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ニコラ・グリフィス『スロー・リバー』」(2005/12/07 (水) 17:17:00) の最新版変更点

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<p>2001年</p> <p>10/13<br> で、SFの話に移ると&&。<br> 「スローリバー」を読み始めたがこれが面白くない。ほんとうに80年代以降のネビュラ賞ってつまんない。ヒューゴー賞と結果が割れた年のネビュラ賞ってファンタジーとかSF味の薄いのが多いが、本作もその典型か。まだ数10ページだけど、ほんとにここ数カ月、本を読むのが苦痛でしゃあない。たまには面白いのが読みたいのに、ほんとにネビュラ賞の作品って、勘違いしてるのが多い。SFである必然性がないんだもん。ていうかこれ、SFじゃないんじゃないか? こんなものをSFとして出されて、初めて読む人が「SFは面白くない読み物」と思ってしまうことは間違いない。これ、むしろミステリ文庫から出したほうが売れるし、どっちかというとミステリマニア向けの作品なのではないか? これにSF賞をやるのは反則だよ。</p> <p> 酷評は後日することとして、貶すにしても読まずに貶すわけにいかないのがつらい。とにかく読むのがつらいので「タイムスケープ」を先にすることにした。これもベンフォードの中ではいちばん面白くなさそうな作品なんだけど。タイムパラドックスの科学的研究と科学者の日常生活を描くという。何だか勘違いしてるよね。タイムパラドックス物は絵空事とわかってて仮定の思考実験を楽しむべきものなのに、そんなものを理詰めでつきつめてどうするんだっての。科学者の日常生活をリアルに、なんて理系読者の内輪受けで、何だか排他的な感じがするし。でも他の受賞作で翻訳ありのやつは、スワンウィック「大潮の道」マッキンタイア「太陽の王」ベア「火星転移」ルグィン「帰還」ベア「ダーウィンの使者」ウルフ「調停者の鉤爪」ビジョルド(題名忘れた)&&なんだぁ、ベアとビジョルド以外ほとんどファンタジーか少なくともファンタジー色の強い作品じゃないか! 何なのこれは、幻想文学賞? 納得いかねーよ。全く80年代以後の煮え切らなさ、低温ぶりにはイライラさせられどおしだ。</p> <p> こんなのばかり読まされていたら、「SFは面白くない!」って売れなくなってもしょうがないような。SF好きの私ですら面白くないと思うもん。もしはまり始めに読んだクラークやらディックやらブラッドベリやらといった読書体験なしに、いきなり「SFとはどんなものかいな」とグリフィスやシェパードなどから読み始めたとしたら、「何だかこ難しくてかったるい、何を書きたいのかわからないファンタジーまがいのもの」という印象を持ってしまい、二度と読もうとは思わないだろう。</p> <br> <p>10/25<br> グリフィス「スローリバー」読んでいるけど、これSF? SFとしての面白さというより、単なるアングラ・レズ小説じゃないの。解説によるとレズ文学の賞を2作連続で取っているらしい。それならば、早川NVで「女を愛する女たちのレジスタンス」とか何とか、それらしいキャッチコピーの帯をつけて売ったほうが売れるし、適切な読者に読んでもらえるのではないだろうか。どうも売り方が下手。ネビュラ賞というのはどうもよくない。ズレている。このネビュラ賞のズレぶりを日本の編集者はよく警戒し、真に適切な出版形態を選んで出す義務があると思う。スカボローやマーフィーでも同じ感想を持ったけど。スカボローとかこの作品なんて、読みどころはSF性ではなく、普通小説的部分にあるのだから、SFとしてではなく普通小説と思って読んでこそ、初めて面白さのわかる作品なのだ。それは、SFファンが読む場合でも同じこと。SFファンとて普通小説を読みたくなることがあるが、SFファンであっても、普通小説が読みたいときに読みたい「普通小説」とは、「普通小説」のジャンル内にある「普通小説」であって、「SF」の中にある「普通小説」を読みたいと思う人は少ないだろう。根本的に快楽の質が違うのだ。むしろ、「SF」の中にある「普通小説」を面白いと思えるのは、普通小説の読者だろう。そういう基本的なところが、早川の編集者は分かっていらっしゃらない。