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スティーヴン・キング『レギュレイターズ』」(2005/12/06 (火) 00:32:43) の最新版変更点

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<p>1997年日記</p> <p>4/8 「レギュレイターズ」★★★★1/2を読んで。</p> <p> この日記、(略)以来書いていなかったらしい。体調を壊して(実は今も虫歯が痛い。ステーキなんか食うんじゃなかったぞ!)、パソコンに向かう気力が起きなかったのだ。実は今もかなり疲れていて、キーボードを叩くのが精神的に一苦労である。しかし、あったことをすぐ忘れてしまう健忘症という持病を補完するため、できるだけ記録は残しておくようにしたい。事実、(略)以後あったことはほとんど忘却の彼方にある。なにしろ、好きな競馬の勝ち馬さえとっさに出てこないぐらいであるから、重傷だ。ただ、競馬については別に記録を作成しているため、ここではもっぱらそれ以外の出来事について記録を残すこととしたい。<br> さて、前回記録して以後あったことで覚えていることといったら、スティーヴン・キング(筆名リチャード・バックマン)の新作「レギュレイターズ」を読み終え、猛烈に満足しているということぐらいしかない。読書等の記録は、今のところ、この日記に記すこととなっているため、ここにその感動を書き記すこととする。(実は、この日記が今までと違った文体になっているのも、この本に入っているオードリィ・ワイラーの日記の文体の影響を受けているためにほかならない。)<br> 通常、人は本を読んで猛烈に感動したとき、その感動を他人に話さずにいられなくなる場合が多いであろう(これは本に限らず、映画、テレビドラマ、エロ本、裏ビデオ、風俗等についても同様であろう)。しかし、あまりにもその感動が大きかったとき、逆に人は口をつぐんでしまうものなのではないか。本書を読んで、おれはその感を強くさせられた。というのも、読んでいる途中は、「いまこれ読んでるんだけど、結構面白い」「既に人が8人ぐらい死んでるよ」などと気安く語っていたにもかかわらず、本書を読み終えた今、おれは、この本の感想を誰にも語りたくないし、内容を思い出したくもない(ましてやその内容について、あれこれ議論したりなどもってのほかだ)のである。<br> かといって、おれはこの本の内容がくだらなかったと思っているわけでは全くなく、むしろ逆で、ここ数年、こんなに面白くてすごい本はなかったぐらいに思っているのである。<br> そう、むしろ、感動があまりに大きく、その感動を読み終えたときの状態のまま心の奥底に安置しておきたいがために、あえて今さら内容についての詮索をしたり蒸し返したりしたくはないし、また他人にされたくもないのだ。感動を感動のまま心の片隅に寝かせておいて、自然に熟するのを待ち、機が熟してから初めて冷静にその感動の質が何であったのかをじっくりと見極めたいのである。<br> したがって、この記録には、内容にわたる具体的な記述はなるべく残さない。<br> とにかく、スティーヴン・キングはすごいというコメント以外に、言うべきことは何もないだろう。アイス・キューブはすごいという場合に、どこがどうすごいのかを力説する行為がすごく無粋に感じられるのと同じように。<br> とにかく、すごいのである。<br> しかも更にすごいのは、これだけすごいことをやっていながら飽くまでもモダン・ホラーというジャンルの枠に踏みとどまっているということだ。エンターテインメントの枠を踏み超えて文学的・思想的な高みに達するというと何かすごく高遠でかっこいいことのように思われがちだが、実はそれは案外に簡単なことなのだ。「踏み越える」という場合の踏み越え方に、何のルールもないのだから。むしろ逆に、エンターテインメントとしてのジャンルの枠、ルールを遵守しつつ、同時に読者に文学的・思想的感銘、衝撃を与え、その者の人生に何がしかの影響を与える作品を書くということがいかに難しいことであるか。単なる娯楽読み物を目指しつつエンターテインメントとしてすら面白い小説を書けない屑作家が氾濫していることに鑑みると、これがどんなにすごいことであるか明々白々である。キングはそれをやっている。これをすごいと言わずして何と言うのか。<br> そして、自閉症の少年への愛。キングは、登場人物を次々と冷酷無比に死なせていく一方で、絶えず弱者、マイノリティ------ひいては人間一般に対する愛情を忘れていない。いや、忘れていないという言い方は不適切であろう。むしろキングが本書を書く根底には一貫した人間への愛があり、だからこそ次々と登場人物が殺され、殺し合っていく様が迫力を帯び、本書のラストを感動的なものにしているのだ。