SF百科図鑑 Thomas M. Disch "On Wings Of Song"


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May 30, 2005

Thomas M. Disch "On Wings Of Song"

歌の翼にプリングル100冊、あと4冊になりました。その中でいちばん長いほうからということで、ディッシュの『歌の翼に』。サンリオSF文庫から翻訳が出ているが、入手不可能(古本サイト検索でも発見できず、あったとしても時価7000円ほどが相場)のため、原書(こちらも絶版のため、アマゾンコムの古本コーナーにて入手)にて。ディッシュはプリングル100冊で3冊選ばれているがその3冊目です。(感想、粗筋)2005.6.3
読了。よかった。後半がやや助長な点を除くと、よく出来た小説である。オチが辛辣なのもディッシュらしい。最高作は「334」か、これか迷うところだが、僅差で「334」に軍配。
SFアイデアとしては、<飛翔>という人為的・疑似科学的手法での幽体離脱やそれによって垣間見られる霊界の疑似科学的説明があることと、破滅的な未来社会の造型の二点だろうか。派手ではないが、このアイデアを使って、主人公の少年が挫折を経て大人になり、自らの夢を遂にかなえ、<飛翔>に成功するまでの成長過程を、説得力のあるしっかりした心理描写、人物描写、社会描写を交えて描き出した作品である。
陰鬱な未来社会描写のリアリティは、「334」でも披露された腕前で、さすがにけちのつけようがない。
連作短編形式の「334」と違い、本作は視点を主人公にほぼ固定してその懊悩、葛藤や感情の動きを丁寧に追っているので、一般の読者にも普通小説的で読みやすくなっているといえるだろう。
本書の最大の読みどころは、主人公と妻がともに飛翔を試み、妻のみが成功したことを転機として主人公が陥る『業』としかいいようのない悲惨な人生と、そこから這い上がるまでの描写の部分。何もそこまでして妻の体を保存しなくても&&といいたくなるぐらいに、この主人公は自虐的な人生を歩む。それだけに主人公の悲哀が圧倒的にリアルに伝わる。その分、結末の感動と、苦い後味も格別である。
テーマ性   ★★★★★
奇想性    ★★★
物語性    ★★★★
一般性    ★★★
平均      3.75
文体      ★★★★
意外な結末 ★★★
感情移入力 ★★★★★
主観評価  ★★★1/2 (39/50点)


<粗筋>
歌の翼に トマス・M・ディッシュ

第一部

ダニエル・ワインレブの母ミリーは五歳のころ失踪した。ダニエルは父アブラムに連れられてエイムスヴィルに住んでいた。彼は六歳、七歳と成長につれ、母への憧れを募らせた。彼は母が「飛ぶ」ためにいなくなったと考えていた。「飛ぶ」ことは当局に禁止されているが、それゆえに人々は憧れていた。
ダニエルは日々母との再会を空想した。
***
ダニエルが九歳のとき、母から電話があった。たまたま(留守番の?)娘が不在で、ダニエルがとった。オペレイターがニューヨークからのコレクトコールを告げた。父は診療中である旨告げると、話したいかときくので、ハイと答えると母が出た。「元気?」ときくと、母はわらった。そして父さんはいるの、ときいた。母の本当の名前は「ミルドレッド」だとわかった。「ここに来てくれるの?」ときくと、「わからないわ。エイブがお金を送ってくれるなら。あなた、来て欲しい?」
ダニエルはあれこれと考えて言葉に詰まった。
「ダニエル、お父さん呼んで来てくれない?」
ダニエルは父を呼びに行った。父は中年女性を診療中だった。ダニエルは電話だと告げたが、母だということはなぜか、告げなかった。父は、終わるまで待たせておいてくれ、と答えた。
ダニエルは母にそう伝えた。ちょうど別の電話がかかっていたので、「別の電話が来てるから、この電話<保留>にするね」といい、「ママがここに戻ってきて一緒に暮らせればいいな」と最後に告げて、電話を保留にした。
***
母は飛行機で来てから、手続に手間取ってなかなか現れなかった。ようやく最後に現れた母は想像と違っていたが、覚えている母だった。綺麗だが、少しやつれて疲れていた。税関にラジオとタバコをとり上げられたが、タバコは父が税金を払って回収した。
父の車でエイムスヴィルに向かった。
***
翌朝ダニエルは六時に起き、アイオワ子供大会に行き、昼に戻った。母は、すっかり身なりを新しく変えていた。ダニエルは、「前のほうがいい」といったが、エイブが服装を改めたほうがいいと言ったらしい。
ダニエルは、みんな<東海岸の人>がどんなふうか興味を持っているよ、と母にいった。そして、<飛んだ>ことがあるか、ときいた。母は、<飛ぼう>としたことはあるができなかった、<飛ぶ>ことに興味のない人はいない、でも、それは悪いことだと言われているし、自分もそう思うと言う。そして母は、わたしと<飛ぶ>話をしたことを誰にもいっちゃだめ、といった。それは<セックス>と同じで、口にするのはタブーなのだと言う。
母はダニエルの頬にキスをしていう。「わたしとあなたは同じ種類の人なの。だから、仲良くしましょうね」


