SF百科図鑑

筒井康隆『大いなる助走』文春文庫

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1998年

5/27
中学のとき途中で読みやめて以来、約15年のブランクを経て筒井の「大いなる助走」を読み終える。いやあ、面白かった。笑った笑った。以下、例によって感想文を記す。

「大いなる助走」筒井 ★★★★★
まぎれもなく傑作である。しかし、自分はこの本を中学のときに途中で投げ出している。その後も(略)に「あれは最高だよ。(略)向きだ」と勧められたにもかかわらず、何となく嫌悪感のようなものが残っていて、結局2度とページを開くことのないまま大学に入り、実家に置いたままになってしまった。そして、この本どころか、次の「虚人たち」を買って、あまりの訳のわからなさに途中で投げ出し、「とうとう筒井も文学にカブれたか」と失望して、とはいうものの一応泉鏡花賞をとったというのだから当時まだ文学賞マニアだったおれは何となくその、文学賞取った作品なんだから一応そんなに愚作でもないんだろう、程度には目をかけていたのだが、しかしおれの求める筒井ではないな、とうとう直木賞が取れなくておかしくなったか、と見限ってしまったのである。そして次の「虚航船団」は新潮のかっこいい箱入りハードカバーの初版本を購入し、文房具が宇宙船の乗組員でみんな狂っている、という出だしに狂喜して読み出したものの、あまりにも厚すぎて、途中で他の本に浮気しているうちに投げ出してしまった。それ以後の作品は、全く読んでいない。
何だかんだいって、筒井は、中学時代(略)のアイドルであり、小学校時代の(略)と同程度、否、それ以上に影響を受けている。後にも先にも、その時点で文庫に収録されている作品のほとんどを中学時代に読んだというのは、おれの場合、筒井とブラッドベリぐらいしかいない。今読むと、かなり玉石混交なのだが、その当時は駄作でも傑作に見えるぐらい入れ込んでいて、その影響か、文章を書くとそれと意識しなくても似てしまうのである。それどころか、書く内容にも大幅な影響がある。大体、この日記自体、今気付いたことだが、「腹立半分日記」のパクりではないか。
そもそも、おれの日記をつける習慣は、(略)に端を発しているのだが、(略)のほうはもちろん(略)の(略)からきており、そして(略)はといえばそもそも筒井の真似だったのである。そう考えると、自分たちではけっこう独創的なことをやっているつもりでいながら、実は全て模倣の域を出ていなかったんだということが分かり、すんげえショックである。
しかし、不幸にも、筒井が実験色を強める直前ぐらいが、おれたちが筒井を読み漁っていた時期にあたったため、それまでの死ぬほどテンポがよく面白く毒のきついスラプスティック・コメディや正統派幻想SFの代表作群がことごとく文庫として出揃い、それらこそが筒井の全てであると信じ込むとともに、その心地よい毒の中に心底から浸り切ってしまっていたのだ。だから逆に、それまでのスラプスティック風味を総決算といってもよいほどに手際よく調理しつつ、文壇や同人誌、作家人種といったものの実態を諦観半分に誇張・戯画化してみせ、作家として生きるとはどういうことなのかを真摯に考えさせる契機をはらむこの大傑作を、「とうとう筒井も私怨晴らしに走ったか。ああみっともない。いくら直木賞が取れなくて悔しいからって、こんな小説書いて子供じゃないんだから。ガキがダダこねるみたいに。文学賞に落ちて選考委員殺し回る? 自分の願望なんじゃないの、はっきりいって私小説。呆れた」などと軽視し、それ以後の言語実験、メタフィクションの傑作(多分)群も「単なる純文学&学問コンプレックスの所産。もう終わったな」と思い、全く読む気にならなかったのだ。そして、唯一読む筒井の文章が、「噂の真相」の「笑犬楼よりの眺望」のみになってしまった(時事ネタのエッセイに関しては筒井は天才なので、これはさすがに面白く毎月読んでいた)。
しかしそれは間違いであったことがわかった。最近、思うところあって、読まなくなって以後の筒井の作品をまとめて手に入れ、全部消化しようと目論んでいるのだが、ぱらぱらとめくってみただけでも、どれ1つといってあってもなくてもよい陳腐な内容のものはない。特に、この「大いなる助走」、自分の中では、「これで筒井は終わった」的な位置付けの作品に過ぎなかったのが、今回読んでみて、とんでもない大間違いであったことがわかったのだ。
それまでの筒井の「社会派」スラプスティック長編の代表作といえば「俗物図鑑」(もっと古くは「48億の妄想」あたりか)が思い浮かぶが、あれは完全に「評論家」なるものを笑いのネタとしてのみとらえ、評論家なるものについて論考を加えることにではなく専ら作品の眼目は「いかに面白おかしく読者を笑わせながら一気にラストまで読み切らせるか」の点にあった。明らかに、漫才師の視点だったのである。
これと読み比べてみると、あくまでも同じ「漫才師」のスタンスを取りつつ、笑いのネタが、他ならぬ作者自身の身を置く文学界であるためか、誇張・戯画化を経てなお、リアリティがあり、それだけ胸に迫るものがあるのである。読者はげらげら笑いつつも、文学とは何ぞや、文学賞とは何ぞや、作家とは何者かというシリアスな問題をついつい考えさせられてしまうのである。そのリアリティの源は、恐らく、ここに登場する作家、編集者たち一人ひとりの述べる文学論がそれぞれに現実に存在するある種の見解を代表しており、かつ、内容がそれぞれそれなりに説得力がある、というところにあるのであろう。
最も読みたくなかった選考委員殺しの場面も、筒井は意識的にか、「爽快なドタバタ?願望充足」のスタンスを取らず、ひたすら客観的に「沈着冷静な文学的行為の遂行」というストイックな描写に徹する。つまり、いつものような話が突然ジェットコースターのように加速してとんでもない方向に向かってしまう筆致ではないのである。これでは、「私怨晴らし」という評は的を射ないことになる。むしろ、この作品のタイトルが「大いなる助走」であり、これが、文学賞を取って中央文壇デビューを果たそうと目論みつつ地方同人誌であてもなく悪戦苦闘する文士たちの生き方を表した表現であることがラストで語られることに照らしても、この委員殺しはあくまでも「そんな人生は空しいのではないか?」といいたくなる地方文士たちの「大いなる助走」の一徴表として語られるに過ぎないのだ。
それに、筒井自身は、主人公とは別に、途中スナックにやってくるSF作家として作中に登場している。ここで筒井は自分をモデルにしたらしい男にさんざっぱらみっともない言動をさせて自分を笑いものにしている。つまり、「みっともない自分」は別に客体化しつつ、それとは別に「委員を殺す」男を登場させているのだ。
以上から、筒井はこの殺し屋を共感的に描いているのではさらさらなく、ただ客観的にその行動を描いているだけだということがわかろう。

ところで、この作品、映画化されていたらしい。全く知らなかった。映画化された筒井作と言えば、ジュヴナイルを除くと「ウィークエンド・シャッフル」しか知らない(確かおれが高校生のころで、成人指定のために見に行けなかったのを覚えている)。いかに長いこと筒井離れしていたかということだ。


(2005.12.4のコメント)

めちゃくちゃ恥ずかしい文章だ。死にたい。

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