それはキングのストイシズムであり、ストイシズムこそは作家がよい作品を書く必須の要件である。それがあるからこそ、俺はこの本のラストに不覚にも------ベッドに寝そべって斜め読みの状態ではあるが------涙を流してしまったのである。</p> <p>お──今(略)、黒猫が通って行った。<br> おれが先日ラチった白猫の友人(正確には友猫)である。<br> おれは誰はばかることなく、猫、とりわけ黒猫を偏愛するので、すかさずドアを開けて、黒猫を誘惑しようとした。しかし、黒猫は立ち止まっておれのほうを見ているものの、近寄ってこようとはしない。<br> そこで、餌でも与えれば手なづけられると考えたおれは、浅墓にも、いったん部屋に下がり、明日の朝食用にセブンイレブンで買っておいたヤマザキの菓子パン「厚焼きソフト」をビニール袋から取り出して、(略)戻った。しかし、悲しいことに、わがあこがれの君は、既に(略)立ち去った後であった。<br> おれが涙を滝のように流して嗚咽したことは言うまでもない。<br> という最後の部分は嘘であるが、なぜおれはこんなにも黒猫が好きなのだろうか。<br> 思うに、「黒」は背徳の色であり、弔いの色であり、不吉の色である。それゆえに、人間に忌み嫌われ、煙たがられ、排除されやすい色である。だからこそ俺はとりわけ黒猫に魅かれるのだ。クトゥルーの神々に激しく感情移入するラヴクラフトの心性とどこか通ずるものがありはしないか。<br> 弱き者、忌み嫌われるマイノリティへの激しい共感と熱愛。正しく、これこそ全ての人間が備えるべき基本的な人徳であるとおれは信じている。それ以外に人徳などありはしない。そして、その熱愛は決して憐憫であってはならない。憐憫するくらいなら憎悪するほうがはるかに愛情に満ちている。共に死ぬことをも辞さないほどの激しい絶望的な愛。それ以外に愛と呼ぶに値するものはないとおれは確信している。このおれの確信は、かつて裏ビデオ評論の第一人者、奥出哲雄が、ただ描写が露骨なだけで本気を感じさせない作品を酷評しつつ、「我々は、美少女の本気が見たいのだ」と語った言葉と同じ程度、否、ことによったらそれ以上の重みを帯びているのではないか。(なわけないって。)そんな気がしてしようがない。</p> <p> ──そら見たことか。黒猫を見ただけでこんなにも激しく感情が高ぶってしまう。これこそがキングの作品の偉大さなのだ。</p> <p>***</p> <p>2005.12.5の感想</p> <p>いっちゃってる。<br></p>
<p>1998年日記</p> <p>4/8 「レギュレイターズ」★★★★1/2を読んで。</p> <p> この日記、(略)以来書いていなかったらしい。体調を壊して(実は今も虫歯が痛い。ステーキなんか食うんじゃなかったぞ!)、パソコンに向かう気力が起きなかったのだ。実は今もかなり疲れていて、キーボードを叩くのが精神的に一苦労である。しかし、あったことをすぐ忘れてしまう健忘症という持病を補完するため、できるだけ記録は残しておくようにしたい。事実、(略)以後あったことはほとんど忘却の彼方にある。なにしろ、好きな競馬の勝ち馬さえとっさに出てこないぐらいであるから、重傷だ。ただ、競馬については別に記録を作成しているため、ここではもっぱらそれ以外の出来事について記録を残すこととしたい。<br> さて、前回記録して以後あったことで覚えていることといったら、スティーヴン・キング(筆名リチャード・バックマン)の新作「レギュレイターズ」を読み終え、猛烈に満足しているということぐらいしかない。読書等の記録は、今のところ、この日記に記すこととなっているため、ここにその感動を書き記すこととする。(実は、この日記が今までと違った文体になっているのも、この本に入っているオードリィ・ワイラーの日記の文体の影響を受けているためにほかならない。)<br> 通常、人は本を読んで猛烈に感動したとき、その感動を他人に話さずにいられなくなる場合が多いであろう(これは本に限らず、映画、テレビドラマ、エロ本、裏ビデオ、風俗等についても同様であろう)。しかし、あまりにもその感動が大きかったとき、逆に人は口をつぐんでしまうものなのではないか。本書を読んで、おれはその感を強くさせられた。というのも、読んでいる途中は、「いまこれ読んでるんだけど、結構面白い」「既に人が8人ぐらい死んでるよ」などと気安く語っていたにもかかわらず、本書を読み終えた今、おれは、この本の感想を誰にも語りたくないし、内容を思い出したくもない(ましてやその内容について、あれこれ議論したりなどもってのほかだ)のである。<br> かといって、おれはこの本の内容がくだらなかったと思っているわけでは全くなく、むしろ逆で、ここ数年、こんなに面白くてすごい本はなかったぐらいに思っているのである。