SF百科図鑑 立方根演習 Cube Root デイヴィッド・ラングフォード


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

立方根演習 Cube Root デイヴィッド・ラングフォード

メッセージがきたとき、一行が沼沢地に出てから三日がたっていた。
「<立方根>演習は──中止になっただと?」フィンレイが平らな画面を読み上げた。そして、信じられんというように顔を上げた。「いったいなぜそんなことを?」
マッキン隊長はゆっくり肩をすくめた。その細長い顔は、自分の次の昇進を妨げるおそれのある様々な事態に思いを巡らし、もはやそれにとりつかれていた。この男はあまりにも軍に忠実でありすぎた。
「なんらかの種類の非常事態だろう」ようやくマッキンは言った。
その瞬間を狙って、つばを飲み込んだフォークナーが尋ねた。「国家的軍事演習を中止にするほどの非常事態とは、何を意味するんだろうかね?」
一瞬、ボドミン沼沢地のまばらな茂みの間を吹き鳴らす風の音以外には、何の音もしなかった。フィンレイはディスプレイの次のメッセージを読んだ。「この無線リンクは遮断される。繰り返す。この無線リンクは遮断される。貴君らは、実地において、リアルタイムの<立方根>演習手順に従って行動せよ。繰り返す。リアルタイムで行動せよ。この無線リンクは遮断される。メッセージ終わり」
「なんてこった」真っ先にフォークナーが言った。「とんでもないことが起こるだろう」熟練した眼で、男たちの小集団の反応を点検した。マッキンの顔は青ざめている。むろん、どういう事態なのかを、あまりにも理解し過ぎているのだ。フィンレイはパソコンのディスプレイとキーボードを畳みこんで、唇を噛んでいる。スプラットは、ジョークを探しており、リューダウンは、何とか笑い飛ばそうとしている。年若いグレイは、尊敬するマッキンの緊迫した表情を真似している。部隊の大半の者が、訓練で身につけた無表情をしているが、トレジェイスだけは、頭の悪さに似合った、独自の間抜けな表情をしている。
「われわれの新たな秩序が、いま樹立された」かすかに声を上げて、マッキンが言った。「<立方根>演習において、あらゆる部隊は、第二の攻撃から四八時間が経過するか、あるいは解除指令を受け取るまで、ばらばらに展開したまま、軍事及び民間の攻撃目標から距離を保っていなければならん。攻撃目標あるいはその周辺エリアを占拠すると同時に、秩序を再樹立するのだ──」
「知っていますよ」リューダウンが風に向かって言った。
「<そして、隊長が立ちながら演説をぶつのを聞いていると、その姿が堂々としていることを認めずにはいられなかった>」スプラットがリューダウンに向かって、小説の一節を引用してみせた。
<すぐに明らかになる不忠誠の最初の兆候だ>フォークナーは心の中のメモ帖に書き込んだ。そして、右手首に巻かれた透明で汚れたプラスチックの細いバンドをこすった。無意識にというわけではなかった。全隊員がそれをつけているのだ。フォークナーは、自分のリストバンドに、薄気味悪いほど興味を引かれていた。

***

ランドローヴァー数台とともに、頂上が花崗岩に覆われた高い岩山の脇に隠れて、キャンプを張った。<立方根>演習の手順書には、「道路を含めて、いかなる軍事あるいは民間の攻撃対象からも直接見えない場所に、隠れていなければならない」と書いてあるのだ。斜面のずっと下の空洞に、風を受けて緩慢に流れる小さな湖の灰緑色の水が見える。第三三八部隊(マッキン隊長指揮)は、重いゴム製防御スーツと格闘していた。汚染地帯を占拠するふりをするためだ。疑われたときには、ダミーのスーツで、忙しく働いているふりをするのだ、とフォークナーは思い出した。随行の民間人であるフォークナーは、多少サボってもかまわなかった。
作業の後、汗に肌をひりひりさせながら、一同は紅茶を飲んだ。
「こんなカモフラージュに、実際のとこ、どれだけ効果があるんだろうね」雑談するような口調でフォークナーは言って、まだらに塗られた車を指差した。
「素晴らしい効果があると、ぼくなら言います」忠誠厚いグレイだった。
「明るい黄色で塗ったほうがよかったと思うけどな」スプラットが言った。「血のようなハリエニシダの花の色と混ぜればよかった」
「人工衛星を気にしてるのか?」フィンレイがフォークナーに言った。
「ああ──よくわからないが」とフォークナーは言ったが、実はよく分かっていた。「これだけばらばらに展開しても、沼沢地全体の頭上にある人工衛星のカメラは、われわれをどこまでも追いかけられるはずだ。間違いなく」
「あんたは、医薬品の提供だけを考えていればいい」マッキンの声はよそよそしい。無線通信が途絶して以来、マッキンはできるだけ厚い規則とルーチンワークの層の中に自分を埋めようとし続けていた。フォークナーはおとなしく、会話から離脱した。危険な観念をもうひとつ、三三八部隊に放ってやったのだ。臨界点にまた一歩近づいた。
フィンレイの受持ちは、通信業務だった。何もない沼沢地から明りが薄れ始めるころ、フィンレイはマシンを開いて、必死に状況報告書をまとめ始めた。
「無線が切れたってことを聞いてなかったようだな」無関心そうにリューダウンはいいながら、専門家の肩越しに覗き込んだ。