ダニエルは、11歳のころ、元市長ロイ・ミュラーの息子ユージーンと仲良くなり、ミュラー邸を頻繁に訪問し、屋根裏部屋の書物を耽読した。特にポー、「フランケンシュタイン」「宇宙戦争」などが気に入りだった。
***
ダニエルは七年生に上がる三日前に作文で賞をもらったが、その日のうちにチッカソー通りに引っ越した。父親は、イスラエル出身の歯医者で、逃げるように住所を変えていた。かれが米国に移住してまもなくテルアビブは爆撃された。かれは苗字をシェイザ-からワインレブに変えた。歯医者になり、39歳のとき、患者として訪れた16歳のミリー・ベアと結婚した。ダニエルは父のことが好きではなかったが、理由は自分でもよく分からなかった。父がユダヤ人難民であるからか。しかし、難民と言うには父は中途半端な立場だ。あるいは、父がダニエルに歯医者になるよう言うことのゆえかもしれない。ダニエルは歯医者になる気はなく、そのことは考えたくなかった。
***
ダニエルの通り道の終点には、四年生のときの担任教師、ミセス・ボイスモーティアがいた。彼女は金曜日になると国歌や州歌などを教えてくれた。だが、この国では音楽が有害であると槍玉に挙げられ、禁止法案が可決された挙句、知事が拒否権発動すると知事の娘が襲撃されると言う事件が起こったこともあり、他の教師は音楽を教えることを嫌った。
ボイスモーティアの家には様々ないたずらが行われた。ダニエルが新聞を届けたとき、ドアに穴があいていることがあった。それ以来、ダニエルはボイスモーティアと仲良くなり、もてなしを受けるようになったが、彼女の家にはたくさんのレコードがあった。音楽は悪いものと思われたが、考えずにいられない何かだった。<飛ぶ>ことと同じように。
ある日ダニエルはレコードをきかせて欲しいと頼んだ。先生はモーツァルトをかけた。何がいいのか分からなかった。ダニエルは例を言って退去した。
だがもっと何かがある。先生は何かもっと他のものを隠している、と思った。
***
ダニエルは<レジスタ>紙の新聞配達をしていたが、その記事によるとこの国は危機に瀕していた。食肉課税問題は裁判沙汰になった結果、最高裁がアイオワ州に関して未加工食肉は課税できないと判断した。あるいはダヴェンポートでは暴動が起こった。さらにはアラスカの石油パイプラインがテロリストによって爆破された。アイオワ州は燃料不足になり、冬には寒さをしのぐのがつらく、ダニエルはよくミュラー家に行って、本を暖炉にくべながら暖をとったりした。石油危機の間は、<レジスタ>が休刊となり、ダニエルはつらい新聞配達を免れた。
***
三月に父が肺炎になった。見かねた看護婦がカスケー医師を呼び、フォートドッジの病院に入院させた。ダニエルは母や双子の妹とつきっきりで看病した。父は52歳になっていた。枕もとのダニエルに新約聖書を朗読させた。母に言うと、父は死にかけているのではないかと心配した。彼らは教会に通うようになった。
父は退院したが、それ以来、ユーモアがなくなりふさぎこむようになった。そんな父をダニエルはますます避けるようになった。
***
石油危機が終わっても<レジスタ>は復刊せず、ついに倒産となった。父から小遣いをもらえないダニエルのポケットマネーはなくなった。代わりに<スタートリビューン>が出まわり始めた。<飛行装置>の広告が乗るなどの俗悪な内容は取り締まられてもおかしくなかったが、当局は放置していた。
ダニエルの父は郡への借金こそ完済したものの、月々の家賃や病院代の支払に追われていた。ますます収入は減っていた。
ダニエルは<スポーツマンの邂逅>というトリビューンを扱っている居酒屋のハイニー・ヤンガーマンに相談し、トリビューンの配達を始めた。
春になると母の機嫌がよくなり、明るくなった。
ある日曜日、ダニエルは自転車でユニティ村の友人、ジェラルディン・マッカーシイに会いに行き、その途中の雄大な景色を見ながら、「ぼくは将来、大した人間になる」という強い感覚を持った。


ロバータ・ドナリー大統領候補が<飛行反対集会>で演説をするというので、ダニエルとユージンはミネアポリスに向かった。途中までバイクで行き、元知事の息子というユージンの特権で市境を越え、乗合バスでミネアポリスに着いた。集会まで八時間もあったので、映画を見た。ベテイ・ベイリー主演「ゴールドディガー」だった。べティは服装を変える前の母によく似ていた。セントルイスの娼婦役で、自由に空を飛ぶことを夢見るという話だった。途中でユージンはトイレにたち、あとで表で待ち合わせようと言った。映画が終わり、表に行ったがユージンはこなかった。
ユージンはふだん「おれはいつか市を出て空を飛ぶんだ」と言っていたから、もともと集会に行く気はなかったのではないか? しかも映画のテーマも自由を賞揚するものだったし。
ダニエルはけっきょく集会に行かず、家に戻った。
***
二日後の夜ユージンの母が来て、ユージンが行方不明になったと告げた。本当にキャンプに行っていたのか? ときかれたのでそうだと答えた。ユージンは先に帰ったはずだがと。まもなく排水溝でユージンのバイクが見つかったが、ユージンは戻らなかった。事件に巻きこまれたか、自ら逃げたのか。
ユージンの新聞配達ルートはジェリー・ラーセンが引き継いだ。ダニエルは、忘れようとして、野球に没頭した。
***
七月に嵐が来て、まもなく警官がダニエルを禁制品(トリビューン紙)所持販売の罪で逮捕した。ダニエルは拘留され、一週間後、裁判で有罪となり、懲役八ヶ月を宣告された。弁護人は勝ち目はないからと、控訴をしないようにアドバイスし、刑は確定した。アイオワにしろファーム・ベルトにしろ、伊達に警察国家と呼ばれてはいなかった。
***
監獄でダニエルは日々、ロイとの対話を空想した。ある日ついにロイが面会に来た。ユージンのことを根掘り歯掘りきいた。市境で二人を見逃したロイド・ワグナーや二人を乗せたバスの証言などから、ロイはかなり二人の当日の足取りをつかんでいたので、仕方なくダニエルは全部を打ち明けた。そして、ユージンが逃げ出そうと思ったきっかけは映画ではないかと告げた。
しかし、ロイによるとユージンが出かけた日、家から八四五ドルがなくなっていたという。
ロイは、何か思いだしたら看守を通じて連絡をくれ、助けてもらえれば仮出獄を頼んでもいい、と言って帰った。


