SF百科図鑑 ラッシュ「ミレニアムベイビー」


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2003.8.10

8月7日

「全ての癒し」読み終わる。6点。
(略)
ラッシュ「ミレニアムベビー」に入る。主人公は2000年1月1日生まれの女性。同年生まれの人間が研究対象にされているという話。体が痒いのと眠いのとで4ページで爆睡。でもこの話はちょっと面白そうだ。ここ最近外れ続きなので期待したい。


8月8日

ミレニアムベビーはなかなか面白いよ。2000年第1号の赤ちゃんを目指して作られた子供達。両親は「2000年生まれ赤ちゃんコンテスト」のために赤ちゃんを作った、その子供達に共通点があるのではないか? 30年後、母と訴訟沙汰にまで至った娘(大学講師)に、他学部の学者が研究のため被検体になってほしいと申し出る・・・。指定された場所に行くと、母が現れ口論となる。娘は母を追い払う。
単なるベトナムホラーの「魔鬼」や、話にメリハリを欠く「万能治療」よりも数段面白い。ネタがオリジナルってのが何より。話の進め方もうまい。

ハリーポッター4th再開。第2章、ハリーの額の傷が痛み始め、ハリーはシリウスに相談の手紙を書く。子供向けだと、話が分かりやすくて読むのが楽だね。


8月9日

鼻をいじり過ぎて、左の鼻孔が死ぬほど痛い。そういうことってありませんか? 痛い鼻をかばっていると、やりたいことが思うようにできない。本も今日はあまり読めず。おまけに台風。ほとんど家にこもってゲームしてました。ストーリーレベルの低いうちにしか取れない重要アイテムをほとんどとっていないため、キャラクターが強くならずなかなかコンプリートできません(えふえふてんつー)。
攻略本を買ってればこんなことはなかった。
僕の友人で、「攻略本を買うのは邪道だ、何の為にゲームをするんだよ? 自力で最速クリヤ、全てのアイテムを拾うなどの作業をして達成感を味わうためにするんじゃないか」と主張し、攻略本を害悪視する男がいる(攻略本価値否定説)が、一方で、別の友人は、「ゲームは攻略本を読むためにある。攻略本を読んで、あらゆるアイテムやキャラクターのデータを分析し、暗記してこそゲームの醍醐味だ。ゲームの神髄は攻略本に詰め込まれた情報の快楽にこそある。ゲームなんてただの付け足しに過ぎない」と主張し、ゲームは買わずに、攻略本だけを買って読んでいたりする(攻略本価値至上説)。
果たしてどちらが正しいのか? どちらが正しいということはないだろう。いずれも単なる自己の嗜好の理論的正当化に過ぎず、その根本的な「何を快楽と感ずるか」の部分について何らの説明がなされていない。ただ、世間一般的には前者の主張の方がありふれているということはいえよう。後者は世間的には非常にユニークな見解であるということはいえる。もっとも、攻略本こそゲームの目的、というのは過激すぎるにしても、様々なメディアから裏技を見つけだして、そういった反則行為によりできるだけ早くゲームをコンプリートすることに血道を上げる人間というのは世間的にはかなり多い。というよりもこういう人間が最も普通だろう。攻略本価値否定説をとる友人は、こういった裏技漁り的な世間のゲーマーを否定するのであるが、ゲームにおいて何を快楽と感ずるかは人それぞれであって、自己の特異な快楽を明確な根拠も挙げずに一般化し、他人にも強要する点にはやや問題があるといえるだろう。立証不十分で請求棄却。
私の考えるに、世間の圧倒的多数は、ゲームと攻略本の価値をともに肯定し、自力でゲームをコンプリートする達成感と、攻略本等の助けを借りてでも、無駄なく効率良くゲームの世界を楽しみ尽くす全能感の二つの欲望のはざまで揺れ動いていると考えられる。ちなみに、私もこのカテゴリーに属する人間である。攻略本価値否定説にしろ、至上説にしろ、あまりに極論に過ぎ、世間一般の同意を得ることはまずないだろう。