「うるさいぞ」フィンレイは言った。うまくいこうといくまいと、とにかくスクランブルをかけた報告ファイルをネットに送れと、<立方根>手順書には書いていることを、フィンレイなりのやり方で思い出させようとしたのだ。
<ストレスの兆候だ>フォークナーは気づいた。フィンレイは、唇を引き締めて、スクリーンをスクロールしながら細かい訂正をし、リューダウンは哀れむように、ちっちっと唇を鳴らしている。
自動的に、心の中でチェックを続けた。<非常事態が存在することによって、人間の態度はより純化される。リューダウンのストレス対処法は、他人の行動をもっともらしく馬鹿にするという、ふだんの皮肉なスタンスを誇張したような立場に自分を置くことだ。一方、フィンレイの場合は、どうでもいい任務に没頭することを好む──>あとで現在の印象を、症例ノートに転記する予定だった。
<マッキン隊長の調整法は、おもに──>
そのとき、それは起こった。
小さな湖の頭上高くで、驚くべき光が燃え上がった。まるで巨大な閃光電球が、点滅する代わりに徐々に光を増しているように見える。そのまばゆいまでに強すぎる光は、頂点に達すると、あたりの人や物の色を押し流した。それに比べると、青白い月の光など弱すぎて、ないも同然だった。その光は、黄色や赤、竜の息のような熱波を送って消えた。最後に、眼に見えない一陣の衝撃波が草をたたき、肺から呼吸を押し出した。
<眼を閉じて、閉じたままでいなさい。うつぶせに横たわり、体の下に両手を入れなさい。爆発音が通りすぎるまで、伏せたままでいなさい>一同が、小さな手帳にその一文を記していた。
フォークナーは、反射的に飛びこんだ泥の中から、震えながら身を起こした。恐ろしい残像の向こうで、他の男たちが同じことをしているのが見えた。耳は雷鳴のような静寂に鳴り、眼は堅い紫色の電光シートのようだった。面白いほどに落ちついたリューダウンが、最初に口を開いた。通信ユニットを拭いているフィンレイに寄りかかりながら。
「レポートしろよ」リューダウンは言った。
「またやり直さなければ」陸軍技官フィンレイは機械のように言った。そして液晶画面を見つめた。鋭く息を吸いこむ音がフォークナーには聞こえた。
「だめになっている」麻痺したような声が聞こえた。「放射能だ──」
スクリーンはめちゃくちゃに文字化けし、でたらめな文字や記号、狂ったようなアルファベットで覆い尽くされていた。
フィンレイ、リューダウン、フォークナー、そして他の隊員一人一人が、薄れゆく光と眼もくらむような残像を通して、右腕に巻いたプラスチックのバンドを見つめた。だがもちろん、まだ事態を理解するには早すぎた。

***

悲劇の全貌が、公的形式の幾重もの穏やかな積み重ねによって、ぼやけてしまうことはありうる。マッキンは、まだ誰一人、眼がはっきり見えるようにもならない先から、人員点呼を要求した。数分後には、グレイは<立方根演習>の物資班からの配慮で支給された<監視官第一次報告書書式>に向かいながら、角刈りの金髪頭を掻いていた。
「日付──部隊の位置──おおよその発生日時。現在、一七時四〇分です」
「一七時四〇分と記入しろ」マッキンは言った。そして、変わりない小さな湖の上のうつろな空気を眺めた。
「(もしわかるなら)シリアル・ナンバーを記入しろ。発射方位は、えー──」
「N、北だな」聞こえよがしに、デイヴィースが言った。まるで飲み屋のうっとうしいオヤジのように、飽きもせず退屈な話を続けた。「おれは、核兵器の講義を取ってたから、自分の話していることぐらい理解しているぞ。Nだ、こいつは間違いないな。Nが核を意味することぐらい、知ってるだろ」
(「わからないよ」トレジェニスが言った。「おれ、ともかくそういうものには、本気で興味を持ったことないからさ」)
「空中かな、それとも地上かな」
「空中だ、もちろん」マッキンがやけに大きな声で言った。「空中での爆発。高度約二〇〇メートル。視野方向の距離は約七〇〇メートル。それから、質問表への記入は、もう少し待ってくれ」
グレイはときどきボールペンの尻を噛みながら、黙って書いていた。「<パーソナル核モニター記録>。ああ。ああ、そうか」右手首をちらちら見る。
「何か変な匂いがする。化学物質の匂い」トレジェニスが言った。その顔に、珍しく何かに集中しているような表情が浮かんでいた。
スプラットが不気味に笑った。「おい、そのとおりだぜ。ただし、もしそれが──」
「爆撃の直後は、奇妙な匂いを感じることが多い」急いでフォークナーが言った。「化学反応で生成された物質が空中を飛ぶからだ。しかも、放射性の閃光によって、神経がやられている。マイクのコンピュータのスクリーンがいかれたみたいに。それは、<交換的知覚合成>と呼ばれている。次第に消えていくよ」フォークナーは自信満満に断言した。落ち着かせないと。
グレイもその匂い(「変な匂いだ──化学物質っぽい──軽油とレモンを混ぜたみたいだ──」とグレイは言った)を嗅ぎ、ほとんどすぐに、この匂いが何であれ、すぐに消えてなくなるさ、とつぶやいた。他のメンバーも同意した。
<重要な記録。少なくとも五人の男が、ゼロ時点から約九分後に、奇妙な匂いを嗅いだと主張している。更なる調査が必要>
「爆発による即死者」グレイが歌うように言った。
