらは素晴らしいな」ノートンは言った。「何も起こらなかったような顔をしている。何もかもふだん通りって感じだ」
「あいつらは合理的だよ。すくなくとも一貫性があるよ」
「本気か?」
「もちろんだ。ここ数年の出来事は、何もかも避けられないことだったんだ。みんなわかっていたけど、知らぬふりをしていただけだ。本格的に準備を始める段階になってもな。みんな、まさか本当に起こることはあるまいと言ってきた。今までも起こらなかったから、と──見事な論理じゃないか! おれたちはただダチョウのように首をすくめ、できるだけ知らんぷりを続けたんだ。で、そのあげく、今、こんなことになっちまって──あれが道路の先にある。それが近づいて来るのを、おれたちは知っている。逃げ道がないことも。でも、初めから分かっていたんだ。もし電車の線路に自分をくくりつけたら、電車が視界に入るのを待たなくても、自分が危険だってことはわかるだろう? それと同じことだ。だからおれたちは、いつも通り行動すればいいだけさ」
「あんたがそんなふうに思っていたとは知らなかったよ」
「そりゃそうだろ。あんたにとって、おれは酒場の単なるいかれたジジイだからな。話は以上だ」
カーヴァーの言うことは一理あると思った。もしだれかに死ぬまでに核戦争が起こると思うかときかれたら、おそらく肯定するだろう。もしそうなったらどうするかときかれたら、肩をすくめて、さあ、あなたはどう? と答えるだろう。さまざまな反対運動に参加している行動的な友人は何人かいたが、無益なことをしていると思わずにはいられなかった。実際、友人たちの中には、問い詰められて、確かに無益だとを認める者も、中にはいると思う。違うのは、もし希望が──たとえわずかでも──あるのなら、行動せずにはいられない連中だということだ。一方のノートンは、およそ結果を生みそうになさそうな行動には興味が持てなかった。テレビを見たり、酒場で夜を過ごしたりするほうがましだった。
もうひとつの難点は、その様子を想像できないこと、爆風や炎にやられるロンドンの映像を思い浮かべられないこと、何百万人という人が死に、爆風を生き延びた人々が核シェルターで死に、それに続いて混乱と無政府状態が訪れる様を考えられないことだった。それを想像できないがゆえに、何らかのレベルで、絶対にここでは起こりえないこと、あるいは、自分には起こりえないことだと思っていた。
政治的無関心──とりわけ中東情勢についてのそれ──ゆえに、ノートンは、危機が勃発しつつあることをきちんと認識してすらいなかった。リヤド郊外で米軍とロシア軍が衝突し、開戦するまでは。それから政府発表と非常事態とパニック。家にいるようにという忠告を無視して、大量の市民が都市部から脱出した。軍部に徴用された道路で軍隊が戦っているという不確かな噂が漏れた。わずかな人たちが都市に残った。ある者は政府の指示に忠実に従い、ある者はノートンのように、すべてに全く無関心で、自分たちがどういう未来に暮らしたいのかを想像すらできなかった。
そしてサイレンが鳴り、ノートンはそれがやむのを待った。サイレンはやみ、静寂がずっとずっと続いた。ノートンも他の人たちと同じように、通りに出て、自分たちが今まで想像したどんなことよりも奇妙な状況の真っ只中にいるということを知った。自分たちの立っている小さな島のような都市の一角──一辺が一五〇〇メートルもないような不規則な三角地帯──の周囲で、事実上三地点で同時に起こった地上爆発によって──いったい何が起こったのか? 時空の局所的な亀裂? それがいちばんいい説明だった。原因が何であれ、結果として、この地域の主観的な時間の速度が、何百万分の一になり、爆発の広がる速度を、一日わずか数メートルにまで遅らせ、奇妙でもろい外観の殻の中に閉じ込めてしまったのだ。