<br> そう、むしろ、感動があまりに大きく、その感動を読み終えたときの状態のまま心の奥底に安置しておきたいがために、あえて今さら内容についての詮索をしたり蒸し返したりしたくはないし、また他人にされたくもないのだ。感動を感動のまま心の片隅に寝かせておいて、自然に熟するのを待ち、機が熟してから初めて冷静にその感動の質が何であったのかをじっくりと見極めたいのである。<br> したがって、この記録には、内容にわたる具体的な記述はなるべく残さない。<br> とにかく、スティーヴン・キングはすごいというコメント以外に、言うべきことは何もないだろう。アイス・キューブはすごいという場合に、どこがどうすごいのかを力説する行為がすごく無粋に感じられるのと同じように。<br> とにかく、すごいのである。<br> しかも更にすごいのは、これだけすごいことをやっていながら飽くまでもモダン・ホラーというジャンルの枠に踏みとどまっているということだ。エンターテインメントの枠を踏み超えて文学的・思想的な高みに達するというと何かすごく高遠でかっこいいことのように思われがちだが、実はそれは案外に簡単なことなのだ。「踏み越える」という場合の踏み越え方に、何のルールもないのだから。むしろ逆に、エンターテインメントとしてのジャンルの枠、ルールを遵守しつつ、同時に読者に文学的・思想的感銘、衝撃を与え、その者の人生に何がしかの影響を与える作品を書くということがいかに難しいことであるか。単なる娯楽読み物を目指しつつエンターテインメントとしてすら面白い小説を書けない屑作家が氾濫していることに鑑みると、これがどんなにすごいことであるか明々白々である。キングはそれをやっている。これをすごいと言わずして何と言うのか。<br> そして、自閉症の少年への愛。キングは、登場人物を次々と冷酷無比に死なせていく一方で、絶えず弱者、マイノリティ------ひいては人間一般に対する愛情を忘れていない。いや、忘れていないという言い方は不適切であろう。むしろキングが本書を書く根底には一貫した人間への愛があり、だからこそ次々と登場人物が殺され、殺し合っていく様が迫力を帯び、本書のラストを感動的なものにしているのだ。それはキングのストイシズムであり、ストイシズムこそは作家がよい作品を書く必須の要件である。それがあるからこそ、俺はこの本のラストに不覚にも------ベッドに寝そべって斜め読みの状態ではあるが------涙を流してしまったのである。</p> <p>お──今(略)、黒猫が通って行った。<br> おれが先日ラチった白猫の友人(正確には友猫)である。<br> おれは誰はばかることなく、猫、とりわけ黒猫を偏愛するので、すかさずドアを開けて、黒猫を誘惑しようとした。しかし、黒猫は立ち止まっておれのほうを見ているものの、近寄ってこようとはしない。<br> そこで、餌でも与えれば手なづけられると考えたおれは、浅墓にも、いったん部屋に下がり、明日の朝食用にセブンイレブンで買っておいたヤマザキの菓子パン「厚焼きソフト」をビニール袋から取り出して、(略)戻った。しかし、悲しいことに、わがあこがれの君は、既に(略)立ち去った後であった。<br> おれが涙を滝のように流して嗚咽したことは言うまでもない。<br> という最後の部分は嘘であるが、なぜおれはこんなにも黒猫が好きなのだろうか。<br> 思うに、「黒」は背徳の色であり、弔いの色であり、不吉の色である。それゆえに、人間に忌み嫌われ、煙たがられ、排除されやすい色である。だからこそ俺はとりわけ黒猫に魅かれるのだ。クトゥルーの神々に激しく感情移入するラヴクラフトの心性とどこか通ずるものがありはしないか。<br> 弱き者、忌み嫌われるマイノリティへの激しい共感と熱愛。正しく、これこそ全ての人間が備えるべき基本的な人徳であるとおれは信じている。それ以外に人徳などありはしない。そして、その熱愛は決して憐憫であってはならない。憐憫するくらいなら憎悪するほうがはるかに愛情に満ちている。共に死ぬことをも辞さないほどの激しい絶望的な愛。それ以外に愛と呼ぶに値するものはないとおれは確信している。このおれの確信は、かつて裏ビデオ評論の第一人者、奥出哲雄が、ただ描写が露骨なだけで本気を感じさせない作品を酷評しつつ、「我々は、美少女の本気が見たいのだ」と語った言葉と同じ程度、否、ことによったらそれ以上の重みを帯びているのではないか。(なわけないって。)そんな気がしてしようがない。</p> <p> ──そら見たことか。黒猫を見ただけでこんなにも激しく感情が高ぶってしまう。これこそがキングの作品の偉大さなのだ。</p> <p>***</p> <p>2005.12.5の感想</p> <p>いっちゃってる。<br></p>

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