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アレクセイ・パンシン『成長の儀式』」(2005/12/07 (水) 16:14:31) の最新版変更点

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<p>2001年</p> <p>8/1<br> さて、ネビュラ賞長編、次は「成長の儀式」。ハインラインマニアのファン作家パンシンが「宇宙の孤児」のオマージュとして書いた処女長編です(というかこれ以外の長編をそもそも書いているかどうか自体わからない)。ハインライン自体は今いちでも「宇宙の孤児」は大好きな作品なので期待が持てます。</p> <p>8/4<br> パンシン「成長の儀式」★★★★<br> ハインラインのパロディというか批評的な小説であることがだんだん明らかになります。「弱者切り捨て」「正義のためなら殺人も戦争もOK」というハインライン=アメリカ的な「力の哲学」(=パックスアメリカーナ的な思想)を、宇宙船の閉鎖社会という形で視覚化し、ハインラインの「宇宙の戦士」「月は無慈悲な夜の女王」のような結末からすると皮肉な結末へと持っていきます。ただし、著者がハインライン好きであることからして、ハインライン思想の代弁者は主人公少女の父親ですし、父の対抗勢力のパースソン氏の思想も米国内ハト派の主張そのままで「先進国の奢り、独善」を抜け出ていない甘さのあることは訳者後書き指摘のとおりだし、「ティンテラが破壊されてしまう」という現実に対する「悲しむだけじゃ始まらない!」といういらだちも訳者指摘の食いたリなさが残るのはもちろんです。<br> しかしこの作品の目的は、ハインラインの初期作品への愛が裏にあり、ハインライン作品の基本枠組やキャラクター設定を容認しつつ、後期の好戦的な作品群に対する批判、修正を目論むことにあると思われますから、主人公少女が目覚めて「ティンテラを救うために戦う」「父親と対立する」ことまで描いてしまっては目的を逸脱してしまいます。あくまでもハインラインのストーリーの基本枠組を踏襲しているからこそ、批評やパロディの意図が明確に伝わるのであって、全くの別物になってしまってはもはや批評として成り立ちません。その意味では、この作品はよくぞここまでというほどにハインラインの作品のストーリー、キャラクター、舞台設定や雰囲気を模写しており、パロディとしてはほぼ理想的な出来栄えだといえます。パロディである以上、何か別のものを望むのがそもそもお門違いであり、その意味で訳者あとがきは的外れです。<br> ただし僕個人のことをいうと、そもそもハインラインに批評するに足るほどの興味も愛着もない人間なので、いくらハインライン作品をそっくりに再現しつつその思想的おかしさをチェックするという高等技術をこの作品が達成し得ているからといって、根本的な「だから何なの?」という不満が残ります。所詮パロディはパロディ対象に対する興味が前提にない限り面白くも何ともないのです。そもそもハインラインのストーリーやキャラクターの基本設定自体、どちらかというと「冗長で甘ったるくて子供向けで思弁性に乏しい」という退屈な印象しかないので、「それをそう直したから何なの?」という感想にしかなりません。その意味では、(的外れでも)心情的には「訳者後書き」の心境がよくわかります(笑)。つまり、この作品はどんなにパロディとして見事でも「ハインライン好きにしか真価を味わえない小説」という限界性ゆえに、★4つにとどめました。</p> <p>次はシルヴァーバーグ「禁じられた惑星」です。<br></p>

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