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一九八三年度受賞作

カイトマスター ~凧主~ Kitemaster キイス・ロバーツ

地上クルーは連祷を終えようとしているところだった。一列に並び、頭を垂れ、西日の最後の輝きを浴びて、シルエットになっている。わたしの眼下では、発射台車(ローンチャー・ヴィークル)が、穏やかに熱を放ち、泡を立てている。錆びたボイラーのねじの周りで、水がじゅうじゅう音を立てる。熱風が構台に吹き上げ、蒸気と油の匂いを運び、その匂いは、常に漂う薬の匂いと混じり合う。わたしの横で、凧将(カイト・キャプテン)が鼻を鳴らした。我慢ならないという感じだった。足を踏み鳴らし、ただでさえ首の短い猪首を、よりいっそう肩の間に埋めた。
わたしは暗くなりつつある格納庫の周囲を見回し、見覚えのある景色を味わった。糸巻きケーブルが、手押し車の上、人間の頭ぐらいの高さに載っている。固定具の光り輝くブレード。複雑に積み重なる浮揚列車(リフティング・トレイン)。〈観察者〉が乗る枝編み観察籠の上の中央部には、灯油ランプの落ちついた灯りが、密かに輝きを増しつつある。その灯りは、蜘蛛の巣のように交差する大梁、あるいは、乱雑にからみあった梁の一本一本にかけられた風速計の表面を照らしている。黒い針が震え、目盛りの上を不安定に上下している。その向こうには、暗闇でほとんど見えないが、有人凧(マンリフター)の複雑な巨体があるはずだ。その黒翼が両側に突き出している。
若い牧師が本のページをめくった。横目で構台を見ている。〈基地付牧師〉の真紫の制服を着ていた。だが、心配そうなその顔は、とても若く見える。恐らく修練を終えて間がないだろうと思った。凧主(カイト・マスター)の存在は、大きな重荷なのだ。その声が、わたしの耳に届く。細い声が、外の突風の激しい音と混じり合う。「然してわれら汝に請う、主よ、来る夜、われらに汝の不寝番を授けよ。汝の約束によりて、大地は守らるる──」
最後の答唱が呟かれた。牧師は後ろに下がり、明白な安堵の表情とともに、抄本を閉じた。
わたしは金属の階段を通って、格納庫の床に降りた。そして急がずに、編み細工の観察籠へ向かった。まだ〈観察者〉カンウェンの現れる気配はない。だがきっと現れるだろう。熟練した飛行家というものは、教会と同じぐらい、物事を適切な形式で処理することの価値を知っている。合図とともに現れるだろう。だが先走ることはあるまい。わたしは儀式のしきたりどおり、油と土を撒き、祝福の言葉を呟き、観察籠の縁に〈ヴァリアント教会の偉大なる封印〉を留め、退いた。「〈観察〉を始めよ」
たちまち、格納庫は秩序立った混乱の場となった。タングステンのアーク灯がぶんぶん音を立て始め、過酷で無情な光を放った。指示が飛び交い、訓練生が高い終端扉に駆け寄り、扉を巻き上げ始めた。すぐに風が吹き荒れ、構造物の両脇のキャンバス地をばたばたと鳴らし始めた。アーク灯の球は揺れ、表面が湾曲した壁に映る影が飛び跳ねた。トラックのバルブ・ギアが忙しく動き始めた。わたしはふたたび構台にのぼった。重々しい乗り物が、空に頭を突き出していた。わたしは〈聖の容器〉をカバンに戻し、ロックして、姿勢を正した。
凧将は横目でわたしを見て、風速計に目を戻した。「風速が速すぎますな。一五キロから一八キロはある」うなった。「それに、あの風をごらんなさい。今夜は飛ぶのに適さない」
わたしは頭を傾ける。「それは、〈観察者〉の決めることです」
凧将は笑う。「カンウェンは飛ぶでしょうよ。あいつは、いつも飛ぶ──」そして、体ごとふりむいた。「オフィスに行きましょう。そこからでもよく見えます。どっちにしても、まだ大して見るようなものはないから」わたしは、雨の流れる跡のついた窓に最後の一瞥を投げ、凧将に従った。
わたしの招かれた部屋は小さく、この施設の他の部分と同じように質素だった。壁龕の中で灯油ランプが燃えている。棚にはマニュアルと、ページの耳を折った教科書が置かれている。もうひとつの棚は、分厚いボックス・ファイルが積まれている。壁のラジエーターのおかげで、少なくとも見た目は快適に見える。四角い鉄の金庫がある。その横には、使い古しの金属のデスク。デスクの上には、銀縁の写真が立ててある。ずっしりとした古風なローンチャーの前に、若者たちが堅苦しく整列した写真。
凧将は写真を見て、大して面白くもなさそうに笑った。「卒業式の日です。なぜこれをまだ持っているのか、自分でも分かりません。他の仲間は、何年も前にみな死んでいなくなった。わたしが最後。もちろん、わたしは運がよかっただけですが」凧将は、びっこを引いて、角のキャビネットの前へ行き、扉を開いて、グラスとボトルを出した。そして酒を注ぎながら、肩越しに振り返った。「長い時間でした、ヘルマン」
わたしは考えた。伝統的に、凧将は、奇妙に落ち着いた性格の血筋を持った男たちだ。人生の最良の時を、国境での任務に費やし、たいていの者が当たり前だと考えている社会的価値に、ほとんど興味を払わない。だが、この王国の平和は、凧将の国境監視業務のおかげであり、凧将たちも、そのことをよく知っている。この事実によって、凧将は、実際の優劣はともかく、少なくとも道徳的には、優れた人々だと考えられている。そして、この男は、凧将としてのこの地位を徹底的に利用し、乱用していようとしているらしい。だが、もしこの男がわたしとの相対的地位関係を無視することを選んだのなら、わたしになしうることはほとんどない。公的には、わたしはこの男を非難してもおかしくないが、私的には、これ以上少しでも面目を失う危険を犯す気はなかった。そこで、わたしはおとなしくこの男に従い、差し出されたグラスを受け取った。「そうですね」わたしは穏やかに同意した。「おっしゃるとおり、長い時間でした」
凧将は目を細め、まだわたしを見ていた。「少なくとも、わたしたちのうちの一人は、うまくやってきた。わたしは二〇年の勤務で自慢できることはほとんどないのです。片方の脚がもう片方より五センチ短いことぐらいですよ」そう言って、わたしのローブを顎で示し、うなずいた。「上の連中は、あなたがそのうち大凧主(グランド・マスター)にノミネートされると考えています。ええ、本当ですよ。噂を聞いたんです。今はこんな風にどさ回りをされていますが」