今の時代において、ゲームと攻略本は何れも欠かすことのできない車の両輪だ。ゲームがヒットすれば、攻略本もベストセラーのトップになることからそれは明らかだ。ゲームの魅力は、ある与えられた枠における自分の知力や反射神経のテストという達成感や競争本能を満たす楽しみがある一方で、それとは別にそこに描き出された世界を(読書や映画と同じように)楽しむという楽しみ方もある。この両者は同時に満たすことが難しい場合もある。どちらにウェイトを置くかは個人の自由であり、全ての人間が一方にウェイトを置くということはあり得ない。両方のタイプや中間のタイプのユーザーをより広く受け入れるゲームは、ヒットの可能性の非常に高い作品といえる。つまり作品そのものの根底に価値多元主義のあるゲームだ。FFなどはそういったタイプのゲームのように思う。こういったゲームにおいて、達成感などどうでもよいから世界を楽しむために攻略本を使うユーザーを攻撃するのは無意味だ。他方、世界観などどうでもよくて、自力で最速攻略したことを自慢したい(あるいは達成感をえたい)ユーザーが攻略本を買わないとしても、それはそれで一つの正しい楽しみ方であり、他人が批判する筋合いではない。
結論としては、「途中まで自力、途中から攻略本」というスタンスの私はある意味最も平凡かつ貪欲なタイプのユーザーなのかも知れない。両方の欲望を満たさずにはいられないのだから。でもそれを他人に批判される筋合いじゃないぞ。