「なし」疲れた声でマッキンが言った。
「あいつが口を閉じないと、一人出る」リューダウンがつぶやいた。
「副次的効果による派生的死者の数──」
変化に最初に気づいたのはフォークナーだったが、最初にうめいたのはリューダウンだった。「なんちゅうこった──」皮肉や嘲笑を付け加えはしない。消えゆく光の中で、初めは、はっきり見定めるのが困難だった。だが最終的に、ランド・ローヴァ―の強い光に照らして何度もチェックをした結果、薄い色だったリスト・バンドの色がすべて黒っぽくなり、ほとんど真っ黒に近くなっていることを認めるほかなかった。
「<副次的効果>のボックスをチェックだな」驚くべき穏やかさで、マッキンが言った。ほとんど安らいでいるような口調だった。
濁った透明から漆黒へと変化しつ続ける比較ストリップに当てて調べたところ、リスト・バンドは、安全係数において、<〇%ネガティブ予測域>よりも黒くなっていた。
夜だったが、慣れ親しんだ灯りを消す気には、誰もならなかった。
「ゾンビだ」マッキンは他人に聞こえるほどの声でひとりごちた。「おれたちはゾンビなんだ」それは一九七八年、<スクラム・ハーフ>演習で放射能汚染された難民につけられた名前だった。ボドミン沼沢地は、<安全展開区域>に指定されているはずだ。一九八〇年演習でファルマスとプリマスへ核攻撃があった場合の放射能の通り道と推測された、いわゆる<スクエア・レッグ>の、道と道の間にあるのだ。つまり、放射能が来るはずのところではない。
「たぶん、われわれが<立方根>演習で展開している時を狙って、例の兵器を使ったんだ」フォークナーが言った。「人工衛星のカメラについてわたしが言ったことが、まさかその通りになろうとは。何という──偶然」
「おれたちに核をわざわざ浪費するなんて。冗談言うなよ」スプラットが言った。
「もしイギリス全土がやられたら、どうしよう──」そう言ったのはパテルだ。自分の大家族のことを心配しているようだ。
「もしそうなら、地平線には、もっとたくさん爆発の閃光が見えてただろうな」五歳の坊やに言い聞かせるような口調で、リューダウンが言った。
グレイは神経質に身を乗り出し、ふさぎこんだマッキンを見つめた。学生みたいに、話す前に挙手でもしそうなやつだ、とフォークナーは思った。「もしこれがただの不幸な偶然で、<ラング一八>の映画みたいに、どこかの荒野、例えばこのボドミン沼沢地で、<兵器のお披露目ショー>をしたんだとしたら。ぼくたちだけが、ここにいなきゃいけなかったんだとしたら」
「教師のペットめが」スプラットがつぶやいた。
「あるいは」リューダウンが言った。「あるいは、<立方根>演習の情報が漏れていたらどうだ? 上層部で何か大きな混乱が起こっていたとしたら。<立方根>演習が、善良な一般市民の誰一人傷つけずに、軍隊をやっつける絶好のチャンスだと思われたら──」
フォークナーは隊員たちの顔を見た。今まで何度も、他人が死人のように見えると言ったことはある。今回は誇張でなしに文字通り、その表現が当てはまる気がした。
「気分が悪い」突然グレイが言った。
その後、フォークナーはこう書いた。<すべての責任を上層部に押しつけるのが、今夜は一般化した。ただマッキンだけが、たかが一部隊を核攻撃の対象にすることは、注目に値すると考えているようだ。だが、今夜マッキンはほとんど話さなかった。考えすぎているのだろうか。マッキン、グレイ、リューダウンは、あれ以後、一、二時間おきに嘔吐している。ナンバー七の薬剤を、この三人を含む全員に投与した。注意点。嘔吐した三人は、最近、核攻撃を警告する内容の講義を聴いていた。恐らく、何が起こるのか予期していたのだろう。役立たずのデイヴィースとトレジェニスの二人も同様だ。しかしながら──>

***

薄く白い霧の向こうから、明るい太陽が昇った。カモメが頭上で鳴きながら旋回し、海が近いことを思いださせた。テントの中で、前途有望な若き職業士官フランシス・マッキン隊長は、この土地の花崗岩の骨のように冷たくなっていた。<立方根>演習の物資班から支給された緊急カプセル(一人一個以内)のおかげで、顔から疲労の皺は消えていた。
「つまり、耐えられなかったんだな」低い声でスプラットが言った。
「しょせん、大学生のガキだ」リューダウンが注釈した。
一瞬フォークナーはこの二人を、そして自分を嫌悪した。<過剰な想像力、進行する兆候を視覚化する過剰な能力>秘密の簡易死亡記録に書き込んだ。そして、間を開けて、非医学的な追記。<わたしはこの男が好きだった>
死者が出たことで、たちまち他のメンバーにも副次的な変化が起こった。鉛色の顔をしたスプラットは、悪阻(英語で「朝の吐き気」といわれる)に関するギャグを言わずにいられなかった。隊員たちは浅い墓を掘って、マッキンを埋めた。墓を浅くしたのは、この沼沢地は、花崗岩の層の上に薄い水びたしの土と泥炭が積もっているだけだからだ。シートにくるんだ遺体の上に、湿った土をショベルでかけていると、デイヴィース陸軍兵は体を折り、どうしようもないように、墓の中へ嘔吐した。墓石や碑文を立てようと思いつく余裕のある者は、誰もいないようだった。フォークナーは「死者を埋める者が死者」と言いたい気持ちに駆られたが、我慢した。
