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安部公房『人間そっくり』新潮文庫」(2005/12/06 (火) 00:29:07) の最新版変更点

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<p>1997年</p> <p>1/21<br> 「人間そっくり」読み終える。星新一なら3ページの短編で書いてしまいそうな内容を、安部独自のトリッキーな論理の積み重ねで中長編に仕立て上げている。読んだ感想だが、こんな奇妙な小説は今までに読んだことがないしこれからも多分ないだろう。果たして小説といってよいのかどうか。ほとんど論文を読まされたような読後感だがこれは作品の大部分を主人公と自称「火星人」の論理闘争が占めているためだろう。現実と非現実(正気と狂気)の境界が次第に見えなくなり逆転していく過程をテーマにしているといえばディックもそうだが、ディックとの大きな違いは安部がそれをロジックの積み重ねだけで、純粋に論理的な思考実験として行っている点である。ちょうど、なだいなだの「くるい きちがい考」(ちくま文庫だっけ?)の小説版といった感じだ。(ディックとて理屈好きという点では安部に劣るものではないが、情緒がかなり前面に押し出されてくる点が全く異なっている。)<br> この作品は、早川のSFシリーズとして出版されているが、果たしてこれはSFなのだろうか。一般的感覚からすれば、この作品は思考実験小説とは言えても、いわゆるSF的な道具立てには乏しく、普通のSF好きがSFとして読んだ場合にはかなり奇異な感じがするだろう。この作品よりはむしろ「他人の顔」「密会」などのほうがまだしもジャンルSFに近い感触がする。その違和感の根底にあるものをよく凝視してみれば、どうもそれは、この作品がSFというよりもむしろSF批評になってしまっているというところにあるようだ。つまり、通常のジャンルSFは、非現実的設定(仮説)を一つの所与として、それ自体を批評の対象とすることはなく、むしろその基盤に立った上で未来なり異世界を外挿し、反射的に現実なり現代なり精神なりモラルといったものを批評する。ところが安部のこの作品は、そのそもそもの出発点のところで、「仮説」と「現実」の論理的せめぎ合いただそれだけを引きずり出して、その逆転過程をひたすら無味乾燥に描き出したわけである。<br> だが、「仮説」の提示により現実の持つ不安定性を明るみに出すところにこそ文学の本質を見い出すと同時に、SFの可能性もそこにこそある、と自ら述べる(「SFの流行について」、「砂漠の思想」収録)安部の文学観、SF観を前提とするならば、批評という何らかの価値判断以前に、とにかく現実なるものの相対性、不安定性を客観的、没価値的に摘出して見せびらかすことの中にこそ、文学なりSFの意義があるというわけである。そしてその文学観を前提にするならば、「仮説」を所与のものとして受け入れてしまうということはそれ自体一個の価値判断を無批判に受け入れるという行為を内包することになり、自己矛盾をはらんでいることになる。真に批評的なものは、全ての対象について没価値的でなければならず、そうするとまず出発点として、「仮説」自体も「現実」に浸食されて消え去ってしまいかねないはかないものに過ぎないことを認識する必要があるわけだ。要するに現実も仮説も含めて一切合財が相対化され必然的なものが何もない状態、それが言葉を変えれば安部の好む「砂漠」なのである(俺流解釈)。このような現実と仮説(疑似現実)の等価性を見据えることがまず出発点として必要であるということになるならば、安部が「SF」の名の下にまずこのような純粋な論理実験小説を書いたのは、決して見当違いでもまた読者を小馬鹿にしているのでもなく、必然以外の何物でもなかったということになるだろう。また、SFを仮説の文学だという安部のSF観を前提にする以上、「仮説」そのものの意義を問うこの作品はまさに筋金入りのSFだということになるだろう。<br> まさしく、実存主義から生まれて、期せずしてポストモダン(脱構築化=全ての価値の相対化、等列化=俺流解釈)を実践していたことになるわけだ。やはり他の作家とは格が違うと言わざるを得ない。<br> ところで、この作品にそっくりの構造を持っている作品をふと思い出した。むろん、夢野久作の「ドグラ・マグラ」である。安部の定義によるなら、夢野のこの作品こそさしあたり日本SFの最高峰ということになるのであろうか。</p> <p> 今日で安部の新潮文庫収録作はたぶん全て揃ったはずだ。(「夢の逃亡」も押入かどこかに入っているに違いない。)<br></p>