※以下の部分が文脈をそれたため、カットした。参考添付。どこで論理が破綻したのか、自分でもよく分からない。気づかれた方はご教示下さい。
「例えば、前者の立場に立つと、自力で隠しアイテムなどを発見する実力のない多数のユーザーは、攻略本なしでは通常発見し得ない隠しアイテム、隠しストーリーなどを気づかぬままゲームを終えてしまい、バラエティに乏しく抑揚のない駄作の印象を持ってしまう(特にその隠してある部分にこそそのゲームの真の魅力が潜んでいる場合)危険がある。
それができないのは自己の能力のせいであり自業自得だという反論をされるかもしれないが、それはあまりに能力主義、エリート主義に偏り過ぎた鼻持ちならない意見というべきだろう。しかも、能力とかステータスといった価値基準に意味があると仮定するとしても、その文脈/価値基準をより地球全体に敷衍した世俗的なピラミッド体系の中に位置付けてみれば、もともとゲーマーの社会的地位自体が高いとはいいがたいのだから(笑)、その狭い世界で能力主義を振り回しても、単なるお山の大将でかっこ悪く滑稽である。しょせんゲームというのは客相手の商売であり、客に受け入れられないゲームは少なくとも商業的尺度においては駄目なゲームなのである。
これに対して、「多数の愚鈍なユーザーに指示されるゲームよりも、少数の優れたユーザーに高評価されるゲームの方が価値が高い。売上枚数とゲームの価値とは関係がない」という反論が出ることは容易に想像できるが、これはSFなどでなされている議論と同じなので繰り返さない。
もちろん私は売れないゲームでも、一部の「通」の評価の高い作品の中に、価値の高い作品があることを否定はしない。しかし私がそういった作品の価値を認めるのは、「潜在的にヒットする可能性がある」がゆえである。どんなものでもそうだが、時代の流れによってヒット作の傾向は変遷する。大半の人間はこの時代の流れに流されて生きている。ある時代においてはヒットしなくても別の時代においてはヒットする可能性をはらんだ作品は存在する。また、時代というのは人為的に変えることのできるものでもある。時代を作る主体は人間なのだから。それゆえ、「今の時代」においてたとえ売れないとしても、次の時代の流れを読む、あるいは次の時代を自ら作ることによって、「次の時代」のヒット作となる可能性を常にはらんでいるということができる。むしろ、そういった作品の掘り起こし、ニーズの掘り起こし作業なしに、文明の発展は絶対にあり得ない。人間というものは同一の快楽に長時間浸っていると「飽きる」という性質も持っている。このような性質が「時代の変化」の一つの原因であるともいえる。だからこそ、二番煎じは第一弾より売れないのだ。「一発屋」というものが存在するのだ。要はバランスの問題である。今流行っているものは絶対に衰退する。流行に乗るだけの企業は絶対に破綻する、これは歴史の必然だ。次の時代を読む、または時代の流れを作る能力と、作品を作る能力の両方を兼ね備えていなければ、時代は乗り切れない。淘汰されてしまう。今の時代において少数派であってもこれを次代を担う可能性のあるものとして尊重し、その新たな魅力を発見しようという努力を絶対に怠ってはならない(今のSFが駄目なのはこの作業を怠った故だろう)。ただ、少数派が少数派であるが故に価値があると絶対に考えてはならない。マイノリティに属する人間の悪い点は、そこで価値観を転倒させて、「少数=選ばれた人間=他の人間は凡庸、俺は天才」という短絡的発想をしがちなところにある。少数派は、少数派であることを自覚しつつ、そのうち必ず飽きられて衰退するに決まっている多数派に対して、自己が価値を認めると考える作品の魅力を伝え、宣伝をし、認めさせようという真摯な努力を怠ってはならない(今のSFが駄目なのはこのような努力も欠けていた故だろう)。煎じ詰めれば、多数派は少数派に興味を持ち掘り起こしの作業をする、少数派は独善に陥らず多数派に対して自己の価値観をアピールしその魅力を伝える努力をする、こういった役割分担をすることが大切なのである。
この観点からすると、先に挙げた「多数の愚鈍なユーザーに指示されるゲームよりも、少数の優れたユーザーに高評価されるゲームの方が価値が高い。売上枚数とゲームの価値とは関係がない」という見解の誤りは明らかだろう。この見解はあまりに独善的であり、歴史に果たす少数派の役割を全く果たしていない。その開き直りぶりは犯罪的ですらある。とうてい万人の賛同を得ることはあり得ない。だいたい、その少数派が「優れたユーザー」であることの立証がない。この立証作業こそが最も重要なのに。
話を本筋に戻すと、「自力で隠しアイテムなどを発見する実力のない多数のユーザーは、攻略本なしでは通常発見し得ない隠しアイテム、隠しストーリーなどを気づかぬままゲームを終えてしまい、バラエティに乏しく抑揚のない駄作の印象を持ってしまう」危険についてであった。これに対して、「少数派」が能力不足を理由に自業自得として放置するのは、上記の時代における少数派の役割をわきまえない無責任な態度といえる。よって採用することはできない。
それともう一つ指摘しておきたいのは、多数派にしろ少数派にしろ、いずれも時代の偶然でそうなっているに過ぎないので、自己の信ずる価値観のみならず他人の多様な価値観をあるがままに受け入れること(極端に反社会的で独善的なものでない限り)が絶対に必要だ。この価値多元主義的な発想(ただし、自己の価値観というものは常に持っているべきである。そうでないと単なる無節操、軟弱である。)がすべての根底にないと駄目である。この土壌がないと相互理解、歴史のダイナミズムの基礎条件が欠けることになる。」

8月10日

ラッシュ「ミレニアムベイビー」よかった。9点。オチも決まっている。あまり普通のSFらしくないオチだ。一般読者にも受けそうな内容。うまい。この作者侮れない。F&SFの編集長時代の経験が生きているのかも。
この作者の邦訳作品。

クリスティン・キャサリン・ラッシュ Kristine Kathryn Rusch

Novel
『白い霧の予言』 The White Mists of Power (1991)
* Tr:木村由利子(YurikoKimura)Pb:ハヤカワ文庫(HayakawaBunko)FT175
* Cover:吉野朔実 Co:山岸 真(Makoto Yamagishi) 1993/3/31
* ISBN4-15-020175-7
『残像を殺せ』 After Image (1992)
* Joint Work:ケヴィン・J・アンダースン(Kevin J. Anderson)
* Tr:藍堂 怜(Rei Rando) Pb:創元ノヴェルズNラ3-1
* CoverDesign:安井真紀子Photo:カメラ東京サービス&SuperStock/PhotonicaCo:藍堂 怜(ReiRando) 1996/6/21
* ISBN4-488-80117-X