はじめ人々は、この奇跡──一見そう見えた──によって、自分たちに助かる可能性があるのではないかと期待したが、すぐに状況を理解した。二つの波面のあいだには、狭い通り道があり、これが側道と交わっているため、そこを通れば、明らかに安全だと思われた。計画ミスで避難し損ねていたある家族が、車に乗ってその通り道を走ったが、途中で車は停止し、凍りついてしまった。ノートンはときどきそれを見る。リアウインドウ越しに微笑む二人の子供の顔が見える。両手は空中で止まっている。この現象は地域的なものにすぎないから、目に見えない通路を通りすぎた時点で、この家族がリアルタイムの世界に戻ったことは明らかだった。だが少なくとも、この家族には、脱出の試みが失敗したと認識する暇すらないだろう。そう思った。この家族の代わりにその苦痛を経験するのは、いまだにここに囚われている人たちだけなのだ。
ノートンは思った。この町の上空を通過する可能性のある偵察衛星の中に、今のこの状況を把握しているものがひとつでもあるだろうか。たとえ地上の物体の動きを記録しうるほどの性能を備えていたとしても。おそらく未来の歴史家か誰かが、壊滅したロンドンを分析するために、その映像をスロー再生すれば、爆発が広がったエリアにおいて、尋常ならざる高速度で動いていることが明らかな地上の物体に疑問を持つだろう。だがきっと、歴史家は不思議そうに目をこすり、目のいたずらとして却下するだけだ。明るい光を見たあとまぶたの裏に残る残像のように。
「で、きみも来るかね?」カーヴァーが言っていた。
ノートンは注意を会話に戻し、カーヴァーが話し続けているのに、自分がその話をほとんど聞いていなかったことに気づいた。
「来るかねって、どこへ?」
「<境界面>を通るのさ。誰か他の人に見て欲しいんだ。すごいよ、あれは、ノートン。一生ものの経験だ。というか、人生最後の経験だ。これを見逃す手はないよ」
ノートンははじめ本能的に、興味がないと言って断ろうと思った。遅くとも数日後に終末が訪れるというのに、新しい経験なんかに大した意味は見出せない。だが、実際には、何らかの能動的な行動は──たとえ見せかけだけのものであっても、歓迎すべきものであると気づいた。医者に余命の告知を受けた末期患者が、ただ横たわって死を待つことはない。魂があるのなら。起き上がって、可能な限り長く、自分の人生を生きようとする。いま、人々になしうることは、この最後の事態を分析することだけだ。そしてここでは誰もが──ギリシア人のトランプ好き、パーティ好き、そしてカーヴァーもが──それをやろうとしているらしい。ノートン以外は。
「いいよ」ノートンは言った。「でも、体を守る服はどうするんだ? きみはそれがあるが──」カーヴァーの分厚くてみっともない服装を指差した。
「必要ない。実際、中よりもここのほうが暖かい。自分が何を考えてあんな無謀なことをしたは分からない──もしぼくが熱の中に駆けこんでいたら、この千倍の服を着ていても、何の守りにもならなかったはずだから。でも、さいわい中は熱くはなかったよ。きみに必要なのはゴーグルだけだ。僕は予備のをひとつ、家に持っているよ」
カーヴァーは立ち上がって、五ポンド札をテーブルに置き、ノートンに着いて来いと指図して、歩み去った。カーヴァーは、ハイロードに少し入ったところに住んでいる。大きな、正面の赤レンガが二重になったヴィクトリア風の家だ。隣近所の家の大半は寝室代わりに使われている。カーヴァーの家はまだ無傷だった。とはいえ、前庭は、茨のあいだにタチアオイが息苦しいほどからみあっている。窓枠の木は目に見えて腐っている。状態の維持に、ほとんど注意が払われていないのは明らかだ。
中には、割れた茶色のリノリウムが床に張られた暗い廊下があった。コート掛けや帽子掛けが無造作に置かれている。埃と、古い革と、正体不明の腐敗物の重い匂いがする。