ダニエルはスピリットレイクの開放監獄に移された。監獄内は移動自由で、囚人たちは農作業などで自らの食料を得た。ダニエルは自動虐待で収監されたと言う男と話した。この男は、逃走しようとして腹部に爆弾を食らい、死んだ。看守のピックアップトラックが死体を積んで去って行った。
***
スピリットレイクの矯正施設は、PW防衛システムを採用していた。これはポール&ウィリアムス博士が1991年ノーベル賞を受賞した行動工学モデルT理論に立脚していた。それははじめ、各国の少数民族を<人質人種>として扱う方法に適用され、次第に応用されていった。
***
父と双子の妹が面会にきた。父は差し入れの食事をくれた。仮出所できるよう頼んでみると言うので、ダニエルは、それは難しい、それよりも、マクドナルドの差し入れのためのお金のほうが嬉しいと言った。帰り道にフランコ軍曹に払って欲しいと。父は、ボイスモーティア先生が本の差し入れをくれたと言う。ダニエルは、本の差し入れは検閲で引っかかるかもしれないよ、と答えた。
父と妹は帰った。
***
ダニエルはボブ・ラングレンとチェスをしたあと、バーバラ・スタイナーらと政治論議をし、影響を受けた。
だがいちばん大きい影響のあったのは音楽だった。囚人たちは聞いたこともないような音楽を演奏した。
***
数日後、最後の部分だけを削除した差し入れの本が渡された。ジャック・ヴァン・ダイク著「被造物は神」。ハンバーガーを持って血を流すイエスの表紙絵。第一章は表紙とタイトルの説明。スーパーキングと言うハンバーガーチェーンをとり上げ、その商品とイエスらを類比させていた。第二章は、大企業の商品なら価値はなくても毒でない限り買うべきである、そうしないと経済が破綻する、と説いていた。第三章では神を信じるテクニック、それはわかってもわからなくてもとにかく行動する、信じるふりをすることだ、そうすればいつのまにか信じている、と。具体例として、ジャクソン・フロレンティンと言う男(あの映画の競演男優)に神を信じさせるに至った経緯を記していた。
第四章「偽善への敬礼」は内容を削除されていた。
つまらない本だとは思うが、その削除された部分は非常に気になった。
***
ダニエルはラングレンとチェスを、バーバラと議論をして過ごした。バーバラは妊娠六ヶ月だった。監獄内はレイプでない限り、セックス自由だった。バーバラは、ダニエルに、「ミネアポリスに来たとき、なぜ一人だけ戻った? それこそが間違いだわ」と語った。バーバラの犯した罪は金にまつわるものだった。
***
10月になると農場の仕事は減った。冬になるとダニエルは<フードシステムズ総合会社>の仕事に配置された。だが、ダニエルは他の仕事がしたかった。
***
冬が近づくにつれて、毎週毎週、事態は着実に悪くなった。<ステーション>で働きながら、本物の日光が次第に少なくなるのをダニエルは見たが、一年の最も暗い季節に学校へ行くのとそうは違わなかった。最悪なのは寒さだった。ドームは空気漏れがひどいため、一一月の半ば以降、寒さがきつすぎて眠るのも困難だった。ダニエルは<ステーション>の当番表で同一シフトの年長の男二人と眠った。というのも、自分たちの体から漂ういまいましい虫の臭いに普通の人は文句を言うからだ。仲間の一人は腎臓に障害があるため、ときどき寝小便でベッドを濡らした。石油パイプラインが破裂したとき、双子の妹といっしょに寝なければならなかったが、今回、大人の男たちと全く同じ状況になったのは奇妙なことだった。
ダニエルは次第に消化不良に陥った。四六時中腹が減っているのに、胃酸の状態がおかしくなり、絶えず吐き気を感じている状態だった。他の人たちも同じ症状を訴え、守衛が持ってくる半冷凍のビッグマックのせいだと主張していた。ダニエルは、心理的原因によるもので、<ステーション>での仕事と関係があると考えていた。理由が何であれ、結果として、ダニエルは、絶えず寒気と吐き気がして、力が入らず、ドアノブを回すとか鼻をかむといった簡単な動作すら満足に出来ないほどの体調不良に悩まされた。しかも、わきの下や股間だけではなく、全身が臭う。自己嫌悪に陥った。つまり、自分に付着している肉体を嫌悪した。同様に、他の囚人をも嫌悪した。かれらもみな多かれ少なかれ、同じように悲惨な状態へと向かっていたから。ダニエルは、ドームを嫌悪し、<ステーション>を嫌悪し、刑務所構内の冷たい大地を嫌悪し、冬の重みを中にこもらせながら、今にも落ちんばかりに空に低く垂れこめた雲を嫌悪した。
毎晩喧嘩があった。大半はドームの中でだった。監視カメラに映っていたとしても、止めに入ることは滅多になかった。連中はきっと囚人の喧嘩を、スポーツのように、単調な日常の中の休息のように、生きる証しのように、楽しんでいたのだろう。
時間こそが問題だった。いかにして殺伐とした仕事の時間と、もっと殺伐としたドームでの時間を乗りきるかが。日や週は意識にのぼらない。カレンダーではなく、時計が、ダニエルを押しつぶす。そのあいだ、何を考えていればいい? どこへ向かえば? バーバラ・スタイナーは言った。唯一の頼みの綱は、自分の内面だ。自由に思考できる限り、手に入る限りの自由がある。ダニエルはその言葉を信じられたが、気分がよくはなからなかった。思考というのは何かに関連するものであり、どこかへ連れて行ってくれるはずのものだ。ダニエルの思考は、ループ状のテープであり、空虚な繰り返しだ。たくさんの囚人から、記憶というものは、日々ショーからショーへと渡り歩く恒常的なディスニーランドだよ、ときかされて以来、昼間から、過去について夢想しようとがんばった。だがダニエルにとってはディズニーランドでなかった。まるで他人が撮ったスナップ写真の箱のようだった。毎回ある静止した記憶上の一点を見定めるのだが、決して生きた現実の過去へと導かれることがない。
未来はもっと悪い。未来を興味深いものにするためには、そこに願望や恐怖のよるべとなる場所がなければならない。エイムスヴィルに戻ることによってダニエルが予測できる未来は、監獄よりも少しだけ快適だというに過ぎず、およそ願望や恐怖の対象たり得ない。覚えている限りの長の年月にわたり、ダニエルには己の人生をどうするかという問題がつきまとっていたが、それについて切迫感を感じたことはなかった。むしろ全く逆だ。ダニエルは常々、<職業>を目指して躍起になっている同級生を馬鹿にしていた。今でもその言葉、あるいはその背後にある概念は、どす黒く馬鹿げて見えた。ダニエルは<職業>と呼ばれるいかなるものも求めていなかったが、同時にそれは危険にも、未来そのものを欲しないも同然に思えた。そして、<スピリットレイク>に囚われた人々が未来という観念を持つことをやめると、投げやりになりがちだった。ダニエルは投げやりにはなりたくなかったが、何にしがみつけばよいのかは分からなかった。
