SF百科図鑑

グレッグ・イーガン『祈りの海』ハヤカワ

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2001年

6/13
続いて、いよいよ待望のイーガン「祈りの海」に入った。一部既読分もあるが、やはり一度まとめて短編を読んでみたいと思っていた作家なので。
「貸金庫」★★★★★
「キューティ」★★★★★(再読)
「ぼくになることを」★★★★★
凄すぎて言葉を失う。モスバーガーで何気なく読み始めて、やめられなくなってしまい、明日(略)があるのでまずいと思い、3編で無理に切り上げて帰ってきた。スターリングに比べたら月とスッポン。
「貸金庫」凄い! カフカ的な出だしだが、内容はカフカを遥かに飛び越えています。最近のSFで見られなくなった奇想小説でありながら、しっかり最新の脳生理学を踏まえた科学小説となっており、かつ、アイデンティティを徹底的に突き詰める思弁小説になっている。しかもミステリタッチであるため小説として面白い。こんな凄い小説、今まで読んだことはない。読みながら震え上がりました。貸金庫って、文字どおりの意味の他に「他人の脳みそ」の意味もかけてあったんですね。
「キューティ」再読だが、こうやって短編集の一編として読むとその真価が分かる作品というのもある。雑誌掲載時は、「泣かせる話」だが突っ込みが浅い感じがして少し減点したのだが、「貸金庫」の後の文脈で読むと、ストーリーよりむしろそのアイデアの物凄さを再認識し慄然とさせられる。「妊娠する男」というアイデアひとつとってもかなりユニークなのだけれど、とにかく、「どこから人間でどこから人間でないのか?」「そもそもヒューマニズムって何なのか?」という根源的なところへ頭がいかざるを得ない、切れ味鋭い作品である。エンジェルが「パパ?」と語りかける場面はほんとうに背筋が凍るほど恐ろしく、この作者が最初ホラーを目指していたというのもうなずけるところである。
「ぼくになることを」多分、今まで書かれた全てのSF(に限らず全ジャンル)の短編中でも、50年に一編というぐらいのトップクラスの名作である。科学性、思弁性、ミステリタッチの展開とストーリーの良さ、在来の自我と<宝石>の自我が分離する場面とその後のどんでん返しの恐ろしさ、と全てにおいて完璧でどこに出しても恥ずかしくない作品であり、未来の古典というべき恐ろしい作品である。内容は多重人格を扱ったキイスなどを連想させる面もあるが、イーガンの本作は、キイスなど軽く飛び越え数百光年先を突っ走っている。
以上3編だけでイーガンの凄さは十分に伝わり、ただSFとしてだけではなく、その衝撃と感動の質はもっと普遍的なものであって、最近のSF作家の中で唯一、ばりばりのSF作家でありながらその作品を安心して一般の人(ミステリや純文学の読者)にも薦められる作家といえるだろう。

6/14
イーガン「祈りの海」より
「繭」★★★★1/2
イーガンの米国での出世作(ヒューゴー2席)。ただし、個人的には、イーガンにしてはアイデアがストレートで「普通のSF」になり過ぎているところがやや物足りない。もっと変な話の方がぼく的には断然好み。バイオテク企業という題材もサイバーパンク好みで米国で受けたのは分かる気がするが、イーガンであるべき必然性に乏しい感じがする。ただ、同性愛に関する扱いはユニークで、イーガン作中でも最も社会派的な作品と言えるだろう。
「百光年ダイアリー」★★★★★
同じインターゾーンに掲載されたスワンウィックの「予視」(インターゾーン傑作集・収録)を明らかに意識したアイデア、テーマ。時間逆行と人間の自由意志の問題を追究しており、スワンウィック作品とあまりにも似ている。ただし、科学的ディテールをワトスン的なまでに書き込む(正直いってよくわからないが(笑))ところはさすがイーガン的。また、政治、歴史に関する考察まで取り込んだところが、あくまでも個人的視点に終始したスワンウィック作品から一歩踏み出している。とにもかくにも、時間逆行と自由意志の問題はあまりにもぼくにとって魅力的すぎるために、ついつい評価が高くなってしまわざるを得ない。スワンウィックも満点にした以上、この作品も当然、満点。
「誘拐」★★★★★
SFM掲載作の再読だが、こうして短編集の中で読んでみるとその凄さを再認識する。ネタは、そっくりそのままコピーされてコンピュータの中で再生される自我、という、ギブスンやヴァーリイでお馴染みのものだが、ギブスンらのそれが単なる一素材に過ぎないのに対し、イーガンはとことんまでアイデンティティ探究の思弁を展開するところが決定的に違う。speculative fictionの名がこれほど相応しい作家も他にいないだろう。
やっぱりSFの醍醐味はぼくの場合、アイデアと思弁の切れ味に尽きるね。長編も短編も。

