SF百科図鑑 井上忠ほか3名『倫理 愛の構造』東京大学出版会


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November 10, 2005

井上忠ほか3名『倫理 愛の構造』東京大学出版会

大学教養課程程度の倫理の教科書。積ん読だったが、最近興味のあるテーマなので読んでみた。
めちゃくちゃ面白かった。個人的に今年読んだSF(スペキュレイティブ・フィクション=思弁小説)のベストワンかも知れない。
全体を通じてのテーマは、個としての人間を自律的かつ他律的に善へと導く究極概念としての「愛」の考究であり、題名が示すとおりである。井上忠の弟子と思われる3人の学者がそれぞれの得意分野から各自同一のテーマにアプローチした3編の中編論文から構成される。
藤本隆志「他律・自律・愛」★★★★★ 個としての人間を善へと導く<他律>と<自律>を止揚する概念としての<愛>を、等身大の個人的視点から論理的にきわめて説得的に導き出している傑作である。そのような統合的概念としての<愛>の内容については詳述されていないものの、論理のもっていき方はほとんど完璧だ。愛の内容については後記宮本を参照すれば良し。
山本巍「わたし・われわれ・愛」★★1/2 主にギリシャ哲学からの<愛>へのアプローチであるが、不必要なレトリックに頼りすぎて論理性を欠いているうらみがあり、残念ながらあまり上出来とはいえない。ソクラテス、プラトン、アリストテレス哲学のさわりを理解する上では役に立つのだが、本書のテーマ<愛>の考究という観点から論理的連鎖の一貫性を持たせようという意識は見られるものの、論理が<は行的>で飛躍が多く、<I>と<愛>のようなレトリックだの、適切とは必ずしも思われないニーチェやドストエフスキーの引用だのに頼りすぎている。
宮本久雄「身・こころ・愛」★★★★★ これは凄い。最高。倫理を律すべき真の最高概念たる愛=アガペーに関するこれ以上ないというほどに説得的な論考である。俗な肉体的・社会的存在である自己=身としての自己と、俗な肉から切り離された純粋な理性の自己=こころとしての自己を区別しつつ、カントのように前者と後者を区別し後者のみを真の道徳律として考究することで前者との断絶を生じ現実的な倫理指針をまったく示し得ないという誤りを犯すことなく(本論文のカント批判はきわめて簡にして要を得ており小気味いい)、後者を律する究極概念たる博愛、生命愛を意味する<アガペー>の具体的内容を様々な哲学者、神学者の論考を的確に紹介しながら説得的に明確化し、そして、それがいかにして前者=俗なレベルにおける道徳法則として機能しうるのか、あるいは機能すべきなのかをきわめて具体的かつ説得的に説明しているのだ。俺が個人的に興味を持っていたフロムの、「攻撃性を解消しユートピアを実現するための<生命愛>思想」の具体的内容がここに記されていると思った。フロムの論理は抽象的、理想主義的かつ性善説過ぎて実現可能性に乏しいという感があったのだが、この宮本の描くアガペー像は、人間性の悪性をも含み持つ(ナルシシズム、母胎回帰、サド・マゾヒズム、ネクロフィリア等)ことを認めた上で、キルケゴール的な単独者として神の愛=アガペー=博愛と向き合う可能性をすべての個人の中に認め、これを啓蒙しようという<呼びかけ>(博愛の本質からいって強制ではあり得ず、あくまでも呼びかけにとどまる、それゆえに脆弱でもあるが、脆弱であるからこそ価値が高い。もし強制すればそれは暴力を伴うことになりうる結果、戦争や殺人などを肯定する契機になり自己矛盾しかねない)こそアガペーの俗レベルにおける表れとなる、と説く。この<謙虚な博愛主義>こそ、フロムの主張の偽善性、空々しさを回避しつつ、戦争や支配、暴力といったものを極小化する価値観へと人類を導く最善の発想法ではないかと俺は思う。ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」や「創造的進化」も似たようなことをいっているらしい(前者は持っているので今度読んでみる)。この宮本論文によって俺の倫理率に関する頭の中のもやもやはほぼ吹っ飛んだ(カントは糞、さりとてフロムもいまいち&&、というのが吹っ切れた)。オールタイムベスト級の名作だと思う(ただし、アガペー概念を導く論法はあまり論理的ではないのだが、内容がいいので大目に見るよ)。
宮本論文の名言集を以下に記す。
「ナルチストは森羅万象が自己の領域において現象し、自己の卓越性の部分であるとうぬぼれる。すべては自己愛の変形ー自己の所有物であるがゆえにのみ愛される価値を持つと感ずる。親が子にナルチシスムをもちやすいのはこのためである」うはwww俺の周りはこんなやつばかりwwwwwww
「アガペーは自然本性愛のエネルギーをその閉鎖系から解放し、非制約的善愛にふり向けることによって身の共同態に新しい目的秩序と動機を与えうることが予想される」つまり、例えば戦争や民族差別、虐殺、村八分、嫉妬や中傷といった人間悪の発生原因である<共同体内部に閉塞し他を排斥しようとする偏愛傾向>(例、「家族愛、同族愛、地域愛、愛国心」という名の「家族エゴ、同族エゴ、地域エゴ、民族エゴ、国家エゴ」)を否定することなしに、その範囲をそのまま拡張することによってごく自然に悪を善に転化することができるのだ。これは凄い、凄すぎる。
「たとえばある政治共同態の正義が他の共同態の正義と共存合致できるとはかぎらず、従って一社会の善き市民がそのまま別の社会で善き市民であることはできない」例えば飢えかけた子供のために盗みを犯すことは<家族>という共同態において善でもより広い共同態においては悪であり得るというごとき、善悪の相対性を指している。まさにその通りであり、我々は日々絶えずこのような善悪の葛藤にさらされて生活をしている。
「愛の秩序の実現は、アガペーが身のすみかに受肉する秩序に対応すると思われる。それは静的秩序ではなく、非制約的愛を中心にわたし-なんじの関わりがあらわれ、その過程でどのようなもの(身・敵・異邦人・ものなど)もすてられずに摂取されていく秩序づけの運動なのである」アガペー、博愛主義を摂るとしても愛の対象たる<なんじ>をどの範囲の客体に設定するのかが現実問題としてある。人類なのか、生命なのか、万物なのか、また悪人はどうなのか? 日常実践するにあたって必ず判断が必要な問題だが、本書の立場は<万物>を含めているようである。アガペーという概念の本質からしてそうなるのだろうが、果たして具体的にそれをそれらの客体に対してどう表現すべきなのかは、その客体が多様であればあるほど千差万別で臨機応変さを求められるのであろう。それは我々一人一人が絶えず考究しなければならない個人的問題なのかも知れないし、それが宮本の立場のようでもある。
「現実の人間社会はこの二つの愛の重力(注・非制約的愛とナルチスム的愛)が働き戦う場であり、そこでは死がアガペーにうちかつか、あるいはアガペーの生命的よみがえりの力働性が死にうちかつか、そしてわたしはいずれの重力に生きるのかが不断に問われている場である」まったく的確な指摘である。フロムの『破壊』その他における主張は、まさにこの戦いにおいてアガペー側に与しよという呼びかけに他ならないのだ。
テーマ性  ★★★★★
奇想性   ★★★★
物語性   ★★★★
一般性   ★★★★
平均    4.25
文体    ★★★★
意外な結末 ★★★★
感情移入力 ★★★★★
主観評価  ★★★★(43/50点)


silvering at 00:21 │Comments(0)読書