その後、フォークナーは薬剤を追加で処方した。今のところ痙攣の症状があるのはグレイだけだ。痙攣は、中枢神経系統に対する放射能障害の古典的症状だ。
「<悪心(nausea)>はどう書くんだったかな」フィンレイがきいた。長く薄ら寒い午前中ずっと、フィンレイは異常なほど落ち着いて、極めて詳細な一連のレポートを作成していた。まるで記録することによって、心が麻痺するほどの恐怖を、現実から締め出すことができるといわんばかりだ。フィンレイが<悪心>と記入するのを見ながら、フォークナーは自分の記録に記すべき感想をまとめていた。
「<──すべての人員に発症>。あなたもでしょ、先生? 他のメンバーほど、顔色が悪くは見えないが」
「四〇歳を過ぎれば、たいていいつもこんな顔色なのだと分かるようになるよ」フォークナーはできるだけ何気ない口調で言った。「できるだけ顔色に出ないようにしている。患者の信用が必要だったりもするからね」
「スクランブル」フィンレイがキーボードにつぶやき、それが合図だったかのように、すぐ近くではっきりとライフルの音が聞こえた。コンピュータ・ユニットのケースに開いた穴から、一筋の煙が上がった。はるか頭上の露出した岩盤に音が反響するのをフォークナーが聞くより前に、スクリーンからテキスト文が消えた。
「もうたくさんだよ」デイヴィース陸軍兵が、煙を立てるライフルを降ろした。「今度は、おれの話を聞け」
<デイヴィース。役立たずのデイヴィース>破壊力を持っているのはリューダウンやスプラットだとフォークナーは思っていたが、やつらは、言葉だけのことだった。今、この部隊で一度もトップに立ったことのないデイヴィースが、突然頂点に立ったのだ。
「──いいか。おれはこんな場所に座って破滅を待つのはまっぴらだ。おれが思うに、おれたちはもう死んだようなもんだろ? 二日、あるいはもう三日か。そうだよ。どうせ死ぬんなら、おれはぱーっと派手にやりたい。ジョー・トレジェニスが言うには、ここから一五、六キロの場所にいい場所があるらしい──」
「それはだめだ」本気で怒って、グレイが言った。「マッキン隊長が生きていたら、絶対に行かせない。<立方根>演習の手順書は、ここにとどまるようにと書いているんだ。割り当ての場所に」
「ナンシーボーイ隊長は文句なんて言ってないぞ、坊主。そんなにあいつに合わせたいのなら、あいつのやりそうなこと──いや、やったことを、お前もすればいいだろ──なあ?」
グレイは唇を噛んで、足下の草むらを見た。
「うう、ずいぶんと偉そうだな」リューダウンがつぶやいた。
不思議なことに、抗議をしたもう一人の男は、チビでネズミ顔のトレジェニスだった。「トラブルになるだけだよ、ロン。そんなことしたら必ず捕まる。前にも言ったけど、この核兵器とかいうやつ、全然大したことないと思うよ──」
デイヴィースはトレジェニスのほうを向き、ライフルの銃倉も向きを変えた。銃口が小さく魅惑するように円を描いた。デイヴィースは優しく言った。「今朝もう一人ゲロを吐いているやつを見た気がするけど、あれは誰だっけ、ジョー?」
「前にも気分が悪くなったことはあるし、これからもあるよ。だから何だって? おっと、誤解しないでね」相手の目の奇妙な表情を読みながら、トレジェニスが言った。「ぼくも一緒に乗って行くから。分かってるだろ、ロン──」
四〇分後、二台のランド・ローヴァ―はがたがた揺れながら、湿った沼沢地を走っていた。行進する死者の軍隊。キャンプ設営中の唯一の休息時に、デイヴィースはグレイが震える手に赤いカプセルを持っているのを見つけた。デイヴィースはグレイがよろけるほどのビンタを食らわせた。そして、落ちた睡眠薬カプセルを踏みつぶし、地面の赤いしみに変えた。「ガキにチャンスをやろう」デイヴィースは寛大ぶって言った。「おまえは他のメンバーにとっては存在自体が娯楽だ──だが、その程度の価値しかない。わかるな?」
フォークナーは新たなメモをとった。
<デイヴィースは命令できる立場になって、すっかりはしゃいでいる。与えたり奪ったりする立場で。お笑いコンビのリューダウンとスプラットを見ていると面白い。この二人は隊長にしていたのと同じように、小さな声で相手を問い詰めるというスタンスにとどまることで、デイヴィースの地位を認めている。グレイは、忠誠の相手を変更し、デイヴィースをヒーローとして認めるかどうかで迷っている。この男はヒーローを必要とする。ただ、愚かなトレジェニスだけが不安感を持っているようだ。この男は軍に入る前からデイヴィースを知っている。戦略的には、この状況は面白い。いわば金脈だ。個人的感想を言うならば、わたしは別の場所に行きたい。何か他に、すべきことがあるはずだ──>
「何書いてるんだ、先生?」スプラットが言った。揺れる車の中で隣に座っていた。「やばい薬の最後の処方箋かね?」
「ははは、違うよ」フォークナーは気安く言った。「医学メモだよ、残念ながら。これをつけていると、みんなを把握しやすいんだ。いつかどこかで、気の毒な人を助けるのにも役立つかも知れない」そしてスプラットに、速記のページを見せたが、相手は肩をすくめただけだったので、ほっとした。話すべきただひとつの話題については、話す気になれないようだった。