カーヴァーは奥の間のひとつに入った。ノートンは後についていき、開かれたドアの前で立ち止まった。大きな部屋で、フレンチ窓が庭に向かって開かれている。以前どのように装飾されていたかは判別しにくくなっている。部屋全体に雑多な品々がばらまかれているからだ。すべての壁は床から天井まで本が並んでいる。派手なペーパーバックの横に、高価な装丁の古書が並び、一見でたらめだ。床や椅子やテーブルの上にも本が積み上げられている。他の部分は、時計や球やぬいぐるみや模型船やエンジンや古い科学・医療器具や陶器や楽器その他無数の雑多な品物がめちゃくちゃに置かれている。カーヴァーは──ガラクタの海の中をかきわけるように──机まで進んだ。そこはガラクタの一部が脇に寄せられ、ナイフ、のり、偏光プラスチックの残骸の間に、二つ目のゴーグルが置いてあった。
「散らかっててすまん」カーヴァーは陽気に言って、ドアの脇にどうしようかと迷いながら立っているノートンを見た。「家中がこんな感じなんだ。物を集めるのを止められなくてさ。妻はおれの前生がコクマルガラスじゃないかって言ってた。だからおれはここに残ったんだけど。せっかく集めたものを失ってまで、他の場所でやり直すなんておれには不可能だ。ときどき、ほんとうのおれはここじゃなく──」自分の頭を叩いた。「──ここにあるんじゃないかって思うよ」今いる部屋と、その奥の部屋を指差した。
ノートンは急にこの男に親近感が湧いた。初めてこの男をきちんと人間として見る気になった。ただのうっとうしい存在ではなく。カーヴァーはそれを感じ取ったようで、とまどいの雰囲気が広がるのを避けるように、向こうを向いて何十秒もの長い間、ゴーグルをいじっていた。「自分で作ったんだ。普通のサングラスじゃだめだ。もっと厚さが必要だ。ものすごく厚くないとね。問題は、いったんかけると、他のどんな場所でも物が見えなくなるってことだ」
カーヴァーは自分が先ほど探検した場所を案内したいと言ったが、同じぐらい強い口調で、今回はその前にどこか違う場所に寄って行きたいとも言った。既にうっとうしい防御スーツを脱いでおり、アロハシャツとコーデュロイのズボンという、開拓者らしからぬ外見だった。二本の太い木の棒を立て、一本を自分が持ち、もう一本をノートンに渡した。二人はハイロードを出発し、二番目の角を左折した。そして、もうひとつ別の、かすかに光りながら目を痛めつける、色のない壁に対峙した。カーヴァーが<境界面>を通過すると、ホログラフの画像が通過するように、その表面にカーヴァーの背中の映像が残り、こちらへ戻ってくると、正面の映像が残った。
「見ただろ」カーヴァーは言った。「光は逃げられない。だから、琥珀の中の蝿のように、映像が残るんだ。映像が分解するほど遠くまで、この表面が前進しない限りはね。既に映像の分解は始まっているが」
近くで見ると、実際その映像がかすかに焦点の定まらないものになりつつあるのが、ノートンには分かった。揺らめく熱気のもやを透かして見ているようだ。
二人はハイロードまで歩いて戻った。カフェを通った──一団の男が立ったままテーブルを囲み、他の五人の男が明らかに緊迫したトランプゲームに興じるのを見ていた。勝ち負けについての賭けが行われているのは明らかだ──それから二人は、通りをふさいでいる<境界面>に近づいた。
「よし」カーヴァーは言った。「近くに着いてくるんだ。不安になったら、前で棒を振れ。不安がなくても、前で棒を振れ」そして笑った。ノートンも微笑み返した。二人はゴーグルをかけ、盲人のように、棒で道を探りながら、<境界面>に歩み入った。入った時の映像が表面に残り、カフェの誰の目からも、二人が突然ありえないような形で、歩きながら凍りついたように見えた。
ノートンはまばゆい光の音のない吹雪に包まれているのに気づいた。幾層もの分厚い分光プラスチックを通してすら、その光は目が痛いほど強い。まるであまりにも近くで太陽を見ているような感じだ。しかも、目をそらす余地はない。光はノートンの周りで跳ね回っているかのようだ。あるいは、地面から噴き上がり、頭上に降り注ぐかのようだ。耳の中で、歌うような音が聞こえる。風の中に歩き出すような感覚だ。純然たる白熱光の微風。その光子の圧力は、ノートンの前進を妨げるほどに強い。
