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沙矢、戻っておいで! (原作 ナンシー・クレス「エイミーを抱きたい」)
高梨耕作は、居間で妻の圭子が泣いているのに気付いた。「圭子、どうしたんだ」
「沙矢よ! 今度という今度は、もう手のつけようがないわ──ああ、どうしよう! 警察が今帰ったばかりなのよ」圭子はわっと泣き崩れた。
二人が結婚してからもう40年がたつ。妻の扱いには慣れている。耕作は、子供にそうするように圭子を抱きとめ、背中をさすってやった。ある意味で、妻は実際にまだ子供なのだ。とても敏感で、神経質なところがある。一方の耕作は、それと対象的に、図太い性格だ。「落ちついて。最初から、何があったかを話してくれ」
「わたし──あの子──あの子が」
「警察が来たと言ったね。沙矢のやつ、今度は何をやらかしたんだ」
「文化──破壊罪、といっていたわ。あの悪い仲間と──中坊澄明とかいう男と、その一味」
「具体的に、何をしたんだね?」
「歩道橋の上から車に岩を投げたんですって!」
「圭子、いったいなぜ警察は帰ったんだね? 沙矢を逮捕するつもりなのか?」
「いいえ」すすり泣きながら、「沙矢がやったのかははっきりしないんですって。証拠不十分だとか。でも容疑者には違いない。ああ──わたし、こんなこともう耐えられない」
「ああ、わかってるとも。だから、落ちついて。そんなに泣かないで」
「あの子、わたしたちがあの子のためにしてあげたことを、何もかも台無しにしてしまったのよ!」
「落ちついて」だが、圭子は泣きつづけている。耕作の目の前の壁に、ちょうど沙矢の写真が飾ってあった。生後6ヶ月の写真や、2歳のときの写真。どれも愛くるしい。7歳のときの写真では、バレエの衣装をまとっている。12歳のときの乗馬の写真。16歳のときのダンスパーティーの写真。
14歳の沙矢が、玄関から入ってきた。
圭子が機先を制した。「あら、戻ってきたの! 警察の方が帰ったばかりよ、沙矢。今度は何をやらかしたの? 正直に言いなさい。これが最後のチャンスよ。学校でどんなにひどい点をとろうが、いろんなわがままを言おうが、今までは許してきたわ。万引きまで見逃したのに。今度という今度はもう限界よ! 車に岩を投げるなんて! 人が死んでたかも知れないのよ! どこまで親を困らせれば気がすむの! 答えなさい!」
沙矢は怒って反論した。「わたし、やってないよ!」
「嘘おっしゃい! 警察の人が言ってたんだから」
「圭子、待ちなさい」耕作が割って入った。「沙矢、警察の人は、おまえを疑っている」
「そんなこと言ったって、ほんとにやってないんだよ! 澄明と衛がやったんだ! わたしはまっすぐ家に帰ってきた! ババアには、信じてもらえなくていいよ!」
圭子はうめいた。沙矢は憤然とリビングを後にする。わざと破いたジーンズに、唇とまぶたのピアス、紫の口紅という、けばけばしいファッション。階段を駆け上がり、2階の自室のドアをばたんと閉める、耳ざわりな音。
「あなた──お聞きになった? あの子、わたしのことをいま何と──お母さん?」そして圭子は、弱弱しく夫に体を預ける。耕作は、しっかりと抱きとめてやった。
だが、耕作自身もがくがくと震えていた。もうこれ以上耐えられない。暴言に、絶え間ない口喧嘩、犯罪の数々──たった一人の14歳の娘のせいで、二人の生活はめちゃくちゃなのだ。
「あなた──昔のあの子を覚えてる? 生まれた日のことを。死ぬほど嬉しかった。小さいころは可愛かったわね──這い這いしながら、わたしの膝の上に登ってきたわ。だっこして欲しそうにして。ああ、昔のあの子を取り戻したい!」
「わかってるよ。わかってるとも」
「あなたもそう思う?」
もちろんだとも。おれだって取り戻したいさ。可愛くて、よくなついてきた、幼い日の沙矢を。耕作のことを世界一のパパだと思っていた、あの沙矢を。小さな体を腕に抱き、首筋の甘い香りをかいだ、あの日々を──
耕作はおもむろに言った。「あの子はもう14歳だ。法律上はもう、大人だ」
とつぜん妻は泣きやんだ。「あの子、誰も引き取り手がいないわけじゃないわね。不良仲間もいるし、ほかにも誰か見つかるはずよ。そもそも、外に出たほうが、あの子に似た子はたくさんいるし」下唇をつきだして言う。「そうすれば、あの子も親のありがたみがわかるんじゃない?」
耕作は目をつぶる。「それはおれたちにはわからないことだがな」
「まったくそうだわ。わかりっこないわね。あの子、わたしたちといるのがいやでたまらないみたいだし、わたしたちもそう。お互いに、もううんざり!」圭子はふたたび耕作に身を預ける。「でもそうじゃないの。わたしたちは、昔のあの子に戻ってきて欲しいのよ! あの子をまた、この腕でだっこしたい! そうじゃない、あなた?」
その通りだった。それに、どのみちいまの状況は、精神の弱い圭子にはつらすぎるだろう。このままでは健康を害してしまう。とつぜん降って湧いたこの災難に、手をこまねいていては取り返しのつかないことになる。圭子にも人権というものがあるのだ。
圭子は相変わらずすすり泣いていたが、しだいに穏やかな泣き声になってきた。耕作は気を引き締め、冷静になろうと努めた。自分が毅然たる態度で、妻を守ってやらなければ。自分ならやれるのだ。妻のために。自分のために。いや、みんなのために。
耕作は言った。「受精卵はあと3つある」
6つのうちの残り3つ。圭子のかかった産婦人科には、流産に備えて、あるいはその他の目的で、まったく同一の受精卵から特殊な方法で複製した、予備の凍結卵が、あと3つある。これは2078年の日本では、法律上当然の手続なのだ。
「今夜、あの子を捨ててくるよ」耕作は晴れやかに微笑んだ。「それから明日の朝、病院に電話しような」
圭子は、嬉しそうに耕作の顔を見つめた。「あなた、ありがとう」
外では日差しがまぶしく、雲雀が歌っていた。
~完~
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