「放浪者の軌道」★★★★1/2
このアトラクタというアイデアは、物理学の比喩か何かだろうか? 特定の地域の人間の思想/イデオロギーが<メルトダウン>して特定の集団を形成し、この集団を地域に縛り付ける存在が「アトラクタ」と呼ばれている。よく知らないけど<メルトダウン>という用語からして何かの比喩っぽい。あまりに独創的すぎてわかりにくいが強烈にユニークな作品だ。一回目は「よく分からなかった」ので1/2引いた。つまり自分の読解力不足ゆえに減点である。2読目以後満点もあり得る。

6/15
「ミトコンドリア・イヴ」★★★★1/2
SFM掲載作の再読。ミトコンドリア、Y染色体解析による系統図作成、それを根拠とした政治思想の対立(父系対母系)、それらの手法を超える原子の運動解析によるより正確な系統図作成とそれがもたらす政治的混乱&&題名こそ瀬名のベストセラーのバイオホラーと類似するが内容的関連性は全くなく、実に独創的な、最新の科学知識を生かしたハードなアイデアと戯画的な政治絵巻の結合である。むしろ長編向きの題材と思われ、短編ではやや序章的な印象故、半点減点。
「無限の暗殺者」★★★★1/2
究極の並行宇宙小説である。題材は、ティモシー・ザーンの「転移点」とよく似ている(無限に連続した別バージョンの自分、というイメージはそっくりであり、あるいは意識的に借用したのかも知れない)。ただし、イーガンの本作は、ドラッグの力で無限に連続する別宇宙の自己へ順送り的に流れていく、という強烈な仮説理論をでっち上げ、それによる波動が<渦>を引き起こし災厄の原因となるので、<渦>を起こした原因のドリ-マーを抹殺するハンターが必要となり、そのハンターにはバージョンごとの差異のほとんどないことが実証された人物が選ばれる、というアイデアを演繹する。そのデタラメ科学理論の異常なまでに理詰めのディテール説明がいかにもイーガン的である。<渦>における並行宇宙の事象が断片的に現れたり消えたりする場面の視覚的描写(人間の半身が突然現れて消えたりするところ)は「宇宙消失」のラストシーンに匹敵する。ただこの題材も長編向きで、短編ではいささか物足りなさが残るゆえ半点減点した。
「イェユーカ」★★★★★
生硬さが抜けて小説としてこなれてきたといわれる最近のイーガンを代表する一編。しかし、普通のつまらないSFになったということではなく、指輪型の万能医療装置という通常のサイバーパンク小説では一ガジェットにとどめられそうなアイデアを核としてディテールを解析し、それにイェユーカという新種の癌(ウイルス性)のアイデアを組み合わせ、医療産業の汚れた実態の告発という現代的で社会派的なテーマに昇華させるという重層的な作品に仕上げることに成功している。またメインストーリー以外のディテールの気配り(例えば指輪を長期ローンで買い、盗難であれば保険金がおりるが、やらせの盗難であれば保険金詐欺になることを主人公が気にするというくだりなど、普通の作家なら気にしないであろうことまで正確に認識し指摘する)も素晴しい。ここに描かれた医療産業の実態は薬害エイズ事件を思わせます。オーストラリア地元誌掲載作ながら高評価され、2種の年刊アンソロジーに掲載。米国誌掲載ならばヒューゴーは取れていたはず。

6/16
「祈りの海」★★★★★
イーガンのアメリカでの大ブレイク作。ヒューゴー/ローカス賞受賞。本作の冒頭は、ジョーン・ヴィンジのサイエンス・ファンタジイを彷佛とさせる遠未来の異星の海洋風景と風土が描かれ、「おいおい、ついにイーガンも売れ線に走ったのか?」と面くらわせられるが、後半が一筋縄でいかないイーガン節。<海人>と<陸人>の交接シーンの生殖メカニズムのディテールにイーガンらしさが現れ、「よし、いいぞ」と思っていたら、終盤、待ってましたの種明かし。ポール・アンダースンの異星生物学作品群を思わせるネタだが、やはりイーガンのほうが説得力がある。しかも、アイデアの面白さに加え、宗教と政治に科学が与える影響という、「ミトコンドリア・イヴ」等で端緒をつけたテーマが再度探究され、加えて、主人公の青春/成長/喪失と成熟の物語、及び、宇宙へ植民した人類の発祥の地・太陽系へ思いを馳せるラストで一気にパースペクティヴが開けるところなど、多様な要素をあわせ持ち、小説としての複雑な膨らみを調和させ、清冽な感動を生むことに成功している。イーガンが作家としての第2段階に入ったことを告げる記念すべき快作である。

以上で「祈りの海」★★★★★完読。万人に薦められる名著だと思います。ただ、「日本版オリジナル」で、この形で出してしまうと、原書の短編集の未訳作品群がいつまでたっても日の目を見ない可能性が高まったのが、返す返すも残念&&。イーガンは全作品を訳して文庫で読めるようにしておくべきです。

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