このような精神状態で、ダニエルは聖書を読み始めた。聖書は暇潰しという主要目的には合致したが、それ以上の失望をもたらした。ストーリーは平均的な幽霊小説にも太刀打ちできそうにないレベルだったし、語られている言語は、ところどころ詩的ではあったにしても、たいていは単に古めかしく分かりにくいだけだった。そういう文体が延々と続くだけで、全く意味をなさない。そういう意味で、とりわけ聖パウロの書簡には困惑した。次の文章でいったい何がいいたかったのだろうか。「犬に気をつけよ、邪悪を働ける者に気をつけよ、割礼に気をつけよ、なぜならわれらこそが魂に宿る神を敬い、イエス・キリストに宿る神を喜び、肉体を信じない割礼者だからである。だが同時にわたしは肉体を信じるかも知れぬ」全然わけがわからない! たとえ言葉が分かりやすくなっても、概念は不明確で、概念が明確になったとしても、大半は馬鹿げた内容である。ヴァン・ダイク卿の馬鹿げた観念に似てはいるが、あれほどのユーモアのセンスはない。まじめな人間たちが、どうしてこんな代物をまじめに受けとめたのか? (ボブ・ラングレンの説なのだが)全体が一種の秘密の暗号であり、二千年前の言葉からこんにち話されている言葉に翻訳すれば完全に明確な意味を伝えるというのでもない限り。他方で(これはダニエルの説なのだが)、もしも聖パウロが話しているのが、<何人たりとも>かつて経験したことのない、あるいは黒が白であると信じていて、何らかの薬に冒されていて、死がもっとよい人生の始まりと信じるほど狂っている人だけしか経験したことのないことであったなら、どうだろう? たとえそうであったとしても、人が自分の発言内容を事実と信じているからといって、客観的に事実であったかどうかは疑わしい。むしろ、人はヴァン・ダイクの助言を鵜呑みにし、自らを洗脳し、いつかそれが実現するように、あえてそれを信じていると口にするだけである可能性のほうが高いだろう。
だが、<ぼく>は信じないし、信じるふりもしない。ただ、他に読むものがないから読みつづけるだけだ。ただ他に考えることがないから、考えつづけるだけだ。
***
一一月中旬に初雪が降るころには、バーバラ・スタイナーのお腹は大きくなり、鬱状態がひどくなった。セックス・パートナーを含めて、誰もがバーバラを避けるようになった。セックスをしないからといって、バーバラがいつもよりもビッグマックを食べなくなったというわけでもないので、胃の具合の悪いダニエルは、よくバーバラに自分のビッグマックを少し、あるいは全部分け与えてやった。バーバラは犬のようにすばやく、嬉しそうなそぶりも見せずにむさぼり食った。
バーバラは全く話をしなくなった。ふたりはよく、脚を組んでバーバラの折りたたみベッドに座っては、風が窓枠を叩き、ドアをがたがた揺らす音に耳を傾けた。その年初めての本格的ブリザードだった。ブリザードは、穴だらけの壁を吹雪でゆっくりと固め、ドームを密閉して、より暖かく頑丈にした。
そして、二人の人生を変える事件が起こった。ある男が歌ったのだ。
近ごろはいかなる種類の音楽も耳にすることが少なくなっていた。そこにある楽器に関する限り、何でも演奏できる<スピリットレイク>最高のミュージシャンの一人が、一〇月に釈放されていた。まもなくして、ある日曜の朝早く、殺人で懲役一二年を勤めている非常に優れたテナー歌手が、境界を越えて歩き出し、腹に菱型爆弾を食らって死んだ。
いらい、誰も歌を歌おうとしなかった。ひとりだけ、知恵遅れの女がストーブのパイプを指でドラムのように叩いたが、うんざりした他の囚人がドームの端に引きずって行った。
問題の夜は風がなくとても寒い火曜日だった。無限の雪野原にのぼる月のように、集まって黙りこんでいる囚人たちの中から、ある一人の声が聞こえた。ほんの一瞬、ワンフレーズだけであったが、ダニエルには、その歌が現実ではありえない、自分の心の中から出てきたに違いない、それぐらい完璧で、ありえないと思えた。今や絶望が、ドームのすえた空気の中に、高価な香水のように流れ出した。
誰もがその歌に心を奪われた。
歌がやみ、沈黙が訪れた。
「キリスト」バーバラが穏やかに言った。
トランプをシャッフルして配る音。
「とてつもなく美しい」とバーバラ。
ダニエルも同意した。
二人は外に出た。星が見えていた。バーバラは、星に行く人がいる、君も行きたい? ときいた。想像もつかない、と答えると、バーバラは「わたしはできるわ」といい、「飛ぶときには歌は止まらないのよ」と言った。読んだことがある、とダニエルが答えると、「わたしはきいたのよ。わたしが一回だけ飛んだときに」とバーバラ。今日歌った男もおそらく経験者だろうという。
ダニエルは驚いて、飛んだときの状況をきいた。
バーバラは一五歳のころ、いとこの家で家族の留守中に地下室に忍びこみ、<飛び>道具の<フックアップ>を見つけた。さっそくそれを着けて歌ってみたところ、自分の肉体から離れて空中を飛んでいるのに気付いた、翼が生えているように感じた、という。彼女はしばらく部屋中を飛びまわった。暗いのに食べ物に宿った光が見えた。そのうち怖くなって、体に戻ったという。それは全くの偶然で、それまで歌やドラッグのレッスンを繰り返してもだめだったのに、急に飛べたらしい。それ以来飛んでいない。
ダニエルは、自分も飛ぶんだ、それがぼくの人生の目的だ、と思った。
***
ダニエルはドームに戻ろうと声をかけたが、バーバラに頼まれてキスをした。
***
ダニエルは先ほど歌っていたラスという男に接近し、歌を習い始めた。
***
翌朝、バーバラが死んだことが分かった。昨夜ダニエルと話したまさにあの場所の先で境界を越えたのだった。
***
ダニエルはバーバラの死を悼みつつも、自分の生きる目的は、歌うことを学び、飛ぶことなのだと思い定めた。
***
ドームでバーバラの所持品のオークションが行われた。なくなっていた「被造物は神」の本があった。取り返そうとしたが、ミセス・グルーバーに言われてしぶしぶ戻した。そしてビッグマック五個分のチケットで落札した。そのあと、くじ引きが行われ、マクドナルドチケットの一つを取り戻したが、今夜の分ではなかった。ダニエルはグルーバーのスープを分けてもらい、空腹をしのいだ。
***
翌日ダニエルはチェスのあと、戻ってきた本を読んだ。バーバラの書きこみがあった。著者は要するに、この肉体と悪魔が支配する世界と、これを超越したところにある神の世界があること、そして、この西洋文明世界、<ビジネスマンの文明>が滅びようとしており、その様を見られるのがうれしいことを書いていた。だがダニエルは、この終末観には同意できなかった。
***
クリスマスイブ。記念写真、聖歌を歌ったあと、家族からのプレゼントが渡された。気に入ったり気に入らなかったり、様々だ。ガスはケーキを食っていた。
ガスは、<ロール・オーバー・ジョー>という歌を歌った。ダニエルは知らない歌だったが、みんなが合唱し始めた。歌声は続き、ついにスピーカーから「もうクリスマスは終わりだ、いい加減にやめやがれ!」と怒鳴り声がして照明が消えた。
***
クリスマスの日も虫が休むわけではないので、ダニエルが勤めるES78地区だけは休みでなかった。ダニエルは仕事から帰ると、ガスを呼びだし、歌を教えて欲しいと頼んだ。監視モニタに聴かれているだろうから、あぶない発言は出来ない。だが、ガスが「君は飛びたいのか?」ときいたので、うなずいた。ここアイオワでは非合法だが、外に出て行って飛びたい、と。35ドル分の食券を渡すから教えて欲しい。なんなら本もやる、と。
だが、ガスは、「いや、おれはおまえの尻が欲しい」と言った。ダニエルははじめ意味が分からなかった。意味を理解すると、ダニエルは、冗談でしょう、といった。ガスは、「いいや、それが歌のレッスンの値段だ。悪いが、君の歌の能力じゃ、<脱出速度>に達するのは無理だ」とにべもなく言った。どうしても教える気はなさそうだった。ダニエルは罵った。
***
一月だった。ガスは目でダニエルを追い、歌った。ダニエルは「死んだほうがましだ」と何度もつぶやき、境界線を踏み出そうと近づいてみたが、警告の笛が鳴って立ち止まった。翌朝護衛が鎮静剤をくれた。
***
二月になり、釈放まで一月。ガスが仮出所になった。別れ際にガスはダニエルを呼び、能力は関係ない、本気で頑張れば、感じれば、君は飛べる、と言った。
***
釈放直前になって、アイオワ州周辺の出版規制法は修正条項一条に違反するという最高裁判決が出た。釈放される直前にダニエルは少女にいわれて橋をわたる夢を見た。かれはいやがったが、警官に手錠をかけられて橋をわたらされた。中央で歌いだし、手錠がなければ飛べる、と思った。かれは自分が生きていること、ダニエル・ワインレブであることを夢の中で自覚した。