恐らく、学歴を見て優等生タイプを採用することによる「編集者サラリーマン化」による弊害が現れているのだろうが。<br> というわけで、この作品が「SF文庫」に入っているという前提でこの作品を読むことが非常に苦痛でしょうがないのだが、それを度外視して、純粋に作品として読めば、恐らくそんなに悪い作品ではないのだろう。しかし、そう冷静にばかりもなっていられない。タイ料理を食べにいってイスラエル料理を出されたら、やはり、あまりいい気分はしないのだ。とにかく、この早川の体質と、ネビュラ賞の(笑)体質だけは何とかしてくれないと、ほんとにSF(の名の下に出版される薄味勘違い作品群)が大嫌いになってしまいますよ。<br> しかし、何とか半分近くまで来た。淡々と、近未来のイギリスどん底地下社会でアウトローに生きるレズたちの日常生活を描いていく作風は、とても正気ではないし、つきあわされる私のような「ノンケ」の読者にはたまったものではないが、この作品が「ネビュラ賞の面白いSF」なのではなく、SFとは関係ない、グリフィスという特異なレズ作家の一到達点を示す過激で個性的なレズ小説、という観点からの自己暗示をかけながら読めば、何とか興味を多少なりとも持続することは不可能と言い切れない。興味持続のため、第3長編をアマゾンJPで注文してしまったし。第1作の「アンモナイト」のほうが正統SFぽくて、より欲しかったのだけれど、あいにく絶版のようだった。</p> <p> とうとう、翻訳SFアレルギーが頂点近くに達して、マーティンの原書(子供達の肖像)に手を出してしまったし。やっぱり英語で読むと5割増しに面白く感じるなあ。今、ゼラズニイの序文を読んで「霧夜明けとともに来れり」に入ったところ。異星を舞台にした作品で面白そうです。グリフィスも多分、英語で読んだらもうちょっと興味が持てるんだろうなあ。内容がたとえ面白くなくても、英単語を調べるのが面白いから、最低でもその意味での面白さは保証されるので。</p> <p> 「スローリバー」、某サイトの年間ベスト投票で、いろんな投票者から貶されていて、私だけではなかったと思い、少しほっとしている。</p> <p>10/28<br> 「スローリバー」ほんとうに面白くない。<br> 特につまらないのがレズの性描写。興味ないって。心理を書くのならまだしも、延々と「指を女陰に入れて動かした」だの書かれても、退屈で寝てしまう。<br> ストーリーも退屈だし、汚水処理場の人間模様やトラブルをだらだら書かれても、どう面白がればいいのかさっぱり分からない。ニューウェーヴがSFに与えたいい影響は沢山あるが、この作品などを読むと悪い影響が如実に表れている。SFはいつからエンターテインメントでなくなったの?という感じ。バラード、オールディス、エリスンらの小説は前衛的で問題意識に富んではいたとしても、それ以前にきちんとエンターテインメントとして成り立っていた。80年代以降のポストニューウェーヴ世代が書くシリアスな「SF」は、もはや「エンターテインメントであること」を止めてしまっている。この違いは大きい。バラードらは、「エンターテインメントとしての主流SF」の存在を前提とし、自らもそれを心理的、手法的基盤として利用しながら運動していたが、今やその基盤すら崩れてしまったのではないか、との危惧を禁じ得ない。それはもはやジャンルの自壊、自殺の域にまで達しつつあるのではないか。<br> とにかく、久々に、褒めるところを探すのが難しい小説を読んだという感じである。</p> <p>10/29<br> グリフィス「スローリバー」★★★★1/2<br> すげえ。やっぱり最後まで読んでみるものだった。<br> 確かに本作はエンターテインメントではない。スペキュレイティヴという点を除いて、本作にSFの冠をかぶせる理由は何もない。本作のメインストーリーはむしろフーダニットからホワイダニットの謎ときへと向かうミステリーそのものである。しかしながら本作をミステリに分類することにも躊躇を覚える。本作の最大の関心は、悪を描くこと、悪によって虐げられた者がいかにして生きていくかを描くことにあり、ストレートな純文学そのものであるといってよい。