Short Fiction
「夢のギャラリー」 The Gallery of His Dreams (IASFM 1991/9)
* Tr:増田まもる(Mamoru Masuda)S-Fマガジン(S-FMagazine)1993/1No.436Ill:佐治嘉隆(Yoshitaka Saji)
* 1992 Hugo Award Novella Nominee
* 1991 Nebula Award Novella Nominee
* 1992 Locus Award Novella Winner
* 1992 World Fantasy Award Novella Nominee
「犠牲者」 Victims (1995)
* Tr:千葉隆章(Taka'akiChiba)扶桑社ミステリー(FusoshaMystery)ク12-2 Ed:Barbara Hambly &MartinH. Greenberg Sisters of theNight「夜の子供たち」 Children of theNight(1991) *Tr;嶋田洋一(YoichiShimada) 竹書房文庫(Ta-Ke ShoboBunko)KH-6菊地秀行(HideyukiKikuchi)監修 The Ultimate Dracula Vol.2
「エシア」 Echea ( IASFM 1998/7)
* Tr:公手成幸(Shigeyuki Kude)S-Fマガジン(S-FMagazine)2000/1No.524Ill:たまいまきこ(MakikoTamai)
「クーヘンの記憶」 Kuchen
* Tr:常田景子(KeikoTsuneda)ミステリマガジン(Hayakawa'sMysteryMagazine)1997/5 No.494
「スピニング」 Spinning
*Tr:七搦理美子ミステリマガジン(Hayakawa'sMysteryMagazine)2001/9No.547
「災厄の森」 Five Starving Cats and a Dead Dog
* Tr:中井京子(Kyoko Nakai) 二見文庫(FutamiBunko)ラ6-2Ed:MartinH.Greenberg/Ed Gorman Cat Crimes 2
「シンデレラ殺し」 Love and Justice
* Tr:樋口真理(Mari Higuchi) 原書房(Hara Shobo) Ed:Ed Gorman&MartinH.Greenberg Once Upon A Crime
「二十年後、セパレーション・ピークで」 TwentyYearsLater,bySeparation Peak
*Tr:北原唯(TadashiKitahara)扶桑社ミステリー(FusoshaMystery)ス21-1Ed:シンシア・スターノウ(CythiaSternau)&マーティン・H・グリーンバーグ(MartinH. Greenberg)TheSecretProphecies of Nostradamus
「野良猫」 Strays
* Tr:大野晶子(AkikoOhno)扶桑社ミステリー(FusoshaMystery)ミ2-2Ed:Mystery Scene The Year's25Finest Crime and Mystery Stories:Third AnnualEdition
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「惨劇のあと」
* Essay
* Tr:小川 隆(Takashi Ogawa) S-Fマガジン(S-F Magazine)2002/9 No.557

こんな具合である。本短編集(魅せられた午後のための小説)には夢のギャラリーとエチアを収録。作者自身が一番気に入っているのは「夢のギャラリー」のようだ。邦訳のあるもののうち、私の持っている本に収録されているのは、エシアと犠牲者の2編のみ。他はミステリの翻訳が多いようだ。この作者、SF以外にもミステリ、ホラー、ファンタジー、普通小説とペンネームを使い分けて八面六臂の活躍ぶりらしい。ケウ゛ィン・アンダースンとは大学の創作講座以来の付き合いだそうだ。
その後、ジャック・ウィリアムスン「究極の地球」を読み始める。いきなり、地球がテラフォーミングされ、月から地球を見守るクローンたちの話から始まる。のっけから謎と驚異に満ちていて、ぐいぐい引き込まれる。長篇の一部になるそうだ。面白ければ長篇も読みたい。しかし、もうすぐ100歳になるウィリアムスンがこんな生きのいい新作を書くなんてまぢすげえな。