「たいしたもんだな」リューダウンが気のない皮肉をこめて言った。それからリューダウンもスプラットも黙った。たぶん症状が進行するとどうなるか、考えているのだ。髪の毛が落ち、脳内出血や壊死が起こる。結局、二人とも講義で、その手のフィルムを見たり、話を聞いたりしているのだ。訓練用の映画は、ホラー・ビデオとして巨大なアングラ市場で流通しているほどだった。

***

「あれだ」トレジェニスが落ちつかない声で言った。指差す右手の手首から、夜のように黒いバンドが取り外されている。この男は結論を受け入れるのを拒み、抵抗しているのだと、フォークナーには分かった。
「よし」残った一台のランド・ローヴァ―に詰め込まれた男たちを肩越しに振り返りつつ、デイヴィースが言った。もう一台は五キロ下で沼に沈んでしまった。デイヴィースは車を失った事実を、自分に対する個人的な侮辱であるかのように受けとめ、よりいっそう決断に余裕がなくなってきた。
「よし」ふたたび言った。「三時四五分。閉店している時間だ。おれたちはただ中に入って、物を取ればいい。いいか、忘れるな。規則と医者の言いつけを守っていたとしても(悪いことをする仲間もなしで)、雨の中に数日座ったまま死んでいくだけだった。さもなくば、睡眠薬であの世行き。いいか、おれをバックアップするんだ。そして人生をめちゃくちゃに楽しめ。一度腐ってしまえば、不平など言う気にはならないぞ。よし。いくぞ」
白と黒灰色のまだらの雲の衣が頭上を流れている。午後の間中、横殴りの雨で変わり続けた不安定な太陽の光を浴びながら、全員が襲撃対象を観察した。<カーナウ軍の店>。灰色の石のひょろ長いビル。ところどころ苔が生え、白や黄色になっている。まるで中央の花崗岩の岩山から落ちた石のように、その周りに小屋が点在している。
重いドアを叩いたのはデイヴィースだった。ドアがかすかに開いて、くぐもった声が聞こえた。「申し訳ありませんが、旦那、うちは六時まで中休みです。出直していただけると──」
一瞬、男たちは、常識的な感覚にとらわれそうになった。一人二人が、自然にうなずき、お騒がせしてすみませんでした、と言いそうになった。グレイは目を激しくぱちぱちさせた。それから、デイヴィースが二歩下がり、突進し、ブーツでドアを蹴った。もろいドアチェーンがバキッと音を立て、中でものすごい声が聞こえた。フォークナーは深呼吸して、男たちとともにデイヴィースに従い、石壁のバーに侵入した。店は木の梁や装飾金具で覆われ、しけたビールの匂いが充満している。床に転んでうめきもがいている白髪混じりの男を、フォークナーは覗き込んだ。ドアにぶつかった衝撃で、鼻がつぶれ、顔は血まみれだ。
「ほっときな」デイヴィースは言って、値踏みするようにビールのリストを見た。フォークナーは、てかてか光るハーフマスクで、店主の顔を流れる血を拭き続けた。「ほっとけと言っただろうが」とデイヴィース。
立ちあがって、フォークナーは、邪悪な笑みを浮かべているのが一人だけではないのに気づいた。デイヴィースがこの連中のリーダーなのだ。この魔法の円から、断固として出て行く勇気はない。
「ジョー・トレジェニス」血を流している男が言った。「いったい、これは何の真似だ?」
トレジェニスの口が静かに動いた。そしてこう言った。「軍の命令だよ、ミスター・エザード」
「あんたの店は強制徴用されることが決まったんだ、おっさん」リューダウンが言った。
「ここにいる隊長によってな」スプラットが言った。
「こいつを追い出せ──いや、地下室はだめだ」デイヴィースが言った。「外に出すんだ。他に誰かいれば、そいつもだ」
十分のうちに、血まみれのエザード、おどおどした妻、ぱっとしないティーンエイジの息子だかバーテンだかあるいはその両方らしきやつ、の三人が、鎧戸に囲まれ、ドアを杭で頑丈に密閉した石炭小屋に監禁された。バーでは、デイヴィースが約束した宴会が始まっていた。「本物のビール・パブを一発で見つけ出したジョーに乾杯!」
男子トイレで、フォークナーは書いた。<──今のところ、大した害はない。デイヴィースは不動の地位を確立したようだ。全員がデイヴィースを責任者として必要としている。デイヴィースは宗教心を貫こうとした(たぶん、カトリック教徒になったばかりだろう)シュワルツを殴った。シュワルツは屈服した。これらの出来事について、わたしは何らの感情も持つべきではないだろう。幸いだったのは、エザード夫人が五十代の盛りを過ぎたおばさんだったことだ。全員がこのまま酔っ払って、そのままでいてくれればいいのだが!>
宴会は進んでいた。フィンレイは、古風なビール瓶の口と樽の口とをつなぐ技術をマスターし、鬱が治り、バーカウンターの後ろでにやけていた。デイヴィースとスプラットが、九〇センチ頭上の棚に放置されたように並んでいる陶器の犬人形を狙って、軍の銃弾を撃ちまくっているときにも、ほとんど怯えていなかった。フォークナーは煙草の煙とらんちき騒ぎの中を動き回った。そして、ナンバー七の薬剤を配布した。もはや配る意味があるかどうかは、疑わしかったが。
銃撃ゲームのスコアをつけているリューダウンが、皮肉に笑いながら、人質たちを沼沢地に放って標的にしたらいいんじゃないかと、デイヴィースに提案した。「動く標的を相手に、二、三ラウンドやってみようよ」その冗談が大騒ぎしている部屋中に伝わると、まじめな提案として人気を博した。フォークナーは急いでこう言った。「だめだ、だめだ。光が足りない。もし一人でも逃げられれば、気がつく前に警察が来て、宴会は終わりだ──」