ノートンは気分が踊った。ほとんど恍惚感に近い。まるで神と対面しているようだ。光は何もかもを浄化し、純化する。ノートンは、自分の手が無意識のうちに泳ぐように動き、不器用な平泳ぎで、自分の体を人工太陽の冷たい中心部に運ぼうとするのを感じた。
「ノートン! 何してる、気をつけるんだ!」カーヴァーの声が、水の中のように遠くから聞こえた。その声がノートンの耳にはねかかったが、光の波によって洗い流された。
カーヴァーは横でシャツを引っ張っていた。ノートンは振り向いてカーヴァーを見た。カーヴァーは蛍光色の光を放ち、輝いていた。強い光がふだんの色を圧倒し、カーヴァーは、ある程度の輝くような白さを帯びた、シュルレアリストの彫刻に見えた。その肌は、透明に光っており、ノートンが手を上げると、自分の手も同じように見えることが分かった。肉を通して、骨のかすかな輪郭が見えるのではないかと妄想した。カーヴァーが動くと、光の中にカーヴァーの動いた跡が刻まれる。突然の杖の動きが、あらゆる方向に光を切り裂き、屈折させる。
「カーヴァー──」ノートンは言った。その声は無音の嵐に向かって話しかけるように、かき消された。「これは異常だ──信じられない──」言葉は途切れた。この体験を描写する言葉を知らなかった。
カーヴァーは笑った。「なあ、核爆発の中心にこんなものがあるなんて、誰が想像しただろうね。だが、おれにはわからん──それが核爆発だという事実を忘れさえすれば、核爆発のスローモーション・フィルムは、いつ見ても美しく見えたのかも知れないしな」
「どこまで深く行けるのかな」ノートンが叫んで、振り返り、光の中心部に向かった。鉱物探知機のように、杖を使いながら。
「せいぜい数メートルだろう。すぐに分かるさ」
ノートンが十数歩歩くと、杖の先端が突然爆発し、まぶしい炎になった。<ガイ・フォークスの夜>の線香花火のように。ノートンは杖を引き、燃える先端を踏み消した。一瞬で先端から数十センチが消えた。
ノートンは先を覗き込み、その先の<境界面>が見えるのではないかと思った。火の玉が閃光の背後で、ゆっくりと容赦ないペースで前進しているのだ。輝きを通してすら、オレンジ色の炎が一定のパターンでちらつきながら、第二の<境界面>の表面で踊っているのが見える気がした。その向こうに何があるのかを、突然ノートンは思いだした──だが今のところ、それは冷たい白い炎の雲をまとったまま、漂っているだけだ。
白い後光をまとった幽霊のような姿のカーヴァーが、横にいた。カーヴァーは、火の玉の表面を杖で弄ぶように叩いていた。その度に、杖の先が六、七センチずつ減っていた。まるでライオン使いだ。杖一本と、自分の個性の力によって、想像を絶する巨大なエネルギーを制御しているのだ。
「近寄りすぎるなよ」ノートンは警告した。だが、相手は徐々に前進していく。カーヴァーが気づかないので、ノートンは杖でカーヴァーの肩を叩いた。振り返ろうとして、カーヴァーは歩道の縁石に足をとられた。よろめいたカーヴァーは、驚きに口をあんぐり開けて、後ろ向きに倒れ始めた。ノートンが助けようとして身を乗り出す前に、カーヴァーは火の玉の中に倒れこんだ。
すべてがスローモーションで起こっているように見えた。まるでカーヴァーがもうひとつ別の特異な世界の中に落ちていったようだった。カーヴァーは凍りついたまま、髪が燃え、皮膚が焦げ始めているように見えた。蒸気の玉がカーヴァーの体から噴き上がった。シャツがあっという間に蒸発し、単に消えただけのように見えた。何かを言おうとするかのように、唇を開いているが、それは単に熱によって唇が縮んだだけだった。その後ろで、歯茎が燃え尽き、急速に焦げてゆく骨を晒したが、歯だけが奇妙に白く見えた。だがやがてその歯も、エナメル質がはじけて、燃え尽きた。ゴーグルは溶け、顔の中で蒸気を放つ眼窩を晒していた。その顔は後ろに倒れながら骸骨に変わっていった。カーヴァーの体は、肉が焼かれるフィルムを早送りで見ているように、煮えていった。皮膚はカリカリに焼けて剥げ落ちた。続いて肉が、フレーク状に崩れて骨から落ちた。骨は関節でぱきぱきと弾けながら、焼け始めた。カーヴァーが地面に倒れる時までには、残っているのは焦げてくすぶるゴミの山だけだった。それは雲のような灰となって吹き流された。わずか数秒の間にそれは起こり、ノートンに聞こえたのは、穏やかな、物悲しいほどのささやき声にも似た音だけだった。
