SF百科図鑑 月曜の朝 Monday Morning  C・J・チェリイ


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月曜の朝 Monday Morning  C・J・チェリイ 2005.12.3
ミトリダテス6世(注・紀元前132年~62年、トルコ北東部にあったポントス王国の王)は、最奥部オフィスへのアクセスを確保するペンタグラム(五角星宮)通廊の立入り制限区域内にあるぴかぴかに磨き上げられたホールを、元気よく歩いていた。清潔と秩序と静寂がこのポントス王の心を落ち着かせた。王は熱い湯を使い、マッサージでリラックスし、髪を小さく束ね、額には金のバンドを巻き、チューニックとズボンには銀と銅のたくさんのメダルが輝いていた。じじつ王は、最近亡くなったばかりの男の割に、かなり見栄えが良かったが、関節の動き、硬い肋骨の軋る音、酸っぱい胃液の匂い、あるいはその周囲を漂う冷たいホルムアルデヒドの悪臭に、悪夢のように強烈な、ある種の匂いと感覚の結合が感じられる。それは香水や香油、そしてそれらを払いのけることなく紛れ込んでくるオフィスの匂いをくぐり抜けて、自己主張をしていた。屈辱の香り、墓場の寒気、敗戦の記憶であった。
だがそれよりも強く感じられるのが、活動中のローマ人スパイの匂いであり、ミトリダテスは、ローマ人をいつも激しく憎悪していた。
それはペンタグラム内部から漏れる匂い、どこかの割れ目から流れ出してくる匂いであり、王はこの朝、猟犬のごとく、その匂いのもとを探していた──動きに乏しく、アルコール臭く、ひどく酸っぱい匂いであったが。
死ぬことは苦痛だった、ちくしょう。しかも、あのひどい大失敗を犯したときは、その2倍もの苦痛だった。あれが起こった時にはすでに、わが作戦本部にたまたま行き当たった革命軍の襲撃ではなく──じつは友軍による攻撃であり、我慢する以外に選択の余地はないこともわかっていた。
さて、少しばかりの礼儀を示さねばならない、これは必要な礼儀だ。ミトリダテスが通り過ぎると、衛兵たちは無愛想に挨拶を返し、その眼差しの奥をよぎるなんらかの思考にしぶい表情をしていた──このプタハ部隊のエジプト人兵士たちは、金のベルトと袴を身に着け、王の後ろ姿を黒く細い目で見守った。王は通り過ぎるたびに感じた──絨毯敷きのロビーに入る扉を開くとき、すばらしいマホガニーの扉を通るとき、禿鷲と蛇の真鍮の紋章をつけたエジプト人衛兵が、じろじろと見る視線を──
この連中が何物であるかを考えれば、まだましな方だろう。衛兵はもっといた。なかには沐浴をすすめたり、胃がでんぐり返るほどに強烈な香の匂いのする部屋に通したりする、とんでもない馬鹿者もいた。
そして最後の扉をくぐると、禿頭で肩を丸め、カーキ色の服を着た男がいた。上品なエジプト人らしい容貌で、弓なりの鼻の上に銀縁めがねをかけたこの男は、読みかけの本から顔を上げ、レンズ越しに少し大きく見える目を軽くまばたきして見あげた。「おや、おや。ほんとうに。戻ってきたのか」
「ええ、戻りました」ミトリダテスのはらわたは煮えくりかえり、いまにも叫びだしたいほどだった。だが、静かに、とても静かに息を吸い込み、息が苦しいというように微笑んだ。この男は必要なのだ。この本ばかり読んでいる女たらし、この──馬鹿者が。エジプトに権力をもたらした男、ラムセス2世。
「大変に不運な出来事でした。現在、聴き取り調査中です」
現在聴き取り調査中、現在聴き取り調査中。ミトリダテスは、息を止め、両手を握りしめた。「われわれは狙われているのですよ、おわかりですか?」
「どれほど大規模な失敗だったかはわかっている。どのように起こったのかはわかっていない。あなたがなぜ敵に無線で攻撃をやめるよう呼びかけなかったのかも、理解に苦しむ。あれは、われわれの軍隊だったのだろう? 友軍による誤爆だろう。なぜこんな失敗を犯さねばならんのか、さっぱりわからん、ポンタス王!」
あんたがとんでもない馬鹿だからだよ、エジプト王。
