SF百科図鑑 アーシュラ・K・ルグィン『所有せざる人々』ハヤカワ文庫SF


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2000年

9/17

で、次は一足飛びに「楽園の泉」とも思ったが、偏るのも何なので順当に「所有せざる人々」にいく。

「所有せざる人々」に入る。
シェヴェックがウラスに到着する第1章読み終わる。シェヴェックからみたウラスの「異様さ」の描写だが、シェヴェックの思考回路が独特で、まずこれになじむのが最初の読者に対する課題である。構造としてはハインライン「異星の客」に似ている。また主星と植民地衛星の関係をモチーフにしている点では「月は無慈悲」に通ずるものがある(作者が意識したかどうかは分からないが)。
で、シェヴェックの思考を理解するために1章おきにシェヴェックのアナレスでの生い立ちを記した回想の章が挟まれる。この構成は「闇の左手」等と通ずる。
今日、寝る前に100ページ以上まで(つまり4章まで)読む予定。1日100ページとして、木曜頃に読み終わる予定だ。その後、週末に「鳥の歌」「ゲイトウエイ」読み終えて「夢の蛇」に入る。こいつは面白そうなので、すぐに「楽園の泉」までいっちまいそうだ。その後短編に入る。だいたい9月中には、長編は読み終え、短編も半分ぐらいは読めそう。10月頭には80年代に入れそうだが、その前に「ザンジバー」も読んでおこう。ざっとでよいから。ななめ読みで、筋を辿る程度に。

9/18
競馬もようやく面白そうな番組が出てきた。そろそろ本格的に予想を始めたい。
月曜の次点での予想。
オールカマー
メイショウドトウを軸にしようと考えている。何といっても大崩れがなく、最も安定している割に、人気があまりない。さすがに宝2着後の今回は一番人気の可能性もあるが、それでも単勝3倍程度のオッズにはなるだろう。ここから薄め流しする。
成績の割に人気になりそうなダイワオーシュウは嫌う予定。ステイゴールドも同様にG2、G3では、人気程には走らないことが多い(G1で不人気のときに買うのが美味しい)。来ても大してつかないし、来ない可能性もけっこうあるので、嫌う。
しかし、これといった穴馬がいない。初芝のブライアンズロマンが面白いが、10歳ではピークを過ぎており激走の可能性は薄い。最近は地元のダート戦でも取りこぼしており往年の力はないようだ。それよりむしろ、マキバスナイパーのほうが面白いかも。
しかしいずれにしろ少頭数で配当の妙味はなく、見送りが賢明かも。

神戸新聞杯
春のクラシックホース2頭が出走し、人気をかぶるのは必至だが、秋のトライアルはG1馬が夏の上がり馬に取りこぼすことが多いので、狙わない手はない。また、春に今一だった馬がマチカネフクキタルのように菊までぶっこ抜くこともあるので、馬鹿にはできない。
というわけで、G1馬2頭は無謀にも消し(笑)、春今一系と夏の上がり馬系をチェックしてみると、春今一系としてはエリモブライアン、上がり馬系ではトウカイオーザ/ファイブソルジャー/フサイチソニックあたりが目につく。この4頭の中から、いちばん人気の薄い馬を軸にする予定。心情的にはトウカイオーザ◎だが、心情馬券は当たったためしがないので、あくまでも人気がなかった時のみ軸にする。

札幌3歳ステークス
どんぐりの背比べ状態で力量比較が難しいし、凡走馬が一変するケースも多い3歳戦の中でも、このレースは特に難解でマイネルプラチナム10万馬券を筆頭に、去年もマイネルコンドル、ジョウテンブレーヴで2万馬券。荒れる最大の理由は1800という距離だろう。スプリント戦で凡走した連中が、距離延長で適性を発揮して一変するパターンが多い。
だが、スプリント今一組から距離適性を見抜くのは難しい。一つ言えるのは、単調な逃げ馬は飛びやすいこと。したがって狙い目は「不人気の差し馬」(但し極端な追い込みもダメ)。1800程度の距離で好走または初距離であること。ブライアン産駒ミスサルデニアはついつい買いたくなるが(初距離)、脚質的に厳しいし血統人気だけでそこそこ人気になるだろうからうまみはない。人気がなければ買う。
面白そうなのは芝1800に変わっていきなり勝ち上がったスキャンボーイ。人気が無さそうなので、ここから万馬券を全部買う、というのも手。
人気どころではテイエムオーシャンがいちばん信頼性がありそう。唯一の無敗の2勝馬で、2戦目の好位差し圧勝は強烈。ダンシングブレーヴの牝馬で先行馬というとキョウエイマーチを連想してしまうが、たとえ同タイプでも1800なら守備範囲だろう。
カーネギー産駒マイネルカーネギーは、この父系は詰めの甘いことが多く、ここでも取りこぼす可能性が高そう。スペランツァも勝ったレースのインパクトが薄い。
万馬券に必ずからむマイネル系では、マイネルコンシャスとマイネルボルテクスだが、いずれも1800のコスモス賞でネームヴァリューに惨敗。ネームヴァリューが強すぎたとはいえ、1800でこのざまでは無理っぽい。
しかしいずれにせよ、今週3重賞の中でいちばんうま味がありそうなレースで、勝負するならこのレースだろう。