しかもそれを、レスビアンというマイノリティの日常的視点から描く(ちなみに、レスビアンであるということは作者自身にとって所与であって、それ自体は上記テーマを描くための一つの眼鏡の役目を与えられているに過ぎない点に注意)点がユニークである。つまり、レスビアンというマイノリティの社会化といった次元を軽く飛び越え、それを当然のこととして、より普遍的な人間そのものを描こうとしているのである。外見は全く異なるが、その構造、テーマ性において、ルグィン「闇の左手」を連想されるところが興味深い。<br> しかも本作で描かれる悪は、核に「娘に性的虐待をするレズビアン(というか、バイ)の母親」という前代未聞の(!)存在を据えているところが実にショッキングでエグいのだが(天童荒太どころじゃないですな)、このショッキングなネタすら、さらりと軽く扱われているところが作者の一筋縄でいかないところである。ローアの現在と過去をカットバックで描いていく前半は、はっきりいって何が書きたいのか分からず非常に冗長な感じがするのだが、それが終盤に入っていくつもの無関係に思えた同心円が突然焦点を結んですべてがつながってゆくに従って、ぐいぐいひきこまれていく。虐待の主が父親でなく母親であったことが突然明らかになる場面では、はっきりいって目玉をひっぱたかれるような感じがした。そこからずるずると、一連の事件の黒幕がローアの姉であったこと、しかもその原因が母親による性的虐待であったことというふうに、常識的に考えれば「んなアホな」といいたくなるような(だって普通は「社会悪が家庭悪の原因」というパターンンなのに、これは「個人悪が家庭悪の原因、家庭悪が社会悪の原因」という構造なんだもん)、倒錯した真相が暴かれていく様は、鬼気迫るものがある。そして、全ての真相を暴き、事実と正面から対峙し、父親の愛を取り戻し、自己を回復したローアは、「名無しの」状態を捨てて、一人の自我を持ったレズビアンの女性として、力強く生きることを決意する&&という非常にパワフルなエンディングを迎える。前半のだらだらした冗長な感じのする描写(特にレズの克明な生活描写)に堪えてきてよかったと思えるような、なかなか余韻の残るラストである。<br> というわけで本作が一筋縄でいかない異色の傑作であることは認めざるを得ない。グリフィスが「すげえ作家」といわれるのはよく分かるし、レズビアン文学の賞をとるのもわかる。<br> しかし&&やはり本作にネビュラ賞を与えてはいけなかった、といわざるを得ない。本作は、いかにもニューウェーヴの英国らしい、インターゾーン出身の作家の作品らしい「思弁小説」なのだが、あまりにも純文学であり過ぎる。伝統的な娯楽SFと「思弁小説」の近似性は、「思弁小説」における手法の前衛性において辛うじて保たれると私は考えているが、本作は、手法が何ら前衛的であるといえず、伝統的な普通小説の手法で描かれており、伝統的なSFとの接点は「近未来を舞台にしている」「汚水処理のメカニズム」「ハッキング」といった表面的な題材に表れているに過ぎない。要するに、非常に薄味であり、伝統SFの読者にアピールするタイプの思弁小説ではないのである。本作の真価を理解できる適切な読者は、レズビアンを除くと、純文学の読者であろう。この観点からすれば、本作にネビュラ賞を与えることは、一般読者を遠ざける一方、読者としては適切でない「伝統SFの読者」に多く読まれ、不当な低評価を与えられる、という逆効果をもたらすであろう。わが国において、本作がSF文庫で出たことも不幸だったというほかない。各種書評で酷評をされているが、それはこの作品の罪ではなく、この作品にネビュラ賞を与えたアメリカのSF協会、および、この作品をSF文庫で出した早川書房の罪である。わが国で本作の読者として最も適切なのは、前述した天童もさることながら、あるいは村上龍や山田詠美といったところを愛読するようなタイプの読者かも知れない。</p> <p> さて、次はマッキンタイア「月と太陽」です。何で「月と太陽」と素直に訳さないんだろう、いいタイトルなのに。ともあれ、早速取りかかりたいと思います。「スローリバー」が凄いけど読むのに疲れる(とてもじゃないが寝そべりながら読めるような代物ではない)作品だったので、今度はすっきりした娯楽物だったらいいなあ、と思うけど如何。<br></p> <br>

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