第二部

ボーディシア(ボボ)・ホワイティングはヨーロッパからアメリカに戻る飛行機の上だった。父親はグランディソン・ホワイティング。同じ飛行機で、手もとのドリンクサービサーから希望のドリンクが出ないと怒っている男がいた。ボーディシアはかれと話し始めた。かれはフードシステムズの代表で、仕事の帰りらしい。
ボーディシアは<飛びたい>という自分の希望を語った。
***
ボーディシアは鏡を見ながら自分の持つふたつの側面について考える。父は富こそよい性格を作る、富は悪もなすがそれは富に必然的に伴う二面性だと教えた。ボーディシアは高校一年の最初の数ヶ月で工科大学の勉強に必要なプログラム等の基本を習った。伯父のチャールズは<家事・家庭用品委員会>の代表だった。ボーディシアは、父と愛人のミセス・リードに、スイスの学校への転校を指示され二年間スイスに行っていた。当地にリードの姪のパトリシアがいた。
***
ボーディシアはカール・ミュラーの運転でデスモイネスからエイモスヴィルに向かう。父はビジネス上の一大事でシカゴに行っている。兄弟のいるウォリーの自宅に直行する気にはならない。どこか他の場所に行ってくれとミュラーに頼む。IDカードをミュラーに渡す。そこでは彼女はアイオワ州メイスンシティ、ビヴァリー・ホイットテイカー二二歳と書いてある。
***
かれらは<エルモア・ローラースケートパーク・ホテル>で食事をする。ボーディシアは兄のサージェントが迎えにこなかったことに愚痴を言い、カールをつきあわせたことを謝るが、サージェントは交通違反で免停中らしい。カールは父の会社の社員で、<業務管理マネージャー>らしい。


エイムスヴィル・ハイスクールの伝統と制度の中で、113号教室のミセス・ノーバーグこそは──ボーディシアが好んで使う表現だが、<言葉の本来の意味>において──最も忌まわしい人物の一人だった。数年前、三者択一の接戦を制して、ノーバーグは<アメリカ精神刷新党(ASRP)>後援で下院議員に当選した。全盛期にはASRPは<ファームベルト>の最も頑固な<拝神派(アンダーゴッダー)>の集合所であったが、<魂の覚醒したアメリカ>という当初の理想的ヴィジョンが色あせ、とりわけ党のリーダーたちが共和党や民主党の俗物並みに腐敗していることが判明するや、党員たちはGOPに復帰したり、ミセス・ノーバーグのごとく在野で政治的過ちを孤独に糾弾したりした。
ノーバーグは選挙のときは、アメリカ史や社会科を教えていたが、ワシントンの任期を務めて戻ったあとも社会科を担当し、二年間のサバティカル休暇をとった。頑固で異常に厳しく、生徒への怒りを通知表を通じてはらした。彼女のクラスだけ赤点を取るものが続出した。ボーディシアの伯父チャールズに下院の議席を奪われたので、ボーディシアに対しては復讐心を持っているようだった。ボーディシアは毎回ノーバーグの不快な独り言をきかされ、嫌悪感を募らせた。
***
ボーディシアは前の席のダニエルに惚れた。かれは違法出版物の所持販売で服役したが、その後取締りが違憲であるという最高裁判例が出ていた。ノーバーグ(通称<氷山>)もかれに一目置いていた。だがダニエルはノーバーグを嫌っていた。ノーバーグが殉教者としてバド・スカリーの名を出したとき、ボーディシアは「バド・スカリーも一種のジョン・ブラウンだといいたいのですか?」と質問した。ノーバーグはどこできいたのかというので、「トリビューンで読んだ」というと、ノーバーグは「間違った法でもわれわれは従うべきか?」と問いかけた。そしてダニエルの意見を問うた。だがダニエルは、「出所したばかりで、それについては意見を言いたくない。言いたくないのに言わなければならないという法はない」と答え、クラスは静まり返った。
***
ランチルームでボーディシアはダニエルの先ほどの対応(沈黙による抵抗)を誉め、学校も監獄だといい、一緒に昼食を取ろうと誘った。