「すべては神の意志です」そう言って、わたしは注意深く酒を飲んだ。僻地の酒が薄いという話はほとんど聞いたことがないが、これも例外ではなかった。わたしの判断では、生のスピリッツ。最近通ってきた寂れた村のどこかで醸造されたものだろう。
凧将はまた、短く、吠えるように笑った。「しかも、ヴァリアント政権の支援も少しある。だが、今まであなたは、いざというときは巧みな弁舌を披露してきました。それに、役に立つ人物を友達にするのもうまい」
「すべての人が〈呼ばれし者〉というわけではありません」わたしは鋭く言った。いかなるものにも限界がある。この男はわたしを、危険なほどに限界まで追い込もうとしている。この男はもはやただの酔っ払いどころではなくなっているのではないか、とふとわたしは思った。わたしは窓辺まで歩き、外を見た。だが、何も見えない。グラスに映るのは、〈メンテナンス〉と書かれた明るい色の帽子と、喉もとにかかった大きな留め金と、わたし自身の醒めた心配そうな顔。
凧将が肩をすくめるのが分かった。「わたしたちは、頭がおかしくなったわけではありません」凧将は苦い口調で言った。「あなたは信じようとしないし、わたしもなかなか信じられない。しかし、わたしも〈紅の地〉で同じようなチャンスをつかんだんです。そして、わたしは断った。わたしが本当に、何もかも信じていた時代があったことを、ご存知ですか?」言葉を切った。「わたしは同じ間違いを繰り返さない。マーチ中央の宮殿。わたしはあれを所有していた。使用人もいたし、うまいワインも飲めた。今飲んでいるような安酒ではなくて──」
わたしは眉をひそめる。この男の話し方は乱暴だが、記憶に訴えかけるところがある。過ぎ去りし日の笑い声と匂い、手の感触。誰しも、何かを犠牲にしなければならない。神がそれを求めるのだ。確かに夏の宮殿は存在した。春には花咲く木々に取り囲まれていた。だが、それは空っぽの宮殿だった。
わたしは振り返る。「どういう意味ですか? 何を信じるというんです?」
凧将は手を振った。「軍を。かつては、王国がわれわれを本当に必要としているとわたしは思っていた。今考えると、気違いじみている、わたしが見ても」そして、グラスを一息に飲み干し、お代わりを注いだ。「あなたは、飲んでいませんね」
わたしはカップを置いた。「外のギャラリーから見るのが、いちばんいいと思うんですが」
「その必要はありません」凧将は言った。「ランプを隠せばいい」そして、ランプの前に、麻のスクリーンの一種を降ろした。すると、眼下の固定具が四方に半円状に伸びているのが見える。「あれが必要になったことは一度もないんです」わたしの横で凧将が言った。「だが、こんな夜には何が起こるか分かりません」
明るい火の玉が空中に飛び、素早く東の空へ弧を描く。その合図で、訓練生たちがいっせいに前に進み出る。肩の高さに、最初のカイトを担いでいる。そして、投げる。糸がピンと張り、音を立てる。凧は、頭上数十センチの高さで震えていた。それから少しずつ上がり始めた。操縦用のアーク灯がそれに続いた。数秒以内に、凧は流れゆく一面の雲の中に消えた。光の筋が照らしだすのは、激しい雨粒だけだった。
「パイロット(誘導凧)です」凧将がそっけなく言った。そして、ふたたび横目で見た。「凧主にそんな話は必要ありませんな」
わたしは両手を後ろ手に合わせ、言った。「記憶喚起のために、ご説明いただければ」
凧将はしばらく考えていたが、何を言うか決めたようだった。「コーディの飛び籠(リグ)を飛ばすのは、易しい仕事じゃありません」凧将は鋭く言った。「あの田舎のばかどもは、中央公園の午後みたいなものだと思っているんです」鉄のような灰色のあごひげの薄く生えた顔を撫でた。「誘導凧は一五〇メートルの高度まで上がれる」凧将は言った。「気流が安定しているときはもっと低い。その次が無人凧(リフター・カイト)。天気のいい日には一〇〇メートルから一二〇メートルはいける。もちろんわれわれはそれ以上の高度が必要です。リフターの任務は、メイン・ケーブルを運ぶこと。ケーブルの任務は、リフターを固定すること。全てがバランスの問題。バランスと関係があります」また横目で見る。だが、その分かりきった説明に対し何らかのコメントを期待していたとしても、わたしは何も言わなかった。
ローンチャーから噴き出した蒸気が、すぐに渦を巻いて流れ去る。巨大な塊の上に載っている地上調整員の片腕は、ぴんと張ったケーブルを支え、もう片腕はウインチ係に迅速に合図を送っている。誘導凧が高度を調整するのに合わせて、ケーブルが出たり引っ込んだりする。チームの他の者は、銅製の円錐をメインの引き綱に据えつけようと、立って待ち構えている。円錐の直径は、リフターが上るにつれて次第に小さくなるように出来ている。これこそ熟練を要する。前もってすべてを決定する必要があるのだ。間違いは絶対に許されない。やり直す時間もない。
あらたな強い衝撃が、格納庫の側面を震わせた。凧将は、ふたたび顔をしかめた。ぶーんといううつろな音に混じって、激しい雷鳴を聞いたような気がした。だが、メインの引き綱は着実にケーブルを伸ばし、最初に活動状態に入った円錐のチェックを行った。二つ目が続き、三つ目。凧将は無意識にわたしの腕をつかんだ。「リフターを運んでいます」そう言って凧将は指差した。
あの怪物みたいにはためく物体をいったいどうやってコントロールするのか、わたしには謎だった。だが、きちんとコントロールし、あの箱のような構造物を引っぱっていた。その構造物は、いつ何時人間を空中にはじき飛ばしてもおかしくないように見える。最初の尾輪は、ケーブルの周りに留められている。指令がフィールドにこだまし、凧は暗い空へ、滑らかに上がって行った。付属物も引っ掛かることなく、ついて行く。凧将は目に見えてリラックスした。「よし。うまくいったな。〈最前部〉のこのあたりでは、これ以上にいいチームは見つからんよ」瓶からまたスピリッツを注いで飲んだ。「あのゲームでは、腕や脚など簡単に折れる」凧将は言った。「そう、それに首も。今以上に弱い風でも」
わたしは微笑をこらえた。この男は辛辣な言い方をするが、その発言にこの男の本質が表れている。当然のことだが、この男は、作業の成功にいまだに誇りを感じているのだ。夏の青空なら、装置はよく見えるだろう。目の届く限りの青空を背景に、ケーブルがゆっくり流れていくのが見えるはずだ。〈中央地帯〉の航空ショーなら、凧主と助手を歓迎するリボンで飾られて、宙を舞う。だが、凧将やクルーの根性が真に試されるのは、今日のような荒れ狂う暗闇の中なのだ。