だが、言葉の上ではこう言う。「われわれの中に裏切り者がいたからです、とんでもない裏切り者が。悪い前例を作ってはなりません、ファラオ」
「なぜ無線を使わなかった?」
「それは──」無限の忍耐。頭を傾け、金属的な正確さで言う。「それは、ファラオ、<ふたつの国の光>よ──わが軍が混乱していたからです。反乱軍のテリトリー内に基地がある理由や、そこで私が行っている業務を、自軍にどう説明すればよいのですか。衝突を先延ばしにして、あの騒動が周囲の注意を引くにいたったなら、けっきょく地域全体を壊滅させるはめになっていましたが。発見した連中を皆殺しにするか、それとも、われわれのほうが全員撤退するか。<エジプトの光>よ、選択肢はこのふたつだけでした。しかも、始まった時点でもう動かしようのない状況だった。敵はすでに、われわれの位置を特定していたのですから」
ファラオは銀縁めがねを下げ、めがねの上から覗いた。「だが、連中はどうやってあなたがたを見つけたのだ、ポンタス王よ? どうしてこんなことが起こったのだ?」
「いま調査中です」ほとんどささやき声だった。「信じてください、ファラオ、必ず見つけ出します。全員を<再配置>にかけるつもりです」
「マカビーにやったようにか──」
「あっ──むろん、そうするだけの価値がなければ、やりません」
「十分な価値がない限り、やるべきではないとわれわれは考えている。ハドリアヌスの行方はわからないし、カダシュマン=エンリルは不快の源だからな。それはもう、とんでもなく不愉快な──」
「ティゲリヌスとその部下には、ご注意を! 私は警告しますよ、ファラオ。秘密を漏らしている人間が存在すると、私は前にも警告しました。必要があれば、スターリンぐらいは信用してもかまいませんが、ローマ人は有害です。ローマ人には多数の係累がおります。情報は家から家へと疫病のように伝わりますし、ティゲリヌスの後援者は、ジュリアス・シーザーにつながりのある狂人ですから。警告します。私は強く警告します」
ファラオはまばたきして、めがねを換え、差し迫った不安の表情でミトリダテスを見上げた。その不安は常識からくるものでは断じてなく、ミトリダテスが自分に対して、それほど大胆に発言することは珍しいからだった。
「<ふたつの国の光>よ」ミトリダテスは息を切らしながら言った。今朝から息が切れがちで、とつぜん声が緊張にしわがれることがあり、このエジプトの王が耐えられないようなことは言わないようにと注意しているせいで、言葉を絞り出すのが難しかった──この男は、書類が伝えている現実の事件よりも、書類そのものに興味があるように見える。「これから自分の職場に向かいます。この件について調査をします」
「報告書が必要だ」弱々しいが、正確な口調だった。ファラオはめがねを調節した。「今回のこの戦略にはあまり自信がないんだ。信頼できない要素がある。われわれは、専門家も設備もろくに持たない愚民を抱え込んでいる。そして革命軍には、より優れた職員とより多くの近代装備を与えるという。奇妙な手法に見えるね、ポンタス王」
「スターリンには効果がありました」ミトリダテスは後ろに手ごろな椅子を見つけ、両手をかけてもたれかかり、頭の中がめまいと怒りでぐるぐる回る中、バランスを保とうとした。「まず、閣下、敵の中に潜入し、そのあとで離反するのです。そして、敵の行動や政策をコントロールする。たしかにわれわれは、現地オフィスを失いました、閣下。非常に困った事態ではあります。しかし、致命傷ではありません。この件の原因を作った人間にとっては致命傷ですがね。必ずや見つけ出します。そして、失敗を犯したのが誰の部下であるかをつきとめたら、ファラオ、必ずやお知らせしますよ」
「われわれは人間の感情というものが信用できん。性急な行動や、仲間同士の口論というものが信用できんのだ。特にいやなのは、これが大騒ぎになることだよ、ポンタス王。われわれはそれが本当にいやだ。これはわれわれがあなたに警告した通りのことだよ。理由がどうであれ、われわれが給料を払っているあの愚民どもが、われわれの組織に混乱を生み出すということは──」