ボーディシアは姉のアレシアと喧嘩をして屋根にのぼり村を見晴らした。この村の住人は夏場はウォリーに行く。ダニエルもウォリーのホワイティング家に楽器を試しに行っている。かれはアーチストになりたい。同じような人間と話が出来るメリットもあるだろう。だがかれは無計画だ。対照的にボーディシアは計画的、打算的だ。彼女の目的はダニエルと恋人になることだが、彼女は慎重だ。最終的には姉と喧嘩し、ダニエルとかけおちをする計画だが、それは学校を卒業してからだ。
***
ダニエルはバイクでウォリーの門番小屋についた。守衛にホワイティングの渡したディスクを渡した。守衛は電話でホワイティング家の男と話し、ダニエルに替わった。相手によるとセキュリティシステムがダニエルを逃走中の囚人と認識しているらしい。また、PWロレンジ爆弾が体に埋められているとも。ダニエルは中身が抜かれ殻だけ残っていると答えるが、相手はそれを手術で除いてくれないかと言う。入れてもらうのと手術とどちらが先かときくと、また守衛に替われといわれ、結局入れてもらうことになった。
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アレシアが、ダニエルがきたと言って呼びに来る。ボーディシアは門番小屋に電話で確認し、姉と下に降りる。途中、姉はダニエルについて「顔はいいけど、最下層の子ね。父親が歯医者ってだけじゃねえ。刑務所にいたんでしょ」と辛辣なことを言う。ボーディシアは反発し、「もしわたしたちが愛しあってたら?」と問い返す。姉は呆れて去る。ボーディシアはダニエルを迎えながら、私たちはもう本当に愛しあっているかもしれない、でもまだ口に出しちゃだめだ、と考える。
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ダニエルは家族に紹介され、グランディサン、アレシア、ボアの兄と話した。
父親は変わった話し方をした。好きという人はいなさそうだがダニエルは嫌いでもなかった。ウォリーに来てからダニエルは居心地悪さを感じてはいたが。
父親はハープシコードについて知っているかときいた。ダニエルがピアノとの比較で知っていることを答えると、ピアノをどこで学んだかというので、独学と答えた。
父親は、門番小屋の件をわびた。警報システムが行き過ぎだが不足よりはましだという。
IW爆弾の容器をなぜとらないのだときくので、ものすごく大変らしいからと答えた。実際は徴兵を免れるからなのだが。しょせんみんな偽善者だというヴァン・ダイクの本が心強かった。
ダニエルは刑務所の処遇を話し、批判した。だが父親は、「正義は常に公平とは限らない。公平とは子供の、乞食の正義に過ぎない」といい、お金を恵んでくれといって寄って来た乞食を突き放したエピソードを紹介し、「負けたのは自業自得でないかね? 負けたのは誰のせいなんだ?」と問うた。ダニエルが「勝った人間のせいですか?」ときくと、父親は笑いだした。
ダニエルはなおも刑務所のシステムの批判をしたが、父親には通用しなかった。「だからこその刑務所だよ。刑務所の処遇が外と同じだったら、世の中常習犯罪者だらけになるよ」
「そんなことはない、刑務所でちゃんとした待遇で社会化の訓練をしたものは、二度と戻ってきませんよ」
だが水かけ論だった。
ボアはダニエルを擁護しようとして、クラスでのダニエルの武勇談を話してきかせた。
やがて、父親と兄は去った。
ボアはダニエルに、「ね、信じがたい人でしょ?」ときき、ダニエルも肯定した。
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帰りのトラックの運転手はユージンの兄カールだった。ダニエルは睨まれ、いくら話しかけても無視された。そして、「いい加減黙れこの糞やろう、徴兵忌避者め」と罵られた。ダニエルが「ぼくは喜んで志願する」といっても無駄だった。ブレーキを踏んでしばらく罵りあいになった。家まで着いてバイクを降ろし別れの握手をするときも、「じゃあな、人殺し」と言って挑発的に睨んだ。ダニエルは目をそらした。
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ダニエルは人殺しではなかったが、そういう容疑を受けていたし、それがまんざらでもなかった。というのも、ボブ・ラングレンの出所の少し前に、かれの父と兄が殺害されたからだ。その少し前から犯行予告が送られていた。事件はテロリストの犯行と思われていた。<崇神派>の農夫たちは特にテロをおそれ、ウォリーのような<要塞村落>に移住していた。
ダニエルが疑われたのは事件の翌年の夏にボブに招かれてボブの家に滞在したからだ。ボブは母親を2階にやったが、やたらと騒ぐのでドゥブクの宿泊所に移した。兄の未亡人と一二歳の娘が家事をした。ダニエルは安息を感じたものの、そこの家族には何か狂ったものを感じるようになった。翌年もダニエルは呼ばれたが、ボブは22歳のジュリーを嫁にもらい、兄の家族は引っ越していた。ジュリーは部屋にひきこもってテレビばかり見ていた。
このときダニエルはボブに、ガスのことをきいた。ボブはぎょっとして、隠しごとをしているような表情になった。突然ハイド氏が姿を現したかのようだった。ダニエルは、殺人犯人がガスであることを悟った(ボブが依頼?)。ダニエルは何食わぬ顔で、「彼の歌はすばらしかった、ぼくは歌いたいんだ」と言った。「そんなに歌いたいなら歌えばいいじゃないか」とボブ。
それ以来ガスの話はしなくなった。
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雪の中家に戻るとまだ夕食をみな食べていなかった。夕食を取りながら父にどうだったときかれた。よかったと答えた。ピアノやハープやエレキオルガンやチェロに触った。それから父親と会った。政治の話をしたと。そしてまた行きたいと。
留守中に若い娘から電話があって、シシリアが出た。ダニエルの場所をきいたので知らないと答えた。名前はオールド・ワイアマウスとか聞こえた。とのこと。
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部屋に戻ってボアにもらった本を読み始めた。「性格改善法」それを読んでボアの兄は大学をやめてボクシングジムに通いだしたし、ボアはイタリア語を習いだした。内容はたいしたことなかったが、ボアが読ませたい場所に線が引いてあった。第二法則、死ぬほど求めれば、必ず手に入る。


ダニエルとボアは恋人になった。
ダニエルはノーバーグの社会科が落第すると思っていたが、いざ蓋を開けてみればびっくりのBだった。おかげでその夏もボブのバイトに行けそうだった。
ダニエルはボストン音楽学校に演奏テープを送ったが、落ちた。ボアは八校に志願し、七つも受かった。ダニエルはボアの大学の近くに住んでボストン音大を目指すことになり、ハーバードに落ちついた。
夏を前にして社会科の補習必至だと思っていただけに、毎日ボアと遊べて最高だった。ボアの伯母でアマチュア音楽家のミス・ハリエ・マースパンがロンドンから遊びに来たので、三人で<マースパン・アイオワ・コンソート>というバンドを組んだが、ハリエはアマチュアなりの腕だった。だが仕方ない。ダニエルは聴衆の反応も気にせずコーラスに加わった。
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ボブへの返事の期限近くに母が来て、ボアとの関係を質した。「デュエットの練習以外のことをしてるでしょ、わかるわよ。夏はボブの仕事はやめてここにいたら? あんたの年のころにはわたしも結婚なんて信じてなかったけど、でも道路をわたればひき殺されるでしょ。いざというときは、箪笥の上の左の引きだしにアレがあるから、わたしはもうあまり使わないし」
「母さん、そりゃやりすぎだ」
「わたしはやれる限りのことをするの」
***
ハリエは離婚三回の37歳、ボアとよく行楽し気に入りだった。ダニエルも交えてテレビプロデューサーのブロムリー夫妻、作曲家ルシア・ジョンストン、カストラートのアーネスト・レイと会食したときハリエは一方的な音楽観を述べ立てたが、ダニエルは同意できなかったし、バンドのやっている音楽も本物ではないと思ったし、ハリエが苦手で嫌いだった。だがボアにすら正直に言えず、おれってふがいないと思った。
***
ある夜ボブに電話しバイトの件を切りだしたが、もう余裕がないと酔っ払った声で言われ、悪口やつまらない冗談をだらだら話された。不快になり口論みたいになって切った。それがボブとは最後だった。
***
8月、妹はキャンプ、父母は一週間ミネアポリス旅行に行き、ダニエルはボアの家に泊まった。ボアと音楽をきき、食事をし、セックスをした。四六時中セックスのことばかり考え、これが愛だと思った。