今やすべてがローンチャーの上の調整員にかかっている。調整員が振り返り、夜空をじっと見上げ、手袋をした手を重い引き綱に伸ばすのが見えた。一五〇メートルほど上空の目に見えないところで、誘導凧は飛んでいる。下では、リフターがそれぞれの位置に並び、ピンと張った鉄のロープにつながれている。装置は空高く上がっている。だが、わずかな失敗が悲劇を招く。例えば、掛け金が外れる。きちんと固定しなかった締め金がずれる。だがすべてうまくいっていた。地上調整員はふたたび引き綱を引いた。ケーブルの角度と張力を測り、最後の合図を送った。わたしは身を乗り出した。思わず興味を引かれた。手袋で曇った窓ガラスを拭いた。
全く突然、あるいは突然のように、〈観察者〉がエプロンに登場した。白いローブの侍者。金髪が流れる。そして、美しい軍支給のマントを肩から脱いだ。その中は、上から下まで厚地の黒革ずくめだった。膝までのブーツ、チューニック、細身のズボン。ぴったりフィットしたヘルメット。観察者は振り返り、格納庫の前部を見上げた。青白い顔と堅く高い頬骨が見える。だが、目は見えない。厚いゴーグルで覆われている。礼儀正しいがどことなく人を小馬鹿にするようなお辞儀をすると、きびすを返し、ローンチャーに向かった。だが、観察者が凧将やわたしの存在に気づいたかどうかは疑わしい、と思った。
地上クルーはまた忙しくなった。熟練した、ほとんど軍隊的な正確さで、観察籠を前に移動した。観察者は観察籠に乗った。あとは、熟練した、一秒よりも短い時間を争う、タイミングの問題だ。強力な風に煽られて、はじめ格納庫に隠れていた有人凧が、激しく揺れ、ピンと張ったロープをぐいぐいと引っ張った。草の上を男たちが走った。蒸気式ウインチが音を鳴らし、装置全体が夜空に上がると、観察者はすでに尾部の巻き上げ装置を操作して、高度を上げようとしていた。ウインチはしっかりとした穏やかな音を立てて安定した。凧将は顔をぬぐった。わたしは凧将のほうを向いた。「おめでとうございます」わたしは言った。「見事な離陸でした」
どこか遠くで、ベルが鳴リ出した。
「これで、全部が飛んだ」凧将は強く言った。「〈前線〉北西部のG六。南部の〈マーチス〉。全セクターで飛んだ。すばらしいことです」そしてわたしを睨んだ。「もちろん、あなたは浮揚の原理をご存知ですな」皮肉な口調で言った。
「ええ」わたしは答えた。「有人凧表面より上は、下よりも気流が速い。その結果、圧力が下がる。神は真空を好まない。その結果、どんな翼も持ち上げられるのです」
凧将は、決して落ち着くまいと決めているようだった。「お見事」凧将は言った。「教科書二、三冊ぐらいはマスターしておられるようだ。だが、もっと学ぶべきことがありますよ。もし一度でも実際に飛んだことがあれば、軽口は叩けなくなる」
わたしは目を伏せる。コーディの観察籠の上下の揺れはよく知っているつもりだ。だが、凧将を弁解の応酬に巻き込む気はなかった。そこでわたしは言った。「カンウェンについて教えて下さい」
凧将はわたしをじっと見ると、顎でカバンを示した。「ファイルを持っているでしょう」
「ファイルに全部書いてあるわけではありません。あなたにききたいんです、凧将」
凧将はそっぽを向き、尻に両手を当てて立ったまま、ローンチャーを見下ろした。「やつは飛行家です」やがて言った。「われわれに残された最も優秀な。他に何を?」
わたしはこだわった。「カンウェンと知り合ってから長いのですか?」
「わたしが軍に入ったとき以来です。二人とも訓練生でした」突然振り返った。「何が言いたいんです、ヘルマン」
「さあ」わたしは言った。「たぶん、理解したいんです」
凧将は手のひらをデスクにつけた。「理解したい?」叫ぶ。「いったい全体何のため、理解までする必要があるんです? われわれに必要なのは、ただの説明ですよ──」
「わたしもです」わざとらしく言った。「だからわたしは、ここにいるんです」
凧将は手を大きく振った。「K七」凧将は言った。「ある晴れた夜、ひとりの観察者が引き綱を落として、〈悪き地〉へ飛ばされた。よく知ってる男だった。予後はよくなかった。他のやつは、自分の手首がちぎれるのを見た。三〇年も飛んでいたのに。先週も三人が死んだ。あなたたちがただ座って、理解にのみ努めていればいいというのに──」
ドアを叩く音。凧将が入れと叫ぶと、ドアが開いた。訓練生がしゃちこばって立っていた。目を伏せている。「地区主(クォーターマスター)が褒めています」つぶやく。「それと、凧主──いえ、閣下──何かお飲みになりますでしょうか──」
わたしは首を振った。だが、凧将はボトルを拾い、部屋の向こうに放り投げた。「ああ。こいつをもっとくれ。必要なら店で買って来てくれ。あとで請求書にサインするよ」お使いの若者は走り去った。凧将は使いの若者が戻ってくるまで黙って立って考えていた。下のエプロンで、突然ウインチのストッパーが音を立てた。間があって、滑らかな上昇は続いた。凧将はむっつりと外を見ながら、新しいボトルのキャップをねじり外して飲んだ。「今度はあなたにききたい」凧将は言った。「あいつらは、悪魔にやられたんですね」
わたしは鋭く振り返った。一瞬、この男は正気を失ったのか、と思った。だが、きちんと自制しているように見えた。「そう、あなたは初めて、わたしの話を聞いた」またグラスに注いだ。「軍ができてから、実際にはどれぐらい経つのです? 最初の凧が飛んでから」
「これまでもずっと存在したし、これからもずっと存在します」わたしは言った。「それが〈道〉です──」
凧将は手を振って否定した。「そんな戯言は、それを必要とする人だけに言ってください」乱暴に言った。「こんな場所で宗教的な説教はやめましょうよ」デスクに寄りかかる。「言ってください。元来はどういうアイデアだったのか。誰が考えだしたのか」
黙っていることもできたし、そこから出て行くこともできたと思う。だが凧将の怒号の下に、何か大事なことが隠されている気がしたのだ。疑問、というよりも、一種の要求といってもいい。まるでこの男の中の何かが、反論を受けることでより確かになることを必要としているかのようだった。たぶん、議論によってより明確にしたいのだ。わたしにはこの男のジレンマがはっきりわかった。少なくともその一部ぐらいは。わたしにとっては実際のところさして真新しくもない困難だった。「軍が組織された目的は」わたしは言った。「西部王国を警備するためです。そして国境を守るため」
