SF百科図鑑 山田正紀『神曲法廷』講談社文庫


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2001年

5/25
山田正紀「神曲法廷」★★★★★
面白かった~。島田荘司系で、島田荘司より面白い。欲をいえば「青蓮佐和子」のキャラクター描写をもっと綿密にしてほしかったけど、それ以外は文句のつけようがありません。最後に残った謎まで解決され、「過剰なもの」が消失したと見せかけておいて、このオチもいい。本格ミステリでありながら社会派入っているところもいいし。哲学や芸術、日本文化/国民論が随所に入っているのは京極あたりを思わせるし、全体が「神曲」の「見立て」的な構成になっているのもいい。見事なメタフィクション、スペキュレイティヴフィクションの傑作といえましょう。

山田「宝石泥棒」「宝石泥棒2」「夢と闇の果て」「ブラックスワン」購入。「神狩り」「彌勒戦争」「火神を盗め」「地球精神分析記録」「最後の敵」「女囮捜査官」「人喰いの時代」「終末曲面」「螺旋」「エイダ」「妖鳥」「阿弥陀」等も全部読まねば。

90年代(特にアメリカ)SFの面白くない理由は、「過剰なもの」がなくなっているせいではないだろうか。つまり、ディテールを細かく詰め込んだり、あれこれと凝った趣向を凝らそうとするあまり、話のスケールが小さくなる上、読者が無理やりつきあわされてしまい、肝心の想像力を自由に遊ばせる余地がなくなっている気がするのだ。ロビンスンの火星三部作をその悪しき代表格として、ウィリスの「ドゥームズデイブック」もそうだし(サスペンス小説としては面白かったが)、ビジョルドのヴォルコシガンシリーズだってそうだ。遊びがないのである。これだけでもうヒューゴー長編賞受賞作の6/10を占めている。シモンズの「ハイペリオン」とヴィンジの「遠き神々の炎」「天空の深淵」のような作品がメインを占めれば、「90年代アメリカSFは面白い!」という印象になるはずなのに。また、ウィリスのもう1作の「犬についてはいうまでもなく」はSF的な「過剰なもの」がかなり復活しており、作品そのものとしては大傑作だが、しかし、その面白さのかなりの部分はミステリ部分と英国文学のパスティーシュ部分が占めており、SFが全部こんな作品ばかりになったら、ジャンルの衰退といわざるを得なくなってしまう。スティーヴンスンは未読なのでまだわからないが。ホールドマンの「終わりなき平和」は前半の普通小説的な書き込みと後半の強引な飛躍の対比が面白く、後半部分にSF的過剰さが感じられるが、やはり変格SFといわざるをえず、ウィリス同様これが主流になったらSFは死んでしまうだろう。
そういうふうにみてくると、日本のミステリが社会派の流行で一度死にかけたのと似ているかも知れない。ハードボイルドとトラベルミステリーの流行はSFでいうとホラーやファンタジーといったサブジャンルや、ヤングアダルト物、アニメ等の流行に対比できるのだろうが、その反面ジャンルの核の消失をもたらした。広がり過ぎて自分を見失うというやつである。SFの場合は、ニューウェーヴ以後の主流文学や他ジャンルへの接近が、難解なものと娯楽一辺倒のものとの2極分化を生んでしまったというわけである。他ジャンルへの接近はやがて他ジャンルに取り込まれてしまうし、流行の娯楽ものは、ブームが過ぎれば簡単に捨てられてしまう。必然的に、残るものは何もない。SFのよさは、知的にエキサイティングな部分と娯楽性とをあわせもっているというところにあったはずなのに(SFで名作といわれるもののほとんど全てがこの両面を持っていることに驚かされる。これこそ、「過剰性」なり「センスオブワンダー」と感じられる部分なのだ)、それが「本格SF」であるべきだったのに、この「家」を守るものが誰もいなくなり、誰もが出稼ぎしているうちに、いつのまにか家庭崩壊していた、というわけである。
そうするとやはりSFとミステリは、ポオという同じ始祖を持つことに象徴されるように、よく似ているのであり、SFの活路は、ミステリがいかにして巻き返したかに学べば見出せるのではないか。ミステリ復活の最功労者は、新本格派宣言であおりまくった島田荘司であることに異論はないだろう。新本格派がないということは、綾辻、麻耶、我孫子、有栖川、京極、折原らが存在しないということだから(これらの作家が、島田のあおりたてた土壌が存在したがゆえに世に出て来えたということに異論の余地はあるまい)、そうなっていたとした場合の現在のミステリを想像するだけでも寒気がするだろう(「メフィスト」も、ノヴェルズ隆盛も存在しない)。まさに、SFは今そういう状況にあるのである。だから、そっくり真似をするだけでいいはずだ。「新本格」SF作家が出てきて、「新本格」SFの傑作を書きながら、アジればよい。(これは日本についてだけど)アジる人もいないのに、また根拠となる作品もないのに、いくら「SFが読みたい!」という真似本を出したり(これ著作権の侵害じゃないか?)、大森がホラーやミステリ作家の取込みを図ったりしても駄目じゃないか? それじゃ乞食みたいじゃん。「知的に刺激的で、かつ、面白い小説」といえば、やはり小松左京のような小説が王道でしょう。だから小松タイプのスケールを持った作家が出てくればよい。そしてアジらなければダメである。その可能性があるのは、日本でいうと山田正紀か神林長平ぐらいだろうが、山田は気が多すぎるし、神林は今一つスケールが物足りない気がする。しかも、どちらも書くだけでアジらない。謙虚すぎるのである。
アメリカでも幅をきかせているのは変格タイプか娯楽タイプの作家ばかりで、本格SFを書くのはジャンルミックス作家(シモンズ)という皮肉な構造になっている。唯一期待できるヴィンジは寡作な上にアジらない。いい打開作はないもんだかねぇ