「所有せざる人々」読み進む。オドー主義に対する理解が関心の中核をなすので、「革命前夜」も併読するほうが理解が容易であろう。シェヴェックの思考回路、まだなじめない。今から寝る前に200ページまで読む予定。
アナレスとウラスの間の壁って何なのだろう? ウラスは、技術文明が進んでいて、所有権概念が定着していて、性差別が露骨にあって、要するに、我々の住む20世紀の地球社会に近い。シェヴェックの育ったアナレスは、オドー率いる革命家(無政府主義者)たちが移住して作った社会で、支配の主体としての政府はなく、ただ生産を管理する機関があるのみで、基本的には横の連帯、共同が社会構造の基本となっている。言語的にも「所有格」を示す語は省略されるなど、所有権概念が後退している。文明の技術水準は低い。また男女のジェンダーギャップはほとんどない。「革命前夜」における作者自身の解説によると、オドー主義は、道教思想からクロポトキン等につながる理論的な無政府主義をモチーフにしているそうだ。ただ、観念的には、2つの対の社会を想定して対置しているが、実際に描写される個々の人間は、必ずしも「アナレス」らしくなかったりするので、今一つ作者の意図がよく分からない部分もある。
もっとも、ルグィンは、観念的、抽象的な思考実験が好きな作家であるし、その思想的なものが作品の中核を占めるのも事実だが、他方で作品の物語性やリアリティも大事にする作家なので、単純に理屈だけで作品を割り切れない部分がある。確かに観念論だけでいうとオドー主義の星の住民がオドー的でなかったりするのは作品の欠陥のようにもみえるのだが、リアリティを考えた場合、社会構造としてはそうでも、個々の人間はそれぞれ一個の動物なのであって、その個体差に基づく、割り切れない部分、はみだす部分がある。そこを描くことが作品にリアリティを与えることになる。そういう二面性を持っていることが、ルグィンの作品に深みを与え、その価値を高めているとも考えられる。いずれにせよその真価は、更に読み進めば明らかになるであろう。

9/21
「所有せざる人々」読了。★★★★★。んーん素晴らしいです。緻密で複雑で。第11章のラストが第1章につながるという構成の妙。「真の旅は帰還である」というオドーの格言と、アナレスからの出発に始まり、アナレスへの帰還に終わる全体の構成の符合。そこを「出発まで」と「出発後」の2つのストーリーを交互にからみ合わせて、クラインの壷状に閉じさせてしまう鮮やかな手際。更には、シェヴェックが完成した<同時性理論>とも重なり合う。見事としかいいようがない。
この本は外形上は、2つの異なる外形上の<ユートピア>--しかしその実はどちらも<ユートピア>ではないことが次第に明らかになる--を対比させ、両者の欠陥を浮き彫りにすることで真のユートピアを探究する政治/思想小説のようにもみえるが、着想自体には政治的/思想的ものが影響や契機を与えている部分もあるにしろ、作者の真意はそれらの媒体を通じて、人間同士の絆、愛の真実を探究することにある(<ユートピア>とのからみでいえば、真の<ユートピア>は、理念的な枠組みを外から与えられ、これに同化させられる、そして同化され得ないものを排除する(=「壁」)という形態をとる限りにおいては絶対に実現され得ない。何ものにも強制されない、真の<自由>の中で、人と人が自発的に互いの絆を求め合い、互いに誠実であることの中から自然に実現されるものが<ユートピア>である、というのが本書でのルグィンの基本的スタンスだ)。この姿勢はもちろん「闇の左手」から一貫しており、「闇の左手」で垣間見せたテーマ性をより普遍的な形で展開してみせたのが本書だと言える。
しかし、この本を忘れがたいものにしているのは、そういった構成の巧みさやテーマの重さだけではなく、何といっても2つの対照的な<ユートピア>の実態を極めて綿密にリアルに書き込み、等身大の現実に存在するかのようなリアリティを持って現出させる中で、主人公のシェヴェックの理想主義的な部分と、人間的な弱さ、傷、醜い部分を等しく浮き彫りにし、身近に存在する人物であるかのように感じさせるところにある。
実際、この本にはあらゆる形態の<愛>が描かれる、兄弟愛、同胞愛、男女の愛、性愛、同性愛、オナニズム、夫婦愛、親子愛--こういったそれぞれは一つ一つでも長編が書けるぐらいのテーマなのだが、ルグィンはこれらをいとも軽やかに一つの物語に紡ぎあげ、それらを超越した普遍的な愛を探究している。読者は各自の関心と欲求に応じて、読者自身の求める意味をこの作品に見い出しながら、自然にルグィンの辿り着いた愛のかたちへと自らも逢着していることに気づくことになる。例えば、婚姻否定(オドー主義からして、関係性を外在的な制度によって固定化しようとする「婚姻」は、当然排除されるべきものである)の思想から、タクヴァと出会い、パートナーの関係を結び(ただし、それは外在的な制約を伴わない、自発的なものであるという点で、制度としての「婚姻」とは一線を画しているようである)、人間的/思想的成長を遂げるに至るまでのシェヴェックの心理的過程など、この作品の全体的なテーマとは直接関係なくそこだけ読んでも、独立して十分に面白い。いってみれば、そういった細々したそれ自体で一つのテーマ性を持ったエピソードの数々の積み重ねが、前述したクラインの壷状に配置されることによって全体的なテーマ性を徐々に浮き上がらせていくわけである。そして、時系列的に単線的に配置するのではなく、クラインの壷状にしたことによって、この作品はラストで途切れることなく、ラストから冒頭へ、ラストから冒頭へと無限の循環構造を持つことになり、再読する度に、初回はあまり重要に思えなかったディテールの意味を再発見するということになる。