「悪魔から」凧将は言った。苦々しく。「悪魔、夜の怪物、害悪をもたらすあらゆる霊たち──」連祷の書から粗雑に引用した。「〈最も高き空の王国より、目に見えぬもの飛び降りて来たり、あるいは魚の姿で、飛ぶ、あるいは、最も見つけがたきものは、丘や木の頂にしがみつく──〉」わたしは手を上げたが、凧将は無視して早口で続けた。「〈最も恐るべきは最後のもの〉」歯を剥いてうなった。「〈なぜならば、邪悪なるものは、やつらに見せかけの意志を与えたのだ、獲物を探し、破壊せよと〉──くそ!」またデスクを叩く。「全部糞だ。最後のシラブルに至るまで。だが軍はそれを信じこんでいる。われわれ全員が。誰かが小指を曲げると走りだす。片手にピストル、片手に聖書を持って、馬鹿のように空に昇る。幽霊を撃つために。一方で、あなたがたはいい暮らしをしているというのに──」
わたしは窓から振り向いて座った。「もうけっこうですよ」私は疲れて言った。「もうたくさんです。祈ってあげましょう──」
「もちろんわれわれだけじゃない」凧将は言った。そして気取った顔になった。「〈塩の大海から何かが噴き出す〉」凧将はあざけった。「〈生ける炎に包まれて──〉で、〈海岸警備隊〉は日夜出かけていくんだ。嵐を止める魔法の薬をもって──」むせ返って言い、落ち着いた。「さて、言わしてもらいます、ヘルマン」激しく息をして言う。「言うから、聞いてください。悪魔はいない。空にも、陸にも、海にも──」
わたしは目をそらす。「嫉妬します」ゆっくり言う。「自分が知っているというその自信に」
凧将が歩いてきた。「それしか言うことはないと?」叫ぶ。「この偽善者──」前かがみになる。「いいやつがたくさん死んだ。国民を怯えさせるために。そして、軍のやつらが自分の地位を保持した。わたしは二十年飛んだ。こんなになるまで。そしてまた言う、声を大にして。〈悪魔はいない〉のだ──」振り返る。「ぜひ報告してほしい」凧将は言った。「いい情報だから──」
わたしは怒る心の準備がなかった。怒れば意識を失いそうだ。意識は神の唯一の贈り物。だが凧将の最後の言葉は、測り知れぬほどわたしをいらだたせた。凧将は既に解任されてもおかしくないほどのことを言っている。〈マーチ中央〉じきじきの軍法会議にかけられてもいいぐらいだ。わたしがしかるべき当局に情報を流せば確実に有罪。わたしをあざ笑い、〈ヴァリアント〉のスパイ、鍵穴や書類を覗くやつに、わたしをおとしめたのだから。「愚か者ですな」ゆっくりわたしは言った。「傲慢で不合理な愚か者──」
凧将は拳を握り、睨んだ。「傲慢? わたしが傲慢だと。あなたはどうなのだ?」
わたしは立ち上がって窓辺に戻った。「ええ、傲慢です」わたしは言った。「あらゆる尺度、あらゆる意味を超えて」振り返った。「洗礼を受ける気はありますか?」苦々しく言う。「施設付牧師の一年生みたいに、連祷の中でふらふらと。もしそれが望みなら、簡単に実現できます」
凧将はデスクに座り直し、鈍い色に塗られたデスクの上に両手を広げた。「わたしをどうしたいんだ」
「礼儀に従ったまでです」わたしは言った。「お願いだから、年をわきまえてください」
凧将はゆっくりグラスを干し、置いた。手をボトルに伸ばし、気を変えた。ついに眉をしかめながら見上げる。「あなたは自信家すぎますぞ、ヘルマン」凧将は言った。「他の相手がそんな口を聞いていたら、わたしは殺してるところだ」
「なんと安易な」わたしは短く言った。「蚤のたかった野良犬よりも蚤まみれだ」首を振った。「神の被造物の中で、あなただけが、信念を疑うために、休暇を得ようとしています。そしてそれを、斬新な感情だと言い張っている──」
凧将は眉をひそめた、また。「あなたが飛んだことがあれば──」
「飛んだことはあります」わたしは言った。
凧将は見上げた。「〈悪き地〉を見たことがあると?」鋭く言う。
わたしはうなずいた。「ええ、ありますとも」
凧将はボトルを取りもう一杯注ぐ。「あれは人を変える。どんな時も」グラスを弄ぶ。「そこには何も住んでいないと考えられている」不気味に言う。「悪魔だけがいると。だといいが」言いやめる。「ときどき晴れた日に低空を飛んでいると、わかる──見るべきでないものまで見えてしまう。だが悪魔ではない。以前わたしは、人間だと思っていた。われわれと同じような──」
わたしは腕を組む。心の中でわたしも〈悪き地〉を見た。夜にはその輝く景色が広がる。目の届く限り。丘も谷も瞬き、石炭を敷き詰めたようだ。だがすべてが不気味に青い。
凧将はわたしの心を読んだようだ。「そう。注視せずにはいられないもの」突然酒を飲む。記憶を消すように。「不思議だ。だが何年もの間、飛行家というものは自分のふだんの目よりもよく物事を見ることはできないのだろうか、と思った」顔をこする。「ときどきわたしは、やつらがどんどん世界中に広がっていくのを見る。あとには王国以外何も残らない。ちっぽけな陸地のちっぽけな片隅。だが、あれは悪魔でもない。お互いに人間なんだと思う」笑う。「だが、わたしは忘れていた」苦い口調。「〈監視〉が行われている限り、ここでは絶対何も起こらない──」
わたしは唇に触れる。不毛な話題に戻る気はなかった。「ときどき思うんです」わたしは注意深く言った。「これはただ言葉だけの問題じゃないのかと。地獄の使者を何と呼ぶかは実際、重要じゃないでしょう。名前を変えたからといって、現実にあるものが消滅しますか?」
「まあ、あれですな」凧将は叫ぶ。元の態度に戻りながら。「教会の訓練に抵抗するのは無理です。わたしはいつも言っている。少しずつでも、失ったものを取り戻すこと。何も変わるわけではないでしょう? 現実と向き合うことです。そこから苦難が始まる」
「もちろんです」わたしは穏やかに言う。「それが残されたすべて。われわれが出会う最も奇妙なものが、現実性です。間違いなく、われわれが決して理解できないもの。われわれは、その中でもがき続ける」
凧将はグラスを振る。「わたしがやろうとしていることを言う。ちょっとした実験をやりたい。あなたは、〈監視〉がわれわれをあらゆる害悪から守っているというが──」
わたしは首を振る。「王国は健全で、野原は緑であるといっているだけです」
凧将は一瞬、目を細めた。「なら一ヶ月間、コーディの装置を地面に縛りつけておきましょう。〈海岸警備隊〉も呼び寄せる。それで証明されるはずですよ、何らかの形で」
「おそらくは」わたしは言う。「ただし、そのためにはかなりの費用を払わなければなりません」