<p>1998年</p> <p>1/21<br> 「人間そっくり」読み終える。星新一なら3ページの短編で書いてしまいそうな内容を、安部独自のトリッキーな論理の積み重ねで中長編に仕立て上げている。読んだ感想だが、こんな奇妙な小説は今までに読んだことがないしこれからも多分ないだろう。果たして小説といってよいのかどうか。ほとんど論文を読まされたような読後感だがこれは作品の大部分を主人公と自称「火星人」の論理闘争が占めているためだろう。現実と非現実(正気と狂気)の境界が次第に見えなくなり逆転していく過程をテーマにしているといえばディックもそうだが、ディックとの大きな違いは安部がそれをロジックの積み重ねだけで、純粋に論理的な思考実験として行っている点である。ちょうど、なだいなだの「くるい きちがい考」(ちくま文庫だっけ?)の小説版といった感じだ。(ディックとて理屈好きという点では安部に劣るものではないが、情緒がかなり前面に押し出されてくる点が全く異なっている。)<br> この作品は、早川のSFシリーズとして出版されているが、果たしてこれはSFなのだろうか。一般的感覚からすれば、この作品は思考実験小説とは言えても、いわゆるSF的な道具立てには乏しく、普通のSF好きがSFとして読んだ場合にはかなり奇異な感じがするだろう。この作品よりはむしろ「他人の顔」「密会」などのほうがまだしもジャンルSFに近い感触がする。その違和感の根底にあるものをよく凝視してみれば、どうもそれは、この作品がSFというよりもむしろSF批評になってしまっているというところにあるようだ。つまり、通常のジャンルSFは、非現実的設定(仮説)を一つの所与として、それ自体を批評の対象とすることはなく、むしろその基盤に立った上で未来なり異世界を外挿し、反射的に現実なり現代なり精神なりモラルといったものを批評する。ところが安部のこの作品は、そのそもそもの出発点のところで、「仮説」と「現実」の論理的せめぎ合いただそれだけを引きずり出して、その逆転過程をひたすら無味乾燥に描き出したわけである。<br> だが、「仮説」の提示により現実の持つ不安定性を明るみに出すところにこそ文学の本質を見い出すと同時に、SFの可能性もそこにこそある、と自ら述べる(「SFの流行について」、「砂漠の思想」収録)安部の文学観、SF観を前提とするならば、批評という何らかの価値判断以前に、とにかく現実なるものの相対性、不安定性を客観的、没価値的に摘出して見せびらかすことの中にこそ、文学なりSFの意義があるというわけである。そしてその文学観を前提にするならば、「仮説」を所与のものとして受け入れてしまうということはそれ自体一個の価値判断を無批判に受け入れるという行為を内包することになり、自己矛盾をはらんでいることになる。真に批評的なものは、全ての対象について没価値的でなければならず、そうするとまず出発点として、「仮説」自体も「現実」に浸食されて消え去ってしまいかねないはかないものに過ぎないことを認識する必要があるわけだ。要するに現実も仮説も含めて一切合財が相対化され必然的なものが何もない状態、それが言葉を変えれば安部の好む「砂漠」なのである(俺流解釈)。このような現実と仮説(疑似現実)の等価性を見据えることがまず出発点として必要であるということになるならば、安部が「SF」の名の下にまずこのような純粋な論理実験小説を書いたのは、決して見当違いでもまた読者を小馬鹿にしているのでもなく、必然以外の何物でもなかったということになるだろう。また、SFを仮説の文学だという安部のSF観を前提にする以上、「仮説」そのものの意義を問うこの作品はまさに筋金入りのSFだということになるだろう。<br> まさしく、実存主義から生まれて、期せずしてポストモダン(脱構築化=全ての価値の相対化、等列化=俺流解釈)を実践していたことになるわけだ。やはり他の作家とは格が違うと言わざるを得ない。<br> ところで、この作品にそっくりの構造を持っている作品をふと思い出した。むろん、夢野久作の「ドグラ・マグラ」である。安部の定義によるなら、夢野のこの作品こそさしあたり日本SFの最高峰ということになるのであろうか。</p> <p> 今日で安部の新潮文庫収録作はたぶん全て揃ったはずだ。(「夢の逃亡」も押入かどこかに入っているに違いない。)<br></p>

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