「このおれさまが、チンピラ警官五十人ごときを相手に、この城を守れないとでも言うのか?」デイヴィースは怒鳴った。だが、そのアイデアはそれきりになった。デイヴィースはフォークナーを激しく睨んで、また酒を飲み、グレイにお代わりと叫んだ。バーカウンターの後ろで、ポータブル・ラジオが音楽と、ディスクジョッキーの猛烈なトークを流し始めた。ラジオ。
五時までに、新たな名案が、ビールの泡の中から浮かび上がった。幹線道路の脇に、二人の射撃兵を配置しよう。「通過する車を強奪すればいい」スプラットが夢見るように言った。「いや、車だけじゃない。女も乗ってるぞ。この宴会を最高に盛り上げるのに、いちばん必要なのはねえちゃんだ。酒池肉林だぞ、へっへっへ。どうだみんな──なあ」
デイヴィースは、きつい目でフォークナーを見た。フォークナーは肩をすくめ、言った。「前に言ったはずだ、隊長」
「先生は、また怖がってるな。気にすることはない。おれは、射撃兵二人で名案を思いついたんだ」ディヴィースは冷ややかに笑ったが、何に対してかはよく分からなかった。
「おれは、医者のジョークを知ってるぜ」スプラットはバーカウンターに向かって言った。「ジョークを披露していいか」
「やめとけ」リューダウンが言った。
「ああ? なぜだ?」
リューダウンは小さな声で言った。「なぜなら、死人に語る物語はないからだ」
「おお、そいつぁけっこうだ──なあデイヴ、おれ、喉がからからで死にそうだよ」
フォークナーのノート。<これ以上超然とし続けるのは、不可能になってきた。全体的な状況からいって、不可能だ。観察し、ノートを取り、宴会に加わらずにいる状態を、このまま許してもらえそうにない。「おまえは、極めて危険な仕事にみずから志願したのだ。だから、命じられたとおり、自分の任務に従うべきだ」。わたしは、自分を保たなければならない。すなわち、六時になる前に、ふたたびあのバーに入り、あの連中に干渉する必要がある。それまでに、デイヴィースが連中を洗脳し、死の宣告は、あらゆる規則からの単なる解放を意味するに過ぎない、と思わせていなければ──>
五時四〇分、六時まであと二〇分だ。シュワルツは、やんややんやの喝采に応えて、パテルの頭の上に乗せたライト・エールの瓶を撃とうとしていた。敷石の上には、こぼれたビールやゲロが、あちこちにまだらにたまっている。ゲロが放射能のせいか酒のせいかは、もはやよく分からない。
「隊長」フォークナーはデイヴィースに言った。デイヴィースは王様のように座り、ラジオのほうを見ていた。「隊長、幹線道路沿いの<カーナウ軍の店>の看板を降ろしに行った方がいいでしょう。目立たないほうがいい」
デイヴィースは豪快にげっぷをした。「あんた、頭が回るな。だが残念ながら、おれは看板を降ろしたくない。おれには、名案があると言ったろう?」
「隊長──あらゆる点から見て──」
デイヴィースは血走った目をフォークナーに向けた。「あんた、何さまのつもりだ、先生よ?」それから、咎めるような恐ろしい仕草で指差し、一瞬の死んだような沈黙の後、言った。「あんたは──酒を──飲んでないな」
「先生にも一杯飲ませよう」グレイが歌うように言った。
「床にこぼれたのを舐めればいいんじゃね?」リューダウンが言った。
「何がいいかな?」フィンレイが言った。今やバーの装置の間を、楽しそうに歩き回る主任係になっていた。
フォークナーは、罠へと追い詰められるのを感じながら、言った。「ジン・トニックで」
「先生に大きいのを一杯だ」デイヴィースが言った。
「先生に大きいのを一杯」フィンレイが口調を真似した。そして、五〇〇CCのマグカップに三分の二のジンを注ぎ、減量者向きのトニックウォーター小瓶一本を注ぎ、できたものを差し出した。
みんな微笑んでいるのに──らんちき騒ぎの中に、新たな娯楽の種ができたのだ──フォークナーは、敵意の匂いを嗅いでいた。死の宣告をし、死のあらゆる力と結びついた存在に対する敵意だ。この連中の本能は正しい。フォークナーはカップを受け取り、弱弱しく微笑んで、ジンをすすった。
「一気飲みするんだ、先生」だらしなく手足を広げたまま、デイヴィースが容赦なく言った。「男だと証明しな。先生が一杯飲み干すのに何秒かかるか、見てやろう」
取り囲む男たちの顔が近づき、笑いながら、歯を剥き出し始めている。フォークナーは飲み干し、むせ返った。鼻と喉の中で、強烈な匂いが広がる──
「先生にもう一杯だ。今夜の先生は、喉が渇いてる」
「先生に大きいのをもう一杯」

***

フォークナーは床でもがきながら、吐いた。胸糞が悪くなるような杜松の匂いのするブラシで、乱暴に頭をこすられ、いやな記憶を思い出させられようとしているような感覚だ。石造りの部屋には、いまだに話し声と、前よりも強烈な煙が充満している。二杯目の大量の酒を断ると、デイヴィースが発砲し、フォークナーの左の耳たぶをふっ飛ばした。(襟が血のりを吸って、首にべったり貼り付いている。)軽い一撃を食らったフォークナーは、ふらふらと倒れ、軽蔑にも値しない存在として忘れ去られた。左手が、体の下でねじれている。万力のように締めつける体重から、左手を解放し、腕時計を見た。まだ七時にもなっていない。