凧将はグラスを強く置いた。「もし、それでもなお貴重な野原が緑のままだったら? わたしの主張を認めますか?」
「認めましょう」わたしは穏やかに言った。「当面、地獄は休止中だったのだと」
凧将は頭を後ろに引き、笑った。全く楽しそうではなかった。「ヘルマン。あなたはかけがえのない人だ」ボトルを開け、注いだ。「いい話を教えます。若いころ、わが家の暮らしはよかった。〈マーチ西部〉に大きな土地を持っていたんです。信じてくださいよ。だがその土地を失った。父親は気が狂った。といっても人に危害は加えなかったが。死ぬまで蝿一匹殺さなかった。だが最後の十年は、毎時間毎時間、頭の窓からハンカチを振りつづけて、緑の小人を追い払おうとし続けた。ところが、わたしたちは、そんな化け物の痕跡すら見たことはなかった。父親が生きていた間ずっと」後ろにもたれた。「どう思います?」
わたしは微笑んだ。「お父さんは、〈無垢なるもの〉を再発見したのだと、いわせてください。そしてあなたに、試練を授けたのです。その当時、あなたにはわからなかったが」
凧将はすこし乱暴に、悪態をついた。「試練?」叫んだ。「それが、何の試練に?」
「その論理は循環論法になるかも知れません」わたしは言った。「あるいは、球体の性状を調べるようなものです。究極的な、それ以上圧縮不可能な形を」
凧将は、ボトルを押しのけ、見つめる。わたしは、凧将の顔の表情を見て噴き出した。「信念を試験管に入れることはできません。リトマス試験紙で検査することも」
強い閃光が窓から入って来た。続いて、長いビロードのような轟き。ベルが前より近くで鳴り出した。凧将を見やった。凧将は頭を振った。そしてしわがれ声で言った。「観察籠の高度ですな」
わたしは、バッグをデスクの端に乗せ、ロックを外した。レシーバーを取り、繊細な中央リード線がついた薄い円錐型中継器をセットアップした。凧将は目を見開いて睨んでいる。「何をしてるんです」カエルのような声。
「わたしの任務は、聴くことですよ」あっさり言った。「前も言った通り、理解したいから。あなたの話は聞きました。さて今度はカンウェンが何を言うかです」わたしは球を水晶に近づけた。コーンは素早く震え、部屋を突風と、コ―ディ装置の高く音楽的な音で満たした。
凧将は跳びすさり、表情を変えた。「魔術師だ」恐ろしそうに言った。「やめてくれ。この基地では」
「静かに」わたしはぴしゃりと言った、「つまらないことばかり言ってないで、もう少し頭を働かせてください」わたしはコントロールに触れた。〈観察者〉の大きな笑い声が聞こえた。「いうまでもなく、尾部の装置だ」〈観察者〉の声は言った。「あの日以来、新しいのに取り替えたから──」
凧将は、レシーバーを見つめた。ローンチャーの窓を通して、ケーブルが暗闇に伸びていった。「カンウェンは誰に話しているんですか?」小さな声で言う。
わたしは見上げる。「カンウェンの父親は、飛行家でしたね?」
凧将は唇を舐める。「カンウェンの父親は〈前線〉上空で死んだ。二十年前です」
わたしはうなずく。「ええ、知っています」雨が突如窓枠を叩く。コントロールを調節すると、風が前よりもうるさくまた鳴りだす。その音がケーブルの音と混じり、薄気味悪く聞こえる。初め遠くからかすかに呼びかけていた声が次第に近づいてきて渦巻いているよう。カンウェンの答えは大いなる歓喜の叫びだった。「急いで、パター、助けてくれ」切羽詰まって叫ぶ。「彼女を、行かせてはいけないんだ──」あえぐ。観察籠が抵抗するようにきいきい音を立て、近くでどすんという音。誰かあるいは何かが、本当に籠の上に叩きつけられたよう。〈観察者〉は笑い出す。「メリサ、愛するメリサよ──」
「奥さんだ」わたしは言った。「最高に美人で、高貴な女性。出産時の熱病で亡くなった。十年前、マーチ中央で」
「何?」カンウェンの声が叫んでいた。「何だって? ああ、わかったよ──」観察籠から〈大いなる封印〉を切り裂く音。また笑い出す。「みんなおれたちを賞賛している」叫ぶ。「教会はおれたちに、魔法を使っている──」
凧将が激しく叫ぶ。「やめてくれ」怒鳴る。「これ以上聞きたくない」わたしは止めようと頑張ったが、遅すぎた。凧将はレシーバーを止めた。高く持ち上げ、床に叩きつけた。繊細な部品が割れた。部屋が静まった。近くの風の音を除き。
沈黙はわずかな間だった。ふたたび雷。すぐに嵐がやってきた。立て続けにものすごい音。立っている床が揺れる。紫のちらつきが連続する。
凧将は驚き引きつる。それから落ち着きを取り戻したようだ。「装置を降ろせ」しわがれ声で怒鳴る。「あいつを降ろすんだ」
「だめです」わたしは叫ぶ。「いけません」わたしは通すまいとする。一瞬、わたしの突き上げた腕と、〈凧主の杖〉の突然の輝きで、凧将の動きを止めたが、凧将はわたしを押しのけた。わたしは滑ってずしんと倒れた。凧将の足音が構台の階段を鳴らす。わたしが何とか立ち上がったとき、凧将の声が既に格納庫中にこだましていた。「籠を降ろせ──籠を降ろせ──自分の命のためだ──」
少しめまいを感じながら跡を追った。床を踏み鳴らしながら駆けた。巨大な終端扉はすべて閉まっていた。わたしは柱門に手を伸ばしたが、柱門は風に飛ばされた。ローブがばたばたはためく。わたしは背中を高い金属の壁につけ、短く強い祈りを捧げた。目の前で、ローンチャーのメイン・ウインチが既に泣き叫んでいる。巨大なドラムが回る。激しく引っ張られたケーブルがフェアリードを蛇のように通りながら、煙あるいは蒸気を放つ。危険な場所に男たちは水のバケツを持って走る。白いローブの医者が走る。髪を波打たせ、訓練生が、手に斧を持って立っている。必要に応じてリフターのケーブルを切るためだ。わたしは見上げる。ぎらぎらするアーク灯の光から顔を遮りながら。「おーい」という叫びが上がる。わたしの目では確認できないが、もっと目のいい男が降りてくる観察籠を見つけたのだ。わたしは前を見る。次の瞬間、周囲は大きな白い閃光に包まれた。