ある夜セックスして自室に戻る途中ロバーツにあい、グランディソンの部屋に呼ばれた。彼はつけ髭を外しており、「紳士っぽく振舞うために髭をつけているが(ロンドン留学時に身につけた)、今は自分に戻るためはずしている」といい、「娘との情事はビデオに撮った、レイプで告訴まで考えているんじゃないけどね、ボストンで同棲なんてうまくいかない、結婚したまえ」といった。「あの子はその気だけど、言いださないだけなんだ。わしのことを父さんと呼んではどうだ? 同棲なんて娘の名誉にも響く。どうだ、マリファナでもやってリラックスしよう」といった。ダニエルはマリファナをもらった。
父親はさらに「君が音楽に熱心なのは飛びたいんだろ? ここにも飛んだことのある仲間は一杯いる。君の情熱は分かる。わたしの場合は力だ。自分の行動の結果を感じたいんだ、38歳のときからそう思ってる。すべてのことが太陽系の回転のような因果の必然に見えた体験からね。どうだ、応じるか?」
ダニエルは結婚に承諾した。部屋にカメラがあって、ボアは一部始終を見ていた。
***
ボアが入ってきて喜び、式は10月31日に決めた。ダニエルは、父親に言われ、音楽大学は才能がないし、アマチュアでも音楽は出来るからハーバードに入る、それまでここで働いて給料をもらって使いまくり、結婚式を派手にやって村に印象付ける、カールの仕事だが、カールの倍をもらう、ということになった。
ダニエルはなぜ自分で髭を伸ばさないかききたかったがやめた。そして式が終わったらおれが伸ばそうと思った。これはすばらしいことだ。でもほんとに望んでるすばらしいことはまだ先だ、と思った。

10
新婚旅行でダニエルははじめて飛行機に乗った。ニューヨークで乗り換えて世界一周旅行だ。ニューヨークに行くのは安いからという口実だが乗り換え24時間のあいだに<第一ナショナルフライトパス>に寄るという秘密の目的があった。
新聞でチャールズ伯父のスキャンダルが報道されたことからダニエルは結婚をスキャンダルもみ消しに使われたと疑い、ボアと口論を続けていたが、ボアはそんなことはないと父親を擁護した。あまりいっても仕方がないし、父親はそんなそぶりを見せなかったし、この先幸せが続くならどうでもいいじゃないか、と自分に言い聞かせ、飛行機の中のマス釣りの本で気を紛らせた。
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二人はニューヨークで<第一ナショナルフライトパス>に直行し、偽名で二四階の部屋を借り、ボーイに飛翔器具の使い方の説明を受けた。時間は11時間ある。はじめにセックスをすると成功しやすいということだったが、ふたりはいきなり試すことにした。初心者の成功率は30%らしい。二人は別々のスタジオに入った。ダニエルはマーラーの曲を選んで歌ったが、何度やっても飛べなかった。曲を変えてもだめだった。外に出て飲み、ボアのスタジオに行ってみると、飛んでいた。ダニエルは嫉妬を感じた。どこへ行っているのか。おそらく外だ。ボアの残された体はだらん、としていた。再びやりなおしたがだめだった。ダニエルは諦めて泣きながら眠りに落ちた。
***
ダニエルは飛行機の出航時刻を過ぎてから目覚めたが、ボアはまだ戻らなかった。かれは滞在を延長し、朝食を頼んだあと、テレビを見た。それから、ショップでハイドンの「四季」のカセットを手にいれ、狐狩りの歌にききいった。
***
そしてダニエルは、自分が狐狩りの狐だったこと、グランディソンもそう見ていたことを悟った。一度刑務所に入った人間は決して本当にそこからは出られない。世界は狐なんかに情けをかけてくれない。彼は恐怖のとりこ。
***
そして午後、テレビのニュースが、彼らが乗る予定だったローマ行き旅客機の墜落を告げた。正体不明のテロリスト。死亡者の中に彼ら新婚夫婦の名もあった。彼らの結婚式の写真が出た。
ダニエルは、それ以上のことをおれは知っている、と確信していた。