「これは友軍による誤爆です。いまいましいことに、わが組織の、秩序正しい軍隊だったのです」
「とはいえ、混乱は、まさに革命軍が存在するという事実によって生み出されたものだ。困惑と混沌。ずさんな財務処理」ラムセスは書類の1枚を拾い上げてひらひらさせた。「資金がどう流れているのか、見当もつかんのだ。帳簿にない装備が存在する。スターリンの秘密工作、自分たちが戦っている当の相手の買収。こういう財務処理を信用などできん!」
空気は次第に息苦しくなり、灼熱する怒りを抑えるのも困難になった。この男の価値をよく認識せねばならない。この男、自分たちと政府の間に書式と官僚のパイプを築くことに関しては、無限の能力がある。官僚たちが信頼して甘い汁を吸えるように、気をそらしたり、なだめたり、詮索したりといったことに関する、憎々しいほどに完璧な腕前で成功を重ねてきた。政府をなだめすかしてうまく操ってきたのは、ラムセスの手腕だった。
「あとでリストを提出しますよ」ミトリダテスはいった。
そのとき、赤電話がなり、部屋が静まりかえった。
ラムセスは受話器を取った。しばらく眉をしかめ、眉間に皺を寄せ、口角を徐々に下げながら、話を聴いていた。
「ああ」ラムセスは言った。「ああ」もう一度。そして、「ありがとう」。正確に。本人にとっては異国の概念でしかない「ありがとう」という言葉を、職業的熟練によって正確にマスターしている。「ほんとうに。われわれは、非常に喜んでいる」ラムセスは決して<私>とは言わないが、ベッドの中でもそうなのだろうかと考える──こんちくしょう、こんちくしょう、いったい何事だ?
ラムセスは「それでは」と言って、クレードルに受話器を置いた。
「シーザーが戻ってきたそうだ」
「戻ってきた?」ミトリダテスの声が、まるでその言葉を言うのに慣れていないようにひび割れた。その瞬間、空気がついに切れたといった感じだった。心臓の鼓動が速まり、体がぐらぐらしていうことをきかないので、怒りと、何でもよいから行動したいという意志にもかかわらず、言葉が遅れた。「どこへ? 何をしているのです?」
「どうやら、日課の設備点検のようだ。今すぐ動くのは得策ではない。性急な行動は慎もう。むろん、シーザーに関するリストと報告は、精査をする。だが、忘れるな、絶対に忘れるな、ポンタス王。われわれは、行政の領域には踏み込まない。われわれは早まった行動で、孤立した立場に立つことは望まんのだ、ポンタス王、退却できない場所にまで行くことは。この件に関して、あの男の背後に誰がいるのか、まだわかっていない。それが判明するまでは、闇雲に糸を引くのは禁物だ。われわれを非難しないでほしい、われわれの落ち度ではないのだから」
「もちろんですとも」ミトリダテスは香の匂いのする空気を肺いっぱいに吸い込み、ぞっとするほどの落ち着きを取り戻した。「もちろんですとも、閣下」正確で丁重な礼をした。そして、ファラオに礼儀正しい印象を与えるようにと、後ずさりしながら何とか戸口にまで達し、音を立てないようにドアを閉めて、外に出た。
今この手に武器がほしかった。戦場に立ちたかった。シーザーをこの目で見たかった。ローマ皇帝がかつて言ったように、敵の全員の首を一本に束ね、まとめてへし折りたかった。繰り返し何度も。
地獄では敵に終わりはないのだ。何度もよみがえってくる。憎悪する者は、憎悪あるいはその対象から決して逃れられない。だが、敵の愛するものたちをその腕から奪うことができる。際限なく復讐することができる。その気になれば、ひとつの復讐に無限の時間をかけることができる。
ミトリダテスは執着心の強い男だった。動機のある人間だった。ペンタグラムが決して幹部に採用することのないタイプだった。だが同時に、邪魔されることもないタイプだった。なぜなら、この男にとっては憎悪と復讐以外の何もかもがどうでもよいことだったから。それほどまでに純粋で、汚れを知らなかった。それほどまでに何かを信じ、それを神聖だと考えていた。