<もはや、コントロール不能な状態というほかないな>苦々しくフォークナーは考えた。起き上がって、何かしなければ。だが、頭はくらくらし、体は痛み、胃はむかむかする。今動けば、内臓がナマコのように飛び出しそうだ。
「ナンバー六」遠くでデイヴィースが言うのが聞こえた。「こいつはけっこうしぶといな。他の連中と一緒に連れだせ。このガキどもを、どこへ連れて行こう? なあ、ジョー?」
トレジェニスの声。「隊長、後回しにしましょう。こいつらは石切り場から帰る途中ですから。大した収穫はありませんよ」
笑い声。
リューダウンの声。「面白いな──おや、こいつは呼吸をしていない。こいつの世話をしてたのは誰だっけ? おまえか、マイキー?」
スプラットの声。「そうだよ」
リューダウンの声。「おいおまえ、ちょっと強く殴りすぎたんじゃねえの」
一瞬、沈黙。
デイヴィースの声。「ということは──マイキー・スプラットが、最初に敵を殺したんだな。外にいるあいつら、全員敵だろ? おれたちは戦うんだ。ラジオを聞いただろ、ニュースを聞いたろ? おれの言った通りだ。戦争なんか起こっていない。こいつはな、糞ったれな核実験だよ。あいつら、おれたちに核を落としたんだ。マイキーとDSOと酒場に拍手! 特にこの酒場に」
どこか遠くからグレイが叫んだ。「また一台車が来た、隊長!」
デイヴィースの声。「リューダウン陸軍兵、シュワルツ、パテル──敵にそなあああえよ! 思う存分やっつけるんだ」
頭の中のノートに記す。<連中は、酒で酔う以上に酔っ払っている。死ぬという認識によって、もはや処罰されることも、責任を問われることもない、何も怖いものはない、という感覚になっているのだ──これは、酒の力を借りるよりもはるかに強い。今ならはっきりと分かる。最悪の事態を避ける望みがある状態では、目に見えない中性子の力で死ぬという認識が人間心理に与える影響を正確に調べることは不可能だ。われわれは、最悪の事態を更に悪くする方法を知りたいのだ。いかにすれば、軍隊を、歩く癌細胞に変え、味方を攻撃する状態に追い込むことができるのかを。わたしは教わっていない──
デイヴィースが考えていることは──>
スプラットが陽気に言った。「またちょっと、激しくやりすぎちゃったぜ」
リューダウンの声。「<人を静かに殺す八つの方法>を、実地で試してみたのさ。著者に苦情の手紙でも書くか。誰一人、ちゃんと静かに死んでくれるやつはいなかったって」
デイヴィースの声。「聞こえたぞ。豚を刺すみたいな声が。大した兵隊だ、おめえらは。さてと、勲章でも集めようか。土産がわりにやつらの耳でも切り取ろう。それとも、チンポにするか? ホレ、あの棚の上に飾るんだよ──」
グレイが叫んだ。「またヘッドライト──いや違った。あいつらはこっちに来ない」
デイヴィースの声。「薄汚いヘタレ野郎どものほかは、ぼろいカバンひとつか、しけてんな。何たる骨折り損だ──デイヴ、そのスリボヴィッツを。サンキュー」
グレイの声。「配置につけ!」
リューダウンの声。「法と秩序を再構築しよう」
笑い声。大勢の足音が部屋を出て行く。死者のダンス。フォークナーはよろよろと立ちあがり、ふらつきながら洗面所に向かう。後ろで笑い声の波が聞こえるが、敵意を感じるような笑いではない。
<ありうることだ──最高機密のこの、放射能測定リスト・バンドは、鉄のカーテンの向こうで敵軍が使っているものの完全なコピーではなかろうか。それならば、意味が通じる。ほかの部分も推測できる。いまいましい軍の命令だ>
少し間をおいて、バーに戻った。デイヴィースが満足げに言うのが聞こえた。「いい調子だな」
女は若く、可愛く、華やかに着飾り、その顔はとても魅力的だった。黄色いスカートとブラウスは、巨大で醜い鷹の籠に入れられたカナリアのように、女を輝かせている。だが、こいつらにとっては、若い女であるということが重要で、それ以外の要素はどうでもいいのだと、フォークナーには分かった。スプラットは、熟練した手つきで女を後ろから抱えた。片方のストッキングは、伝線している。
「とりあえず、くじ引きをせんとな」リューダウンがけだるい口調でいう。
「だまってろ」デイヴィースが言う。背は高くないのに、いつもよりも大きく見える。「全員が犯れるから」
「あんたたち、頭おかしいわ」黒い目の女が言った。「ハリーをどうしたの? 警察を──」
シュワルツが少し気取った仕草で、女の喉笛にチョップを見舞うふりをした。女は静かになった。
フォークナーは、気を引き締めて、緊迫した電灯の灯りの中に進み出た。自分がヒーローのような気分はしなかった。「きみたち、<抗・放射能薬>が欲しいんだろう」軽い口調で言った。
「また先生かよ」嬉しそうに装いながら、デイヴィースが言った。「先生は酒でも飲んでろよ」
「先生はもう一杯飲みたいんだろ。大きいのをもう一杯だ」リューダウンが言った。
「わかった、わかった。ただ──」フォークナーは、どうにか気味の悪い笑いを浮かべてみせた──「その女性にゲロをぶちまけたくはないだろ? ほら、これを」フォークナーは灰色の錠剤を配った。「一人三つだ」
「先生にもいつものやつ三杯」デイヴィースが、面白いだろ、といわんばかりの口調で言った。だが、フィンレイが酒を作り始めると、男たちは薬を飲んだ。