一瞬、〈時間〉そのものの速度が遅くなったようだった。わたしは見た、男を。両手を広げ、ローンチャーから真っ逆さまに飛びだす。上部構造の破片が、衝撃によって外にはじき飛ばされ、空中に弓なりに飛ぶ。ローンチャーの運転台、車輪、締められた固定具のケーブル、一つ一つが別々の炎に照らされているように見える。雷光は、上へと速度を増し、強い光でメインの引き綱を照らし出す。そして、息がわたしの肺からつかみ出されるような感覚。わたしは半ば麻痺してふたたび地面に叩きつけられる。宙を舞う色のついた点々の向こうで、若い訓練生が顔に血を流し、ウインチ・ギアに駆けていくのが見える。訓練生はいちばん高いレバーに体重をぶつけた。そして叫びながら止まった。残り数メートルのところまできた有人凧は、横ざまに衝突し、無造作に〈観察者〉を草の上へ落とした。どこかで掛け金が割れるのが、ぐるぐる回るわたしの耳にかすかに聞こえた。斧が光り、ケーブルの端が凶暴に頭上を走った。リフター・トレインは回転しながら暗闇の中へ消えた。

***

東の空が光っている。わたしは最後の任務に備え、カバンに荷物をまとめた。ロックをパチンと締めた。ドアにノックの音。金髪の訓練生が入って来た。トレイに湯気の立つマグカップ。わたしは微笑みかけた。額に新しい白い包帯を巻いている。少し青ざめている。だが、ずいぶん誇らしげな顔だ。
わたしは基地の軍医に向き直る。角張った赤ら顔の男だ。わたしは言う。「つまり、カンウェンは生き延びると?」
「そうです」陽気に医者が言う。「遅くとも数日以内に起き上がれるようになりますよ。なにしろ過去に六回ほど同じような危機を乗り切っています。今回で新記録ですな」医者は、ドアを閉めて去った。
わたしは酒を飲んだ。黒く苦い酒だ。だが少なくとも温かい。「ところで、わたしは仕事があります。おもてなしありがとう、凧将。昨夜の危機に対処したスタッフ全員にも、賞賛を惜しみませんよ」
凧将は自信なさげに顔をこする。「もうしばらくここにいて、朝食でもいかがですか?」
わたしは首を振る。「とうてい無理ですよ。九時にG一五で仕事がありますから。でもありがとう」わたしはカバンを持ちまた微笑んだ。「凧将は少し飲みすぎましたな」わたしは言った。「何かまた、とても面白い異端の説でも聴きたいものです」
凧将はわたしの先に立って、今は静かな格納庫を進んだ。一方では一群の男が、長いワイヤーの引き綱を広げる作業に従事している。だが他にはほとんど動く気配がない。外では嵐のあとの風が甘く冷たく鳴っている。メインゲートの脇で車が待っていた。かっこいい制服の運転手兼侍祭が立っている。わたしは車に向かった。凧将が横を歩く。顎を胸につけ、まだ物思いに沈んでいるようだ。「あなたの結論は?」突然きいてきた。
「最近の浮揚失敗率についてですか?」そう言って、わたしは首を振った。「全体的な志気の低下は、確実な気の緩みにつながります。むろんここは別ですが」凧将が唇を動かしたのでわたしはつけ足した。コーディのチーム・メンバーの人生は孤独で、感謝すべきものもない。わたし以上にそのことを知っているものはいない。
凧将は立ち止まりわたしを振り向いた。「ではそれをどうすればいい?」
「どうすれば?」わたしは肩をすくめた。「カンウェンを派遣し、話をさせればいいでしょう。〈神の顔〉を見た体験を話すはずです。あるいは、あなたが行ってもいい」
凧将は眉をひそめる。「あの魔法。わたしたちが聴いた、あの──」
わたしは歩き出した。「前に何度も聴いたことがあります」わたしは言った。「あんなの、大して重要だと思いませんよ。空は不思議な世界ですから。できる限り、それと調和して生きることです」これはじゅうぶん真実だ。時には正気を保つため、ちょっとだけ狂う必要もあるのだ。
凧将はまた眉をひそめた。「それでは、報告は──」
「もう作成済みです」わたしは言った。「あなた自身が昨夜、報告されました。大してわたしが付け加えるべきことがあるようには、思いませんね」わたしは凧将を見やった。「あなたは、きちんと忠告をいれるべきだったのです」わたしは言った。「カンウェンを飛ばすのなら、嵐の目の中を引きずり降ろすようなことは絶対に禁物だと。でもあなたがあのとき、緊張状態になければ、ご自分の目で見ていたはずです」
「わたしが酔っ払っていなければといいたいのか」凧将は憮然と言った。「それにわたしはずっと、考えていた──」肩を丸めた。「もう二度と起こらない、凧主。わたしは保証する」
「ええ」わたしは穏やかに言った。「起こらないでしょうね」
凧将は首を振った。「わたしは一瞬、考えた。あれはわたしへの審判なんだと。わたしは間違いなく、裁きを求めていたんです」
わたしは手で微笑みを隠した。そして思った。〈むろん、それこそがあなたのアマチュア神学の問題点のすべてなんですよ。いつも神が天の高みから見下ろしてくれるのを期待しているんだ。神が特別の施しをしようと、手を鼻に当てるのを〉
私たちは車に着いた。侍祭がきびきびと礼をした。そして明るい紋章のついた後部ドアを開けた。わたしは乗りこみ、窓を降ろした。「さようなら、凧将」わたしは言った。
凧将は手を出した。「神のご加護を」しわがれ声で言った。そしてためらいながら、言った。「いつか、あなたを訪ねましょう。あの夏の宮殿で」
「どうぞ」わたしは言った。「歓待されますよ。当然のことですが。ところで、凧将──」
凧将は上体を近づけた。
「お願いしますよ」わたしは言った。「コ―ディを飛ばし続けてください。事態が改善されるまで」
凧将は一歩下がり、こわばりながら礼をした。それから両手を尻に当て、車を見送った。緑色の錆びたトラックが曲がってその姿を隠すまで、凧将はこちらを見ていた。
わたしはクッションに背中をもたれ、鼻梁をつまみ、目を閉じた。奇妙に愉快な気分だった。明日、わたしの出張旅行は終わる。マーチ中央で、新たなメイ女王が戴冠する。子供たちが走ってわたしに会いに来る。髪に花を飾って。わたしは子供たちの手に触れよう。
わたしは上体を起こし、〈凧基地・G一五〉のファイルを開いた。二キロほど進み、目の前のガラスの仕切りを叩くと、運転手はおとなしく車をとめた。わたしは振り返って見た。小さな山並みの向こうで、コーディの籠がゆっくりと空に昇り、夜明けの黄色い光にシルエットになっていくのを。
~完~


一九八四年度 受賞作

残像 After-Images マルコム・エドワーズ

前日の出来事のあと、ノートンは発作的に眠っただけだった。その夢は、リチャード・カーヴァーのグロテスクな姿に満ちていた。名目上の朝がまた訪れたことをベッド脇の時計で確認するとほっとした。いつも完全な暗闇でないとなかなか寝つけないのだ。だから、変わりない日光がカーテンの隙間から漏れ、床を照らし、白熱するナイフで切り裂かれたような線を引いていることで、ノートンはいっそう落ち着かない気持ちになった。できるだけきちんとカーテンを閉じようとはしたが、安物で縫製もよくなかったし──アパートの前の持ち主が、ある明白な理由で、引っ越すときにわざわざもっていこうとはせず、置きっぱなしにしていたものだ──たとえ頑張って上下の端をできるだけきっちり揃えたとしても、上端のプリーツの辺りに、必ず狭い隙間ができてしまう。