第三部
11
証しとして示すものが何もないのなら、三十歳の誕生日はつらいものだ。この年までに、昔使っていたいいわけは薄っぺらく通用しないものになっている。三十歳の失敗は、残りの人生の失敗を暗示しているし、本人もそれを自覚している。だが、心に生じる戸惑いが最悪なわけではない、むしろそれは多少なりとも気休めになる。最悪なのは、それがアスベストのように体細胞の一つ一つにしみわたって行くさまだ。自分自身の恐怖の臭いを常に嗅ぎながら、次の大きな破局を待ちうける。歯槽膿ろう、立ち退き命令、その他なんでも。死という運命の実地訓練として、ウジのわいた死体と一対一で向かい合うことを義務付けられたようなもの。前に見た映画の中で誰かの身に起こったこと、あるいは単に本の中だったかもしれない。いずれにせよ、その朝、三十歳の誕生日の朝、ダニエルの前に横たわっているのを見た生命は、ほぼ同じぐらいおぞましい知らせであり、唯一の違いは、ダニエルが縛りつけられている肉体はダニエル自身のものだということだった。
やりたかったことを、ダニエルはしてこなかった。飛ぼうとして失敗した。ミュージシャンにもなれなかった。ダニエルの受けた教育は茶番劇だった。経済的に破綻していた。これらの状況はどれも改善するのが困難に見えた。いかなる簿記システムを採用しようとも、これは人生の失敗として扱われるだろう。自分の機嫌や正気の程度に応じて、陽気にあるいは不機嫌に、ダニエルはその事実を認めることになるだろう。じっさい、ダニエルが友人と呼ぶ人たちの間で、人生に失敗していないと認められようものなら、失礼にあたるだろう。なぜなら、だれもが人生に失敗しているからだ。明らかに、まだどん底に落ちた人間はほとんどいないし、うち一人二人は、単に名目上の失敗で、完全に経済的に破綻することは全くありえない。だが、ダニエルは既にそこまで落ちたことがあった。とはいえそれは、この夏の間だけで、一週間以上続いたことはなかったから、おそらくただの芝居に過ぎなかったのだろう──きたるべき最悪の時に備えての着つけの練習。だが当面の間は、ルックスのよさのおかげで、道端で眠る心配はなかった。好き好んでそうする場合は別だが。
ダニエルはあの日以来、ベン・ボソラという偽名を使ってニューヨークで生活していた。顔を洗い髭をととのえていると、だれかが洗面所のドアを叩いた。ジャックの妻だという。だが、正確にはジャックに時々この部屋を使わせてもらっている、マーセラという人妻だった。彼女はマイアミ出身だった。ダニエルに結婚を勧め、ベッドに誘ってきたが、ダニエルは断って外に出かけた。
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4月というのに肌ざむい。街角で詩人が<テンプ>(一時滞在者?)の歌を歌っている。五年前、ボーカルコーチ兼セラピストのレネート・シングルの言葉がきっかけで、詩を書き始め、飛べはしなかったが、自分なりにやりがいを見出しては来ていた。だがダニエルは壁に書く落書きをむしろ自慢に思っていた。公共の場所に残す自分の証しだから。
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11番街まで来て、前方の三人の黒人少女に不穏なものを感じたダニエルは、道を引き返して自分の経営するジムに向かった。途中の店で朝食を食べた。代わりに店員のラリーに夜ジムを使わせていた。ラリーはいろいろ愚痴をこぼし、最後に、オーモンドという男から電話があったといい、連絡先を教えた。
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アドニス・インクというジムは七番街にあり、ダニエルはそこに出入りするジャック・レヴィンのような友人の家に居候する日以外はそこにねとまりしていた。他に一時滞在者が二人いた。客層は有名人と警官の二種類(失業者も含めて)。福祉の金をあてにするには政府の財政は逼迫していた。ニューヨークの人口のうち半分の250万人は短期滞在者だった。ダニエルはボアが持参していた宝石類を売ったりして食いつないだ。ジムのオーナーはネッド・コリンドだった。ダニエルは掃除をしたあと、準備を始めた。ランチタイムにネッドからデスクを引き継ぎ、コインを持って電話機の部屋に行き、かけると、<テアトロ・メタスタシオ>のオーモンド氏が出て、共通の友人から推薦を受けたので面接したいということだった。最も有名なオペラハウスだ。今日中に来て欲しいという。ダニエルは、今度はクラウド・ダーキンに電話するが、出ないので訪ねて行った。寝ぼけていた。そして今見た夢の話をした。ダニエルは、オーモンド氏の面接の話をした。
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ダニエルはオーモンドを訪ねた。仕事は案内係だった。喧嘩が起こるかも知れないが腕力はどうかときかれたので、多少は腕があると答えた。その夜の公演に招待された。明日の朝返事をすることになった。
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ダニエルはブレードブリッジ主演のオペラを見に行った。すると、マーセラが見に来ていて声をかけられた。ダニエルはボックス席に誘う。そこにはもう一人女がいた。席につくとその女はダニエルの腕をつかんでそのマスクを外した。ミス・マースパンだった。
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ダニエルはマースパンとタクシーに乗った。マースパンはピストルを持っているので、仮に殺そうとしても逆にやられるだけだろう。ダニエルはすべてを話した。ボアの肉体が生きていることを知らせると、マースパンは安心していた。
しかし、このまま昏睡状態のボアの肉体を父親に引き渡すことは、かれのこれまでの年月を全否定されるに等しく、完全な敗北だった。
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ダニエルは、マースパンを第一ナショナルフライトパスの地下の肉体保管所に案内した。以前は上の階にいたが、高価なのでここへ移動してから五年になる。生命維持装置で肉体は生かされているが、徐々に老化はしている。全額ダニエルが支払ってきた。
マースパンはその話をきいて、ダニエルに同情した。ダニエルは、「グランディサンに言わないで、彼女は戻ってくるときはぼくのところへ戻りたいはずだ」と訴え、マースパンは、「条件がある、自分の希望する場所に彼女を移すのなら、教えないでもいい」と答えた。
ダニエルは、マースパンに連絡先を教えた。
***
ダニエルはサウナで寝ていた。マースパンにばれて、逃げ隠れる意味がないと分かったので、案内係の仕事も受けることにした。彼は夢を見、夢から覚めてもこれからのことを考えると、不安だった。いったいおれの人生はどうなるのだろう。

12
ダニエルはマースパンの友人のミセス・アリシア・シフが所有するマンションに住ませてもらうことになった。ダニエルはそこからオペラハウスに通い、案内係をした。彼女の父親は裏社会のおおだて者で、ウイークリーマンションを多数所有していたが、当局に目をつけられつぶされたそうだ。彼女は、自分の人生は退屈と無縁だ、退屈とは怠惰のいいわけだという。彼女は優秀な歌手のレイ・アーネストと恋仲だった。
やがてラジオから<農場地帯>大凶作のニュースが流れた。テロリストの仕業という噂だった。

13
9月になり、テアトロが一時休業すると、ダニエルは収入がなくなり手当てに頼ったりしたが、ボアの費用はマースパンが払うようになっていた。再びテアトロの仕事が始まると収入が入るようになった。ジムの仕事はせず会員として会費を払っていた。ある日、オーモンドに呼ばれ、「客をレストランに紹介すればマージンをもらえる。愛想よくするだけでいい、けつまで売る必要はないからな。金に困ったなら、リベラという歯医者の男を頼るといい」といわれ連絡先を渡された。
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ダニエルは一〇〇〇ドルかけて歯を治療した。レストランの客引きの仕事はうまくいった。同僚にリー・ラパチーンという面白い男もいた。ダニエルはようやくおれも大人になってきたな、と思えるようになった。かなわなかった夢はたくさんあるけど、これはこれでけっこう幸せかもと思う。
リーは最高級の飛翔道具を持っていた。それはジェフリー・ブレードブリッジのマンションの一室に置いてあった。二人でそれを試していると、ブレードブリッジが早く帰ってきて、歌唱のレッスンをしてくれることもあった。
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ダニエルの生活は順調だった。定職はあるし、ミセス・シフの本やレコードを好きなだけ鑑賞できた。ボアに対する自分の愛は、恋に恋しただけではなかったか? もう13年前の日々を思いだせなくなりつつあった。

14
マーセラは毎週火曜日に来たが、いつもダニエルを探していた。ある日、マーセラから頼みごとがある