雑記
善悪の彼岸から、力への意思を目覚めさせるということ
最終更新:
匿名ユーザー
-
view
この世には絶対的な正義はおろか、善と悪のみならずすべてのことにおいて絶対的な基準が存在しないということになります。
今まで言われてきた善悪とは、そもそも人間の主観から生まれたものであり、それぞれの時代と地域、人の都合によって異なります。
例えば昔の日本においては、敵討ちによる殺人は正当なものでした。無礼打ち、なんていうものもありました。
西欧においても、大航海時代以降植民地の支配において奴隷を使役することは当たり前のことでした。
西欧においても、大航海時代以降植民地の支配において奴隷を使役することは当たり前のことでした。
それらは、それらの時代においては少なくとも「悪」ではなかったわけです。
絶対的な基準が存在するのであれば、なぜ時代や地域によって「善悪」が異なるのか?
それは「善悪」という絶対的な基準などというものがそもそも存在しないということの証明となります。
そこで、ニーチェはひとつの問題を提起します。
つまり、「何が正しいことなのか」ではなく、「なぜ正しいことが必要だったのか」を考えよう、ということです。
そして、それは人が生きていくための「大義名分」でしかない、と看破したのです。
もっとも多くの人にとって安心できる、より心地よいもの。あるいはより多くの人にとって利益となるもの。
それらが「正しいこと」となったというのです。
それらが「正しいこと」となったというのです。
その根底には、より強いもの、より豊かなものへの「嫉妬」「憎しみ」(ルサンチマン)があります。
禁欲主義を唱えるキリスト教や忠孝を尊ぶ儒教的な思想とは、つまり「弱者」による「強者」への抑制だと言うことです。そこにあるのは、自分よりも能力があるものに対しての「足のひっぱり」にすぎないのです。
そういった「欲望」に動かされていることに気づかず、自分の「理性的な判断」によって自分が決断したと信じている。真実はひとつであり、そうやって得た事が正しいと信じて相手が間違っていると考える。
それが、人間の本質だということです。この世から戦争がなくなるわけがありません。
人間には、本来的により自分を高めようとする意思があります。その為にさまざまな努力をしていくのです。
それらの努力を押さえ込もうとする規制こそが「道徳」だと言うのです。
それらの努力を押さえ込もうとする規制こそが「道徳」だと言うのです。
人には「より高き」を目指す「力への意思」があります。「大多数の弱者の力への意思」が「一部の強者の力への意思」を押さえ込み、「みんなおんなじ。だから安心」にしてしまおうとしている、というのです。
われわれは、善悪という道徳的な基準が存在しないことを知りました。
そこにあるのは、それぞれの「力への意思」による「解釈」だけです。それらを除くと、人間が生きていくということは苦痛と苦労だけです。「救い」は存在せず、「希望」もありません。
では、我々に残されているのは「絶望」だけなのでしょうか?
そうではなく、我々にとっての幸せとは、「力への意思」によってその苦痛と苦労を乗り越えていく喜びなのです。