雑記
神が死んだということ
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匿名ユーザー
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哲学者ニーチェの『ツアラトゥストラかく語りき』冒頭にて「神は死んだ」と語られる。
神が死んだというのはどういうことか?
「神」という概念は、人間によって生み出されたものである。
それは最初自然現象や民族の成り立ちを説明付けるために考え出され、のちには政治的な権威や道徳の基準として発展していった。
それは最初自然現象や民族の成り立ちを説明付けるために考え出され、のちには政治的な権威や道徳の基準として発展していった。
しかし、「科学」の進歩に伴って「神話」ではなく「科学」によって自然が説明付けられ始めることによって、神話によって同時に説明されていた「道徳」もまた、そこで衰退していくことになる。
「神」という、「基準」が我々のなかから死んだのである。
われわれは、「なぜ人を殺しては行けないのか」という問いに客観的な根拠を持って答えなくてはならなくなったのだ。
あるいは「法律で決まっているから」と答える人もいるだろう。「自分がされたら嫌なことは人にもしてはいけないから」と答える人もいるだろう。
「法律」で決まっていなければ、人を殺してもいいのか。悲しいことに、いいのである。少なくとも、現在の世界はそうなっている。
「されたら嫌なこと」でなければ、人を殺してもいいのか。正直、この問いには答えられない。こういう論点で問われた場合、答えるすべが存在しないからだ。
「されたら嫌なこと」でなければ、人を殺してもいいのか。正直、この問いには答えられない。こういう論点で問われた場合、答えるすべが存在しないからだ。
つまり、「神」が死んだということは絶対的な道徳というものの死でもあるということだ。
絶対的な「正義」も「悪」も、この世の中には存在しないということだ。
そこには、当然「救い」もやはり存在しない。
折りしも、人の心だけではなく科学の世界においても「絶対的な基準」は存在しなくなっている。
すべては、相対の中である。
車が走っているのではなく、そのまわりのものすべてが走っていて、車が止まっているのかもしれない。
それは、相対論によると「どっちでもいい」のである。
球体の表面に「中心」というものが存在しないのと同様に。
それは、相対論によると「どっちでもいい」のである。
球体の表面に「中心」というものが存在しないのと同様に。
アインシュタインの相対性理論においては、「時間」すらも「空間」の1ベクトルとして表現される。同じ方程式によって、「時間」と「空間」を分け隔てなく扱えるのである。
ハイゼンベルクらによる不確定原理では、そもそもの素粒子たちの振る舞いは確率的なものでしか扱えないとする。ということは、極端な言い方をするとたとえば時間が戻ったとしてもう一度同じ状況で決断をするとしても、その時にはべつの決定をするかもしれない、ということである。
なぜならば人間の決断とは脳の電気信号の働きの結果であり、電気信号とはすなわち電子という素粒子の振る舞いでしかないからだ。
なぜならば人間の決断とは脳の電気信号の働きの結果であり、電気信号とはすなわち電子という素粒子の振る舞いでしかないからだ。
このような唯脳論的な言い方は多くの反感を買うことは承知である。しかしながら、たとえば空腹な状態、あるいは極端に睡眠時間の少ない状態、また病気などで熱に浮かされた状態などでは人間は正常な判断ができないとされる。このことは人間の「判断」とは、脳を含めた身体的な状態に支配されているということを証明している。人間は「魂」ではなく、「脳」で考えているのだ。
絶対的に見える「時間」や「法則」すらもまた、実は絶対的なものではありえないのだ。
「神」は死に、「科学」によってもまた、人間の救いは否定されるのである。
では人間は絶望するしかないのか。
それについては、釈迦の毒矢のエピソードを参考にしていただきたい。以下は広済寺ホームページからの引用である。
毒矢に射られた者は、毒矢を抜くのが先決であるのに、毒矢を射た者について知らないあいだは 毒矢を抜くななどというと死んでしまう。お釈迦様が、世界の常住・無常ということを断定的に 説かなければ修行しないという修行者がいれば、お釈迦様はそのことを説かないのであるから、 その修行者は毒がまわって死んでしまう。では、お釈迦様が断定的に説いたのは何なのか。それ は四諦である。
四諦はお釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれたときに悟られた内容だといわれます。 四諦の「諦」は「あきらめる」という意味にとられますが、このように意味を取るのは漢字文化 圏でも日本だけのようです。「諦」は真理のことです。 四諦は「苦集滅道」という4つの真理をあらわします。 「苦諦」 私たちの生存は生老病死などの苦しみに満ちているという真理 「集諦」 苦しみの原因は煩悩にあるという真理 「滅諦」 煩悩を原因とする苦しみを滅し(止め)た境地が理想だという真理 「道諦」 そのためには八正道を実践しなければならないという真理 八正道とは苦を滅するための八つの正しい実践徳目を言います。「正」の意味は正悪の正ではな く、完全なという意味です。 「正見」 正しい見解 「正命」 正しい生活 「正思」 正しい思惟 「正精進」 正しい努力 「正語」 正しい言葉 「正念」 正しい心の落着き 「正業」 正しい行い 「正定」 正しい精神統一 これらはお釈迦様の最初の説法(初転法輪)において説かれたと伝えられます。苦行でも快楽主 義でもない中道の具体的実践方法でもあります。
これはいわゆる、一般的な意味での「個人主義」(privatism)とも違うことには留意いただきたい。もっと根源的な「個人主義」(individualism)である。
人間は自らが救われないこと、誰も救ってはくれないことを嘆くのではなく、自らを救う必要があるのである。
自らの絶望を乗り越えて生きていくことができる、精神的に超人的な存在にならなくてはならないというニーチェの思想とも合致すると思う。
自らの絶望を乗り越えて生きていくことができる、精神的に超人的な存在にならなくてはならないというニーチェの思想とも合致すると思う。
西洋的な「絶対的」な救いを説かず、自らの努力による「救い」を説いた(しかも2400年も前に!)お釈迦様というのは偉大だと思う。そして、この考え方こそが「宗教」にも「科学」にも見放されつつある「ヒト」にとって必要なものではないだろうか。
人間は、もっと精神的に強くなる必要があると思う。