「いったいこれ、何なのよ」女が声を嗄らして言った。
フォークナーは酒の入ったマグを受け取ると、おとなしく唇につけ、死に物狂いで吐き気をこらえた。そして、言った。「ちょっとわたしの話を聞いて欲しい」
「うるさいよ──」
「タイミングが悪すぎだ、先生」
「死者に話す話はないってか、ははは。聞いたのか? 死者に──」
「ちょっと聞いてくれ。わたしは考えていたんだ。昔のデイビークロケット・ミサイルみたいな、たった数トンの小型核兵器で、核攻撃のシミュレーションができることは知っているだろう? 実はな、核兵器のように見えて、実はそうでないものもあるんだよ。ちょっと思いだして欲しいんだが、最初に変な匂いがしただろう? 風に吹かれたガラス繊維の触媒みたいな匂い。爆発の直後にだ。たぶん風上に、ガス・シリンダーを持った特殊部隊がいたはずだ。そのガスは、ある種のプラスチックを黒く変色させる──どうだね、これはきみたちを、核で死ぬと思いこませるための、単なる悪戯だとは、一度も思わなかったかね?」
「言ったよ」トレジェニスが小声で言った。「ぼくはそう言ってたのに」
力と自信がデイヴィースの皮膚から長い薄片のようにはぎ取られるのを見るのは、心苦しかった。だが、デイヴィースはハンドガンをフォークナーの腹に向けて言った。「くだらねえな。おれたちみんな、今朝からゲロを吐いて、気分が悪かっただろ」
「だが、きみたちは最初に薬を飲んでいた。覚えているかね?」(グレイには薬を与える必要はなかったが、念のため講義をして暗示を与えておいた)
「するとあんたは最初から知っていたのか──畜生めが」
「これはわたしが推測したことだ。わたしにも知らされていなかったよ」フォークナーは嘘をついた。半分は嘘だ。<わたしはただ、命令に従っただけだ>と言いたくなるのを我慢した。
「マッキン隊長──」グレイはすすり泣くような声で言った。
間があった。グレイは尻餅をついて、いびきをかき始めた。
「もう無理だよ」デイヴィースが言った。「今更やめるわけにいかない。もう遅すぎる。やりすぎてしまった。おまえたち二人は、女を後ろのカウンターに連れていけ。このチャンスを逃したくない」
夢遊病者のように、スプラットとリューダウンは、泣き叫ぶ女を、飾りのついた鋳鉄のドアの向こうへ無理やり運んで行った。
「で、おまえ──せっかくの弾丸を無駄使いしたくはない。酒を飲め。また飲むんだよ」
フォークナーは糞まずいカクテルを飲み干した。そしてむせ返りながら、何とか言った。「きみたちは大丈夫だ。裁判にかけられることはない。演習をだめにしたのはわたしなんだ。わたしが起訴されるだろう。今やめれば、まだチャンスがある」
「そうか──おれは何をしても無罪なんだな? それはいいや。たいへんありがたい。おれが知りたかったのは、この件と今後の人生がどうなるかってことだから。さあ、飲むんだ。こいつはきくぜ──あいつらを見ろよ、まるでネズミだ」そして自分のマグを見つめた。<パーノッド・ビール>が溢れそうになっている。目をこする。それから怒ったように、頭を左右に振った。立ち小便をする犬のように。「おれは──面白いな──」その手でレボルバーが揺れる。
フォークナーは緊張を緩めた。この男が状況を理解したのは、あまりにもはっきりしていた。
「あんたが薬をいじったんだ」そう言ってデイヴィースは、澄んだ目を細めて、酔っているというだけではありえないほどにふらついているほかの男たちを見た。ものすごい努力をして、銃を持ち上げた。そして撃った。フォークナーは肩に、バスに乗っているときの衝撃のような暴力的な一撃を感じた。そして、花崗岩の壁に叩きつけられた。おれはまだ生きている、とぼんやり思った。フォークナーが赤く染まった床を這っていると、ついにデイヴィースも倒れた。
後頭部がべたべたし、黒い渦が波紋のように視野を踊る。驚くほどよく訓練された最高の部隊が、とつぜん砂利の奔流に見舞われる様を思い浮かべる──どうやってうまく片付けるか──たぶん、報告書には、<カーナウ軍の店>で火事が起こり、客と、助けに入った勇敢な兵士が何人かが絶命した、とでも書くのだろうか?
若い女がおどおどしながら部屋に入って来た。雀のように神経質で、視線の定まらない目つきをしている。左の乳房に苔のように貼り付いた、薄黄色のゲロを拭きながら。だが、怪我はしていないようだ。
「最寄りの陸軍本部に電話しなさい」機械的に、指令書に従って、フォークナーは言った。立つのも動くのもいやだった。「番号を教えるよ──」最高の部隊だと? 聞いて呆れる。
「ハリーをどうしたの?」
<立方根効果。核攻撃に直面した直後の状況を利用して、低コストで心理攻撃を行うテクニックである。>これは、最高機密事項だ。T・T・フォークナー博士による個人的観察記録の<付属資料>付きの。頭の中で、まだ書かれていない報告書を見る。そして、顔をしかめる。あの女が自分の汚れたブラウスを見たときの顔のように。ハリー、マッキン、そして他の死者たち。
「やはりやめよう──警察がいい。いや。新聞社だ。誰でもいい。みんなに知らせよう」
「ひどすぎる。ハリーにいったい何をしたの?」
「とにかく、電話をするんだ」フォークナーは、ぐったりして言った。
~完~