恐怖に立ちすくんで、ノートンは見つめた。吐き気を感じて、杖を落とし、よろめきながら逃げた。<境界面>から、完全な暗闇の中に飛び出した──そしてゴーグルをはぎ取り、歩道に座り込んで、吐き続けた。しまいには、胃から出てくるものはすっぱく黄色い胆汁の薄い滴りだけになった。
今、ノートンは、昨日の悲劇の冒険の始まりと終わりを記録する映像を横目で見ながら、<境界面>が変化しつつあるのに気づいていた。表面の模様の動きが前よりも活発になっている。いくつもの扇のような光が一瞬、外側に噴き出す。低いバスの響きのように、それは振動しているようだ。<崩壊しようとしているのだ>ノートンは思った。<もう先は長くないだろう>
驚いたことに、ノートンの主な感情は、恐怖ではなく安堵だった。なぜ死刑の確定した囚人が、ときどき弁護人に懇願して、死刑の執行を遅らせるよりも、むしろ積極的にそれを早めることを望むのか、今になって理解した。
終わりが訪れるときには、家にいたいと思った。だから、振り返ってマールボロ通りに戻った。六番地を通り過ぎるとき、ノートンを呼ぶ声が聞こえた。マクドナルド氏だった。人なつこく、人づきあいのいい年金生活者で、同じぐらい気立てのいい妻とともに、そこに住んでいた。表面的な心地よいレベルでは、ノートンはこの人たちといつもうまくやっていた。車がなかったので、マクドナルド夫妻は、逃げたくても逃げられなかったのだ。
マクドナルド氏は、忙しそうに、居間の窓を塗り直していた。「最後の手入れですよ」楽しそうに言った。マクドナルド夫妻は、その前の週に引き続いて、この八日間も、家の一部を核シェルターに変える作業をしていた。国の指導パンフレットに従ったのだ。この一週間は、夫妻にとって、仕事をきちんと完成させるために神が授けた最高の時間のようだった。夫妻の家には地下室がないため、巨大な食器棚を階段の下に備え付け、土を詰めた無数の黒いゴミ袋で補強していた。その中には、注意深く選り集めた、食糧や水や薬の蓄えがあった。更に、ベッドと、基本的な調理器具。化学式の携帯トイレ。退職によってそういう娯楽ができなくなる前から、マクドナルド夫妻は熱烈なキャンプ好きで、自分たちが専門的に愛情をこめて備蓄したものを、極めて大きな僥倖と考えていた。数日前、マクドナルド氏は、素晴らしく出来のいいシェルターをノートンに見せたいと言って来た。自分の防御施設を作る材料がないのなら、物を脇によけて、三人分のスペースを作ってあげるよ、とすら言って来た。しかも、その申し出は単なる社交辞令に過ぎなかったが、仮に自分が無理に要求すれば、マクドナルド夫妻はほんとうに受け入れただろう、とノートンには確信があった。だが、ノートンは丁重に断った。自分の準備は、自分でしたほうがいいですから、と言って。
いま、心の中にカーヴァーの姿を生々しく思い浮かべて、マクドナルド氏に叫びたい気がした。周囲でかろうじて抑えこまれているあの力の前では、あなたの努力など無益なのだと、ショックを与えて分からせてやりたい気がした。だが、そんなことをしても、この老人を傷つけ、混乱させるだけだ。この人は、ただ、国があなたの命を助けるからといって指示したことを、忠実に守っているだけなのだから。
ノートンは、マクドナルド氏に手を振って別れを告げ、歩き出した。だが、足を上げたとき、周囲の空気が冷たく身を切るような感覚があった。ノートンがその現象をきちんと知覚する前に、一瞬のすべてを飲みこむ輝き、もはや冷たくも純粋でもない白い炎が、世界を覆い尽くした。
~完~