ノートンは無力感から来る疲労に囚われそうになった。だが、己の存在の予期せざる終局を間近に控えて八日目の朝だということを思いだすと、疲労を振り払い、けだるくベッドを滑り降りた。急いで着替え、あまり考えず、カーテンを開き、正午過ぎの夏の陽光を入れた。
太陽はこの八日間あったのとまったく同じ位置、つまり、通りの反対側のテラスハウスの屋根の頂点から数度傾いたところにある。その日は嵐で、すべてが止まる数分前に、激しいにわか雨がロンドン中を襲った。だが、スコールが終わり、雲の隙間から──瞬間的に、誰もがそう思っただろう──太陽が現れた。視界の空は、まだ低いすすけた色の雲に大部分覆われ、雲は光を包み、雲の膜を通して奇妙な輝きを放っていた。一般的には、嵐の前触れだ。だが、太陽は天の顔の目のように、まばたきひとつせず、青い空の一点に鎮座していた。ノートンらは、この数日というもの、昼も夜も、この神話的な永遠の太陽に照らされながら、イングリッシュ・サマーを過ごしてきたのだ。
外では熱がむっとおさえつけるように、こめかみを強く圧迫する感覚がある。数週間放置されて飛び散ったゴミが、腐敗しきった匂いを放ち、ぶんぶんという蝿の大群を集めている。ノートンの住むマルボロ通りは、後期ヴィクトリア朝様式とエドワード朝様式のテラスをつきはぎしたデザインで、ロンドン西部の地図上の流行遅れの空白地を占めている。その一方の端は少し広い通りと通じており、この通りはハイ・ロードと呼ばれるバス道路で、みずぼらしい店が散在している。ノートンはハイ・ロードに向かって歩き、所有者が慌てて出て行ったことの明らかな家々を通りすぎる。ドアや窓が開いたままなのだ。通りの向こうの家は、この地区に残っている十代の若者数人の大半が、この三日間、どんちゃん騒ぎを繰り広げ、日を追うごとに派手になっていたが、今は静けさが戻っていた。たぶん、疲労か薬のやりすぎで、ぶっ倒れたのだろう。あるいは両方かも、とノートンは思った。
角で立ち止まった。北──つまり向かって左側──は、通りが急カーブしており、両側に、擬似ジョージア風正面玄関のぼろい三階建ての家が並んでいる。南は直線道路だが、九〇メートルほど先では、〈境界面〉の巨大で邪悪にきらめく壁が、空に向かってそびえ、超現実的な泡のように後方へカーブしている。いつものように、ノートンはそれを見てしまった。もっとも、目そのものは、自動制御されているように見ることを拒み、別の場所に焦点を定めようとするのだが。
その様子を正確に描写するのは不可能だ。その表面は色が欠けているように見えるから。目を閉じると、まぶたの裏を色とりどりの残像が泳ぐ。交差し混じり合う原形質様の形。無理に見ようとすると、視神経はその存在を否定しようとする。両脇の商店の映像を歪曲して重ね合わせ、道路が次第に一点に向かって狭まっていくように見せかけようとするのだ。
ノートンはときどき偏頭痛に見まわれ、攻撃準備に似た現象をしばしば体験する。視野の一部が切り取られているのに、空白部分の縁が引き集められ、何かが見えなくなっていると確信することが困難になるのが分かるのだ。そういうときこそ、ときどき目をそらし、目の前にある物体を斜めに見る必要がある。というわけで今も、ノートンは目をそらし、〈境界面〉を見ることができた。それはあざのような色の湾曲した壁で、そこからときどき織物のほつれ目のように強い光の細い線が漏れてくるのだ。そしてまた、〈境界面〉に映し出された三人の人間の姿がよりはっきりと見える。洗練されたホログラフ技術によって映し出されているかのように。道路の中央には、境界面に消えたときのカーヴァーと、ノートン自身の姿。それは、波面が徐々に進むにつれてぼやけ始めている。一方の脇には、もう少しくっきりと、ノートン自身が一人で出てきた時の映像記録。表情ははっきり青ざめ、緊張している。重い分極ゴーグルで顔の半分を覆っているにもかかわらず。
ノートンは昨日の朝、カフェ・ヘレニカの外にあるテーブルに座り、小さなカップでギリシア風コーヒーをゆっくり飲んでいた。甘く濁った飲み物はあまり好きでないが、まだビールやワインを飲む気分ではなかった。
カフェのギリシア・キプロス系オーナーは、この状況の変化に、他の環境であれば進歩的と思われそうな態度で反応していた。すべてのテーブルと椅子を歩道に出し、より涼しい室内を年中いるビリヤード好きに解放し、戸外をアテネあるいはニコシアの楽しかった日々を連想させる、オープン・カフェの真似としてはなかなかの傑作に変えていた。残る地域住人の大半はギリシア系だった。男たちはここへ集まり、トランプやチェスをし、安物のデメスティカを飲み、激しい勢いでしゃべるので、話題が陳腐且つ平凡でもドラマティックに聞こえた。風景に時間の観念がないことが、奇妙にもしっくりくる気がした。
ノートンはコーヒーを覗き込み、とりたてて何を考えるでもなかった。そのとき、影がノートンの上に落ち、同時に隣の椅子が路面を引きずられる音が聞こえた。見上げると、カーヴァ―がくつろいで椅子に座った。厚いパッドの入った白いスーツという奇妙ないでだちだった。まるで宇宙飛行士か南極探検家のように見える。テーブルのフォーミカの表面に、厚いゴーグルを持ち込んでいる。カーヴァーはオーナーにコーヒーを注文した。
ノートンは仲間は欲しくなかったが、思わず興味をひかれた。「その道具はいったい何だ?」ときいた。
「探検の道具だ──しかし、暑いね」カーヴァーは言って、袖で面倒そうに額の汗をぬぐった。
「いったい、何を探検するんだ」
「あれだよ──名前は知らんが。泡だよ。〈境界面〉。おれはあの中に入ったよ」
ノートンはいらだった。カーヴァーはこの状況を真剣に受けとめる能力がないようだった。この男は四日前、ノートンが酔って座っているときノートンに目をつけ、以来毎日ノートンに話しかけた。何が面白いのか分からないギャグと、聞いたことのない、だがおそらくちっぽけな、某国際交流事務所の支店での生活を話しまくった。バーでいちばん隣に座りたくないタイプの客だった。この男、明らかに頭がどうかしている。
「馬鹿を言わないでくれ。ほんとなら、とっくに死んでるはずだ」
「死んでいるように見えるか?」カーヴァーは自分を指差した。その顔は日に焼けて丸く、その目は見ていて不安になるような純粋な海の青で、いつものように健康的に見えた。
「無理だ」ノートンが繰り返した。
「おれが見つけたものを知りたくないか?」
我慢できず、ノートンは叫んだ。「何を見つけたか知ってるよ。核爆発だろう。そいつを通りぬけたとか言うんじゃないぞ!」
カフェのオーナーがやってきて、カーヴァーの前にカップをドンと置き、コーヒーが少し受け皿にこぼれた。カーヴァーは黒い液体を長くゆっくりすすりながら、カップの縁越しに、無表情にノートンを見た。ノートンは馬鹿馬鹿しくなり、引き下がった。
「でも本当なんだよ、ノートン」とうとうカーヴァーが穏やかに言った。「おれはやったんだ」
ノートンは黙ったまま、この茶番劇の会話に加わるのを頑固に拒んだ。別に先を促さなくてもカーヴァーが勝手に話し始めるだろうと知りながら。
「ただ歩いて入ったわけじゃない」数秒置いて、カーヴァーが言った。「おれは自殺する気はない。最初に棒で試してみたんだ。それから少し揺らしてみて、引きぬいた。棒は何のダメージもなかった。そこでおれは考えて、ペットのネズミで試すことにした。ダメージはなかった──ただし、あの可哀想なチビ、目が焼けてしまったけどね。そこでおれは思った、よし、これはとても明るいが、ただそれだけだと。いったいどういうことか?」
ノートンは肩をすくめた。
「あの中では、すべてのプロセスが遅くなってしまうように思ったよ。全体に一連の波頭が立っている──閃光、火の玉、爆風──すべてがゆっくりと拡大している。だが、みな別々なのだ」
「信じ難いな」
「だが、この状況全体が、まったく正常だといえないのは、きみもわかっているだろう──」
別のテーブルで騒ぎが起こり、会話は遮られた。トランプの手札をめぐり、二人の男が喧嘩しているようだ。ひとりは、がっちりした中年男で、グレイのメッシュ入りベスト越しに、たくさんの体毛が飛び出しており、立ち上がって自分の手札を持った手を振り回していた。もう一人のそれよりも年上の男は、座ったまま繰り返し拳でテーブルを叩いていた。早口で脅すような話し声が次第に大きくなった。ベストの男が腕を怒ったように振り、手札をテーブルに投げつけ、カフェの中に踏みこんだ。もう一人は、大声で不満そうに見物人に話し続け、複雑な身振り手ぶりで自分の主張を強調していた。
ノートンにとって、その眺めはいい気晴らしだった。カーヴァーが何を言っているか分からないし、どうしたいのかもはっきりしないから。「あいつらは素晴らしいな」ノートンは言った。「何も起こらなかったような顔をしている。何もかもふだん通りって感じだ」
「あいつらは合理的だよ。すくなくとも一貫性があるよ」
「本気か?」
「もちろんだ。ここ数年の出来事は、何もかも避けられないことだったんだ。みんなわかっていたけど、知らぬふりをしていただけだ。本格的に準備を始める段階になってもな。みんな、まさか本当に起こることはあるまいと言ってきた。今までも起こらなかったから、と──見事な論理じゃないか! おれたちはただダチョウのように首をすくめ、できるだけ知らんぷりを続けたんだ。で、そのあげく、今、こんなことになっちまって──あれが道路の先にある。それが近づいて来るのを、おれたちは知っている。逃げ道がないことも。でも、初めから分かっていたんだ。もし電車の線路に自分をくくりつけたら、電車が視界に入るのを待たなくても、自分が危険だってことはわかるだろう? それと同じことだ。だからおれたちは、いつも通り行動すればいいだけさ」
「あんたがそんなふうに思っていたとは知らなかったよ」
「そりゃそうだろ。あんたにとって、おれは酒場の単なるいかれたジジイだからな。話は以上だ」
カーヴァーの言うことは一理あると思った。もしだれかに死ぬまでに核戦争が起こると思うかときかれたら、おそらく肯定するだろう。もしそうなったらどうするかときかれたら、肩をすくめて、さあ、あなたはどう? と答えるだろう。さまざまな反対運動に参加している行動的な友人は何人かいたが、無益なことをしていると思わずにはいられなかった。実際、友人たちの中には、問い詰められて、確かに無益だとを認める者も、中にはいると思う。違うのは、もし希望が──たとえわずかでも──あるのなら、行動せずにはいられない連中だということだ。一方のノートンは、およそ結果を生みそうになさそうな行動には興味が持てなかった。テレビを見たり、酒場で夜を過ごしたりするほうがましだった。
もうひとつの難点は、その様子を想像できないこと、爆風や炎にやられるロンドンの映像を思い浮かべられないこと、何百万人という人が死に、爆風を生き延びた人々が核シェルターで死に、それに続いて混乱と無政府状態が訪れる様を考えられないことだった。それを想像できないがゆえに、何らかのレベルで、絶対にここでは起こりえないこと、あるいは、自分には起こりえないことだと思っていた。
政治的無関心──とりわけ中東情勢についてのそれ──ゆえに、ノートンは、危機が勃発しつつあることをきちんと認識してすらいなかった。リヤド郊外で米軍とロシア軍が衝突し、開戦するまでは。それから政府発表と非常事態とパニック。家にいるようにという忠告を無視して、大量の市民が都市部から脱出した。軍部に徴用された道路で軍隊が戦っているという不確かな噂が漏れた。わずかな人たちが都市に残った。ある者は政府の指示に忠実に従い、ある者はノートンのように、すべてに全く無関心で、自分たちがどういう未来に暮らしたいのかを想像すらできなかった。
そしてサイレンが鳴り、ノートンはそれがやむのを待った。サイレンはやみ、静寂がずっとずっと続いた。ノートンも他の人たちと同じように、通りに出て、自分たちが今まで想像したどんなことよりも奇妙な状況の真っ只中にいるということを知った。自分たちの立っている小さな島のような都市の一角──一辺が一五〇〇メートルもないような不規則な三角地帯──の周囲で、事実上三地点で同時に起こった地上爆発によって──いったい何が起こったのか? 時空の局所的な亀裂? それがいちばんいい説明だった。原因が何であれ、結果として、この地域の主観的な時間の速度が、何百万分の一になり、爆発の広がる速度を、一日わずか数メートルにまで遅らせ、奇妙でもろい外観の殻の中に閉じ込めてしま

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